増田のジェイコブズ翻訳に関する記述が修正された件

2月20日に上げたエントリーで指摘した、増田悦差によるぼくのジェイコブズ翻訳に対するまちがった因縁記事が、修正された。該当する部分は削除され、その旨のコメントも最後についている。

素早い対応、感謝します。

 

一応、放置しようと思いつつも、このままだとNTT出版も可哀想かも、と思って連絡窓口に指摘をしておいたんだけれど、三日ほどで対応してくれたことになる。

 

Having said that... こうして直されてしまうとおもしろくないので、言わないままにしておけばよかったかなー。

都市って自由放任ではできないのよ

で、ついでだから中身についてもコメントしておく。増田の主張は、ジェイコブズは都市計画すべてを否定していた、自由放任の都市がすばらしい云々、というもの。

これがとっても浅はかで馬鹿な主張だというのは、都市というもの――特にここで問題にされているような大都市――を考えればすぐにわかる。

だって、高密で人が居住するためには、各種インフラ、たとえば上下水道必須ですよ。上下水道が民間の自由放任だけでできた例は、たぶんほぼないよ。井戸や、せめて浄化槽ですんでいるレベルの小さな町くらいならなんとかなるかも。でもちょっとでも大きくなれば、そうはいかない。

ジェイコブズは都市の見事な自立的秩序を示すために、「歩道のバレー」という有名な描写を使う。ジェイコブズが当時住んでいたマンハッタンのグリニッジビレッジでは、歩道を店主がはき、通勤者が使い、子供が遊び、買い物客が通り、見知らぬ人が迷子になり、それを住民が助け、あれやこれやと常時人が通って様々な活動が入れ替わりたちかわりあらわれる。それが都市の活力をうみ、そしてそれ自体が治安を守る監視装置となる。そうしたジェイコブズの描写を見て、都市の自律性に感嘆し、お役所の安易な都市計画に舌打ちしてみせるのは、まあ多くの人々の常道だ。

アメリカ大都市の死と生

アメリカ大都市の死と生

が、そこから都市計画すべてが不要だ、という結論は出てくるだろうか? はやい話が、その舞台となった歩道は自然にできたの?都市計画があったからこそその歩道が設置されたんだよ。ジェイコブズの歩道のダンスは、マンハッタンの都市計画があって、それを前提に初めて成立している。

ジェイコブズだって、その程度はわかっている。彼女は、完全なトップダウンによる計画――各種ニュータウン的な計画やブルドーザー型都市計画――に反対しているのであって、増田が言っているような公共的な介入すべてを否定してるんじゃない。

だが、ルドフスキーの賛美する非計画性は、だれも他人の行動を操作しようとせず、大衆が自分たちの都合に合わせて住むところ、働くところ、買いものをするところ、飲み食いするところ、遊ぶところを重層化させた、文字どおりの非計画性ではない。当人はそんなものがこの世にあり得るとは思っていないし、あったら自分の繊細な美的感覚にはとうてい耐えられないような猥雑な街路になるだろうと思っている。

うん、ぼくもそう思っている。それも「自分の繊細な美的感覚にはとうてい耐えられない」どころか、現代日本人の大半の美的感覚に耐えられないものになると思う。当の増田を含め。だって、実際そうなってるもの。ぼくは世界各地のスラムにもでかけている。それは「大衆が自分たちの都合に合わせて住むところ、働くところ、買いものをするところ、飲み食いするところ、遊ぶところを重層化させた、文字どおりの非計画性」の発露だけれど、決していいものではない。

ものすごく時間をかければ、そういうのもあり得るかもしれない。イタリアの一部の都市や、イスラム都市のカスバなどは自然発生的な集積から、おもしろい空間が数世紀かけてできあがってきた(ちなみにそれをがんばって指摘してきたのが、増田がけなせたつもりでいるバーナード・ルドフスキーだ)。でもそれがあらゆるところにあてはまるだろうか。ぼくはそうは思っていない。

建築家なしの建築 (SD選書 (184))

建築家なしの建築 (SD選書 (184))

