ルイ14世のバレエ、そしてmental-floss 廃刊

ぼくは無精なんで、なかなか電子媒体になじめない面がある。会社では、経費削減のため今世紀に入ってから一貫してどんどん資料を処分させられていて、昔は本棚1本もらえていたのが、半減、さらに半減とどんどん減らされ、いまやロッカー一つ。その分資料電子化すればいい、という方針なんだけど、本棚の資料はたまになんかのはずみで見るけど、電子化した資料ってよほどピンポイントで自分の求めるものがわかってないと、そもそもファイルを開くこと自体がない。PDFのOCR機能が進歩して少しはよくなったけど…… 多くの人は本の自炊とかを自慢したがるけれど、自炊したことに満足してそれを本当に使ってるのかな、とときどき思う。もちろん、ある特定分野だけにしぼった専門性を持っている人は、それですむどころか、かえって便利になる面もあるんだろう。ほとんどのトピックではある決まった資料群のペーパートレイルみたいなもんがあるのかもしれない。でもぼくは、分野不定で何がどうつながっているか自分でもわからないので、いまだに電子化した資料の活用ができずに、仕方なくでかい本棚に頼らざるを得ない。まあ歳のせいもあるんだろうけど。

そのせいもあって、ぼくは雑誌を結構紙で購読していて、その一つがぼく以外に日本の購読者なんて何人いるかもわからんくらいの mental_floss という雑誌。

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これは……何の雑誌かと言われると、トリビア雑誌と言うしかないもので、とにかくくだらない話のくだらないネタをいっぱい毎号集めてきてくれる雑誌。でも、そのセンスは非常に優れているし、「へぇ〜」指数もとても高くて、流し読みにも暇つぶしにも最適でたまに勉強になるという優れもの。このブログでも、カナダのメープルシロップカルテル&強盗ネタとか華麗なるギャツビーが戦争のおかげで20世紀を代表する一大文学作品の地位を確立した話とか、結構ネタをいただいている。

でも残念ながら、こんどついに紙媒体での雑誌は廃刊で、完全オンライン移行。うーん残念。

 

さて、その最終号に載っていたおもしろいネタが、かのフランスの太陽王ルイ14世ネタ。ルイ14世といえば、朕は国家なりの絶対君主で、ベルサイユ宮殿を建てて専制の限りをつくして鉄仮面をかぶせられて幽閉されてしまう王様として有名だけど(一部フィクションのさらにフィクション混じり)、同時にバレエ好きとしても知られていて、自分でもバレエをバリバリにたしなんでいた。で、通常はこの政治的な面と、バレエ好きの面というのは別個のものとして扱われるんだけれど、実はこの両者は(そしてベルサイユ宮殿も)密接に関連してるんだそうな。

まずルイ14世は、即位までに貴族どもの反乱とかで大いに苦労してきた人物だった。だから即位後は、いかに自分に権力を集めるか、さらに貴族どもにクソ生意気な真似をさせないためにはどうしたらいいのか、というのが最大の課題だった。

そのためのツールが、バレエだった。

ベルサイユ宮殿というのは、単に宮殿ではない。その大きな狙いというのは、貴族どもを所領から引き離して、そこにほぼ常駐させるということだった(参勤交代みたいなもんね)。そうすりゃ反乱の陰謀とかはめぐらしにくくなる。そして、常駐させても貴族同士で密談とかを始められると、これはこれで不都合だ。そこで出てきたのがバレエだ。

それまでも宮廷で踊りとかは当然あった。でもそれは踊りというよりは、単に並んで歩く程度の特に修練の必要ないものだった。でもルイ14世は、バレエを自分でも実にハードにたしなみ、そしてちゃんと踊れないやつはそれだけで社交界(=権力界)で成功できない仕組みを作り上げた。それ以外にも、ベルサイユ宮殿内は変なタクシーみたいなお輿システムみたいなものがあって、王家以外は専用の輿を持てず宮廷内移動も流しの輿がやってくるのを待たねばならないとか、変なプロトコルが山ほどあった。これはすべて、貴族どもにそういうくだらない儀式に没頭させておけば生意気なクーデターを企てたりできない、というルイ14世の統治思想に基づくものだったんだとか。

