増田悦差のジェイコブズ歪曲

(2/26付記:ここで問題にしている増田悦差のコラムは、その後本エントリーを見て修正された。したがって、現在では以下のリンク先の内容はここでの記述に対応していない。元の記述については魚拓を参照。)

 

増田悦差という論者が、何やら都市計画について書いているなかで、ぼくのジェイコブズ訳にケチをつけている。

webmag.nttpub.co.jp

(魚拓:http://www.webcitation.org/6fPqVGHsC

具体的には、ジェイン・ジェイコブズ『アメリカ大都市の死と生』(鹿島出版会)のこの部分だ。

このうんざりするような泥沼は、有機体としての都市の要求と、各種の個別利用の供給との矛盾から生じるものではまったくありませんし、これ以外の都市計画上の泥沼も、そうした矛盾などから生じる例はほとんどありません。それがもっぱら生じるのは、都市の秩序と個別用途のニーズの双方と恣意的な矛盾を生じている、計画理論のせいなのです。(新訳版、199頁)

この訳文について、増田悦差はこう述べる。

悪文の度合いは旧訳と似たようなものではないかというのは、ごく個人的な感想だとしても、ジェイコブズが都市計画一般を批判する際に、訳者であるはずの山形は、執拗に「まちがった」都市計画とか、「伝統的な」都市計画とか、計画「理論」とかの修飾を付けて、本来の都市計画は立派なのだが、現在推進されている都市計画がその本来の姿を見失っているだけだという議論にねじ曲げてしまうのだ。

さて、まずこれを見ただけでも、「まちがった」都市計画とか「伝統的な」都市計画なんてのがぼくの訳文にはないことは明らかだ。ぼくがそんな「修飾」をつけたって、何のことでしょうか。本全体の訳文中に「まちがった都市計画」というのは一ヶ所もない。「伝統的な都市計画」は5ヶ所登場するけれど、すべて対応する "conventional"がついている。

また「計画『理論』とかの修飾を付けて」とある。本当だろうか?この段落の原文を見てみよう。

This tiresome muddle arises not in the least from contradictions between demands by the city as an organism and demands by various specific uses, nor do most planning muddles arise from any such contradictions. They arise chiefly from theories which are in arbitrary contradiction with both the order of cities and the needs of individual uses. (Vintage 版pp.172-173、強調引用者)

該当部分は「theories」であり、理論だ。ここで付加的な修飾は「計画」のほうで、「理論」は原文にある用語だ。増田は、原文を見もしないで、ぼくがねじ曲げていると主張する。でもねじ曲げているのはどっちだろうか?

ちなみに、増田が賞賛する黒川紀章の訳はこうだ。

「このタイプの希望のない経済に関する思いがけない事故というのは、都市においてはごく自然にあらわれてくることはほとんどない。しかし、このタイプは計画によって導入される」(1977年訳版、187頁)

さて、これが原文や、ぼくの訳文に比べてえらく短いことは明らかだろう。なぜかというと……それは、これが全然別の部分だから、なのだ。「ところが、新訳版では同じ文章が、こう訳されている」ですって? 該当部分のぼくの訳はこうなっている。

この種の絶望的な経済的事故は、都市で自然に生じることはめったにありませんが、都市計画はそれをしばしば導入します。(新訳p.189)

ここの原文は

This type of hopeless economic contretemps seldom turns up naturally in a city, but it is frequently introduced by plan. (Vintage 版p.164)

ぜんぜんちがうところを対比して、修飾してるだのねじ曲げてるだの言われてもねえ。こっちの分だと、黒川の訳文とあまり変わらないのがわかると思う(というより、ぼくの訳文のほうが意味が通るのがわかると思う)。これでも黒川のほうがいい?

黒川の訳文は、これ以外の部分でも変な歪曲、とりちがえ、金釘訳だらけだ。だからこそ、ぼくはわざわざ訳し直すべきだと感じた(ついでに本の後半をすべて省略って、そもそもありえねーだろ!)。でも、増田はそういういい加減な端折りについて何も問題を感じないらしい。そして、原文を見もせず、全然ちがうところの訳文をもとに、ぼくの訳をくさす。ちょっとなんとかしたほうがいいと思うぜ。

ちなみに、その上に展開される、バーナード ルドフスキーに対する悪質な罵倒も、実にどうしようもない代物だ。

あるいは182頁に掲載された、17世紀初頭のオールド・ロンドン・ブリッジ周辺の風景画の説明には、こういう訳が添えてある。「右端のブリッジゲイトの上に、巨大な棒付きキャンディーのように見えるのは、有名無名の人びとを記念するための人間の頭部の永久展示である。」

 これが「有名無名の犯罪者の記憶を不滅にとどめるために槍の穂先に突きたてた、斬首刑に処された囚人たちの生首である」という意味だと分かる日本人が何人いるだろうか。

何人いるかはわからないけれど、実際にp.182にある図を見ると、ある程度は見当がつくんじゃないだろうか。また、原文は多少、婉曲的な話法を使っている。ルドフスキーはそういう気取りのある人だ。その気取りをそのまま訳したところで、誤訳だの改ざんだのと言われる筋合いはない。

そしてルドフスキーが、その城壁に囲まれた閉鎖的な空間としてのヨーロッパ都市を、いかに口を極めて賛美していたかということを正直に伝えたのでは日本の読者が引くだろうとの配慮から意図的にぼかした表現だったということになると、これはかなり重大な歪曲だ。