「だれも他人の行動を操作しようとせず」と増田は書く。でも都市計画は、そして建築そのものは、すべて他人の行動を何らかの形で操作する行動だ。壁を作れば、それは人の動きを制限する。ドアを作れば、それは人の動きをそこに集約させる。そしてレッシグが指摘するように、それ(アーキテクチャ)はあらゆる規制制御の力中でもっとも強く、最も強引で、最も有無をいわさないものだ。その認識がない人は、建築や都市計画について語らないほうがいいと思うのだ。そういう人々のいう「都市計画」とか建築というのは、単なる意匠のことだったりする。あるいは「願わくば、人を集める「こと」が、いい芝居、感動的なコンサート、安くてうまい露店や洒脱な大道芸であって」といったような、きれいなお店とかお芝居とか、そんなのが「都市」とか「都市計画」だと思っている。

でも都市計画は、その大道芸が行われる場所をどう確保するかとか、その「こと」で集まってきた人のウンコをどうするかとか、そもそもその人々はどうやって集まってくるかとか、そういう部分の話だ。そういうものが自然にできていると思っている増田は、そもそも都市のなんたるかがわかっていない。自由放任の都市を夢想する増田は、その「自由放任」に思えるものが、実はそれまでの計画による空間その他に規定された制約の結果なんだということをまったく理解できていない。

 

これは、経済そのものについても言える話だ。自由放任すれば経済すべてオッケーなんてことがあり得ないのは、そろそろ明らかなはずなんだけどね。本当に自由放任すれば、独占、汚職、価格操作、ギャング活動、公害、その他あらゆる被害が出る。市場がきちんと機能するための制度がないと、自由放任では話が進まない。自由放任の旗をふる人の多くは、自分たちがいかに不自由かに気がつくだけの想像力がないだけで、あらゆる人が自分と同じお行儀良さを保ってくれると無根拠に想定してしまっているんだけど、そんなことはないのだ。

前に『たかがバロウズ本。』で書いた通り、お金/経済にしても、言語にしても、それはぼくたちを解放してくれるものであると同時に、制約するものでもある。建築や都市計画もまったく同じだ。ある都市にやってきて、そこが自分をちがう形で制約するのを感じる――それと同時に、その制約が別の可能性を実現させてくれることにも気がつく。その自由と不自由両方を、同時に、同じモノとして感じることが都市体験なんだけれど、増田はその不自由のほうにまったく気がついていない。

 

確かボルヘスの小話(千夜一夜物語かなんかから採ってきたと称するものだった)に、こんなのがあった(『続審問』、だったかな?)。昔、あるところに王様がいて、巨大な迷路を作った。砂漠の国のスルタンがその国を訪ねて迷路見物を所望すると、王様はそのスルタンを迷路にほうりこみ、スルタンはそこを脱出できず三日三晩さまよい、半死半生の状態で引っ張り出された。

その数年後、スルタンはその王国を襲って滅ぼし、王様を拉致する。そして、迷路のお礼に自国の迷路を体験させてやるという。王様は、砂漠の真ん中につれてこられて放置され、そのままのたれ死んだとさ。

続審問 (岩波文庫)

続審問 (岩波文庫)

迷路は、完全に人為的な計画空間だ。砂漠は、完全に自由放任の空間だ。さて、本当に自由放任がよいんだろうか?

ねじ曲がったプライドの持ち主とは:鍋が釜をなんとやら。

 なんか、うっかりこんなどうでもよいものを見て目を汚してしまったんだが……(しかも気がついてみると、これは新しい記事ですらなかった!が、内容的にはあまり時代に左右されるものではないので)

business.nikkeibp.co.jp

 こんなもの読みたくないという人のためにあらすじ:著者である遙洋子は、中年の部下の態度が悪いけどどうしようかという相談を受けています。それに答えるエピソードとして、ある番組で採られた写真5点のファイルをくれとADさんに頼んだら、依頼通りのやりかたでなかなか渡してくれず、とても苦労しました、という体験を紹介しました。それはそのADさんが質問者の部下と同様に変なプライドを持っていたせいで困ったものだけど、治らないから相手をするだけ無駄だよ、とのこと。

 で、いるんだよねー、こういうやつ。ちなみに、ここで言ってる「こういうやつ」は、文中でやり玉にあがっているADさんのことではない。さて、だれのことでしょう。

 この文章は、他人が変なプライドを持っていることで迷惑した、と言いたい文章なんだけれど、一見して変なプライドを持っているのは、実は文中の別の登場人物かもしれないという印象は抱かざるを得ない。

