読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

笠井『国家民営化論』:リバータリアニズム的な社会論だけど、不徹底すぎ。市場ってものをかんちがいしてる。

昨日書いた、笠井『テロルの現象学』がダメだという文について稲葉大人が、こんなことを言っていた:

@hiyori13 『国家民営化論』は読んでないの? あれは一応実存より社会に軸足を置いてまじめにやろうとした本です。(リンク

おお、そうなんですか! そういうわけで読んでみました。で……

だまされた。昼休み返せ。

前半は、観念だけの知識人はだめだ、と言って武士道は観念だからだめだ、実業に基づく商人道こそがすばらしい、というお話。え、商人道ですか。どっかで聞いたような。左翼の人がたどる規定ルートというものがあるんでしょうか?

で、笠井は自分が売文業だから、文の商人として商人道を語る資格があると言うんだけど、ねーよ。商売ってそういうもんじゃないから。営業してぺこぺこ頭下げて、納期に追われて経費に追われて、お客さんに怒られて売り上げに一喜一憂して――そういうのをちゃんとやってこその商人ですから。ぼくはサラリーマンなのでそれが多少はあるけれど、でも本当の商人に比べたらそれでも実にお気楽なもんだ。産業商業ライターとして本当にそういうことをやっている文の商人はいる。ジャンプの漫画家さんたちだってそうだろう。でも、単著のたくさんあるようなインテリ作家様なんて、お気楽なもんです。締切になるとお客さん(編集者)がおうかがいたてにきてくれるし、納品書も書かなくていいし、請求書も(めったに)必要ないし。殿様商売だ。それに基づく商人だの商業だのの理屈ってのも、思い込みの観念ですから。

そして真ん中くらいから、その国家民営化論がはじまるんだが、これって基本的にはリバータリアニズム的な、すべてを人々の自由で自主的な損得勘定に基づく市場で解決しろ、国は何もしなくていい、いやなくったってかまわない、という議論とほぼ同じ。

こういう議論については、たとえば橘令の訳したブロック『不道徳な経済学──擁護できないものを擁護する (講談社+α文庫)』を参照。国の規制は不要だし、福祉その他も不要。あらゆることは個人が合理的、長期的/短期的に判断して、金を出したり出さなかったりすればいい。一般に国の仕事とされている福祉や国防や警察すら不要。こういう主張はすごくおもしろいし、思考実験としていろいろ考えて見ることは重要だ。(そしてこうした合理的であるはずの社会システム提案すべてについて、「そんなにすばらしいんなら、なぜとっくにそれが実現されていないんですか?」というのをよーく考えて見ることも必須だ。

この本で主張されているのもそういうことではあるんだが……この本、根本的なところでまちがえてくれる。たとえばこんな文:

市場社会において生きる諸個人は、なんらかのかたちで公共財の経費を負担しなければならない。(中略)同様に市場社会のメンバーは、システムの再生産のため、次代のゲームプレーヤーである子供のために、その養育費を分担しなければならない。(中略)さまざまな中間形態は想定しうるだろうが、原則は市場社会が子供の養育費を負担するという点にある。(中略)育児に必要な消費財は、現物支給でもよい。たとえば特別に高価な子供服やオモチャを、自分の子供に与えたいと望むなら、その費用は親である諸個人が負担すべきである。

育児費用を市場社会が負担する。それは子供をつくらないことを選択した個人が、他人の子供を育てるための社会的費用を支払わなければならないという結果にもなる。それは個人の権利を侵害するものだろうか。かならずしも、そのようには結論できない。 (pp.78-79)

この本は、すべて完全自由主義、国家自体がなくていい、という話のはずなんだけれど、ここではなぜか「市場社会」なるものがあって、それが強制的に(個人の権利侵害と見られかねない形で)子供の養育費をメンバーたちから徴収し、それを実際に育児を行う親たちに何らかの形で分配すべきだ、という話になってる。

でも、市場ってなんだか知ってます? この世のどこに、参加したくない人からも強制的にお金を徴収する市場があるの? それって政府とその税金というのと同じことですよね? その直前で本書は「巨大な託児所を運営しうるような『大きな政府』の存在は、ラディカルな自由主義の原理に反する」と述べている (p.77)。でも、あらゆる子供の育児費用をまかなえるだけのお金を人々から無理矢理徴収して再分配する仕組みって、絵に描いたような「大きな政府」ですから!

もしこういう仕組みがあるべきだと考えるなら、ラディカルな自由主義者であれば育児保険や学資保険の発展版みたいなのを考えることになるでしょう。子供ができた場合には育児費用を出しますよ、という保険を売り出して、それに入った人の中で子供ができたら保険金が出る。できなければ保険料掛け捨てになるけれど仕方ない。保険に入らなかった人は、育児費用全部自分持ちでがんばってね、という話。これが本当に成立するか? それはまた別問題で、健康保険ですらみんな自主的には入らないのに、とか、それならオプトアウト制にすればいいとか、最近流行の行動経済学的な議論がいろいろできる。でも基本は、みんなが自主的にそうした仕組みに加入し、強制は行われず、自由な判断に任せられるということ。これがわからないようでは、ラディカルな自由主義の風上にもおけない。後のほうで出ている警察や軍隊の民営化はこういう議論になってはいるんだけど、付け焼き刃と思われても仕方ない。


付記:そうそう、こんな手もあるかもしれない。
ローソン年収3%上げ 子育て世代社員対象 賞与上乗せ」(2013/2/8)
育児費用を企業がこうして(自主的に)負担するようにしたら、その企業には人が集まるようになって業績があがり……というサイクルができる、と。むろん「絶対にそうなると断言できるんですか!!」とか、失業が多いときにはどうだろうねとか、いろいろケチはつけられるけど、自主的な施策で育児費用が負担されるかもしれない一つの可能性ではある。