だから原文通りなんだって。くだらん下衆の勘ぐりしなさんな。翻訳批判するなら、原文くらいあたろうぜ。ルドフスキーは、増田ごときが揚げ足取れるような安っぽい存在じゃないのだ。

増田は、とにかく自由放任主義がいいと言いたいらしい。でも、そのために無内容な歪曲をしてまわるのはやめるべきじゃないかな。ぼくがこれを知ったのは、以下のツイッターによってだった。

こうして真に受けてだまされてしまう人もいる。自由放任が重要と言いたいなら、それはそれで結構。そういう場面もあるだろう。でも、ここで引用されているものが、それを裏付ける傍証になっているとは思わない。翻訳を批判するなら、まず原文にくらいはあたるべきじゃないだろうか。

ちょっとこれ、後でこの増田コラムを掲載しているNTT出版にも問い合わせてみようっと。

....と思ったが、面白いので黙っていよう。

南たかし、いまいずこ(本当なら今は76歳のはずだが……)

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最近、何度かアデランスのCMを見たのでふと思い出した話なんだけど……

その昔、小学校時代に、うちの学級でカツラが大ブームになったことがある。といっても、別に本物のカツラをみんながつけてきたとかいうことじゃなくて、その頃急に目につくようになった、アデランスとアートネイチャー(あともう一つなんかあったような気がする)のCMにみんなが夢中になったってこと。

小学生は、そもそも「ハゲ」というだけで笑い転げるほど可笑しいと思ってた。差別はいけませんとかなんとか、きれい事を言ってくれてもいいけど、でも小学生にとっては、セックスと同じで、なんだかよくわからないけど、大人が何かそれを恥ずかしいか決まり悪いと思ってるか、とにかくあまり公然と語るべきではないと思ってあたふたしてるってこと自体がおもしろい。当時ぼくたちは小学校3年で、なんか近くのへいに「SEX」と落書きがあって、「アレ何のこと?」と尋ねると大人がもじもじする。それがおもしろくて、何のことかわかんなくても、ことあるごとにそれを口走って喜ぶ。ちょうど、ドリフの「8時だヨ!全員集合」で加藤茶がストリップの真似をして「ちょっとだけよ」と言うのが大人気だったけど、ガキはあれが何なのか全然わかってなくて、でも大人が変な反応するのでおもしろかっただけだ。

www.nicovideo.jp

で、ハゲというのもそういうものだった。けど、まあハゲの何たるかはわかる。そこへ、アデランスとアートネイチャーがやたらにCMを打ち始めた。本当にかれらのCM出稿がその頃増えたのか、ぼくたちがそれを意識するようになって、気がつく頻度が増えただけなのかはよくわからん。みんなテレビCMの真似とかで大喜びしてた。そして新聞にもかなり広告が出ていて、あるときだれかが、資料請求ってやつをすると、いろいろ詳しいものが送ってもらえることに気がついた。

そこからなんか、すさまじいことになった。これまで嫌々作らされていた学級壁新聞が、もう完全にカツラ業界発表大会となって、アデランスやアートネイチャーのパンフの切り貼りだらけ。サンクV三段増毛法、というのが当時どっちかの新しい技法で、気づかれず自然に髪の毛を増やす! おおおおおお、すげえええ! これは壁新聞で詳しく説明しなくては! アデランスのCMにはファランが出て、「Be an active man, with Aderance!」というのを最後に言うんだけど、ぼくはアメリカから帰ったばっかりで、ガキどもの中で唯一それが何と言ってるかわかったので、もう壁新聞で英語教室だ。そしてパンフに出ている、カツラで活発な人生が送れるようになりました、という各種体験談は、完全なさらし者。

で、どっちかのCMでは、仮想の利用キャラクターとして大きく出ていたのが、「南たかし、三十四歳!」というオッサンだった。

もう当時、ぼくたちはそれが死ぬほどおかしいと思って、休み時間はそれをみんなで連呼して笑いころげていた。そして授業とかで東西南北がどうしたで、「南のほうには……」なんて出ようものなら、教室中のあちこちから「南!」「南!」「南!」とひそひそ声があがり、みんなゲタゲタ笑い出して、もう怒られても全然止まらない。「高いなんとか……」なんて話でもすぐ「高い→たかし!たかし!」で爆笑で、そのまま反復すると先生が怒るもんで、しばらくすると、「南で……」と言われるとだれかが「三十四」と囁いてみんな必死で笑いをこらえる。

音楽の授業でちょうど教わっていた歌の中に、くり返しで「ランララランランラーンラーン、たーかーく、ランララランランラーンラーン、たーかーく」という部分があったんだけど、ぼくたちはそれを「ランララランランラーンラーン、みーなーみー、ランララランランラーンラーン、たーかーしー」と歌って大喜びだった。何の歌だっけ。「ピクニック」かと思ったけどちがうなあ。


ピクニック (童謡)

これはもちろん男子だけの現象で、女子は学級会で「男子は壁新聞でカツラの話ばっかりしてていけないと思います!」とか不満を述べて、壁新聞での扱いはやがてやめさせられたんだけれど、でもみんなコッソリ学校に資料をもってきては、休み時間にみんなで見せ合って大喜びしてた。

やがて、資料請求をくり返し続けたら、だれかの家にアートネイチャーから営業の電話がかかってきて、それで首謀者たちが大目玉をくらってやめさせられたんだっけ。

いや、それがどうしたわけじゃなくて、ふと思い出したってだけなんだけど。南たかしさん、当時本当に三十四歳だったんなら、今は76歳かあ。楽しませていただきました!

