Amazon救済 2010年分 4

温暖化対策は排出削減以外にもあるし、そのほうが効果も高い!, 2010/11/22

Smart Solutions to Climate Change

Smart Solutions to Climate Change

おもしろい! これまでコペンハーゲン・コンセンサスは、世界の多くの問題対応政策(栄養失調対策、貿易自由化、汚職対策、温暖化対策)の費用便益を一流学者の分析に基づいて比較し、ランク付けしてきた。

 その中で温暖化対策はいつも最下位だったが、あれこれ関心を集めているテーマなので、今回は温暖化対策だけに焦点をしぼっている。でも温暖化対策は(一部の不勉強な人が思っているのとはちがい)炭酸ガス排出削減以外にもいろいろある。今回は、各種の温暖化対策を比較して、何がいいかを見ている。

 炭酸ガス蓄積技術や太陽光を遮る技術の導入、ディーゼル排出や途上国の薪ストーブの改善(この二つは煤を出し、それが太陽熱を吸収して温暖化を促進している)、メタン削減(メタンは炭酸ガスに次ぐ温暖化ガス)、適応技術促進、途上国への技術移転、炭素税(つまり排出削減)が比較検討されているけれど、有望なのは適応対策と炭酸ガス蓄積研究、次いで途上国への技術移転や薪ストーブ&ディーゼル改善。炭素税(排出削減)は最悪で、厳しくすればするほどひどさも急増。

 温暖化やばい–>だから排出削減を、という単細胞な(そして有害な)発想を捨てて、対策オプションを総合的に考えてきちんと評価しようとする立派な試み。他にもっと有意義な対策があるのに、なぜぼくたちは排出削減にばかり血道を挙げているのか、よく考えてみよう。結果が気にくわない人は(もちろん)いるだろうけれど、そういう人は独自の評価をしてみるべきだろう。ちなみに本書は、かつてロンボルグをナチ呼ばわりしたIPCCのパチャウリ議長すら賛辞をよせている。

歴史的資料としてはおもしろいが、スターリンが実践して失敗した内容であることには留意すべき。, 2010/10/26

永続革命論 (光文社古典新訳文庫)

永続革命論 (光文社古典新訳文庫)

 トロツキーの主著の一つだが基本は簡単な話。永続革命とは、世界中が共産主義化されるまで革命を続けましょうという話で、そのために工業化と集団農業をどんどん進めようというような話だと思えばいい。本書はそれをトロツキーが熱っぽく語るが、内容はいままとめた程度。

 さてトロツキーは世紀の悪人スターリンに執拗に攻撃されたので、トロツキーの理論こそはスターリンの真逆、社会主義の理想を体現するものだ、といった妄想は多い。だが実際に何が起きたかを見ると、その見方はかなり眉唾もの。

 たとえばトロツキー時代のソ連は革命の国際展開を狙って性急にドイツの社会主義化をそそのかし、ローザ・ルクセンブルグとリープクネヒトを犬死にさせ、ポーランドに侵攻しては撃退されている。当時のソ連もまだ国力がなく、自国経済再建に注力するのが正解で、スターリンらの一国社会主義はそれなりに正当性を持っていた。

 またその後スターリンコミンテルンを通じ世界中に共産主義を広め、工業化もコルホーズも、5カ年計画でガシガシ推進した。実はスターリンの政策は、本書の主張とかなり似通っている。本書の主張は実はすでに試されて失敗済みであることはお忘れなく。

 「自らが発見した理論と法則によって権力を握り(中略)その理論と法則ゆえに最大級の異端として、もろとも歴史から葬り去られたトロツキー」とあるけれど、こういう見方自体が理論の些末な重箱の隅に拘泥する内ゲバ左翼の論法。スターリンは理論的に対立したからトロツキーを排斥したわけではなく、単に権力闘争のライバルだったから潰しただけ。理論がどうこうなどというのは後付の言いがかりにすぎない。それを考えずに「理論」をつつきまわすのは不毛。それを忘れなければ、歴史的なアジ文献としてはおもしろい。訳は普通。また、おまけの他のエッセイも一読くらいには値する。が、現代的な意義はあまりない。

自伝前半、楽しく血湧き肉踊る革命家立志伝編。訳は直訳でお固め。, 2007/11/28

トロツキーわが生涯〈上〉 (岩波文庫)

トロツキーわが生涯〈上〉 (岩波文庫)

自伝前半の本書は、トロツキーの子供時代から社会主義運動への傾倒(高校時代に活動を始めたんですねえ)、そして各地での地下活動から投獄を経て、ロンドンのレーニンに会い、あれやこれやでカナダでボリシェヴィキ革命の報を聞くあたりまでの話。もちろんその後成功するのはわかっているので、何をやるのも予定調和的にいい解釈で、社会的不正への怒りから英雄的な革命運動への参加、という克服と勝利ののぼり調子のプロセスが述べられ、なかなか読んで楽しい、革命家立志伝ともいうべき部分。

翻訳は、よくも悪しくも愚直。流麗ではなく直訳的な処理が行われており、このため特に慣用表現などで意味のとりにくい部分が出ている。たとえば「ベンサム功利主義は、人間の思想の最後の言葉のように思えた」(p.209)なるなんだかよくわからない訳は、英語などでも使われるlast word on … といった表現の直訳。これはそれ以上の反論が不可能な決定的議論という意味なので「人間の思想の決定版」とか「人文思想としてまったく疑問の余地がないもの」とでもするべき。「敵はあらゆる陣地を保持した」(p.198. 敵はまったく無傷に終わった、くらい)や「(子供時代の)雰囲気と、私がその後の意識的生活を過ごした雰囲気とは、二つの異なった世界であり」(p.30, まったくの別世界であり、くらいの意)など、原文を類推して再変換しなければならない部分が多い。ただし、それができる程度の精度は確保されており、そんなに異様なレトリックが駆使されているわけではないこともあって、慣れてくればそんなに気になるほどではない。

また佐々木力の解説は、2000年の時点でまだレーニン万歳の旧態然とした古臭い左翼感をむき出しにしているのは失笑ものではあるが、本書の位置づけや旧訳についてのコメントなど、役にたつ情報も少しは入っている。

(下巻に続く)

トロツキー自伝、下巻では十月革命とその後。自己弁明が鼻につき、歴史的背景の知識は必要。, 2010/10/25

トロツキーわが生涯〈上〉 (岩波文庫)

トロツキーわが生涯〈上〉 (岩波文庫)

(上巻から続く)

 トロツキー伝後半は、革命前夜から。トロツキーはレーニンの右腕として獅子奮迅の活躍を見せ、十月革命を成功に導き、その後のソ連の体制作りに乗り出しつつスターリンとの権力闘争に敗れて追放される。上巻のような爽快さはなく、自分こそはレーニンの正当後継者であり、スターリンの言ってることは全部ダメ、という訴えが鼻につくようになる。

 だからもう、レーニンがいかに親しくことばをかけてくれて、意見がいつも同じで、自分を信頼してあれこれ任せてくれたか、という自己PRがものすごくしつこくなる。またこの伝記は、スターリンによる反トロツキーキャンペーンの真っ最中に書かれたので、「ここについてのナントカいう批判があるがそれは出鱈目で実は云々」というような記述がたくさん出てくるが、いまだとそんな批判はだれも知らず、読みにくい。そしてもちろん、先に進めば進むほど、自分がいかに不当にソ連指導部から追い出されたか、オレが正しくスターリンがダメか、という弁明まみれになり、上巻のすっきりした正義の革命家像がだんだんぼけてくるのは残念。ノイズが多いので、十月革命からNEPに至るおおまかな歴史を知らないと、かなりわかりにくい。記述は勇ましく楽しめるものの、またクロンシュタット反乱の弾圧など自分にとって都合の悪い話は流しており、多少我田引水の記述が多いことは念頭におくべき。

 なお翻訳は、上巻と同じで愚直ながら普通。解説で、訳者は旧訳からの改善点を挙げている。が、筆頭に来るのは「ウェストミンスター」というのが寺院でなく議事堂のほうだというもの。本質に関わる重要なミスではなく、単なる些末なかんちがいでしかない。改訳点として真っ先に挙げられるのがこの程度のものだとすると、わざわざ改訳をする必要が本当にあったのか疑問に思わずにはいられない。翻訳については藤井一行氏による批判も参照。

事実は小説より奇なり。勉強にもなります。, 2010/10/7

 一読して唖然。本当に小説より奇なりで、もし小説家が、投資銀行格付け機関も保険会社も銀行も、自分の扱っている商品について何一つ知らないでそのまま世界経済が崩壊する、なんて小説を書いたら、そんなバカな設定があるか、とせせら笑われたはず。それが実際に起きてしまったという驚愕の事態を実にうまく書き上げている。

 また、勉強にもなる。実は本書を読むまで、クレジット・デフォルト・スワップの仕組みって知らなかったんだよね。本書はそれをいとも簡単に説明。正直いって、これまで読んだ新聞雑誌等でのCDSの説明も、たぶん実はよくわかってないやつが書いていたことが本書を読むとよくわかる。

 でもリーマンショックサブプライム関連の関係者のひどさを書いた本は多いけれど、本書が他の上から目線の「貪欲な投資銀行が悪い」「拝金主義の経済が」といった知ったかぶりの後付批判本とちがうのは、そこに皮肉な人間ドラマがあること。本書のヒーローたちはみんな、当時のサブプライム融資やそれを使った金融商品のひどさを知り、世間の流れに公然と反旗を翻し、白い目で見られる。でもかれらの正しさが証明された後でも、やっぱりかれらは孤独なままで、賞賛されることもないし、儲けさせてあげた人々からも感謝もされない。単純な「正義は勝つ」ではすませていないところが、本書の奥深さ。よい本です。

なお、カバー見返しの訳者の略歴は笑えるのでご一読を。東江一紀は優れた翻訳者で本書も実にうまいが、これはさすがに……

1724年版をスキャンしてそのまま本にしたもの。, 2010/8/30

有名な海賊たちの行状を記録した、1724年刊行の有名な本を、そのままスキャンして画像のまま本にしたもの。スキャンの質はまあまあだが、もとの本がぼろぼろだから版面の質はそこそこ。古い本の版面がかすれていたりするのは、ちょっと味わいもあってよいけれど、それを真っ白いきれいな紙でやられると俄然みすぼらしくなる。Doverなどの廉価版もあるし、普通にいまのフォントで組み直したものも出ている一方、こちらはかなり判型も大きくて分厚いので、少し特殊なニーズのある人向け。

本自体は大変におもしろく、各種の海賊物語のネタもと。

批判対象とされるものが、本当に主流の見解なのか疑問が残る。, 2010/8/10

毛沢東と周恩来―中国共産党をめぐる権力闘争 1930年~1945年

毛沢東と周恩来―中国共産党をめぐる権力闘争 1930年~1945年

 中国共産党の公式な歴史では、1935年の頃までにはコミンテルンの息のかかった、モスクワ帰りの博古や王明らの帰還学生組がコミンテルン28人衆として権力を握っており、それが王明路線として毛沢東の路線と対立していたことになっているそうな。それが遵義会議において一挙に逆転して毛沢東路線が支配的になり、王明路線/コミンテルン28人衆は失脚した、というストーリーが主流とのこと。

