フエンテス『誕生日』:シャーリー・マクレーンに捧げられている時点で警戒するが、中身はバロウズ風ナボコフ。

誕生日

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すでに見切ったフエンテス。この作品も、難解と言われて、難解なのに/だから傑作とも言われているとか。

しかし実際にはかなり簡単な話で、ある家で起きた殺人だか一家心中だかのような事件があって、その死に至るまでの短い時間の中に、ありとあらゆる時空間のできごとが幾重にも折り重ねられているという小説だ。そしてその記憶がすべて解放される「誕生日」が死の瞬間でもあるというわけ。

幾重にも重なる出来事と記憶という意味で、これはナボーコフの小説と非常に近い書かれかたをしている。同時にその書き方は、ナボコフほどは構築的ではなく、断片羅列という意味ではバロウズっぽい。ぼくはかつて、『たかがバロウズ本』で、ナボコフバロウズが似ているという話を書き、ナボコフバロウズ風に書いて似たような効果が出せることを示したけれど、このフエンテスの小説はその逆をやっている。バロウズナボコフ風に書いているとでも言おうか。そういう小説。

その中には、愛あり現代文明あり古代のわからない妄想あり苦しみあり、いろいろ詰め込まれている。それは必ずしも脈絡があるわけではないが、ないわけでもない、というもの。そのつながりを細かく探っていくのも、まあ一興かもしれないが、たぶんあまり意味はなく、いろんなものが折り重なってくるのを味わって楽しめるなら楽しめるし、ストーリーとか意味を求めるなら、つらい。『アウラ』と並ぶ傑作と言われているそうだが、ぼくは『アウラ』のほうが多層化されていていいと思うなあ。

そして本書をいやーなものにしているのは、シャーリー・マクレーンに捧げられている、ということから訳者がなにやらニューエージを引っ張り込もうとするところ。こうした円環の時間や多層的、神話的な時間というのは、オクタビオ・パスなんかもよく言う話で、それをあれこれ引用するのは結構なんだが、シャーリー・マクレーンのインチキ本を本当に信じてそれが霊的現象が語られるきっかけになってえらかったとかほめたり、果てはこんなことを言い出す。

神秘主義、ニューエイジは学問でないと眉をひそめる向きもあるだろうが、意外や意外、難解で意味不明な学術書と比べて、何倍もわかりやすかった。

そりゃそうだ。ニューエージはバカがわかったつもりになれるように書かれているんだから。問題はそのわかったことに何か中身はあるのか、ということなんだけど。で、訳者はそういうくだらんニューエイジ本を本書の記述の裏付けにしようとする。別にこの本はある神話的なイメージのためにそうした時間概念を使っているのであって、それを裏付ける必要なんかないんだけどね。そしてそんなインチキな裏付けを求めてしまうこと自体が、訳者か、フエンテスか、あるいはその両方の浅はかさと自信のなさを反映しているように思う。小説としての世界を持ち得ていたのに、それを卑しいニューエージの水準にまでこの訳者解説がひきずりおろしてしまっているんだ。たぶん朝日新聞の書評候補にもあがってくるだろうけど、絶対とりあげません。

繰り返し言ってるけど、そろそろ自分、「テラノストラ」読もうぜー。あとフエンテスはひょっとしたら変な高踏じみたおブンガクに走るより、通俗っぽいらしい Hydra Head とかのほうがいいんじゃないかという気もする。この二冊でフエンテスはもうやめ。

追記

「いまは直線的な時間をみんな生きていて、昔はみんな円環的な過去と現在が混然一体になった時間を生きていた」という妄言は、こういう言い方だとなんかかっこいい。でも実際には全然ちがう。フランク「時間と宇宙のすべて」にも漠然とは書いてあったけれど、昔は昨日と今日はほとんど同じだったのだ。円環的、というのは、今日も明日も、今年も来年も同じです、ということにすぎない。

今日も明日も、同じように喰って働いて寝るだけ。今年も来年もやることは同じ。自分のやってることは親のやってきたことと寸分同じ。たぶんお隣さんのやっていることとも大差ない。その意味で、自分と他人の区別もあまりない。だからプライバシーなんてものもあまりない。ニュースもメディアもネットもないから、新しい刺激はまったくなし。たまに村に二流の歌舞伎役者がきました、なんてことが5年たっても画期的な出来事として、尾ひれはひれをつけて繰り返しかたられる。ガキはたくさん生まれてたくさん死ぬから生も死も日常茶飯事。その意味では、まったく同じ日々の繰り返しの中に、生も死も含まれていて、その歌舞伎役者訪問なんてことが「神話的」な出来事になるわけ。それがしつこく繰り替えされてみんなの共通の体験となり「ワシはその役者をこの目で見た!」なんていうじいさんが、英雄扱いされたりするようになる。あるいは「ワシはその役者を見たというじいさんの話を直接聞いたんじゃ!」なんていう連中の話がご大層なものとして珍重される。

それが神話の時間だ、と言いたいなら、それはそれでいい。そしてそれについて妄想をたくましくして、何か同じ繰り返しの中に(本当は個別性のある)いろんな人や事件がたくさん詰め込まれた世界を妄想するのもかまわないし、それがラテンアメリカ文学と呼ばれるものの魅力だったりする。そうやって詰め込まれたものが、少しずつ大きな流れの中で変動し、消えてしまう、というのが『百年の孤独』の一つのテーマだ。でも、それを本当の世界にもってきて、そっちのほうが豊かで詩的で人間本来のあり方で、というような妄想はやめてほしいんだよね。そしてそれはニューエージ的なチャネリングだの、転生リンネだのとはまた別の話なんだし、それをいっしょくたにするようなこともやめてほしいのだ。



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