付記:

これを見た人がすぐ検索したんだけど、なんと、桂さんというのが本名なのねー。小学生時代のぼくが知ったら悶絶したことでしょう。

<スタッフ紹介>

ちなみに、その後某アジア国への日系進出企業の話を調べていたらカツラメーカーが出ていて、話をききに行こうとしたら、アレはヤバい業界とつながりがあるからダメーと言われた。ハゲとかカツラ使用はものすごい秘密で、その筋の方たちはそれをネタに強請るんですって。だからそういう情報のコネクションがあるとか。ホントかよ。

メイソン『海賊のジレンマ』:勢いdrivenな本。その分賞味期限が短い印象。

海賊のジレンマ  ──ユースカルチャーがいかにして新しい資本主義をつくったか

海賊のジレンマ ──ユースカルチャーがいかにして新しい資本主義をつくったか

これまでのお行儀のよい各種の活動の代わりに、新しいパンクな既存の活動におさまらない目新しい活動がいろいろ出ている! 海賊放送とか、リナックスとか、ストリートアートとか、既存のルールを無視した活動がユースカルチャーから出ている!

そういう本。で、いろんなユースカルチャーをルポ的に次々に紹介する。で、そうした動きを潰そうとするのはお互い無駄だし、規制に失敗して足下の市場を食われちゃって自滅するCD業界見ても、もっとうまいやりかたはあるから、これをどう活用するかが今後のポイントだ、と指摘する。

原著が出たのは2008年。書かれたのは少し前か。リミックスとかネットのあれこれとかヒップホップとかDJカルチャーとか、著者がすごく興奮しながら書いている熱気は十分に伝わってくる。リアルタイムで読んだら、「うわあ、すごいかも」と思ったかもしれない。が、2016年の今これを読むと「ああ、あったねえ(遠い目)」みたいなのも結構あって、熱っぽい書きぶりがちょっと鬱陶しい感じさえある。最後に、囚人のジレンマならぬ海賊のジレンマというモデルみたいなものも考えて見るんだが、思いつきの域にとどまり目からうろこではない。

あの時期の事例集としては、未だに価値を持つかもしれない。そして、方向性のとらえ方としては悪くない本だと思う。この本の中でも参照されているタプスコット『ウィキノミクス』とかの事例集みたいな扱いとしては、いまでもあり。読んで損する本ではない。

マクファーレン『イギリスと日本』:これまた産業革命の説明で、人口と疫病撃退のせいだというんだが……

イギリスと日本―マルサスの罠から近代への跳躍

イギリスと日本―マルサスの罠から近代への跳躍

産業革命はなぜ起きたか――ひいてはなぜ西洋は世界に勝ち、ぼくたちは豊かになったのか、という本はもういろいろ読んでいて、石炭の分布だというポメランツ、科学と知識の普及だという山本義隆、イギリスが実質所得が高かったからと言ったのはだれだっけ、制度が云々、金融がどうした、勤勉で生産性の高い遺伝子が広まったからというクラークとか、植民地のせいだとか、イギリスの飯がまずいせいだとか、労働者搾取のせいだとか、もうたいがいの話は聞いたような気がする。この本もその一つ。

この本のテーゼは、人口と医療というか疫病の克服なのね。この本の主張は、イギリスと日本が似たような性質を持っていることに着目し、それをもとに話を進める。

まず、イギリスと日本は島国で、だから侵略がなくて戦争が少なかった。国内で小競り合いはあったけど、その規模は小さかった。んでもって、農業を安定して営めたから、みんな飢え死にしなかった。

さらに、いろんな生活習慣とかのおかげで、伝染病が克服できた。それで、人が死ななくなった。これがまず第一歩。

で、なぜそれが人口増による資源食いつぶしと貧困への逆戻りを引き起こさなかったかというと、みんながバカみたいに子供を作らず、結婚パターンや避妊や間引きで人口成長が抑制された。で、なぜそんなことになったかというと、子供はだいたい3.5人くらいがちょうどいいよ、というコンセンサスが文化的にできていたから。バカみたいに子を増やすと生活苦しくなる、というのがみんなわかってたそうなのね。当時の農家経営とかのやり方から、最適な子供の数というのは決まっていたので、みんなそれにあわせて子供の数を抑えたんだそうな。

それで日本とイギリスはマルサスの罠を逃れました、という。

うーん。

確かにそれはそうなのかもしれないんだけどさ、マルサスの罠脱出で話が終わりじゃないでしょー。だいたいぼくは、まあまあ豊かに暮らした人々が日本とイギリスにしかいなかったとは思えないんだよね。マルサスの罠脱出というのは、しょせん程度問題でしょう。そして産業革命は?それと、人口がどんどん増えたという前半の話と、最後になって人口はそんなに増えませんでしたと言う話とがうまくかみ合ってなくて、まったくピンとこないんだよね。

本の大半は、特に各種の伝染病を日本とイギリスがどう克服したか、という話。それが本文400ページのうち200ページ。それを説明する水とか生活習慣とか排泄物処理とかの話をいろいろな資料からまとめる。それはそれでおもしろい。でも、それで何か産業革命(またはその前段)が説明できました、と言われてもあまり納得ができない。イギリスは13世紀からずっと特異で、その特異性が産業革命につながりました、というのが著者のテーゼだそうで、本書はその特異性を説明するものだというんだけど、その特異性の源が日本と共通なら、日本はなぜ産業革命起こせなかったの?