「テレビ業界ではアシスタントディレクターという位置は、一応、低いことになっている。」

「下働きとされるアシスタントディレクター」

この文章は、繰り返しその相手が自分より立場が低いことを強調したがる。でも写真ファイルのコピーくれ、程度の話でそもそも立場とか下働きとか、関係ないじゃん。

何人もいる番組責任者が私の楽屋に詫びを言いに来た。

しばらくして顛末をどこからか聞きつけた上司が、ひれ伏さんばかりに詫びに来た。

 目上の人が自分に詫びに来た、というのもしつこく書かれる。よっぽど自分の地位を強調したいのね。

 いるんだよねー、こういうやつ。そしてこういうやつは、往々にして相手の(自分から見た)地位次第で、ガラリと態度を変える。

 それに、普通変な対応されたら、その人に頼むのやめて他の人に頼むと思うんだけど(番組の関係者は他にもいるんだから)、遙はこのADさんに、なぜかしつこくあれこれ要求を続けた。「私はそういうタイプには距離を置き怒らない。治らないし面倒だからだ。」と書いているけど、距離置いてないじゃん。密着してるじゃん。地位を気にする人は、往々にして地位をかさにきて、しつこくねちねちやる場合もよく見かけるけど、ここでは本当はどうだったのかなあ。

 そして、その頼み方がどれほどまともなものだったのか、どうしても疑念を抱かずにはいられない一節。

家でSDカードを見て驚いた。

 変換用メディアがないとパソコンで開けないタイプのSDカードだった。

 「これがないと見られません」と、メディアチップごと貸す方法もあったのに、一切触れずSDカードのみを黙って渡すところにまだ女性の意地が届いた。

 ???それってどういうSDカード?そんな変なSDカードあるの?ひょっとしてmicroSDとかいうこと?そんなだいじな写真なら、そのSDカードを受け取った時点でわかんなかったの?

 そしてその次の「メディアチップごと」というのがまた意味不明。SDカードのメディアチップって何?ひょっとしてこれって、microSDを変換するアダプタのこと?

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 いるんだよねー、こういうやつ。自分で思いこみで物事に勝手な名前をつけて、それを他人が理解できないと怒る人。「パソコン」というのがすべて同じだと思ってる人。他の人が知るよしもない自分の環境について、当然みんなが熟知していてみんながそれにあわせた対応をするのが当然だと思っていて、その勝手なアテがはずれると、自分がバカにされたように思って怒り出す人。どっかで変な技術用語(「メディアチップ」とか)を聞きかじってきて、得意げにつかってみせてそれが通じないと(以下省略)。パソコンサポートデスクの苦労話とか読むと、これに似た逸話が山ほど出てくる。

 遙のこの文章は、このメディアチップとか「パソコンで開けないタイプのSDカード」とか書いて、読者が理解できるという想定で書かれてるんでしょ?普通は理解できないよ。この調子で頼まれたんなら、そのADさんも対応にさぞ困ったことでしょう。

 ちなみにこれがあるので、文中の50枚の写真を一枚ずつネットに上げた、という話も実際はどういうことだったのか、ここに書かれている話だけではとても判断がつかないように思う。

 結局のところ、このコラムだけから見る限り、ねじまがったプライドを持っているのは本当にこのADさんなんだろうか、それとも……ということだけが伝わってくる。ついでに、冒頭の質問者への答えにはほとんどなってない。たまに出る番組のADなら距離を置けるけど、部下はそうはいかないでしょうに。そもそもコラム全体として無内容すぎだわ。

 なんで日経ビジネスはこんな人にこんな連載させるんですかねえ。もう打ち切ったらどうです?(人がフェイスブックに今日貼っていたのを読んだので、新しい記事だと思ってしまったよ。2011年のものだった。でも上の見解は同じ。しかも連載まだ続いてるし)。

学校行ってもちゃんと勉強しないとダメよねー、というお話&日本の教育はゴミクズらしいぞ。

Science 読んでたら、経済成長と教育の関係についての論文が出てたのでちょっと紹介。

Knowledge capital, growth, and the East Asian miracle

Eric A. Hanushek, Ludger Woessmann, Science 22 Jan 2016: Vol. 351, Issue 6271, pp. 344-345 DOI: 10.1126/science.aad7796

http://science.sciencemag.org/content/351/6271/344.full

経済成長のためには国民に教育うけさせて人的資本の質を上げないとダメだよねー、というのはもう言われすぎていてあたりまえの話になってるんだけど、でも一方で、同じ年数だけ学校に通ってるのに、東アジアは奇跡の大成長で、南米諸国はかなり出来が悪い。他のところでも、あんまりうまく相関が出なくて、開発経済学の人たちはヤッベーと思ってるんだけど、でも教育とが社会や経済の発展にまったく関係ないってことも考えにくいので、そこらへん少し口ごもり気味でゴニョゴニョしてる面がある*1