 だが本書は、それが矛盾だらけでまちがっている、という。コミンテルン28人衆なんてがっちり固まった組織はなく、遵義会議の後で失脚したのは、博古/オットー・ブラウン/周恩来トロイカ体制でしかなく、毛沢東に対する異論はたくさんあり、毛沢東派とされる康生は実はもともと王明&周恩来寄りで等々。そして、王明路線とされたものは実は周恩来の路線だ、というのが本書のタイトルにも出ている主張となっている。

 全体に非常に学術的な研究で、ある特定の細かい論点についての検討なので、歴史の細部に関心がない人は特に読む必要もない。そしてそれ以上に、本書で批判されている見方というのは、本当に主流の見方なのか、というのは素人ながら疑問。というのも、本書の刊行は2000年だが、その一年前に出た一般向けのショート毛沢東 ある人生においてすら、そんな28人衆は出てこないし、失脚したのがトロイカだということも、康生の鞍替えについても明記されている。そして遵義会議で博古やブラウンらコミンテルン勢など問題外で、その本質が毛沢東周恩来の対決だったことも指摘されている。この伝記は研究書ではなく、著者の勝手な思い込みで書かれたものでもない。通説に反する解釈についてはその旨断りがある本だが、これらの点については一切そうした断りもない。

 その伝記でも著者の遵義会議についての記述は非常に信頼できるものとされている。だが本書の批判対象となっている議論というのは、本当に主流の意見だったのかどうか、いささか疑問が残る。

Amazon救済 2010年分 3: 虹色のトロツキー

満州トロツキーがいたら…, 2010/7/20

 ソ連革命関連の本を読んでいて、トロツキーの伝記マンガかと思って手にとったら全然ちがった。  トロツキーはメキシコに亡命する前に、スターリンに左遷されて現カザフスタンのアルマタイにいたことがあった。そのとき、国境を越えて関東軍支配の満州に入り込み、日本軍と接触したのではないかというアイデアを発端として構想されたストーリーとなっている。その後も実はトロツキーはロシアにとどまったのではないか?

 全体のストーリーは、Wikipedia を参照するとよい(とてもよくまとまっている)。一巻は、家族を虐殺されて記憶を失い、かすかにトロツキーらしき人物のおもかげだけを覚えている日蒙混血の少年が、満州石原莞爾肝いりでできた建国大学に編入するところから。石原は建国大学の講師としてトロツキーを招くことも検討しているというのだが…

 マンガとしては、史実をかなり忠実になぞりつつ、そこに各種の策謀うずまく組織を往き来する主人公の活躍と成長を織り交ぜて非常によくできたものとなっている。

 文庫や愛蔵版など他の版もあるようだが、このオリジナルのシリーズは、当時の写真資料と解説(というより巻末エッセイ)が優れている。一巻は、実在の建国大学の写真と、巻末エッセイは山口昌男(ただしこれはあまりできがよくない)。

付記:各巻の解説は文庫版などにも収録されているらしい。

建国大学を捨てて、また戻るまでの葛藤記。越沢明の解説が秀逸。, 2010/7/20

虹色のトロツキー (第1集) (希望コミックス (218))から続く。

石原が日本に帰ってしまい、各種の思惑に利用されるのを潔しとしない主人公、いったん実家に帰るものの、そこでガサ入れに巻き込まれ、あれこれ迷ったあげくに建国大学に戻ることにする。

本書は、新京(いまの長春)の写真資料に加え、解説をなんと日本の植民地時代の都市計画にかけては右に出る人のいない越沢明が書いている。おそらく町並みを描く際の資料として越沢の本をたくさん使った縁で依頼したのだろうが、見事な人選だし、簡潔でとてもよい本当の意味での解説。

ハルビンで拉致、そして馬賊へ, 2010/7/20

虹色のトロツキー (第2集) (希望コミックス (239))より続く。

ユダヤ人社会との関係構築を狙う辻政信に伴われてハルビンにやってきた主人公は、コミンテルンのスパイにつかまる。

トロツキー日帝と野合していたと証言させて、トロツキー失墜を狙うスターリンの思惑。だがそこを脱出し、東北抗日軍に参加することになる。

写真はハルビン、そして解説は志賀勝による東北抗日軍の解説。満州の歴史の中における簡潔な位置づけが説明されており、これまたたいへん勉強になる。

オールスターキャストにしようとして少し苦しい巻, 2010/7/20

虹色のトロツキー (第4集) (希望コミックス (249))

虹色のトロツキー (第4集) (希望コミックス (249))

東北抗日軍に加わって、さらにその主要人物たる謝文東に会い、その片腕となる。その活躍と崩壊が描かれる巻で、金日成の名前も出てくる巻。一応、オールスターキャストにすべく川島芳子を出してはきたが、この出し方は強引だし、ちょっと必然性が感じられないので、弱い巻ではある。

写真は、実在の登場人物の写真。川島芳子って、麗人というからもっと美人かと思ったらそうでもないが、たまたまこの写真が悪いのだろうか。また解説は、満州の当時の映画作家に日本軍の監視がついていたという話だが、あまり内容と関係なく、それがどうしたという低調なものになっている。

トロツキーの話がまた少し進展する。, 2010/7/20

特務の関係者安江仙弘が、ユダヤ人保護を通じた国際社会への満州アピールについて構想を述べ、 そこでトロツキーを使うことの愚をとき、主人公に上海にでかけてトロツキー関係者の情報を探る よう依頼する。主人公はそれを引き受けると同時に、蒙古人による軍隊である興安軍に志願する。 そしてまずは興安軍学校に講師として赴くが、やがて実戦配備となり……

しばらく登場しなかったトロツキーに関する話が再び少し進展する。もはやトロツキーはユー ラシアにはおらず、メキシコにいることがほぼ確定しているが、一方でトロツキーをメキシコから 呼んで一旗あげさせようという陰謀が展開。

写真は大連、解説は興安軍学校についての話。藤原作弥父親は、当時そこで教官をしていたとの こと。後半は少し思い出話に偏りすぎてはいるが、ちょっとおもしろい。

トロツキー、上海に登場??!, 2010/7/20

特務機関の安江仙弘の指示で、実質スパイとして上海に赴いた主人公、トロツキーの偽物を自称する人物の正体を確かめようとするが、かれもまた一筋縄ではいかない複雑怪奇な背景を持つ人物であることがわかる。

トロツキーに一番近い存在がきっちり登場する、初めての(そして最後の)巻。有名人総出演の原則で、川島芳子が再登場、ついでに李香蘭も出てくるが… あまり大きな役割は果たしていない。連載時には、アクセントをつけるために出しておくほうがよかったのかもしれない。

写真はむろん、当時の上海。解説を書いているのは、なんと安江仙弘の息子。リトアニアで杉原領事が無数のユダヤ人にビザを出して命を助けたという美談の裏に、実は本書で描かれた安江仙弘のユダヤ人救済構想があったという、実に興味深い話。身内なのでむろん父親を美化している面はあるのだろうが、一読に値する。

ノモンハン/ハルハ河会戦への道のり, 2010/7/20

虹色のトロツキー (第7集) (希望コミックス (280))

虹色のトロツキー (第7集) (希望コミックス (280))

もはやストーリーは、ノモンハン事件/ハルハ河会戦に向けて一直線。興安軍官学校も、前線にかり出されることとなって… 石原がトロツキーを引っ張り出そうとした意義についてもある程度わかる。スターリンに対抗して新しい社会主義勢力をうちたてることでソ連を牽制し…

 写真はノモンハン事件関連写真。そして解説は、石原莞爾の世界最終戦争論についての説明。かれがソ連を非常に重視していたことも述べられ、これまでの全体の背景も理解しやすくなる。惜しむらくは、これが第一巻にあればもっとよかったんだが…

ノモンハン/ハルハ河会戦、そして現代, 2010/7/20

この巻は…ノモンハン/ハルハ河会戦を細かく描く。

 とにかく物量でも装備でも勝るソ連軍にボコボコにされた戦いで、変なハッピーエンドにしてはそのほうがおかしかろうとぼくは思う。どうしようもなく歴史が動いていく中、石原も、そしてコミンテルンのスパイだった尾崎秀実も、それぞれの登場人物が各種の思惑で暗躍はしてみるものの、大局は動かない。そして一人、辻政信だけがまったく状況を読めないのか、何一つ変わらず突っ走る…

 写真は、当時のモンゴル人、そして解説というか後書きは安彦良和。入念なリサーチのもとに描かれた漫画であることがよくわかる。中国共産党が全然出てこないのが不思議だったが、それも意図的だとのこと、派手さに走らずストイックに構想されていることもわかる。トロツキーがらみのネタをもう少し仕込んでほしかったようにも思うが、あれが限界かもしれない。全体に名作だし、この単行本も非常にていねいに作られていてすばらしい。

 でもなぜ虹色なんだろう…

Amazon救済 2010年分 2

真木『自我の起源』:ドーキンスを歪曲しつつ、その手の平から一歩も出られない本。, 2010/7/16

 本書はまず、ドーキンス利己的な遺伝子説の批判から入る。いや、利己的な遺伝子説そのものは正しいが、でもドーキンスが理論的な誤謬をおかしているそうな。遺伝子の利己性と個体の利己性を混同しているとの批判。

 これをきいた瞬間、ドーキンスの理論を知る人は変だなと思うはず。利己的遺伝子説は、なぜ個体が必ずしも利己的にならないかを説明するための考え方なのだから。確かに著者は、何かそれっぽい文章を「利己的な遺伝子」から抜き出してくる。「われわれの遺伝子はわれわれに利己的であるように指図するが」といった部分(pp.29-30)。でも出典にあたると、著者はこの一文を前後の文脈から切り離して歪曲しているだけ。問題の部分は、利己的遺伝子による結果が、その集団にとって利得最大のところに落ち着くわけではなく、ESSのところになってしまう、という話をした後で、でも人間は知恵でそれを克服できる、と言っている部分だ。まあ多少誤解を招く表現ではあるが、全体を見ればドーキンスの意図は明らか。著者のやり口はいささか不誠実。

 その後も著者はドーキンスの揚げ足取りをするが、基本的にはどれも、他人のまともな実験結果に恣意的な解釈と意味づけを加えているだけ。要するにかれも、ドーキンスの「利己的」ということばだけに反応して、どこか生命や社会の「本性」や「本質」に助け合いと博愛精神があるのだと信仰告白を並べ立てるだけの、ありがちな論者の一人だということがわかる。で、結局は遺伝子を超える個体というものがある、というドーキンスの理論を一歩も出るものではない結論に落ち着くだけ。かつて依拠していたカスタネダが詐欺師だと証明され、以前の著作のほとんどが無意味なものとなったのに自己批判する様子もない著者に期待はしていなかったが、やはりこうしたこじつけの強弁しかできないのか。

