Amazon救済 2014-2016年分

ブエノスアイレス摂氏零度』: ブエノスアイレス 撮影秘話、別ストーリーに別エンディング!この値段ならファンは必見, 2016/6/19

ブエノスアイレス 摂氏零度 [DVD]

ブエノスアイレス 摂氏零度 [DVD]

  • 発売日: 2014/11/28
  • メディア: DVD

久々に映画館で見たので、懐かしくて検索しているうちに出くわしました。王家衛監督『ブエノスアイレス』のメイキングで、非常によくできています。主軸は関係者(現地の手配担当など)との関わりですが、映画のファンにたまらないのは、使われなかったトニーレオンの自殺シーン、はるばる呼び寄せられたのに、最終的な作品にはまったく登場しなかったシャーリー・クワンの場面、チャン・チェントニーレオンといっしょにレストラン厨房で働いていた野球帽の青年)の登場する他の大量のシーンなど。トニーレオンは、当初は最後にシャーリー・クワンといっしょにイグアスの滝にいくような撮影になっていたんですねー。王家衛自身の様々なコメント、トニーレオンレスリーチャンのタンゴのレッスンも非常にいいと思うので、是非是非!

U字水道管: 問題なし。なお、パッキンもついていますので、別に買う必要なし!, 2016/6/3

流しの排水管が避けていて、いつの間にか水漏れするようになっていたので交換しました。素人でも簡単にできます。なお、両側のパッキンもついてきます。アマゾンだと、一緒に買うようおすすめで出てきますが、必要ありません。今後買う人のご参考まで。

『ダイヤモンド ピケティ特集』: 奥谷禮子コメントを見逃すな! ピケティに対抗して大化の改新まで遡る偉業! 2015/2/10

そろそろピケティ特集も、本体の解説は食傷気味なのか、このダイヤモンドではむしろ周辺の人々の反応を中心に載せております。とはいっても、他でも見かけた似たようなメンツも多く、いまいち新味が出せていない……と惰性でページをめくるなかで行き当たった衝撃のピケティ評が、p.51 の奥谷禮子によるコメント! こいつはすごい。日本で格差が出たのは若者の責任感がないからだとか、企業はでたらめな労務管理はできないといった次の文で、でも健康管理は労働者の自己責任だと言い放つ。この短さでここまで支離滅裂なのは、一種の曲芸ともいうべき技でクラクラします。2千年前から r と g を示したピケティに対抗し、大化の改新までさかのぼった、歴史性の豊かさも衝撃です。他もたかが半ページにつっこみどころ満載で、突っ込み密度は最早ブラックホール級。逃げられません。ダイヤモンドは、これを計算ずくで載せているとしたら、すばらしい策士ぶり。ここのところは必読!  でも半ページなので立ち読みでもいいかな。

前半はまあまあですが、受け売りの際にはご注意を。, 2014/12/16

ピケティ入門 (『21世紀の資本』の読み方)

ピケティ入門 (『21世紀の資本』の読み方)

  • 作者:竹信 三恵子
  • 発売日: 2014/12/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

前半のピケティ『21世紀の資本』のあらすじ説明は、まあまあ普通です。ただ、有名な r > g の式に出てくる r をガンマだと思っていて、読み仮名つきで γ (ガンマ) とやってしまうという (p.21) 、この分野の基礎知識の欠如が出ています。受け売りする際には十分に注意してください。

後半はそれを日本に適用し、アベノミクス「批判」をしています。が、常に全体的な傾向をきちんと把握せず、個別の事例や細かい政策だけをとりあげて文句を言うという不適切な議論が展開されます。第3章では、カルロス・ゴーンが高給取りだ、高給取りが増えたというのにケチをつけますが、そりゃ金持ちはいるでしょう。でもそれが経済の中でどういうシェアを占めるのか考えなくては話になりません。また4章以降のアベノミクス批判は、通常言われるアベノミクスの大枠(三本の矢というやつ)はほとんど無視して、被災地の女性就業策が弱いとか、労働の規制緩和がダメとか、個別の政策についての論難に終始。それも、きちんと政策評価しているのではなく、著者の印象を挙げただけです。賛同できる部分も多少はありますが、政策批判としてはお話にならないレベルです。で、ピケティがそれにどう関係してくるかというと……関係しません。格差が大きな問題だと言っている、という入り口の話だけであとはまったく出てこない。ピケティはそういう個別政策にまで入り込んだ議論をしてないから当然なんですが。

冒頭の記述によると、編集部に本書を書けと言われるまでピケティを読んだこともなかったとか。解説を書かせるなら、多少はピケティが関心領域に入っていて基礎知識のある人にやらせたほうがよかったのではないかと。おすすめはしませんが、前半のアンチョコ部分は、まあまちがってはおりません。

2015.1.23追記:本日書店で見た第六版では、上の γ(ガンマ)は r になおっていました。まちがいを直すのはよいことです。

アレクサンダー『形の合成/都市はツリー』: アレクサンダーの入手しにくい著作をまとめてくれて感謝。でもこの変な本文の組み方は?, 2014/2/26

ずいぶん昔に出て、長いこと入手しにくかった「形の合成に関するノート」。アレクサンダーが、いまのような宗教がかった話に入り込まず、理論的な機能造形の構築手法を考えていた時代の本で、パタンランゲージの各種要素組み合わせによる建築のアイデアの萌芽が見られ、なかなかおもしろい。またあわせて収録されている「都市はツリーではない」は、形の合成でのアプローチをいわば否定して、もっと複雑で階層化されないものとしての都市を考え始めた有名な論文。なかなか手にいれにくかったので、こうしてどちらも読みやすくなったのはすばらしい。のだが……

本のつくりが異様。本の下の余白がまったくなくて、ページぎりぎりまで字が迫っていてびっくり。なんだか、「形の合成」を改めて組み直すさずに、昔の版を無理矢理この判型に押し込めたような感じになっている。なぜこんなことに?

ある意味でこの二冊とも、手に取る人の大半はアレクサンダーに興味があって、その考え方の変遷をたどりたいと思っているのではないかと思う。その意味で、ちょっとマニアックな本なのであまりきれいに本として作り直す手間をかけたくなかったということだろうか。でも、一部(たとえばこの評者)は、この頃のアレクサンダーが持っていた可能性のほうがおもしろいと思っているので、もう少し読みやすさとか本としての作りに配慮してくれてもよかったように思う。

Amazon救済 2013年分

カプチャン『アメリカ時代の終わり』:邦訳が出た時点ですでに古び、2013年から見て完全に状況を読み損ねた本。, 2013/9/3

アメリカ時代の終わり〈上〉 (NHKブックス)

アメリカ時代の終わり〈上〉 (NHKブックス)

内容的には他のレビューアーの言う通り。アメリカは今後、もう他国にあまり介入しないようになるだろうという本。EUがもっとがんばれるし、中国もおとなしくなるし、というわけ。

だが、この原著が出た時点ですでにアメリカはアフガン爆撃を行い、その後もイラク侵略を行い、あれもやり、これもやりという具合。著者の見立てはまったくあたらず、アメリカは(大した用もないのに)ユーラシアに相変わらずちょっかいを出し続けている。さらにその後、EUはユーロ破綻により迷走を続け、ユーラシア大陸の面倒などとても見られそうにない。そして中国に関しても、本書の見立てはきわめて甘かったと言わざるを得ない。つまり全体として著者の見通しはまったく妥当性を欠いていたということになる。

もちろん、本書は長期的な戦略やマインドの話であり、十数年くらいの状況だけで評価するわけにはいかないのかもしれない。確かにアメリカはだんだん世界の警察をやるのに疲れてきてはいるようだ。その意味では、まったくピントはずれではないのかもしれない。さらに、本レビューは岡目八目のそしりは免れまい。だが 2013 年現在から見ると、本書の価値はきわめて低い(いや当時も低かった)と言わざるを得ないし、おそらく刊行当時の一部の論調を知る意外に読む意味はないだろう。

Mahma『Autobio』: Only if you have a personal interest in the Author., 2013/8/21

My First Coup D'Etat: And Other True Stories from the Lost Decades of Africa

My First Coup D'Etat: And Other True Stories from the Lost Decades of Africa

If you know who the author is, and (for whatever reason) have a personal interest in him, then this book MIGHT be interesting. However, if you are looking for some insights into Ghana (and Africa) today, this book is totally useless.

The book traces the life of John Dramani Mahama, the current vice president of Ghana, from his childhood to graduating college (and coming back from USSR). It tells the strory of how he stood up (sort of) to a bully in school, how his friends formed a school band, his first crush on a girl and writing her a series of love letter (supposedly his first “writing” career), how he became a socialist, how he went to college, his (father’s) temporary escape to Nigeria, how he went to USSR, how he had trouble getting to the capital city for college application. This was a time when Ghana went through some political instability, where military rule was sort of scary, and some cursory descriptions are there as backdrops to his life stories.

However, unless you have some personal interest in this person, it’s not particularly interesting. I don’t think the episodes are particularly bad, but nor are they too good, and it lacks the power to resonate with more general wider issues. He had a girlfriend but she moved away. Oh. How sad. He did go through some hard times, but on the other hand, he comes out as a rich kid from a wealthy family who didn’t really suffer. He doesn’t get beaten up much, doesn’t go to jail. It’s always friends or teachers or brothers that get the raw deal. It’s hard to sympathize with the character except for at some very generic level. Also, to understand the book, you probably have to have some idea about the geography of Ghana, and basic knowledge about it. Like, where Tamale is, what position is Kumasi etc., and the sort of the slight tension between people in northern and southern part of Ghana. I worked in Ghana for nearly a year, and so I understand these quite well. But without such knowledge, why the author would want people to understand the difference between north and south Ghana would be hard to understand.

The book ends at about 1990. At that point, he hasn’t made any strides into politics. Therefore, there’s absolutely no description about the present day dynamic Ghana, or the political situation there. Or about the future of Ghana. Maybe I’m asking too much, but when you read a memoir of a big shot politician, I think its fair to expect some comments about his view on the current situation of his country or ideas or the world. Nothing like that here.

So, I don’t know who would want to read this, or who gets any benefits out from this book. I’m not sure why everyone is giving these rave reviews, because I really don’t agree with them. Maybe because I’m Japanese. Maybe people of Ghanian decent may enjoy this, but I really can’t recommend this to anybody.

