新田『アメリカ文学のカルトグラフィ』:あんまり認知地図になってません。

アメリカ文学のカルトグラフィ ――批評による認知地図の試み

アメリカ文学のカルトグラフィ ――批評による認知地図の試み

批評による認知地図の試み、というんだが、あまり認知地図にはなっていない。あとがきで、ジェイムソンが認知地図というのはケヴィン・リンチ『都市のイメージ』が発端だと述べているということが書かれているんだけど、それに20年も興味を持ったのであれば、そのケヴィン・リンチが何をやったのか読んでほしいなあ。都市のイメージは(改善の余地はあるけど)邦訳もあるんだから。本書では原題が挙げられているだけで邦題もあがっておらず、伝聞として書かれているところを見ると、リンチを読もうと思ったことさえないようにもうかがえるんだが。

都市のイメージ 新装版

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本書は、アメリカ小説で「南部」とか「家」とか「工場」とかいう物理的な空間に根ざすモチーフがある、といった話や「黒人」とか病気の伝搬とか性的なタブーとかいった話に根ざすものもある、とか、雑多な概念がアメリカ文学のモチーフになっていることをあれやこれやと述べる。確かにいろんな概念は人間の認知空間の中である位置を占めているだろう。それを指摘するのは、認知地図を作ると言えなくもないかもしれない。

でも、それを言うならどんな概念であれ頭の認知空間の中では何らかの位置を占める以上、それだけではあれもある、これもあるの羅列にしかならないんだよね。そして本書も結局、あれもある、これもあるの羅列以上になっていないのでは? さらにそこで挙げられたモチーフに何か目新しいものはあるか? 認知地図というアプローチをすることで何が新しくわかるのか?

地図のおもしろさは――これはロラン・バルトが『記号の国』で、日本人がその場で書く道案内図のおもしろさについて述べたような話だけれど――それが何らかの全体像や、その中での重要な要素提示になっていることから、逆にそれを描く側の意識にまでさかのぼれることだ。この人はあらゆる要素の中から、薬局と鳥居と川と、壁の落書きを選び出した。それはなぜか、という具合に。でも、本書はいろんなモチーフを述べるけれど、なぜそれが選ばれるのか、なぜそれが相対的に重要なのかについては考察をまったくしない。各パートの頭で、そうした記述をしているように見えるけれど、でもなぜそれが特に重要か、どうして地図の中でそれが重要かという分析は薄く、結局かなりありきたりな、性だとか人種だとか工業化とかいった話にとどまる。

さらに、地図は単に要素が羅列されている一覧表とはちがう。それがどう配置されているか、あるいは相互にどんな関係を持つかが重要だ。リンチが何をやったかといえば、いろんな要素を調べたあとで、それをもう一段抽象化して、エッジやノードやランドマークといった、認知地図の中で特に特権性を持つ(という言い方をするとこの本の著者みたいな文学屋さん好みでしょ)ものを抽出し、それを都市のイメージャビリティ向上に活用することだった。認知地図を名乗るのであれば、あれもある、これもあるの羅列から一歩進んで、なぜいろいろある中でそれが問題になるのか、認知地図の中で重要な要素といえるのか、それが相互にどう関連しているかを検討しないと。

本書は最後で、アメリカ文学論の通例である「アメリカとは何か」といったものを扱っていないことを言い訳がましく書く。でも、ここからもう一歩進んで認知地図の簡単でもいいから分析まで進めば、それができたはずだと思う。ここに書かれたような話はおおむね他の国の小説でも言える。各国の文学にはいろんなモチーフがあります、というだけでは当然だ。アメリカ文学にはアメリカの認知地図があり、日本文学には日本文学の認知地図があるんだろうけれど、その比較があれば、「アメリカ文学カルトグラフィ」と同時に『アメリカ文学のカルトグラフィ』になれたよね。でもそれもない。

そうした、認知地図内の要素を指摘するにとどまらず、それらの地図内での位置づけを見ることができていないが故に、本書はありがちな連載文学エッセイの小難しい物という域を出られていないと思う。だから書評にはとりあげません。



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