ぼくが何か読み落としているのかもしれない。読み終わったところで「へ? こんだけ?」と思って関係ありそうなところはたくさん戻ってみたんだけど。イギリスはずっと特異でした、というのは確かかもしれないんだけど、ただどの国でも、見方によってはそれなりに特異な性質を持っているはずだとは思うし、それが何か決定的だったかというのは、少なくとも本書ではよくわからない。

そんなこんなで、ぼくは本書ですごく感銘を受けた感じはしなかった。ポメランツの説明とか、科学技術の話とか、そしてグレゴリー・クラークの遺伝的な説明ですら、ぼくは説得力を感じるんだけど、本書はなんか生煮え。

大分岐―中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成―

大分岐―中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成―

10万年の世界経済史 上

10万年の世界経済史 上

Schrage, "Innovator's Hypothesis": 小さなプロトタイプで何でも試そうってのはわかるんだけど、それだけだと……

The Innovator's Hypothesis: How Cheap Experiments Are Worth More than Good Ideas

The Innovator's Hypothesis: How Cheap Experiments Are Worth More than Good Ideas

うーん。いやね、ビジネスでもなんでも、なんかあらかじめ最初から最後までがっちりビジネスプランとかを作ってその通りにやるんだと融通効かないしリスクも大きいから、ちょっと簡単な実験やってみて、アイデアがうまくいくか試そうぜ、というのが主張なわけ。それはまあ、その通りだと思うよ。

で、著者はそこで、5x5フレームワークなるものを提唱する。アイデアも一つだと何だから、5つくらいのアイデアをもってきて、それぞれ5人チームで、予算5千ドルで、5週間で簡単に実験してみるようにして、その結果をもとにモノになりそうなやつを決めようぜ、という。なんで5にそんなにこだわるの? 別に理由なし。でもまあ小規模で、しかも思いつきレベルでいいけど、気楽に実地テストする、というのが重要。

本書の主張はそんだけ。あとは、真面目な人はそう言われても「いい加減な実験」てのが苦手で立派なビジネスプランを作ってがっちり身動き取れなくなっちゃうよ、とか、臨機応変がいいんだぜ、とかいう話が延々書かれている。うそではないと思う。でも……そんなに目新しい話だろうか?5という数字で、規模や予算やチーム組成に目安をくれる、というのがいいのかもね。ぼくとしては物足りなかった。もっと話がふくらむと思ってたのに、最初の20ページでだいたい話が尽きてあとはその引き延ばしになってしまったのが残念。

エゴサーチ: 富岡日記とSF業界の後編 redux

二年ほど前に、「エゴサーチ: 富岡日記とSF業界の後編」というエントリーを書いた。

cruel.hatenablog.com

さて、これは実は、もっと長いモノを書いていたんだけれど、それを査読してもらった人に、こんなものを公開してもだれも喜ばないと言われて、ひっこめて短縮版をブログに乗せておいたのだった。それに、どうせこれを読んでもあまりわかる人もいるまいと思ったこともある。

でも最近、藤田直也という評論家が、SF作家クラブの腐敗を告発するとかいうことをツイッターで言い始めつつ、急に腰砕けになる醜態を見せた。

togetter.com

その周辺のいろんな発言とかを見ているうちに、少しはこんな文も意味があるかと思うようになった。

さて、この藤田直也の一連の発言というのは、自分の個人的な恨みやら保身やらを、いかにも公共的な告発であるかのように見せかけて投げ散らすというどうしようもない代物だ。自分の利益にかなうときだけ公共性を持ち出すというのは、ぼくは卑しい行いだと思う。そしてそれについて最後まで面倒を見ることもせず、すべてうやむやで終わらせる。結局、それにより何ら公共的な議論や見識が深まることもない。何やら裏でごちゃごちゃ、気持ちの悪いことが進行しているんだな、というのがわかるだけ。そして、それをめぐってくだらない憶測、情報隠しと歪曲とそれに伴う各種の疑心暗鬼だけが広がる。

ぼくはそういうのは不健全だと思っている。そして、ぼくは各種の(利己的に見える)動きにも、通常はそれなりのもっと大きな背景があると思っている。人々をそうした、利己的に見える行動に駆り立てる力があると思う。それを理解しないと、各種の「告発」と称するものは、それ自体が単なる利己性に基づく場合であればなおさら、単なるレッテル貼りと目先の犯人捜しに堕し、単なるゴシップのネタでしかなくなる。

ぼくは前回の「エゴサーチ: 富岡日記とSF業界の後編」で、そのさわりをちょっと示した。でもそれをもっと詳しく書いたものを、ハードディスクの肥やしにしておくのももったいない。そして、ぼくは当時のSFファンダムの状況というのは、日本の文化史においてもちょっとは重要だったと思っている。その雰囲気を理解してもらう意味でも、多少の意義はあるんじゃないか。

