いま訳してる本ときたら……

超分厚いアカの専制君主シリーズの最新作を訳し終えて、その次に訳している本はとっても薄くてありがたい。ありがたいんだが……


行動心理学の教祖様みたいな人の古い本なんだが、面倒くさくてたまらん。行動心理学なので、この人は基本的に心とか内面とか感情とかいうものを認めない(当人は行動心理学という呼び方すらしない。行動科学だ)。だって、そんなもの見えないでしょ。他人が観察できないでしょ。そんなの科学で扱うべきものじゃないよ、と言って。見えるのは行動だけであり、行動が刺激によってどう強化されるか、というのを科学は考えなくては、と。

それは主張としてはたいへんよくわかる。が……

その人は極端で、それを表現でも徹底しようとする。可笑しい、というのはダメ。だってその人が可笑しく思ってるかどうかは、外からは観察できないから。外から観察できるのは、その人が笑ったという行動だけ。可笑しいというのは、笑うという行動が、過去の条件付けに基づいて、通常より強化されている(つまり通常より起こりやすくなっている)ということだ。だったらそう書け、とこの人はいう。「腹が減った」というのもだめ。腹が減る、というのが外部から観察できないから。食べ物を探す、という行動しか観察できない。だから腹が減った、というのは通常に比べて、過去に行われた条件付けの結果として食べ物を探す行動が強化されている状態である。したがって、この人は「腹が減った」と書かず、行動が(あるいはその人が)食べ物で強化された状態とか、食べ物的に強化されている、とか書く。眠いと言わず、布団的に強化されているという。

すべてその調子で一般向けの本を書こうとするとどんなことになるか。「思う」「感じる」「〜したい」「悩む」そういうのを一切使っちゃいけない。それを訳そうとするともうわけわからん…… というのもダメ。わけわからんというのは観察不能な内面の話。それは行動的には、具体的な行動につながるような方向付けが生じない、ということになるので、それを訳そうとすると強化がきわめて生じにくい、と言わなくてはならない。でも、そう言われて何のことやらわかる読者が何人いるんだ……

通常ぼくは、洋書1ページ訳すのに20分かかる。でもこれは45分くらいかかっている。でも発想としては非常におもしろくて、その後脳科学や認知科学の成果でだんだんジワジワ言われてきたような極論を70年代に先取りしているすごい本ではあるんで、おもしろいんだけど、でもめんどくさい。かなり長い解説書かないとわかってもらえなさそうで、それもめんどくさい……

追記

さらにやってると、ときどきこの変なこだわりが実におかしな方向に作用しはじめる。「腹が減った」と書かず、行動が食べ物で強化された状態とか、食べ物的に強化されている、とか書くのがこの人の流儀だ、と言ったけれど、さらにそこからもう一歩進むと、食べ物が人を強化する、というような表現にまできてしまう。食べ物に人が強化される、とか。

でも、食べ物は「あ、山形がいるから強化してやろう」と思ったりしないから、この言い方はすでにかなり変な領域に入ってしまう。結局、何らかの形での情報処理というのは、どっかで行われているわけだ。食べ物を見て、それを認知して過去の記憶と結びつけ、その記憶に伴う行動を呼び出すような手続きが、人間の脳内で起こっていることは絶対に否定できない。でも、「人に内面なんかない! 中の人なんかいません!」というのを徹底しすぎると、人間がそういう情報処理を行っていることさえ否定せざるを得ない。すると、それは……情報処理をモノの側に負わせることになってしまう。酒が、食い物が、テレビが主体的にぼくに作用してぼくに何かの行動を起こさせる!

でもこの人の書き方はこのトンデモな発想の一歩手前まできている。そしてぼくは、これを見て、なぜ頭の変な人たちがアフォーダンスなんてことを考えるようになったのか、ちょっとわかった気がした。むろん、方向性はまったくちがうけれど、でも人の情報処理をなるべく減らそうという方向性で両者は共通しているんだ。人がモノを扱うのを情報処理として考えると、モノの認知、識別、属性把握、カテゴリー分類、重要度判定とすさまじい量の計算が必要になり、人間(をモデル化したコンピュータ)にはとてもこなしきれない。だから、人が計算をしてるんじゃないことにしたほうがいい。モノ、たとえば食物側に、被空腹性とでもいうべきアフォーダンスがあるんだ、とすれば人間の側の情報処理をかなり節減できる、というわけね。たぶん通常のアフォーダンスの説明とはちがうけれど、ぼくはこんな発想なんじゃないかと思っている。そして、そんな発想をしはじめた段階で人は自分の正気を見直すべきだと思うんだが、そのまま突っ走ってしまう人もいるというわけですな。Of course, I need to check that, so don't quote me on this.



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