松岡正剛のケインズ評はかなーりデタラメ度お高め。

他の人が何かおもしろいことを言っているかと思って、ウェブでケインズ関係の記述をあれこれ見ているけれど、ろくなものがなくてがっかり。むろんウェブ上でのケインズ関連の発言は、聞きかじりの人がだれかの請け売りやイメージだけで恥知らずなこと言ってる場合があまりに多いんだけれど。でも少しは知見や良心があると思っていた人まで同じ穴のムジナだと、なおさらがっかり。

その代表が松岡正剛

松岡正剛は、例の「千夜千冊」でケインズ『貨幣論』を採り上げているWebcite)。が、とにかく変なことばっかり言っている。

まず、冒頭のまとめ部分から疑問符が大量噴出。ここは画像になっていてあれなんだが……

しかしケインズ理論が「大きな政府」論で、公共投資を重視するバラマキ政策だなんてことは、そもそもケインズのどこを読んでも書いてはいないことなのだ。

おやそうですか? まず『一般理論』の24章で、これまでよりも政府の果たす役割がかなり大きくなることは明言している(16段、18段)。ぼくはこれは、通常言われている大きな政府そのものだと思う。公共投資を重視するバラマキ政策だということは、第10章のsection IV でバリバリに書いてますね。完全雇用実現するためには、費用対効果でまったく無駄な投資でもいいから公共がどんどんやれ、と。ピラミッドの時代がうらやましい、と。

松岡正剛ケインズのどこ読んだんです?

一般に、貨幣の流動性は貯蓄においては高く、投資おいては低くなる。しかしここに利子率が加わると、利子率が低ければ流動的な選好度が高まり、高ければ流動的選好度が弱くなる。資本主義社会はその揺動しつづける「流動性選好」の上に成り立っているとみなされる。

ここも何言ってるのかさっぱりわからない。貨幣論にはそんなこと書いてあるの? 一般理論では貯蓄=投資というのがしつこく言われていて、両者において流動性がちがうという話自体がよくわからないんだけど。むろん貨幣論での貯蓄と投資との関係についての記述は不適切だった、とケインズは一般理論で言っていることもある。

このような貨幣には、そうしようとしさえすればいつだって財貨やサービスと交換できる機能があるわけで、そうであるがゆえに、そこに大きな特質が生ずる。それが経済学で言われる「流動性」(ボラティリティ)というものになる。使い勝手というふうに見ればいい。

ごめん、揚げ足取りかもしれないんだけど、流動性に「ボラティリティ」とつけるようでは基本的なところでの理解を少し疑ってしまうのは人情でしょう。流動性は、「liquidity (リクイディティ)」。「ボラティリティ」は、変動性。株価とかが激しく上下動するようならボラティリティが高く、比較的安定していたらボラティリティは低い。ここの解説自体はまあまあいいので、凡ミスだと思うんだけど(でも「財貨」ってのもお金を含む概念だからこれまたケチはつけられるんだが)。

たとえば一つは、「スタンプ付き貨幣」というものだ。このアイディアはもとはドイツの商人シルヴィオ・ゲゼルが思いついたものなのだが、ケインズはこれをいささか理論化した。貨幣をずっと所持していると効力が減衰するか、あるいは費用がかかるようにしてしまおうという“時計”を付けた。貨幣(紙幣)が一定期間をすぎるとスタンプを捺して、新たなスタンプ付きの貨幣に転じさせようというふうに考案したのである。

いや、それを考案したのがゲゼルであって、ケインズはそれを「なかなかよいアイデア」とほめただけなんですけど。23章36-43段を見てよ。松岡正剛ケインズ読んでないでしょう。

それにしても、安倍・福田・麻生・鳩山内閣と打ち続く日本の宿命的とさえ言いたくなるオウンゴール問題は、そもそもが竹中・木村のマネタリズムといい、消費税計画といい、それほど国の経済政策と外交政策は難しいということをあらわしているにすぎない。

竹中・木村のマネタリズム?? 松岡は(訊くだけ野暮かもしれないが)マネタリズムって何だか知ってる??

ぼくにはケインズがめざした結論は、最適な資本ストックに適合しているかぎり、社会的利子率はゼロになるというヴィジョンにあったのだろうと思われる。そこではすべての生産機会と制作の夢が実現されるはずだという、そういう社会を想定していたのだろうと思う。

これって金利生活者の死みたいな話がしたいんだろうと思うけれど、何言ってるのか不明。

というわけで、とにかくあらゆる部分が一知半解をもわっとした意味不明な文につなげているだけで、なんだかわからん。美人コンテストもゲゼルも、「一般理論」に出てくる話で、どこが貨幣論の話なのかも不明だし、松岡がいずれもきちんと読んだ形跡はまったくなく、変な概説書をかじっただけのようにすら見える。

その印象をさらに強化するのが最後の書誌。まず出てくるのが次の一文。

(1)ケインズの著作は、ほぼ『ケインズ全集』全30巻(東洋経済新報社)に収録されている。

こう書いてしまえる時点で、松岡はこの全集をちゃんと見てすらいないな、ということがよくわかる。というのも、この全集って1970年代に原著はほとんどの巻がおおむね出ていたけど、邦訳ってまだ半分くらいしか出てないんだよね。ちなみに『確率論』がしばらく前に出たけど、序文が1970年代のもので、21世紀になった現代ではもう時代錯誤もはなはだしく、もはやこの全集続けるのやめたほうがいいんじゃないかという感じすらする。

要するに、松岡はこの2010年の文を書く時点で、本当にこの全集にケインズの著作が収録されているか確認すらしていないことは明らか。

それ以外に挙がっている解説書も、ピンキリ。本当にここに挙がっているのを読んだの? ちなみに実は、中野明『ポケット図解ケインズ』(秀和システム)はそんなに軽いものでなく、結構充実していてよいよ。

 

以上からぼくは、松岡正剛ケインズをまともに読んでもおらず、またその理解はきわめてあぶなっかしく、それ以外の経済学についても大変お粗末だと結論せざるを得ない。この千夜千冊のシリーズは、ぼくの訳書とかがいっぱい紹介されていて感謝はしているんだが、人に紹介するならもう少しマシな読み方をしてほしいものだと思う今日この頃。



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