Peter Corning The Fair Society: 基本的な概念を誤解し論旨が破綻、結論もくだらない

The Fair Society: The Science of Human Nature and the Pursuit of Social Justice

The Fair Society: The Science of Human Nature and the Pursuit of Social Justice


Executive Summary

本書は、リーマンショックに至る金融業界や産業界の強欲ぶりから、現在の世界(と著者がいうとき、通常はアメリカという意味)が格差の大きい不公平な社会になっていると指摘する。そしてそれにかわる、もっと公平で格差のない社会を提唱する。

著者の主張は、それが生物学的にも根拠がある、というもの。また多くの社会思想や宗教が公平と互恵性の重要さを指摘しており、さらにゲーム理論や実験経済学も、公平さを人々が重視することを示している。したがって、公平な社会を求めるべき根拠があるのだ、と著者は主張する。

しかしながら、生物学的、心理的にそうした指向があるなら、なぜ人の社会がすでに公平になっていないのか、という疑問は生じる。著者はその疑問に答えられない。またどんな社会思想も宗教も、公然と不公正を推奨したりすることはなく、仲間内での助け合いと自己犠牲を尊いとするのが常である。したがって、それを主張する宗教や思想が多いことは特に驚くべきことではない。

また著者は、格差と公正を否定する思想としてダーウィニズムや近代経済学を挙げ、そこで利己性が強調されているという。だがこの両者は、利己性の相互作用としてなぜ協力や自己犠牲が生じるかを説明する理論であり、著者は完全に誤解している。

こうした欠点のため、著者の提言は「みんなもっとお互い公平になるようつとめよう」というだけで、その相互作用が本当に公平で格差のない社会につながるかどうか、まったく論証がない。

全体として論拠がきわめて弱く、説得力に欠け、提言も実効性や実現性がまったく裏付けられないという不満の多い本となっている。

1. 概要

序文

 アメリカ社会は、教育もぼろぼろで、医療も低劣、所得格差も大きく、不平等きわまるし、それを修正しようとする努力を保険業界や金融業界がじゃまして、一部の人に富が集中する不正で格差の大きい仕組み。経済学は、助け合いなどを不合理な行動として否定するし、ダーウィニズムは弱肉強食を正当化する。でも、人は協力や互恵性、公正さを重視する天性を持つので、いまの社会理念を一掃し、まったく新しい社会契約に基づく社会を再構築すべき。

第1章 人生は不公平

 人生とは不公平なものだと言われる。だが多くの人は不公正を見るとそれに抗議して立ち上がる。これは人間の本性に、公平さや平等を求める性質が刻まれているからである。古典派経済学は人間を利己的な合理的存在とするが、それはきわめて一面的な見方である。人間には協力や互恵や公正を求める天性があるので、資本主義や共産主義を廃して新しい社会制度を構築すべき。

第2章 公正とは何か

 公正にはいろいろな考え方があるが、一方でそれは政治や社会制度の根底にある発想である。いろんな宗教や社会思想が、公平や平等や互恵や協力が大事だと言っている。

第3章 (不)公正の歴史

公正や平等を求める本性や社会思想があるが、それを否定する思想もある。ネオダーウィニズム進化論は、ドーキンスが「利己的遺伝子」で言うように、個体の利己性を強調して協力を例外扱いするまたアダム・スミス以来の経済学は、利己的で完全に合理的な個人というフィクションを想定し、人は協力などせずどんな手を使っても私服を肥やすと主張する。人の自由を規制してはならないと主張する人も多い。

だが、人は進化の過程で協力を覚えた。でも、最初は仲良く協力しあっていたのに、農業が出て富をため込めるようになると不平等と格差と不和が生まれた。アテナイは民主的な平等社会だったのに、それが崩れたプラトンアリストテレスは社会正義の重要性を指摘したのに、後代の人々はそれを無視した。

第4章 人間性の科学と公平さ

いろんな社会思想家が公平さや正義の重要性を訴えてきた。だがドーキンスなんかは協力を否定する。遺伝学者は血縁淘汰ばかり重視して群淘汰を否定しようと躍起になっていたが、E・O・ウィルソンのおかげでそれが復活した。サルにも協力行動が見られるし、古代社会にも協力がある。ガザニガは、協力や互恵が脳に遺伝的に刻まれているというし、道徳性も進化の結果だという研究もあり、行動経済学ゲーム理論も協力の発生が必然だと示す。

第5章 人間性と基本的ニーズ

 人間にとっては生存と再生産が最優先される。だが人文学は価値相対主義にこだわりすぎ、あらゆる価値観を等価に扱った。また経済学はパレート最適などという概念で、格差が固定されてもよいのだと論じた。またフリードマンは自然失業率なんてことを主張し失業を正当化している。でも人間の本性からして、重要な価値はある。栄養、水、睡眠、心身の健康、再生産、無駄の排除等々。それを基盤にした人間の基本的ニーズに関する考え方を再構築すべき。

第6章 社会主義と資本主義は不公平である理由

 アメリカを見ると、貧困者が多かったりワーキングプアがいたり保健制度がダメだったり教育がダメだったり、所得格差があったり。だから資本主義は不公平。資本主義の理論である経済学は、自然失業率なんて発想で格差を正当化する。また新帝国主義で途上国を脅かす。一方、社会主義の発想は正しかった。ダメだったのはソ連や中国的なユートピア国家社会主義で、そうでない社会主義はヨーロッパとかで結構成功している

