学校行ってもちゃんと勉強しないとダメよねー、というお話&日本の教育はゴミクズらしいぞ。

Science 読んでたら、経済成長と教育の関係についての論文が出てたのでちょっと紹介。

Knowledge capital, growth, and the East Asian miracle

Eric A. Hanushek, Ludger Woessmann, Science 22 Jan 2016: Vol. 351, Issue 6271, pp. 344-345 DOI: 10.1126/science.aad7796

http://science.sciencemag.org/content/351/6271/344.full

経済成長のためには国民に教育うけさせて人的資本の質を上げないとダメだよねー、というのはもう言われすぎていてあたりまえの話になってるんだけど、でも一方で、同じ年数だけ学校に通ってるのに、東アジアは奇跡の大成長で、南米諸国はかなり出来が悪い。他のところでも、あんまりうまく相関が出なくて、開発経済学の人たちはヤッベーと思ってるんだけど、でも教育とが社会や経済の発展にまったく関係ないってことも考えにくいので、そこらへん少し口ごもり気味でゴニョゴニョしてる面がある*1

それがキモチワルイってんで、開発援助に批判的なウィリアム・イースタリーは、「ほらごらん、上からの押しつけで学校作ったってだめなんだよ、開発援助で学校やってもダメなんだよ」という主張をしている。インセンティブさえうまくつければ、学校とか教育は途上国の人たちが自分で何とかするよ、という議論。でも、これまで自分で何とかしてこなかったという厳然たる事実があるからこそ援助って話がそもそも出てきたわけで……

エコノミスト 南の貧困と闘う

エコノミスト 南の貧困と闘う

で、この研究者たちは、就学年数とかじゃなくて、実際に能力テストをやってそれとの相関を見てみたらどうだろうか、というのをやった。それが以下の図。

f:id:wlj-Friday:20160224120921j:plain

左は、就学年数と経済成長との相関を見たもの。同じ就学年数でも、青(ラ米諸国)は線の下にかたまり、赤(東アジア)は線の上にかたまる。

でも、右のグラフを見ると、学校通ってもちゃんと勉強しないでテスト(ここでのテストは、数学と科学のテストだそうな。具体的なデータ出所は、この論文著者たちの本に載っている模様で不詳。この論文の分析ベースらしい。はてブid:cider_kondoTNX!!)でいい点取れないようだと、経済成長には影響しない模様。テストで高い点採ってる国は、経済成長もいいよ、という話。だから東アジアの奇跡は、人々を学校に通わせるだけでなく、ちゃんとそこで勉強させてテストでいい点取れるようにしたからだったんだよ、とのこと。

正直いって(そして読者の多くもそう思うだろうけど)今さら何を言ってるんだ、という感じではある。各種テスト(IQでもいいし、大学入試でもいい)で高い点取れる人の所得が高いことは、あの『ベルカーブ』でもその他あらゆる調査でも概ね裏付けられている。就学年数とか学歴とか学校は、通常はそれ自体が目標ではなく、それが試験でよい点数というのの代理指標になってるという暗黙の前提があるから使われているだけで……

でも実際には、いろんな開発目標とかだと、就学年数挙げるとか、女の子を学校に通わせるとかいうのが目標になる。すると、学校の質はどうでもいいから形ばかり通学させればいい、ということになってしまいがち。学校の質もきちんと考えましょうよ、というお話。

当然なんだけどね。指標そのものにとらわれすぎると、変な歪み方が出て、それをさらに曲解したイースタリーみたいな極論も出てしまうので気をつけましょうというお話。

ちなみに、東アジアで唯一あまりできのよくないフィリピンが見事にこのグラフでも出来が悪いのは、さもありなんという感じなんだが、その一方で、なぜだろうね?なぜフィリピンだけこんなに低いのかね。学校の質をよくするというのは、バナジー&デュフロ『貧乏人の経済学』にも出ていたけど、なかなか難しい。インドでは、学校の狙いとしてエリート養成とか平均成績アップとかを掲げると、劣等生は無視してヘタするとどんどん退学させるとかいったことをやっちゃうから、全体の底上げが重要で、トップエリートなんかどうでもいいから、底辺の引き上げがんばろうぜ、というのを目標にすればよい、という結果が出ていたけれど、フィリピンもどうすればいいのかなあ。日本はフィリピンの学校とかにもかなり援助出してるんだけど……

