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経済成長は、ぼくたちの努力や成長の総和でしかない。


ここでのやりとりを見ていて思ったこと。

http://bewaad.com/20061103.html#p01

もう経済成長はいらないとか、お金だけがだいじなのではない、とかを他人に対して(それはたとえば「日本は」とか「人々は」とか「先進国は」といった表現になることも多い)口走る連中は、みんな衣食足りているどころか飽食している人々だということ。そしてその人々が、そのだいじでないはずのお金を手放そうとしたりすることはおそらくほとんどないということ。

が、それより重要なこととして、そうした人々の多くは想像力が欠如していること。経済成長ってことの意味がまったく理解できていない。

ぼくたちが経済成長するということは、別にぼくたちがお金を貯め込むということではない。たくさん生産して、その分たくさん買うようになるということだ。そしてその買う相手は日本だけじゃない。アメリカやアジア、各種発展途上国もある。ぼくたちが経済成長すれば、そうした国々の商品を買って、その国々の経済成長――つまりはかれらの生活水準の向上――を助けることになる。かつて 1997-8 年頃にアジアの通貨危機が起きたとき、日本の景気がよくて経済成長がもっと高く、アジア諸国からもっとたくさん買ってあげられていれば、インドネシアはあんなひどい状況にならずにすんだかもしれない。アメリカだって、住宅需要減速におびえる状況が少しはましになっていたかもしれないし、ヨーロッパだってもう少し楽に息ができるようになっただろう。そして相変わらずろくでもない状況のアフリカのものだって、少しはおおめに買ってあげられて、かれらも少しはましな状態になっていたかもしれない。

 それはある意味で、経済大国の責任でもある。自分が飽食して、欲しいモノが一通りそろい、ネットもパソコンも家も持ち、ブログを書き散らすだけのゆとりが手に入っているからといって、日本全体に対して成長をやめろというのは、ある意味で世界第二位の経済としての責任を放棄しろといっているに等しい。それは、自分の身の回り三メートル四方しか見えていない近視眼の告白でしかない。

 経済に限らず、あらゆる成長というのは自分だけに関わることじゃない。まわりの人々、社会全体、世界のあり方にもかかわることだ。成長して、余計に使えるようになったお金は、人助けにも使えるし、環境改善にも使えるし、あれやこれや、いまお金が足りなくてできない各種のよいことに使える。それを考えなきゃいけない。まだまだ世の中は完璧じゃない。もっともっとしたいこと、すべきことはある。それを実現するためにも、もっと成長しなきゃ。

 というよりも、そうしたことを実現することこそまさに経済の拡大であり、成長なのだ。これまで垂れ流されていた廃棄物をきちんと処理する技術をつくり、産業化することで経済は拡大する。見殺しにするしかなかった病人を治療し、回復させる仕事を作ることで経済は拡大する。人間がもっと生活を便利にしよう、もっと世の中をよくしようと思う限り、経済はほっといても成長するのがふつうなのだ。無理に経済を成長させようなんてする必要は、本当はない。だまっていても、人は何かしら工夫をして生活を向上させる。経済成長ってのはその集まりでしかないのだ。そう思って下のグラフを見てごらん。

 人はGDPとか経済成長とかいうことばだけ覚えて、なんかわかったつもりでいるけれど、それを実感として理解している人はおどろくほど少ない。でも、それは抽象的な数字なんかじゃない。明日はもう少し能率よく仕事を片付けて、あまった時間で新しい何かをやろうと思う。いまは捨てているこのピーマンのへたを、新しい料理に使ってみようと思う。そうした各種の無数の努力が積み重なっていく様子を想像してみなきゃいけない。GDP成長が 1%とか 2% とかきいたときに、その背後にある多くの人々の努力と知恵を思い浮かべなきゃいけない。上のグラフの背後にある無数の個人の力をありありとイメージできなきゃいけない。そしてそれができたら、経済成長はいらないなんていうつまらないことは口走れないはずだ。あなたは、もう努力もやめたかもしれないし、工夫に頭を使うこともなく、昨日と同じ生活を送れればそれでいいと思っているかも知れない。でも、その他の多くの人間――もはや中年になったこのぼくですら――はまだまだ今以上にやりたいことがあるんだし、そのやりたいことの多くは、飽食した連中のアームチェア経済停滞マンセー談義よりはるかに切実なものなんだから。

一部の人は、経済成長というと何か無理強いされたもののように感じるようだ。経済成長率 3% と言われると、現状で満足している人々を、国や企業が無理矢理ムチでしばいてもっとたくさん生産させる、そんな様子を想像するらしい。むかしの社会主義国の、「鉄の男」式むちゃくちゃ生産ノルマを連想しちゃうのかもしれないね。でも、そうじゃないのだ。去年の自分と今年の自分を比べて、少しは成長したと思わないだろうか。多少は仕事がうまくなった、多少は手際がよくなった、多少は知恵がついた、多少はいろんな面で腕をあげたと思わないだろうか。それは必ずしも無理強いされたものじゃないはずだ。かなりの部分は自分から喜んで向上させた技能のはずだし、それが実現できたときは本当にうれしかったはずだ。

 それがまさに経済成長の元だ。そして、その自分の能力向上を数字であらわすとどのくらいだと思う? 2% の向上? 5%? 1割くらい能力があがった人だってざらだろう(一方で運が悪かったり、へまをこいたりしてもっと低い数字しか出なかった人もいるだろうから、平均するともっと下がるけれど)。経済成長が重要だ、という議論は、それが実現されないと生活水準が下がっていやだ、という非常にまっとうな感覚に基づくものでもある。でも一方で経済成長は、ぼくたち一人一人の成長や能力向上の直接的な反映だ。経済成長できるはずだ、というのは、ぼくたち自身の成長能力に対する信頼でもある。経済成長をやめろというのは、人間が成長をやめろということだ。あなたにはそれができる? 何も工夫せず、成長もせず、一年前と何も変わらない状態でいられると思う? あなたはさておき、日本社会の全員がそうなれると思う?

 ぼくは思わない。ぼく自身、来年までには少しは成長するだろう。あなたも成長するだろう。今日ぼくが出会った人すべてが、よほどの不運に見舞われない限り、まちがいなく何らかの形で成長をとげることだろう――少なくとも、成長するだけの潜在力を持っていることだろう。それを考えたとき、経済成長しなくていいとか、してはいけないとかいう連中の物言いは、噴飯もののアホダラ経でしかない。よほどとんでもない環境にでも置かれない限り、だまってたって人はあれこれ工夫をするし成長しちゃうし、みんながそれをやったら、経済だって当然のように成長するしかないんだもの。それが起こらない、という状況のほうがきわめて不自然だからこそ、人は低成長を憂慮しなきゃいけないんだよ。経済成長を願うのは、人の成長能力を信じ、そしてその潜在力を思い切り発揮してくれることを願う、信頼と希望の表明でもある。それが信じられないというならご愁傷さま。いや、ぼくだってそれが理解できない訳じゃない。セリーヌ読むとそんな気分になるし、しばらく前は ATR をきいて "Destrooooy!!" とか叫んでいたことでもあるし。でもぼくは反経済成長論者が本気でそこまで気骨あるペシミズムを本気で抱いているとはとても思えないのだ。



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山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.