そしてもう一つ、ルイ14世にとってバレエは肉体鍛錬の手法だった。かれがバレエで鍛えた脚を自慢する肖像画は有名だ。

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でもこれは単にバレエマニアのフェティッシュではなく、かれは絶対君主としての自分の権力が、自分のすばらしい肉体から発するのであるという思想も持っていた。バレエ脚はそのシンボルだったんだって。だから毎日、その脚の調整には余念がなかったとか。

かくてルイ14世は、貴族どもを忙殺するために自分も出演するバレエ舞台を作り、最後に権力の象徴たる肉体を持つ太陽として舞台に降臨し……

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もちろん、ルイ14世が本当に美的センスのある超人的な人物だったのはまちがいないこと。かれは本当にバレエが好きだった。ついでに言うと、いまフランスがファッション大国なのも、まさにこのルイ14世の権力構造と一体化した審美眼の産物だ。ファッション産業をフランスに創り上げたのは、ルイ14世と、その宰相コルベールだ。そして産業だけでなく、市場も創り上げた。宮廷では最新鋭ファッションを身につけねばならないというお触れを出し(もちろん貴族どもの雑務はこれで増える)、人々がファッションに注目してそれを買う必要性を生み出した。ついでに、シーズンごとにファッションを作らせて、それをカタログにして内外に売り出すという、いまのやり方の大本を創り出し、ファッションをフランスの一大輸出産業に仕立て上げたのもルイ14世なんだそうな。へえ〜。

mentalfloss.com

いや、もちろんその筋の方には常識なのかもしれない。さらにこんなこと知っててもどうというわけではないんだけど、すべてが権力掌握に奉仕すべく構築されていたというのが非常におもしろくて。こういう小ネタ仕入れる先が減るのはなんとも残念でありますよ。

『ロデリック』: これ……読んだことあるなあ。

 柳下毅一郎の労作『ロデリック』@スラデックがしばらく前に出て、これはまあ義務として読まねばなるまいよ、と思っていて、やっと数日前にとりかかったところ。

ぼくはスラデックのよい読者とはいえなくて、つまみ食い的には読んでるけどすごい強い印象があるわけではない。柳下が確か『蒸気駆動の少年』解説かなんかで書いてたけど、天才なのにその才能をすごくくだらないことに無駄遣いしている、という感じで、しかもその無駄の方向性がぼくとはちょっとちがって、くだらない中に重要な論点を隠すというよりは、とにかく無意味にくだらなくて、重要な論点とか批評的な観点は至る所にあるのに、それがなんかかみ合わないというか。

この『ロデリック』も、原著はすごく評判よくて、読もうと思いつつ読まずにいた……と思っていたんだけれど、今回邦訳を読み始めると、小ネタにやたらに既視感ある。大学の占星術講義とか、ユング経済学とか、アラブっぽい王さまの人権デモ隊虐殺とか、殺し屋が「中国人のジジイはカンフーやってるから先に殺さないと」と言うところとか。あれ、これって読んでたっけ?

なんか最初のほうだけ読んで読み切らなかったパターンかな?それにしては、円城塔が解説で挙げているような立派なネタの記憶はまったくなくて、いちばんくだらないところしか記憶にないのはとても悔しい感じ。肝心のロデリックくんについての記憶は一切ないんだよね。このまま読み進むうちに、なんかプチマドレーヌ体験みたいなのでいきなりこの本の全貌が記憶の中に浮上したりするのかも。

でもそれが、かつてアレクサンダー『時を超えた建設の道』のときみたいに「そうだ、これは読んであまりのダメさかげんのあまり怒って読んだことすら抑圧していたんだった~」ということにならないといいなあ。

ラスコー展とニコラス・ハンフリー

ぼくはニコラス・ハンフリーの『獲得と喪失』が非常に気に入っている。基本的なアイデアは、人間は何かを失うことで何か新しいものを獲得し、進歩してきたというもの。たとえば、人は文字や記録を発明するのと前後して、本を丸ごと記憶できるような記憶力を失う。それは小さな退歩だけれど、でもそれによりみんなが記憶を共有できることで、人類としては大きな進歩につながる、というわけ。

