生産性の話の基礎

ゴッドランドの経済学」で生産性の話を書いて、インドから戻ってきてみると反応がいろいろついてた。この連載はその意味で毎回楽しいね。もちろんそれが楽しいのは、読者のみなさんが有益で生産的な議論をいろいろ展開してくれるから……ではない。はてなブックマークにしてもトラックバックにしても、多くは単なるバカと無知の表明にすぎないものばかり。ぼくがまったく考えなかったような論点を指摘してくれるものなんてほとんどありゃしない。きみたち、ワタクシを震撼させるような議論ができないのかね!! ……って、できるわけがない。だってぼくが書いていることは経済学のほんの基礎の基礎で、考えられる反論や揚げ足取りはもう過去 100 年以上で出尽くしてるんだもん。でも、それはそれでありがたいのだ。というのも、何をぼくが説明しなきゃならないかがかなりよくわかるし、その説明内容がかなり基礎的なものでいいことが見えるからだ。


そして今回、ちゃんと生産性というものについて説明しなきゃならんな、ということがよ〜くわかりましたよ。みなさん、かなり誤解なさっているのですもの。特に大きな問題点は、生産性、稼ぎ/賃金、熟練/未熟練労働といったポイントの相互の関係ということだ。

生産性の基礎

まず生産性ということから。生産性というのはむずかしい。たとえば宅配の配達員と、このぼくの生産性を比べるにはどうすればいい? ブッシュ大統領とぼくの生産性はどっちが高い? こういう見方をするとなかなか答えが出ない。そしてその混乱に乗じていろんな誤解が出てくる。生産性が高いか低いかと、その職業の重要性とはかなり話が別なんだけれど、でもいろんな人がこれをいっしょくたにして誤解するんだ。だからまずいちばん簡単な生産性の考え方と、それが技能や所得とどう関係しているかの議論から。


生産性を比較するのにいちばんいいのは、その他の条件をすべて同じにして生産量(または同じ作業に要する時間)を比較する方法だ。たとえば、ぼくは先日、ウィリアム・バロウズアレン・ギンズバーグ『麻薬書簡』という本を訳した。所要時間は一日半。しかも品質最高。一方、この本には既訳があって、某大学の先生がどっかに缶詰にされて「たった二週間で仕上げた」と自慢し、しかも「やっつけ仕事だ」と自負なさるとおり、目を覆うばかりのまちがいだらけ。この場合、ぼくの生産性と、この大学の先生の生産性のちがいは簡単に計算できる。時間だけで見ても、ぼくの翻訳の生産性はこの先生の 10 倍弱。品質を考慮すれば 20 倍以上だろう。

そしてここから、生産性と所得がある程度は比例していることもわかる。この先生が一冊翻訳をあげる間に、ぼくは 20 冊あげることができる。この先生は一ヶ月に二冊翻訳ができるけれど、ぼくは 40 冊。一冊あたり 50 万円もらえるとすると、この先生の収入は月に 100 万円。ぼくは月に 2,000 万円という計算になる。生産性に比例して所得は増える。なぜそうなってないかというのは別の問題だけれど、ここではとりあえず計算上そうなることだけ理解してね。


ここまではよろしいか。これはとっても簡単な話だ。同じ作業で比較すれば、品質の高さ、時間あたりの処理件数なんかで生産性ははかれる。そして処理件数は、すなわちその仕事における技能ということだ。さらに、本来であれば生産性――つまりは技能水準――に比例して所得は増える。これはまちがいない。この水準では、高い技能=高い生産性=高い所得という関係が成立する。


でも、これだけ読んでわかった気分にはならないでほしいのだ。これはかなり限られた文脈での話なんだから。前回のエントリーに対する各種コメントを見ると、多くの人はこの議論をかなり不適切な文脈で理解しているようだ。でも、それじゃいけない。他の職業を考えてほしい。いやそれよりも、国際比較を考えて欲しい。生産性は収入その他ときちんと比例しているか? そんなことはまるでない。