それがキモチワルイってんで、開発援助に批判的なウィリアム・イースタリーは、「ほらごらん、上からの押しつけで学校作ったってだめなんだよ、開発援助で学校やってもダメなんだよ」という主張をしている。インセンティブさえうまくつければ、学校とか教育は途上国の人たちが自分で何とかするよ、という議論。でも、これまで自分で何とかしてこなかったという厳然たる事実があるからこそ援助って話がそもそも出てきたわけで……

エコノミスト 南の貧困と闘う

エコノミスト 南の貧困と闘う

で、この研究者たちは、就学年数とかじゃなくて、実際に能力テストをやってそれとの相関を見てみたらどうだろうか、というのをやった。それが以下の図。

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左は、就学年数と経済成長との相関を見たもの。同じ就学年数でも、青(ラ米諸国)は線の下にかたまり、赤(東アジア)は線の上にかたまる。

でも、右のグラフを見ると、学校通ってもちゃんと勉強しないでテスト(ここでのテストは、数学と科学のテストだそうな。具体的なデータ出所は、この論文著者たちの本に載っている模様で不詳。この論文の分析ベースらしい。はてブid:cider_kondoTNX!!)でいい点取れないようだと、経済成長には影響しない模様。テストで高い点採ってる国は、経済成長もいいよ、という話。だから東アジアの奇跡は、人々を学校に通わせるだけでなく、ちゃんとそこで勉強させてテストでいい点取れるようにしたからだったんだよ、とのこと。

正直いって(そして読者の多くもそう思うだろうけど)今さら何を言ってるんだ、という感じではある。各種テスト(IQでもいいし、大学入試でもいい)で高い点取れる人の所得が高いことは、あの『ベルカーブ』でもその他あらゆる調査でも概ね裏付けられている。就学年数とか学歴とか学校は、通常はそれ自体が目標ではなく、それが試験でよい点数というのの代理指標になってるという暗黙の前提があるから使われているだけで……

でも実際には、いろんな開発目標とかだと、就学年数挙げるとか、女の子を学校に通わせるとかいうのが目標になる。すると、学校の質はどうでもいいから形ばかり通学させればいい、ということになってしまいがち。学校の質もきちんと考えましょうよ、というお話。

当然なんだけどね。指標そのものにとらわれすぎると、変な歪み方が出て、それをさらに曲解したイースタリーみたいな極論も出てしまうので気をつけましょうというお話。

ちなみに、東アジアで唯一あまりできのよくないフィリピンが見事にこのグラフでも出来が悪いのは、さもありなんという感じなんだが、その一方で、なぜだろうね?なぜフィリピンだけこんなに低いのかね。学校の質をよくするというのは、バナジー&デュフロ『貧乏人の経済学』にも出ていたけど、なかなか難しい。インドでは、学校の狙いとしてエリート養成とか平均成績アップとかを掲げると、劣等生は無視してヘタするとどんどん退学させるとかいったことをやっちゃうから、全体の底上げが重要で、トップエリートなんかどうでもいいから、底辺の引き上げがんばろうぜ、というのを目標にすればよい、という結果が出ていたけれど、フィリピンもどうすればいいのかなあ。日本はフィリピンの学校とかにもかなり援助出してるんだけど……

貧乏人の経済学 - もういちど貧困問題を根っこから考える

貧乏人の経済学 - もういちど貧困問題を根っこから考える

あともう一つ、右のグラフを見てすぐ気になること。日本、全然ダメじゃん! ゴミクズじゃん!東アジアのブービー賞かよ!*2フィリピンの心配してる場合じゃねーや。データの出所や処理は要チェックだけど、ネトウヨ諸君、半世紀前の先人の遺業で虚勢張ってるより、現状のこういうダメなところにもっと怒りを向けようぜ!きみたちの嫌いな中韓にぼろ負けだぞ! デフレ対策もかねて、すぐに文教債券認めて、日銀が全量買い上げ!学校予算10倍増!そうでもしないと、これじゃとても景気回復しねーよ!

