松木武彦「古墳とはなにか」:思っただけじゃ学問じゃないですから。

古墳とはなにか  認知考古学からみる古代 (角川選書)

古墳とはなにか 認知考古学からみる古代 (角川選書)

副題が「認知考古学からみる古代」。おお、認知考古学ってなんかすごそう、と思ったんだが、なんですの、これは。

弥生時代になって、縄文時代よりも墓地が複雑になって、社会構造その他の認識がそこに表現されているにちがいない、というのはまあいいでしょ。それもあまり論証がなくて、たぶんそうなんだろうという憶測だけなんだけど。

で、古墳はすごくでかいし、「知覚しうるすべての要素を動員して、一般との『隔たり』の感覚を」演出している、と主張するのはわかる。が、そこからすぐに、それが「崇高さ、超人格性などの認知に結びつく」ということにされるのは飛びすぎでは。そりゃでかい墓作ってもらえる人はそれなりに一般とはかけはなれた存在だったろうけど、崇高、超人格性につながるとまで断言はできないんじゃないの? 前方後円墳が、お墓の部分と宝物庫がくっついた形だという「機能論」も、憶測としては成り立つけれど断言はできない。

墓の一部が後代になると高くなって、天に向かうスロープを描いており、それが神とのつながりの認識表現だった、という議論も、全然確定的じゃない。そして後代になりそれが形骸化したのは輸入文化に伴う世界観の変化もあっただろうって、それも憶測ですねえ。まえのほうで憶測だったものが、後のほうでは確定した話扱いされて、全体に憶測が重なる感じで、お話としてはおもしろい、可能性がないとはいえないかも、程度の議論の域を出ない。

考古学が認知科学の成果を使うのが認知考古学だというんだけど、ぼくが見る限り、認知科学の成果ってどこに使ってあるのか全然わからん。「人はこう感じただろう」という憶測を並べることが認知科学ではないはず。考古学は、言語とか社会のありかたとかミクロなレベルでは認知科学を使えると思う。ハンフリーがラスコー壁画に自閉症と同じ心性を見て取ったように。でもこういうマクロなレベルでは、あまりに議論が苦しすぎると思う。ソレッキがシャニダール洞窟のネアンデルタール人について、花で死者を悼んで云々とお話を作りすぎて批判・否定された例もあるし、そこらへん慎重さがいるでしょう。それにあとジュリアン・ジェインズが示したように、昔の人の認知構造自体が現代とはかなりちがったんじゃないかという説も考える必要があるんじゃないの? というわけで書評したい本ではなかった。憶測としておもしろい部分はあるし、もう少し工夫すると次回作くらいにはもっと読めるものになる可能性はなきにしもあらず、と思うんだけど。



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山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.