生産性の国際比較――サービス業は世界的に大差ありませんわよ

というわけで、生産性を国際的に比べてみませう。たとえば医者。日本のお医者さんは、ガーナやマラウィのお医者さんよりもはるかに高い所得を得ている。さてなぜでしょう。

だれでも思いつくのは、日本のお医者さんのほうが技能が高く、サービス水準も高く、つまり生産性が高いからだ、というものだ。

これは一見もっともらしい。でもよく考えてみると……ホントですかぁ? そりゃ一部はそうだろう。でもたとえばマラリア治療でいったら、アフリカの医者のほうが熟練しているし技能も高い。ときどき、日本人がマラリアにかかると、現地の医者ではアレだからすぐに日本に帰国させろ、と言われる。ドジンの医者なんか信用できないってわけね。んでもってその通りにすると、帰りの飛行機の中で高熱で死んだり、あるいは日本の(ここ 50 年ほどマラリアなんかお目にかかったこともない)お医者さんたちのたらいまわしにあって、結局死んだりするんだ。日常茶飯でマラリア患者を診ている現地のお医者さんのほうがずっと信用できる。日本の医者の生産性がそんなに文句なしに高いですか?

もちろん、注文をつけようと思えばいろいろある。もっといい設備が、とか、もうちょっときれいに消毒してくれませんか、とかね。でも基本的なところは変わらない。日本でもアフリカでも、たいがいの患者はどうってことない、ほっとけば直る連中ばっかだ。日本の病院でいちばん多いのは年寄りの愚痴聴きと風邪の診察だもん。そんな人の診察にかかる時間なんて大差ない。マラウイの医者が一人こなす時間で日本の医者なら 50 人診察できる、なんてことはない。その意味で、日本とアフリカとでは、医者の生産性に大した差はないんだ。

で、なぜ日本の医者のほうが圧倒的に高いお給料なの? 別にそれがいけないってわけじゃない。ぼくは安すぎるくらいだと思うけど、でもなぜ生産性がちがわないのにそんなに給料が高いの?


あるいはもっと卑賤な職業を見ようか。床屋! 日本でぼくが床屋にいくと、QB ハウスで一回千円だ。フィリピンだと、一回百円。ガーナだと一回 70 円だった。

さてQBハウスは手際はいい。でも、フィリピンの 10 倍手際がいいか? ガーナの 15 倍手際がいいか? そんなことはない。ガーナの床屋は、所要時間は 10 分かそこら。QB ハウスはそれを 1 分で仕上げてくれる? そんなわけはない。フィリピンは、時間は 30 分ほどかけるけれど、その分総バサミで仕事はものすごくていねいだった。勘案すれば処理件数は、日本もガーナもフィリピンも似たり寄ったり。つまり生産性も似たりよったり。なのに、日本の床屋さんは後進国の 10 倍以上も稼ぐ。


もっと卑賤なほうへ。マクドナルドのスマイルゼロ円の店員さん! かれらの仕事に、日本とスリランカとで何かちがいがあると思う? ないでしょう。生産性はまったく同じ。でも給料はやっぱり 10 倍 20 倍ちがうよ。


もっと卑賤なほうへ! メイド喫茶女中さんがいる。日本の女中どもは、やはりメイド喫茶のあるタイの女中さんの数十倍の時給だ。どうして? 日本の女中さんはなんか手際がいいの? 目にもとまらぬはやさでオーダー取るとか? 「お帰りなさいませご主人様」というのを 100 倍の速度で言えるとか? 日本ならタイの女の子の 100 倍の媚びを売って、萌え度 100 倍、タイの女中喫茶なら平気なキモヲタくんが、アキバの女中喫茶だと店に入った瞬間に萌えオーラでいきなり射精とか? ねーよ。給料は大幅にちがうのに、どうみてもやってることはほとんど同じだ。それどころかかわいさや愛想でいえばタイの子たちのほうがレベル高いよ。だまされたと思ってサイアムスクエアに行きなさい。ついでにナナプラザまで――いやこのネタはやめとこ。でもそれにしても、中身同じでなんで日本のほうが賃金高いわけ?


あるいは会社の管理職! あるいは官僚! モンゴルでもフィリピンでも、働く人はいっぱい働くよ。ぼくは日本の官僚はとってもよく働いてくれると思って感謝してるけれど、それがモンゴルの 10 倍も働いてるか? 一日に稟議を通す書類は何通くらい? ぼくはそんなに変わらないと思う。


話はわかるだろう。人間を相手にするサービス業では、時間あたりの処理人数で見た生産性は大差はありえない。どっかで生身の人間を相手にする以上、その処理効率の改善には限界があるからだ。電話やコンピュータを間にはさむ場合はいざ知らず、対面が要求される多くの職業では、最低限の接触しかないコンビニの店員さんですらお客一人あたり数分はかかるし、それは先進国でも後進国でも変わりようがない。にもかかわらず、その稼ぎには大きな差がある。なぜ?