*1:最先端の研究者のみなさんは、「そんなのとっくに片付いてるよ!」と言うかもしれないけど、最先端の研究が現場に降りてくるまでには時間がかかるのでご容赦を。それにここで紹介した研究がわざわざ Science に掲載されるということ自体、それがまだ片付いていないという状況を示すものではある。

*2:ちがった。インドネシアのさらに下にフィリピンがいた。TNX 2 エミコヤマ。あーよかった、下から三番目なら日本も安心ね……って、そんなわけねーだろ!!

増田悦差のジェイコブズ歪曲

(2/26付記:ここで問題にしている増田悦差のコラムは、その後本エントリーを見て修正された。したがって、現在では以下のリンク先の内容はここでの記述に対応していない。元の記述については魚拓を参照。)

 

増田悦差という論者が、何やら都市計画について書いているなかで、ぼくのジェイコブズ訳にケチをつけている。

webmag.nttpub.co.jp

(魚拓:http://www.webcitation.org/6fPqVGHsC

具体的には、ジェイン・ジェイコブズ『アメリカ大都市の死と生』(鹿島出版会)のこの部分だ。

このうんざりするような泥沼は、有機体としての都市の要求と、各種の個別利用の供給との矛盾から生じるものではまったくありませんし、これ以外の都市計画上の泥沼も、そうした矛盾などから生じる例はほとんどありません。それがもっぱら生じるのは、都市の秩序と個別用途のニーズの双方と恣意的な矛盾を生じている、計画理論のせいなのです。(新訳版、199頁)

この訳文について、増田悦差はこう述べる。

悪文の度合いは旧訳と似たようなものではないかというのは、ごく個人的な感想だとしても、ジェイコブズが都市計画一般を批判する際に、訳者であるはずの山形は、執拗に「まちがった」都市計画とか、「伝統的な」都市計画とか、計画「理論」とかの修飾を付けて、本来の都市計画は立派なのだが、現在推進されている都市計画がその本来の姿を見失っているだけだという議論にねじ曲げてしまうのだ。

さて、まずこれを見ただけでも、「まちがった」都市計画とか「伝統的な」都市計画なんてのがぼくの訳文にはないことは明らかだ。ぼくがそんな「修飾」をつけたって、何のことでしょうか。本全体の訳文中に「まちがった都市計画」というのは一ヶ所もない。「伝統的な都市計画」は5ヶ所登場するけれど、すべて対応する "conventional"がついている。

また「計画『理論』とかの修飾を付けて」とある。本当だろうか?この段落の原文を見てみよう。

This tiresome muddle arises not in the least from contradictions between demands by the city as an organism and demands by various specific uses, nor do most planning muddles arise from any such contradictions. They arise chiefly from theories which are in arbitrary contradiction with both the order of cities and the needs of individual uses. (Vintage 版pp.172-173、強調引用者)

該当部分は「theories」であり、理論だ。ここで付加的な修飾は「計画」のほうで、「理論」は原文にある用語だ。増田は、原文を見もしないで、ぼくがねじ曲げていると主張する。でもねじ曲げているのはどっちだろうか?

ちなみに、増田が賞賛する黒川紀章の訳はこうだ。

「このタイプの希望のない経済に関する思いがけない事故というのは、都市においてはごく自然にあらわれてくることはほとんどない。しかし、このタイプは計画によって導入される」(1977年訳版、187頁)

さて、これが原文や、ぼくの訳文に比べてえらく短いことは明らかだろう。なぜかというと……それは、これが全然別の部分だから、なのだ。「ところが、新訳版では同じ文章が、こう訳されている」ですって? 該当部分のぼくの訳はこうなっている。

この種の絶望的な経済的事故は、都市で自然に生じることはめったにありませんが、都市計画はそれをしばしば導入します。(新訳p.189)

ここの原文は

This type of hopeless economic contretemps seldom turns up naturally in a city, but it is frequently introduced by plan. (Vintage 版p.164)

ぜんぜんちがうところを対比して、修飾してるだのねじ曲げてるだの言われてもねえ。こっちの分だと、黒川の訳文とあまり変わらないのがわかると思う(というより、ぼくの訳文のほうが意味が通るのがわかると思う)。これでも黒川のほうがいい?