大谷他『<建築>としての……』: アイデアはおもしろいが書評は凡庸でアイデアを活かせていない, 2013/5/20

〈建築〉としてのブックガイド

〈建築〉としてのブックガイド

ぼく自身が書評をあちこちで書いているので、人の書評にはかなり厳しくなってしまうのだが、すごくほめたい本ではない。建築(というか、家ですな)のいろいろな部分ごとに本を割り振って書評を書き、その中でその割り当てられた部屋と多少こじつけめいた関連をつけようという試み。たとえば風呂場に割り当てられた本の書評は「この本は湿気に満ちている」とかね。そのアイデア自体は、まあまあおもしろいか。

でもそれぞれの書評やブックガイドの8割は、決しておもしろくはなく、自分語りに堕しているし、その建物との対応もおざなりで後付めいている。本というのは、ある人間の考えなりイメージなりで構成される空間を切り取るもので、それを読むのはその(何次元になるかわからないけれど)空間の中をさまよう行為でもある。でも本書の書き手の多くは、本のもつそうした空間性にかなり鈍感で、その壁や床といった面や部分しか見ていない。少なくともそういう書き方しかしていない。

そして、結局このブックガイド全体で構成された建築とはどんなものだったのか? 一部の頭でっかちの現代建築理論はさておき、ふつう建物というのは用途がある。このブックガイドで構成された建築は、何のためのものなの? 本書はそれが最後まで明確にならない。序文を見ると、何らかの寄せ集め的な建築をイメージはしていたようだが、寄せ集め建築にも寄せ集めの必然性と用途があるのね。本書はそれが最後まで見えない。いったい、ホンマタカシの玄関から入って丸谷才一の廊下を通り、宮崎学の書斎につながる空間とはどんなものか? つまりそのそれぞれの本の間のつながりやまとまりはどうなっているんだろう。建築を考えるというのはそういうことなんだが、この本は個別の部分の造形だけで話しをしていて、最終的な建築全体にまで考えが及ばない。その意味でアイデア倒れ。エッセイとして一部おもしろいものもないわけではない。が、書評集として特に成功した試みとは思えなかった。

ライハート&ロゴフ『国家は破綻する』: 力作ながら、2013年4月にデータ処理のミスが発覚、本書の結論の大きな部分がまちがいとなった模様, 2013/4/18

国家は破綻する――金融危機の800年

国家は破綻する――金融危機の800年

 本書は、金融危機債務危機と不景気の繰り返しを歴史を追って述べた本で、それなりの影響力を持っていた。特に、国の債務水準が上がると(GDPの90%を超えると)経済成長率がマイナスになる、という結果が出ており、この研究を根拠に、ユーロ危機においてもギリシャやスペインやイタリアに厳しい財政再建要求がつきつけられることとなった。

でも2013年4月に、この結果が追試で再現できないことが判明し、ロゴフ&ラインハートが使ったエクセルシートを見ると、一部のデータを取りこぼしていたことがわかった。それをきちんと採り入れると、債務がGDP 90%超えても経済成長率はマイナスにならない(ただし少し成長がわずかに鈍るのは確か)。

すると本書の結論のかなりの部分、特に政府債務要注意とか財政再建しないと経済成長もできないといった部分は成り立たなくなるし、また本書の処方箋を信じた多くの政府(や国際機関)も、実はあまり深刻ではないことに目くじらをたてて国民を苦しめていたということになる。

いまでも本書の一部は読む価値はあるし、いくつかの歴史分析はおもしろい。でも全体の価値は激減してしまったと言わざるを得ない。

尾山他『経済数学』: 日本経済の現状を無視した許し難いデフレ本。 2013/3/22

改訂版 経済学で出る数学: 高校数学からきちんと攻める

改訂版 経済学で出る数学: 高校数学からきちんと攻める

 我が国経済は過去二十年にわたるデフレに苦しめられており、近年ようやく日銀の方針変更(と期待されるもの)によりその脱却が本格的に始まろうとしているところである。だが本書はせっかくのインフレ期待を踏みにじり、日本を再びデフレの渦にたたき込みかねない、許し難い一冊である。

 前バージョンから5年たって出た本書は、確かに価格だけ見れば2000円–>2205円と価格上昇が見られる。これは年41円の上昇であり、その算出法および図示法については本書pp.1-3 に詳細に記述されている。一方、増加率で見た場合、これは5年で10%増、年率では2%弱の増加となる (pp.72-75)。したがって一見すると、物価上昇に貢献しているかのような印象がある。

 しかしながらよく見ると、実は本書のページ数もまた230–>380と大幅に上昇している。このため、ページあたり単価で見た場合、8.7円から5.8円と大幅な価格下落が見られ、なんと年率8%近い価格低下である。むろん、個別商品の価格下落と物価全体の下落とは混同すべきではないが、一方で物価全体はミクロの個別商品の総和でもあり、本書もデフレ傾向にそれなりの寄与度を持つと考えるべきである(本書には寄与度の計算は出ていないが)。

 むろん商品の価格設定は需要と供給を見据えた上で生産者にとっての利潤を最大化するところに設定されるものであり、それが市場均衡点となるのはEcon101である。本書でも、いたずらに数学の解説だけに陥らず、こうした経済学への応用も含めた解説が行われている (pp.10-30)。同時に、生産費用面から見た利潤最大化も考えるべきであり (pp.32-41)、また他の(少なくはないが限られた)類書との寡占市場と考えればそれをゲーム理論的に考えることもできた (pp.43-52)。また実際の価格決定はさらに複雑であり、ラグランジュの動員も必要となろう (p.222-226)。だがいずれの場合にも本書が真に利潤&効用最大化を実現できているとは考えにくいのである。

さらに同時に著者たちの労働を考えた場合、こうした充実かつ平明な内容のものを執筆するにはかなりの労働投入が必要であったことは容易に予想され、それが著者たちの労働と余暇の配分において効用を最大化できるものであったかは、本書pp.231-232などの問題に当てはめれば容易に解けるように、はなはだ疑問であるといわざるを得ない。こうした効用最大化を無視した低効用な過労をうかがわせる商品はまさにデフレ下の劣悪な景気状況の反映である。

 ただしこれは技術一定を想定した場合であり、技術革新(ex. コンピュータ等執筆環境の改善および活用できる学会の知見上昇)を想定した場合の分析はソローモデル (pp.339-345) の活用も視野に入れるべきかもしれない。本書にはこれも説明されている。

 我が国若手経済学者の期待株がこのように、日本経済の現状と希望はもとより経済合理性すら無視した本を出すとは嘆かわしい限りであり、堕落と言わざるをえない。それについて、まさに(この書評でやったように)本書の説明を使って理解できるのも本書のトンデモないところ。むろん消費税率の引き上げに賛成した多くの経済学者よりは罪は軽いだろうが……

 とはいえ本書が人気を博すれば、利潤の高い各種スピンオフ事業が本書から派生することで本書自体のもたらしたデフレ傾向が相殺されるという可能性もある。さらに需要高踏による価格上昇も可能性としてはある(たとえばさらに改訂増補版が出るとか……)読者諸賢は日本経済のためにも、このいたずらに低い価格にまどわされることなく、数少ない「よいデフレ」の実例としてこれを享受し、買い支えることが求められよう。

吉川『デフレ』: 不況は需要不足が問題といいつつ対策は供給側の技術革新に増税?, 2013/3/12

デフレーション―“日本の慢性病

デフレーション―“日本の慢性病"の全貌を解明する

日本のケインジアン代表と聞く吉川洋が、デフレについて書いた本なのだが非常に混乱した本となっている。過去20年強にわたる日本の不況について、ケインズ派として需要不足が問題なのだと言うが、その需要不足を解決する手段というのがない。それどころか、最後に出てくる提言は供給側で「需要創造型の」イノベーションを促進すればいい、日本はデフレでコスト削減ばかりやるようになったのでイノベーションが減ったのがいけない、とのおおせ。でも需要創造型のイノベーションはどうすれば実現できるんでしょうか? それはノーアイデア規制緩和とか。さらになぜ需要創造のイノベーションが減ったかといえば、これもデフレのせいらしい。だったらデフレを何とかしましょうよ、という話になりそうなものなんだが……

ところが著者は、デフレはどうしようもないと主張する。驚いたことに、ケインズ派といいつつ、お金の理論を実体経済と関連づけたケインズの業績はまったく顧みられることがなく、時に流動性の罠などを口実につかいつつ、結局お金(マネーストック/サプライ)はデフレとも景気とも関係ないという話に落ちてしまう。そして金融政策でデフレ脱出というクルーグマンや各種リフレ派の議論に対し、それは貨幣数量説を前提にしているからダメだというだけ。でもその貨幣数量説の否定も、直近のいくつかのデータや19世紀末の話を書いておしまい。もう少しいろいろ研究成果はあると思うし、おおまかには成り立っていたと思うんだが、厳密に成立していないからダメといって全否定。さらに期待の役割もまったく考慮しないので、いまデフレから脱出できなければいつまでも脱出できないことになってしまう。

結果としてデフレは金融的な現象ではなく、実体経済の結果だという話になってしまい、本書の中でさんざん罵倒しているRBCなどの現代マクロと寸分代わらない理屈となってしまっているのは驚き。

さらに政策提言として、冒頭に「消費税率の引き上げはきちんとやれ」という主張が何の説明もなく登場するのはいったい何? 著者は古いマクロ経済学の復権をうたうが、その古い経済学で増税が景気によいという主張は出てきますか?

不況は需要不足が問題と言いつつ、提言は供給サイドの改善と脈絡のない増税主張。ケインズ派といいつつお金の役割を否定しデフレを実体経済のせいと述べ、RBCなどを「役に立たない」と述べつつ自分の主張はそれとまったく同じ。混乱した本と言わざるを得ない。

長谷川『縮む社会で……』悪しき社会ダーウィニズム, 2013/3/6

生物は個体数が増えることもあれば、減ることもある。でも、どの場合にもそれなりに「適応」している。だから日本はいま不景気だけれど、景気回復の努力なんかせずに、不景気と経済縮小に「適応」しなさい、と説く悪しき社会ダーウィニズムの本。

確かに生物は、あらゆる時点で適応しているかもしれない。でも個体数が多い段階から少ない段階に移る中で、一部の個体は当然病気にかかり、飢え、死ぬ。適応というのは、あくまでその後の姿だ。人間社会でそれをやれというのはつまり、次の適応に移行するときに個体が飢え、病気にかかり、死ぬのを黙認しろということだ。つまり、弱者は死ね、強者だけが生き延びろ、それでオッケー。これは通常、社会ダーウィニズムと呼ばれ、進化論の初歩を学ぶときにも強く戒められるもののはず。本書がそれを何のためらいもなしに開陳してみせるのは、驚きをこえて呆れるばかりだ。

もちろん著者の研究するアリは、それを黙認する。でも、人間はそんなことを黙認したり甘んじたりはしない。それにアリが暮らす環境は、アリにはまったく変えることができない。でも人間の暮らす経済は、自然が与えたものではない。人間が作ったもので、それを人間が変えることもできる。そこを無視して、適応しろとは何とお気楽なことか。

また本書は、グローバル化を目指すのは愚か、ガラパゴス化が正しい、自分のニッチを見つけて暮らすのがいいのだ、と述べる。著者はそれが生物学の知見を経済に適用した目から鱗の知見だと思っているようなのだが、まず日本の(いや世界中どこでも)企業のほとんどは国内のニッチマーケットを相手にしている。町の床屋、喫茶店、本屋、その他たいがいの事業所は地元のニッチマーケットで生息している。そしてそうでない企業も、コストをかけてグローバルすべきか、自分のニッチを守るべきかというのは、生物学者に言われなくても企業戦略として日々真剣に考えていることだ。本書の主張はもはや陳腐ですらない。

アリの社会で見れば、働いていないアリもいるというのは合理的なことだ。そしてそれは人間社会でも、多少の在庫を持つとか設備に余裕をもたせるといった点で示唆的かもしれない。でも、だからといってそれを、失業はいいことなのだ、という話に直結してはいけない。アリの気持ちはわからなくても、失業者の気持ちはわかるのだから。それをやらない本書は、人間をアリ扱いして貶め、その個別の苦しみを無視した、お気楽な学者の、無自覚なだけになおさら残酷な最悪の社会ダーウィニズムでしかない。

『プロトタイプ・ターミネーター』総予算300万円のビデオ撮影。, 2013/3/6

 うーむ。フィルムじゃなくてビデオ、それもホームビデオ撮影。冒頭のビデオタイトラーによる題字が涙を誘う。そしてエンドロールを見ると、監督以下主要スタッフ(そして脇役出演)全部同じ人で、編集とかその他いくつかはどうも奥さんらしく、冒頭のナレーションは娘みたい。ホームビデオ!

