高橋英利『オウムからの帰還』:オウム内部、サティアンの様子などの記述はおもしろいが、まだ神様依存症らしい。

 「修行」の記録やサティアン内部の様子の記述などは非常におもしろい。ただ、ぼくはオウム事件を直接は知らないし、後から読んだ話もかなり忘れているので、松本サリン事件とか村井刺殺とか、どういう文脈だったのかかなり忘れている。それらを知っていることを前提にした書き方で、単行本のときは問題なかったんだろうけれど、いま読むとちょっとわかりにくい。

 オウムに入るにあたり、肉体的な修行があったのが観念や理屈ばかりでないということで魅力だった、という著者の記述は、自分にもそういうのに惹かれる面があったのでギクリとさせられるとかいうのはある。そして、自分がどこかでちょっとちがう角を曲がっていたら、この人と同じ境遇になったかもしれない、という思いもある。が……

 この文庫版へのあとがきを読んで、ぼくはこの人が「かろうじて活かされている」とか「沈黙」とか、カギ括弧つきで書き始めるのが気持ち悪くてならない。んで最後は、宇宙の摂理や「神」といったものにこれまで以上の目を向けるようになった、とのこと。なおも「沈黙」を続ける「神」と、僕は闘っているのかもしれないと思う、そうな。いや、あなた神様と戦えるほどえらくないですから。神様もお忙しいようだし。そんなものに目を向けたがる人だからオウムなんかにとりこまれちゃうんだよ、と言いたくもなる。

 ああ、やっぱりまだ神様依存症なんだな、と思う。他の信者たちの多くが、他の宗教にすがり続けているのと同じく、あるいは新興宗教にはまる人が次々に宗教を転々とするのと同じく。それだけ著者たちにとってはショックだったんだろうし、だからこの連中はダメだとも言えないけれど、でもオウムを脱したようで、やっぱりそれに類するものからは抜け出せてないとおぼしき様子を見ると、暗澹とした読後感にはなる。

追記

 もう一つ。ぼくは最後のあたりで、著者がオウムを脱けてテレビ局に行って、オレを生放送に出せというのが、意味がわからなかった。なんのために? 彼がサリン事件の計画でも知っていてそれを今すぐ警告しようという危機感があった、とか、多少注目を集めないとオウムに消されてしまう恐れがあったとかいうならば、必死でテレビに出ようとする理由もあるといえるだろう。でも、あの時点ではそういうのが全然ないんだよね。彼はすぐにテレビで訴えるべき情報を持っていたの? ぼくはそれを見ていないから知らないけれど、どうもそうじゃないみたいだよね。どうしてそこで、普通におとなしく引きこもるなり実家に帰るなりしなかったの? とにかくテレビに出たかっただけちゃうん?

 著者はずっと、自分が何か他人とはちがう突出した存在でありたいという願望をたぎらせていたかに読める。もちろん、若い頃は人はみんな自分がそういうもんだと思って、中二病になるんだけど。でもオウム入信も、本書に書かれたその中の行動も(かれ一人が懐疑的で相対的に冷静なのね)、テレビ出たがりも、文庫解説の「神」との戦いとやらも、みんなその延長に見えなくもない。

 で、いまオウムに入信していたこと自体が、かれの突出した存在という自意識の支えになっているようにも見える。でも、オウムとは関係なくなったいま、一凡夫たる自分を受け入れてるか、というのが本当はだいじなことなんじゃないか。むろんそれは、著者の問題でぼくたち読者には知ったことではないし、知りたいとも思わないが、ホント著者がオウムでも反オウムでも非オウムでも不オウムでもない、まったく普通のさえない日常生活を送っていてほしいとぼくは思うんだが、本書にはその気配さえない。でも、書かなかっただけなんだよね、たぶん。ちゃんとおうちに帰るまでが「帰還」ですからね。



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