鈴木『なめらかな社会とその敵』ヒース『ルールに従う』:社会の背後にある細かい仕組みへの無配慮/配慮について、あるいはツイッターでなめ敵とかいって喜んでる連中はしょせんファシズム翼賛予備軍でしかないこと

なめらかな社会とその敵

なめらかな社会とその敵

  • 作者:鈴木 健
  • 発売日: 2013/01/28
  • メディア: 単行本

未来のための社会像?

なめらかな社会とその敵』の想定読者は三百年後の未来人。そこからすれば評者は未開の土人だ。しかしその未開人にも、謙虚な筆致に隠れた著者の熱意と意気込みはわかる。新しい通貨システムの案出など、ジョン・ローの不換紙幣やデヴィッド・チャウムの電子通貨以来かもしれない。しかもその射程はそもそもお金の意味すら変え、社会自体の変革を夢見る遠大なものだ。

著者は、題名通りのなめらかな社会を夢見る。人々の有機的なつながりがたもたれ、様々な関係性の途切れない世界。現代のお金による取引はそれを荒っぽく分断する。投票も一かゼロかの粗雑な選択を迫る。だが、インターネットを使えば、お金も投票もまったくちがった形態を持ち得る。関係性を保ち、様々な評価のフィードバックもある通貨システムもできる。粗雑でない細やかな社会参加も可能だ(本書のむずかしげな数式は、それが大きな矛盾を持たないことを示すだけなので無視してかまわない*1)。それにより、ぼくたちはなめらかな社会を実現できる。個人同士の壁はとけ、企業、コミュニティ、地方政府と国、果ては世界、いや人間と動植物の垣根さえ溶融した、諸星大二郎の『生物都市』さながらの世界。夢のようだ。新しい世界が来る、ユートピアが……

なめらかな社会は閉鎖的農村社会への退行

……と言われて鵜呑みにできないのがこの土人の悲しさではある。そもそもなぜそんな社会がよいのか評者にはちっとも理解できないのだ。著者は情緒的な記述と生物学的なアナロジーでそのあたりを説明しようとするが、あまり説得力は感じなかった。いやそれどころか、ぼくにはそれが積極的に否定すべき嫌な社会に思えるのだ。なめらか、つながり、関係性と言えば聞こえはいい。しかしそれは裏返せばべたべたしたしつこいしがらみでもある。本書は実は閉鎖的で息苦しい村社会(悪い意味で)を電子的に再構築しようとする反動的な試みでもある。その意味で、本書の提案する社会は実は、新しいものというより古くさいものなのだ。少なくとも未開の評者にはそう思える。実際に人々はそんな社会を望んでいるのか?

ネットでの評判を見ると、みなさんそれをほめそやすようなことをやたらにさえずっている。毎度のことだが、ネットで孤立するインテリ都会人たちは、農村生活を美化し、つながりだのふれあいだのに憧れるのだ。でもそれなら、こんな面倒なシステムを作るまでもなく、勝手に近所づきあいをふやし、親戚づきあいをすればいいだけではないか? でも、みんなそんなことはしない。実際にはみんな、そんなものは面倒でうっとうしいと思っているのだ。そして地域のしがらみを嫌ってコンビニで買い物したがるし、引きこもってなんでもアマゾン通販ですませようとする。ぼくはそれが、お金とか選挙とかの仕組みのせいだとは思わない。むしろそういうしがらみを嫌う気持ちこそがそういう制度を作り上げた。面倒なつながりは嫌だというのが人々の本音なのだ。