貧乏人の経済学 - もういちど貧困問題を根っこから考える

貧乏人の経済学 - もういちど貧困問題を根っこから考える

あともう一つ、右のグラフを見てすぐ気になること。日本、全然ダメじゃん! ゴミクズじゃん!東アジアのブービー賞かよ!*2フィリピンの心配してる場合じゃねーや。データの出所や処理は要チェックだけど、ネトウヨ諸君、半世紀前の先人の遺業で虚勢張ってるより、現状のこういうダメなところにもっと怒りを向けようぜ!きみたちの嫌いな中韓にぼろ負けだぞ! デフレ対策もかねて、すぐに文教債券認めて、日銀が全量買い上げ!学校予算10倍増!そうでもしないと、これじゃとても景気回復しねーよ!

*1:最先端の研究者のみなさんは、「そんなのとっくに片付いてるよ!」と言うかもしれないけど、最先端の研究が現場に降りてくるまでには時間がかかるのでご容赦を。それにここで紹介した研究がわざわざ Science に掲載されるということ自体、それがまだ片付いていないという状況を示すものではある。

*2:ちがった。インドネシアのさらに下にフィリピンがいた。TNX 2 エミコヤマ。あーよかった、下から三番目なら日本も安心ね……って、そんなわけねーだろ!!

増田悦差のジェイコブズ歪曲

(2/26付記:ここで問題にしている増田悦差のコラムは、その後本エントリーを見て修正された。したがって、現在では以下のリンク先の内容はここでの記述に対応していない。元の記述については魚拓を参照。)

 

増田悦差という論者が、何やら都市計画について書いているなかで、ぼくのジェイコブズ訳にケチをつけている。

webmag.nttpub.co.jp

(魚拓:http://www.webcitation.org/6fPqVGHsC

具体的には、ジェイン・ジェイコブズ『アメリカ大都市の死と生』(鹿島出版会)のこの部分だ。

このうんざりするような泥沼は、有機体としての都市の要求と、各種の個別利用の供給との矛盾から生じるものではまったくありませんし、これ以外の都市計画上の泥沼も、そうした矛盾などから生じる例はほとんどありません。それがもっぱら生じるのは、都市の秩序と個別用途のニーズの双方と恣意的な矛盾を生じている、計画理論のせいなのです。(新訳版、199頁)

この訳文について、増田悦差はこう述べる。

悪文の度合いは旧訳と似たようなものではないかというのは、ごく個人的な感想だとしても、ジェイコブズが都市計画一般を批判する際に、訳者であるはずの山形は、執拗に「まちがった」都市計画とか、「伝統的な」都市計画とか、計画「理論」とかの修飾を付けて、本来の都市計画は立派なのだが、現在推進されている都市計画がその本来の姿を見失っているだけだという議論にねじ曲げてしまうのだ。

さて、まずこれを見ただけでも、「まちがった」都市計画とか「伝統的な」都市計画なんてのがぼくの訳文にはないことは明らかだ。ぼくがそんな「修飾」をつけたって、何のことでしょうか。本全体の訳文中に「まちがった都市計画」というのは一ヶ所もない。「伝統的な都市計画」は5ヶ所登場するけれど、すべて対応する "conventional"がついている。

また「計画『理論』とかの修飾を付けて」とある。本当だろうか?この段落の原文を見てみよう。

This tiresome muddle arises not in the least from contradictions between demands by the city as an organism and demands by various specific uses, nor do most planning muddles arise from any such contradictions. They arise chiefly from theories which are in arbitrary contradiction with both the order of cities and the needs of individual uses. (Vintage 版pp.172-173、強調引用者)

該当部分は「theories」であり、理論だ。ここで付加的な修飾は「計画」のほうで、「理論」は原文にある用語だ。増田は、原文を見もしないで、ぼくがねじ曲げていると主張する。でもねじ曲げているのはどっちだろうか?

