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瀝青会『今和次郎「日本の民家」再訪』

朝日新聞書評

今和次郎「日本の民家」再訪

今和次郎「日本の民家」再訪

今和次郎の名著『日本の民家』は、大正期の何の変哲もない民家の記録分析として今でも実におもしろい。本書は、そこに登場する民家を再訪し、その変化を記述したものだ。
こんな本が成立すること自体が驚きだ。この九〇年を経て、かなりの家がまだ残っている! むろん消えたものも多く、残った場合でも昔通りではない。だが、その変化こそ本書の注目点でもある。
変化の理由はおなじみのものだ。都市化、経済基盤変化、道路拡幅……。元の本での今の注目点は、それぞれの民家が持つ自然や経済の環境に対する合理性だった。本書の分析は、周辺の変化と家の変化の関わりを細かく捕らえ、今和次郎の合理的な読みを現在にまで延長するものとなっている。
元が雑誌連載のせいか、文章は時に蛇足めいた文学的な都会人の田舎幻想や内輪の些末な雑記に流れる。それに工学部なんだから、今時GPSごときで騒がないでほしい。だが、事実関係の記述は明快だし、限られた資料から家を探し出すいささか冗長な探索プロセスにも時代の変化の記述が散在している。そうこうするうちに、そこから今和次郎の行動原理まで抽出しおおせているのは感心させられる。
しかし……本書に掲載された現存する「民家」の写真は、本当に何の変哲もないのがショックではある。今のスケッチを見ると、それぞれの民家は実に豊穣で美しく見える。が、実際はそこらの地方家屋で、多くの人は前を通っても記録する価値があるとさえ思うまい。
今とて、その特定の家自体の価値よりは、それに代表される地域のライフスタイルの一例としてその家を選んでいるのだろう。だが、これらの家は当時もこのように何の変哲もなく、今の慧眼だけがその意義を見抜けたと思うべきか、あるいは当時は変哲があったものが、物理的には同じでも、時代の変化とともにそれを喪失したのか。そうした見る側の視線の変化についても、本書は考えさせてくれる。(5/28掲載、朝日新聞サイト


コメント

この書評を書くために、「日本の民家」を読み直したときの感想文にも少しこの本に言及したので、そっちもごらんあれ。

さて、この本、おもしろい一方で不満もある。不満については、新聞に載せた文では軽くしか書かなかったので補足。

まず冒頭に収録されている文章は、例によって震災ネタだ。地震があって、日本の近代化の成果が問われた、と著者たちは書く。

その結果は(中略)無惨なものであった。(中略)私たち瀝青会の作業もその『無惨』以前の、いまとなっては貴重な記録になってしまった。それを重く感じる。(p.10)

そう書かれるから、読む側はてっきり、調査対象となっている民家の多くが今回の震災で何らかの被害を被り、90年も残ってきたものがもはやこの本の記録の中にしか残されていないのかな、と思うでしょ。それだから「貴重な記録になってしまった」なんですよね?

ぜんぜんちがう。調べたほとんどの民家は、何の被害も受けていないんだってさ (p.11)。だったら、いったい何が「いまとなっては貴重な記録」なのか? いや貴重な記録だとは思うよ。でも震災前の記録だ、と言いつのることに何か意味はあるか? まったくないと思うんだ。

ぼくも震災とその後の騒動を経て、それ以前と以後で何かが変わったような気分になりたいのはわかる。でも、一年経って、そういうのはやめようよ。変わったものもあるけれど、むしろそれが変えなかったものについては日常に回収させて、変わってしまったもの、変えるべきものに注力すべきだろう。それをくだらないロマン主義の自己陶酔のネタに使うのは、ぼくは醜悪だと思う。ここをまず見て、ぼくは本書を投げだそうかとさえ思った。

文中にも書いたけれど、この上のような点も含め、ときどき変な文学的自己陶酔は意味不明になる。

「九〇年後再び《日本の民家》を訪れた人がいたら、再び林檎のなる大地へ私たちがつながったことを、是非後世に伝えてほしいと思う。(p.29)」

なんか流し読みするとわかったような気になるけど、実は完全に意味不明。ここの「私たち」ってだれ? 建築学者ども? でもこの人たちは、こういう家を初めてまわったんだから「再び」じゃないよね。では日本人とか現代人とか全般を指してるの? でもかれらのまわった民家って、いま人が住んでいて各種の活動が行われている、というのが本書の主題でしょう。そこにいた人々はずっと「林檎のなる大地」なるものにつながっていた。だったら何が「再び」なの? そして、九〇年後にその民家を訪れる人は、その「後世」に具体的に何といえばいいの? 「実は九〇年前にも同じことをやって今和次郎の本の民家をまわった連中がいたんだって」ということならわかるけど、「大地につながった」とかいうのをどうやって理解し、どう具体的に伝えろ、と?

