読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

笠井『新版テロルの現象学』:左翼運動を清算するといいつつ未練を残し、アニメに逃げた本。

書評

新版 テロルの現象学――観念批判論序説

新版 テロルの現象学――観念批判論序説

はじめに

しばらく前にちょっと嫌みなことを書いて、やっと本編を読みました。あー、そういえばこんな話だったねー、と思うと同時に、正直いって現代的な価値がある本だとは思わなかった。笠井一人が、自分だけのために必要としていた整理でしかなく、それを他人が共有すべき必然性は特にないと思ったのだ。それは昔もそう思ったし(たとえばこのオローク『ろくでもない人生』あとがきを参照)そして、いままた読んで、なおさらその思いを強くした。

いやそれどころか、本書は自分がやろうとしたいちばん根本のところをごまかして、自分が批判したその枠組みにまさにすっぽりはまりこんでいると思う。今回、新版になってついたとんでもなく長くて混乱した増補は、まさにそのごまかしを隠しきれなくなった結果だ。久々に手に取って、ぼくはそう思ったことですよ。

本書の基本的な問題意識は、なぜ左翼運動とか社会主義はすぐテロとか内ゲバとか殺し合いとかに陥っちゃうのか、ということだった。笠井は、左翼運動に深く入れ込んでいた。でもその内ゲバに嫌気がさしてやがてマルクス否定派の立場になり、マルクス葬送派と言われるに到る。そしてこの本は、その集大成だ。自分の関わった左翼運動をすべて精算し、そこから解放されるための本がこの『テロルの現象学』のはずだった。

笠井の説明は、共同観念ー自己観念ー党派観念という、欺瞞をかかえた観念の必然的な先鋭化がその理由だ、というもの。ちょっとそれを解説しよう。

1. 左翼観念は必然的に殺し合いになるの?

1.1. 共同観念ー自己観念ー党派観念:観念の発展プロセスまとめ

世の中には、まあ社会とかコミュニティとか組織ってものがあるよね。そしてそれをまとめあげて動かしているある種の考え方なり常識なり理念なり、というものがあるわけ。それが「共同観念」と笠井が呼ぶものと思えばいい。昔の部族社会とかなら、血縁とか多少は具体性のあるもので結びつく部分もあったけれど、社会が大きくなると、どうしても何らかの思想や理想をもとにまとまらざるを得なくなる。それは多少なりとも無理があるものだし、どうしても抑圧的になるし人を疎外するしあれやこれや、と笠井は共同観念批判を行う。

で、どんな社会や組織にも、そこになじめないやつ、というのはいるわけだ。何らかのきっかけで、いまの世界(つまりその共同観念)はまちがってる、堕落してる、もっとよい世界を目指さなければ、と思うやつはいる。もちろん、それは大変よいことなので、是非目指すべき。でも中にはもっとひねたやつがいて、

世間はおれを評価していない→それは世間がおれの高邁な思想を理解できないからだ→よって世間はまちがっている

という理屈を使い始める。つまり、自分が社会参加できない/しないのを正当化するために、変な理想を掲げたりするようになる。オレは他の連中とはちがうんだというのを誇示するために思想を使いはじめる。そういうのが自己観念だ。そしてそれは社会否定につながる。自分が正しい、つまり自分の理想や思想が正しいなら、それを受け入れない社会はまちがっていて、オレ様を認めないそこいらの俗物連中どももまちがっていて、したがってそいつらはオレ様の言うことをきくべきであり、そうしないようならぶち殺してもいいんだ、という思想になってしまう。さらに、重要なのは観念であって、肉体なんかその奴隷だ、という肉体憎悪も出てくる。

ここまでの話で、笠井は170ページ強使うんだよ。やれやれ。

さて、この共同観念と自己観念は、まあ裏腹の関係だといっていい。社会があると、不適応者が変な自己観念をこじらせて、秋葉原の加藤や三島由紀夫みたいな変な自爆をしてみせたりする。

でも、テロとか大量虐殺に到るにはもう一段いる。笠井の説明は妙にすっきりしないけれど、要するに彼が言っているのは、その自己観念を自分の外部にあるものとして物神化しちゃえばいいということだ。「民主主義」とか「プロレタリア」とか。「われら」とか「アンカ」とか。すると、それまでは単なる自己正当化でしかなかった観念が、独立して動き始める。もう自分の満足のためにその理想を云々するんじゃない。その理想が直接自分に命じるようになる。自分の満足を越えてその観念に奉仕するようになる。これが笠井のいう党派観念。そしてそれは、かつての民衆憎悪、肉体憎悪をそのまま残しつつ、それがもっと先鋭化される。自己観念レベルだと、自分という抑えが一応はある。でも、党派観念になるとそのたがが外れる。すると粛清と虐殺の嵐となる、という理屈。

というわけで、これで笠井の最初の問題意識に対する答は一通り出た……かな?