ちなみに、増田が賞賛する黒川紀章の訳はこうだ。

「このタイプの希望のない経済に関する思いがけない事故というのは、都市においてはごく自然にあらわれてくることはほとんどない。しかし、このタイプは計画によって導入される」(1977年訳版、187頁)

さて、これが原文や、ぼくの訳文に比べてえらく短いことは明らかだろう。なぜかというと……それは、これが全然別の部分だから、なのだ。「ところが、新訳版では同じ文章が、こう訳されている」ですって? 該当部分のぼくの訳はこうなっている。

この種の絶望的な経済的事故は、都市で自然に生じることはめったにありませんが、都市計画はそれをしばしば導入します。(新訳p.189)

ここの原文は

This type of hopeless economic contretemps seldom turns up naturally in a city, but it is frequently introduced by plan. (Vintage 版p.164)

ぜんぜんちがうところを対比して、修飾してるだのねじ曲げてるだの言われてもねえ。こっちの分だと、黒川の訳文とあまり変わらないのがわかると思う(というより、ぼくの訳文のほうが意味が通るのがわかると思う)。これでも黒川のほうがいい?

黒川の訳文は、これ以外の部分でも変な歪曲、とりちがえ、金釘訳だらけだ。だからこそ、ぼくはわざわざ訳し直すべきだと感じた(ついでに本の後半をすべて省略って、そもそもありえねーだろ!)。でも、増田はそういういい加減な端折りについて何も問題を感じないらしい。そして、原文を見もせず、全然ちがうところの訳文をもとに、ぼくの訳をくさす。ちょっとなんとかしたほうがいいと思うぜ。

ちなみに、その上に展開される、バーナード ルドフスキーに対する悪質な罵倒も、実にどうしようもない代物だ。

あるいは182頁に掲載された、17世紀初頭のオールド・ロンドン・ブリッジ周辺の風景画の説明には、こういう訳が添えてある。「右端のブリッジゲイトの上に、巨大な棒付きキャンディーのように見えるのは、有名無名の人びとを記念するための人間の頭部の永久展示である。」

 これが「有名無名の犯罪者の記憶を不滅にとどめるために槍の穂先に突きたてた、斬首刑に処された囚人たちの生首である」という意味だと分かる日本人が何人いるだろうか。

何人いるかはわからないけれど、実際にp.182にある図を見ると、ある程度は見当がつくんじゃないだろうか。また、原文は多少、婉曲的な話法を使っている。ルドフスキーはそういう気取りのある人だ。その気取りをそのまま訳したところで、誤訳だの改ざんだのと言われる筋合いはない。

そしてルドフスキーが、その城壁に囲まれた閉鎖的な空間としてのヨーロッパ都市を、いかに口を極めて賛美していたかということを正直に伝えたのでは日本の読者が引くだろうとの配慮から意図的にぼかした表現だったということになると、これはかなり重大な歪曲だ。

だから原文通りなんだって。くだらん下衆の勘ぐりしなさんな。翻訳批判するなら、原文くらいあたろうぜ。ルドフスキーは、増田ごときが揚げ足取れるような安っぽい存在じゃないのだ。

増田は、とにかく自由放任主義がいいと言いたいらしい。でも、そのために無内容な歪曲をしてまわるのはやめるべきじゃないかな。ぼくがこれを知ったのは、以下のツイッターによってだった。

こうして真に受けてだまされてしまう人もいる。自由放任が重要と言いたいなら、それはそれで結構。そういう場面もあるだろう。でも、ここで引用されているものが、それを裏付ける傍証になっているとは思わない。翻訳を批判するなら、まず原文にくらいはあたるべきじゃないだろうか。

ちょっとこれ、後でこの増田コラムを掲載しているNTT出版にも問い合わせてみようっと。

....と思ったが、面白いので黙っていよう。

南たかし、いまいずこ(本当なら今は76歳のはずだが……)