しかもこの部分の直前は「いま、その大地が脅かされている。それは当然林檎としての私たちをも脅かす」なる一文。正直言って、「大地が脅かされている」というのが何の話なのやらまったくわからない。そのしばらく前あたりで、それらしき話は一切出てこないのだ。大地は脅されてますか? 普通にそこにあると思いますけど? そしてこじつけるなら、これは冒頭部でちょっと触れられた震災とか原発事故の話がしたいの? でもそれなら、たかがこんな民家訪問をしてまわったくらいのことで「大地につながった」りはしてないよねえ。そして、この直前の文は、民家はそこに正当性を持って存在しているとかいうものだ。それは「日本の民家」においては、その土地にそういう形式が存在するための合理性があった、という話だ。だったらぼくは、いまの鉄筋コンクリートとアルミサッシが現代においてはいかに合理性を持ち、かつての民家形式がいまや合理性を持たない、つまり正当性を失った、という話になるべきだと思うんだが。でもこの著者たちの記述では「正当性」というのを、単なる土着とか地域性とかそんな抽象的なレベルでしか考えられていない。

というわけで、ぼくは本書のそういう部分はまったくもって嫌いだ。それでも、ちゃんとしたフィールド調査は、そうしたダメなだらしない思想を乗り越えて、ちゃんと力のあるものとして読者に対する訴求力を持つ。それはこの本のおもしろいところでもあるし、ときに苛立たしいところでもある。

コメント2:研究論文の形式について

あと行きがけの駄賃。本書の最後には、この調査を実施した結果として書かれた学術論文がある。で、論文の冒頭には当然ながら、研究の「目的と方法」が出ている。

よって、本研究の目的と方法は、以下のとおりである。

  1. 『日本の民家』初版で紹介されている全国41カ所の民家を中心に、同書の論考部分で紹介され地得る民家、地域を合わせて対象とする。
  2. 今の原資料を参照した上で再訪、可能な限り場所、敷地を復元する。
  3. その実測や現居住者へのヒアリングならびに周辺調査を行う。
  4. その成果を基に、民家・場所における居住空間・景観の変容の分析・考察を行う。

またそれら活動の過程において採取された資料をフォルダリングし、データベース化可能なものについてはまとめ、今後の同種の研究の一助となることも目標とした。
(p.339)


さて、質問。この研究の目的はなんでしょうか?

実はここには、目的が出ていない。「分析・考察を行う」というのは目的ではない。何を明らかにするための分析・考察を行うか、というのが研究調査の目的なのだ。でも、この調査研究は、目的がない調査分析なのね。

目的がないということは、研究としての成果がないということだ。研究した結果、何がわかったのか? 通常それは、研究や論文の「結論」に出ているはずだ。それはこうなってる。以下、ほぼ全文。

本論では、今和次郎『日本の民家』初版掲載の民家の所在を(中略)再訪し、(中略)変容とその要因を検討した。結果として今和次郎の民家調査の史的批判を行い、それが日本の民俗学の揺籃期に並行していくつかの性格の異なった期間に分けられること、民家の調査における選定方法が存在していたことを指摘した。そして、90年間の変容分析によって、民家の変容が国土改造の政策に影響を受けていることの他に、個々の事例を詳細に検討することによって、家の事情から発生する要因にも共通性があることをもしてきした。また所有しているが住んでいない状態が民家の残存に特殊な意義を持つことを指摘した。


たったこれだけ。さて、この結論を読んで、この研究で何がわかったのか、わかります? わからないでしょう。だって、何も書いてないんだもん。

史的批判を行ったんならそれで何が得られたかがいるでしょう。民家の調査における選定法は、そりゃ当然何かあったでしょう。でもそれは何だったのか結論に書くべきでしょう。民家の変容が国土政策とその家の事情との両方に影響されたなんてのも、言うまでもないことだ。そして最後の一部は、中身を読まない人にはまったく意味不明ですわな。

ぼくに言わせればこれは「結論」ではない。どんな影響を受けているのか、どんな共通性があるのか、どんな意義があるのか、それをちゃんと書いていないと意味がない。検討した結果、何がわかったかというのが結論だ。でも、この調査は目的がそもそも希薄だった。だから結果もほとんどなく、「あちこち行ってみました」という以上のものになっていない。「今和次郎の民家を見てみようぜー」というのはアイデアとしてはおもしろい。でも、それだけでは研究とは呼べない。

日本の論文の結論とか、Abstractはしばしばこういうのがある。何をしたかは書くんだけれど、それで何がわかったのか、という結果については一切またはほとんど触れていない。結論とか、そこから何が言えるのか、というのがきわめて希薄で、とりあえず「やってみました」というだけ。それは建築だけじゃない。この「ヒトはなぜ微笑むのか」でも、なぜ微笑むのか考察しました、でも結局なぜそれがだいじなのかとか、それがわかると何が言えるか、というのはまったくまとめられない。あるいはこの「ニューロポリティクス」でも、いろんな政治的な判断を下すときに脳内の活性化部位を調べてみました、ちがう部分もあるようです、という手法の話はできる。でもそれがどうした、という話はまったくできない。おかげで、いろんな論文を見るときも、Abstractだけ見てもホントに意味がある論文なのかどうか、全然わからない。