黒川の訳文は、これ以外の部分でも変な歪曲、とりちがえ、金釘訳だらけだ。だからこそ、ぼくはわざわざ訳し直すべきだと感じた(ついでに本の後半をすべて省略って、そもそもありえねーだろ!)。でも、増田はそういういい加減な端折りについて何も問題を感じないらしい。そして、原文を見もせず、全然ちがうところの訳文をもとに、ぼくの訳をくさす。ちょっとなんとかしたほうがいいと思うぜ。

ちなみに、その上に展開される、バーナード ルドフスキーに対する悪質な罵倒も、実にどうしようもない代物だ。

あるいは182頁に掲載された、17世紀初頭のオールド・ロンドン・ブリッジ周辺の風景画の説明には、こういう訳が添えてある。「右端のブリッジゲイトの上に、巨大な棒付きキャンディーのように見えるのは、有名無名の人びとを記念するための人間の頭部の永久展示である。」

 これが「有名無名の犯罪者の記憶を不滅にとどめるために槍の穂先に突きたてた、斬首刑に処された囚人たちの生首である」という意味だと分かる日本人が何人いるだろうか。

何人いるかはわからないけれど、実際にp.182にある図を見ると、ある程度は見当がつくんじゃないだろうか。また、原文は多少、婉曲的な話法を使っている。ルドフスキーはそういう気取りのある人だ。その気取りをそのまま訳したところで、誤訳だの改ざんだのと言われる筋合いはない。

そしてルドフスキーが、その城壁に囲まれた閉鎖的な空間としてのヨーロッパ都市を、いかに口を極めて賛美していたかということを正直に伝えたのでは日本の読者が引くだろうとの配慮から意図的にぼかした表現だったということになると、これはかなり重大な歪曲だ。

だから原文通りなんだって。くだらん下衆の勘ぐりしなさんな。翻訳批判するなら、原文くらいあたろうぜ。ルドフスキーは、増田ごときが揚げ足取れるような安っぽい存在じゃないのだ。

増田は、とにかく自由放任主義がいいと言いたいらしい。でも、そのために無内容な歪曲をしてまわるのはやめるべきじゃないかな。ぼくがこれを知ったのは、以下のツイッターによってだった。

こうして真に受けてだまされてしまう人もいる。自由放任が重要と言いたいなら、それはそれで結構。そういう場面もあるだろう。でも、ここで引用されているものが、それを裏付ける傍証になっているとは思わない。翻訳を批判するなら、まず原文にくらいはあたるべきじゃないだろうか。

ちょっとこれ、後でこの増田コラムを掲載しているNTT出版にも問い合わせてみようっと。

....と思ったが、面白いので黙っていよう。

南たかし、いまいずこ(本当なら今は76歳のはずだが……)

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最近、何度かアデランスのCMを見たのでふと思い出した話なんだけど……

その昔、小学校時代に、うちの学級でカツラが大ブームになったことがある。といっても、別に本物のカツラをみんながつけてきたとかいうことじゃなくて、その頃急に目につくようになった、アデランスとアートネイチャー(あともう一つなんかあったような気がする)のCMにみんなが夢中になったってこと。

小学生は、そもそも「ハゲ」というだけで笑い転げるほど可笑しいと思ってた。差別はいけませんとかなんとか、きれい事を言ってくれてもいいけど、でも小学生にとっては、セックスと同じで、なんだかよくわからないけど、大人が何かそれを恥ずかしいか決まり悪いと思ってるか、とにかくあまり公然と語るべきではないと思ってあたふたしてるってこと自体がおもしろい。当時ぼくたちは小学校3年で、なんか近くのへいに「SEX」と落書きがあって、「アレ何のこと?」と尋ねると大人がもじもじする。それがおもしろくて、何のことかわかんなくても、ことあるごとにそれを口走って喜ぶ。ちょうど、ドリフの「8時だヨ!全員集合」で加藤茶がストリップの真似をして「ちょっとだけよ」と言うのが大人気だったけど、ガキはあれが何なのか全然わかってなくて、でも大人が変な反応するのでおもしろかっただけだ。

www.nicovideo.jp

で、ハゲというのもそういうものだった。けど、まあハゲの何たるかはわかる。そこへ、アデランスとアートネイチャーがやたらにCMを打ち始めた。本当にかれらのCM出稿がその頃増えたのか、ぼくたちがそれを意識するようになって、気がつく頻度が増えただけなのかはよくわからん。みんなテレビCMの真似とかで大喜びしてた。そして新聞にもかなり広告が出ていて、あるときだれかが、資料請求ってやつをすると、いろいろ詳しいものが送ってもらえることに気がついた。

