高橋洋児『過剰論』:○経のなれの果ての爺さん警世グチ論集。

過剰論 経済学批判

過剰論 経済学批判

暗黒卿のご親戚ですか、と一瞬思ってしまう名前ながら、マル経で博士をとってしまってつぶしが効かなくなったご年配な方の、愚痴論集。現代経済の問題は、市場規模に比べて生産力が過剰なことである、という。ジャン・バプティスト・セイ先生、高橋くんったらこんなこと言ってます! いけないと思います! とはいえまあ需要不足と見るか生産力が過剰と見るかは、相対的な話ではありますので、そういう言い方もできなくはないでしょう。

で、生産力過剰だという証拠は? 需要を増やせないという議論は? 特になし。著者がそう思うだけ。金融がアレでお金をすりすぎていて大量消費に無理があって云々。で、生産力が増えて価格が下がらないのはなぜ? 充足すると消費が選択的になって教育に向かうけど、教育は大企業が供給しないからどうのこうの、とかいうんだけど、なぜできないの? たいした説明なし。

で、それが散々続いた挙句に最後になると、インフラ輸出しろとか、過剰設備の削減で新たな供給力拡大とか(供給過剰が問題だったんじゃないんですか?)、挙句の果てにはいまの若いもんは小魚の骨を食わずにカルシウムが足りないからよくないとか、走って足腰を鍛えろとか、どーしようもなく卑小な話にどんどん収斂してきてジジイの愚痴に堕していく有様は、本当に哀れみを禁じえない。で、この人は昔とった杵柄というかなんとかで、毛沢東スターリンがお好きで、勉強家だったとか中国の経済発展の基盤を作ったのは毛沢東人民公社とか、なんかほめてみせようとして、いまの日本の総理ももっと勉強を、とお説教。やれやれ。ま、勉強してくれとは思いますけどね。こんな本、書評しません。



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長山靖生『戦後SF事件史』:なんだ、ぼくが一回も出てこない事件史なの?

戦後SF事件史---日本的想像力の70年 (河出ブックス)

戦後SF事件史---日本的想像力の70年 (河出ブックス)

なんだ、戦後 SF 事件史で、愛国戦隊大日本とかにも触れてて、ぼくが一回も出てこないの? つまんなーい。ちなみにこの本、しょせんは戦後「日本」SF「業界」事件史なんだよね。

が、それ以上にぼくががっかりしたところは、本書の最後。東北震災と前後して小松左京が死んだことに触れて「日本は今、もっとも必要な人材を失ったのである」(p.271) と述べて、SF 的な想像力こそが震災からの復興に大きく役立つはずだ、とまとめている。

小松左京的な構想力のかつての意義とその現代的な課題については、イナバ、田中、山形の SF 鼎談でかなり語った。そしてそこでも指摘されたことだけれど、少なくとも小松自身に関する限り、その限界が露呈したのは神戸震災のときだった。さらに今回の東北震災復興に必要だった(いや過去形じゃない)のは、SF 的な想像力などではなく、もっと地道で平凡な災害復興の財政対応と行政能力なんだよね。震災に乗じて変な人々が変な妄想や想像力を発揮して「経済重視の社会を見直せ」だのくだらないことを言って基本をないがしろにしたのは、むしろかなり事態を悪化させたと思う。

基本的に SF 的想像力は、技術の発達や経済発展が前提にあって初めて威力を発揮できるものだと思う。アメリカ SF が 20 世紀半ばに大発展し、小松が 1970 年代に全盛期を誇ったのは偶然ではないのだ。それがないときに SF にできることはほとんどないのだ。せいぜいが、あらゆるディストピアは実はユートピアたらんとして構想されたのだということを指摘し、人々が変なユートピア妄想に安易に陥らないような防波堤を提供するくらい。でも日本 SF は今回明らかにそれに失敗して、むしろ人々がだらしないユートピア妄想にふけるのに荷担しただけだった。でも本書はそれを指摘できない。 SF の事件は追うが、結局 SF の意義をきちんと考えることがないが故に、ありきたりなまとめに落として終わってしまう。

正直いって、最近のあらゆる本は意味もなく 3.11 大震災を持ち出しすぎだと思う。「アーティストのためのハンドブック」でも、大震災によりアーティストの意義が変わったとかなんとか訳者解説にある。変わってないって。ショックだったのはわかるけれど、それで自分が何かえらくなったような気分にひたってはいけない。それは高校くらいに、はじめて社会の役割とかこの世の不正とかに気がついて「世界はどうあるべきか」なんて考えはじめたとき、ついつい自分がえらくなってだれも気がつかなかった真理に気がついたように思ってしまうのと同じだ。「もっと人々が分かち合えばいい社会になるのだ!」とか「大人は強欲で汚い! もっと心を大事にする社会にしなければ!」とかね。

あの震災でもそうだ。あれを期に初めて社会の仕組みとか公共の役割とかに思いをはせた人々は、いままでそういうのを何も考えたことのない人に限って、何かそれで自分がすごく深遠なことを思いついて、だれも考えていなかったことを自分が考察しているかのような気分になって、舞い上がっている例が多々ある。「もっと人々が分かち合えばいい社会になるのだ!」とか「もっと心を大事にする社会にしなければ!」とかね。

でも、やがて高校生たちもわかるように、実は自分が考えたことの大半は、とっくに誰かが考えているのだ。そして自分の考えの相当部分は、浅知恵にすぎないのだ。でも、震災で何か深遠なことを考えたつもりの人々の多くは、高校生とちがってバカにされて成長する機会を持てないまま、そうした認識に到達せずに終わってしまっている。きみたちは何も変わっていないのに。おたおたしただけで、それに安住しただけでかえって愚かになっているのに。

本書も、本当は震災を最後のオチに使うべきではなかった。震災は、いまの日本の SF とはまったく関係ない。自分(の関心対象)が重要であり、震災への対応に何かできることがあると思いたい気分は、とてもよくわかる。でも、それは夜郎自大な思い上がりだということも、みんな悟るべきだろう。 SF の役割や時代的な意義を考えれば、本書のようなまとめはできなかったと思う。それを見逃してしまった本書は、単なる年表の解説にとどまり、それがどんな現代的(あるいは時代的)意義を持つかを分析できずに終わっている。

ま、この本はぼくが落札したわけではなく、個人的な興味で読んだだけなので、朝日の書評でとりあげてもらう可能性はまだ残ってはいるんだけどね。でもぼくならボツにする。

追記

上のコメントはちょっとあさってのほうにずれたが、もう少し内容に即したコメントとしては、こちらのサイコドクターの感想文を参照。



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