その意味で、本書は都会人の妄想ではある。それは都会人の、自分が臭い寒いかゆい思いをすることのない、自然と言いつつ実は単なる箱庭愛好のエコロジーと似たようなものだ。その人たちが考えているつながりだのふれあいだのは、実は人工的で表面的な阿諛追従とお愛想だけの代物にすぎない。ソ連の映画監督タルコフスキーは、父親との和解だの母親との思い出だのといった映画をたくさん作りつつ、実際には全然実家に顔も出さなかったそうな。つまりタルコフスキーが求めていたのは本当の家族なんかではない。フィクションとして、自分の妄想の中にだけある都合のいい「家族」でしかなかったわけだ。鈴木の「なめらか」「関係性」というのも、実はそうしたおきれいで都合のいいフィクションであって、本当の面倒くさい近所づきあいや家族づきあい――足音がうるせえと怒鳴り合い、流言飛語を流し合い、親戚の不始末で後ろ指をさされ、兄弟で介護を押しつけ合う醜悪でわずらわしい代物――とは似て非なるものではないのか?

新制度がもたらす不平等階級社会

そしてもう一つ、確かにいまある金銭取引システムや投票システムその他は粗雑だ。本書のシステムでそれをかなり軽減できるかもしれない。だがその粗雑さをなくすこと自体にひそむ危険性について、本書はかなり鈍感ではないかとぼくは考えている。

たとえば本書の提案する新通貨システムは、社会貢献度を数値的に算出する。それは人間の平等性の根拠を破壊しかねない。通貨取引では確かに関係性は表現されない。でもそれだからこそ、人々は金銭取引外の価値を認め、人の価値はお金ではない、だれでも見えないところで社会に貢献しているんだからという平等の理念が成立する。ところがこの仕組みで社会貢献度が数値的に見えてしまったら? それは人々の実質的な等級付けに直結しかねない。むろん、それに対して「いやこの社会貢献度は目安であってそれ以外の部分もあるんだから人は平等です」と強弁することはできる。だが説得力があるだろうか。ぼくは社会がその誘惑に勝てるとは思わないのだ。

また彼の新しい投票システムも、やりたいことは痛いほどわかる。この評者も十年前に、同じ発想から一票を分割して取引できるシステムを冗談半分で提案したことがあることだし。そしてそれがここまできちんと考え抜かれていることには、心底敬意を表したい。

だがこれをほめている人は、それが本当に社会としていいことなのかをちゃんと考えているんだろうか。ぼくが選挙権を分割するという話を考えたときには、それは人間の権利を解体して合法的に不平等を実現するための手段として構想した。それが実現性があるというのは、ぼくはうれしいけれど、きみたちそれでいいの? 

どういうことかといえば、政治とは基本は社会として白黒つける作業だということだ。民主主義/普通選挙は、その白黒つけ作業を多くの人に委任し、それをまとめるものだ。でも本書の提案するような「5 割賛成、5 割反対」と言える仕組みは、それを破壊する。実はこれは個人が優柔不断を決め込み、決断の責任を他人に転嫁する仕組みでもある。すごく単純化した例を出すと、社会として福祉の水準を上げたいけれど、それにはお金がいるので税金を上げなくてはならない状況になったとしよう。いまの投票は、少なくとも人々に、どっちにするかという決断をある程度迫り、それに伴う責任を取らせる。福祉を上げつつ減税といったありえん話を掲げる党(たとえば民主党)に投票することもできるけれど、その場合にも後で己の愚かさを悔やみつつ、それを自分の選択として結果を引き受けるしかない。

だが鈴木の仕組みだと、半分は福祉上げます政党(いや鈴木の仕組みだと、政党ではなくなにやら人望のあるだれかってことになるが、話は同じだ)に投票し、半分は税金上げません政党に投票できる。それは選択としてはまったくナンセンスで無責任なものだ。その人は政治的判断を下したように見えて、実はそれを下していない。その人は政治参加しているつもりでありながら、実は投票権を持っていないのと同じことなのだ。鈴木のシステムは、なめらかとかしなやかといったお題目で有権者を籠絡し(=だまし)、いまわずかに有権者が下している選択の責任――つまりトレードオフを自分なりに考えること――を手放させようとするものだ。それはいまの粗雑さがもつ、社会全体に責任を分担させるという機能を殺してしまう。