1.2. でも、なぜ左翼なの?

答えは出ているだろうか? 実は出てないのだ。彼の問題意識は、左翼やマルクス主義運動が内ゲバやテロや虐殺にたどりつく理由を解明することだった。でも、いまの説明にマルクスや左翼は出てきたか? 出てこない。笠井は、いろんなマルクス主義文献やら左翼論者を引き合いに出すことで、これが左翼的な観念の必然だと言おうとする。でも、それ以外ではこういうことはあまり起きないとか、左翼理論だと特におきやすい、という説明は一切ない。すると、そもそも笠井潔が最初にやろうとしたことは実現できていない。なぜことさらマルクス主義や左翼運動だけにそうした傾向が生じたんだろうか? それは何一つ解明されていない。

さらに笠井は、これが観念の発達として不可避だ、という。でも不可避だ必然だということは、みんながみんなそうなるってこと? でも実際にはなってない。観念もいろいろあるのだ。するとそれは必然というわけではない。じゃあ、テロや内ゲバや虐殺出現の説明としてはまったく不十分ではないの?

そしてこの理屈で笠井は左翼運動を完全に清算し、そこから解放されたつもりでいるんだが……実はされていない。それを示すのが、彼のこだわる「集合観念」なる奇妙な代物だ。

2. 革命への未練:集合観念

2.1. なぜ集合観念が必要だったか

この『テロルの現象学』で大量にページを割いて説明される、もう一つのものがある。集合観念なるもの。これはその、共同観念ー自己観念ー党派観念の業を打ち破る、天啓にも似た代物だ。みんなが熱狂してオージーしたり集団ヒステリー起こして殺し合ったりらりったり革命の学生運動とかでハイになっちゃったりする状態のことだ。みんながハイになって高揚して一致団結したら、みんな殺されたってかまわない。バリケードの中でみんな喜んで死を選ぶ。「いま/ここ」にある気高い民衆蜂起。もはや個人をこえ、「我」がすなわち「われ/われ」になり、自分と他人とも区別がつかない状態。共同観念のような「死」という観念を弄ぶようなものではない、即物的な死と生との同一化。バタイユ的エクスタシー。死に到る生の称揚。

この手の話がいろいろ続くんだが……

でも、当初の目的である、テロや内ゲバや虐殺の発生メカニズムは、すでに共同観念ー自己観念ー党派観念という仕掛けで一応説明できたつもりなんでしょ? なんでこの集合観念なんてものを延々と語る必要があるの?

実は、理屈の流れからすれば必要ない。なくてもいいというか、ないほうが明快だ。

でも著者はこれを述べる必要があったんだろう。実は、彼は左翼運動を清算するといいつつ、実はできていないんじゃないか。したくないのだ。彼が主張したいのは、テロルはダメ、内ゲバはだめ、セクト争いはだめ、その根本となるいろんな観念はだめ、ということ。でも彼は同時に、革命はすばらしい、と言いたいのだ。革命は否定されてはいけない。いやそれどころか、革命万歳、人は革命のために生きる! その革命に奉じた自分は捨てたくないのだ。

でも左翼的な運動を否定しちゃったら、どうやって革命万歳を言えばいいんだろうか? そのための仕掛けとして持ち出されるのが、この集合観念だ。共同観念と自己観念の呪縛を食い破り突然噴出する集合観念! いきなり自然発生的に出現する民衆蜂起の熱気と祝祭空間! その集合観念さえあれば、人は死んでもかまわない!