第7章 生物社会契約に向けて

 公平さと能力と平等を並立させる制度としては、ビンモアの主張する「自然的正義」があるが、ここでは公平さがきちんと位置づけられていない。「あらゆる人が最低限のニーズまで与えられる。それ以上の社会余剰は能力に応じて配分される。そして人々は能力に応じて社会に貢献しなくてはならない」というのを基本契約にしよう。ここでの「ニーズ」は5章で挙げたものを指す。

第8章 公平さの未来:公平な社会

 いろいろ残った問題はあるが、マイクロファイナンスが成功したり、インターネットの出現で人の協力がしやすくなったりと、明るい話もある。そのためには、党派制のない「公正連合」を作ってみんなで公平な社会目指して運動しよう。

エピローグ 個人では何ができるのか

 みんないろんな場で、もっと公平に、格差のない状態を目指してがんばれば、それがいずれ社会全体を公平で格差なしにするだろう。

2.著者について

著者はアメリカの生物学者、コンサルタント複雑系研究者、複雑系研究所所長。

3.評価

上の概要で、赤字で書いたところは著者がまったく誤解しているか、議論を歪曲しているところ。進化論や経済学への誤解は甚だしく、また提言については、大した社会契約にはなっていない。アメリカが資本主義のすべてだと思っているし、各種の現象についても皮相的・通俗的な見方しかできず、きちんと現状を把握していない。

各種の社会思想や宗教が協力を訴えている、という議論も、当然の話である。あらゆる社会はある程度の協力と自己犠牲を必要とし、そのためには友愛や公平を訴える必要が出る。したがってどんな社会思想も宗教も、公然と不公正を推奨したりすることはなく、仲間内での助け合いと自己犠牲を尊いとするのが常である。だから、それをもってして人間には協力と公平さを重視する天性があるとするのはまったく無意味。ナチスユダヤ人迫害の口実として使ったのは、ユダヤ人が不公正だ、というもの。公正も不和と格差と悪行を生み出す。著者はそれを無視する。
 
ゲーム理論やサルの行動などで、協力が見られるというのは事実。しかし著者は進化論が理解できていないため、なぜそうした協力が安定して存在するのかがまったく説明できず、単にそれが天性にそなわっている、というだけ。

だがある特性が生物学的な基礎を持つとか天性に根ざすからといって、それがいいとか望ましいとかいうことにはならない。オスがたくさんのメスと交尾して子孫を残したがるのは天性だが、だからといって浮気やヤリ逃げがよいことにならないのと同じ。著者は、そうした自然主義的な誤謬を平気で犯す。
 
さらに、もしそれが天性であるなら、なぜ世界はすでに公平で平等になっていないのか、という疑問が持ち上がる。著者は、公平や平等の望ましさは人間存在のあらゆるレベルに貫徹しているという。それなら、だまっていても社会がそうなるはずではないの?

著者はそれを説明できない。そのときどきで、悪いやつや利己的なやつがいた、というのだが、それなら利他性は天性としてあまり強くないことになる。そして思想レベルでは、新古典派経済学ダーウィン理論が利己性を主張し、それが世界に広まって平等や公平思想の地位が低下した、とする。

だが著者は、自分の主張のアンチテーゼだと思っているダーウィン進化論や経済学理論をまったく誤解している。

アダム・スミスは、人が自分にとっていちばん利益の大きい行動は、社会の中で他の人と協力しあうことなので、利己的に動いても社会は互恵的になる、と主張した。またダーウィン進化論は、遺伝子レベルで利己的に動くことが、個体レベルでは利他性と協力をもたらすことを示している。

要するにドーキンス的な利己的遺伝子も、スミスの利己的な利潤最大化も、まさに協力が安定的に生まれる理由を指摘した理論である。ところが著者はこれを理解せず、利己性=まわりと一切協力しないこと、という初歩的な誤解をしている。

そして参加者全員が利己的でも、社会は愛他的で協力のあるものになれる、というドーキンスやスミスは、社会がいわゆる創発現象であり、個体の特性と全体の特性とが必ずしも一致しないことを認識していた。これについては十分に留意が必要である。

しかし著者の提言は、みんながいろんな場面で少しでも公平性や平等性を重視するようにすれば、社会全体もその方向に動く、というもの。だが、実際にそうなるのか? 異なる公平概念や平等思想の相互作用で、かえって不平等かつ不公平な社会がもたらされる可能性はないのか? 著者は複雑系の研究者のくせに、それをまったく検討しない。

そのため、最終的には「仲良く公平にするのはいいことです。みんなそう言ってます」以上の議論は本書から得られない。

また著者が新しい社会契約だと思っているものも、特に目新しいものではない。通常の福祉国家的な発想である。アメリカでも、戦後の国家拡大時には主張・実行されていたものであり、まったく新しいなどと言えるものではない。

以上から、本書はきわめて不満の多い本であり、提案にも目新しいものは何もない。理論的にあやまりや軽率なところが多すぎ、あまり有益な本とは言い難い。



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山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.