都甲『21世紀の世界文学30冊』:紹介としてはよいながら視野が狭く筋が通っていない。

21世紀の世界文学30冊を読む

21世紀の世界文学30冊を読む

世界文学、と称しつつ紹介されているのは英語の小説、特にアメリカ中心。著者もそれを気にしているようで、「はじめに」であれこれ言い訳する。英語も大してできないし(まあこれは謙遜だろうが)、その他の言語はほとんど初歩程度。でも、それでもここで紹介されているのが世界文学だといえるんだって。なぜかといえば:

本書で選んだ三十冊はいずれも、アメリカ合衆国に関係が深い。そしてこの一〇年とは、9/11の事件以来アメリカが世界で暴れ回り、グローバリゼーションの一層の進展とともに英語帝国主義が猛威をふるった時代だった。

だから、アメリカ中心の英語の小説の話をするだけでも、世界(に関係のある)文学といえるのだ、というわけ。

が……少しでも世界の政治経済文化を見ている人間なら――The Economist、いや思いっきりゆずってニューズウィークジャパンやクーリエ程度に目を通している程度で十分だ――これがいかに偏狭な見方かはわかるはず。9.11はむしろ、アメリカ覇権の終焉を告げる事態だった。その後アメリカは暴れてみたが、泥沼にはまって醜態をさらし、かえってその弱体ぶりを示したというのが通常の見方だろう。前世紀末あたりから、アメリカは盛衰を繰り返しつつも、世界の政治経済の中での地位をじわじわ下げている。この21世紀の世界政治経済文化の潮流といえば、むしろ中国やアジア圏の隆盛だ。

都甲にはそうした、ホント常識的な世界把握がまるっきり欠けている。ぼくはこれを見て、著者の「世界」ブンガクなるものの認識を大いに疑ってしまう。あなたのいう「世界」は世界じゃない。

実は都甲が本書で紹介している本は、まさにアメリカに外部からいろんな移民がやってきてそれがアメリカ文化の独自のサブカルチャーを形成したような例がほとんどだ。都甲はグローバリゼーションで世界がアメリカ化されたのが二十一世紀だと思っているようだ。でも実は、彼自身が紹介している本を見ても、話が逆だというのが明らかにわかる。「マイノリティブンガク」とかで色もの扱いされていた移民文化だったけれど、それがいまやアメリカ文化のメインストリームでもある。アメリカのほうに、グローバリゼーションを通じて世界が入り込んできたのが本書で紹介されている多くの小説だ。つまり紹介されている作品からは読み取れるのは、都甲が上の引用部分で言っているのとはまさに正反対のことだ。

するとやはり、本書の紹介がどこまで的を射たものなのかは、どうしても疑問に思えてしまう。いい作品は紹介していると思う。が、その意味を都甲の解説はちゃんと説明できているだろうか?

そして、他の言語ができないということについて、彼はこんな言い逃れをする。

だがそれでも、と反論を続けさせてほしい。そもそも人はいったい何カ国語できれば世界文学について語る資格が得られるのか。西欧後がいくらできたところで、極東にもアフリカにもブンガクはある。(中略)あるいは、日本語しかできない人は世界文学について語る資格はないのか。たとえば町田康中原昌也といった、今まで僕らが見たこともない言語を、日本語を用いながら構築しつつある作家たちはどうなるのか。彼らの試みもまた「日本語の外」へ出る意思の表れだとは言えないだろうか。(p.13-14)

まず、中原昌也の小説はおもしろいし、それを世界文学の一つだと言うことはできても、だからといって中原昌也が自分の書いた小説だけで世界文学がどうのこうのと言い出したら、それはまぬけだ。ある小説が世界的な意味を持つというのと、それを書く人が世界の小説について語れるというのとは話がまったくちがうんですけど……

そして何カ国語ができれば、というけど、日本語だけでもいいと思うよ、あるいは英語もできればいいでしょう。ちゃんと翻訳を読めばぼくはそれで世界文学を十分に語れると思う。もちろん、その言語を母語として読める人に比べれば享受度は低いかもしれないけれど、ゼロではない。翻訳を通じた7割の理解で世界各地の小説を読めば、世界文学の見取り図はできるだろう。*1

ところが都甲は「はじめに」の冒頭では、翻訳で読んではブンガクはわからない、みたいなありがちな主張をしちゃってるので、この道が使えないんだよねー。原文でないとダメなんだって。もしそういう立場なら、ぼくはそもそも世界文学を語ろうというんが変じゃないかと思ってしまうのだ。中国語もアラビア語ポーランド語もできないなら、都甲の立場だと、中国語や荒美や語やポーランド語の小説についてはまったくわからん、ということになってしまう。だったら、アメリカのマイノリティ系のブンガクで中国やアラブ圏やポーランドの小説を何か照射できているかどうかは、判断しようがない。観察できないんだもん。世界文学かどうかわからないんだから、それが世界文学になっているという強弁も成立しないでしょう。