喪失と獲得―進化心理学から見た心と体

喪失と獲得―進化心理学から見た心と体

あるいは、人間が美男美女だけにならないのは、醜男やブスが異性を得ようと努力するからだ。その結果、人類は進歩する。人間が超天才ばかりにならないのは、バカが相談しあうほうが社会が構成されやすく、人類の生存に有利だからだ、というわけ。ぼくはこれに感心して、CUT朝日新聞でほめてきた。

で、その論拠の一つが、ラスコーの壁画だった。クロマニョン人のあの有名な壁画は、ハンフリーに言わせると自閉症の天才的な絵と似ている。そうした絵は、奇妙なまでに写実的なんだけれど、それを他人に見せるとかをまったく意識していないものだ。見たままをほぼ反射的に写しているだけ。でも、そうした自閉症児は言葉を獲得すると、その画才を失う。当時の人類の精神状態もそういう水準だったのではないか? あれは芸術性や社会性を示すものではなく、むしろそれがなかったからこそああいう絵ができたのでは、というわけ。

で、ぼくは「なるほど」と思っていたんだけれど……

いま上野の科学博物館で、「ラスコー展」をやっている。ぼくは 3万年前の航海 徹底再現プロジェクト というのにクラウドファンディングで寄付したので、これをそのプロジェクトの海部さんの解説つきで案内してもらえた。で、たいへんおもしろかった。

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特別展「世界遺産 ラスコー展 ―クロマニョン人が残した洞窟壁画―」(2016年11月1日(火)~2017年2月19日(日))-国立科学博物館-

でも、この展覧会を見るとどう考えても、これは自閉症とかの絵とはまったくちがう。まずそもそも、あのような壁画を真っ暗な洞窟の中で描く作業自体が、何らかの社会と絵を描く準専門集団を必要とする。さらにその絵も、ちゃんと構成もあり、視点もあり、またデフォルメとスタイルもあり、ハンフリーが述べていたような代物では絶対にあり得ない。それはもう、素人が見ていてもわかる。ハンフリーの本でのように、ある一部だけ取り出せば、確かに自閉症の絵と似たところはある。でも一歩でも引いて全体を見れば、少なくともその背後にある精神の在り方はかなりちがうのは明らかだ。

というわけで、ハンフリー説の信憑性がかなり揺らいだ、というかラスコー壁画の部分については、決定的に崩れてしまいましたよ。

というので、海部さんに「なんかハンフリーという人がいて、自閉症と似てるとか言ってたけどまったくそういう感じでは……」と言ったら即座に「ええそうなんです。まったくあんないい加減な話がそもそも紹介されること自体迷惑なくらいで、実際の絵を何も見てないですよ、あれは」とものすごい強い口調で言われてしまいましたウヒヒヒ。いっしょにいた佐藤さんも「心理学とかの人は、昔の人は今より劣っていて発達段階をたどる、みたいな考え方を何にでも適用してしまうから……」とのこと。

うーむ。そうか、一応そういう方面でも知られてはいて、論難されていたのねー。

ということで、ハンフリーの説は今後、かなり割り引いて考えねばならないなあ、というので大変勉強になりました。ついでに、これまたぼくの好きなアンリアンドレ・ルロワ=グーランが、ラスコー壁画については変な哲学論を持ち込んでしまい、研究史の中では重鎮ながらむしろまともな研究を停滞させる面も大きくて必ずしも絶賛でないとか、いろいろ。

身ぶりと言葉 (ちくま学芸文庫)

身ぶりと言葉 (ちくま学芸文庫)

世界の根源―先史絵画・神話・記号 (1985年)

世界の根源―先史絵画・神話・記号 (1985年)

そんなわけで、ラスコー展は非常におもしろいので、是非ごらんあれ。ぼくみたいに、変な周辺予備知識なくても、絵そのものの面白さで十分楽しめます。それと、クラウドファンディングはいろいろ御利益もあるし、是非是非お試しあれ!

