幸福の遺伝子、または喜びの伝達物質


The genetics of happiness, transporter of delight, The Economist, 2011/10/15


人の個性は白紙であり、経験だけででそれが決まるという発想は、二十世紀後半のほとんどの期間で主流となっていた。だが過去二十年ほどで、その発想は否定されつつある。一卵性双生児と二卵性双生児を比べる調査で、行動のかなりの部分が遺伝に左右されることが示されたし、DNA分析でその原因となる遺伝子もある程度わかった。この両方向からの研究で、幸福もかなり遺伝する率が高いことが示唆されている。

人間ならだれでも知っているように、人が幸福か不幸かを決める要因は様々だ。外部状況は重要だ。仕事のある人のほうが失業者よりは幸福だし、豊かな人のほうが貧しい人より幸福だ。年齢も効く。若者と高齢者は中年より幸福だ。でも最大の決定要因は性格だ。外向的な人は内向的な人よりも幸福で、自信ある人のほうが不安な人よりも幸せだ。

こうした性格も、知性と同じくらいある程度は遺伝で決まるということがますますはっきりしつつある。だから、幸福になるか惨めに感じるかという系呼応も、ある程度はDNAを通じて遺伝するはずだ。「ある程度」がどの程度なのかを見極めるべき、ロンドンのユニバーシティ・カレッジ、カリフォルニア大サンディエゴ校、ハーバード医学部、チューリヒ大学が、アメリカの思春期の大規模健康調査の中で、千組以上の双子を分析した。そしてチューリヒ大学経済学実証研究研究所のワーキングペーパー「遺伝子、経済学、幸福」で、かれらは人々の幸福度の差のうち、三分の一は遺伝要因だと結論づけた。これは、この問題に関するこれまでの推計より少し低めながら、だいたい同じ水準となる。

でも双子研究はある特性がどこまで遺伝するかを調べるには有益だが、そこに作用する具体的な遺伝子は教えてくれない。研究者の一人、ロンドンのユニバーシティ・カレッジ所属のジャン=エマニュエル・ドネーヴは、まさにその遺伝子をつきとめようとした。その手段として、かれはまずセロトニン輸送タンパクを符号化する遺伝子を選び出した。セロトニンとは、セロトニンという脳内伝達物質を細胞膜越しに送り出す分子だ――そしてその遺伝子の変種が幸福水準にどう影響するかを調べたのだ。

セロトニンは気分の調整に関係している。セロトニン輸送遺伝子は、機能的に二種類ある――長いのと短いのと。長いもののほうが、多くの輸送タンパク分子を作り出す。人はそれぞれの遺伝子について、父と母から一つずつ、二種類(対立遺伝子という)を持っている。だから短い対立遺伝子を二つもつ人もいれば、長いのを二つ、長短一つずつの人もいる。

ドネーブ博士の調査の若者たちは、「とても満足している」から「とても不満である」までの中で自分の状態を採点するよう言われた。ドネーヴ博士によれば、一本でも長い対立遺伝子を持つ人は、まったくない人よりも「とても満足している」と答える確率が8パーセント高かった。長い対立遺伝子二本の人だと、その差は17パーセントだった。

これでもなかなかおもしろい。だが話が波乱含みになるのは、被験者たちの民族的出自が考慮されたときだった。全員アメリカ人だが、自分の人種も書くよう言われていたのだ。平均で、アジア系アメリカ人は長い遺伝子を0.69本、黒人は1.47本、白人は1.12本持っていた。

この結果は、アジア諸国の人々が一人あたりGDP水準から見て幸福度が低いという結果と見事に一致する。アフリカ諸国の幸福度は実にバラバラだが、これも納得できる。アフリカは人類発祥の地だけあって、遺伝多様性が最大だ(アジア人、ヨーロッパ人、アボリジナルオーストラリア人、アメリンディアンたちはみんな、六万年ほど前にアフリカを後にした冒険好きな個体の子孫だ。西アフリカの限られた地域から連れ去られた奴隷の子たちであるアメリカの黒人たちは、アフリカ大陸全体の代表とはとても言えない。