トロツキーレーニン』:読み物としてはよいが、一面的かつ部分的なエピソード集でしかないことは留意すべき。, 2010/7/10

 レーニンについて、トロツキーが書いた本。

 トロツキーは、チェ・ゲバラと並ぶ、中二病的な革命家英雄視の中でも最大のヒーローの一人であり、後に否定されたスターリンとの確執もあり、本来あるべき社会主義の体現者のような印象を一部の人は抱いている。また、かれはレーニンの同志であり、直接かれを知っていた。だから一次情報としての本書の価値は否定しがたい。このため、本書が非常に優れたレーニン伝であるかのような印象が一部にはある。

 確かに本書は読み物としてはおもしろい。トロツキーは超一流のアジテーターだけあって、エピソードの盛り上げ方はとても上手だ。

 しかしながら本書は、レーニンについて基礎知識のない人が一からまともな理解を得ようとするにはほとんど役に立たない。基本的に、レーニンの悪いところ、ダメなところは一切書いていない。トロツキーは、スターリンが正しいレーニン思想をゆがめてしまった(そして自分こそは正しい(けんかする前の)レーニン思想の伝承者である)と思っているので、レーニンを悪く書くはずもない。そして基本的にはレーニンと同じ党派に属してきた人物だから、客観的に見ればレーニンがまったく一貫性のない党派的なふるまいを見せても、それを公平に描くことはない。身内びいきが非常によくない形で満ちており、現代におけるレーニン理解のベースにするにはあまりに偏っている。

 また、トロツキー自身も書いているとおり、まだ完成したものではなく、部分的なメモと回想記にとどまっている。革命後の話はほとんどない。

 したがって本書を読んでレーニンについて何かわかった気になるのは大変危険。サーヴィス「レーニン (上)」などで全体像をきちんと把握して、それについてのエピソード集として流し読みするのが適切。

サーヴィス『レーニン』:バランスのとれた、レーニンの公平で充実した伝記。上巻はロシア革命前夜まで。, 2010/7/10

レーニンについて、白井「「物質」の蜂起を目指して」など恣意的な解釈にばかり耽溺するような本が出てきたので、基本的な全体像を抑えるべくレーニンに関する本をいくつか読んだ。その中で最も標準的で歪曲のない、レーニンの優れていたところと欠点とをバランスよく記述した伝記。原著も、レーニン伝の定番として評価が高い。

 社会主義屋にありがちな、レーニンは正しくて、社会主義の悪いところはすべてスターリンレーニン思想をゆがめただけ、というような変な持ち上げ方もしておらず、一方でかれがその後の強制収容所国家のすべての元凶たる悪魔だといった書き方もしない。読んでいて非常に安心できる本となっている。レーニンについて少しでも興味あれば、まずはこれを読むべき。

 翻訳はふつう。原著が非常にわかりやすく、普通に訳せば普通の翻訳になるので、大きな欠点はない。が、ところどころに変な部分が散見される。たとえば「ロシア社会民主労働党内では、彼はすでにかなりの名声を得ていた。むしろ彼は、いちばん評判の悪い人物であった」(p.276) って、どっちやねん?! 実際は「かなりの名声」はsubstantial reputationで、「有名だったが悪名高いというのが正確」とでもすべき。こうした、辞書に最初に出てきた訳語を前後の文脈の考えなしに使っているところがいくつかある。が、それで重要な部分がまったく意味不明になっているような箇所はあまりないのが救い。

 上巻は、1916年末、ロシア革命勃発直前までのレーニンの成長過程と亡命時代、ボリシェビキオルグ、プレハーノフやボグダーノフ、マルトフらとの交遊とその後の権力闘争を描き、少数派なのに多数派(ボリシェビキ)を名乗る変なセクトの親玉でしかない、亡命評論家としてのレーニンを描いたところで終わる。

後半は、レーニンが「封印列車」で帰国するところから。その後レーニン十月革命を経てソ連邦をなんとかまとめあげ、NEPを導入。ただしその過程はきわめて場当たり的で一貫性に欠き、朝令暮改。残虐な粛清や恣意的な利益誘導に満ちていたことを本書は素直に描く。レーニンを万能の社会主義のシンボルと盲信し、無理に一貫性を見いだそうとしこじつけがましくなった本とは違い、極めて納得がいくもの。また、スターリンのやった悪行はすべてレーニン時代に先例があったことも明確に描かれる。ある意味で、レーニンとて非凡ではあるが普通に限界のある普通の人だったことが失望とともに安堵をもたらし、そこにかれの妻やイネッサ・アルマンなどとの関係もからめて、まさに等身大のレーニンがあらわれてくるとてもよい本。その一方で、レーニンの業績の壮大さは正当に評価する。それを最後にまとめた走馬燈のようなラスト数ページは実に感動的。

 ただし著者の書き方はかなり予備知識を要求する。封印列車でロシアに戻ったレーニンは、「四月テーゼ」をぶちあげて、それを聞いた人々はレーニンが発狂したかとさえ思った、という下りがある。それはすごい、どんな代物だったんだろう、と思って読み進めると…その四月テーゼ自体の要約や引用はまったくない。

 これは上巻を含め他の部分でもそうで、各種著作の背景や反響の記述は詳しいが、その著作自体の中身についての説明は、かなり控えめ。また十月革命など大事件の記述や、スータリンやトロツキーなどのメインキャラの登場も非常に淡々としている。そして愚直ではあるが、原文のレトリックやニュアンスに鈍感な翻訳は、それを一層平板にしていている感はある。しかし間違ってはいないし、レーニン像の基盤としては無敵の本である。一方で、あわせて主著の概略をどっかで勉強しておくのは不可欠で、これ一冊で勉強がすべて片付くわけではない点には注意。

ゲバラ『ゲリラ戦争』中公文庫版:ゲバラの古典的なゲリラ戦争解説書。訳は旧訳より微後退。, 2010/8/7

 かつては三一書房の新書、その後ゲリラ戦争 (中公文庫BIBLIO S)として出た本の新訳版。内容的には、古典的なゲリラ戦争の手法解説。手短で網羅的、なかなかおもしろい本だ。

 旧訳がそんなに悪かった印象もないので一部比較してみた。カバー見返しにある訳者略歴は、ものすごく長いのだが、外資系企業の秘書室や総務部にいたとか陶磁器の修理をしているとか、ゲバラとも翻訳とも無縁の人だということしかわからない。それでも訳が改善されたなら特に文句もないのだが……

 が、この新訳はやたらに愚直で、関係代名詞は後ろから遡って訳すような昔の受験英語の英文和訳的な素人っぽい翻訳となっている。趣味の問題もあるが、訳のなめらかさでは驚いたことに35年前の五十間訳のほうがずっと上。また原典が明示されていないが、奥付から見るとどうも英訳からの重訳らしい。旧訳はスペイン語からの訳で、英訳も参照したとのこと。ただし原文はあまり長文のレトリックを多用していないので、重訳も愚直な訳も、読みやすさにあまり大きく影響はしていないのが救い。

 また旧訳と比べるとゲバラが原著につけていた、「要修正」「これ加筆」といった書き込みが反映されているのが追加分。逆に、三一新書版にあった「キューバ革命:例外か〜」という論説が削除されている。まあこれは、三一新書のほうのサービスなので仕方ないのだが、正直言ってゲバラの追加コメントは大したものではないし、まとまった追加論説のほうが効用が高い。

 恵谷治の解説は鋭い視点だがいかんせん短く、一方で旧訳の情熱的で詳細な訳者解説の迫力はない。映画をあてこんだ新訳なのはわかるが、あまり新訳した甲斐がないように思う。とはいえ、ことさら劣化しているわけでもないので、この訳で読んでも大きなデメリットはない。が、旧訳が安く買えればそれで充分以上。

若原『黒人はなぜ足が速いのか』:主要部分はいいが、まったくピントはずれなBell Curve罵倒は著者の誠実さが問われる, 2010/7/3

 最近同じテーマを(批判的に)扱った本を訳したばかりだったので、主要部分はおもしろく読めた。スポーツに有利とされる遺伝要因についていろいろ解説しており、黒人がなぜスポーツに秀でているかを遺伝的に説明している。遺伝ありきで話が進む部分も多いが、短距離に有利とされるACTN3が多いケニア人は短距離であまり実績がないといった批判論にもそれなりに触れ、バランスはとれておりその部分はおもしろい。

 だが本書は、こうした議論が人種差別につながりやすいことを指摘する中で「黒人差別のバイブル『ベル曲線』」なる節をわざわざ設け、ハーンスタイン&マレイ『Bell Curve: Intelligence and Class Structure in American Life』について、まったくのでたらめを書いている。「白人がいかに優秀であるか、逆に黒人はいかに劣等であるか、白人と黒人はいかにちがうかを、頭蓋や大脳の大きさ、IQ犯罪率など膨大なデータを駆使し、一見科学的な装いのもとで展開している」(pp.154-5)とのこと。でも『Bell Curve』で人種の遺伝的な話が出てくるのは全24章のうち1章だけ。しかも頭蓋や大脳の大きさの話なんかまったく出てこない。そしてそこでも、知能の環境要因のついては十分に触れられ、ただ遺伝要因もゼロではないだろうと述べられているだけだ。ついでに、白人よりアジア人(日中韓)のほうが頭がいいことも明言しているのだが。そして人種も含む多くの集団間格差を縮めて平等な社会をどう構築するか、というBell Curveの大きな主張と提言もまったく無視。著者はこの本を本当に読んだのか? どこかの(たぶんグールドの)受け売りで罵倒しているだけとしか思えない。

 メインの部分は決して悪い本ではないので、こうした枝葉の部分で大きく評価を下げなくてはならないのは残念。著者も単にPCなポーズをつけるために、いきがけの駄賃で他人の尻馬にのって知ったかぶりをして見せただけで、悪気はないのだろう。だが、こういうことをされると、学者としての誠実さにすら疑問を抱かずにはいられない。

アクゼル『神父と頭蓋骨』:北京原人とティヤール伝を絡めたおもしろい試みだが掘り下げが不十分で不満。, 2010/7/2

 北京原人の発見の話だと思って読み始めたら、ティヤール・ド・シャルダンの話でびっくり。かれが北京原人にここまで関わっていたとは知らなかった。

 ティヤールは異端の神学者として知られ、主著「現象としての人間」は、おもしろい本ではある。鉱物圏、植物圏、動物圏、精神圏(ノウアスフィア、ヌースフェル)といった宇宙の階層概念や、生物の到達点たるオメガポイントといった概念はかっこいいし、いろんなSFのネタもとだ。ただいかんせん証明しようがない、誇大妄想的なお話なので、一般には単なるニューエージオカルトがかった変な哲学者と思われている。

