シャムダサーニ「ユング伝記のフィクションと真相」:翻訳劣悪、言ってることは「ユング伝」に脚色があるというだけ。

ユング伝記のフィクションと真相

ユング伝記のフィクションと真相

以下は本書の冒頭部分。

「何もそれを妨げなかっただろうに」とユングは言った。「つまりだ――想像してごらん! 男がスプーンで自らの命を絶とうとしているところを。私には恐ろしく絶望的なことのように思える。そんなことは私に何の関係もなかった」(p.13)

ぼくはこれが何を言ってるのかさっぱりわからない。これ、何か前後の文脈があればわかるってものじゃないんだよ。だって冒頭に、何の脈絡もなしにいきなりこれが出てくるんだよ!*1 その続きはこんな具合。

「あなたは彼の機嫌をとった。あなたが彼のジャケットを持った瞬間、彼はあなたを自分の掌中に収めたのを知った。私は絶望する。これはあなたがブラヴィンスカヤにしたことだ。あなたは月の不思議について褒め称えた。それはあなたが犬男に対してやったことだ」

途中の「私は絶望する」の狂気じみた唐突さにワタクシは戦慄するね。ぼくはたいがい、超下手な誤訳をみると原文が想像つくけれど、これはそんな直訳とか誤読とかそんなもんじゃねえ、なんか言葉では言い表せない恐ろしいものの片鱗を感じたぜ。

翻訳がこの水準。監訳したという河合俊雄とかいう人の能力か知的誠実さを疑う。幸い、この後になると文章のレトリックが単純になるため、翻訳も少しは読めるようになるけど。さらに中身は、「ユング自伝 1―思い出・夢・思想」が実は自伝ではなく秘書の口述に出版社が脚色を加えたものだというだけ。また全集も、早さ優先のあまり、かなり拙速だとか。著者は年代順を主張したのに、編集社はテーマ別を主張したとか。へえ、そうですか。原題は『彼の伝記作者たちによって裸にされたユング、さえも』なんだけれど、この訳者群に、そこにこめられたシャレを反映はおろか理解しろというのも酷だろうね。

そもそもフロイト心理学ですら、いまやおとぎ話扱いされてる状態で、ユング心理学なんてもの自体がきわもの。ぼくはプラシーボでも効けば結構だと思うので、箱庭療法やって患者が曼陀羅作りました世界の再生だわーとか秋山さと子みたいなのも臨床としては否定しないが、正直言ってあの手の本は時間の無駄だったと思う。本書はユング様のえらさについては疑問を呈さず、その意図を後世の連中がゆがめてしまったことに心を痛めているだけ。

ちなみに、伝記に脚色が入ってるなんてことを河合俊雄は衝撃だのなんだのと序文で書いているが、それはつまり、ユング心理学がいかにユング個人に根ざした個人崇拝カルトかを示している。ニュートンベンチプレス150キロあげられたとか、造幣局で拷問手法の開発に従事していたとか読んでも、おもしろいエピソードだが別に衝撃受ける話じゃない。ユング教徒なら関心があるかもしれないけど、意味なし。「ユング・カルト―カリスマ的運動の起源」を読んだほうがずっとタメになるよ。



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*1:男がスプーンで自らの命を絶とうとしているところって、なんかシュールだよね。ぼくには想像つかない。