 

それはだね、稼ぎ――つまり賃金水準――というのは、絶対的な生産性で決まるんじゃないからだ。その社会の平均的な生産性で決まってくるものだからだ。


はてなブックマーク連中よ、ここを絶対に見逃すなよ。賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ。ここだけ理解してくれれば、本稿の他の部分なんかどうでもいいくらい。念のため赤でも書いとこう。賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ


所得水準は、社会の平均的な生産性で決まる――そしてそれを引き上げているのは製造業だ

所得水準は、社会の平均的な生産性で決まる。これはしつこいくらい理解しておいてほしい。プログラマとかは、自分たちの給料が高いのは自分たちが高い生産性を実現しているからだ、と思っている。銀行員は、自分たちが高給取りなのは自分が優秀で高い生産性を実現しているからだと思っているだろう。多くの人は、たとえばフィリピンや旧東欧諸国にでかけて、店員の手際が悪いとか、官僚の仕事が遅いとかいう話をして「あれじゃあ所得が低いのも仕方ないね」なんてことを得意げに語る。「日本なら絶対あんなことはない、だから日本は先進国の仲間入りができたんだ」と。

でも実はちがう。あなたたちの給料が高い理由の大半は、あなた自身の優秀性なんかとは何の関係もない。店員の手際が悪くたって、せいぜいが倍ほど悪い程度のもんだろう。あれやこれやで不満はある。でも大差はない。あなたにとってのはした金で、途上国の人々は奴隷のように働いてくれる。それも嬉々として。でも、それはあなたがえらいとか優秀だということを意味するものではまったくない。あなたがサービス業/第三次産業なら、あなたの生産性はスーパー貧困なカンボジアの同じ業種の人と大差ない。所得水準ほどの差があるわけがない。


あなたの給料が高いのは、社会全体の平均的な生産性が圧倒的に日本のほうが高いからだ。そしてそれを引き上げているのは何だろう。床屋でも官僚でも管理職でもプログラマでもない。トヨタが、松下が、帝人が、すさまじい大量生産によってすさまじい生産性を実現しているからだ。こういうところの工場労働者たちは、後進国に比べて一人あたり数十万倍以上の生産性を実現している。スリランカの労働者は、車(たとえばオートリキシャのボディだけでも)を作るのに一週間以上かかる。だって手で板金を曲げて、パイプを溶接して、屋根つけて、塗装して……というのをやるんだもん。日本では、たぶん、平均で見ると工場の労働者一人あたり二、三分に一台くらいで車が生産できる。ほとんどすべてオートメーションの工場だもんね。

そしてその生産性の差が他のところに波及する。そうした高い生産性の人々は高い給与/所得を実現する。その人々は、たとえば食堂で高いお金を払っても平気だ。そしてそういう人々の保険や、法律相談や、床屋や、その他ありとあらゆるサービスは、その高い生産性の人々の水準にあわせて調整されることになる。高い労働生産性を持つ工業セクターの人々が買う野菜の価格は、それに応じて高くなる。生産性が途上国の 100 倍の人たちは、床屋に途上国の 10 倍払っても平気だ。靴も服も食事も、その他各種サービスもまったく同じ。それがあるからこそ、日本の床屋はフィリピンの床屋の 10 倍の料金を取れるわけだ。日本の管理職は途上国の百倍の給料をもらえる。官僚も、食堂も、あらゆるサービス業がそうだ。はてなに巣くうお気楽大学生どもが、バイトで途上国の高級官僚の何倍ものお金を稼げるのも、究極的にはシャープやソニーやスズキのおかげなんだよ。腐ったアーティストだの、エコロジストだの、勉強不足の新聞記者だの大学教師だのが高い給料をもらってのほほんとして、大企業批判にうつつをぬかしていられるのは、実はかれらが往々にして忌み嫌う大企業の大量生産システムのおかげなんだ。2ちゃんねるに巣くう(一部の)くされニートどもだって、その安楽な生活はかれらがとかく批判したがる大企業が高い生産性を実現している余剰にたかっているだけなんだよ。