 そのティヤール神父が、思想をめぐって教会と対立して地の果て中国にとばされ、そこで北京原人の発見に関わることで、進化論への認識を深める様子を本書は描く。そしてそれが主著「現象としての人間」につながったのだ、と。当時の原人ブームの中での北京原人発見ドラマと、宗教対科学の対立ドラマとをからめる筆致は巧み。

 ただしティヤールを、宗教と科学の橋渡しをする立派な学者兼えらい宗教人として描こうとするため、その思想の特徴、もとい奇矯さ・異様さについてはごく簡単にしか触れられない。そしてかれが教会に迫害されたのは、単に進化論に好意的だったからだ、という印象操作を本書は行っている。でも実際には、宇宙全体の進化とか、人間が進化してオメガポイントに到達して神になるとか、とうていキリスト教の範疇に収まらない勝手なオカルトを主張したから怒られたというのが実情。だから北京原人との関わりがティヤール思想の形成に重要だったという本書の記述は必ずしも妥当とは思えず、それをごまかすため散漫な印象になっているのが残念。そして、ティヤールの中で進化論とキリスト教が同居できたから進化論は永続的なものだと示されたのだいう、アクゼルらしからぬ理屈になってないこじつけの結論は鼻白む。その程度の折り合いをつけた人なら他にも無数にいるのに。

 また佐野真一による解説は、意味もなく本文に書かれたティヤールの生い立ちを繰り返す無内容きわまる代物。解説ではなくただの読書感想文で、やたらに段落を変えるぶつ切り(口述筆記そのままの感じ)が散漫ぶりに拍車をかけている、残念な代物。

Amazon救済 2010年分 1: 毛沢東関連書など

蕭瑜『毛沢東の青春』:若き日の毛沢東の数少ないまとまった第三者の記述, 2010/6/10

毛沢東が第一師範学校にいた頃の上級生で友人、シャオ兄弟の兄が書いた、長沙での学生時代の毛沢東。現題は「毛沢東とわたしは乞食だった」というもので、なんだかずいぶんキワモノに思えたが、実際には扇情狙いの部分は全然ない、とてもストレートな毛沢東の青春時代の記述になっている。原題の「乞食だった」というのは、本書の後半を占める二人の貧乏旅行のこと。  すごく目新しいことがあるわけではないが、エドガー・スノー毛沢東が語った若き日の話はおおむねその通りだったことが第三者の記述で裏付けられるのは貴重。毛沢東といえど、普通の若者だったことがわかる。あと後に毛沢東の奥さんになったヤン・カイホイが、本当に惚れていたのは実は……といった暴露話はほほえましい。

 毛沢東の奇矯な行動についての記述には多少小説的なおもしろおかしい脚色があるかもしれないとフィリップ・ショートは述べているものの、事実関係の歪曲はない模様。話は第一師範学校時代(高校生くらい)に限られ、新民学会の解体くらいで終わっているので、革命や粛清や闘争などは全然でてこないので、そういう期待をしている人はアレだが、毛沢東の人間くさいエピソードに触れたい人はどうぞ。

追記:なお、以下の二つはこれと同じ本のはず。翻訳がちがうのかな? (付記:ちがわない。訳者も同じ高橋正で、まったく同じ本)

モシャー他『地球温暖化スキャンダル』:元データすら必死で隠蔽する「気候科学」って? クライメートゲート事件の全貌を描く好著, 2010/6/2

 日本ではほとんどまともに報道されていない、通称クライメートゲート事件の非常によいまとめ。  クライメートゲート事件は、温暖化調査の中心的な機関からメールが大量に流出し、その中にデータ隠蔽工作や自分たち(温暖化の深刻さを是が非でも強調する立場)に少しでも異論を唱える論文やその掲載誌に対する組織的な圧力工作が大量に含まれていたことから、温暖化の科学的な議論の信憑性にまで疑問が投げかけられたもの。  むろん、公開されると思っていないメールで、あまりお行儀のよくない書きぶりが頻出するのは当然のことだ。でも、本書はメールに並行する実世界のできごとをきちんと併置させる。それを読むと、元データを必死で隠そうとし、まったく当然の公開要求を話をそらしてうやむやにしようとしたりしている状況がわかり、メールの内容も単なる罪のない仲間内での悪態ではすまないものであることがよくわかる。

 たぶん本書の内容を歪曲して「反地球温暖化」に分類したがる論者がたくさん出ると思う。誤解のないように書いておくと、本書の著者は、温暖化を否定する立場ではない。穏健な温暖化が起こっていることは十分に認めているし、CO2がそれに貢献していることも完全に求めている(p.294)。ただしそれがどの程度なのか、きちんとデータに基づく科学的な議論は不可欠だと語っている。ベースとなるデータすら隠蔽するような「研究」に基づく、他にだれも追試できないような代物は、科学的な議論といえるだろうか? IPCC はコンセンサスに基づいて議論すると述べている。それなら、元データを示してもっと多くの人が追試できるようにして、まともな科学的議論のベースを作るべきだろう。いまの気候科学は、残念ながらそれができておらず、それなのにそのあやふやな議論をもとに、何兆円もの投資が行われているのは、いいんだろうか? 本書はそう問いかける。

小田実毛沢東』:日本の左翼知識人のうろたえぶりだけが伝わってくる一冊。, 2010/5/17

たいへんに不思議な一冊。小田実は、ベ平連ベトナム戦争への反戦団体、ひいては反米サヨク市民団体)で有名な人だが、別に中国に詳しいわけでもないし、中国語が読めるわけでもない。毛沢東の伝記的、思想的な記述は本当に通り一遍で、受け売りレベルにとどまるし、それすらあまり勉強していないのは明らか。

そんな人が中国にちょろっとでかけてあれこれ見聞きするのだが、それによって毛沢東について何か新しい知見が出るわけでもない。かれは文化大革命でコロコロ変わった毛の発言に戸惑い、それでも毛沢東サマのおっしゃることなら、と盲信していたら、その後毛の方針自体がまちがってました、とはしごをはずされて、どうしていいかわからずにひたすら途方にくれている。あれもわからない、これも判断がつかない、これもどうしていいかわからない、結局毛沢東をどう評価して良いかよくわかりません、というだけの本になっている。

現代の偉人を新しい目で見直すはずのシリーズに、なぜこんな「どう見直して良いかわからない」などという本が入っているのは謎だが、一方でこれは当時の(そして今の)日本の、良心的にはちがいないが今にして思えばおめでたい左翼知識人、ひいてはそのお先棒を担いでいた岩波書店が置かれた状況をよくあらわしている。かれらはずっと社会主義毛沢東を絶対的な正義として掲げてきて、その評価が変わってしまったときに、どう対応していいかわからなくなっている。そのうろたえぶりを、本書は素直に伝えているといえなくもない。その意味では、その戸惑いぶりを見るために一読する価値はあるかもしれない。が、一読だけ。そして読んでも、毛沢東については何もわかりません。日本の左翼知識人の混乱ぶりに興味がある方だけどうぞ。

クリステヴァ『中国の女たち』:文化大革命翼賛文書, 2010/5/16

クリステヴァ中国共産党の手配で、文革末期の1974年に中国を二週間ほど訪れた。そのときの感想文が本書。二週間のパック旅行(それもかなり駆け足で各地をまわっている)ではろくなものが見られなかったようだ。話を聞いた相手はすべて、共産党の(当時の)公式見解しか語っていない。それは当時ですら明らかだったはずなんだけれど、クリステヴァはそれをまったく指摘できず、そのまま垂れ流し、要するに文革の提灯持ちに堕しているだけ。それでも分量が足りず、半分以上はマルセル・グラネの受け売りで昔の中国における女性の話をしたり、共産党初期の女性党員の話をしたりだが、いずれも聞きかじりレベル。

そして最終的には、共産革命が中国古来の男性重視家父長制を打ち破ろうとしていたとか、文革で女性の地位はかつてないほど向上とか、紅衛兵たちは親たちの劉少奇的な反動主義を打ち破ってさらに前進しようとしているとか、林彪がのさばっていたらひどいことになったとか、共産党プロパガンダをそのまま繰り返し、「中国においては《神》のない、また《男》のない社会主義を目指す道が選ばれている」などと結論づける。

要するに、小難しい言葉で中国と文革の翼賛をやっているだけなのだ。当時のゴダールの映画やヴォネガット作品なんかを見てもわかるとおり、当時はおそらく先進知識人の間では文革を持ち上げるのが流行っていたようだ。彼女はその流行に安易に乗っていただけというのがよくわかる。そしてかつて日本の一九八〇年代末のニューアカデミズムはそれを見抜けず、本書を「異邦の女のまなざし」などと持ち上げていたけれど、いま読むとひたすら悲しく情けないだけの無内容な本。

竹内『毛沢東』:支離滅裂で大躍進の意味すら理解できていない悲惨な本, 2010/5/15

毛沢東 (岩波新書)

毛沢東 (岩波新書)

  • 作者:竹内 実
  • 発売日: 2005/03/18
  • メディア: 新書

著者は毛沢東関連資料の研究で名高く、一般向け毛沢東解説書の書き手としては適任、と思ってしまうのが人情。それだけに、本書の惨状には目を疑った。

著者は毛沢東の著作に基づいてあれこれ論を展開するが、古典文芸的うんちくに終始。発言内容と現実との対比がほとんど行われず、毛沢東著作から聞こえのいい建前論ばかりを抽出して散漫な記述が展開されるうえ、意味もなく著者の卑近な身辺雑記でお茶が濁されるのには閉口する。

そして信じがたいことに、著者は大躍進の偽装を1989年の時点でまったく見破れずにいる。1958年にどこぞの村に招かれ、石炭を地面に広げて燃やしてコークスを作るとか(そんなやり方でコークスができるもんか!)、子供が上にすわれるほど高密に植わった稲(ありえん)を見せられるが、一切疑問を呈することなく鵜呑みにする(pp.98-100)。それこそまさに、大躍進で毛沢東の追従に使われた偽装そのものなのに! そしてかれはこれにより、鉄鋼や穀物の生産高が実際に上がったと主張するのだ。その統計自体がごまかしなのだということも、1989年の時点でわかっていないとは!