 冒頭のCGはテレビゲームもどき。異星活動服はペイントボール対戦用のマスク。セットは一つで、その外に出ては戻ってくるだけ。空気が薄くてマスクが必要という設定だけなのに、主人公は「慣れちゃったみたいだ」と称してマスクなしでオッケー。脚本は、とにかく引き出しが一つしかない感じで、伏線といった概念がなく、その場その場で話が完結してしまい、流れとかまったくなし。非線形知性アンドロイドと称するツナギ着ただけのターミネーターねーちゃんとか(本家の女ターミネーターに影響されたらしく、やたらと小首をかしげる演技がうざい)とにかく、唖然とするくらいひどくて、大学生の自主製作ビデオでももっとマシだよ−!

……と思っていたら、作者のページがvimeoにあって、総予算300万円! しかもちゃんと役者に給料出しているとのこと。すごい。それを知ると、なんか愛すべき作品にも思えてくるんだが(だから星二つにしました)、それでも金とって見せられる水準じゃねいぞー! ちなみに、作者は本作が日本でDVDで出ていることも知らず、驚いていました。原題「Exile」。

ガリレオ『望遠鏡で見た……』:「星界の報告」新訳。神をも畏れぬ邪説を唱えたトンデモ本。発禁にすべき。, 2013/3/5

望遠鏡で見た星空の大発見 (やまねこブックレット)

望遠鏡で見た星空の大発見 (やまねこブックレット)

望遠鏡で見ると、星空はずいぶんちがって見えるんだよ、というのをガリレオが、自分の感動を素直に伝えるべく書いた本。最初は、望遠鏡の構造の解説から入り、その後は月はこんなふうに見えて、実はでこぼこなんだよ、とか星座の周辺にはほかにもいっぱい星があるんだよ、というのを述べる。月のでこぼこは望遠鏡なるカラクリを信用すべきかどうかにも関わるので簡単に断言すべきではないと思うが、そこまではいい。

だが問題はその後。ガリレオ木星を観察して、そのまわりをまわっているとおぼしき星の報告を行い、実はすべてが地球を中心にまわっているのではないんじゃないか、コペルニクス説が正しいんじゃないか、という神をも畏れぬ邪説を唱えている。ふつうに教会の教えを知っている人なら決して思いつかないトンデモで、しかもそれが実に淡々と書かれているために、うっかり読んだら信じてしまいそうなほど。同じ星が木星のまわりをまわっているように見える、というんだけれど、別にそんな解釈をする必然性もあるのかどうか。定評ある聖書の教えより、卑小な人間たる己自身のまちがえやすい目を、しかもさらに怪しげなギヤマンのカラクリ経由のものを大仰に言い立てる慎みの欠如は嘆かわしいにもほどがある。

しかもその書きぶりはきわめて断定的であり、それ以外の解釈はあり得ないかのようで、他の可能性をすべて否定している。そうした傲慢な書きぶりでは決して共感は得られないであろう。いたいけな信徒が読むと真に受け、ヘタをすると神の教えすら疑ってしまいそうなので、禁書推奨。著者も不届き千万なので火あぶりにすべきだと思う。

翻訳はきわめて優秀で、中学生にでもわかる。そして訳者の判断がこのトンデモ本の流布に貢献してしまっているのは、pp.56-57の図。原著では、「この日ではこんな感じでした」というのを日ごとに説明しているのをとばして、その図だけを並べている。すると、確かにそれを見ただけで、ああ木星のまわりを他の星がまわっているんだなあ、という印象が勝手に生まれるようになってしまっている。原著の記述だとまだ疑問の余地があったものを、無意味な全訳を避けて図だけ集約したことで、ガリレオの主張がかえってわかりやすくなってしまったという、神様的にはちょっと許し難い邦訳。その意味で厳密には全訳じゃないんだが、全訳よりさらに犯罪的ではないか。でもこうした書き方やまとめ方は、観察日記の書き方のお手本としていいんじゃないか。

訳者が誇る工夫として、長い修飾節を<>に入れる(たとえば、「多くの人にはずいぶん長くて細かい本はわからない」というのを「<多くの人>には<ずいぶん長くて細かい本>はわからない」という具合に処理する)というのがある。ぼくはやらないけれど、でも手法として嫌いではない。LISPみたい。なじめない人でも、そんなにうっとうしくはないと思う。

ただ、何語のどの本をもとにした翻訳なのかは明記しておいてほしかった。また、タイトルは原語直訳が「星空についての報告」で、このタイトルだとガリレオの本だというのがちょっと気がつかれにくくて損をしていると思う。ぼく自身、最初はガリレオとその発見についてのジュブナイル的解説書だと思っていて、実物だと知ってびっくりしたもので。

 あまりの犯罪的内容のため、星は一つにしようかとも思ったが、邪説も悪魔のささやきの反面教師として後世の座興にはなるかもしれないので、おおめにしておく。

Amazon救済 2012年分

ペルッツ『夜毎の……』かすかにふれあう運命の静謐さ。 2012/8/31

夜毎に石の橋の下で

夜毎に石の橋の下で

 ペルッツは、昔かの名作『第三の魔弾』を読んで、七〇年代くらいのラテンアメリカ作家だとばかり思い込んでたんだよね。それが20世紀初頭の東欧作家とは意外や意外。

 で、これはそのペルッツのかなり後期の作品……と書くことにどこまで意味があるのやら。狂王ルドルフ二世に、大富豪のユダヤ人商人、その妻、その財産、ユダヤ教司祭に天使、そのそれぞれの運命が本人すら気がつかないほどかすかに、だが多様な形でからまりあい、そのかすかなからみあいが、それぞれの人生を大きく変えている——読むうちにそれがだんだん明らかになってきて、そして冒頭の短編に出てきた司祭の謎の行動がやがて解き明かされるとともに、すべてのパズルの駒がおさまって、大きな悲しい絵ができあがる——そしてその絵も、もはや語り手が語る時点ではすべて過去のものとなり、これまたかすかな痕跡が残るばかり。

 ラノベに代表される下品な小説みたいに、なんかいちいちでかい事件が起きて、いちいち主人公が「うぉぉぉ」とかわめいたり爆発が起きたり、ラスボスが出てきて「ふっふっふ、実は我こそは」とか説明してくれたりしない。説明がむずかしい本で、とにかく読んで、としか言えないし、ある程度の辛抱と頭のバッファがあって、いろんな宙ぶらりんの糸口を宙づりにしておく能力がないと、それがだんだんとつながって大きな輪になるおもしろさあは感じられないだろう。こういうのをうまく説明できたらな、とは思う。最近、小説系があたりが多いので、それをまとめてとも思ったけれど特に共通点もないのでそれもむずかしいし。 でも、静謐でありつつ運命の残酷さとそのはかなさみたいなのをゆっくり感じたい人にはお勧め。夏よりは冬に読みたい小説だと思う。

斉藤他『地震リスク』: 耐震性の高い住宅づくりや保険加入を行動経済学から実証分析, 2012/4/6

人間行動から考える地震リスクのマネジメント: 新しい社会制度を設計する

人間行動から考える地震リスクのマネジメント: 新しい社会制度を設計する

 中身はよい本なのに、題名も、出版社の内容紹介もまったく本書の中身を適切にあらわしていないのが難点。

 基本的な問題意識は、特に住宅の建設・選択においてどうやって地震リスクをもっと考えた行動を人々にしてもらうか、というもの。耐震性の高い住宅を選んでもらうにはどうしたらいいかとか、それが地価に反映されるかとか、保険加入をどう促進するか、とか。で、その中で日本の住宅ローンの問題も建築士の問題も、中古マンション市場の問題も、マンション改修投資の問題も挙げている。最後には人的資本の影響も見ている(この最後のだけ住宅から離れて他とちょっと焦点がずれるが)。

 ここらへんをちゃんと実証的に検討しているのが本書の強み。定性的には言われているマンション改修のむずかしさの原因を定量的に把握しようとしたり、耐震性への投資を理論で考えたり、保険加入行動についてアンケートで把握を試みたり。一方で、耐震性はいいけど実際の消費者がそれをどこまで気にしているか、アイトラッカーで調べてみるなんていう調査まで入っていて、結構おもしろい。

 で、そうした選択行動には、古典的な行動経済学上の問題がつきまとうわけで、いつか地震のときはいいかもしれんが目先の安さにはかなわない、とか、保険入れと言ってもみんなつい先送りにしちゃうとか。それが実際にどう効いているかを実証で裏付けて、そこから政策的含意もちゃんと出している。堅実でよい本だし、行動経済学のきちんとした応用例としてもよいと思う。ただこの題名だと、なんかあらゆる社会制度をひっくり返すようなでかい(=無内容な総論)のような印象が出てしまうので、住宅系の耐震性向上などがメインの話だというのがわかるようにするともう少し関係者(住宅屋、保険屋、国交省などの政策担当者)がもっとちゃんと手に取るんじゃないか。

Nathan『Sybil Exposed』: 多重人格を流行らせた「シビル」の虚構を同情的に暴く本, 2012/4/4

多重人格はミステリーやホラーでいまや定番の設定だが、その発端となったの失われた私 (ハヤカワ文庫 NF (35))だ。この本では、「シビル」なる女性が幼児期の虐待などで一ダースもの人格に分かれていたとされ、それが統合される過程が描かれる。これがベストセラーになり、アメリカでは何万人もの自称多重人格症やそのセラピストが無数に登場した。

が、本書はその実際の臨床資料(患者の死によって公開さえた)をもとに、実際には何が起きたかをまとめる。そして、「シビル」の物語が、かまってほしくて話をねつ造する患者と、功を焦って患者に催眠術や幻覚剤まで使って人格をねつ造させる精神医と、それを描くことでジャーナリストとして大成したい作家という女性三人がグルになったねつ造なのだということを明らかにする。

本書の描く三人の末路は実に悲しい。「シビル」が一大社会現象になってから、患者と医師は自分の虚構の露見をおそれてほとんど共依存的な共同生活に入り、ジャーナリストはその後もスキャンダラスなスクープを目指すがすべて失敗し、失意のうちに死亡した様子を描く。そして作者はこの一件が、女性の社会進出が始まりつつもまだ不安定だった時期に女性たちが感じていた不安と焦りの反映と見る。彼女たちもある種分裂した生き様を強いられており、それは社会全体の不安定さにもつながっていた。「シビル」はそれ故に、著者たち自身にとっても切実であり、そして社会にも受け容れられたのだ、と。だからこの三人を描く著者の筆致は、厳しいと同時にもの悲しく優しい。が、それが生み出した数々の家庭破壊などの被害にについても、著者は淡々と指摘する。多重人格を本気で信じている人、うさんくさく思っている人すべていおすすめ。

ダイアモンド『銃、病原菌、鉄』: 参考文献もちゃんと収録されるようになり、単行本よりずっとよくなった! 2012/3/11

本書は世界各地の歴史一万年以上について扱う本なので、当然あらゆる研究を著者一人がやったわけではありません。したがいまして、著者がどんな論拠でものを言っているのかがとても重要になります。原著ではもちろん、Further readings として参考文献をちゃんと挙げ、疑問点やもっと詳しく知りたい人のために便宜をはかっていました。

