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松橋『モダン東京の歴史社会学』:うーん、いろいろやったのはわかるが、それで?

東京都心、丸の内あたりについての歴史社会学的な研究。ぼくは都市計画屋くずれだし、学生時代に藤森照信の研究が出て東京ブームであれこれいろんな研究が出たのを見てきたので、興味ある分野ではある。というわけで、ふんふんと言いつつ読んだんだが……最後まできて、「へ? これで終わり?」となってしまった。

まず第一章は、バージェスの同心円がどうしてルフェーブルがなんたらで、そこでサッセンの手法が云々でカステルはどうたらこーたらフロリダのクリエイティブクラスがどうしたと、あれやこれやの都市社会学理論をひたすら並べるんだけど、その後の理屈に全然貢献していない。それが70ページも続いて、東京がいつまでたっても出てこないのは堪忍。既存の東京に関する分析のレビューをするならまだしも、いっしょうけんめい偉い(と著者が思ってる)名前を並べて箔をつけたいだけですか、と思えてしまう。

で、第二章からやっと本題。まず江戸から東京に至る都市発展の歴史をまず見て、都市計画っぽい話で丸の内れんが街の成立をまとめる。次にモダン都市的な文化論っぽい話で丸の内地区の発展を扱う。で、美観景観論争を通じて、バブル前、バブル期、その後現在までの丸の内近辺の形成を見て、最後にいまの丸の内の利用者に対してアンケートして因子分析して、丸の内のいまのイメージと人々の評価ポイントをまとめている。だけれど各章、各時代の分析において、使っている手法や視点がかなりちがう。このために、あまり全体に一貫性が感じられず、寄せ集めっぽくなっている。これがまず一読しての難点。

さらにこの読者の個人的な問題ではあるんだが、江戸からの発展を経て都市計画と戦後の再開発の話は、都市計画屋としてはあまり目新しくない。天皇の役割をやたらに強く出そうとするのは、まあそういう見方もあるけれど、そんなに重要だったのかなとは思う。が、皇居との関係で高さ制限が取りざたされたのは事実だから、それはそれでいいんだろう。

でも、バブル期になぜ丸の内は再開発されなかったのか、という話で、なにやら文化人どもの景観保全反対運動が起きたから、ということにしちゃうんだけれど、本当かなあ、と思う。三菱地所が本気でやりたければ、そんなのすぐ蹴倒せたんじゃないかな。当時、うちの研究室にもそのマンハッタン計画の計画書がきてみんなで見ていたけれど、当時は都心の開発そのものに対して、そんな景観運動なんか比べものにならないほど強い抑制がかかっていたはず。それは、特に当時の地価問題に顕著にあらわれていた、一極集中に対する批判というもの。

当時は都心部の地価上昇が大きな問題になっていて、大規模な開発をするのはその上昇に拍車をかけるものとされていた。オフィス足りないという国土庁の無責任なレポートがあったのは事実。でもそれをどう処理するかという考え方だと、すでに都心はいっぱいでインフラも負担しきれない、一極集中いくない、地価が上がるのダメ、だから八王子、幕張、横浜みなとみらい、お台場をはじめ機能分散をして、都心はあまり開発するなというのがかなり強い雰囲気として官民の両方にあったはずなんだけどな。景観なんてそのホンの枝葉の話でしかなかったと思う。汐留の開発が遅れたのも、地価を顕在化させてはいけないとかいう話であちこちもめて、そのうちバブルがはじけるとお台場あたりと競合で云々とかいう話があって(お台場の話はちょっと触れられている)、それでまとまらなくてあれやこれや。美観論争だけで開発の進捗をまとめようとする話は、ぼくはかなり偏ったものじゃないかと思うんだが。