さらに毛沢東は、常に言うことがぶれまくる。まず思いつきで勝手な方向性を唱え、その実現努力が足りないといっては人々を粛清し、思った通りの結果が出ないと粛清し、最後には行き過ぎだと言って粛清する。ところが著者は、これがぶれていないという。ぶれない中心があって、そのまわりでますます大きな円が描かれているだけ、なんだそうだ(p.194)。こうした空疎なレトリックで、毛の方針を「ぶれていない」と強弁し、毛沢東の欠点をひたすら言い逃れた、ごまかしに満ちた一冊。もはや岩波文化などに幻想は持っていないつもりだったが、ここまでひどいとは。

藤子不二雄A『劇画毛沢東伝』:毛はヒーローとして美化されすぎているが、それ以外はかなりきちんとしていて有益。, 2010/5/11

劇画毛沢東伝

劇画毛沢東伝

毛沢東の前半生の伝記。冒頭が中華人民共和国誕生で、そこから回想になり、毛沢東の誕生から主席になるまでの生涯が語られる。文化大革命や大躍進は描かれていない。

他のレビューを読んで、いまではあり得ないすごい歪曲された内容なのかと思っていたが、実際に見てみるとその記述は現在の中国の、公式的な毛沢東像ほぼそのもの。金 冲及の『毛毛沢東伝(1893‐1949)〈上〉』と何ら変わらない内容となっている。ドラマチックな誇張はあるし、廬定橋の戦いなどもくどいくらい派手に描かれてはいる。でも、過去の毛沢東像として片づけられるものではない。

むろん、毛沢東をかっこよくヒーローとして描こうとするものなので、かれの悪いところや粛清や陰謀はまったく出てこない。毛は常に清く正しい正義の味方で純粋で人民に尽くす存在だ。でも劇画ですしぃ。それさえ承知して、主人公が美化されていることを念頭においていれば、決して悪い伝記ではない。重要な事件も一通りおさえてあるし、毛の共産党時代のライバルなどもしっかり描かれている。岩波新書の竹内実『毛沢東 (岩波新書)』や小田実毛沢東 20世紀思想家文庫 15』のような、文革時代の評価に戸惑って支離滅裂になった代物を読むよりもまとまった理解は得やすいのではないか。

金『毛沢東伝』:都合の悪いことはすべて歪曲抹消され、あまりに偏っている。訳者の解説も変。, 2010/5/7

毛沢東伝(1893‐1949)〈上〉

毛沢東伝(1893‐1949)〈上〉

  • 発売日: 1999/11/19
  • メディア: 単行本

執筆陣は、中共中央文献室であり、したがって中国共産党の資料を縦横に駆使して詳細に書かれた伝記であるのは確か。だがその一方で、本書は中国の毛沢東に関する公式プロパガンダの一環でもある。毛沢東に対する中国の公式な立場は、前半生は立派だったが後半生では大躍進や文革など、まちがいもありました、というもの。本書はその前半生までの伝記なので、毛沢東はとにかくひたすら人格者、清廉潔白で人民のことを常に考え、理論的にも軍事的にも卓越し、常に正しく絶対無謬な存在として描かれる。

 しかしながら、実際の毛沢東はそんな聖人君子ではなかったし、当時の中国や共産党はそんなおきれいなお題目だけで話が進むほど甘いところではなかった。毛沢東はライバルを蹴落とすためにすさまじくエグい粛清や虐殺を大量に繰り広げている。ところが、本書はそれを全然描かない。たとえば後の文革につながる知識人粛清活動である、延安整風運動では、自分に対する批判者を難癖つけてつるし上げて粛清しまくった。ところが本書では、それは単なる理論偏重批判だったことにされ、行きすぎはあったが、それはすべて康生の勇み足に責任転嫁されている。そして数万人規模の大粛清となった、でっちあげのAB団なるスパイ組織を口実にした富田事件については、何と一言の記述すらせず、なかったことになっているという悪質さ。

 各種の細部については、類書の及ばない詳細な記述があり、参考文献にはなるが、全体的な記述は公式見解にしてもあまりに歪曲がひどく、伝記としては評価しがたい。

毛沢東伝(1893‐1949)〈下〉

毛沢東伝(1893‐1949)〈下〉

  • 発売日: 2000/07/20
  • メディア: 単行本

この伝記は1949年の中華人民共和国成立までの話しか扱っておらず、伝記としてはぜんぜん完結していないことに注意。その後、本国では 2003 年に 1976 年までの後半の伝記が出ているが、邦訳は 2010 年時点では未刊。

 毛沢東伝(1893‐1949)〈上〉上巻のレビューに書いたように、本書は中国の公式プロパガンダの一環としての毛沢東像であり、かれに都合の悪いことは一切書かれない。上巻ではAB団/富田事件が抹消されていたが、下巻では整風運動が二章かけて記述される。だが、そこでも批判粛清拷問その他は他の人がやって、毛沢東は最後にその行きすぎをたしなめただけのような記述になっている。

 また下巻は訳者が解説でひたすら本書の提灯持ちに終始し、いまの中国繁栄をもたらした鄧小平的な資本主義路線が、実は毛沢東の前半生の思想の継続なのだという我田引水が行われている。自分の努力と才覚で豊かになった各地の地主たち(毛の父親のような)や商人を粛清し、その財産をばらまくことで支持を得てきた毛沢東の初期の思想が現在の中国の資本主義と同じだという議論は、あまりに苦しい。ついでに本書は中央委員会全体会議(いわゆる中全会)を中央総会と書き、中全会のかわりに中総会、三中全のかわりに三中総と書いているので、最初のうちはかなり戸惑う。ただしこれは当時比較的よく見られた表記らしい(毛沢東側近回想録でも採用されている)

山口『リスクの正体』:リスクという考え方を中心にしたよいエッセイ集, 2010/2/3

リスクの正体!-賢いリスクとのつきあい方 (木星叢書)

リスクの正体!-賢いリスクとのつきあい方 (木星叢書)

  • 作者:山口浩
  • 発売日: 2009/01/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

リスクについての系統だった解説ではないものの、一般の人が持っているリスクをめぐる各種の誤解をわかりやすいエッセイで説明する。たとえばリスクはひたすらなくすもので、ゼロにしなくてはならないというまぬけな誤解をきちんと批判し、わかんないことはわかんないので、リスクゼロなんてあり得ない、等々。

そしてむしろリスクを活用する方法、リスクと共存する考え方などを、結構上手に解説し、ところどころ株のチャート式予想屋をいじってみたり、なかなかおもしろおかしい、楽しい本にしあがっている。

主張そのものに怪しげなところは一切なく、知っている人なら常識そのもの(同時に、それが世間に理解されていないことも常識)なので、読みながら深くうなずける。知らない人は……説明されてもなかなか腑に落ちない場合が多いので、本書を読んで納得してもらえるかはわからないのだけれど、でもどういう考え方が展開されているのかは十分にわかるだろうし、いつの日かはたと気がつくこともあるでしょう。

一点だけ。冒頭に

「一つの怪物が、日本を俳諧している。——「リスク」という怪物が。

 右の文章はもちろんカール・マルクスの有名な『資本論』の冒頭の一節をもじったものだが(後略)」

なる一文がある。ちげーよ。それ、「共産党宣言」ですから。この分、星引いときます。

Amazon救済 2009年分 2

モンゴル秘史:読みやすさなら岩波文庫よりこちら。, 2010/1/26

元朝秘史」の翻訳は、この東洋文庫版と、「元朝秘史〈上〉 (岩波文庫)」(上下巻、小沢 重男訳)がある。両者を読み比べると、小沢訳は地の文が口語訳、会話の部分が文語訳という、なんだか逆なんじゃないかという処理になっていて、地の文の処理は現代的なだけに落差があって、慣れの問題もあるが少々読みにくい。表記もテムヂン、ヂャムカといったチの濁音が多用されているので、全体に古い印象になっている。それに比べてこちらは、全編口語で普通に現代語で読めるものになっている。お話として普通に読みたい人は、こちらの東洋文庫版をおすすめする。

一方で、この東洋文庫版は、区切りごとに大量の注をはさんでいる。それに対し、岩波版は注は抑え気味で、それぞれの巻の終わりにまとめてある。どちらがいいかは趣味の問題で、ぼくは多少の疑問がその場で解決できる点で東洋文庫版が気に入っているが、本文だけを一気通巻で読みたくて、注が気ぜわしいと思う人もいるだろう。

ストーリーはもちろん、あれこれ先祖の来歴を経て、ジンギスカンが母親ともども部族を追放されてから、親友にして仇敵となるジャムカ(ヂャムカ)と出会って勢力をのばし、アラブ系の商人の後ろ盾を得て次々に周辺部族を制圧するというもの。岩波文庫版だと、文語慣れしていない現代人では、最後につかまって自らの処刑を望むジャムカの悲哀やかれに対するジンギスカンの理不尽な(だが実に人間的な)愛情とかがなかなか味わい切れないが、東洋文庫版では本当に小説的な楽しみ方もできる。

内容的には、詳細につきあわせてはいないが、少なくとも一般人が読むレベルでは、まったくちがう解釈などは特に見られないように思う。いずれの版も、各種の研究成果についての解説は詳しいが、注の量は東洋文庫版のほうが多い。元朝秘史は、原文はすでになく、その漢訳が残っているのみ。だから、漢字表記になっている音をどう表記するか、またモンゴル各地の石碑に残る同系統の物語とどうすりあわせるかといった説明も、そこそこおもしろい。

この一冊目は、原文第四巻まで。来歴からジンギスカンの生まれとその後の苦労、ジャムカとの出会い、そしてその後初めてジャムカと戦闘を繰り広げ、ジンギスカンが敗北を喫するところまで。

元朝秘史: 東洋文庫の訳とくらべると、文語が混じった古い訳となっている。, 2010/1/26

元朝秘史(上) (岩波文庫 青411-1)

元朝秘史(上) (岩波文庫 青411-1)

  • 発売日: 1997/07/16
  • メディア: 文庫

元朝秘史」の翻訳は、この小澤訳と、平凡社東洋文庫の「モンゴル秘史—チンギス・カン物語 (1) (東洋文庫 (163))」(全三巻、村上 正二訳)がある。両者を読み比べると、小澤訳は地の文が口語訳、会話の部分が文語訳という、なんだか逆なんじゃないかという処理になっていて、少々読みにくい。表記もテムヂン、ヂャムカといったチの濁音が多用されているので、全体に古い印象になっている。普通に現代口語で読みたいなら、東洋文庫版をおすすめする。ただし、全三巻になってお値段も張るので、トレードオフですな。

その他、注の付け方等については、東洋文庫版のほうにレビューを書いたのでそちらをご参照ください。

橘木&山森『貧困を救うのは……』:対立点がない談笑に終始して間延びし、訴求力がない。, 2009/11/20

 多くの人は本書の題名を見て、趣旨がよくわからなかったと思う。ベーシックインカムだって社会保障の一形態ではないの? この二つを対立的に扱うって何?