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最近、何度かアデランスのCMを見たのでふと思い出した話なんだけど……

その昔、小学校時代に、うちの学級でカツラが大ブームになったことがある。といっても、別に本物のカツラをみんながつけてきたとかいうことじゃなくて、その頃急に目につくようになった、アデランスとアートネイチャー(あともう一つなんかあったような気がする)のCMにみんなが夢中になったってこと。

小学生は、そもそも「ハゲ」というだけで笑い転げるほど可笑しいと思ってた。差別はいけませんとかなんとか、きれい事を言ってくれてもいいけど、でも小学生にとっては、セックスと同じで、なんだかよくわからないけど、大人が何かそれを恥ずかしいか決まり悪いと思ってるか、とにかくあまり公然と語るべきではないと思ってあたふたしてるってこと自体がおもしろい。当時ぼくたちは小学校3年で、なんか近くのへいに「SEX」と落書きがあって、「アレ何のこと?」と尋ねると大人がもじもじする。それがおもしろくて、何のことかわかんなくても、ことあるごとにそれを口走って喜ぶ。ちょうど、ドリフの「8時だヨ!全員集合」で加藤茶がストリップの真似をして「ちょっとだけよ」と言うのが大人気だったけど、ガキはあれが何なのか全然わかってなくて、でも大人が変な反応するのでおもしろかっただけだ。

www.nicovideo.jp

で、ハゲというのもそういうものだった。けど、まあハゲの何たるかはわかる。そこへ、アデランスとアートネイチャーがやたらにCMを打ち始めた。本当にかれらのCM出稿がその頃増えたのか、ぼくたちがそれを意識するようになって、気がつく頻度が増えただけなのかはよくわからん。みんなテレビCMの真似とかで大喜びしてた。そして新聞にもかなり広告が出ていて、あるときだれかが、資料請求ってやつをすると、いろいろ詳しいものが送ってもらえることに気がついた。

そこからなんか、すさまじいことになった。これまで嫌々作らされていた学級壁新聞が、もう完全にカツラ業界発表大会となって、アデランスやアートネイチャーのパンフの切り貼りだらけ。サンクV三段増毛法、というのが当時どっちかの新しい技法で、気づかれず自然に髪の毛を増やす! おおおおおお、すげえええ! これは壁新聞で詳しく説明しなくては! アデランスのCMにはファランが出て、「Be an active man, with Aderance!」というのを最後に言うんだけど、ぼくはアメリカから帰ったばっかりで、ガキどもの中で唯一それが何と言ってるかわかったので、もう壁新聞で英語教室だ。そしてパンフに出ている、カツラで活発な人生が送れるようになりました、という各種体験談は、完全なさらし者。

で、どっちかのCMでは、仮想の利用キャラクターとして大きく出ていたのが、「南たかし、三十四歳!」というオッサンだった。

もう当時、ぼくたちはそれが死ぬほどおかしいと思って、休み時間はそれをみんなで連呼して笑いころげていた。そして授業とかで東西南北がどうしたで、「南のほうには……」なんて出ようものなら、教室中のあちこちから「南!」「南!」「南!」とひそひそ声があがり、みんなゲタゲタ笑い出して、もう怒られても全然止まらない。「高いなんとか……」なんて話でもすぐ「高い→たかし!たかし!」で爆笑で、そのまま反復すると先生が怒るもんで、しばらくすると、「南で……」と言われるとだれかが「三十四」と囁いてみんな必死で笑いをこらえる。

音楽の授業でちょうど教わっていた歌の中に、くり返しで「ランララランランラーンラーン、たーかーく、ランララランランラーンラーン、たーかーく」という部分があったんだけど、ぼくたちはそれを「ランララランランラーンラーン、みーなーみー、ランララランランラーンラーン、たーかーしー」と歌って大喜びだった。何の歌だっけ。「ピクニック」かと思ったけどちがうなあ。


ピクニック (童謡)

