今和次郎『日本の民家』:民家の持つ合理性を見抜いた名著

 久しぶりに読んだ。考現学今和次郎が、日本の民家をあちこち調べてまわって記録した本。学生の頃に一度読んだ記憶があるが、ほとんど忘れていたけれど、こんど、「今和次郎「日本の民家」再訪」を読んだときに記憶を復活させるために読み直した。

 すごくいい。分析は日本の漁村や農村にある各種の民家の構造や道具が持つ合理性を中心に記述されていて、失われゆく日本の民家などについてのノスタルジーはあるものの、最小限。気候、産物、経済、その他各種の条件が民家の構造には関係していて、当然ながら各地で取れる産物をそのまま使わなくてはならない。それが独特の形を生む。その記述をスケッチがうまく補って、見ていて飽きない。

 マルセル・モースとか、イザベラ・バードとか異人さんの日本旅行記にはこれに近い印象のものがかなりある。日本人の地方記述期は、都会人の変な幻想が垂れ流されてることがやたらに多くてしばしばげんなりするけれど、これはそういうのがない。

 しかもこのスケッチを見ると、何のためにこんなものを記録したのかよくわからんものも大量にある。調査体系があってそれに沿って記録したわけではなく、そのときの興味で関心の対象が変わっていって楽しい。

 でも「今和次郎「日本の民家」再訪」によると、この研究ってその後日本の建築史では、「興味本位の系統性のない物見遊山」ということで、ものすごく否定されていたそうな。びっくり。建築史的には、様式から年代の同定というのがちゃんとないと、学問の意義がないんだって。保存も、古ければ保存するというのが常道だから、環境との関わりの合理性なんてのがいかに表現されていても意味はないという発想らしい。そうなのかー。最も最近は、見直しの気運はあるそうなんだけど。

 なお「今和次郎「日本の民家」再訪」に現在に残るこうした民家の写真が出ているんだけど……すごく普通のそこらのおんぼろ田舎住宅。本に出ているスケッチを見 ると、ものすごくかっこよく見えるし、こういう家を保存したほうがいいのでは、という今和次郎の言うことに賛成したくなるんだが、実物は全然で、これを保存したいと思う人などまったくいないだろう。今和次郎が本当に慧眼だったということか、ぼくの目が節穴なのか、あるいは時代が変わるとかつてその家が持っていた環境中の必然性が失われ、同じものでも意味づけが変わるとともにかっこよさも失われたということなのか。



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