そこからなんか、すさまじいことになった。これまで嫌々作らされていた学級壁新聞が、もう完全にカツラ業界発表大会となって、アデランスやアートネイチャーのパンフの切り貼りだらけ。サンクV三段増毛法、というのが当時どっちかの新しい技法で、気づかれず自然に髪の毛を増やす! おおおおおお、すげえええ! これは壁新聞で詳しく説明しなくては! アデランスのCMにはファランが出て、「Be an active man, with Aderance!」というのを最後に言うんだけど、ぼくはアメリカから帰ったばっかりで、ガキどもの中で唯一それが何と言ってるかわかったので、もう壁新聞で英語教室だ。そしてパンフに出ている、カツラで活発な人生が送れるようになりました、という各種体験談は、完全なさらし者。

で、どっちかのCMでは、仮想の利用キャラクターとして大きく出ていたのが、「南たかし、三十四歳!」というオッサンだった。

もう当時、ぼくたちはそれが死ぬほどおかしいと思って、休み時間はそれをみんなで連呼して笑いころげていた。そして授業とかで東西南北がどうしたで、「南のほうには……」なんて出ようものなら、教室中のあちこちから「南!」「南!」「南!」とひそひそ声があがり、みんなゲタゲタ笑い出して、もう怒られても全然止まらない。「高いなんとか……」なんて話でもすぐ「高い→たかし!たかし!」で爆笑で、そのまま反復すると先生が怒るもんで、しばらくすると、「南で……」と言われるとだれかが「三十四」と囁いてみんな必死で笑いをこらえる。

音楽の授業でちょうど教わっていた歌の中に、くり返しで「ランララランランラーンラーン、たーかーく、ランララランランラーンラーン、たーかーく」という部分があったんだけど、ぼくたちはそれを「ランララランランラーンラーン、みーなーみー、ランララランランラーンラーン、たーかーしー」と歌って大喜びだった。何の歌だっけ。「ピクニック」かと思ったけどちがうなあ。


ピクニック (童謡)

これはもちろん男子だけの現象で、女子は学級会で「男子は壁新聞でカツラの話ばっかりしてていけないと思います!」とか不満を述べて、壁新聞での扱いはやがてやめさせられたんだけれど、でもみんなコッソリ学校に資料をもってきては、休み時間にみんなで見せ合って大喜びしてた。

やがて、資料請求をくり返し続けたら、だれかの家にアートネイチャーから営業の電話がかかってきて、それで首謀者たちが大目玉をくらってやめさせられたんだっけ。

いや、それがどうしたわけじゃなくて、ふと思い出したってだけなんだけど。南たかしさん、当時本当に三十四歳だったんなら、今は76歳かあ。楽しませていただきました!

付記:

これを見た人がすぐ検索したんだけど、なんと、桂さんというのが本名なのねー。小学生時代のぼくが知ったら悶絶したことでしょう。

<スタッフ紹介>

ちなみに、その後某アジア国への日系進出企業の話を調べていたらカツラメーカーが出ていて、話をききに行こうとしたら、アレはヤバい業界とつながりがあるからダメーと言われた。ハゲとかカツラ使用はものすごい秘密で、その筋の方たちはそれをネタに強請るんですって。だからそういう情報のコネクションがあるとか。ホントかよ。

メイソン『海賊のジレンマ』:勢いdrivenな本。その分賞味期限が短い印象。

海賊のジレンマ  ──ユースカルチャーがいかにして新しい資本主義をつくったか

海賊のジレンマ ──ユースカルチャーがいかにして新しい資本主義をつくったか

これまでのお行儀のよい各種の活動の代わりに、新しいパンクな既存の活動におさまらない目新しい活動がいろいろ出ている! 海賊放送とか、リナックスとか、ストリートアートとか、既存のルールを無視した活動がユースカルチャーから出ている!

