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グリック『インフォメーション』:意味を求める人間と、自走する情報のちょっと悲しい別れ

インフォメーション―情報技術の人類史

インフォメーション―情報技術の人類史


人は常に情報に支配されてきた。遺伝子に刻まれた情報がぼくたちのあり方を規定し、情報の扱いが生存を決め、文明の興亡をもたらす。だからこそ情報の蓄積、形式化、伝達は急激に発展し続け、情報の量も増大を続ける。そしてエントロピーという概念を通じて情報は物理世界と接続され、この宇宙すべても実は壮大な情報の渦にすぎないという情報宇宙論にまで至る――
これがこの長大な『インフォメーション』の全体像だ。もちろんその大部分は、コンピュータやインターネット、そしてその背後に流れる情報理論の進展となる。だが優れた科学ライターであるグリックは、鈍重な年表ではすませなかった。事例の詳細な説明で描きだされるのは、情報という現象の質的な変化だ。その本質は、形式化、機械化、自動化の流れとなる。なかでも本書の手柄はその過程で生じた、「意味」の喪失を指摘したことにある。媒体、情報、意味は不可分だったのに、やがて情報は媒体(本や文字)を離れ、意味は情報量で置き換えられる。それはもう人間を必要としない。いまや情報は自律的に増殖し、人間はそのお守り役でしかない。「情報史」はそこで人類とは決別するのだ。
だが、と最後に本書は問う。意味と切り離された「情報」とは何なのだろう。その情報洪水の中で必死にそのおこぼれのような意味を探す人類とは結局何なのだろう。壮大な構想とは裏腹に、本書はちょっと悲しげだ。情報の主人のつもりで書き始めたのに、気がつくと己が情報の従属物だった衝撃、それでも「意味」にすがり情報に遣えざるを得ないという悲哀。そしてそれを伝えるためにさえ、大量の情報に付随する薄氷のような「意味」に頼らざるを得ない――その皮肉への自覚が、本書を単なる技術史以上のものとしている。そしてそれは、本書を読む読者――そして評するぼく――が、嫌がうえにもつきつけられる皮肉でもあるのだ。(2013/03/31掲載、朝日新聞サイト)

コメント

インフォメーションというと、「プリズナーno.6」の冒頭のシーンで「information! information!」といって迫ってくる白い風船がつい思い浮かぶ(以下のビデオで、2:15 あたりから)。あんまり関係ないけど。で、本書の原題は「Information」でなく「The Information」なんだよね。情報それ自体、というのを強調してある。そこはやはり、グリックの慧眼だろう。分厚い本だし、いろいろ書かれてはいて、ぼくはバベッジというのがあんな人物だというのは知らなかった。あとシャノンについて詳しいのがいい。シャノンは逆ナンされて結婚したんですねー(その後離婚したけど)。でもかれこそ、意味とは離れた「情報量」という概念を考案し、情報と人間との決別を決定的にした人物だ、というのがグリックの発想となる。

情報の歴史というと、松岡正剛のやつがあって、鈍重な年表というのはそれのこと。情報量は、松岡版の方が(判型もでかいし)多いけれど、単なる羅列。意味量でみると、このグリックのほうが圧倒的、という感じかしら。最後に、人間というのが無限のバベルの図書館に投げ込まれ、意味が少しでも得られないかと探し続ける存在なのだ、というあたりのイメージは実に悲しくて好き。それはレムが「ゴーレム」で描いた、人間を離れた知性と情報の世界でもある。

最後なので、他の本にもっといろいろつなげたかったところ。「チューリングの大聖堂」もつなげられると思うし、原さんがつまらない書評を書いた「機械との競争」についても少し――とかいろいろ思ったが800字(実際は760字なのよ)では限界。まあこれについてはCakes連載でも書いたし、またここでも独立に書くこともあるでしょう。



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