これはもちろん男子だけの現象で、女子は学級会で「男子は壁新聞でカツラの話ばっかりしてていけないと思います!」とか不満を述べて、壁新聞での扱いはやがてやめさせられたんだけれど、でもみんなコッソリ学校に資料をもってきては、休み時間にみんなで見せ合って大喜びしてた。

やがて、資料請求をくり返し続けたら、だれかの家にアートネイチャーから営業の電話がかかってきて、それで首謀者たちが大目玉をくらってやめさせられたんだっけ。

いや、それがどうしたわけじゃなくて、ふと思い出したってだけなんだけど。南たかしさん、当時本当に三十四歳だったんなら、今は76歳かあ。楽しませていただきました!

付記:

これを見た人がすぐ検索したんだけど、なんと、桂さんというのが本名なのねー。小学生時代のぼくが知ったら悶絶したことでしょう。

<スタッフ紹介>

ちなみに、その後某アジア国への日系進出企業の話を調べていたらカツラメーカーが出ていて、話をききに行こうとしたら、アレはヤバい業界とつながりがあるからダメーと言われた。ハゲとかカツラ使用はものすごい秘密で、その筋の方たちはそれをネタに強請るんですって。だからそういう情報のコネクションがあるとか。ホントかよ。

メイソン『海賊のジレンマ』:勢いdrivenな本。その分賞味期限が短い印象。

海賊のジレンマ  ──ユースカルチャーがいかにして新しい資本主義をつくったか

海賊のジレンマ ──ユースカルチャーがいかにして新しい資本主義をつくったか

これまでのお行儀のよい各種の活動の代わりに、新しいパンクな既存の活動におさまらない目新しい活動がいろいろ出ている! 海賊放送とか、リナックスとか、ストリートアートとか、既存のルールを無視した活動がユースカルチャーから出ている!

そういう本。で、いろんなユースカルチャーをルポ的に次々に紹介する。で、そうした動きを潰そうとするのはお互い無駄だし、規制に失敗して足下の市場を食われちゃって自滅するCD業界見ても、もっとうまいやりかたはあるから、これをどう活用するかが今後のポイントだ、と指摘する。

原著が出たのは2008年。書かれたのは少し前か。リミックスとかネットのあれこれとかヒップホップとかDJカルチャーとか、著者がすごく興奮しながら書いている熱気は十分に伝わってくる。リアルタイムで読んだら、「うわあ、すごいかも」と思ったかもしれない。が、2016年の今これを読むと「ああ、あったねえ(遠い目)」みたいなのも結構あって、熱っぽい書きぶりがちょっと鬱陶しい感じさえある。最後に、囚人のジレンマならぬ海賊のジレンマというモデルみたいなものも考えて見るんだが、思いつきの域にとどまり目からうろこではない。

あの時期の事例集としては、未だに価値を持つかもしれない。そして、方向性のとらえ方としては悪くない本だと思う。この本の中でも参照されているタプスコット『ウィキノミクス』とかの事例集みたいな扱いとしては、いまでもあり。読んで損する本ではない。

マクファーレン『イギリスと日本』:これまた産業革命の説明で、人口と疫病撃退のせいだというんだが……

イギリスと日本―マルサスの罠から近代への跳躍

イギリスと日本―マルサスの罠から近代への跳躍

産業革命はなぜ起きたか――ひいてはなぜ西洋は世界に勝ち、ぼくたちは豊かになったのか、という本はもういろいろ読んでいて、石炭の分布だというポメランツ、科学と知識の普及だという山本義隆、イギリスが実質所得が高かったからと言ったのはだれだっけ、制度が云々、金融がどうした、勤勉で生産性の高い遺伝子が広まったからというクラークとか、植民地のせいだとか、イギリスの飯がまずいせいだとか、労働者搾取のせいだとか、もうたいがいの話は聞いたような気がする。この本もその一つ。

この本のテーゼは、人口と医療というか疫病の克服なのね。この本の主張は、イギリスと日本が似たような性質を持っていることに着目し、それをもとに話を進める。

まず、イギリスと日本は島国で、だから侵略がなくて戦争が少なかった。国内で小競り合いはあったけど、その規模は小さかった。んでもって、農業を安定して営めたから、みんな飢え死にしなかった。