 中身は山森と橘木の対談だが、中身を読んでも別に両者は対立しているわけではない。山森はもともとベーシックインカム屋さんだし、橘木もベーシックインカムつき社会保障みたいなのを提言しているので、特に対立点があるわけでもない。これについては、巻末のあとがきで山森も言い訳をしている。

 このため、内容は似たような話の中での細かい流派確認のような話にとどまる。お互いに大変に居心地のいいところでにこやかに談笑しているだけ。この分野についてある程度知っている、セミ専門家でもなければおもしろくない内容となっている。このため、対談という形式が有効に機能していない。話すうちに議論が深まって新しい方向性が出てきたり、あるいは両者の相違が浮き彫りになる、というのが対談形式のよいところだが、本書はそういったよさが出ず、むしろ全体を間延びさせる

 あと、現在のようにデフレで景気低迷していて経済がジリ貧の中で、こうした議論はだんだん縮小するパイをどう切り分けるかという話にしかならない。もちろんパイの切り方はそれなりに重要だが、現状だとどんな救済策を採っても先がないのでは? 格差を問題視する場合、成長との関わりをもっと真剣にやるべきでは? 本文中で引用されているクルーグマンなどは、格差を縮めるほうが経済成長をしやすいという議論をある程度まじめにしているんだが。

 本書はそれができていない。そこらへんの漠然とした危機意識は、一章で新自由主義が成長につながったかという議論に対する煮え切らない双方の態度に反映はされているが、きちんと考えられないまま終わってしまう。本来は成長=格差増大ではないし、また格差=貧困増大でもないのだけれど、この種の社会福祉論者たちは常にここをあいまいにして、なんとなくこの二つの等号がなりたつかのような議論を展開する(でもつつかれると、そうは言っていないと強弁する)。本書もその例外ではない。

『Mad Scientist Hall of Fame』: 架空の人物と現実とを混在させ、そこから統一的分析を引き出そうとするのは……, 2009/9/29

世界のマッドサイエンティストを集めた本、ときくとおもしろそうなのだが、まったくおもしろくない。トップ・バッターは、映画『オースティン・パワーズ』のドクター・イーブル。その他ジェームズ・ボンドの敵ドクター・ノオとかスーパーマンレックス・ルーサーとか。そこに、実在の人物であるソ連のルイセンコやニコラ・テスラ、さらにはキュリー夫人まで登場する。

さてキュリー夫人マッドサイエンティストと呼ぶか? アイヒマン実験のスタンリー・ミルグラムマッドサイエンティストか? 天才肌の人々に変わり者が多いのは事実ではある。でもそれを架空の人物の設定と混ぜて、マッドサイエンティストとは云々と言ってみても意味があるのか?

現実の人間が入っているので、単に架空の設定の架空ぶりをおもしろがる本ではなくなっているし、一方で架空の人物なので、本当にこうした科学者を深掘りする本でもなくなって、どっちつかず。そんな話でマッドサイエンティストは人間関係がアレで親の育て方がどうでそのため権力欲が強く、とか言われましても。

現実のマッドサイエンティストだけなら、おもしろかっただろうし、架空の悪人だけを見るなら、柳田理科夫的なおもしろさがあったかもしれない。でも両者を混ぜたことで、本書の記述は中途半端な残念さを漂わせているだけだ。もっとおもしろい現実のマッドサイエンティストはいくらでもいるのに。

William S. Burroughs: Naked Biography:中身スカスカ。, 2009/9/29

William S. Burroughs: Naked Biography

William S. Burroughs: Naked Biography

  • 作者:Burroughs, William S.
  • 発売日: 2008/03/24
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)

80ページの薄い本だというのはわかっていたが、到着したものを見てびっくり。中の文は、14ポイントくらいの巨大な字でくまれ、行間もゆったり。内容もウィキペディアにでもありそうなものが書いてあるだけの代物で(分量的にはウィキペディアのほうが多いかもしれない)、目新しい内容なし。あらゆる点でスカスカ。何のためにこんなものを出したのか、まったく理解に苦しむ。

クラーク『10万年の世界経済史』:大山鳴動して……の困った本。上巻は、昔は人口増えると飢え死にしたという話。, 2009/8/22

10万年の世界経済史 上

10万年の世界経済史 上

うーん、大変に困った本で、上下二巻の大作ながら結論は実に平凡で、経済学の常識が直球ストレートでくるだけ。本書が設定する基本的な問題は、なぜ人類一〇万年の歴史で、産業革命のときに急に発展が始まったのか、というもの。おお、この重大問題に答えを出すとはなんと大胆な! で、答えは?

技術革新で労働生産性(または効率)が上がったからだ! みんなががんばって働くようになったからだ!!!

……えーと……はあ、さようですか。で、なぜ突然技術革新してがんばって働くようになったんでしょうか?

わからん!!!!

……クラークさん、それはないでしょう。労働生産性が所得や豊かさに直結するのはいまの経済学のジョーシキ以前で、某あるふぁぶろがーですら(形式的には)知ってることだ。そしてその理由がわかんないというなら、結局この本はなんでしたの?

上巻はまず、産業革命までの経済史。人間の幸せや豊かさはすべて物質環境(摂取カロリーや寿命等々)で決まる、というのを述べてから、人類史は過去十万年にわたってマルサスの罠にとらわれてきた、と述べる。人口が増えると食料生産が追いつかずに死亡率が増えるし、定住して生産力が上がると集住による伝染病リスクが増えて死亡率もあがってまた元の木阿弥だ。これまではその罠から抜け出せなかった、というのが延々と各種のデータで示される。

でも産業革命はそこから抜け出した。なぜ産業革命が起こったのかはよくわからなくて、識字率とか衛生とか知識とかがなんとなく高くなっていたからだけど、でもわかりません……というところで上巻はおしまい。(下巻に続く)

(付記:2017年のいまにして思えば、このレビューは本当に読みが浅かった。この本は最終的に、産業革命はほぼ遺伝要因である、と主張する本。生産性があがったのも、生産性の高い階級が子だくさんだったから、という。まさかそういうのが出てくるとは思っていなかったので読み損ねていた!)

10万年の世界経済史 下

10万年の世界経済史 下

さて産業革命で重要だったのは、知識資本、つまり技術革新で、それによる労働生産性が高まったからだ、と下巻では述べる。はいはい。でも技術革新の重要性は、それこそ昔からロバート・ソローやグリリカスやジョルゲンソンがさんざん言ってきたことだ。

で、産業革命はイギリスだけが、科学技術への投資をいっぱいやったから起きたとのこと。じゃあ、それがなぜイギリスで起きたの? それは、金持ちのほうが子だくさんで、それが社会にそういう価値観を広めたから(それに対して日本や中国の支配階級はそんなに子だくさんではなかった)。

うーん、でも人口構成が変わるのは時間がかかるし、それではなぜ突然産業革命が起きたのかの説明にはならないのでは? そして、これは決して直接的には照明しようがなくて、ただのお話で終わっている。

そしてなぜいま世界に経済格差があるかというと……労働生産性(または効率)が上がったからだ! 金持ちの国はみんなががんばって効率よく働いている!!! 途上国の労働者はサクシュされていると騒ぐが、実は怠けているのだ!! 世銀やIMFは発展の格差を制度や社会システムのせいにするが、そんなのはまちがっている!!

いや、世銀やIMFは、人が怠けず働くための仕組みをどう作るか考えて制度と言っているのですし……じゃああなたはどうしたら人ががんばって働くと思うんですか、クラークさん?

かれはこれに対して、「わからん」とおっしゃるのです。えー、では何もわからんではないですか。

一〇万年前からの世界各地のデータを駆使した分析は、おもしろいといえばおもしろい。上巻の、マルサスの罠にはまった世界の様子は特によみごたえがあるところ。でも肝心の産業革命については、ずいぶん分析も薄いうえ、出てきた答えは実は何ら目新しくない。そして最後は「わからん」というのでは、読んだ人は怒るのではないかな。なぜほかのレビューアがほめているのかは謎ですが、大山鳴動して何とやら、としか言いようのない本。労作ではあるんだが……

(付記:いまにして思えば、このレビューは本当に読みが浅かった。この本は最終的に、産業革命はほぼ遺伝要因である、と主張する本。生産性があがったのも、生産性の高い階級が子だくさんだったから、というのは、まさにそれを主張する議論。まさかそういうのが出てくるとは思っていなかったので読み損ねていた!)

Amazon救済 2009年分 1

Brooks『Zombie Survival Guide』: ゾンビ軍団と闘うには? おふざけ本だが中身はかなり包括的, 2009/9/29

The Zombie Survival Guide: Complete Protection from the Living Dead

The Zombie Survival Guide: Complete Protection from the Living Dead

  • 作者:Brooks, Max
  • 発売日: 2003/09/16
  • メディア: ペーパーバック

ジョージ・ロメロの世界に入って、ゾンビ軍団に襲われたらどうすればいい? 町が全員ゾンビ化したら、どうやって生き残ろう? ゾンビを確実に倒すには? こうした現代人必須の知恵をまとめた有益な本で、セキュリティに敏感な現代時であれば震災袋に是非とも一冊ほしいところ。各種映画その他を引きつつ、ゾンビの弱点や行動の特徴等をきれいにまとめている。

さらに安易な類書とちがい、本書はかなり徹底したリサーチをしており、古代中国や古代日本その他世界各地に残るゾンビ伝説を集めて紹介している。ゾンビや死人復活は、インドやアフリカなどで呪術師があれこれやっており、実はいまもかなり根強く残っている信仰ではあるのだ。単純なおふざけ本にとどまらず、ゾンビについてのミニ百科にもなっており、予想外に読みでがあって、ベストセラー入りするのも納得。

Wilson『How to survive a Robot Uprising』ロボット軍団との戦い方マニュアル, 2009/9/29

タイトル通り、ロボットが蜂起して人間に立ち向かってきたらどうしよう? 『マトリックス』や『ターミネーター』の世界がきたら、どうやって生き延びるか? HALの反乱にどう対抗するか?