というわけで、こんな文書:

大森望(とそれを敵視する人々)についてぼくが知っていた二、三のこと:1980 年代からの遺恨とは(v.1.3) (pdf, 500kb)

各種記述の根拠については、文中でそれなりに示したつもり。もちろんそのサンプル数が多いわけではないけれど、統計的に処理するような話でもない。でも、これに対する反証が出る余地もあるとは思う。そういうのがあれば是非ご教示いただきたい。

これに限らず、当時のファンダムの状況というのは、もっときちんと整理して記録しておくべきだとぼくは思っている。当時の各種ファンジンには、SFファンダム勢力図分析みたいなのがときどき出ていた。ああいうのを掘り出して提示しておくのも、決して無意味ではないと思う。少なくともいくつかあった大きな論争とかは。SF論争史とかいう本もあるけれど、その多くは当時の論争の当事者がまとめたりしていて、自分に都合の悪いものははずされたりしている。この文で挙げたような話は、たぶん多くの人は存在すら忘れているかもしれない。でも、そういうのがそれなりに意味を持つことも多少はわかってもらえるんじゃないか。

反知性主義3 Part 2: 内田編『日本の反知性主義』:白井聡の文は、無内容な同義反復。他の文は主に形ばかりのおつきあい。

はい、まだ反知性主義の話は続きます。第3部を前編と後編にわけるなんて、最近の無内容を引きのばそうとする『トワイライト』とか『ホビット』『ハリポタ』『ハンガーゲーム』みたいでいやなんだけどさ、お金とるわけじゃないし、どうせ読む側もあんまり長いのは飽きるでしょ?(といいつつ、今回もえらく長いんだけど)

これまでの話は以下の通り:

反知性主義1:ホフスタッター『アメリカの反知性主義』は、知識人のありかたを深く考えていてとってもいいよ

反知性主義2:森本『反知性主義』は、アメリカに限ったまとめとしてはまあまあ

反知性主義3 Part1; 内田編『日本の反知性主義』の編者による部分は変な思いこみと決めつけだらけ

白井の文は、グローバリズムとかポストフォーディズムとか聞きかじりだけで並べた無内容な文である。

というわけで、お次は白井聡の文に移ろう。白井の文は、このアンソロジーの中で「反知性主義」に関するアカデミックな分析を、一応は期待されているんだろうと思う。そしてその書きぶりは、いかにも学問的な体裁だ。世界の社会経済的な文脈の中に、日本の「反知性主義」なるものを位置づけようというわけだ。そしてずいぶん力も入っている。総ページ数50ページほど。「はじめに」を除けば内田の文とほぼ同じ。

でも、残念ながらぼくはこの文にあらわれた世界の社会経済的な状況認識が、基本的にはなまくらで表層的なものでしかないと思う。そしてそのために、文章そのものがこむずかしいのに結局大したことを言えず、基本的には同義反復に堕している。

まずこの文は冒頭でこう述べる。

「今日の日本で反知性主義が跋扈していることについて、本書の読者はほぼ異論がないであろう。(p.65)

この時点で白井の文は、それが内輪向けのなれ合いの文であることを明言している。読者は「反知性主義」の何たるかについて同じ認識を持ち、その現状についても立場を共有しているというわけ。

そしてこの文はそれに続けて、基本的な主張を述べる。

「そこにはおおよそ二つの文脈がある。ひとつには、ポストフォーディズムあるいはネオリベラリズムと呼ばれる、1980年代あたりから世界的に顕在化した資本主義の新段階において、反知性主義の風潮は民主制の基本的なモードにならざるを得ない、という事情である。これは新しい階級政治の状況である。

 いまひとつには、制度的学問がそれに根ざしているところの「人間の死滅」という状況が挙げられる。(p.65)

ポストフォーディズム

 さて、まずこの前者。「ポストフォーディズムあるいはネオリベラリズムと呼ばれる云々」の部分。この時点で、白井の文は一知半解の印象論でしかないことがだいたい露呈している。だって、ポストフォーディズムネオリベラリズムって、全然ちがう話なんだもの。

ポストフォーディズムというのは、通常はT型フォード量産に代表される、少品種大量生産に基づくフォーディズムの後にくるものだ。フォーディズムは、管理者・計画者(知的労働者)とフロアの労働者(何も考えない肉体労働者)という明確な階級分離を前提とする。それに対して、ポストフォーディズムは、通常は多品種少量生産を胸とする。製造ラインレベルでの柔軟かつ高度な対応を要求されるので、労働者もある程度の知的な対応が求められる。かつてほど明確な階級分離はなくなる。

これに対してネオリベラリズムというのは、1970年代までのケインズ主義的な「大きな政府」による経済体制に対する批判として生まれ、効率の悪い公共をあらゆる場面から追い出し、規制緩和と市場化・自由化を全面的に進めようという考え方。これが結果的にかなりの格差を生み出したのは、ピケティ『21世紀の資本』などが指摘する通り。

だからこの両者は同じ扱いができるものではない。特にポストフォーディズムは、基本はむしろ末端の労働者にまで知性を要求するもので、「みんなバカ」という白井&内田の文が考えているような「反知性主義」とは方向性がかなりちがう。でも白井の文は、それをごっちゃにして平気だ。