さらにバブル以降の現代の開発については、三菱地所が根回ししたから開発できたという話にしたがるんだが、そうかなあ。地方部の賃料がダダ下がりになって、三菱地所として賃料取れそうなところが丸の内くらいしかなくて、それなのに森ビル系の開発や汐留が出てきて鈍くさい丸ノ内からは最先端のテナントも取られ(当時丸ノ内に会社がきたときに、駅で降りる男女の高齢ぶりとくたびれた鈍くささにはみんな泣きそうだったし、なんとか「ビルヂング」がいっぱいあって唖然としたもん)、もはやのんきに構えてられなかったからじゃないの?
さらにそれが「徹底して経済のグローバル化の文脈、すなわちグローバル資本やグローバルエリート向けの「外部」のまなざしを意識し、それに適合したライフスタイルの提供と担い手の発掘を行うことで成立している」(p.282) という。たぶんサッセンの真似して「グローバル」と言ってみたかったんだろうけど、あの本のダメなところはぼくがアマゾンの書評で述べた通り、まさに東京の没落を説明できないこと。それを理解せずに、グローバル都市論を東京にあてはめてしまうのはどうよ。バブル期以降東京はもはやグローバル都市としての存在意義を激減させていて、バブル期にはアジア拠点を東京に置くのが当然だったけれど、いまは東京は見向きもされない。仮にもグローバルを口走るなら、東京の世界的な地位も少しは考えるべきじゃないだろうか。丸の内はグローバルなんとかに対応したのだ、と言いたいなら、なぜグローバル都市としての地位がガタ落ちになった頃に(つまりニーズが減ってから)わざわざそんなものに対応せねばならなかったかを説明する必要がある。でも本書はそういうの考えてない。

そして、その後で現在の利用者(社長さん、店長さんたち)にアンケートをして丸の内らしさをつきとめようとするんだが、それまでの話とぜんぜん関係がない。たとえば丸の内は皇居とつなぐ天皇の軸が重要で、というような話をそれまでにしているんだから、アンケートでもそういう要素が入っていればまだわかるんだが、そういうのまったくなし。グローバルなんとかに適したライフスタイル、というのも特に質問しない。古い/新しい、便利/不便、明るい/暗いを採点してもらうというありがちなイメージ調査をもとに、非常にうだうだしい話を散々繰り広げたあげく、人によっていろいろですねえ、という話になってしまう。そして6章最後の結論:

イメージプロフィールを見る限り、双方とも現状の丸の内に対してそれほどポジティブな評価を与えておらず、双方の場所イメージを規定する「丸の内らしさ」のゆらぎと隔たりが表面化する結果となった。これはフェイストゥフェイスによる情報交換や企業イメージの向上といった場所がもたらす付加価値が最大限に評価されるビジネスエリアにおいてこそ、企業や組織文化を含めた社会文化的要因が場所の構築に対して大きな影響を与える可能性が高まることを示唆するものとして、考えることが出来るだろう。


……えーと、どうして考えることが出来るんでしょうか? いや、文化的要因が影響するのはたぶん当然だけど、現状が高く評価されていないというだけでそんな結論出せないでしょ? 本書のいろんなところで、こういう強引な本当につながっているかわからない主張が出てきて、いちいち考えるのも疲れる。結局、因子分析したけどあまり大した知見は得られませんでした、ということにすぎないんだよね。

そんなこんなで、興味ある分野なので一通り読んだけれど、感銘は受けなかった。最終章で本書の意義なんてのを述べているけれど、何かがわかったというより、ある手法を適用しました、ある考え方を使いました、という話ばかり。でもぼくは、手法を使ったというだけでは、不十分だと思う。それで何か新しいことがわかったのか? その手法が何か有意義なこれまでない知見をもたらしたのか? それがないと。著者は最後に、「都市類型論との接続を模索する形で、世界規模での比較歴史社会学的な研究モデルを構築すること」が今後求められるというんだけれど、たぶん求められてないと思う。構築すればいいってもんじゃない。構築したら何が得られそうか、という見通しが重要なんじゃないの? それがないと手法に耽溺した自己満に終わってしまうように思う。

というわけで、せっかく読んだが不満が多く、書評欄に取り上げるべき本とは思えなかった。熱意は買うし、練り直せばなんか出てきそうな気もするので今後に期待したいところ、と一応は書いておくけど……