さらに、いろんな生活習慣とかのおかげで、伝染病が克服できた。それで、人が死ななくなった。これがまず第一歩。

で、なぜそれが人口増による資源食いつぶしと貧困への逆戻りを引き起こさなかったかというと、みんながバカみたいに子供を作らず、結婚パターンや避妊や間引きで人口成長が抑制された。で、なぜそんなことになったかというと、子供はだいたい3.5人くらいがちょうどいいよ、というコンセンサスが文化的にできていたから。バカみたいに子を増やすと生活苦しくなる、というのがみんなわかってたそうなのね。当時の農家経営とかのやり方から、最適な子供の数というのは決まっていたので、みんなそれにあわせて子供の数を抑えたんだそうな。

それで日本とイギリスはマルサスの罠を逃れました、という。

うーん。

確かにそれはそうなのかもしれないんだけどさ、マルサスの罠脱出で話が終わりじゃないでしょー。だいたいぼくは、まあまあ豊かに暮らした人々が日本とイギリスにしかいなかったとは思えないんだよね。マルサスの罠脱出というのは、しょせん程度問題でしょう。そして産業革命は?それと、人口がどんどん増えたという前半の話と、最後になって人口はそんなに増えませんでしたと言う話とがうまくかみ合ってなくて、まったくピンとこないんだよね。

本の大半は、特に各種の伝染病を日本とイギリスがどう克服したか、という話。それが本文400ページのうち200ページ。それを説明する水とか生活習慣とか排泄物処理とかの話をいろいろな資料からまとめる。それはそれでおもしろい。でも、それで何か産業革命(またはその前段)が説明できました、と言われてもあまり納得ができない。イギリスは13世紀からずっと特異で、その特異性が産業革命につながりました、というのが著者のテーゼだそうで、本書はその特異性を説明するものだというんだけど、その特異性の源が日本と共通なら、日本はなぜ産業革命起こせなかったの?

ぼくが何か読み落としているのかもしれない。読み終わったところで「へ? こんだけ?」と思って関係ありそうなところはたくさん戻ってみたんだけど。イギリスはずっと特異でした、というのは確かかもしれないんだけど、ただどの国でも、見方によってはそれなりに特異な性質を持っているはずだとは思うし、それが何か決定的だったかというのは、少なくとも本書ではよくわからない。

そんなこんなで、ぼくは本書ですごく感銘を受けた感じはしなかった。ポメランツの説明とか、科学技術の話とか、そしてグレゴリー・クラークの遺伝的な説明ですら、ぼくは説得力を感じるんだけど、本書はなんか生煮え。

大分岐―中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成―

大分岐―中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成―

10万年の世界経済史 上

10万年の世界経済史 上

Schrage, "Innovator's Hypothesis": 小さなプロトタイプで何でも試そうってのはわかるんだけど、それだけだと……

The Innovator's Hypothesis: How Cheap Experiments Are Worth More than Good Ideas

The Innovator's Hypothesis: How Cheap Experiments Are Worth More than Good Ideas

うーん。いやね、ビジネスでもなんでも、なんかあらかじめ最初から最後までがっちりビジネスプランとかを作ってその通りにやるんだと融通効かないしリスクも大きいから、ちょっと簡単な実験やってみて、アイデアがうまくいくか試そうぜ、というのが主張なわけ。それはまあ、その通りだと思うよ。

で、著者はそこで、5x5フレームワークなるものを提唱する。アイデアも一つだと何だから、5つくらいのアイデアをもってきて、それぞれ5人チームで、予算5千ドルで、5週間で簡単に実験してみるようにして、その結果をもとにモノになりそうなやつを決めようぜ、という。なんで5にそんなにこだわるの? 別に理由なし。でもまあ小規模で、しかも思いつきレベルでいいけど、気楽に実地テストする、というのが重要。

