Debbie Nathan, Sybil Exposed: 原資料をもとに、多重人格シビルのウソを徹底的に暴いた本。でも批判的ながら同情的でフェアな視点のため、非常に感動的で悲しい本になっている。

Sybil Exposed: The Extraordinary Story Behind the Famous Multiple Personality Case

Sybil Exposed: The Extraordinary Story Behind the Famous Multiple Personality Case

むちゃくちゃおもしろく感動的。数日前に書いた「シビル」の真相暴露本。一言でいえば、「シビル」は基本的には捏造であったということ。それは、患者の「シビル」(本名シャーリー・メイソン)、ウィルバー医者、本を書いたジャーナリストのシュライバーの三名の共謀によるもの。患者は、抑圧の多い宗教的な環境で育ち、ちょっとした芸術的センスと空想癖・虚言癖があった。ジャーナリストは功名心に流行っていて、とにかくセレブになりたかった。医者は女性研究者として名を挙げようと焦っていた。その利害が一致してできたのが、多重人格のお話。この中で、医者はたぶん最後まで多重人格の話にしがみついていたが、後の二人はそれが捏造なのを十分に知っていた。

ちなみに この本についての話を町山智浩がラジオでしているけれど、ちょっといい加減で本当に読んだのかはよくわからない。とくに本書ができた経緯で、最初にフランス人がオリジナルの記録を閲覧して、それで云々という話はどっから出てきたのか不明。もともと、患者のプライバシー保護のためにと称してこの資料は封印されていたんだが、独自にかれらの情報を追っていたジャーナリストが、すでにその患者が死亡していることを知って、それで資料は公開されたとのこと。

ウィルバー医者は、もともと軍人が戦場からトラウマを抱えて帰ってくる研究をしていて、ひどい体験が精神異常の原因となるという研究をしていてそのために自白剤や電気ショックを使うという「療法」をあれこれ工夫していた。

「シビル」ことシャーリー・メイソンは、セブンスデイアドベンチストという、キリスト教の中でもかなりマイナーな宗派に属する家庭に育ち、母親はかなり神経質だったのは事実。そのため、彼女は自分の空想癖をかなり後ろめたく思わされており、その一方で自分に関心を集めるために、数日行方不明になってみたり、記憶をなくしたふりをしたりするのをよくやっていた。

ちなみに、アドベンチストは19世紀にこの世の終わりが来るというのを聖書に基づく計算で編み出し、「この日にキリストが再臨して世界が終わる!」とみんなで待っていたら、世界が終わらずに全米の笑いものになった宗教。で、その一年くらいあとに「計算ちがい! ほんとは今年!」とやったんだけれどそれでも終わらなかった。で、みんなで困っていたらその教団の中にいた女の子がお告げを受けて、「キリストは再臨予定でちゃんと計算通りの日に天国を出発してるんだわ! わたしたちは正しかった! でも途中ですてきな場所を見つけて寄り道してるのよ! で、寄り道がすんだら地球にちゃんとくるから!」ということになり、その後ずっと寄り道がすむのを待ち続けている宗教。(この前半は Dr. HOUSE/ドクター・ハウス シーズン1 【DVD-SET】 に出てきたので知っていたけれど、後半の女の子の予言は知らなかった!)

で、シャーリー・メイソンが多重人格のウソをついたのは、ウィルバー医師が転勤することになって、それをなんとか引き留めようとして、いつもの記憶がなくなった芝居をしてみせたのが発端。それをウィルバー医師は我田引水で、薬に電気ショックであることないこと妄想をしゃべらせて、自分の論文のネタにした、というわけ。