追記

本書もやはり、このブログで何度も指摘してきた、研究としての目的意識の希薄さが最大のネックだと思う。ナントカ手法を丸ノ内に適用した例がないからやってみました、というのが最大の研究としての売りになってしまっているんだけど、そんなんでいいなら、類型論と歴史社会学的な手法をサンマ塩焼きに適用した例はありません、やってみました、というのだっていいことになる。丸ノ内の何を解明したいのか? 何のために? 従来の研究はどういうことをやっているわけ? なぜそれがこれまで採りあげられなかったの? 手法が不十分だったから? それともそのテーマ自体がこれまではあまり重要性がなかったから? 何が変わったためにそれをいまやるの? それを解明するために、どんな手法の選択を行ったの? 具体的にどう調査を進めたの? そして結果は何がわかったの? それは従来の知見を変えるものなの、追認するものなの? 研究だというなら、こういうのをカバーしてほしい。いまの流れで、本書とかは前半部がまったくない。やってみました、すごいでしょうと言うだけ。それで許されるのは修士論文までだと思うぜ。修士くらいなら、研究室で追究しているテーマがあってその一部をやりました、というので教授には許してもらえるし、研究室としてはなぜ自分がそんなテーマをやっているかという背景は共有されているだろうから。でも博士では……「都市社会学」という業界の中では、丸ノ内でアンケートして因子分析しました、というだけで何かすごい成果だと思われるような背景があるのかもしれない(たぶんないと思うけど)。でも、そういうのにだらしなく依存するのはダメだと思うぜ。


なお、ある方からメールをもらったんだが、目的意識というのはもちろん実用性のことではない。リーマン・ゼータ仮説が証明できますとか、円周率の最後の桁がわかりますとか、中国の古代都市は天円地方の理念で作られていますとかゴルバチョフが反キリストである確率とか(こういう研究は本当にある)、ピンの頭で踊れる天使の数とかいうような、それがわかっても何ら現実生活に役立たないものを追究する研究はありだろう。業界外ではわからない、その領域特有の問題意識というのはあるはず。それでも、何かしらそこには解明したい問題があるはず。やっぱり、ある程度の人数が不思議に思っていることや、解明したいと思っていることに貢献するものであらまほし。これをやると、こんなことがわかるかもしれない、こんなことにつながるかもしれないという夢でもいいよ。たぶん研究者として少し慣れてきてしまうと「私はヘミングウェイを研究してます」とか「都市社会学研究してます」と言うのになれてしまって、その分野でありがちなテーマに、ありがちな手法を適用していればその分野の研究者っぽい顔ができて、それに安住しちゃうのかもしれない。でも、ときにはそこから出てきて、それが何のためなのか考えないと。そんな分野になんで興味を持ったのかという初心にも関係してくると思うんだけど、それにたちかえってみれば……

……と書きつつ、一部の研究者は別にそんな何かしたいという興味があったわけではなく、漫然と大学院にいって教授に「XXくん、こんどちょっとどこそこ地方の農村民家のフィールド調査してみないか」と言われて漫然と特に問題意識も無くあーなってますこーなってます、というのをひたすら並べるだけでなんか業績がたまっていって、就職するのも面倒でそのうちその分野の研究者になって、それについては専門家だけど特にすごい興味があるわけでもなく、とはいえその分野以外にいくのも面倒なのでそこでのいろんな組み合わせをあれこれやってみせて、そこに他人が入ろうとするとシマを荒らされた気分になってあれこれ政治的にたちまわり邪魔したり足を引っ張ったりしつつ、なんでそれを調べるんですかと言われても答がないから、素人にはわからんとうそぶいて、むしろ変な目的意識があると研究にバイアスがかかるのだから虚心にデータを集めて解釈しようとはしないほうがいいのだと胸を張ったりするというような例がいっぱいあるのは知っていて、だから目的意識とか研究の意義とかを言ってほしいというのは部外者としては当然でも部内者としてはそれ自体が自分のレーゾンデトールを否定されるようなことになっちゃってる人も少なからずいるというのも、悲しい事実だというのも知っているんだけど。



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