ところが邦訳の単行本では、その部分がばっさりカッとされており、心ある読者は激怒して、それを勝手に訳出したりもしました。その後、草思社もあわててウェブにそれを掲載したりしていましたが、本としての価値は大きく下がっていたと言わざるをえません。

この文庫本では、ありがたいことに参考文献をちゃんと巻末に載せており、本としての価値は単行本をずっと上回っています。単行本を持っている人も、こちらを改めて買って損はしないでしょう。惜しむらくは、原著2005年版から追加された、日本人の起原にかんする章と2003年版エピローグについて、訳出されていないばかりか言及すらないことです。それで本筋が大きく変わるわけではありませんが、もう少し配慮があってもよかったとは思います。ご興味のある向きは以下を参照:

ダイアモンド『銃、病原菌、鉄』2005年版追加章について

『Thomas Pynchon (DVD)』当然ながら目新しいことはわからず、ブロガーなどを集めて周縁情報をなぞるだけ。 2012/1/3

Thomas Pynchon: Journey Into the Mind of Thomas [DVD] [Import]

Thomas Pynchon: Journey Into the Mind of Thomas [DVD] [Import]

 正体不明の作家として名高いトマス・ピンチョンのドキュメンタリー……なのだけれど、もちろんこれまでインタビューもなく写真もごくわずか、身辺情報も限られているとあって、ネタがない。このため、こんなDVDを見ようとするほどピンチョンに興味があるような人なら当然知っているような話以外はまったく出てこない。おもにしゃべっているのは、ピンチョン関連のまとめサイトを作っているブロガーとか、ピンチョンについて調べた記者とか。写真を撮りに行ったが逃げられた話などは、すでにピンチョンファンにはおなじみ。ブロガーは、ピンチョンがメキシコシティにいたのと同じ時期に、ケネディ暗殺犯とされるオズワルドもメキシコにいた、なんて話を得意げにするが、数百万人いる都市ですからねえ。あとはピンチョン仮装大会に本人があらわれたかもしれないとファンたちが夢想した、なんて話をあれこれするブロガーとか。

 直接の関係者としては、ピンチョンのもとガールフレンドが、昔ピンチョンの住んでいた家を案内してくれる部分は、興味を持つ人もいるかも。重力の虹を書いている頃で、すべて手書きで書いて、推敲、その後タイプ、というスタイルだった、なんていうのは楽しい。あれを手書きで??! また某授賞式でピンチョンの代役を務めた人物に話をきくのは、ちょっとおもしろい。が、おもしろい部分はのべ10分もあるかどうか。

 ラストは、ニューヨークでピンチョンの写真を撮った記者の話と、CNNがピンチョンを撮影した話。確かにこの二つに登場するピンチョンは若き日の面影通り(特にひょっとこみたいな口)。またCNNがそれを放映するときに行った粋な配慮の話は、CNNの株を上げる。

 でも、意味のある部分があまりに少なく、とても90分近いDVDにすべき内容ではない。60-70年代のニュースフィルムや都市風景をたくさんはさむことで何とかそれっぽい雰囲気にはしているものの、冗長。30分か、せいぜい60分にまとめるべき内容だろう。

Amazon救済 2011年分 3: ケインズ関連書

安易な人物像や哲学談義に流れ、経済学者としての評価から逃げた本, 2011/10/15

ケインズ

ケインズ

 本書は岩波書店版を読んだが、全5章は

1. 個人史 (人物評伝) 2. 価値観 (道徳観) 3. 学問論 (哲学や歴史の話) 4. 政治論 5. 経済学

となっており、ケインズの経済学の話はページ数的にも全体のかろうじて四分の一。あとは書きやすく安易なゴシップに流れており、原著出版の1983年当時ですらほとんど読む意義はなかっただろう。むろん当時はケインズ経済学は死んだと思われていた時期で、経済学的にケインズを評価する必要もないと思ったのかも知れないが。そしてその経済学の部分でも、結局ケインズ理論がどんなものかという説明はまったくない。すでにたくさんあるからいらないと思ったんだって。価値観だの伝記だの哲学だのは、ケインズ経済学との関わりにおいて始めて興味がもたれるもののはず。その説明がないなら、それをケインズの解説書として出すとは、ちょっと不誠実もいいところではないか。

その経済学にしても西部は『一般理論』について「骨子を一言でいえば、経済学のなかに行為論的な要素をもちこんだことだといえよう。ここで行為論というのは、”人間は主観的に構成された意味を担って不確実な未来へ向けて行為するものだ”という点を強調する考え方である」とのこと。さて、この話(といってもずいぶんあいまいで不明確だが)は資本の限界スケジュールにおける期待の役割などの点で、確かにケインズ経済学で重要な役割を果たしている部分はある。でも、それが『一般理論』の「骨子」だとは、ぼく(一応、一般理論を全訳しました)にはとても思えない。そして読んでいると、西部がこんな話を骨子としているのは、単にそれを当時かれが旗を振っていたヴェブレンを持ち出すための口実なのだ、ということがすぐにわかる。我田引水。

それにしてもこの原著が出た岩波の20世紀思想家文庫というシリーズは、小田実毛沢東といい田中克彦チョムスキーといい本書といい、ないほうがよい有害無益な駄本ばかり。企画自体がおかしかったと思わざるを得ない。そしてそれを2005年の、ケインズが少し復活しつつあった時期に再刊する見識のなさにも驚かざるを得ない。

主張は単純で、ケインズの一般理論にはすでにミクロ的基礎があったというもの。, 2012/4/4

ケインズの一般理論はわかりにくく、またミクロ経済とマクロ経済学を分離させてしまったという批判が多い。このため、マクロのミクロ的基礎付けが二十世紀後半は大きな課題になった。

さらに一般理論にはあまり数式が登場せず、またケインズ自身も数式は重要でないからとばせと書いていることもあり、ケインズは数学的にきちんとしておらずいい加減だという批判もよくある。またケインズは数学があまりできなかったという主張まで散見される(例:好き出るスキー)。

でも実際はケインズは数学バリバリで、一般理論で数学を使わなかったのは、取り巻きのケインズサーカスの面々が数学オンチだったため、そいつらの水準にあわせてやったのだ、と本書は主張する。そして一九章などの注にまわされている差分方程式を解けば、ちゃんとミクロ的な基礎付けのあるマクロ経済モデルが数理的に定式化されている、と彼は主張する。

なるほど、ではある。が、その一方でケインズサーカスの面々がそこまで数学できなかったというのも極論だし、またミクロ的なモデルらしきものが導出できるのは事実ながら、それが一般理論ではちゃんと導出されていないのも事実(あればかなり見通しよくなったはずなのに)。だからこの議論も憶測の部分が大きいのでは? でも、おもしろい可能性を指摘してくれた点は評価できるし、ケインズの数式を真面目にみなおす出発点としては有益。ただし学術論文集なのと、あと書き方に少しくせがあるのにはご注意。

2008年刊とは思えぬ古くさい訳、また訳者によるまちがった改ざん多すぎ, 2011/9/7

 前の東洋経済版の翻訳はきわめて劣悪で、それに比べれば多少はまし。とはいえ古くさい訳語、関係節をいっぱいつなげる文をそのまま後ろから訳したために、十回読んでやっとおぼろげに意味がわかる程度にしかなっていない学者訳で、しかも誤訳も多く、2008年の新訳を名乗るもおこがましい。他のレビューアーが「大胆な意訳」とか言ってるのは、何の話ですの?

 でもそれ以上にひどいのが、訳者による原文の改ざん。訳注を見て「原文の誤りを直した」などと書かれているところは2カ所を除き、すべて訳者によるかんちがいで、原文を正反対の意味に改ざんする内容となっている。英語理解のまずさからくるものもあるが、ケインズの主張がわかっておらず、正反対に書き換えてしまったところも多い。そんなにむずかしいことは言っていない部分なのだが、訳者の経済学者としての能力を疑わざるを得ない。

具体的なまちがいの指摘は以下を参照:

cruel.hatenablog.com

cruel.hatenablog.com

英語もわからない、経済学も(センセイのくせに)わかっていない人によるもので、21世紀に出すべき訳本ではない。

現実の経済とはかけはなれた理解に基づき、ケインズ理論を歪曲。, 2011/8/29

容疑者ケインズ (ピンポイント選書)

容疑者ケインズ (ピンポイント選書)

本書は、昔献本してもらったけどうっぱらってしまい、今回お勉強のために買い直したんだが……

 基本的な話として、小野善康をほめたいならケインズを持ち出さずに小野理論それ自体として説明してほしい。ケインズの話になっていない。

 そしてまず、小野によるケインズ乗数効果批判が出てくるが、これがひどい。なんでもこれはケインズの枠組みの中ですら矛盾なんだって。なぜかというと、有効需要を増やすために公共事業をやったら、そのお金は税金で人々の可処分所得からぶんどることになる。だから可処分所得が減ってしまう。でもケインズの当初の仮定では、それは変わらないことになっているはずだからこれは矛盾だ!!(p.41)

はあ??? 小島&小野ワールドでは、公共事業するとき、その場ですぐ増税するんですかぁ??

普通は、国債出したりするでしょう。景気刺激が要るほど消費が落ち込んでるときに増税するなんて、いまの日本の政府ぐらいの経済オンチじゃないとやらないよ。賢い消費者はそれに伴う将来の増税を期待に織り込みますです! 合理的期待形成しる! とまで言う気ならアレだが、中立命題を考えたリカードですら、そんなことは実際には起きず極論だと言っている。この程度の現実認識で経済の話をしようとは……

一般向けの概説書に、変なの極論をしょっぱなから持ってきて、いったい小島寛之は何を考えておるのだ。しかし、これがもし小野理論の忠実な反映なら、なぜ小野善康増税容認論を口走るのか、なんとなく見えてくる。

現実の経済とはかけはなれた理解に基づき、ケインズ理論を歪曲した説明。いきなりこれなので、その先はもう読みません……といいつつ流し読みしたけど、最後の意志決定理論でないと流不確実性云々の話は、まあ別に大きく異論はございませんよ。でも、それがどうした、という感じ。ケインズ理解に全然役立たないどころか、きわめて有害。

ケインズの生涯と、その志の理解にはよい。理論的な理解はむろんこれだけではだめ, 2011/8/15

ケインズのマンガ。理論的な説明はあまりなく、もっぱらケインズの生涯の説明が中心。一応、有効需要の話や公共投資の話も出ているが、基本はケインズが世界の問題を解決しようとした志が解説されている。

監修解説は小島寛之だけれど、マンガそのものには小島(ひいては小野義康)的な偏りはない。解説は(その分、かな)小野理論の宣伝がものすごい比率となる。小野理論は、価格のねばっこさを想定しなくても動的に不況が描けるというんだが、でも実際に世界で価格のねばっこさは観測されているので、それなしの理論というのが本当に現実の説明モデルになるのか、それとも理論のための理論になるのかは、説明の必要があると思うなあ。それと、現在の問題解決に活躍する経済学者として、清滝信宏を挙げるべきか? いや「問題」の種類にもよると思うが、ぱっと見ると、いまの世界金融危機の解決に活躍する学者だと思うのは人情だろう。