でも、本ではシャーリー・メイソンの母親が娘にむちゃくちゃをやったことになっている。森の中でティーネージャーと同性愛にふける様子を見せたり、台所で娘をさかさにつるして冷水浣腸して棒で犯して悪魔のように笑ったり、ピアノに娘を詰め込んで弾きまくったり。そんなことが日常茶飯で行われていたという。でもその記述はメイソン家の実態とかなりちがうし、同居していた父親も住み込み家政婦も、そんな事件を一切報告していない。一回二回なら気がつかなくても、それが日常茶飯でまったく気がつかないなんて? 実はシュライバーもそれを含め、「シビル」の話の相当部分がおかしいと思っていたが、本を書く中でシャーリー・メイソンが、「実はあれはみんなウソです」と告白した手紙を書いているのを知る。でも、医師はそれを否定し、患者が自己防衛でウソを言っていると主張し、またシュライバーもすでに出版社と契約してしまっていて、いまさら本をボツにもできずに書いてしまった、という。(でもその後、これでノーベル賞を取ろうというキャンペーンを始めるくらいには厚顔で虚栄心が強かった)

本書は「シビル」後の三人の運命も描いている。シビルは、人格が統一されて直ったことになっていたけれど、実は全然よくならず、また自分の正体が暴かれることを極度に恐れ、またウィルバー医師も、自分のやっていたことが公になるのを恐れていたので、シャーリー・メイソンが表に出ないようにおさえこみ、結果として二人は何とほぼ同居状態。そして名声は得たけれどもちろん臨床にきちんと活かせるようなものではなかったので、医学的なキャリアも低迷。またシュライバーも、「シビル」以降まともなものは書けず、三人で山分けしていたシビルからの収入も当然ジリ貧になって貧乏暮らしをよぎなくされ、そしてシャーリー・メイソンも晩年はウィルバー医師を看取ったあとに極貧の中で孤独死

「シビル」の後、多重人格症は得体の知れない訴訟合戦のタネとして社会問題化し、医学的にはまともなものとは認められず、いまや精神科医の定番参考書である DSM からも、多重人格症(Multiple Personality Disorder, 後に扇情的な扱いを避けるために改名されて Dissociative identity disorder) というのは削除されている削除が提唱されている。でも、怪しげな信者たちがいまだに多重人格セラピーなるものをあちこちで展開している。著者は特にウィルバー医師とシュライバーに対して、批判的でありながら同情的。ウィルバー医師は特に、患者を本気で助けようとしていたのはまちがいない、と。そしてあの時代にあって、女性の社会進出がよいこととされつつもまだ社会がそれを受け入れる余地がなく、また女性自身も新旧の発想の板挟みで不安と気分の揺れを強いられていた。多重人格というのは、ある意味でそうした不安な女性の地位を反映したものだったために受け入れられ、そしてそれはその創始者がだれよりも強く抱えていたのかも、と。そしてそれがウソであったとしても、彼女たちを含む人々に多少なりとも救いをもたらした部分はあったのかもしれない、と。

著者は、日本でも「1冊で知る ポルノ(「1冊で知る」シリーズ)」の邦訳があって、フェミニズム的な被害者意識に偏向しない非常にフェアなポルノ論を書いていた。このシビル批判以前にも、変な精神セラピーの危険性についての本や、その被害者(やってもいない児童虐待で訴えられた親などね)を支援する組織の運営もやっている人。

追記

これは多重人格そのものの存在を否定するものではない。ただ、それがありえんほどドカドカ出てくる発端となった「シビル」を否定するものであり、ひいてはそれにつられた付和雷同の「あたしも多重人格」「うちの患者も多重人格」的な、安易な多重人格診断を大いに疑問視するものではある。

あと、多重人格話は1990年代以降はかなり下火になったんだが、その理由は、一つは多重人格やPTSDの回復と称してインチキな暗示をかけまくっていたセラピストが、患者にドカドカ訴えられるようになって、セラピストどもが尻込みしたこと (このあたりの事情は、矢幡洋怪しいPTSD―偽りの記憶事件 (中公文庫)』に詳しい)。そしてもう一つ、それに伴って、多重人格がどうしたとかいう心理療法は保険でカバーされなくなったそうな。これがでかくて、セラピストも患者もそういう変な療法に頼れなくなったとのこと。As Cindy Lauper sang, money changes everything.



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