地域ごとに長いセロトニン輸送遺伝子の保有率がちがうという事実はこれまでも認識されていたが、従来は国ごとの傾向とされ、人種的な差とはされなかった。二〇〇九年刊行の『王立学会論文集』で、イリノイ州ノースウェスタン大学のジョーン・チアオとキャサリン・ブリジンスキーは、短い遺伝子が多いと気質障害(日本人と中国人は短い遺伝子も気分障害も多い)、そして集産的政治システムとの間に正の相関を見つけた。かれらの仮説では、憂鬱におそわれやすい文化は社会の調査を強調する社会制度に走りがちで、個人の独立性を強調することを嫌う、という。

この最後の研究は、一部の人からみれば遺伝決定論にあまりに近づきすぎかもしれない。でも、人間の幸福研究に対する関心は遺伝学者だけでなく、現在の人類の成果を測る方法に不満を感じている経済学者や政策立案者の間でも高まっている。この分野の今後の研究は、こうした人々にむさぼり読まれることだろう。

訳者雑感

たぶんぼくが感じるであろう感想はだれもが感じるとおもうんだよねー。幸せがしょせんは脳内物質なら――はやいはなしが、ドラッグ射ってりゃ幸せってことなのかい、という話なわけだ。そうじゃあないだろう。幸福研究って最近でもボック(だっけ)の本とか出て、結局幸せはお金じゃないということをいっしょうけんめい言おうとする。でもそこを離れると、下手をするとこの手の方向にきてしまう。お金がなくてもクスリでトリップできればいいんですよー、という具合に。

幸せも快楽も、基本は動物――ひいては人――が再生産しやすくするために発達したものであるはず。進化にとって、それは手段だ。でも幸福研究とかって、その手段が目的化してしまう。それは変ではないか、といつも疑問に思う。その一方で、ぼくたちは個体として別に進化に義理立てする必要はない、と考えると……

ただその中で、ぼくはエインズリーが『誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか』で言っていた、目的のものにショートカットでたどりついても、人は不完全燃焼でもやもや不満を感じるのだ、というのがたぶん大事なんだろうと思うのだ。オナニーすればすぐ快楽は得られるけれど相手がいたほうがいいのは、別に相手が絶妙の名器XXコをしているからでは(必ずしも)ない。オナニーだと自分のツボがわかりすぎていてすぐイケちゃうからで、そこをあれこれ相手とやりつつ、もどかしい思いもこめてジワジワ高めるほうが満足いける。つまりその手間やまわりくどさのほうが、快楽&幸福に貢献するのだ。食べ物も好きなモノをどか食いするより、コースとかで少しずつ先送りしたり、いろんなマナーでいっぺんにそれだけくったりしないようにして、時間をかけることで満足度が高まる。

でも、それがわかっていても、人はそれを外的に課す仕組みを作らないとダメだ。人は双曲割引的な効用関数のおかげで目先の小さな満足にとびつきがちで、なかなか十分に長期的な満足を実現できないから、と。

そしてかれは、人がそれを無意識に知っているんじゃないか、という。いきなり何でも自分のほしいものを直接ドンと手に入れちゃえば、かえって不満に思う。むしろそれを手に入れるプロセスが重要なのかもしれない。それをあらわすものの一つは、役所の名前だ。国民の幸福が重要なはずなのに「幸福省」というのはない。真理探究が重要だといいつつ「真理省」はない。平和を望むといいつつ「平和省」はない*1。商売繁盛を狙いつつ、「繁盛省」はない。みんな、そうしたものはあくまで結果であって、それ自体を直接操作目的にしてはいけないというのを知っているんじゃないか、という。

これはあくまで一説だけれど、ぼくは重要な論点だと思う。人が幸福を本当に得るためには、幸福を直接考えちゃいけないのでは? アラニス・モリセットだか禅の悟りだかみたいな話だけれど。でも幸福研究は往々にして、それを無視してしまうように思うのだ。

*1:実はあくまでフィクションながら、そういう名前の役所が存在する世界がある。オーウェルの『一九八四年』だ。