有象無象『ウォール街を占拠せよ』:少し時間がたった客観性皆無の、自画自賛「活動家」アジばかり。

なぜかうまくアマゾンの商品表示が出ないけど、ウォール街占拠本。しかも今頃出てきたということで、少し時間がたった段階での客観的なものの見方や反省、今後の展望とかについてある程度は包括的な視点が出ているのかと期待していた。

何もなし。

ぼくは『99%の反乱?ウォール街占拠運動のとらえ方?』というきわめて似た本を訳しているので、どうしても比較してしまう。そして、それ故のバイアスもあると思うので、なるべく本書についてはいい見方をしようと努力はしたんだが、無理! 中身は、『99%の反乱』とほとんどかわらず、頭に血の上った人が左翼「うんどー」ジャーゴンまみれにしてくれたせいで、かえってわかりにくくなっている。イベントやったとか、アーティストがきてアートパフォーマンスやりましたとか、ぼくはこうした運動において誇るようなことではないと思う。お祭りにすればするほど、一般人の(99%の!)普通の要求からは乖離するだけだし、ブラックパンサーのアンジェラ・デイビスを祭り上げたりして60年代過激左翼運動と結びつけようとするのは、ぼくはマイナスだと思っている。が、左翼の活動家は、ついに自分の春がきたとかんちがいしてはしゃぐばかり。

そして訳者は、ジャスミン動乱とギリシャやスペインの政府緊縮策反対デモと、このウォール街占拠が同じ流れの運動だと強弁するんだけど……明らかにちがうから。街頭デモすればなんでも仲間という安易な見方で何が達成できるの?

解説者の高祖という人物も(これ、公園で本読むだけの、破壊しないけど破壊する『革命』とかいうくだらない本の訳者だったね)、きちんと解説できずに思い込みでアジるだけ。解説になってない。このデモの基本にある不満は非常に重要なものだし、それに光を当てることはきわめて重要。でも、解説にはそれはできておらず、なんか話を大きくしようとして、あれもこれもとつなげるばかりで。結局わけがわからなくなっている。

一年前にこれが出たなら、まだ意味はあっただろう。でもいまになって? ウォール街占拠は一周年記念でこないだお祭りをやっていたが「同窓会みたいだった」とか。本書みたいに、運動がいまだに続いているとか終わっていないとか強弁するよりも、もう少し冷静に現状を伝えて、この運動の結果としてどんなことが出ているのかを説明してほしかったよ。活動家はよくかんちがいしているけど、重要なのは、デモとか抗議運動が続くことじゃない。それにより何が実現したかということなんだけど、その評価がない本を今読む意味はないと思う。しかも、2200円??!! 高いよ。

コメント:訳者の「事実にもとづく反論」

訳者がツイッターでこの記述に文句をつけているとのコメントをいただいた。こんな具合。

山形浩生氏の「書評」に対して、全て事実をもとに反論しました。氏の偏見と悪意に満ちた誤読が広まらないように、一連の反論ツイートの拡散をお願い申し上げます。

さて、本当に事実をもとに反論しているだろうか? ぼくは訳者の言い分はまったく妥当でないと思う。

【RT希望】「客観性皆無の」とありますが、この本はドキュメントでありノンフィクションです。基本的には、何が起こったかが淡々と書かれています。ウォール街占拠の前段階から強制排除後まで、そしてOWS内部の作業部会を扱ったものです。

たとえばこんなのを見てみよう。

「より最近では、POCのめんばーたちが、一一月初旬のスポークス・カウンシルで、かれらが特権、無視、レイシズムと認識したものに知して互いに立ち向かったときに、軽視され、沈黙を強いられていると感じたことがあった。こうした緊張と困難は、より大きな世界に存在する権力構造と抑圧の多層性を反映したものだった。OWSが異なる世界を築き上げようとする一方で、スポークス・カウンシルは、より公正で公平な世界を目指すための運動だった。(p.148)

基本的に何が起こったか淡々と記述しているわけではないのがわかると思う。やったことに対して常にこうしてイデオロギー的な着色をしつつ記述されているのは明白。ぼくはこれは客観的な記述だとは思わない。ある立場を強く打ち出した、当事者としての主観的な記述だと思う。したがって、訳者のツイートは反論になっていない。

【RT希望】『ウォール街を占拠せよ/はじまりの物語』に、そのような場面はほとんどありません。「イベントやったとか、アーティストがきてアートパフォーマンスやりましたとか、ぼくはこうした運動において誇るようなことではないと思う」。

でも、そうした場面はある。それどころか「占拠運動と芸術」(pp.181-192) という一章丸ごと割いてこの話をしているじゃないか!! したがって、これは反論になっていないどころか、訳者は自分の訳してる本を読んでるのか、という疑問すら抱かせる。ちなみにここは本そのものよりは、この手の動き自体についての苦言ではある。10ページに載っている公園の平面図で、アートに割かれている部分が全体の1/5-1/4くらいに達していることに注目。

「ボキュパイ」の章にアンジェラ・デイヴィスのスピーチが引用。そこに訳註をつけました。それをこのようにねじ曲げています。「ブラックパンサーのアンジェラ・デイビスを祭り上げたりして60年代過激左翼運動と結びつけようとするのは」

ねじまげてはいない。スピーチを引用してデイヴィスのご威光を利用しようとしているのは明らか。それについている訳注というのは、単にデイヴィスの簡単な紹介をしているだけで、こうした60年代左翼活動との関わりについてなんら注意を喚起するものではない。したがって反論になっていない。

【RT希望】「頭に血の上った人が左翼「うんどー」ジャーゴンまみれにしてくれたせい」。これまた意味が全くわからない。私は山形浩生氏よりもはるかに年下なので、そのそも左翼ジャーゴンがどういったものなのかもわからない。

わからないんなら反論とはいえませんね。ちなみにわかる人は、上で引用したPOCがどうしたとかいう文で味わってください。

【RT希望】ウォール街占拠の前段階から強制排除後まで、そしてOWS内部の作業部会を扱ったものなのですが、山形浩生氏の本とは全く異なります。なのに「きわめて似た本を訳しているので」とは一体何を意味する言葉でしょうか?

そんなこと質問されましても。世間的には、どちらもウォール街占拠について当事者が書いた実録本でしかない。ジャーナリストが書いたものと、実際のオルグ屋たちが書いたもの、という差はあるけれど、それは一般的には大きなサトは見なされない。だから「きわめて似た本」なんですよ。

【RT希望】『ウォール街を占拠せよ/はじまりの物語』の序文(原文の翻訳)に「私たちがこの本を出版しようとしている二〇一一年一二月はじめ」とあり、原著が出版されたのは今年2/9。それから翻訳に半年はかかるはずで、「いまごろ」ではない。


それはそちらの能力の問題。本には話題性があり、旬というものがあるのだ。ウォール街占拠が話題になっていたのは、昨年半ばくらいだ。原著が今年の頭に出たのは、話題性としてギリギリ。それをいま邦訳として出すのは、出版としてはタイミングを逸している。翻訳に半年もかけるようではだめ。この程度なら一ヶ月で訳して夏前に出さなくては。それができなかったのは、訳者として原著に対する責任を果たせていないので恥じ入るべきだろう。立派に「いまごろ」。


というわけで、いずれの反論もまったく妥当性はないと思う。RTしてくださいね。



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