「国際経済学」サポートページ

クルーグマン国際経済学 理論と政策 〔原書第10版〕 ハードカバー版

クルーグマン国際経済学 理論と政策 〔原書第10版〕 ハードカバー版

10月刊行予定のクルーグマン、オブストフェルド、メリッツ『国際経済学』にはオンライン補遺があるので、それも訳してついでにサポートページ作ったでー。オンライン補遺の原文と翻訳を対比すると、どんな翻訳になってるかはわかると思う(別にそんな変わった訳にはしてないけど)。表紙写真はまだ原著のもの。日本語版のもできてきたら、差し替えます。

クルーグマン、オブストフェルド、メリッツ『国際経済学』日本語訳サポートページ

しかし、html5 に移行するほうがいいのかなあ。まあどうせぼくみたいに文字ばっかりのサイトだとあまり関係ないんだけど。

付記:原著版元からの要請で、オンライン補遺そのものは出版社サイトだけに置くようにとのこと。そういうことで、こちらのサイトからは外しました。出版社サイトができたらリンク張り直します。(張り直し完了。本自体は12月刊行になったそうで)

Obstfeld はやっぱオブストフェルド、だってさ。

一部の方はご存じだろうけれど、こんな本の翻訳を終わっていま怒濤のゲラ直し中なのだ。

クルーグマン国際経済学 理論と政策 〔原書第10版〕 ハードカバー版

クルーグマン国際経済学 理論と政策 〔原書第10版〕 ハードカバー版

で、ご存じの方は当然ご存じだろうけれど、これは題名にもかかわらず、クルーグマンの単著ではなく、Krugman & Obstfeld の昔からの名教科書で、しかも今回の第10版はそこに Marc Melitz も入っているという豪華な布陣。クルーグマンは、比較優位とヘクシャー=オリーンだけにとどまらない、規模の経済と多様性選好も貿易の原因となることを定式化した、新貿易理論の創始者だし、メリッツはさらに、それまでの国レベルでしか描けなかった貿易理論を、企業の異質性とそれによる産業の生産性向上が貿易の源泉になることを定式化して、企業レベルに(やっと)落とした、新新貿易理論の創始者。しかも、結構面倒なこの新貿易理論と新新貿易理論を、入門(よりはちょっと上)の教科書で、簡略化しつつも手を抜かずに説明しきっているという、なかなかの力作。新新貿易理論をそれなりに説明してる本は、日本ではいまのところ田中鮎夢の本くらいじゃなかったっけ?その意味でも画期的。

(付記:若杉『国際経済学 第3版 (現代経済学入門)』(岩波書店) もかなり詳しく触れてることにその後気がつきました)

そしてもちろん、貿易編だけでなく国際金融をあわせて論じているのがこの教科書の大きな売り。これまた、ここ数年の金融危機、ユーロ危機のおかげで、本当に重要な時事トピックになり、それを理解する理論的基盤として完璧。その部分を主に担当しているMaurice Obstfeld は、去年からIMF 主任エコノミストさまであらせられる。すげー。

さてこれまでの版も邦訳はあったんだけれど、必ずしも翻訳に恵まれなかった面はある模様。あと、原著の版元ピアソンの日本での体制があれこれ動いて混乱したとばっちりも受けている。もったいない。ということで今回満を持しての邦訳。翻訳も万全。まあ嫌う人もいるだろうけど、それはあくまで趣味のレベル。意味のとりちがえや構文ミスはほぼないはず。

で、出すに当たって、クルーグマンとメリッツは問題ないんだけど、問題はObstfeld. これ、これまでの邦訳だとオブズフェルドと表記されてたんだけど、オブストフェルドだろうという人もいて、はっきりしなかった。

で、はっきりしないのは嫌いなので、白黒決着つけるべく、当人にメールいたしました。が、天下のIMF主任エコノミスト、返事くるわけねーよな、と思いつつ。

ところが……きた!!!!

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いやあ……それも即答レベル。驚いた!

うれしい一方で、天下のIMF主任エコノミストでしょ??!! 即答って何?しかもこんなどこの馬の骨ともしれぬやつの、ホントどうでもいいメールに? ひょっとして実は暇?