2.2. One "Men"'s 集合観念 is another man's 党派観念

すばらしい。でもね、たぶんポルポト配下の人々も、紅衛兵たちもそう思っていたことだろう。自分が何か熱狂にとらわれているとき、それがどの観念かはどうやったらわかるんですか? ときどき、サッカーの応援団とかがものすごい暴動に展開したりしている。そういうのを見て、ぼくは知っているんだ。集合観念とやらで宴会の中のでハイになった人は気分良くゲロ吐いたり、車に火をつけたり火事場強盗働いたりしている。その中の人は集合観念の高揚感に酔いしれている。でもその外には、車を燃やされ、店を壊されて強奪されたりしている人々がいる。革命のお祭りから一夜明けてみれば、そこはがれきの山で、途方にくれた人々が頭を抱えているんだ。紅衛兵たちも、つるし上げをやっているときは本当に連帯感ある集合観念の中にいたかもしれない。でもある人の集合観念は、その外にいる人にとってははた迷惑で破壊的な党派観念だったりするんじゃないの? そしてそれこそが問題じゃないの?

2.3. 集合観念ってムシがよすぎません?

さらにその集合観念って、どうやったら出てくるんですか? 何をすればいいんですか? 計画したりできるものじゃないらしい。自然に沸いてくるのをまつしかないらしいんだけど、それまでの間は何をしていればいいんですか? さらに本書は、集合観念が噴出しても、それが「運動」になる頃にはすでに共同観念に回収されてダメになる、という。そして共同観念批判をやって事足れりとする。でもそれはつまり、ある一つのプロセスのいいとこだけ取りだそうとするムシのいい妄言だ。遊びは楽しいけど後片付けはいやだ、と言ってるに等しい。ぼくはそれがまともな議論だとは思わない。無責任な革命ごっこの妄想だと思うし、そういう理屈付けは本書が批判したつもりの各種左翼運動の認識――革命こそ大事、それに伴う犠牲その他は仕方ない/どうでもいい/我慢しろ――とそんなにちがうとは思えない。

2.4. 集合観念もまた自己観念の一種じゃないの?

だいたい本書は、共同観念というのをえらく蔑視してみせて、それに対抗するものとしてこの集合観念なるものを持ち出す。自分はこれを奉じているからえらいんだ、と。でもそれって、まさにいまの社会を否定しようとして、自分はもっとえらくてすごい理想を持っているんだと言いたがる、夜郎自大な自己観念そのものじゃありませんか? 革命を夢見るのは結構。でも何を実現するための革命なんですか? これはまったく説明されない。この議論って、そのハイになった革命が自己目的化してますよね。それってまさに自己観念批判と称してあなたが本書で批判してたことですよね。集合観念という口実さえあれば、人が死ぬのも正当化される、と本書は言う。それって集合観念によるテロを正当化してるってことだよね。つまり、革命とテロリズムを切断することができてないってことだ。いや、こっちは華々しい革命の自己犠牲、あっちは卑しい党派観念のテロリズム、なんて区別は、ぼくは無意味だと思う。観念の奴隷として人が死に、暴力が生じる――何も変わっていないのに、本書はそれで何か革命とテロを切り離して、左翼運動を清算できたつもりなんだが……できてないじゃん。

2.5. すると本書の評価は?

つまり、テロルの現象学は、成功した本とはいえない。やろうとしたことを実現できておらず、その解決/拮抗するものだと称して提示したものの中に、まさに自ら否定しようとしたものがちんまりおさまっている。著者は、内ゲバに陥った学生運動や左翼運動は否定したいと思った。でも、そこに参加していった自分自身を否定する勇気はなく、自分の否定する自己観念とやらに自分がとらわれていたことをストレートには認めたくなかったのかもしれない。だから本書は、自分には本当に奉じるべき真の革命、集合観念による革命、それにともなう民衆蜂起という目標があったんだという逃げ道を残そうとしている。その意味でこれはとってもずるい本でもある。

■■■■■■■

と、ここまでが初版で述べられていた内容のまとめだ。大学時代に本書を読んだときは、なんかすごくむずかしくて高度なことが書かれていると思ったし、バタイユとか好きだったので彼の集合観念万歳で納得してしまった一方で、この理屈を下敷きにした当時の矢吹駆シリーズ(最近のはバカみたいに分厚いので読んでない)で、かならず矢吹が相手を実質的に殺してしまう(または死に追い込む)のにすごく違和感があったっけ。矢吹駆シリーズで起こる殺人というのは、かならず観念の呪縛によるテロルとしての殺人なのね。でもそれに対する対処として相手を殺すのでは、結局やってること同じでは? 笠井自身もそれにうっすら気がついていて、処女作でナディアちゃんが、死においやる必要はなかった、社会の片隅で自責と後悔の中で生き続けさせることだってできた、と矢吹くんに文句を言っている。いま読むと、その違和感が必ずしも無根拠だったわけではないこともわかる。

だが……この新版の本当の驚き(と失望)は、その後に控えていたのだった。

3. 補論:68年ラディカリズムの運命はアニメだった!

