[朝日新聞書評ボツ本][書評]大野『旅を生きる人々』:中途半端で視野が狭い

旅を生きる人びと―バックパッカーの人類学

旅を生きる人びと―バックパッカーの人類学

バックパッカーのフィールド調査をもとに、バックパッカーの自分探しを核にしてそのあり方を探る本……のはずが、ぜんぜんダメ。

個人的なバックパッカー体験記でございます、というならまあいい。でもこれって、一応研究ということになっている。「海外での調査は、2004年10月から2011年9月にかけて」行ったそうだが、話した人数は100人以上にのぼるものの、データをとった相手はたった43人。7年がかりで43人、年間6-7人かよ。しかもそのデータは、本書のインタビューを読む限りでは浅はか限りない。バックパッカー宿に一週間もいれば、このくらいの話は山ほどきける。

で、バックパッカーにも、移動型(あちこち旅行するのが好きな人)、沈没型(だらけて動くのも面倒だったり薬にはまったり帰りの航空券代がなくなったり他のバックパッカーにたかって生きたりするようになった連中)、移住型(現地に移住しちゃう人)、生活型(もうずっと旅を続けようとする職業バックパッカー)がいる、という。まあそうだね。もちろん上から下に行くにしたがって人数は減るけど。

ところがヒアリング対象43人のうち、12人が最後の生活型。移動型は20人、沈没型4人。サンプルとして偏ってない? しかも、出てくるサンプルってほぼ全員、英語とかあまりできなくて、日本人宿で日本人相手にいきがった尾ひれはひれだらけのねつ造武勇伝をしてるだけの連中じゃん。かれらの談話がいかに信用できないものか、バックパッカーなら知ってるはずなのに。

「バックパッキングによって多様なアイデンティティが生み出され、それによって人々の生も多様化されていく」(p.236)。それが社会に風穴をあけて云々、と著者は実に安易にというか、何の目新しさもないまとめをする。「彼らの生に対する根源的な問いに紳士に向き合う実践の先には、新しい社会への変革が展望できるのである (p.236)」へえ。展望してよ。どんな社会が? 一方で著者は、多くのバックパッカーが決まったガイドブック通りのルートをたどって事足れりとしていることを描く。あんまりアイデンティティ多様化してませんねえ。バックパックがパッケージ化していることを描く。ホントに多様なアイデンティティがあるの? それが本当に新しい社会への変革なんぞを?

そうした分析考察皆無で、とにかくだらしない卑近な体験とバックパッカー談義のいちばんつまらない部分を寄せ集め、クスリの運び屋なんかに手を出した(そして投獄された)人物の話をさもすごそうに描くのにげんなり。

最初の頃は、自分探し→バックパッキング通じた新しい発見→それによる社会への再参入→その成功を見て自分探しをしようとする人が増える、というスパイラルがあるかも、という仮説をたてるんだが、途中でそれでは単に社会の歯車にはまってるだけじゃん、というのに気がついてなんとなくそれもなし崩し的に消える。バックパック旅行もリスクのないパッケージ化したものになっている、といいつつ、それでもその個人にとっての体験としてはそれなりに楽しいからいいんだ、という話に堕す。うん、それは結構なんだけど、じゃあそこでバックパッキングであることの意味というのは? そういう考察もなし。結局「いろいろ多様性が」といって変な人集めるだけでは、何の役にも立たない。

これが個人的な体験記でございますというなら目くじらもたてないんだけど。でも、著者はこれをフィールド調査の結果だとのたまう。しかも一応、ドクターなんだって。研究作法のイロハくらい知ってるだろうに。ぼくもバックパッカーもどきくずれなので、興味があって手に取ったんだが、ろくなサンプルもなく、検討の枠組みもなく、視野も狭く、こんなのダメ。



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