ちなみに本書はレーガノミックス批判を前半でやるんだけれど、レーガノミックスってまさに本書で主張している刑務所の民営化とか公共サービスの民営化とか実際にやってますよ。アメリカの国民全員の健康保険をめぐる論争もまさにこの線のもの。だったらレーガノミックスの何がダメだったの? あなたのはどうちがうの? そして著者は本書のような議論を掲げる一方で、『テロルの現象学』補論などではワーキングプアだの福祉低下だのをいろいろ批判してるよね。支離滅裂だと思う。

いや本書で提案したような仕組みはまだ実現してないから、というかもしれない。でも、もしそうであるならば批判は、福祉が低下したとかワーキングプアがかわいそうというものではあり得ない。政府なんかがそんなところに手を出しても失敗するに決まっているので、そもそもそんな福祉だの貧乏人救済だのを政府がやっていること自体がいけない、というのが正しいアナルコキャピタリストの議論だ。

でもそんなアナルコキャピタリストの仕組みはまだできていないから、それまでは政府がやるべきでは、と思う人もいるかもしれない。でも、真のアナルコキャピタリストたるものにとって(そしてそれ以外の人にとっても)それはまちがいだ。大まちがいだ。この仕組み――育児資金でも武装でも環境でもなんでもすべて自由意志に基づく支払いで市場に任せるという発想――は別に、だれかが作ってくれるのを待つ必要はない。育児を支援する民間団体はある。自分で武装はできる。自分で環境保護への貢献もできる。それは自主的な活動だったり、各種団体への寄付だったりする。著者が(そして読者が)本当にこの仕組みをよいものだと思うんなら、自分でやればいい。そしていずれそれは、資本主義が社会主義を打倒したように、その高い効率性によって自然に既存の強権的国家体制を倒すであろう! そう主張するのが、一貫性あるアナルコキャピタリストだ*1

さて著者は、そういう自由意志に基づくいろんな支援制度を、国家にかわる新しい仕組みのさきがけとして実践してるのかな? ぼくは知らない。終章は、物書きがネットで文を直販する仕組みが今後できるという話だ。著者はそれをやってるのかな? やっていてくれればいいと思うけどね。でもいまの彼の著作(って『テロルの現象学』補論だけだけど)を見ても、そんな気配はないし、アナルコキャピタリストの立場を貫徹するだけの気概もなさそうだ。


稲葉大人のコメントに対して、ぼくは

題名だけ見て、国はすべて民営化しろというスーパーリバータリアニズム市場原理主義本だと思ってたんだけど、ちがうの? だからテロルの現象学リベラリズム批判とかやってるのを見て、また宗旨替えしたのかと思ったんですけど。(リンク

と書いた。ちがわなかったね。何か新しいものが得られたわけではなかった。昼休み無駄だった。担々麺食いにいけばよかった。今度会ったときにはラーメンおごるように。

追記

これを読んでかんちがいした人がいるようなので、慌てて追記。ぼくはアナルコキャピタリストではない。なんでもかんでもすべてを民営化という議論は、思考実験としてはおもしろいけれど、人間がそこまでの合理性も持っていないし、かなり近視眼だし、気が変わりやすいのは知っている。10-20代は結婚なんて意味ない、ずっと一人で生きるぜと思っていても30代40代でみんなころっと変わるし、子供なんて作ったら人口過剰に貢献するだけだし面倒とか言っていた人が年をとると急に子供がほしいと言い出すのも見ている。そんななかで育児保険とか成立しない。

でも、こうした考え方を思考実験として徹底的にできることは重要。ぼくはそれが結構得意なのだ。だから下手なアナルコキャピタリストよりアナルコキャピタリスト的な議論はすぐにできる。そして、中途半端な腰のすわらないアナルコキャピタリストを見るとそれだけで苛立つ。合理的期待形成一派の爪の垢を煎じて飲みなさいってことで。でもそれは、あくまで極論としての話で、それを現実に適用するには慎重さは必要だ。それはクイギン『ゾンビ経済学』で執拗に言われていたことだし、その通りだと思う。赤字でも書いたけれど、そんなにいいんならなぜ世の中がすでにそうなっていないか、というのは常に考えなくてはならない。

さらに追記

稲葉大人より追加コメント:

「遺産相続禁止」を唱えているのでリバタリアン主流派からは評価が低い。そもそもそこまで強力な統制権を持つ国家が想定されているので、これは本当に無政府主義プランかというと疑問もある。アナルコキャピタリズムの皮をかぶりつつ、実はオールドアナキズムへの回帰といえる。(リンク)

なるほど、遺産相続のところは見落とし。勉強になります。ラーメンおごらなくていいっす。



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.

*1:アナルコキャピタリストでない人は、福祉が不要だとは思っていないだろう。それが不十分だとは思っているかもしれない。だったら、それについて文句を言うとともに、自分でもその不足を補うように努力しなくてはいけない。小熊英二は『社会を変える』で、社会を変えるためにはデモに行って主張を発言しようと述べていた。ぼくはあの本のその主張自体には反対しない。でもそれだけじゃダメだ。その不足をどう補うべきか? そのための自分なりの行動が必要だ。災害支援がまずいと思えばそのための寄付をしよう。防災や防犯が弱いと思ったら、地元の消防団などに参加しよう。自分の業務でも、多少なりともそういうコンポーネントを含められないものか考えよう。社会は自分が変えた分だけ変わる。それは小さくてもゼロではないのだ。