ま、マンガの読者が解説まで細かく読むかどうか。生涯の理解はいいし、ケインズの志はよく描けていると思う(レビューが好評なのはみんなそれに感動してるようだし)。でも、これでケインズ理論がすべてわかるとは……まさか思ってないよね? とはいえ、それがニューディールからオバマの刺激策までに影響している様子は描かれ、経済学の現実に対する影響はそこそこ出ているのかな。

岩波新書の二冊の中間くらいだが、実は共著で、パーツの関連が薄く散漫で視野が狭い。, 2011/8/15

 まず他のレビューでも指摘されている通り、これって伊東の単著じゃないのね。400ページのうち、150ページ分くらいは他の人が書いてる。それを単著と称して出すことの道徳性というのは批判されるべきだと思う。ケインズ経済学はモラルサイエンスだと言ってる人のモラルがこの程度とは。

 で、本書はケインズ—“新しい経済学”の誕生 (岩波新書) (1962) と、現代に生きるケインズ—モラル・サイエンスとしての経済理論 (岩波新書) (2001)の間くらいに書かれた本。原著が1983年、文庫収録が1993年。味わいも、両者の中間くらい。一応、生涯の解説(これは別の人が執筆)、一般理論の詳しい説明(かなり細かい)があり、それがその後どう展開したか(これもほとんど別の人が書いてる)が説明されている。

 が、一般理論解説は、その後の解釈や批判に対するあれこれ予防線が多いため、うだうだしくてかえってわかりにくい感あり。特に古典派の理論をあれこれ微分方程式を並べ立てて説明しているのは、正直いって中身とあまり関係ない。それ以外のものも、ケインズの書いたことをそのまま流しているだけのところが多く、あまり説明になっていない。同時に、その生涯における関心事との関連づけが薄く(別々の人が書いているのでしょうがないが)、本の各部分どうしがまとまらずに散漫な印象となる。

 また、別の人が書いているその後の理論的展開の部分は、本当に視野が狭い。フリードマンから合理的期待形成、ニュークラシカルはほんとになぞるだけ。その後はケインズっぽい話だけに的をしぼっていて、ミンスキーくらいで話が止まる。好き嫌いはあるだろうけれど、80年代半ばとはいえニューケインジアンに一言も触れないポストケインズ解説ってあまりに偏狭では(文庫化にあたり加筆する余裕もあったのに)。

 さらに、その後伊東自身がケインズ批判に対する答の中で、サプライサイド派や合理的期待形成にも少し触れているんだが、ラッファー曲線を長々批判する一方で、合理的期待形成は一ページほど。バランスの悪さは否めない。それをまったく無視した「現代に生きるケインズ」よりちょっとはマシだが。その他の批判も、世の中がケインズ様のおおせの通りになっていないというグチに終始している。

 ケインズだけにしか関心のない人なら読んでいいかもしれない。でも、いまの世界にケインズがどう関連しているか、というのが知りたい人は、手を出す必要はない。ケインズであっても、原理主義は悪い方向にしか働かないという見本ではある

ケインズ神学に堕した、視野の狭い本。, 2011/8/15

 同じ新書で、前の同著者のケインズ—“新しい経済学”の誕生 (岩波新書)は、歴史的背景から理論的な解説までバランスよく扱い、とてもよい本だった。しかしこの本は、ケインズをひたすら神格化し、ケインズ様の偉大なる御理論をその後の論者たちがいかに誤解歪曲してしまったかをひたすらあげつらうにとどまる、ケインズ神学の本でしかない。

 2001年の本なので、ケインズ経済学に対しフリードマン、ルーカス批判、ニュークラシカルみたいな流れはすでにあったはず。通常、ケインズに対する新古典派反革命というと、この流れの話だと思うのが一般的な経済学理解。

 だが、本書の中で執拗に批判されている新古典派反革命というのは、サミュエルソンのことだったりヒックスのことだったり。ご自分のかなり重箱の隅的な研究の範囲内でしかモノを見ておらず、前著での比較的広い目配りはあとかたもない。歳は取りたくないものだと思う。ぼくはもちろん、クルーグマン的な見方(つまりは伊東が本書で批判しているような、新古典派反革命に汚染された異端理解)に影響されているから、乗数批判とかIS-LM 批判とかは、単にケインズの主張が完全には反映されていないというだけの揚げ足取りに近いんじゃないかとは思う。

 たとえばIS-LMをヒックスがケインズに見せたら「ほぼ異論なし、だけど古典派の理解がちがうんじゃないか」と返事した、というのの後半部分を取りざたしてヒックスのケインズ理解が変なのだ、という。でも、概ねオッケーって言われたんだし、物言いがついたのは古典派理解のほうだし、それをもって IS-LMケインズを歪曲してるという理屈は変では? またケインズはえらい、という一方で、カーンなどの入れ知恵を受け入れたケインズはまちがっていて云々で、いつのまにか伊東の脳内理想ケインズができあがっていて、それに反するものはケインズ本人すらダメって、あなた何様ですか?

 ケインズ学説史の中でならこういう本もありかもしれないけれど、ケインズについての一般・初歩的な理解を得ようと思ってこの本を手に取る人は本当にかわいそう。ケインズの理論の全貌もわからず、また現在(当時)の理論の状況もわからず、ケインズとは細かい話をつつきまわす世界でしかないと思ってしまうだろう。不幸なことだと思う。ケインズを研究しすぎるあまり、それ以外のものが見えなくなってしまった本なので、特に初心者は手にとってはいけない。

1962年の本としての制約はあるが、ケインズの背景から理論までを手際よくまとめた好著。, 2011/8/15

 1962年の本で、ケインズ理論黄金期。一方の日本は安保闘争その他で、マル経が幅をきかせ、ケインズ理論なんてのは資本主義と管理社会の尖兵とされていた時期。本書は、ケインズがいかに当時の古典派経済理論とそれを体制化してしまった政治体制に心を痛め、実際に人々を救う実効性のある経済学を生み出そうとしたかを語る。

 かなり多くのグラフと数式を使ってケインズ理論をそこそこ詳しく説明しているのは立派。ケインズがデフレを批判しインフレをよいものとしたこと、流動性選好等々、説明はかなりわかりやすい。いまだと、これでもむずかしすぎると言われるだろうけれど、むかしの新書はレベルが高かった。

 時代背景もあり、かなりのページをマルクスとの比較に費やしている。また、ケインズ経済学が引き起こした政策的な問題として、軍事支出とインフレを挙げ、理論的には産業ごとの不均衡、独占、そして資本の蓄積がGDP上昇に関連づけられていないことだと指摘。

 当然ながら、その後経済学 (Keynes or otherwise) がたどった道筋(とその破綻)については触れられていないが、いまにして思えば、それに至る萌芽はこの問題点の指摘の中に見られ、著者の理解がそれなりに経済学の当時の状況をよく反映したバランスのよいものだったことがわかる。新しいネタに触れていないという意味では古びた面もあるけれど、いまだに結構いい本だと思う。

Amazon救済 2011年分 2

あれこれたとえ話を読むより、自分で導出して相対性理論を理解しよう!, 2011/9/1

相対性理論の式を導いてみよう、そして、人に話そう (BERET SCIENCE)

相対性理論の式を導いてみよう、そして、人に話そう (BERET SCIENCE)

 相対性理論解説書なんて、すでに山ほど出ているので、新しい本が差別化を図るのはむずかしい。この本は、新しい切り口を見つけてそれを実現した珍しい本。高校数学と物理の知識から、相対性理論を自分で導いて、しかもそれを人に説明できるようになろう、という本。

 相対論を高校数学(中学数学とあるけれど、さすがにつらいのでは)で導くのは、山本義隆が高校の受験数学で相対論まで話を進めた有名なエピソードもあることだし、決して無理ではないが、かなり特殊な話だとみんな思うし、自分でやろうとは思わない。この本はそれを実地にやろうと言う。そして、自分で導くだけじゃなくて、人に話して説明してみようという。そうすることで理解が深まるから、と。

 相対論の話としても、そして人の勉強のあり方の提案としても、とてもよい本だと思う。ただ本の中身は、むろん他人にどう話すかというところまでは面倒みきれていない。そうやると理解が深まるよ、というお話。でも、それ自体としてはその通り。頭のいい高校生や大学の輪講とかに使うと勉強になるんじゃないかな。個人的には、マックス・ボルンの相対性理論本で高校時代に勉強会をしたけれど、ローレンツ収縮から先に進めなかった苦い思い出があるが、この本があれば E=mc2 まで到達できたんじゃないか。

最近の話ばかりで、どれも知ってることばかり。多少の興味はプライベート話ばかりだが……, 2011/11/2

スティーブ・ジョブズ II

スティーブ・ジョブズ II

下巻はジョブズがアップルに戻ってくるところから始まる。

で、そこで何が起こるか、もうみんな知ってるん。iMac出して、iPodiTunesiPhoneiPad。そこで何か知らないことがある? ソフトとハードの融合したトータルなユーザー体験を重視——知ってます。ユーザーのコントロールの余地をなるべくなくし——知ってます。マイクロソフトはセンスがないと言っていて——知ってます。音楽が——知ってます。ああ、それと最後にもう一つ——知ってます。

とにかく目新しいこと皆無。アメリオをクビにするときにどんな罵倒をしたか、新しくわかることといえばそれに類する話ばっかり。グーグルへの罵倒くらいかなあ、知らなかったといえば。あとは家族がらみの話とプライベートな死を前にしたあれこれくらい(インチキ代替治療にはまって寿命を縮めたとか)。で、オチがつかず最後はジョブス語録みたいなのを羅列しておしまい。

また、本書は正直と言いつつ、ジョブズのヘマとかは書かない。二〇〇一年にかれが性能的に見劣りしてきたマックを正当化すべく行った、失笑モノの「メガヘルツの神話」プレゼンのこととかは触れていない。iPhone4のトラブルのプレゼンも、ぼくは本書で書かれたほど見事なシロモノとは記憶していない。言い訳がましく、話を本当の問題からそらそうとするいやらしいマーケット屋的プレゼンだった。それそこういう形で美化するのはぼくはインチキだと思う。そしてそれは、本書がジョブズのイメージ戦略にいかに荷担しているかを示すものだ。

ある意味で、この伝記が今出たのは幸運でもあり(ジョブスの葬式景気で売れるだろうから)、不幸でもあったと思う(みんな記憶が新しすぎて何を書いてもあくびをされてしまうから)。みんなが知ってる部分で目新しさを出そうとしてiナントカに後半ものすごい分量を割くがそのために些事の羅列になってなおさらまとまりがなくなるという。構成の悪さは否めないし、かれの業績がまだ十分に対象化できるほど時間がたっていないこともある。

ジョブスに心酔して、かれのやること言うこと一挙一動一言半句がありがたいと思う人は、本書を読んで「スティーブ、ありがとう」とか「スティーブは天才」とか書いて五つ星評価をつけるだろう。でもそういう人は、半年たてばすべて忘れているはず。伝記として見た場合、本書は本当に満足のいくものとは思えない。

基本的な主張に独自性はなく、通俗的な消費文明批判につなげる我田引水に失望。, 2011/8/29

山本義隆が福島の原発事故をめぐって、それが経験則にもとづかない科学理論だけを過信したもので、産業としても批判がなく、政治的に癒着してあれこれで原子力村で、うんたらかんたらで人間は原子力をコントロールすることはできない、という話。

