マーティン『北朝鮮「偉大な愛」の幻』(下):下巻はトピック中心のまとめ。その後の各種文献登場で目新しさには欠けるし、一部はすでに古いが、流し読みする価値はある。

北朝鮮「偉大な愛」の幻 下巻

北朝鮮「偉大な愛」の幻 下巻

下巻。下巻は上巻での歴史的なおさらいを終えて、いろんな亡命者を中心に現在(というのは2004年あたり)の状況をテーマ別に描いている。若者の状況、産業、収容所、核開発、メディア対策、そして最後にはジョンイルくんの後継者問題。

ここらへんの話は、本書の後にもっともっとたくさんいろんな文献が出てきている。『北のサラムたち』は北朝鮮の人々の心のゆがみすら垣間見せてくれた、名著としての価値を未だに失っていないと思うし、ディエゴブニュエルDon't tell my mother をはじめ、実際にカメラが北朝鮮に入ってあれこれ取材をしたのも増えてきた。その意味で、本書の記述はいまではそんなにありがたくはない。亡命できた人々は、北朝鮮の人々のサンプルとしてどのくらいあてになるのか――そしてその中でも、たとえばラジオフリーヨーロッパみたいなものを北朝鮮向けに行うことの効果について、ずいぶん見解が分かれている。軍の中の金日成/金正日崇拝の状況も、まったく意見がわかれている。たぶん、だれも全体像はわかっていないんだろう。その意味で、群盲象を撫でるようなもどかしさはずっとつきまとう。

でも、いろんな分析や裏事情については詳しい。昔は、だれかが亡命するとその一族郎党全員が再教育されるのが常だったけれど、あるときを境に処罰は本人だけとなったそうな。なぜかというと、なんか高官の息子が亡命しちゃって、それを処罰すると政府高官がゾロゾロ粛正されることになるからだったとのこと。でもそのおかげで、ドッと亡命者が増えたとのこと。また、日本の在日帰国組への羨望と憎しみの入り混じった扱いとか、かなりおもしろい。

さらに、終わり近くの後継者問題は、金正男についてあれこれ描き、その他の候補については記述が薄い。ジョンウンは正雲という表記になっている。これ、正恩と同じ人だよね? いまとなっては、もはやあまり価値はない部分。これは仕方ないんだけどね。同時にこれは、たぶん本書を可能にした歴史的な動きが、いかに急激に北朝鮮を取り巻く状況を変えつつあるかを物語るものでもある。そしてこれを見ると、テリー伊藤「お笑い北朝鮮」が実はかなり画期的な本だったことは改めてよくわかる。1993年、この本の十年前に、あれだけの突っ込みができたとは。

著者は、金正日に対して自分が後継者アドバイスをするなら、という仮想の手紙を最後近くに掲載しているんだけど、かれは金一族を王朝みたいにするのがいいと思っている模様(で、正恩はずいぶん粗暴らしいからやめといたら、とアドバイス)。正直いって、著者のビジョンにあまり説得力があるとは思わないんだが、さりとて他にどんなアレがあるのか、というと……

全体として、北朝鮮の話をするなら上巻は是非読んでおきたいところ。下巻は、今は流し読みでいいと思う。あと、増刷されたら、目次のページ番号のずれは直してほしいところ。注以降のページ番号がやたらにずれているので。



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