冗談本で、それなりによく書かれているが、参照されている作品が少し薄いとは思う。でも、短時間のお笑いにはいい。でも全体としては、ホントはこんな本にするよりは、2ちゃんねるの冗談スレにでもしたほうが良い感じの内容。

Schaecher『Outhouses by Famous Architects』有名建築家が屋外便所を設計したら、という冗談だが咀嚼不足, 2009/9/29

Outhouses by Famous Architects

Outhouses by Famous Architects

有名建築家が屋外公衆便所を設計したら、という冗談本。でも便所の設計を通じて、その建築家のスタイルも学べて、笑えて勉強になるという趣向はおもしろい。

だが結果は、公衆便所という設定と各建築家の設計スタイルとが必ずしも有機的にからみあわず、多くの便所建築は、その建築家の有名作品をそのまま縮小しただけのものにとどまっている。フランク・ロイド・ライトなら、落水邸の縮小版が描いてあるだけ。ル・コルビュジェなら、サヴォワ邸がそのまま公衆便所になっています、という趣向。便所としての機能性とその建築家のスタイルが巧妙にミックスされていたらおもしろかっただろうけれど、そういうのもなし。フィリップ・ジョンソンのガラス張りの公衆便所など、ちょっとおもしろいのもあるけれど、ほとんどはそれが便所である必然性がなくて、建築家のスタイルを見せるよりも単なる代表作紹介に近いものにとどまっているのは残念。

その後、この人は有名建築家による公衆電話ボックスという本も手がけているけれど、こちらも同じ。もう少し活かせるアイデアだと思うんだが……

室井尚『タバコ狩り』:すでに論破されているのを知りつつこんな本を出すとは。, 2009/9/1

タバコ狩り (平凡社新書)

タバコ狩り (平凡社新書)

  • 作者:室井 尚
  • 発売日: 2009/06/01
  • メディア: 新書

びっくりした。本書の内容は室井が2005年に学内誌とネット上に発表し、ぼくが

https://cruel.org/other/smoking.html

で批判した中身が相当部分変わらずに使われている。この文についてかれは、まったく反論ができず、自分は統計を信じていないという言い逃れをするしかないていたらく。2005年には、かれは本当に知らなかったのかも知れない。でも本書で、かれは自分でもまちがっていると知っていることを、素知らぬ顔で繰り返し書いている。一応は知識人を名乗っているだろうに。読者をだまして恥ずかしくありませんか? もはや最低限の知的な誠実さや良心すらない、卑しい売文の徒になりはてましたか。情けなや。

重信房子日本赤軍私史』:羅列と弁明だけの、目的なき手法への耽溺が生んだテロリストの悲しい生涯記, 2009/8/22

日本赤軍私史 パレスチナと共に

日本赤軍私史 パレスチナと共に

 日本を代表するテロ集団日本赤軍の重鎮たる重信房子の活動記なので、さぞ血湧き肉躍るものにちがいないと手にしたが、まったくおもしろくない。些末なディテールを時系列的にひたすら羅列するだけ。「ナントカ派とカントカ派はソ連と党の無謬性と国際展開の点で意見を相違していたがここでだれかが離脱して作戦が失敗してわたしは自分たちの失敗を総括して自己批判した結果ナンタラ十項を掲げたが……」と切れ目なく続くばかり。日本赤軍はハイジャックをはじめ各種テロを展開した武装集団なのに、どこで軍事訓練を受けたかなどの記述はないし、武器調達その他の説明もない。ダッカ事件だってもっと詳しく書いてくれればいいのに、なにやら思想的背景をだらだら描いて、実際の様子は一ページ未満。

 むろん彼女の戦いは失敗に終わり、何ら成果もあったわけではない。最後の部分にはそれについてひたすら総括と自己批判と反省が並び、まるで中国やカンボジアのつるし上げ自白文書みたいなのだが、驚かされるのは本質的なところでは何ら彼女は自分の活動に疑問を持っていないこと。単に手法的に誤りがあったというだけ。

 だが、そもそも手法に拘泥したのが誤りだった、と彼女は自分で認めている。「建設すべき社会を描かず」、武装闘争やプロレタリア独裁といった手法だけに専念してきたのが誤りだったという(p.477)。だから手法なんか反省しても無意味なはずなのだ。彼女は、その反省をへて自己批判して「民主主義の徹底をとおして日本をよりよく変える」という結論になったという(p.478)。でも、民主主義も手段でしかないことに彼女は最後まで気がつかない。それでどんな社会を? 結局彼女はそれに答えられない。さいごまで彼女は手法の話しかできない。しかも以前の手法上の誤りは、自己批判すれば水に流せるかのようなお気楽で空疎な書きぶり。

 その進歩のなさが、本書のいちばん怖いところかもしれない。むろん彼女としても、今更自分の人生が完全な失敗だったと認めるわけにはいかないのかもしれないのだけれど……

 

Warner et al. 『Dissection』:医学生がジョークで撮った解剖記念写真集。医学と死体解剖のあり方を考えさせる、二度と作れないだろう傑作。, 2009/8/22

 医学部の学生が解剖実習の最中に「壁に耳あり障子に目あり」と死体でふざけてみせて、退学になったという都市伝説がある。それは死者の尊厳を冒涜するけしからん行為だ、と。でも、ぼくは医師にそういう道徳を要求してはいけないと思う。あくまで冷徹に単なるモノとして人体を扱えなければ医療なんかできない。常人とちがう目で人を見られなければ医者の資格はない。そういう精神を得るためには、死体を冗談のネタとして扱うのも十分ありか、必要なことだろう。

 そして実は、世界中でいまも昔もそれは行われていることだ。本書はアメリカの医学生たちが残した、解剖実習の死体記念写真だ。どれもジョークばかり。死体に服を着せてポーズをさせたり、寸劇を演じさせたり、ふざけた銘板をつけたり。あまり公然とは公開しなくても、内輪ではみんなが撮って、みんなが回覧していたらしい。本書はそれを大量に集めてみせる。

 不謹慎だ、と顔をしかめる人もいるだろう。それと、一応死体の写真集なのでグロはグロだし、決して趣味がよくないのも事実。でも本書の学生たちは、死体をモノとして切り刻む一方で、こういうジョークを通じてそれが人間であることを必死で再確認しようともしている。悪趣味ではあっても、それが本書の写真に奇妙な真剣さを与えている。本書をみて、一方でぼくたちが死体に対して持っている迷信じみた思い入れを再確認するとともに、医学というものが本質的に持つ困難も感じられるのではないか。いま、変な人権配慮から、こうした死体解剖もやりにくくなり、バーチャルな解剖で実習をすませようという運動もあるとか。それがいいことかどうかも、この不思議な美しさと楽しさと気色悪さを兼ね備えた本書を眺めつつ、お考えあれ。おそらく同じテーマの本は二度と作られることはないだろう。

レヴィ=ストロース神話論理1』:論理があまりに粗雑で恣意的に過ぎ、読む価値があるか疑問, 2006/4/17

レヴィ=ストロース集大成として原著刊行以来30年待たされた邦訳。火を通すことと生の食物と腐敗の関係および文化のかかわりとか、火を通さなくても食える蜂蜜の意味とか、アイデアとしておもしろい部分はたくさんあるのだが、いかんせん、全体として論理のロの字もない大変に困ったシリーズ。

神話には神話の論理があり、それはある基本ストーリーをベースとして、論理的な一貫性を持って各種構造変形が適用された結果なのである、だからあっちが変わったらこっちも変わるのだ、という話をして図解したりもするが、ベースとなる神話群の全体像がないし、要素の同定もないため、各種指摘は大変に恣意的。勝手なときには「神話は口承なので細かい一貫性はない」と平然と抜かし、でも勝手なときには細かい一貫性だけを根拠に話を進め、アマゾン原住民の神話について分析していたのに、都合のいい神話がみつからないと「北アメリカインディアンの神話では……」そしてさらには「フランスの伝承では……」とまるっきり関係ないものを持ち出してきて「神話論理とは全人類が共通して持つ構造だからいいのだ」って、そんなことを言えば何でもありじゃん。というわけで、まともな分析にはまったくなっていない。親族の基本構造では、単位は明確だし、全体像もはっきりしていたから構造的手法も適用できたが、ここではそれがまったく機能していない。

レヴィ=ストロース初心者は絶対に手を出してはいけないし、ある程度読んでいる人でも大変に苦労するだろう。そしてその苦労(とこの高価格)に見合った報いは、たぶん得られないと思う。

レヴィ=ストロース神話論理3』:お作法も人間と自然の大きな差、という主張だが議論は整理が弱く中身が薄い。, 2009/8/21

食卓作法の起源 (神話論理 3)

食卓作法の起源 (神話論理 3)

 神話論理の第三巻。いずれの巻もものすごい厚さなのでビビるのが人情だが、実はほとんどは細かい神話の細部をあれこれ追っているだけなので、アメリカ先住民神話によほど関心がなければ細かく読むだけ無駄。そしてその細かい分析は、著者のテーゼ理解にほとんど役に立たない。

 本シリーズの結論は、もう第一巻で出ている。人は自然の一部でありながら、自然とは一線を画す存在だ。それを区別するのが文化だ。料理は自然を人間化する文化的行為なので、神話において非常に重要な役割を果たす。だから神話の中で生のもの、火を通したもの、腐ったものという対比が随所に登場し、食物の中身が変わってもそうした関係が(構造的に)維持される。それが第一巻。

 さて第三巻では、この関係を拡大しようとするんだが、生のモノは串焼きに近く、火にかけたものは燻製に近く、腐ったモノは煮たものに近い……でもそれは、あらゆるレベルでこのモデルにしたがうわけではなくて一例にすぎず云々となると、そこで言われている構造って何?

 本巻の主眼は、喰うときのお作法だ。カエルを嫁にしたが、人間みたいに音をたてて礼儀正しく喰えませんでした、といった神話がたくさんある。そういうお作法を守るのも、人間と自然とを分ける重要なポイントだからだ。そしてそれは、モノを作る/作らないという区別にもつながる。が、その細かい論証は、きわめて不自然。p.379-397では神話の数字へのこだわりを述べ、いろんなところで5や10が重要な数になっていると述べてそれをあれこれ文化的に理屈付けしてみせる。でもそれって、単に指の数の反映じゃないの? でも著者はそういう当然の発想をせずにあーだこーだ。

 そして裏表紙などで仰々しく言われている「結びの章のペシミスティックな言明」とは、昔の人たちはタブーを犯すと世界が乱れると言ってそれを戒めたから世界への配慮があったけれど、現代世界は世界が自分を乱すことばかり心配していて、自分を世界より先に考えてけしからん、というだけの話。それはそういう文化的なテツガクよりも、文化の背景にある技術能力の差ではないの? しかも、それは本書のそれまでの議論とはあまり関係ない思いつきのような付け足し。

 ホント、最初と最後を読んで、途中は各章の冒頭の神話だけ流し読みしておけばいいのでは? それすらする価値があるかは不明だが。ちなみに、これが次の巻で一気にまとまって見事な世界が展開する……ようなことはまったくありません。次の巻はさらに混乱してひどくなります。

Kiernan『The Pol Pot Regime』:読み物としての価値は限定的、資料としては充実だが背景知識は必須, 2009/4/14

 大量虐殺研究家のベン・キアナンによる、ポル・ポト政権に関する本。450ページにわたる分厚い本で、カンボジアの情報源を縦横に駆使した研究書としてはきわめて充実している。ただし研究者の書いた研究書の常として、細かい事実関係の記述は実に詳細だけれど、それが羅列にとどまり、いささか無味乾燥。また、序文でざざっとクメール・ルージュが政権を握るまでの背景を30ページほどで流してから、第一章はいきなりクメール・ルージュがプノンペンを制圧して都市人口を田舎に行軍させるところから始まる。ポル・ポトの留学時代の話や思想的背景とかはまったくなし。また、かれらが政権をそもそも握るまでの合従連衡の説明も弱い。

 ポルポト「政権」が何をしたかという本なので、1975以前の話は書かないという割り切りはありだとは思うが、そのため行動の背景説明をほとんど割愛する結果につながっており、何が起きたか知らないとたいへん理解しにくい。