この今和次郎『日本の民家』を再訪しようというのは、アイデアとしてはおもしろい。でもそれをある程度一般性のある研究にするためには、いまの形ではまったくダメ。卒論なら通してあげるし、修論でもまあおおめに見よう。でも、そもそも今和次郎の注目した民家に着目するのはなぜ重要なのか、というのがまったく出ていないところで、その家を再訪しました、では話にならない。彼が選んだところが、日本における民家の重要なタイポロジーをカバーしていると考えるべき理由でもあるのか? ひょっとしてすべて今和次郎の気まぐれで選ばれてて、一般性がまったくないセレクションだったらどうする? この論文はそれをまったく考察することなく、今和次郎の選んだ民家をつきとめたら、あとはそこの話が日本すべてに敷衍できるかのような議論を展開する。でも学者だろ? それじゃ全然だめじゃん。今和次郎によるサンプリングの特徴と重要性が出てくれば、それをふまえたうえで、それらのなれの果てを見ることの意義というのも出てきますわな。そういうちゃんとした研究にする材料はこの論文の中にちゃんとあるのに。もったいない。

ちなみに、ときどき「おまえ、なんか科研費とかシンポとかのノルマだけで何も考えずに殴り書いただろー」というような安易な論文はしばしば見かけるけれど、でもこれはちがう。pp.344-345 のまとめとか、労作だと思うし、手間暇掛けて真面目にやってる。でも、アイデア一発だけで成立していて、研究としての構想力や問題意識が弱すぎ、というよりも、たぶん無意識のうちに考えている問題意識はあるんだろうけれど、それを掘り出して整理するのをはしょりすぎていて、「いっしょうけんめいやればわかってくれる」的な、がんばったのはわかるが何やりたいかわからない、というようなものになっている。そのために、p.344-345のすごい表も、「すごいし労作だが結局なにがわかるの?」というものになっていて、結局だれも見ないんじゃないか。残念。


だから、この研究を研究としてちゃんとやるなら、本当は二つに分けたいところ。まず第1のものは、研究の目的と方法はこんな具合だ:

研究論文その1;『今和次郎「日本の民家」における選定民家の特性:文献調査をもとに』

  • 目的:今和次郎『日本の民家』における標本の選定抽出手法を明らかにすること。
  • 手法:『日本の民家』所収の民家の位置と環境を、文献調査で明らかにする。それをもとに、当時の物理環境変化の特徴を分析し、今和次郎の注目点を推定する。


で、本書の結果を見ると、ここから出てくるはずの結論は、今和次郎は当時の鉄道延伸とそこから生じる環境変化を懸念して、近い将来になくなりそうな民家を選んだのです、ということだ。今和次郎のサンプルは、当時の市街地環境が激変すると予想されるところを選んでいたのだ、ということになる。それがいえたら、「日本の民家」のサンプルがある程度の一般性を持つんだ、ということになって、それに注目する意義も出てくるというもの。

で、それを受けて次の論文が書かれるべきだ。たぶんやり方はいろいろあるけれど、個人的な案としては、たとえば上の視点からすると、今和次郎の懸念が正しければほとんどのサンプル民家はなくなっているはずだ。ところが、そのかなりの部分はまだ残っている。なぜだろう? それが第2の論文の核となる疑問になれると思う。

研究論文その2:『今和次郎「日本の民家」における選定民家の特性:実地調査に基づく変化と残存理由の分析』

  • 目的:今和次郎『日本の-民家』における標本民家がなぜ残存できたのかを明らかにする。
  • 手法:『日本の民家』所収の民家の残存状況を、現地調査で明らかにする。九〇年前に想定された環境変化とその後の実際の変化との差異を、現況調査とヒアリングおよび文献調査で明らかにする。


変化の要因が、国土開発もあれば私的な事情もある――そんなのあたりまえじゃない? でもなぜそれが残れたか? つまり今和次郎の懸念がなぜ外れたか? 開発圧力がそんなにこなかったり、住民の特性があったり、計画が変更になったり、本書で述べられているいろんな材料を整理し直せば、もう少し別のことも言えるんじゃない? そして、こういう二段階にすれば、この調査結果はそれなりの一般性を持った、都市環境変化と、ついでに建築保存についても何らかの広い視点を提供できるものになれただろうに。そういう意識が希薄だから、この本はフィールド調査の記録としてはとてもいいのに、昔懐かしさによりかかって終わってしまっている面が多々あるとは思うのだ。それは、惜しいところ。

追記:著者の一人中谷氏からコメントがきているので、コメント欄も是非ごらんあれ。



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