その白井の文も、ポストフォーディズムについて調べているうちに、これに気がついて、なんかちがうようだと思ったらしい。でもそれを強弁してなんとか取り繕おうとしているのが、p.78の記述。ポストフォーディズムで労働者の教育が重要視されたけど、それが成功したかどうかはわかんなくてネオリベの大きな波がやってきた、というんだが、じゃあポストフォーディズム関係ないでしょ。白井の文が最初に述べている「反知性主義」の背景にもならない。

グローバリズム

そして、知的な労働者が必要なポストフォーディズムがなぜ「反知性主義」をもたらすのか?それは、えーと、グローバリズムのせいなのだという。グローバリズムのおかげで、賢い労働者は外国から輸入すればよいことになった、とのこと。よって自国では人々の教育にお金をかけないという反知性主義が広まったという。

グローバリズムについての一般的な発想を知っている人は、この議論に首を傾げるだろう。輸入できるような知的高技能労働者がそんなに世界中にたくさんいるの?そんな形の労働移動が起きているなどという話は聞いたことがない。ましていまの日本の低所得層を完全に代替しきるほどの高技能労働者が、日本に流入してるなんてことは……ないでしょー。グローバリズムの影響という話では通常、低技能を使う工場が海外移動して、国内に残った労働者は技能を高めねば、という議論になるんだが、白井の文の主張はこれと正反対だし、それを裏付ける根拠も一切ない。ついでに、日本は移民を(偽装奴隷研修制度とか以外では)全然やってない。なら日本が「反知性主義」に向かう理由はまったくないということになってしまう。

ネオリベラリズム

そして、ネオリベラリズムはどうなるんだろうか。これが実にはっきりしない。ネオリベラリズムは、格差を生み出す、という話を白井の文は (ピケティを引き合いに出しつつ) 述べる。それが知的な上流階級と、バカな下層階級との分離をもたらした、と。だから下流社会とかB層とかヤンキーとかが生まれてきたとのこと。そしてネオリベ政権は、人々が馬鹿なほうが操りやすいから人々を愚かにしようとして、このため「反知性主義」が生まれるとのこと。そして、日本は戦後に階級をなくすのに最も成功したからこそ、いま新しく階級が生まれる際には最も強く「反知性主義」が出ているそうな。

でも、人々がバカのほうが操作しやすいというのは、別にネオリベ政権でなくても言えることだ。そしてB層とかヤンキーのような話は昔から言われている。一億総白痴化、なんてことを言った人もいる。それがいま、どう変わったのか?さらにそれは、ネオリベという思想だか主義だかが意図的に目指すものなのか、それとも副作用として生じたことなのか?白井の文は、あるときはそれが意図的だという主張をし、あるときはそうでないような書き方をする。さらに、日本での格差はピケティが批判した欧米とはちょっとちがうことは多くの人が指摘しているし、その度合いもちがう。日本の反知性主義が最もひどいというのも、本当だろうか?階級についても、反知性主義の度合いについても、何一つ具体的な裏付けがないまま、白井の文はひたすら思いこみだけで展開する。

そもそも、日本の今の政権は本当にネオリベラリズムなのか?これまたまったく検討されない。個別の政策を見ると、規制緩和を目指す部分もあるから、それをネオリベラリズム的だと言うこともできるだろう。でも、全体としてはどうなの?相続税上げたり税金上げたり、ネオリベ的でない部分も多々ある。白井の文は、ネオリベラリズムについてきちんと定義や検証をすることなく、「現政権は教育費を削っているからネオリベネオリベだから教育費を削る反知性主義に走る」という循環論法がひたすら続くばかり。

ポモ的な「人間の終焉」についてもあれこれ書こうかと思ったけれど、全体の中で大した役割を果たしていないので割愛。それで議論が変わるわけではない。

嫌いなものをつなげて見せただけ?

結局、白井の文を読むと、実はネオリベラリズムグローバリズムもポストフォーディズムも、まるできちんと理解してなくて、聞きかじりで言葉を連ねているだけなのではないか、と思えてくる。でも、白井の文はそれで事足れりとしている。なぜか?これはすでに「反知性主義」的な傾向が存在するということを論証不要の前提としている身内に向けられた文章だからだ。そして、そういう人々は、ネオリベというのを何かよくないものだと思っている。グローバリズムというのも、人々を抑圧するろくでもないものだと思っている。だから、それらを線で結んで「これはみんなつながってるぜ!」と言う文に対しては、そういう読者はそれだけで喝采する。

稲葉振一郎などがときどき指摘するけれどネオリベとか新自由主義とかいうのも、人によって意味がちがって、多くの場合には単に自分が気にくわないことすべてに安易にはりつけるレッテルと化している。グローバリズムというのもそうだ。白井の文も、そこからいささかも出ていない。そして……「反知性主義」というのもそういうレッテルとなっている。つまりはどの用語も、このシリーズの最初に述べた、「バーカ」のご立派な言い換えにすぎない。だから白井の文は、「反知性主義」はネオリベのせいだと主張するけれど、その中身は結局、「気にくわない連中は気にくわないぜ、バーカ」という同義反復の練習問題にしかなっていない。

ホフスタッターはネオリベポモの夢を見るか?