おっしゃることはわかるが、別に目新しい話ではない。結論も、田崎さんが自分のウェブページで述べていた感想といっしょ。買って読む価値はない。資本主義の危機からニューディール政策を経てマンハッタン計画から原子力推進という流れで、ここぞとばかり資本主義批判につなげようとする論調も、ぼくはあさましいと思うし、別にそれが論旨に特に影響するとは思えない。

そして最後が、大量消費社会と成長ばかりでない新しい社会のあり方を——そんなつまらないことしか言えないなら、いっそ黙っていてほしい。原子力はダメと思うんなら、それはそれで結構。でも別に原子力がなくったって大量消費社会や経済成長の根本にはまったく影響がない。それを認識せずに、たまたま並行して進んできただけのものを、こっちがダメだからあっちもダメにちがいない、という本当にだらしない理屈も何もない、我田引水の感情論をたれながす山本には山本義隆だからこそなおさらがっかり。それに、原子力イヤイヤはいいけどさ、いまある原発はどうすればいいの? それを何とかするには、物理や原子力工学はちゃんと続けなくてはいけないんだけど、それを考えずに「やめましょう」では話にならないでしょう。

死体関連のネタ満載。この分野のおもしろさを何とか知らせて認知度をあげようとする著者の熱意が結実。, 2011/7/15

死体入門 (メディアファクトリー新書)

死体入門 (メディアファクトリー新書)

おもしろい! タイトル通り、法医学者が死体のあれこれを並べた本で、中身的には昔ぼくが書評した、 Death to Dust: What Happens to Dead Bodiesと同様(ただしあっちは五百ページもある本でこっちは新書だから中身的には薄くなる)。あっちは、法医学者がもっと臓器提供をしてもらおうというのを基本的な動機として書いたもので、こっちは法医学者が、もっと死体に興味をもってもらおう、関連分野の学生を増やそう、という動機で書いている。だから、おもしろいネタをいろいろ集めようという熱意がみなぎっているし、九相詩絵巻をカラーで載せたりとサービス精神も旺盛(ぼくもちゃんと見たのは初めて)。

小著ながら、知らなかったネタも満載。特に驚いたのは、よく推理小説なんかで、青酸カリでだれかが殺されると「アーモンドのにおいがした」と書かれるけれど、あれはみんなの思ってるアーモンドの匂いじゃないんだって! あれはローストしたときの香りで、青酸の匂いというのはその前の、生の実の状態のにおいで、全然ちがうんだって。あとは、うんこずわりができるかどうかは、慣れの問題ではないとか、あれやこれや。その他、Soap lady の話とかも出ている。著者にはいつか、フィラデルフィアのムター博物館を訪れて訪問記を書いてほしいところ。

それにしても、法医学関連の学生は減ってるのか。テレビドラマの CSIBonesパトリシア・コーンウェルの小説なんかで、結構認知されて人気が出てるのかと思っていたよ。

一度出た本を、更新して新書にしたとのこと。いったん世間のフィルターにさらされて市場の審判を経ているだけあって、よい本。スプラッターホラーなんかで喜ぶようになった中高生あたりからおすすめ。

パターン化して弛緩した感想文集。, 2011/6/28

「二回半」読む 〔書評の仕事 1995-2011〕

「二回半」読む 〔書評の仕事 1995-2011〕

 ぼくも某新聞で書評委員をやっているけれど、絶対に避けたいと思っているのがこの手の書評。書評じゃなくて、ただの感想文なんだもの。自分では感想文ではないつもりでいるらしいんだが、これが感想文でなくて何?

 基本的には、なんか私的な前振りをおいて、あらすじ紹介して、きいたふうな一節引用して「重要である」「考えさせられる」とか書いておしまい。すべてがワンパターン。読んでいて、工夫やひねりのある書評がちっともなくて、後から読み返す価値があるとは思えないし、こうして本にまとめる意義もなかったと思うんだが、あの藤原書店がどうしちゃったの、という感じ。

 まともな分析や切り込みのある書評は全然ない。そうした能力に欠けるからだと思う。たとえば本書は「『けなす書評』もなりたつだろう。しかし、私はその道はとらない。読者が買って損はしなかったと思ってほしいからである」(p.2) と言うんだが、だったらなぜある本を買うべきでないか(出すべきでないか)を説明する「けなす書評」だっていいはずでしょうに。本書の収録文ものには、このように明確な論理性があまりない。また2011年の震災で行方不明者が一ヶ月たっても多数いることについて、これが文明国なのかと義憤を表明しておいでだけれど (p.319)、津波で流されてしまった方もいるし文明国だからどうにかなる話でもないんですけど。でもその程度の想像力もない。そしてその直後に本当にお定まりのアームチェア文明批判談義。これでは鋭い書評を望むべくもない。

 ちなみに著者は、万年筆ベストコーディネイト賞2008年なるものを受賞したのがずいぶんご自慢のようだけれど……何これ?

初歩から最先端の成果までを実に平易に説明、日本の研究水準紹介としても有益。あとは値段さえ……, 2011/6/27

自己変革するDNA

自己変革するDNA

みすず書房で「画期的概念の創出へ」などと帯の背に書いてあるもんで、また例によってDNAのトンデモ解釈に変な現代思想をからめて悦に入ってるようなアホダラ経じゃねえだろうなあ、と警戒して読みはじめたが、まったくの杞憂。実にすばらしい本。

DNAとは何か、という初歩の話を、ワトソン=クリックのエピソードもからめて楽しく説明、その後だんだん高度な内容にまで入る。DNA修復の話と時差ぼけ解消の日向ぼっこの関係、有性生殖の意義など、おもしろい話も(ちゃんとまじめな内容と関連づけて)満載。そして、その有性生殖の話を一つの核に、遺伝子の組み換えと、本書のタイトルでもある自己変革につながるあたりは、面倒な話を本当にわかりやすく説明していて、見事の一言。一卵性双生児でも歳を取ると遺伝子がちがってくるなど、多少は分子だの遺伝だのについて知っているつもりの人間でも「えっ!」と驚く話も満載。

また、意図的なことだが日本人研究者の各種の研究があちこちで言及され、それがきわめて重要な役割を果たしていることが示されているのも、非常に心強く感じるし、これをもっと多くの人が読めば「おお、日本もやるな、もっと予算つけていいかも……」と思うんじゃないか。他の分野ではしばしば、嫉妬心などからか他の日本人の業績に敢えてふれなかったと思える残念な例が多く、それが結局カニバケツ状態となってつぶし合いになっているようなケースも感じられるが、こうやって出してもらえれば一般人も(そして学生なども)、自分だって可能性があるように思えてくるはず。そうした試みも立派。

値段が3000円近くて高いのは残念。とても親しみやすい書きぶりだし、書かれている内容もごく初歩のところからかなり先端の話まで網羅しており、非常に勉強になるので、初学者(できれば頭のいい高校生くらいから)に気軽に手にとってほしい内容。この値段と、みすず書房だから敷居が高そうという感じがするのとで、損をしている。まったく同じ内容でブルーバックスにでもできないもんか。

なお、最終章で生物学外の話をするというので身構えたが、それも杞憂。特に経済学がらみの話は実に的確で驚いた。反デフレ派の人は pp.218-19 で感涙にむせぼう。

だれかの設定に基づくアニメの話だけで、一般性ある「自己/自我」の話はできない。, 2011/6/27

 押井守のSFアニメをもとに、自己とか自分とかいう概念のふしぎさと奥深さみたいなものを記述しようとした本だが、成功していない。

 自己というテーマはおもしろいし、それを考えるうえで、アンドロイドや人形——押井守が好きなテーマ——に対する人間の態度が重要、というのは事実。でもそれぞれのレベルで何を語らせるかが重要。小説やアニメの登場人物の行動、学者の単なる感想文、多少は説明に使えそうな仮説、実証的な裏付けのある理論、それらをきちんと分けないと、著者として何に何を説明させたいのかがさっぱりわからず混乱するばかり。

 ところが本書は、それらをすべていっしょくたにして、草薙素子のXXに自己のナントカ性が示されているのという話を延々と続ける。でも基本的に、アニメの登場人物が何をしようともそれは押井守がそういう設定にしたからではないの? そしてそれが自己についての一般的な議論としてどこまで展開していいの? またフロイトが「不気味なもの」なる雑文で書いた単なる感想文をもとに、著者は「人間性の死こそが『不気味なもの』の背後にある真実だということが、ここにもはっきり確認できる」(p.172) と書くが、なんで? 単にフロイトがそう思ったってだけでしょうに。

 ちなみに著者はp.198前後で、スカイクロラが必ずしも評判よくないことについて、それは観客が自我とかいうテーマを理解できず馬鹿だ(そして自分がえらい)とでも言いたげな議論を展開する。でも一方で、押井が著者の喜ぶような自己云々といったテーマをうまく作品として消化し切れていなかったという面も大きいと思う。そもそもこのような本が一種の解説書として出ること自体が、その消化不足の反映ではないの?

 そしてこの手の自我や自己、意識その他のありようについては、すでに脳科学や進化生物学でいろんな成果が挙がっているし、著者が本書であれこれ言っているようなことも(いやそれより遙かに過激なことも)、かなりもっときちんと科学的な分析が進んでいる。その時代にあって、「アニメ見て自己について考えてみましたよ」なんてシロモノになんか価値があるのか? ぼくは、ないこともないと思うが、むずかしい。そして本書はその水準に達していないと思う。着眼点は悪くないところもあるので、もう少し整理した議論を展開してくれることを(ちょっとだけ)期待。

いろいろ並べて矢印でつなげただけの本。, 2011/6/27

宇宙卵を抱く-21世紀思考の可能性

宇宙卵を抱く-21世紀思考の可能性

無料で献本いただいたが、すみません、ほめるところがありません。現在の大量生産、線形、合理的、階層構造云々かんぬんに対するアンチテーゼ(だと著者が思っている)非線形とか自己散逸構造とかセミラティスとかリゾームとか、クリエイティブクラスとかエコロジーとか、複雑系とか創発とか、農村との結びつきとか先住民のチエとか、あれやこれやをだらしなく並べて、似てるの似てないのとはしゃぐだけの本。

 そういうのはぼくが学生時代にも延々、現代思想だのエピステーメーだのがやっていて、使える部分もあるけれど、結局いまの産業社会の周縁的なものとして存在するだけではないの、とか、それに対するあくまで刺身のツマではないの、とか、産業社会のおかげで豊かになったからこそ可能になった、一部エリートのぜいたくでしかないんじゃないの、といった基本的な疑問には答えられない。別の可能性があるとか、ちがう考え方があるとか羅列するだけでは何の役にもたたず、それが既存の社会や経済の仕組みとどう相互作用するのかが重要なんだが、そうした視点はまったくなし。著者がいろいろお勉強しましたといってそれを並べただけ。

「現代の世界は、大きな困難と悲惨なできごとにみちみちています」と著者は思っているそうだけれど、ぼくはそうは思っていない。現代の世界ははるかに大きな喜びをもたらしたし、それが実現した各種の可能性をぼくは個人的にも大きく享受している。その事実についての認識と敬意がない人の語る二十一世紀思考なるものを、ぼくは微塵も信用していない。