……なーんて、そんなはずなくて、欧米の先生方は昔のノビーとの生産性論争のときもそうだったけど(あとその後、レヴィットダブナーが話題にしてたトーマスシェリングのくだらないトリビアを本人に確認したときもそうだけど)、みんなホントに親切で、きちんと聞くときちんと答えてくれるんだよね。すばらしい!

ということで、オブストフェルド、がご本人の選好ということで、それにあわせます。でもこういうくだらない話でも、日々不明点は明らかにしていこうぜー。人を煙に巻いて小銭貯めるのはやめようぜー。

Frankfurt, <i>On Truth</i>: やっぱウンコというのが入ってるのがまずいってことなんだろうか。

拙訳で邦訳された『ウンコな議論』の続編とも言うべき本が出ていて、諸般の事情でやっと最近読みました。で、アマゾンにレビューを書いたら……掲載できないって。何もまずいことは書いてないと思うんだけど、察するにレビューを判定するAIが、「ウンコ」に反応してはじいたんだと思う。他に仮説あれば是非!

On Truth

On Truth

ウンコな議論続編:なぜ真実は重要なのかを改めて論じた本

On Bullshit (邦訳ウンコな議論)が意外なベストセラーになったフランクファートが、続編を書いた。ウンコな議論はウソよりひどい、ウソは真実を前提として、それを歪めることで利益を得ようとするから一応真実にそれなりの重きを置いている。でもウンコな議論はそもそも真実かどうかはどうでもいい、情報量がない雑音でしかないので、その蔓延は真実の価値を貶める、というのが前著の議論だったけれど、それに対して「真実なんかないからそんなのどうでもいい」というポモな人々からの批判があったそうだ。それを受けて、改めて真実は重要なんだと力説した本。結局、自分自身をはっきり省みて己にとっての価値や意義を見つけるのが重要というのがフランクファートの全哲学の基本だけれど、ある程度の客観性を持つ真実がなければ自分自身を理解することさえできない。真実はないとかいう主観論や相対主義は、部分的に白黒つけにくい部分もあるという話を必要以上にひきのばした無益な極論にすぎない。「真実は事実とはちがう」などと妄言を述べる連中も同罪。真実を重視し、自分の何たるかを見つめ直そう! というのが主張となる。日本の新書くらいのサイズに大きな字でページ数も実に少なくて、通常の論文1本にも足りないくらいの長さなので、コスパ的にどうか、とは思うけれど、手軽に読めて奇をてらわず変な時事性に色目も使わない、王道をいく哲学書です。

参考:

ウンコな議論

ウンコな議論

フエンテス『テラ・ノストラ』:英訳で読んだときと感想は同じ。力作だけど(それ故に)アナクロ。

http://honto.jp/netstore/search_10%E3%83%86%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9.html?srchf=1honto.jp

なんと、カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』の日本語訳が出てしまった! 出る出る詐欺にはひっかかるまいと思って英訳版を読んだ身としては、もう少し待てばよかったか、と悔しい思いもある一方で、それがもう数年前だしあのとき読んでおいてよかったという気もする。

さて、ご記憶の方はご記憶だろうけれど、ぼくの『テラ・ノストラ』に対する評価は、決して高いものではない。詳細に関しては以下を参照してほしい:

cruel.hatenablog.com

簡単にまとめると、以下の通り:

  • 力作なのはまちがいない。長さといい密度といい。
  • でもその長さと密度(そしてそのために必要とされる構築性)こそが、本の主張を裏切っている。
  • 本で表明されたイデオロギーは単純で、秩序を指向する現代文明にメキシコ/スペイン文化の神話や芸術を対比させてアウフヘーベンさせようというもの
  • でもその現代文明=進歩重視=秩序化=すべて固定する不毛という認識自体おかしい。だって進歩するって、固定しないってことだよ?
  • それに対する神話/芸術の力みたいな話も、きわめて退屈で妥当性のない代物。
  • しかもそのイデオロギーを説明しすぎて、小説としての広がりが犠牲になっている。

テラ・ノストラの原書が出た1975年――つまり執筆時点ではオイルショック前だろうね――では、米ソ冷戦構造が圧倒的に強くて、そのベースとなっている資本主義/社会主義とその根底にある進歩主義史観みたいなのがドーンとエスタブリッシュメントとしてあった。だからそれに対する土着主義とか反進歩とか神話とか芸術とかいうのをいっしょくたにして、オルタナティブな選択肢でございという提示の仕方には、それなりの説得力があったんだろう。ヒッピー運動も、そんな整理されない思想/指向のごった煮だ。