本書には、120ページにわたる補論がついている。いまの読者は、まずこれを読めと著者はいうんだけれど、おすすめしない。異様に長い上、異様にまとまりがなく、思いついたことをだらだら羅列して話があまり整理されておらず、とってもわかりにくいからだ。

この補論が何をしようとしているかといえば、いま述べた革命温存のための小細工を引き延ばしているだけだ。要するに彼はここで、68年の学生運動だか安保運動は、とっても立派なすごい革命だった、と言いたいのだ。そしてそのために小熊英二『一九六八年』に対してこちゃこちゃと細かい反論が延々続く。笠井にしてみれば、『一九六八年』は六八年の運動を単なる自己観念の発露に貶めようとする許し難い試みのようだ。だから彼は、それがこの集合観念の見事な発露でした、と言いたいのだと思う。が、『一九六八年』なんてみんなそんなに読んでないよ。それについてあれこれ言われても、全然話が見えない。その意味で、この補論のほとんどは無意味なのだ。さらにもちろん、いまのジャズミン動乱とか反原発とかが、なにやら六八年以来の民衆蜂起の再来だと思ってるらしいね*1。でもすでにエジプトあたりでは共同観念の逆襲がはじまってるようだし、ほんとその民衆だっていつまでも蜂起してるわけにはいかないだろうに。蜂起してないときはみんな何すんだよ。それなしに、蜂起の夢ばかり語るって意味ないじゃん。

だが、この本の醍醐味は確かにこの補論にあるのかもしれない。それも、この補論のいちばん最後のところ。この長ったらしく、こむずかしくて、人類すべてにまつわる難問(アポリア)の核心をえぐり左翼哲学総生産のなんたらかんたらでという大風呂敷を広げていた本が、一番最後の最後になってどこにむかうかというと……

突然しゅるしゅるとしぼんでいって、日本アニメすばらしいという話に落ちていくのは、何というか…… 六八年は、いろんなアニメに影響を与えてるんだって。へー。サブカルチャーが六八年を継承してるんだって。へー。世界文化闘争ですか。へー。ハルヒがいいんだって。へー。で、そういう文化闘争が続いて、いずれは集合観念の民衆蜂起の時代が再びやってくる……


この脱力感というかトホホ感というのは、並大抵のもんじゃないとは思う。450ページもかけて、行き着いた先がこれですか。観念の倒錯に簒奪に欺瞞に収奪にと、画数ばかりやたらに多い漢字をいっぱいつめこんでさんざんもったいぶって書かれてきた文章の最後の最後になって、きゃりーぱむぱむとかアキバ48とかいう字が躍り始めるのは、最初はもう何の冗談ですかと思うんだが、この人大まじめなんだよねー。いやもう、何も言いませんので好きにハルヒでもエバゲでもナルトでもワンピースでも見て革命を夢見てくださいな。稲葉振一郎せんせい、何か言ってあげることはありませんこと? この『テロルの現象学』、二十年ぶりに読んだら前には気がつかなかった何かが見えるかと思ったけれど、確かに見えた。そしてもう二度と手に取ることはないだろう。そしていまの若い人々も、特に得る物はないと思うよ。当時の話を理解したいなら、長崎『革命の哲学』は参考になると思う。どうせならそちらのほうをどうぞ。


あと、本論はもうやめちゃったんだって。残念……と最初は思ったが、こんな様子では別にどうでもいいや。



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.

*1:この点で、ぼくは笠井と小熊は同じ方向性を持っていると思うし、対して認識がちがうわけではないと思うんだ。それだけにこの補論の「小熊はわかってない」の一点張りが賢明なのかどうか疑問だ。