逆のほうから考えて見よう。都甲は「そもそも人はいったい何カ国語できれば世界文学について語る資格が得られるのか」と書くとき、いくらあっても足りないだろう、と言いたいわけだ。でもそんな敗北主義でどうしますか。世界でおもしろい小説が出る地域というのはある程度の傾向がある。そこを押さえればいい。村上龍も言ってるけど、ブンガクというのは、近代化の副産物だ、という立場がある。ぼくもこれに賛成だ。つまりいま世界文学を語るには、近代化が大きな問題になっているところをカバーできればいい。
すると、アジア、特に中国。そろそろ隆盛してきたアフリカの、おそらくはガーナかナイジェリア。エチオピアとケニアもあるか(余談ながら、アフリカのフランコフォン諸国はなんかいまいち伸び悩んでいる感があるのはなぜだろう)。さらに非常に悩ましい状況の旧ソ連。ロシアがメインだが、そろそろ中央アジアでもなんか出ていそう。カザフやトルクメニスタンの冗談みたいな独裁者たちをネタに、かつてのラ米文学みたいなのが爆発的に出てくるかもしれない。いまの南米はそこそこかなあ。あとは中東くらいか。アラブの春は明らかに近代化とのからみで登場した現象だし、なんかあるんじゃないか。そんなところはなんか押さえおけばいい。すると、中国語、英語、ロシア語、アラビア語くらい操れれば、まずは原書で読むという前提で、現時点でそれなりに意味のある形で包括性のあるような世界文学像を語ることはできるでしょう。4カ国語。不可能じゃない。それで世界文学を語る資格はできる。

したがって、都甲の反語的なつもりの質問は、反語にならないので彼の主張は通らない。そしてそれ以上に、いくつあっても足りない、というのを仮に認めるにしても、そこから「だから英語だけでいいんだ」という理屈にはならんでしょう。そこらへん、弁解としても三流。

さらにだね、翻訳ではダメと言いつつ、本書の中でボラーニョは、英訳経由だ。いいんですか? 一貫性もない。

というわけで、世界認識がダメダメで、言い訳が三流で、しかも一貫性がない。世界文学だ、というのを強弁しようとしなければこんなことにはならなかったのに、なぜ無理をしたのかぼくにはよくわからん。アメリカ中心でその他少しおこぼれ拾いました、という紹介に素直にしておけばよかったのに。グローバリゼーションを通じたアメリカの変質なりアメリカ文学の多様化という話でまとめればよかったのに。世界を知らない人が無理に世界の話をしようとするから……

ちなみに、それぞれの小説の紹介は、まあまあ。どれもあまり深みはないけれど、お手軽な紹介としては標準以上のできではないかな。ぼくには「これ読んで見たい!」と思わせる力はなかったけれど、まあそれは、このひねくれた読者のアレもあるから。

とはいうものの、やっぱりぼくは本書というか著者のものの見方にまったくなじめない。

日本において外国文学が勢いw失っている大きな原因は、かつて憧れを原動力としていたからだと思う。そんなもの、航空運賃が安くなればすぐに消滅する。地球上のどこにも夢の国など存在しない。実際に行ってみれば、汚い街で、ぱっとしない人々が、日々を生き抜く苦痛に耐えてがんばっているだけだ。要するに日本と同じである。(pp.241-242)

夢の国? はて、外国文学が流行っていた頃に外国文学って、そんな夢の国をあれこれ描くものばかりでしたっけ? 「カラマーゾフの兄弟」とか「大地」とか魯迅とか百年の孤独とか、夢の国(いい意味で)なんかぜんぜんないものばかりだと思うんですけど。そして外国にでかけて、そんな程度のものしか見えないなら――その汚い街が独自の汚さをもっているおもしろさがわからないんなら――ぼくは都甲はどこに目をつけているんだろうと思ってしまうのだ。

そしてここで都甲が言っているのは、外国文学が読まれなくなったのは、そこで扱われている「外国」が日本と同じだからだ、ということだ。でも、この前とあとの部分で、都甲はアメリカのブンガクとかは、ぼくたちと同じだからいいのだ、という話をする。同じだから読まれない、と言うなら、なぜ都甲は同じであることを強調するんですか?

ごめん、たかが書き殴りエッセイにそこまで首尾一貫性を要求するのは酷かもしれないんだけど、でもそれがこんなに頻出すると、ぼくはまったく評価する気がおきない。書評にもとりあげない。ぼくは、本書の帯にヨイショ文を寄せている沼野ジューギあたりがこういうのを本当は論難しないと成長しないとおもうんだけど、まあブンガク業界はそれがないから。おそらく、別の新聞で仲間ほめ書評が出るでしょう。



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山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.

*1:そもそもxx語を母語とする人がxx語の小説を読むと「完璧」に理解できるってもんでもない。翻訳を通じて読む人のほうが、その言語を母語とする人よりもずっと深くその作品を享受できることはいくらでもある。さらにぼくは翻訳者として、たとえばバロウズについては、ほとんどの日本人ががんばって英語を勉強して読んだ場合よりも、いや英語を母語とする連中がバロウズを読んだ場合に比べてすら、日本人がぼくの翻訳を通じて日本語で読んだほうが、絶対にバロウズの本質に触れやすいと思っている。そしてその享受がXX語で読んだものとずれていたとしても、そのずれもまた新しい可能性なんだというのが最近の流行なんじゃないの?