そういう本。で、いろんなユースカルチャーをルポ的に次々に紹介する。で、そうした動きを潰そうとするのはお互い無駄だし、規制に失敗して足下の市場を食われちゃって自滅するCD業界見ても、もっとうまいやりかたはあるから、これをどう活用するかが今後のポイントだ、と指摘する。

原著が出たのは2008年。書かれたのは少し前か。リミックスとかネットのあれこれとかヒップホップとかDJカルチャーとか、著者がすごく興奮しながら書いている熱気は十分に伝わってくる。リアルタイムで読んだら、「うわあ、すごいかも」と思ったかもしれない。が、2016年の今これを読むと「ああ、あったねえ(遠い目)」みたいなのも結構あって、熱っぽい書きぶりがちょっと鬱陶しい感じさえある。最後に、囚人のジレンマならぬ海賊のジレンマというモデルみたいなものも考えて見るんだが、思いつきの域にとどまり目からうろこではない。

あの時期の事例集としては、未だに価値を持つかもしれない。そして、方向性のとらえ方としては悪くない本だと思う。この本の中でも参照されているタプスコット『ウィキノミクス』とかの事例集みたいな扱いとしては、いまでもあり。読んで損する本ではない。

マクファーレン『イギリスと日本』:これまた産業革命の説明で、人口と疫病撃退のせいだというんだが……

イギリスと日本―マルサスの罠から近代への跳躍

イギリスと日本―マルサスの罠から近代への跳躍

産業革命はなぜ起きたか――ひいてはなぜ西洋は世界に勝ち、ぼくたちは豊かになったのか、という本はもういろいろ読んでいて、石炭の分布だというポメランツ、科学と知識の普及だという山本義隆、イギリスが実質所得が高かったからと言ったのはだれだっけ、制度が云々、金融がどうした、勤勉で生産性の高い遺伝子が広まったからというクラークとか、植民地のせいだとか、イギリスの飯がまずいせいだとか、労働者搾取のせいだとか、もうたいがいの話は聞いたような気がする。この本もその一つ。

この本のテーゼは、人口と医療というか疫病の克服なのね。この本の主張は、イギリスと日本が似たような性質を持っていることに着目し、それをもとに話を進める。

まず、イギリスと日本は島国で、だから侵略がなくて戦争が少なかった。国内で小競り合いはあったけど、その規模は小さかった。んでもって、農業を安定して営めたから、みんな飢え死にしなかった。

さらに、いろんな生活習慣とかのおかげで、伝染病が克服できた。それで、人が死ななくなった。これがまず第一歩。

で、なぜそれが人口増による資源食いつぶしと貧困への逆戻りを引き起こさなかったかというと、みんながバカみたいに子供を作らず、結婚パターンや避妊や間引きで人口成長が抑制された。で、なぜそんなことになったかというと、子供はだいたい3.5人くらいがちょうどいいよ、というコンセンサスが文化的にできていたから。バカみたいに子を増やすと生活苦しくなる、というのがみんなわかってたそうなのね。当時の農家経営とかのやり方から、最適な子供の数というのは決まっていたので、みんなそれにあわせて子供の数を抑えたんだそうな。

それで日本とイギリスはマルサスの罠を逃れました、という。

うーん。

確かにそれはそうなのかもしれないんだけどさ、マルサスの罠脱出で話が終わりじゃないでしょー。だいたいぼくは、まあまあ豊かに暮らした人々が日本とイギリスにしかいなかったとは思えないんだよね。マルサスの罠脱出というのは、しょせん程度問題でしょう。そして産業革命は?それと、人口がどんどん増えたという前半の話と、最後になって人口はそんなに増えませんでしたと言う話とがうまくかみ合ってなくて、まったくピンとこないんだよね。

本の大半は、特に各種の伝染病を日本とイギリスがどう克服したか、という話。それが本文400ページのうち200ページ。それを説明する水とか生活習慣とか排泄物処理とかの話をいろいろな資料からまとめる。それはそれでおもしろい。でも、それで何か産業革命(またはその前段)が説明できました、と言われてもあまり納得ができない。イギリスは13世紀からずっと特異で、その特異性が産業革命につながりました、というのが著者のテーゼだそうで、本書はその特異性を説明するものだというんだけど、その特異性の源が日本と共通なら、日本はなぜ産業革命起こせなかったの?

ぼくが何か読み落としているのかもしれない。読み終わったところで「へ? こんだけ?」と思って関係ありそうなところはたくさん戻ってみたんだけど。イギリスはずっと特異でした、というのは確かかもしれないんだけど、ただどの国でも、見方によってはそれなりに特異な性質を持っているはずだとは思うし、それが何か決定的だったかというのは、少なくとも本書ではよくわからない。

そんなこんなで、ぼくは本書ですごく感銘を受けた感じはしなかった。ポメランツの説明とか、科学技術の話とか、そしてグレゴリー・クラークの遺伝的な説明ですら、ぼくは説得力を感じるんだけど、本書はなんか生煮え。

大分岐―中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成―

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10万年の世界経済史 上

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