そして、反知性主義ということばの定義についてだけれど、白井の文にはこうある。

リチャード・ホーフスタッターによる古典的名著『アメリカの反知性主義』によれば、反知性主義とは「知的な生き方およびそれを代表するとされる人々にたいする憤りと疑惑」であり、「そのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向」とされる。私はこの一般的な定義に同意するが、ここでポイントとなっているのは、反知性主義は積極的に攻撃的な原理であるということだ。(p.67)

さて、まずホフスタッターを援用した時点で、なんだか白井の文の主張が本当になりたつのか、というのは当然抱くべき疑問だ。ホフスタッターは、アメリカ建国以来の200年を扱っている。その時代に、ネオリベラリズムだのグローバリズムだのポストモダニズムの「人間の死滅」なんてものはあったんだろうか?たぶんないだろう。だったら、そうした思潮こそが反知性主義の元凶だという主張はそもそも変じゃないか?

さらに、ぼくはここで引用されているホフスタッターの定義を見ても、それが積極的に攻撃的な原理であるなどということがポイントになっているとは読み取れない。「憤り」の一言があるから攻撃的だと言いたいのか?でも何かに不満を抱くのとそれを攻撃するというのは話がちがう。

でも白井の文は、このようにしてそこに必ずしも書いていないことを、自分の思いこみに基づいて強引に引き出している。ちょうど、ネオリベグローバリズムの話でそうしたように。ぼくはこれが、ちょっと悪質な歪曲だと思っている。白井の文の立場に同調する読者は、そういうのをおおめに見るのかもしれない。でも、そうでないぼくのような読者にとって、この白井の文は、勝手な思いこみに基づいて特に裏付けのないことを放言し、嫌いなものをいい加減につないで見せただけのものでしかないだろう。

示唆のない結論は、上から目線のニヒリズムでしかない。

この現状「分析」の後に、白井の文は否定ナントカが現状には蔓延しているのであり、今後それを覆すために頑張らなくてはいかんが、あれもこれも八方ふさがりでお手上げで、それでも諦めてはいけないけどどうすればいいかよくわかんないよ、という結論をくっつけている。現状についての分析と認識が上に述べた通りかなりトホホであり、妥当性を欠くものである以上、この結論を真面目に考える必要はないだろうし、考えたところで、グチ以上のものはないから、読者としては徒労でしかない。

それ以上に、「反知性主義」を少しでも改善するにはどうすべきか?そういう提言がまったくないのは残念至極。「反知性主義」の意味合いはさておき、諸般の事情で世の中がバカだらけになって、しかもその状況を悪化させようという政府の方針(主義)さえある——そういう考え方はあるだろう。でも多少なりともそれを変えるための具体的な提言はおろか、多少の示唆にすらつながらなければ、それは結局現状の追認と諦めを表明するニヒリズムと、「でもワシはそれを憂慮できる賢い知識人なのよオホホホ」という優越感をまぜこぜにしただけの、非生産的な代物にしかならない。ぼくは白井の文(そして内田の文も)がまさにそういう代物に成りはてていると思う。

その他の文について

ここまでで、だいたい本全体の半分くらいが費やされている。他の文はほとんどがおつきあい。本書の他の人たちは、ホフスタッターをおそらくは読んでいない。かれらは「反知性主義」というものについて、内田に与えられたお題をそのまま鵜呑みにしている。そういう立場であれば、反知性主義の理解がどうの、と目くじらをたてる筋合いのものでもない。これまでが長すぎたこともあるし、あとはざっと流す感じで……

高橋源一郎の長い題名の文

高橋によるこの文は、あまりきちんとした主張をしている文ではない。題名からもわかる通り、そもそも反知性主義なんていう話はしたくなかったけれど、おつきあいでとりあえずページを埋めました、という文でしかない。細雪が発禁になった話をして、それは知性が女性的だから云々と述べるけれど、ほのめかしの書きっぱなしできちんとした考察はない。ぼくは、単なる思わせぶりで無内容な文だと思う。でも、それを何か余韻のある深い文章だと思う人もいるだろう。

赤坂真理「どんな兵器よりも破壊的なもの」

赤坂のこの文も、お題である「反知性主義」「反知性」に対する戸惑いから入って、それをあっさり無視して天皇制の話であちこちふらふらして……それで終わる。内田の「反知性主義」に居心地の悪さを感じていることはよくわかるけれど、高橋源一郎の文章のようにそれを平然と蹴っぽるほどの図々しさはなく、なんとかそのお題に応えようと右往左往するのが読んでいてちょっと痛々しい。その居心地の悪さはおそらくは鋭いのだけれど、それがまったく追求されないのはちょっと残念。そして、右往左往はするがまとまらず、きちんとした主張や論旨がないまま投げ出され、たいへん煮え切らない。

平川克己「戦後70年の自虐と自慢

平川の文は、安部首相を「反知性主義」つまり頭が悪いとけなすことに違和感を感じている。そして……なんとその後に出てくるのは、内田樹の文での主張に対する(意図せざる)全否定だ。

反知性主義とは知性の不足に対して形容される言葉ではない。現場での体験の蓄積や、生活の知恵がもたらす判断力を、知的な営為や、創造力がくみ上げた合理性よりも信頼するに足るという保守的イデオロギーのことである。(p.157)