つまりそれは合法的に、一票の重みの軽重を作り出す。相反する選択に半々ずつ投票する人は、政治参加ゼロだ。優柔不断で帰結を考えられない人からは政治的な参加力を(本人の知らないうちに)奪う、ということになる。相反する選択に4:6で投票する人の投票行動の重みは、結局は一票の1/5にしかならない。「分人」というと、なんだかかっこいい。そしてそれは、いまは一人になっている人間という存在が、いくつもにも分かれるという話だけれど、その際におそらく多くの人は暗黙に想定していることがある。いくら分かれても、それを総計すれば一人分になる、ということだ。分人は実は、平等な一人というものを前提としている。だが実際にこの仕組みで実現するのはそうではない。一人の決定は相互に打ち消し合い、たぶん半人前の決定、1/3人分の決定権しか結果的に持てないという人が登場する。ぼくは、それでもいい。が、みんなそれでいいのか?

そして社会として、どこかで誰かが政治的に福祉か税金かという決断を下さなくてはならない以上、それは人々の権利が薄まった分、どこかに選択の権力が集中するということだ。それはつまりある種の独裁を正当化する理屈ではないか。政治的な実行はわけることは(多くの場合には)できないのだから。この点は著者も少し言及し、ゲーミフィケーションなどの応用を漠然と提案しているが、あまり詰まってはいない。

いや……もっとおもしろい可能性がある。かれの仕組みを使えば、そうした優柔不断を優柔不断として残しつつ、その帰結をちゃんと各人が自然に負担するような仕組みができるのだ。著者がなぜそれを思いつかなかったのかは不思議だが、本書で提案されている通貨と投票の新方式を連動させればいい。そうすれば、商取引だけでなく投票も含めた社会参加まで、ある種の取引のような形で実装できる。すると「きみは原発に反対したから電気料金三倍」「あなたは社会貢献度高いので税金半分」「おまえは他人と取引の全然ない=社会貢献度の低いヒッキーのニートだから、税金10倍」といった、あらゆる選択や優柔不断がきちんと帰結を持つ、細やかでなめらかな社会構築ができる。それはある意味で、市場によるなめらかかつ合理的で裏付けのある人々の階級づけとなる*2

粗雑な制度が担保している価値の破壊

もちろん、これは著者の念頭にある「なめらかな社会」ではないだろう。だが別の意味で(そしてもっと徹底した意味で)なめらかではある。システムは常に、それを作った人の意図をはるかに超えて自走するのだ。そしてそれは、いまよりはるかに多くの意味合いを金銭取引に負わせてしまい、結果として金銭取引の外部を大幅になくしてしまうことの当然に帰結でもある。ローレンス・レッシグは、自由や平等、プライバシーの根拠として、法やアーキテクチャなど各種の仕組みの不完全性を挙げた。鈴木の提案する仕組みは、現在の仕組みにある不完全性をなくすためのもので、それ自体としては見事な一貫性を持つ。だが不完全性に依存していた多くの価値観――それもかなり重要なもの――は、否定されるか縮小されざるを得ない。

で、それでいいの、ということだ。ネットで見つけた本書のある書評は「「個々人が自立的に思考し、一つの考え方を持つ」という近代の個人観を痛烈に批判しています。」といって本書を革新的だとほめる。でもそれを否定するということは、それを前提にした自由や平等やプライバシーをすべて否定するということでもある。あなたちはその覚悟があるの? ぼくはエリートだし、それでもやりようはあるとは思う。だがたぶん本書を無邪気にほめている多くの人々は……よく考えた方がいいと思うぜ。