前回述べたように、こうした企業が高い生産性を実現できるのは、その他の人々の支えがあればこそ、ではある。そうはいっても、やっぱり肝心なのはすさまじい労働生産性を達成している製造業なんだよ。もちろん、平均労働生産性で決まるのは、社会のベースラインとなる所得/給与水準だ。それだけですべてが決まるわけじゃない。その次に社会の中での需給水準に基づいて、それぞれの仕事の所得/給与水準が決まってくる。そしてその仕事の中では、生産性に応じて所得水準が決まる。もちろん、これが完全にあてはまらない場合もある。細かいところではいろいろ差がある。でも、全体がこんな段階を経て決まってることは理解しなきゃいけない。


同じ社会の中での賃金水準は需給で決まる――技能が高ければいいわけじゃない

いまのところも、ふんふんとみんな読み流しただろうけど、たぶんわかってない。だからくどく説明しよう。

その次のレベル――未熟練労働と高度技能労働の差――も、みんなわかってるようで実はわかってない。前回に対するコメントで、生産性と熟練とか高度技能を混同している議論がたくさんあったもんね。でも、いまの議論をよく考えてもらえばわかる通り、これだって必ずしも関係がないんだ。

多くのお気楽なおめでたいブロガーたちは、高度技能労働のほうが常に当然給料も高く、需要も常にたっぷりあって、社会的地位も高いものと信じ切っている。一方の未熟練労働は常に余ってだぶつくものと信じてやまない。だから高度技能はどんどん高給取りになって、未熟練労働はどんどん給料が下がって、格差は拡大する一方だ、やれ困ったどうしましょ、という具合。あれとかこれとか、一知半解の社会経済派ブロガーがしばしばこんなことをしたり顔でえらそうに述べたりするんだ。

でも、ぼくはそういうのを見るたびに失笑する。だって必ずしもそんなことはないんだもん。ごく最近も、それをにおわす事件があった。大卒の人が、高卒だと偽って自治体の仕事について、それがばれてクビになったという事件。高卒水準の仕事――たぶんそんなに要求レベルの高くない、相対的にいえば未熟練労働だと思う。でもこの「犯人」にしてみれば、そっちのほうが高学歴の求職よりも魅力的だったんだよ。未熟練労働のほうが、熟練労働よりもよかったんだ。給与水準や安定性を見たとき、そのほうがその「犯人」にとっては上だったんだよ。

もちろん、高卒が大卒より本当に未熟練か、というのは議論の余地はある。実践的な知識という面なら、半田付けもろくにできない(多くの)東大卒より、旋盤も溶接トーチも使える工業高校の卒業生のほうがずっと役に立つだろう。が、そういう細かいアレコレは追求しないでおくれ。どんな議論を読むときでも、人がどのくらいの粒度で話をしているかは見極めなきゃいけないんだから。でも、未熟練がだめで高度技能が常に需要バリバリ、というような一般にありがちな偏見が、必ずしも的を射ていないことはわかっておくれ。すべてはひたすら需給によるんだ。将来的に、たとえば便所掃除をしてもいい人の数が圧倒的に減ったら、便所掃除作業の時給はそこらのサラリーマンを遙かに超える。メイド喫茶が今の 10 倍の人気を博すようになったら、女中どもの時給がモルガンスタンレーの高級取りよりはるかに高くなることは十分に考えられる。バブル期には、コンクリートの型枠職人がビジネスクラスの飛行機で日本各地の現場を行き来していたんだよ。もちろん、非熟練労働の問題は、まさにだれでもできるということだ。「お金はいくらでも払いますから、うちの便所を是非掃除してやっていただけませんでしょうか」という状況になったら、お金のために仕事をしているのではないという bewaad 殿のような方はさておき、多くの優秀な官僚や技術者が現職をなげうって便所掃除市場に殺到して、結局その賃金水準は下がってしまうだろう。でも以前3K職場に人がいかないという問題が深刻に議論されていた。金を積まれてもいや、という職場は、必然的に高給を払うしかなくなるんだ。未熟練だろうと熟練だろうと。


熟練/未熟練の関係を理解するには、資本主義の原点にまでさかのぼってみよう。アダム・スミスは分業の偉大さを述べるのに、ピン作りの例を使った。針金を切る人、その先を削ってとがらせる人、ピンの頭をつける人、検品する人、梱包する人。そうやってプロセスごとに分業化することで生産性が何百倍にも高まるんだ、とかれは『国富論』で主張した。これに反論できる人はだれもいない。