本書の主張はそんだけ。あとは、真面目な人はそう言われても「いい加減な実験」てのが苦手で立派なビジネスプランを作ってがっちり身動き取れなくなっちゃうよ、とか、臨機応変がいいんだぜ、とかいう話が延々書かれている。うそではないと思う。でも……そんなに目新しい話だろうか?5という数字で、規模や予算やチーム組成に目安をくれる、というのがいいのかもね。ぼくとしては物足りなかった。もっと話がふくらむと思ってたのに、最初の20ページでだいたい話が尽きてあとはその引き延ばしになってしまったのが残念。

エゴサーチ: 富岡日記とSF業界の後編 redux

二年ほど前に、「エゴサーチ: 富岡日記とSF業界の後編」というエントリーを書いた。

cruel.hatenablog.com

さて、これは実は、もっと長いモノを書いていたんだけれど、それを査読してもらった人に、こんなものを公開してもだれも喜ばないと言われて、ひっこめて短縮版をブログに乗せておいたのだった。それに、どうせこれを読んでもあまりわかる人もいるまいと思ったこともある。

でも最近、藤田直也という評論家が、SF作家クラブの腐敗を告発するとかいうことをツイッターで言い始めつつ、急に腰砕けになる醜態を見せた。

togetter.com

その周辺のいろんな発言とかを見ているうちに、少しはこんな文も意味があるかと思うようになった。

さて、この藤田直也の一連の発言というのは、自分の個人的な恨みやら保身やらを、いかにも公共的な告発であるかのように見せかけて投げ散らすというどうしようもない代物だ。自分の利益にかなうときだけ公共性を持ち出すというのは、ぼくは卑しい行いだと思う。そしてそれについて最後まで面倒を見ることもせず、すべてうやむやで終わらせる。結局、それにより何ら公共的な議論や見識が深まることもない。何やら裏でごちゃごちゃ、気持ちの悪いことが進行しているんだな、というのがわかるだけ。そして、それをめぐってくだらない憶測、情報隠しと歪曲とそれに伴う各種の疑心暗鬼だけが広がる。

ぼくはそういうのは不健全だと思っている。そして、ぼくは各種の(利己的に見える)動きにも、通常はそれなりのもっと大きな背景があると思っている。人々をそうした、利己的に見える行動に駆り立てる力があると思う。それを理解しないと、各種の「告発」と称するものは、それ自体が単なる利己性に基づく場合であればなおさら、単なるレッテル貼りと目先の犯人捜しに堕し、単なるゴシップのネタでしかなくなる。

ぼくは前回の「エゴサーチ: 富岡日記とSF業界の後編」で、そのさわりをちょっと示した。でもそれをもっと詳しく書いたものを、ハードディスクの肥やしにしておくのももったいない。そして、ぼくは当時のSFファンダムの状況というのは、日本の文化史においてもちょっとは重要だったと思っている。その雰囲気を理解してもらう意味でも、多少の意義はあるんじゃないか。

というわけで、こんな文書:

大森望(とそれを敵視する人々)についてぼくが知っていた二、三のこと:1980 年代からの遺恨とは(v.1.3) (pdf, 500kb)

各種記述の根拠については、文中でそれなりに示したつもり。もちろんそのサンプル数が多いわけではないけれど、統計的に処理するような話でもない。でも、これに対する反証が出る余地もあるとは思う。そういうのがあれば是非ご教示いただきたい。

これに限らず、当時のファンダムの状況というのは、もっときちんと整理して記録しておくべきだとぼくは思っている。当時の各種ファンジンには、SFファンダム勢力図分析みたいなのがときどき出ていた。ああいうのを掘り出して提示しておくのも、決して無意味ではないと思う。少なくともいくつかあった大きな論争とかは。SF論争史とかいう本もあるけれど、その多くは当時の論争の当事者がまとめたりしていて、自分に都合の悪いものははずされたりしている。この文で挙げたような話は、たぶん多くの人は存在すら忘れているかもしれない。でも、そういうのがそれなりに意味を持つことも多少はわかってもらえるんじゃないか。