むろん、真になめらかな社会は人々の自由も平等もプライバシーも必要としないのかもしれない。すべてはつながりあった一つの「自分」であり、それ以下の個体など考慮しないのかもしれない。これは著者がかなりはっきり述べていることだ。著者は、国家と個人だけが突出して(つまりなめらかでない形で)重みを与えられている現状を批判し、会社、コミュニティ、地域などにそうした主体としての意味づけを分散させることをこのシステムで目指したいと述べている。これはつまり、個人というものに与えられている意義や権利、たとえば自由や平等やプライバシーなどの重み付けも下げると言っているに等しい。個人の価値付けも、いまはデジタルだ。人間だから固有の価値と権利がある、というわけだ。でも、なめらかさを追求する鈴木のシステムはそんなデジタルな断絶は許さない。人間の価値だってなめらかに変化する。結果的にそこには、価値の高い人、価値がその半分くらいしかない人、まったくの最低限の人間といった人間としてのランク付けがなめらかに生じる。人々に潤いを与え、なごやかにし、ネズミをたくさん捕った近所のどら猫より価値の低い、本当に猫にも劣る(しかもそのおとり具合を数値的に示されてしまう)人間がたくさん生じる。

そしてそれにより実現する社会全体は、いまの状況と比べれば、それは全体主義に近くなる。いや、ぼくたちの知っているような、なまやさしい全体主義ではすまないかもしれない。冒頭で、本書のいう「なめらかな社会」を諸星大二郎の『生物都市』と対比させた。あらゆる生物、いや無生物までが巨大な集合生命体に吸収されて一体となる。その世界は、本当に鈴木が本書で目指そうとする社会の究極の姿だ。だが生物都市は世界の破滅でもあったことは思い出そう。それはまさに、究極の全体主義でもある。

なめらかな社会=全体主義の『生物都市』

むろんこれは意地の悪い言い方だ。生物都市に吸収されて個をなくした究極の全体主義社会の人々は、それを幸福なユートピアと感じたようだし、三百年先の本書の読者たちも万物となめらかに接続される鈴木のビジョンに陶酔するのかもしれない。が、この三百年遅れた未開の読者は、そうした社会像の前にたじろぐ。そしてここまで精緻な制度構築のできる著者が、実験とは言え社会の背後にある価値観や前提を無視し、一見粗雑さに見えるものが保存していた社会的な価値をまったく顧みることなく、きわめて単純な理念だけを乱暴に適用した社会システムを構想してしまったことに、評者は驚きをおぼえる*3

だが、その乱暴さが本書の最大の魅力を生んでいるのも事実。著者の理念にあっさり賛成できる未来の人々は、すなおに本書の仕組みに感動し、その精緻なシステムの理論的な完成度とそれがもたらすはずの未来に思いをはせることだろう。一方、賛成できない評者のような古い人物は、その精緻なシステムがむしろ現代社会や制度の背後にある多くの想定や価値観をあらわにしてくれることに驚かされる。本書はネットのもたらす希望と恐ろしさという両面を示すものでもある。そしていずれの場合にも本書はいまの社会の細やかな成り立ちについて、いままでまったく考えもしなかったような方向からあらゆる読者に見直しを迫るのだ。

社会のルールと合理性

 そうした社会の背後にある細やかな仕組みを、別の形で明らかにするのがヒース『ルールに従う』だ。こちらが扱うのはもう少し抽象的な社会規範や道徳、そしてそれと関連した合理性だ。進化は合理性に基づいて実施されるから、その集大成たる人間も本来は合理的で、社会における規範や道徳も合理的な計算から生じているのだ、という考え方が近年では力を持っている。だが本書は、それが必ずしも正しくないことを指摘する。

人の合理性は、他の動物と比べてもずばぬけて高い。これは進化だけでは説明できないし、いちいち何が合理的か判断するのも大変すぎる。一方、人間の行動もそんなに合理的ではない。一方でぼくたちは太るとわかっているのに夜食をしてしまい、後で苦労するとわかっているのについつい仕事を先送りする。むしろ人は、無意識のうちにルールに従おうとする付和雷同性が特徴だ、と本書は述べる。そして人間は、文化という形で行動ルールを構築するにあたり、それにしたがえば合理性を貫徹できるようなものを構築しようとしてきた。そうしたルールとしての道徳を守ろうとする同調性があり、それに判断を任せられるからこそ、人間はおおむね合理的に行動できている!