!!!!これはまさに、内田の文章で述べていた主張をひっくり返しているのだけれど、編者はこれをちゃんと読んだのだろうか。

その後、平川の文は、日本に比べてドイツの戦後処理は立派だと、各種ドイツ首脳の演説を引用して安部首相の演説の揚げ足取りをしつつドイツ絶賛を繰り広げる。でも、ドイツが軍隊を持っていて武器輸出もしていて集団自衛権も否定していないことについてはまったく無視。重要なのは、実際の軍事的な行動のほうじゃないかとぼくは思うんだが。

小田嶋隆「いま日本で進行している階級的分断について」

小田嶋の文は、変な自意識にからめとられているときには無惨な代物となる。でも、そうでないときにはよいセンスがあることは否定できない。本書の文では、ある種の分断——頭のいいやつ、優等生とそれ以外——を指摘する。そして、実は分断が先にあって、知性がどうのというのはそれに対する後付の理屈でしかないということを指摘しおおせている。これはある意味で、内田樹のまえがきで述べられた枠組みを否定するものだ。本書の中ではましなほうの文章だと思う。

ちなみに、小田嶋の文は、「ヤンキー」をふりまわす議論についても論難している。つまりは、白井の文章に対する批判にもなっている。

名越x内田「身体を通じた直観知」

本当に無内容でひどい対談。昔はよかった、みんな節目があった、知性が身体化されてた、最近の連中はダメだ、というだけ。

想田「体験的反知性主義論」

人はいろいろな社会経済的しがらみにとらわれて、反知性的な行動に出るのだ、そしてそれは他の人だけがやることではなく、ぼくたちみんなやってることだ、という文。これ自体はおっしゃる通り。この文で挙げられる「反知性」は、原発推進だけれど、量的にはあまり多くない。そして、我が身をふり返れという主張はまとも。本書の中でいちばんまともなものの一つ。

仲野「科学の進歩に伴う「反知性主義」」

科学が細分化して業績重視になってくるので、研究者もいろいろ端折って反知性っぽいことをするようになります、とのことだが、その論旨はあまり明解ではない。科学が発達しても知性が伴わないという議論は、そこでの「知性」というのが不明確なのであまり意味を持たない文となっている。

鷲田「『摩擦』の意味」

反知性主義」ということばを一切使わず、あまり決めつけを急がず摩擦に耐えて他人の言うことにも耳を傾け、謙虚になって寛容の精神を持ちましょう、というたいへん立派な文章で、唯一の疑問は、鷲田はこれをだれに向かって書いているのかということ。日本の政治的な現状に対してはもの申したいらしいが、それを具体的に言うことなく、一番最後にT・S・エリオットの引用でほのめかすだけ。あらかじめ先入観を持った人は、そこに自分の読み取りたいものを勝手に読み取るだろう。

それを明記しない鷲田のこの文を、上品で高尚だと思う人もいるだろう。ぼくはそれを、明言しない責任逃れの知的堕落だと思う。だがその一方で、この最後のエリオットの引用が現代政治状況へのコメントだとしたら、それまでの部分は逆に内田の序文などに見られる決めつけと不寛容に対するたしなめのようにも読める。もしそうなら、なかなかの策士。

まとめ

以上をまとめよう。本書はそもそも、理解力の低さ(ホフスタッターのいう「反知性主義」をまったく理解できない)か、非常な不誠実さ(ホフスタッターの議論を理解したうえでそれを意図的に歪曲)を発端としている。そして、内田と白井の文章は、ホフスタッターについての理解を離れた部分でも、まったく妥当性や論理性を持たない、無内容な代物と成りはてている。その呼びかけに応えて寄稿した論者たちは、いずれもその不誠実さと無内容さを引き受けさせられてしまったという意味で、不当な立場に置かれて利用されてしまった。これは本当にお気の毒でかわいそうだ。

でも、多くの人は編者が期待したとおぼしき、安倍政権バッシングをほとんど行っていない。「反知性主義」なるものについての明解な分析もなく、概念規定もないどころか、むしろ戸惑いを明確に述べている。そしておつきあいで、何やら現在の政治状況が自分のお気に召す方向には動いていないことについて、漠然と触れつつも、反知性主義がそれに関係しているかどうかもあいまいに濁している。たぶん、みんな困って、さりとて無碍に断るのもアレだから、あたりさわりのないことを書いてお茶を濁したんだろう。そしてみんながそれをやったために、本全体としても濁ったきれの悪いものになってしまっている。

もちろん、編者内田と白井の文が見せている混乱ぶりを見れば、それは仕方がないことだったのかもしれない。そしてそれは、そもそも最近の「反知性主義」という議論が、ホフスタッターの主張をふまえているかどうかとは別の意味でも、あまり中身がないものでしかなかった、という事実の反映でもあるのだろう、とぼくは思っている。

そしてその一方で、多くの論者は編者たちの尻馬にのって、うぉー反知性主義けしからんアベ許さないわよ人民の革命を−、といった軽薄なアジを繰り広げることもできたのに、それをしなかった。これはかれらの最低限の知的誠実さのあらわれとして、ぼくとしては評価すべきだと思っている。個々の論者のほとんどは、空気を読みすぎて浮かれるお調子者ではなかったことだけはわかる。えらい。それによって本としての評価が高まるわけではないけれど。

以上、反知性主義のお話はこれでとりあえず一段落。疲れました。本はニューヨークに捨ててきます。