 またこの第3版は2008年刊だが、2004年に出たショート「ポル・ポト—ある悪夢の歴史」への言及が一切ないのはびっくり。キアナンがショートの伝記を不満に思い、いくつか見解の相違もあるのは知っていたが……しかもショートが大量に参照している中国の資料にすら一切触れていないのは、研究書としての価値も下げていると思う。2008年の改訂としては不満足なものだと考える。  カンボジア中心の資料としてはたぶんこの本が最高。だがもう少し広い目配りと、時代的にも地理的にも広めの視点が必要で、読み物としてのおもしろさを求めるなら、ショート版もあわせて見るべきではないか。とはいえ、ショート版訳者としてのひいき目もある可能性はご考慮を。

アマゾン救済 2008年分 3

ウォズニアック『アップルを創った男』:あまりエピソードがなく、また怪物の怪物たる所以についての洞察が皆無で残念。, 2008/12/29

 いわゆる「もう一人のスティーブ」は伝説であり、かれの設計したアップルIIおよびその周辺機器に触れた人なら、その先進性、シンプルさ、エレガントさ、その他あらゆる面に感銘を覚えなかった人はいないといっていい。その天才ぶりは疑問の余地はない。

 しかしウォズニアックは基本的にはひたすら部屋にこもって設計をしているのが好きな生粋のエンジニアであり、生涯に伝記として読んで楽しめるようなエピソードがあまりない。前半など小学校時代のあまりおもしろくない思い出ばなしが延々と続いており、それもことさら生彩があるわけでもない。

 技術的な説明もほんのさわりだけで食い足りない。そして天才の常として、自分がなぜそういう非凡な着想ができるのかがわかっていない。このため、なんでも「見てたらできた」「考えたら思いついた」といった話しですべてがすんでしまう。

 たとえば当時、大容量記憶装置として急激に脚光を浴びたフロッピーディスクは、当時のパソコンにとってはきわめてハードルの高い、機械駆動部分と電子部分の混在するまったく新しい世界で、制御用のインターフェース基板を見ても、既存のDOS製品向けのものでは各種LSIディスクリート回路がてんこもりになっていた。ところがウォズの設計になるアップルII用のインタフェース基板は、ICがたった二つという信じがたい代物。こんなものでそもそもまともに制御できること自体が不思議だったが、それがアップルのシステムとシームレス(当時としては)に合体した環境を作り上げていたのはそれ以上の驚異。ソフトとハードの両方をすさまじい水準でこなす天才の作でしかありえず、どうしてこんなものが可能なのか、そのハードとソフトの切り分けの発想は――これだけでも聞きたいところ。  ところがそれについての本書での記述は「いらないものを削っていったらできた」というだけ。何をどういう考え方で「いらない」と判断したのかが知りたいんですけど……。どこにかれを天才/怪物たらしめている着想のちがいがあるのかを知りたい読者としては、肩すかし。たぶん、当人すらわかってはいないんだろう。でも、せっかくライターがついてるんだから、そこをつっこんで欲しいんだけど……

 ところがこのライターはかなり水準が低くて、DRAMって何、といった解説にページをやたらに使う。本当に技術的な素人読者を対象に置いているんだろうけれど、それはまちがいだと思うんだが。おかげで、本当におもしろいところがつっこみ不足になり、隔靴掻痒の感がまぬがれない。

 かれの人生の転機になった飛行機事故の話しも、記憶にないとのことであまり詳しくない。そしてアップルIIIをはじめ失敗についての記述も、分析に深みがない。さらにアップルをやめてからは、ほとんど何も起きないに等しい。コンサートとか新規プロジェクトとか、すべて持ち出しの手すさびにとどまっている。このため全体として伝記としてはおもしろみと生彩に欠ける。もちろん、それがウォズニアックらしいとはいえるし、また年寄りは読んでなつかしい部分もあるが、それだけで終わってしまっているのは残念。翻訳は、そうした部分をうまく活かせるものにはなっている。

サッセン『グローバルシティ』:日本のバブル永続を想定した古い本。すでに理論は完全に破綻、今更翻訳する意義はあったのか?, 2008/12/26

 原著は日本のバブル絶頂期の本(を5年前くらいに改訂したもの)。古くても洞察の衰えない本はあるが、本書はバブルが永続することを前提に書かれており、その理論すべてが無残に崩壊。いまさらなぜ翻訳したのかまったく解せない。

 本書の主張は、いまや都市が新しい生産拠点だというもの。情報インフラの発達で、生産拠点と本社機能が分離できるようになった。このため、本社機能だけを集めた都市が成立し、それにサービスを提供する会計事務所や法律事務所、金融サービス等が都市に集積。そしてそれが新しい金融商品などの財を生産することで、自律的に発展。都市(のエリート)だけが自由に発達し、工場を押しつけられる途上国(と都市の下働き)はいつまでもたこ部屋状態で格差は広がる一方。もはや国は意味がなくなり、企業体がその格差の中で永続化するというのがその議論で、反グローバリズム的格差論に都合がいいこともあってもてはやされた。

 が、本書の初版が出ると同時に、日本のバブルが崩壊、都市の生産や自律的発展というお題目は一気に崩壊。国は関係ないはずなのになぜ日本のバブルが東京の発展を阻害したの? 国にはやっぱり重要な意味があるのだ。さらに工場が集中した東南アジア、中国、インドは、やがて管理機能も移り、所得もあがって消費も拡大、研究開発も移り、大発展をとげた。もちろんその国内では細かい格差が出ている。でも先進国の都市拠点vs途上国低賃金工場という構図が固定化するというのはまったくの見当違いで、その格差は縮まったことはいまや明らか。第二版や日本版序文ではそれを必死に取り繕おうとしてはいるが説得力なし。そして生産拠点だったはずの投資銀行も、サブプライム以降はもはや事業機会がなくなって次々に解体し、都市内格差もどうなるか怪しいところ。

 結局いまの世界で、上海も北京もバンコクもドバイもバンガロールも何も説明できないグローバルシティ論に、何か意味があるだろうか? そしてその問題点を自分で指摘できない著者&訳者は、営業的な配慮をさしひいても学者として(能力and/or誠実さの面で)問題ありでは?

ジョージ&ウルフ『徹底討論グローバリゼーション賛成反対』:死んでもなおらないある病気の人に、ウルフが親切に教えてあげる教育的配慮に充ちた本。, 2008/12/24

 たいへんにおもしろい本だが、それをおもしろく思うのはぼくのような嫌みな人物だけかもしれない。多くの人はいらだつのではないか。スーザン・ジョージのあまりのひどさに。

 基本的には、スーザン・ジョージはあらゆることについてあまりに無知。貧困者が減っていることも知らないし、東アジアがグローバリズムの恩恵である輸出振興で栄えて貧困を脱したことも理解しておらず、そもそも貧困の定義すらご存じない。ウルフはそれに対して一つ一つ辛抱強く、それがなぜまちがっていて見当違いの議論かを説明し、スーザン・ジョージはそれに対して反論できずに論点をずらすしかない、というのが連続する。このため、両者の話がかみ合っていないように見えなくもないが、スーザン・ジョージが自分のまちがいを認めてそこから議論を発展させようとしないだけ。

 またトービン税についても、「なんで貧困対策の財源をトービン税に?」という至極当然のウルフの疑問に対し「理由なんかなくて、とにかく金がそこにあるからだ」というひどい開き直りぶり。学ぼうとしない人は何も学べないという見本がここにある。

 訳者もまたその見本の一人。反グローバリズムのお題目にだけ反応している愚かな現代思想学者で、せっかくこれだけていねいでわかりやすいウルフの説明を訳して精読したにもかかわらず、その議論がまったく理解できていないイタい解説を書いて平然としているのは失笑モノ。全体にいやみな感性があれば笑えるし、また軽傷の(頭のいい)反グローバリズムかぶれの人が読めば、目が覚めるよい本だとは思う。

ヴァンダービルト『となりの車線はなぜスイスイ……』:交通工学の本であるとともに、人間心理の事例集でもある楽しい本。, 2008/12/19

となりの車線はなぜスイスイ進むのか?――交通の科学

となりの車線はなぜスイスイ進むのか?――交通の科学

 おもしろい! 渋滞はなぜいらいらするのか、車に乗るとなぜ人格が(悪い方に)変わるのか。人を型にはめて判断してはいけないと普段は言っている人が、車については妙にドグマチックになるのはなぜか、道を増やしても交通渋滞が減らない理由、カーナビのジレンマ(いちばんいいルートをカーナビが選ぶと、そこに車が集中してかえって遅くなる等々)、車線合流はどうするのがいいのか。どれも車でありがちな話を、心理学や交通研究から軽妙に説明した非常に楽しい一冊。

 最近、行動経済学系の本がたくさん出ているけれど、本書はそれらの基礎にある知見を経済行動以外にもあてはめてみせた(部分もある)、ちょっと目先の変わったしろもの。本書で述べられている、人々のリスク判断とその歪みなどは、他の分野でも大きく効いてくるもの。本書を読むことで、行動経済学的な話も理解しやすくなり、視野も広がる。もちろんどれも決定的な答えがあるわけではないし、渋滞からぬけられるようになるわけでもないけれど、でも人は理由がわかると苛立ちが少なくなるとは本書でも指摘されていること。なぜ自分が渋滞で頭に来るかわかれば、多少は心も穏やかになるかもしれませんぞ。

フェイガン『千年前の地球を襲った大温暖化』:煽りすぎの気はあるが、変動を抑えるより適応策を考えようという堅実な提案の良書, 2008/12/14

千年前の人類を襲った大温暖化

千年前の人類を襲った大温暖化

 おもしろい本。小氷河期が人類史上あまりよい時代ではなかったことは知られているけれど、一般によい時期だったと思われている中世温暖期も、実はあちこちで干ばつが起こっていて人類大変でした、というのが基本的な主張。ジンギスカンの活動も、マヤ文明やクメール文明も、温暖期のおかげで発展した一方で、それがもたらした干ばつで滅びました、というのはなかなか興味深いし、おもしろい読み物。

 ただし、数世紀にわたり全地球を探せば、そりゃどこかの文明は滅びているだろう。それを列挙して、だから温暖期は恐ろしい時代だったといえるの? マヤやクメールは、そもそも温暖期のおかげで栄えたわけだし。さらに、当時つらかったから今の温暖期も文明滅びそうといわんばかりのレトリックは不誠実。経済のほとんどが農業で世界貿易がまったくなかった時代は気候変動の影響は大きいだろうけれど、現在は条件のいいところで食料生産をしてそれを貿易で他に運べばそんなに被害は出ないし、文明が滅びるなんてことはたぶんない。

 でも本書は一見すると誤解されがちなんだけれど、こわいから排出削減をがんばろうというありがちな主張はしていない。人類は気候をコントロールなんかできないんだから(つまり排出削減なんか無意味!)、むしろ適応策をよく考えようというのが最終的な提言になっている。その中で干ばつの影響もよく考えてね、というわけ。これは前著などからちょっと立場を変えているので読み取りにくい書き方になっているけれどおまちがえなきよう。そしてそうした提言を離れても、数世紀の世界各地にまたがる話をうまくまとめた、楽しい読み物に仕上がっている。