そしてだからこそ、道徳は単純なルールをいくつか理解すれば自然に導出できるようなものにはなっていない。道徳が必要とされる場面は毎回ちがうのに、人は新しい場面でもある程度一貫性を持った道徳的行動ができる。それは道徳、ひいては文化というのが言語と同じで、複雑な構造を持って習得される必要がある一方で、毎回新しいルールを生み出せるようになっているからなのだ、と本書は主張する。哲学や進化生物学、経済学や脳科学まで動員して、一般的な発想に真っ向から挑戦する議論を繊細に積み上げる様子は実に刺戟的だ。

ただし……とんでもなく難しい(そして分厚い)本なので手を出すならお覚悟を。巻末の訳者解説と要約がなければ、評者を含む多くの読者は本書の相当部分が何を言わんとしているのかさえ理解不能だっただろう。この有意義な著作理解へのハードルを格段に下げてくれた訳者には大感謝だ。

社会の背後にある仕組みの理解へ

そしてぼくは、このヒースの本が鈴木のある意味で乱暴な主張をたしなめるものとなっているように思うがどうだろうか。いまある社会の仕組みや制度に対し、非常に単純な理念から大なたをふるうことはどこまで妥当だろうか。いやそもそも、社会とはそうした単純な理念だけで描きだせるものなのか? それともむしろ逆に、制度改変を通じた社会のルールひきなおしにより、人々の合理性も含めた志向性の見直しまで射程に入るものとしてこの二冊を共闘関係にあると見なすべきなのか。どのような形でこの両者を対決/協力させ、さらに発展させるかは、読者に与えられた大きな宿題となる。

なお……個人的な話ながら、今回の二冊はいずれも、数年前に朝日新聞の書評委員会でいっしょだった青木昌彦の影響下にある。まったく別の関心で手に取ったつもりが、裏で同じ人物が糸を引いていたのには驚いたし、なんだか手のひらの上で踊らされているようでちょっと(いやかなり)悔しい気がする。だが案外、青木昌彦の構想の中では、この両者をうまくまとめるようなアイデアができているのかもしれない。今後、その周辺から何が出てくるか、楽しみではある。*4



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.

*1:無視したくない人のために書いておくと、本書の数式なんて恐るるに足らず。取引の部分はしょせんは巨大な産業連関表。産業分類のかわりに個人が入っているだけ。取引が行われるとその相互のセルの間でやりとりが発生し、それが産業連関表みたいなものを経由して、経済全体の個人に割り振られる。仕事で産業連関表分析したり経済波及効果分析やったりしたことのある人なら一瞬で見切れる。著者はそれが内的整合性を持つことを証明していて、お疲れ様。でもそれはレオンチェフが1930年代にやってるし、産連表がそれなりに成立していることを特に疑問視しない人(つまりほとんどの人)にとってはあまり意義はないんじゃないか。

