浜野『なんとかはキリストを超えた』:あきれた。

ごみくず。この本の理屈なら、長島茂雄が自分のアレで「巨人軍は永遠に不滅です」と言ったことをもとに、長島茂雄はキリストを超えたという説だって書ける。主張はすべて、かろうじて必要条件はあっても、十分条件皆無なので、信者以外には一言一句たりとも説得力ないよ。アキバ48を押し立てれば尖閣問題も竹島問題も解決だとさ。やれやれ。前著は少しいいと思ったけれど、今後ぼくはこの浜野の書いたものは目に入れないようにすることにした。本もラオスに捨ててきます。こっちの古本屋に売って純真なバックパッカーたちの精神汚染を引き起こしてはいけない。

追記

そうそう、ぼくが本書でもう一つ耐えがたかったのは、もう本を捨てちゃったので正確には覚えてないが、序文の最後あたりにあった「この世には希望が全然なくて、だからアキバ48の与えてくれる希望が云々」というくだらない安っぽい絶望だった。世界は希望に満ちていて、もちろん完璧ではないけれど、だからこそまだ改善の余地があって、そしてそれはこの世界というマクロなものだけでなく、この卑小な自分自身にすら希望がある――それが見えない、あるいは見ようとしない人は、無能か怠慢か、よくもあしくもおめでたいか、そのすべてかでしかないのだ。
そもそも自分がちんころアイドルに入れ込んでることを正当化するために、世界の希望を否定しようとする本は、ぼくは本質的に卑しいと思う。ちんころアイドルにいい歳こいてはまるのは、それはそれでかまわない。それはもちろん、恥ずかしいことで、醜悪なことで、笑われて当然なんだけれど、でもそういう自分をそういうものとして肯定し、その恥ずかしさ自体を胸を張って肯定できるのが現代のよさであり、それに対して周囲も眉をひそめる程度ですませ、本当に石を投げたりはしない。それは世界の豊かさであり、それを可能にしてくれている世界の優しさであり、それ自体が希望だ。でも、浜野はそれを見ないで、自分の卑小さと醜悪さを正当化すべく、世界を絶望にひきずりこもうとする。それがこの本の本質的な卑しさの元でもある。
アキバ48なんて、そんな崇高でも偉大なものでもないのは、ファンたち自身がよく知っているはず。かれらは、自分たちにやっていることがつまらない何かの代用行為なのも十分に承知しているはず。それでも、ほとんどのファンは、自分たちがキモヲタであることを十分に承知しつつ、それを半ば自虐的に、なかば胸を張って受け止めているはず。そういう自分を正当化するために世間を貶め、へたくそなアイドル集団を実際以上のご大層な存在として祭り上げ、それを世間に押しつける必要があるなどとはまったく考えなかったはず。だって、そもそものコンセプトがご近所アイドルでしょ? ご大層でないのが身上のはずでしょ?
SFファンダムにはかつて、FIAWOLという言葉があった。Fandom is a way of life. SFファン活動に入れあげるなんてのは決して世間的には威張れることではないし、本人たちもそれを承知しつつ半ば後ろめたい思いもしつつやっていたけれど、でもだからこそ、それは生き様として、輝かないにしてもそれなりの存在感をもって認知されていた。
でもこの本は、そういう等身大のファンを無視し、実物大のアキバ48を(たぶん)無視して、世界を勝手な思い込みで絶望に陥れることで両者を分不相応にでかいものに仕立て上げる。単に、自分自身の気恥ずかしさと後ろめたさを隠さんがために。
でも、こんな本を書いても――いや、それだからこそなおさら――あんたはいい歳こいた恥知らずのキモヲタですから。それを自分で認められず、関連コミュニティでの内輪だけの大言壮語を真に受け、誇大妄想にひたらずにいられないのは、世界の問題というよりは著者の問題であり、世界の絶望よりは、著者が絶望的だということの反映だと思う。

関係ないけど。

追記 (12/13)

うまいなあ。ぼくはこういう褒め殺しみたいな完全に物笑いの種にするうような書評は書けないけれど…… これに比べると、ぼくの書いたのは「ネタにマジレスなんとやら」ということになるんだろうね。



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