 ついでにp.58ジェイコブズの本ですが、一年以上も前に全訳が拙訳で出ておりますので。

Amazon救済 2011年分 1

バルト『モードの体系』: 体系そのものの記述は途中で終わっており、静的な記述と事例に依存。でも試みは今も興味深い。, 2011/5/31

試みはおもしろい。本書には暗黙の前提がある。文化的な意味の体系は衣服の外にあり、ファッションとはそれを衣服に対応づける仕掛けだ、というものだ。

記号論のご託はこれを言うために出てくるのだけれど(バルトが依拠した記号論ソシュール言語学では、言葉とその意味とは完全に恣意的な関係しか持っておらず、これはファッションとその文化的意味でも同じだ)、でもいまの一行さえ理解すれば、変なジャーゴンはまったく知らなくてかまわない(ウェブで本書について検索すると、この記号論の講義が延々続くけれど、たぶんそれは本書の本質をまったくはずしている)

 では、何が何に対応しているのかを見るべく、バルトはある年のファッション(モード)について雑誌記事をもとに分析。あれこれ美文調の能書きは多いが、ブラウス、ワンピース、スカート等々を羅列、それについて、袖の長短、飾りの多少、ひだの多少、といった具合にモードの語彙を羅列する。それをすべてやると、ある意味でモードの母集団というかそうした語彙カテゴリーの数 n で形成される、ファッションの n 次元空間みたいなのが定義できる。その中で、「チェックのソックスは春の装い」という記述がファッション雑誌にあったら、「チェックのソックス」という部分に「春の装い」という意味を関連づければいい。それを通じ、いまのファッションがどこに分布し、それが外部の何と対応して……といったことをやりたかったんだろう。

 でも実際には、あれこれ語彙を抽出したところで止まってしまい、きわめて中途半端。意味の対応をきちんと整理できていない。いくつかの事例を羅列するレベルにとどまっている。意味を作るのに、各種要素を羅列したり対立させたり等、どんな形で意味が強化されたりするかも、羅列的な記述にとどまる。結果として静的な構造分析の常として「その通りかもしれないけど、それで?」という話で終わっている。

 そしてその後、それを動的な分析につなげるための思いつきがあれこれ書かれ、アイデアとしてはおもしろい。ファッションが参照する外部の意味との対応、そしてその参照方法の変化に伴うモードの変遷とその意味。なるほどと思えるところもあるが、やはり思いつきレベルのままなのが残念。とはいえ小野原「闘う衣服」のように、それを発展させようとする人もいる。通読する必要はないが、ざっと目を通して何をやろうとしていたかは理解して損はない。

 翻訳は、訳語をこだわりをもって吟味してあり、バルトのくどい文体にもかかわらずかなり読みやすい。能記/所記といった業界内部のジャーゴンを廃して、一般読者にわかりやすくしようという意識は大いに讃えられるべき。

中身は各種陰謀論やインチキ科学の網羅的紹介だが翻訳が最悪, 2011/5/13

陰謀説の嘘

陰謀説の嘘

 シオン議定書真珠湾攻撃陰謀説やマッカーシズムケネディ暗殺、ダヴィンチ/コードの陰謀、デニケンやらヴェリコフスキーやらの疑似科学、9.11陰謀説、そしてスターリン時代のソ連におけるトロツキー陰謀説など、各種の陰謀論を楽しく紹介した本……のはずなのだが、翻訳がどうしようもない逐語訳のうえ、原文になく文脈的にもまったく意味のないところでやたらに改行を入れる変な処理のため、よみにくいことおびただしい。

「本書で取り上げた説の中には、悲惨な結果を迎える説もある。それはテンプル騎士団に関する本であるはずがない。(中略)学問の研究成果は、ある程度の歪曲をともなう。しかし、実害をこうむるのは、人々がすでにそれよりも優れた本を読んでいるか、あるいは、優れたテレビ番組を見ているかもしれないときだ。」 (p.408)

この得たいのしれない文章、正しくは

「本書で取り上げた説の中にはひどい実害につながったものもある。だがテンプル騎士団の本だと、さすがにそれはない。(中略)学術性というものが、多少の打撃を受けた面はあるだろう。でも真の実害といえば、人々がその間にもっとましな本を読んだり、ましなテレビ番組(あればの話だが)を見たりできたはずだった、という時間の無駄だけだ。」

全編こんなのばかり。陰謀論が知りたければと学会の「トンデモ超常現象」のほうがずっと読みやすい。翻訳がまともならもっといい本になったのに……

しょせん、彼女の理論が果てしない言い換えに過ぎないだけだとわかる本。, 2011/4/26

領土・権威・諸権利―グローバリゼーション・スタディーズの現在―

領土・権威・諸権利―グローバリゼーション・スタディーズの現在―

本書は、中世からずっとナショナル(国民国家)概念がどんなふうに発達してきて、それがグローバル化に伴って少しずつ変わってきたことを述べている。

……それだけ。

彼女が本書でやっているのは、果てしない言い換えにすぎない。変な用語を編み出すことで、何か目新しいことを言っているかのように見せかけるが、その中身はない。たとえば、国家と市民がいまや一部で乖離して、市民なのにあまり権利がもらえない事例や二重国籍なども一部で可能になっている話を指して、「私は、これらの変容を、シティズンシップ制度内の特定の特徴の非常に特殊な脱ナショナル化と呼んでいる」そうな。それで?

……それではなし。本書は、こういう言い換えをしたことがすごいと言いたいらしいが、その言い方で何が言えるのかはまったく指摘できない。従来の国という概念に対し、グローバル化の進展で一部うまくおさまらない部分が増えたのを「脱ナショナル化」と呼ぼう、というのが本書の唯一の主張だが、ホント、それがどうしたんですか?

またデジタルネットワークの考察においても、その内容はローレンス・レッシグやティム・ウーなどの考察を一歩も超えるものではない。

『グローバル・シティ』の失敗で、いろいろ予防線を張りすぎたあげくに、彼女の本は結局「いろいろある」以上のことが言えなくなっている。分厚い本書を読んでも、新しい知見はおそらく得られず、読者は整理されない「あれもあればこれもあるが、そうでない場合もあり」の果てしない羅列を読まされて徒労感を抱くばかりだろう。ちなみに、原著者のながったらしい文を、やたらに読点の多い読みにくい金釘訳文にしたてあげた訳者と、それをきちんと見直せない監訳者は、翻訳に手を出すべきではないと思う。

(注:このレビューについては、コメント欄でかなり激しく議論があって、それなりにおもしろかったので消されてしまったのは残念)

丁寧に足跡をたどるのはいいんだが、そこから何が見えてきたかというまとめが皆無。, 2011/4/18

本書は、秋葉原殺傷事件を起こした加藤の生涯を、淡々と描いた本。他のレビューアーが書いているように、安易な判断や断定はせず、事実だけを並べており、著者もそれを売りだと述べている。だが本書の難点はまさにそこにあり、安易どころか、安易でない判断すら下していないところにある。

 「現実は建前で、掲示板は本音——そう語った加藤の言葉にこそ、この事件と現代社会を読み解く重要な鍵がある」と著者は書く。では、その言葉から事件と現代社会を読み解いた結果、何が得られたのか? 加藤の生涯をていねいに見ることで、一体通常の決めつけでは得られないどんな知見が得られるのか?

 本書はそれを書かない。そこに何かがあるんじゃないか、とは書くんだけれど。本書は、加藤に友達はいたけれど本音が言えないと思っていたとか、掲示板で調子にのって煽りカキコをしていたらなりすましがあらわれて、アイデンティティが崩れたとかのエピソードを悲愴っぽく同情すべきであるかのように描くんだけれど、全然同情できない。切実さも感じられない。しかもそれって社会的にどうにかできる話なの? 結局、社会不適応のキモヲタがネットでハブにされてはた迷惑な暴れ方をした、という以上の話にはまったくなっていないようにしか見えない。

 が、それはしょせん、この事件の上っ面しか見ていない野次馬の感想かもしれない。本書はそれを批判したいようだ。ならば、著者はこの事件について何を言えると思うのか? じっくり加藤と向き合い、その足跡をたどった結果として、何が見えたのか? それが提示されないのは、ぼくは慎重さやストイシズムや誠実さなどではなく、むしろただの優柔不断、あるいは「いろいろ取材したけど何も出てきませんでした」というのをごまかすためのポーズに見えてしまう。

実物より優れているかもしれない。, 2011/4/7

ボストン美術館秘蔵 スポルディング・コレクション名作選

ボストン美術館秘蔵 スポルディング・コレクション名作選

 色校の鬼のような一冊だが、その結果はじつにすばらしい。特に実物と比べると本書の優秀さがよくわかる。ここに収録された作品の一部が2011年初頭に山種美術館で来日公開されたが、当然ながら退色を防ぐために照明が薄暗くなっており、特に暗い部分の細部は必ずしもよく見えない。本書 p.99 の鳥居清長の作品は、窓の外が真っ黒に見える。ところが本書では、その暗い中に微妙な細部があることがはっきりとみえる。実物を観るより本書を観る方が、一部とはいえ細密な鑑賞ができるのだ。

 その意味で、オリジナルを普通の照明の下で手に取ることはできない以上、求めるものによっては本書の図版は、美術館で実物を見るよりもよいかもしれない。むろん、思いっきり近づけば版面の色のドットが見えてしまうという点では実物にもちろん及ばないが…… 当然ながら解説その他も文句なし。

いい本です。本文はネットでフリーで読めます。, 2011/3/12

富岡日記 (《大人の本棚》)

富岡日記 (《大人の本棚》)

いい本です。日本の産業発展において、外国から技術を導入しそれを改善する中で、女工がこきつかわれる一方ではなく、それに積極的に関与した事例もあることを示し、同時に富岡製紙工場の内情を示す貴重な記録。女工への志願のプロセス、その後の技術習得に対する異様な情熱、さらにはそれを完全国産化した六工社設立への参与など、産業史、労働史、ビジネス倫理など多面的な意義を持つすばらしい本。

……というようなことを以前述べたところ、ある労働経済学の専門家には散々に揶揄されて「いやあ、確かに世の中は女工哀史の通りでしたが、ごく初期の一部では富岡日記みたいなこともあったんですよという風に、居候がそっと出すような言い方であれば、誰も文句は言いません」といやみったらしく言われました。が、女工哀史だけではなかったことも知っておくのは重要でしょう。

なお、本文はすでに著作権が切れており,ネットでフリーで読めます。

http://cruel.org/books/tomioka/tomioka.html

Amazon救済 2010年分 4

温暖化対策は排出削減以外にもあるし、そのほうが効果も高い!, 2010/11/22

Smart Solutions to Climate Change

Smart Solutions to Climate Change

おもしろい! これまでコペンハーゲン・コンセンサスは、世界の多くの問題対応政策(栄養失調対策、貿易自由化、汚職対策、温暖化対策)の費用便益を一流学者の分析に基づいて比較し、ランク付けしてきた。

 その中で温暖化対策はいつも最下位だったが、あれこれ関心を集めているテーマなので、今回は温暖化対策だけに焦点をしぼっている。でも温暖化対策は(一部の不勉強な人が思っているのとはちがい)炭酸ガス排出削減以外にもいろいろある。今回は、各種の温暖化対策を比較して、何がいいかを見ている。

 炭酸ガス蓄積技術や太陽光を遮る技術の導入、ディーゼル排出や途上国の薪ストーブの改善(この二つは煤を出し、それが太陽熱を吸収して温暖化を促進している)、メタン削減(メタンは炭酸ガスに次ぐ温暖化ガス)、適応技術促進、途上国への技術移転、炭素税(つまり排出削減)が比較検討されているけれど、有望なのは適応対策と炭酸ガス蓄積研究、次いで途上国への技術移転や薪ストーブ&ディーゼル改善。炭素税(排出削減)は最悪で、厳しくすればするほどひどさも急増。

