吉沢『芸術は社会を変えるか?』:自発的な参加型芸術の意義を説きつつお上にお金を出してほしがる矛盾に自覚的でない弱い本。

芸術は社会を変えるか?: 文化生産の社会学からの接近 (青弓社ライブラリー)

芸術は社会を変えるか?: 文化生産の社会学からの接近 (青弓社ライブラリー)

えらい先生のお作をみんながありがたく鑑賞するような芸術は古い、これからはボイス的に、だれもが芸術家でその創作参加プロセスがよいのだウダウダ、でも公共の予算がつかなくてジリ貧で許せん、という本。

参加型芸術がえらいかどうか、ぼくは知らない。でも、本当にそれがすごくて有益なのか、というのは本書で検証なし。そういうことになっている、ボイスが言ってる、とかいうくらいの話でおしまい。でも、それがそんなにいいもんなら、なぜ人々は勝手に自主的にやらないんですか? その点もスキップ。そしていきなり文化政策批判に入って、自治体が継続的にお金をつけないから活動が継続しないというグチに入る。結局は、自分たちの地域芸術活動NPOにもっと金をよこせ、というだけの話。

でも結局それは、志の高い芸術NPO様たちが意識の低い地元のドジン住民どもの芸術意識を啓蒙してあげようという構図にしかならない。でも、NPOとしてはそうした上から目線のエリート意識を認めたくないもので標的を政府に変えているだけ。文化事業というのが、地域の民謡教室やカルチャーセンターでの自主的な活動だけでなぜいけないのか。

近年国内外で整備が進む文化政策は、文化の生産流通を市場原理にゆだねないためにも、現代社会に必要な制度である。そこでは特定の価値の選別と多様な価値の共存を目指した政策立案を進めるとともに、基盤となる芸術の公共性への認識を高められるような施策、事業を実施することが求められる。(p.234)

だそうなんだけれど、なぜ求められるの? なぜそんな政策立案をしなくてはいけないの? 文化政策があるといいな、というところは認めるにしても、なぜそれがゲージツ家によるアート作品とかインスタレーションとかでなくてはいけないの? お料理教室とか裁縫教室とか、あるいは高校生がバンド始めやすいようにドラム購入支援とかではダメ? サンフランシスコではコミュニティ鍛冶屋みたいなのが楽しげに活動してるけど、そういうのは? この本では、文化というとすべて、絵や彫刻や「アート」しかないようなきわめて狭い描き方だ。でもそんな偏狭で独善的な文化認識を公共的に支援なんかしちゃいけない。

そして著者はそれをわかっている。「基盤となる芸術の公共性への認識を高められるような施策、事業を実施することが求められる」と書いているでしょう。認識をわざわざ高めなくてはならない以上、それが公共的なものだという認識は現状ではあまり存在していないわけだ。だったらなぜそれを政策的に高める必要がある? みんながやりたがっているなら支援してくれと言える。でもまず政策的に「彫刻とかいいぜ」とみんなが思うような意識高揚をやって、しかる後それにお金をつけてって、何でそんなことしなきゃいけないの?

これは、「芸術えらい、特に地域芸術なうっちい」という前提が先にあるから成立する議論なのだ。その前提があれば、自治体はそれを支援する活動をすべきで、市民の芸術意識も高めるべきだし、それをやってくださるNPO様も支援すべきだということになる。でもその前提って他の人には共有されていないのだ。

だからすべての議論が我田引水の堂々巡り。芸術支援が打ち切られていろんな地域アート活動が中断したりしてます、というんだけど、自治体だって予算がない。金を出せというんなら、なぜ街路樹剪定よりもアート活動とやらにお金を出した方がいいのか、なぜゴミ収集を充実するよりアートのほうが費用対効果が高いのか、というのを自治体に説明できないといけないが、そういう裏付けは一切なく、なんか世の中のアート分野ではそうなっているから、というだけ。手前味噌。市民なんとかに参加した人にアンケート取ったりしてるけど、そういう当事者バイアス無視した話を得意げに出されましても。

市民がいろいろ芸術的なものも含めて表現活動したいけど、場がありません、という話なら対応可能だろう。また、参加型げーじゅつに一二回参加させると、あとはもうおもしろさがわかって自分で金払ってもやるようになります、というなら、やってみてもいい。でも結局すべての話が、とにかく何から何まで自治体が金出せ、というのではねえ。とうてい紹介に値しません。



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