でもまさに本書が出たときに、オイルショックと公害問題に伴う経済後退で状況は変わってしまった。そして変な土着崇拝やドジン信仰の問題点、神話=宗教が実はやばいカルトのたまり場であること、その他フエンテスがいっしょくたにしていたものが、実はいっしょくたではなく、そんなにありがたいものでもないことがわかってきてしまった。その時点で、たぶん本書のような小説のそもそもの存立根拠はなくなったんじゃないか。

長い小説なので、そうしたイデオロギー面がなくなっても、見所はある。ただ本書の場合、そのなまくらなイデオロギーがこの長大な小説の骨格を構築しているので、それが成立しないと、もうぐずぐずになってしまう。冒頭と最後の部分はとてもかっこいい。でもその間の部分は……

もう一つ。解説にもあるけれど、本書で(いやこれまでの各種の著作で)フエンテスは、唯一のただしい読み方に対する多様で異質な読み方というのを称揚してみせる。途中で、主人公格の一人が、グーテンベルグの印刷術の話を伝え聞いて「そんなもので万人が本を読むようになったら、みんなが勝手な読み方をして、唯一の正しい読み方が台無しになってしまう」と懸念するところがある。フエンテスは、みんなが読んで、みんなが書くような状態を『セルバンテス、または読みの批判』でしている。

でもその異質な読み方ってなんだろうか。本書だと、それがエログロスカトロ奇形両性具有、風刺に茶化しになるんだけれど、それが必ずしも豊穣さにはつながっていない。むしろオルタナティブ文学とか実験小説とか言われるもののワンパターンになっていて(例:ウィリアム・バロウズ)、もはや異質であることの均質性みたいなものになっている。それが何かパワーを持てているかというと、ぼくはそうは思わない。本書の解説では、『テラ・ノストラ』の中で、実は高潔な騎士であるはずのドンキホーテが女衒の手引きで、清らかに崇拝するはずのドゥルネイシアドルシネア姫を手込めにしちゃったんだぜ、という話が出てくるのを見て、それが異質な読みだという。ふーん、そうなんですか。でもそれがどうしたんですか?

フエンテス以外でもそうだ。たとえばテロにあったシャルリエブドという風刺雑誌があるけれど、襲撃されちゃったもんで、なにやら立派な風刺で高度な言論であるかのような言われ方になっている。でも、実際はレベルが低いし、その風刺も大したことはない。むしろ、それを襲撃した連中の、「異質な読み」なんかいっさい認めない文字通りの「正しい」読みにこだわるやりかたのほうが、えらく衝撃力を持つようになっている。そのほうが、いまの世界のあり方に対する批評性を持ててしまっている。

(ぼくはこの点は重要だと思っていて、いまアーティストとか名乗っている人たちはこれをよく考えてほしいと思っている。ちなみに、原理主義の人たちは、批評性を持とうとしてイスラム国をやってるわけじゃない。だから批評性というのは実は作品の問題ではなく、受け手の問題なんだというのもわかる。がそれはまた別の話)。

だから『テラ・ノストラ』は、ある意味で20世紀的な新しい小説のありかたを完全に、しかも実に見事な形で実践した小説ではある。現代社会批判、その背景にある進歩思想批判、「正しい」読みに変わる異質な「読み」と「書き」。パロディ、引用に本歌取り、言葉遊び、小説内小説、時間の倒錯、猥雑な語り口、著者と読者の融合と可換性。でも、それをほぼ完璧にやったがために、本書はその限界をすべて引き受けることになってしまった。そして、20世紀的な新しい小説が前提としていた20世紀の社会が変容したとき、そうした時代認識とそれに結びついていた「技法」は、宙に浮いてしまい、いわば無駄な力作になってしまったんだと思う。

それでも、再読してぼくは、この小説にまだ救える部分があるんじゃないかな、という印象も受けた。なんかまだ整理しきれないので、これはまたいずれ。