 温暖化やばい–>だから排出削減を、という単細胞な(そして有害な)発想を捨てて、対策オプションを総合的に考えてきちんと評価しようとする立派な試み。他にもっと有意義な対策があるのに、なぜぼくたちは排出削減にばかり血道を挙げているのか、よく考えてみよう。結果が気にくわない人は(もちろん)いるだろうけれど、そういう人は独自の評価をしてみるべきだろう。ちなみに本書は、かつてロンボルグをナチ呼ばわりしたIPCCのパチャウリ議長すら賛辞をよせている。

歴史的資料としてはおもしろいが、スターリンが実践して失敗した内容であることには留意すべき。, 2010/10/26

永続革命論 (光文社古典新訳文庫)

永続革命論 (光文社古典新訳文庫)

 トロツキーの主著の一つだが基本は簡単な話。永続革命とは、世界中が共産主義化されるまで革命を続けましょうという話で、そのために工業化と集団農業をどんどん進めようというような話だと思えばいい。本書はそれをトロツキーが熱っぽく語るが、内容はいままとめた程度。

 さてトロツキーは世紀の悪人スターリンに執拗に攻撃されたので、トロツキーの理論こそはスターリンの真逆、社会主義の理想を体現するものだ、といった妄想は多い。だが実際に何が起きたかを見ると、その見方はかなり眉唾もの。

 たとえばトロツキー時代のソ連は革命の国際展開を狙って性急にドイツの社会主義化をそそのかし、ローザ・ルクセンブルグとリープクネヒトを犬死にさせ、ポーランドに侵攻しては撃退されている。当時のソ連もまだ国力がなく、自国経済再建に注力するのが正解で、スターリンらの一国社会主義はそれなりに正当性を持っていた。

 またその後スターリンコミンテルンを通じ世界中に共産主義を広め、工業化もコルホーズも、5カ年計画でガシガシ推進した。実はスターリンの政策は、本書の主張とかなり似通っている。本書の主張は実はすでに試されて失敗済みであることはお忘れなく。

 「自らが発見した理論と法則によって権力を握り(中略)その理論と法則ゆえに最大級の異端として、もろとも歴史から葬り去られたトロツキー」とあるけれど、こういう見方自体が理論の些末な重箱の隅に拘泥する内ゲバ左翼の論法。スターリンは理論的に対立したからトロツキーを排斥したわけではなく、単に権力闘争のライバルだったから潰しただけ。理論がどうこうなどというのは後付の言いがかりにすぎない。それを考えずに「理論」をつつきまわすのは不毛。それを忘れなければ、歴史的なアジ文献としてはおもしろい。訳は普通。また、おまけの他のエッセイも一読くらいには値する。が、現代的な意義はあまりない。

自伝前半、楽しく血湧き肉踊る革命家立志伝編。訳は直訳でお固め。, 2007/11/28

トロツキーわが生涯〈上〉 (岩波文庫)

トロツキーわが生涯〈上〉 (岩波文庫)

自伝前半の本書は、トロツキーの子供時代から社会主義運動への傾倒(高校時代に活動を始めたんですねえ)、そして各地での地下活動から投獄を経て、ロンドンのレーニンに会い、あれやこれやでカナダでボリシェヴィキ革命の報を聞くあたりまでの話。もちろんその後成功するのはわかっているので、何をやるのも予定調和的にいい解釈で、社会的不正への怒りから英雄的な革命運動への参加、という克服と勝利ののぼり調子のプロセスが述べられ、なかなか読んで楽しい、革命家立志伝ともいうべき部分。

翻訳は、よくも悪しくも愚直。流麗ではなく直訳的な処理が行われており、このため特に慣用表現などで意味のとりにくい部分が出ている。たとえば「ベンサム功利主義は、人間の思想の最後の言葉のように思えた」(p.209)なるなんだかよくわからない訳は、英語などでも使われるlast word on … といった表現の直訳。これはそれ以上の反論が不可能な決定的議論という意味なので「人間の思想の決定版」とか「人文思想としてまったく疑問の余地がないもの」とでもするべき。「敵はあらゆる陣地を保持した」(p.198. 敵はまったく無傷に終わった、くらい)や「(子供時代の)雰囲気と、私がその後の意識的生活を過ごした雰囲気とは、二つの異なった世界であり」(p.30, まったくの別世界であり、くらいの意)など、原文を類推して再変換しなければならない部分が多い。ただし、それができる程度の精度は確保されており、そんなに異様なレトリックが駆使されているわけではないこともあって、慣れてくればそんなに気になるほどではない。

また佐々木力の解説は、2000年の時点でまだレーニン万歳の旧態然とした古臭い左翼感をむき出しにしているのは失笑ものではあるが、本書の位置づけや旧訳についてのコメントなど、役にたつ情報も少しは入っている。

(下巻に続く)

トロツキー自伝、下巻では十月革命とその後。自己弁明が鼻につき、歴史的背景の知識は必要。, 2010/10/25

トロツキーわが生涯〈上〉 (岩波文庫)

トロツキーわが生涯〈上〉 (岩波文庫)

(上巻から続く)

 トロツキー伝後半は、革命前夜から。トロツキーはレーニンの右腕として獅子奮迅の活躍を見せ、十月革命を成功に導き、その後のソ連の体制作りに乗り出しつつスターリンとの権力闘争に敗れて追放される。上巻のような爽快さはなく、自分こそはレーニンの正当後継者であり、スターリンの言ってることは全部ダメ、という訴えが鼻につくようになる。

 だからもう、レーニンがいかに親しくことばをかけてくれて、意見がいつも同じで、自分を信頼してあれこれ任せてくれたか、という自己PRがものすごくしつこくなる。またこの伝記は、スターリンによる反トロツキーキャンペーンの真っ最中に書かれたので、「ここについてのナントカいう批判があるがそれは出鱈目で実は云々」というような記述がたくさん出てくるが、いまだとそんな批判はだれも知らず、読みにくい。そしてもちろん、先に進めば進むほど、自分がいかに不当にソ連指導部から追い出されたか、オレが正しくスターリンがダメか、という弁明まみれになり、上巻のすっきりした正義の革命家像がだんだんぼけてくるのは残念。ノイズが多いので、十月革命からNEPに至るおおまかな歴史を知らないと、かなりわかりにくい。記述は勇ましく楽しめるものの、またクロンシュタット反乱の弾圧など自分にとって都合の悪い話は流しており、多少我田引水の記述が多いことは念頭におくべき。

 なお翻訳は、上巻と同じで愚直ながら普通。解説で、訳者は旧訳からの改善点を挙げている。が、筆頭に来るのは「ウェストミンスター」というのが寺院でなく議事堂のほうだというもの。本質に関わる重要なミスではなく、単なる些末なかんちがいでしかない。改訳点として真っ先に挙げられるのがこの程度のものだとすると、わざわざ改訳をする必要が本当にあったのか疑問に思わずにはいられない。翻訳については藤井一行氏による批判も参照。

事実は小説より奇なり。勉強にもなります。, 2010/10/7

 一読して唖然。本当に小説より奇なりで、もし小説家が、投資銀行格付け機関も保険会社も銀行も、自分の扱っている商品について何一つ知らないでそのまま世界経済が崩壊する、なんて小説を書いたら、そんなバカな設定があるか、とせせら笑われたはず。それが実際に起きてしまったという驚愕の事態を実にうまく書き上げている。

 また、勉強にもなる。実は本書を読むまで、クレジット・デフォルト・スワップの仕組みって知らなかったんだよね。本書はそれをいとも簡単に説明。正直いって、これまで読んだ新聞雑誌等でのCDSの説明も、たぶん実はよくわかってないやつが書いていたことが本書を読むとよくわかる。

 でもリーマンショックサブプライム関連の関係者のひどさを書いた本は多いけれど、本書が他の上から目線の「貪欲な投資銀行が悪い」「拝金主義の経済が」といった知ったかぶりの後付批判本とちがうのは、そこに皮肉な人間ドラマがあること。本書のヒーローたちはみんな、当時のサブプライム融資やそれを使った金融商品のひどさを知り、世間の流れに公然と反旗を翻し、白い目で見られる。でもかれらの正しさが証明された後でも、やっぱりかれらは孤独なままで、賞賛されることもないし、儲けさせてあげた人々からも感謝もされない。単純な「正義は勝つ」ではすませていないところが、本書の奥深さ。よい本です。

なお、カバー見返しの訳者の略歴は笑えるのでご一読を。東江一紀は優れた翻訳者で本書も実にうまいが、これはさすがに……

1724年版をスキャンしてそのまま本にしたもの。, 2010/8/30

有名な海賊たちの行状を記録した、1724年刊行の有名な本を、そのままスキャンして画像のまま本にしたもの。スキャンの質はまあまあだが、もとの本がぼろぼろだから版面の質はそこそこ。古い本の版面がかすれていたりするのは、ちょっと味わいもあってよいけれど、それを真っ白いきれいな紙でやられると俄然みすぼらしくなる。Doverなどの廉価版もあるし、普通にいまのフォントで組み直したものも出ている一方、こちらはかなり判型も大きくて分厚いので、少し特殊なニーズのある人向け。

本自体は大変におもしろく、各種の海賊物語のネタもと。

批判対象とされるものが、本当に主流の見解なのか疑問が残る。, 2010/8/10

毛沢東と周恩来―中国共産党をめぐる権力闘争 1930年~1945年

毛沢東と周恩来―中国共産党をめぐる権力闘争 1930年~1945年

 中国共産党の公式な歴史では、1935年の頃までにはコミンテルンの息のかかった、モスクワ帰りの博古や王明らの帰還学生組がコミンテルン28人衆として権力を握っており、それが王明路線として毛沢東の路線と対立していたことになっているそうな。それが遵義会議において一挙に逆転して毛沢東路線が支配的になり、王明路線/コミンテルン28人衆は失脚した、というストーリーが主流とのこと。

 だが本書は、それが矛盾だらけでまちがっている、という。コミンテルン28人衆なんてがっちり固まった組織はなく、遵義会議の後で失脚したのは、博古/オットー・ブラウン/周恩来トロイカ体制でしかなく、毛沢東に対する異論はたくさんあり、毛沢東派とされる康生は実はもともと王明&周恩来寄りで等々。そして、王明路線とされたものは実は周恩来の路線だ、というのが本書のタイトルにも出ている主張となっている。

 全体に非常に学術的な研究で、ある特定の細かい論点についての検討なので、歴史の細部に関心がない人は特に読む必要もない。そしてそれ以上に、本書で批判されている見方というのは、本当に主流の見方なのか、というのは素人ながら疑問。というのも、本書の刊行は2000年だが、その一年前に出た一般向けのショート毛沢東 ある人生においてすら、そんな28人衆は出てこないし、失脚したのがトロイカだということも、康生の鞍替えについても明記されている。そして遵義会議で博古やブラウンらコミンテルン勢など問題外で、その本質が毛沢東周恩来の対決だったことも指摘されている。この伝記は研究書ではなく、著者の勝手な思い込みで書かれたものでもない。通説に反する解釈についてはその旨断りがある本だが、これらの点については一切そうした断りもない。

 その伝記でも著者の遵義会議についての記述は非常に信頼できるものとされている。だが本書の批判対象となっている議論というのは、本当に主流の意見だったのかどうか、いささか疑問が残る。