*2:ちなみに、彼の仕組みを具体的な場面に当てはめて考えるといろいろおもしろい。たとえば原発を建設することを考えよう。その用地を売った人々は、当然ながら原発からの電力がいろんな人にもたらす便益や、人が電気を使いつつ作った価値の分け前にあずかれることになる。すると、開発利益の還元というような話は自動的に処理されることになるので、いまある用地買収の問題は大幅に改善されるんじゃないか。これはかなりありがたそうだ。
 が……その原発が事故を起こして、電力会社が賠償金をいっぱい支払うことになったら? それはその用地を売った人々も負担しないの? どうも鈴木の仕組みだと、マイナスの価値の流れは起きないらしいんだよね。(付記:これはちがったかな? ただ個人の価値というのがマイナスになることはない。つまりダウンサイドはキャップがかかっているのは事実)するとその元地主たちは、恩恵ばかり一方的にもらう。アップサイドのみ享受して、ダウンサイドには(限定的にしか)関与しないわけ? いまの古いファイナンスや金融や開発を知っている古代人からすると、こういう仕組みというのは乱開発とバブルの温床になるんだけど……マイナスの価値伝搬を制限すると、ゼロのところになめらかでない価値推移が生まれて、当初の狙いであったなめらかさを阻害してしまうんじゃないか? 詐欺師が、価値が高いかのような幻想をふりまきつつ、あるときそのすべてがインチキだとばれたらどうなるんだろう。さらに、マイナスの価値が制限されるなら、そうした大きな事故や価値低下が起きたとき、どこかにそのマイナスの価値が吹きだまりのようにたまってしまうことになるように思う。それを償却する仕組みとかは……鈴木の仕組みだと、企業は個人の寄り合いでしかない。原発企業が大量の賠償責任を負ったら、その企業に属する人々の価値はすべてゼロになって……それだけ? 差額は出てこないから被害者は泣き寝入り? ここらへん、まだまだよくわからない。
 また、この仕組みだと融資ってどうなるのか、というのも非常に頭の痛い問題になりそう。銀行は預金者のお金を集めてそれを貸し出す。するとたまたまその預金者の一人がいきなりとんでもなく成功してしまった場合、借り手の融資残高は突然高騰するってこと? うっかり若き日のビルゲイツが口座を持っている銀行から融資を受けた人は、ある日気がつくといきなり債務超過になってるわけか? いやまて、この仕組みだと融資というものは存在せず、すべて出資になるのかな? イスラム金融的な仕組みを考えると何とかなるかな。でもその場合でもこのシステムだと、信用創造みたいなのは……


*3: 本書をネット上で書評している多くの人々が、そうした点にまったく無頓着で、鈴木のビジョンと仕組みを単に讃えるばかりであることに、ぼくは驚きはしなかったが失望はさせられた。本書をほめている内田樹やそのシンパ筋は、現代社会批判のようなものを出しつつつながりとかやさしさとかふれあいとかいうと、すぐに籠絡されてお花畑状態になってしまう。でもぼくは、その人々が実際にそうした「ふれあい」に耐えられるほどの強靱さを持っているとは思わない。また佐々木俊尚の表層的な書評も、この Honz の販促文も、あまり中味を見ないで、新しいとされる(でも実はかつての農村共同体でしかない)社会像の中身よりは、その文学的な処理や数学的な処理にばかり反応している。この人々は本書で提案されている仕組みをちゃんと読んで、その含意を理解し、それを多少なりとも具体例に則して考えて見たんだろうか。明らかにやっていないと思う。そうした読者にまつり上げられてばかりいるのは、たぶんこの本の――そしてその著者の――不幸だとは思う。唯一、子飼弾は、ぼくがここで書いたような話を直感的に感じ取っているようだ。ぼくはこれで彼を少し見直した。でもそれをあまり説得力のある文章にできていないのが残念。

*4:細野「モナ男」豪氏が、鈴木「なめらかな社会」をほめつつも、ここで指摘したような可能性について直感的に理解しているのを見つけた日銀総裁がらみで完全に見捨てていたけれど、頭は悪くないんだね。ちょっと感心。民主党の看板にされて尻ぬぐいをさせられたりしていなければ、もっともっと活躍できたかもしれないのにもったいない。あと、気は進まないがぼくはフェアなので、池田ノビーがここに書いたこととすこーし関係しそうなことを述べていることは一応書いておく。中心的な資本主義の考え方はほとんど賛成できないけど。そしてそれ以前に、わからないなら無理してレビューせず、だまってたほうがいいんじゃないか?