さて一方には、プレ分業時代から一子相伝でまち針を作り続けている、天下無双のピン作り名人がいる。切るのからとがらせるのからなんでも自分でこなす。ピン作りについて知らないことは何一つない。そのまち針を使うと、しつけ縫いが不要になるとすらいわれる、絹のタッチの奇跡のピン。が、残念ながら手作りだから、作れるピンの数は分業体制のピン工場に比べて 1/100 以下だ。

で、技能はどっちが高い? 前者の労働者は一人残らずバカの未熟練労働といっていい。ピン作りの全体像なんか何もわかってない。後者は、文句なしにピン作りに関する圧倒的な高度技能を持った、熟練労働者だ。でも……前者の労働者は、誰一人高度な熟練技能なんか持っていないけれど、ピン工場全体で平均すれば生産性はものすごく高い。後者は、高度技能を持っていても生産性はピン工場平均より圧倒的に低い。ひょっとしたら「マルホトラさんのお作りになるまち針はやっぱりちがうわねオホホホ」といってピン作り名人のまち針に 4 倍くらいのお金を払う物好きはいるだろう。でも 100 倍は……無理でしょ。

つまり技能や熟練水準と生産性とは、実はあんまり関係ない。熟練だからってニーズがあって世間の勝ち組と決まってるだろうか? そんなこともない。あなたが熟練だと思っているものだって、いつ陳腐化するかわからないでしょう。すべては需給なんだよ。未熟練労働が不足したら、その価格――賃金――は絶対上がる。レムによれば、かつてポーランドでは家政婦がすごい力を持ってたんだってさ。だからふと気がつくと、あなたの給料よりもメイド喫茶女中や駅の掃除員のほうが給料が高い事態だって十分に考えられる。明日はあなたも、院卒の経歴を隠して高卒資格で採用面接に臨んでいるかも知れないよ。

そして……やっとのことで、同じ職種、同じ仕事の中で見たら、生産性の高いほう――単位時間でこなせる量の多いほう――が高い賃金を得るわけだ。ふう。やっと最後の最後で、ふつうの人が考えている生産性と稼ぎの関係のところに話が落ちてきたよ。でも、社会の平均生産性とか、社会の中での相対的な需給のほうが、たぶん影響としてはずっとでかいだろう。


まとめ

今回は、生産性をめぐるありがちな誤解をざっとレビューしてきた。生産性の高低、熟練度や技能の高低、そして所得の高低は、無関係ではない。でも、完全に一致しているわけじゃない。だからそのときの議論をよく考えて、どこまで関係あるかをよく見極めなきゃいけない。逆に、人が何か議論を書いているとき、それがどのくらいのレベルまで考慮した話なのかはちゃんと考えておくれよ。同じ職種の中での比較なのか、同じ経済圏の中での相対的な立場なのか、あるいはもっとグローバルな話なのか。これを混同したら、生産的な議論は何一つ不可能だ。だから、十分に注意してほしい。多くの経済系アルファブロガーと称する人々でも、ここらへんのレベル分けは驚くほどできておらず、とんちんかんな議論をしたり顔でしているケースがままある。そして読む側も、それを(無知から)混同しておかしな議論をしていることがかなりある。書く側としてはなるべく誤解ないような書き方を心がけるけれど、このぼくが書く場合ですら、あらゆる条件をすべて記述しきるのは不可能だ。だから、そこらへんは読者のリテラシーとやらにおすがりするしかありませんや。よろしくね。

ここまで親切に書いてあげても、多くの人はまだ非生産的な議論を展開し続けるだろう。それは仕方ない。ぼくもこの議論を初めて読んでから本当に腑に落ちるまで数年かかったもん。ただ、生産性という話をしたときに、この程度のレベル分けを頭の中で自動的にするだけの見識は身につけてほしいな。そして自分がそういう議論をするときにも、自分がいったいどの水準でモノを言ってるのかは、ちゃんと考えてね。国内での差を議論しているときに「でも途上国では」と言われたり、あるいは生産性の話をしているときに給料がどうしたという話をされても、レベルがちがうので困ってしまうんだよ。


……なんか本気で「経済のトリセツ」になってきたな。でも、今回の話は絶対に理解して損のないことだから、もう一回くらい読んでよく理解しておいてほしいな。ではワタクシはしばらくガーナにいってきますので、みんないい子にしているんですよ。よろしいですね。ではまた。



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