エゴサーチ: 富岡日記とSF業界の後編


承前

で、2014年5月に『富岡日記』関連の話題以外で、もう一つ山形が話題にのぼっている話が……大森望が日本 SF 作家協会に入れなかった話。その原因は、巽孝之小谷真理大森望にずっと私怨を抱いているから、ということなんだが、それをさらに悪化させたのは、山形が聞きかじってきて裁判のタネにもなった小谷揶揄の替え歌にあって、何やらその替え歌に大森が関与していたという邪推があるとかないとか。

『オルタカルチャー日本版』の「真相」


まずはっきり言えることは、その替え歌をぼくに教えてくれたのは、大森望ではなかったこと。具体的にだれかは覚えていないし、なんだか裁判のときにもやたらにしつこく訊かれたので、いっしょうけんめい記憶を探ったんだけれど。でも大森ではなかった。
その現場となった宴会には大森望もきていたとのことだけれど、これすら今となってははっきり記憶にない。宴会自体も一時間もいなかったはず。当時はクルーグマンフリーソフトがらみの話でいろいろお座敷はかかったうえ、仕事も忙しかったし、むさい野郎ばかりのSFファンの宴会にそうそう長居はしなかったはずだし(確かその時も、次に何かイベントがあったような記憶がある)、ましてその中で、どのむさい野郎が歌を歌ったかなんて覚えてないよ。替え歌自体も主観的には、大森のスタイルとはちがうような気がする。
ついでに、それは別にその宴会で考案されたものでもなかった。その場で「こんな歌があるんですよー」とスラスラ歌って聞かされたものだ。だからその時点ではすでに、その筋の人々の間にはかなり広まっていたと解釈すべきだろう。そしてその成立に大森が関与しているという説は、ぼくの知る範囲では特に根拠はない。

この件について、調査を行った瀬名秀明は、2013 年末に SF 作家クラブの会長を辞任するにあたっての文で、こう書いている。

以上の(引用者注:大森望の入会拒否の事情をめぐる聞き取り調査での)B氏(引用者注:小谷真理)とのやりとりは、しかし収穫もあった。B氏は「大森氏に、私はまだこんなに怒っているんだ!」と伝わってほっとしたと私に感謝の意を述べていたし、異議申し立て文の全文を会員に公開する必要はないもののB氏がテクハラ裁判の件に関わる真相を知りたがっており、そのわだかまりがずっと残っているという点を多くの人に知ってもらいたいと考えている点では私も共感し、理解したからである。(『2013年の終わりに際して(その2)』)


「真相」が知りたいのであれば、全貌はいま書いた通り。『オルタカルチャー日本版』の話はぼくの知る限り大森望と結びつける材料はないし、それが原因でSF作家連盟に入れなかったのであれば、それはとんだとばっちりであって、いい迷惑だろう。ぼくも大森望とありもしない関係を邪推されて、たいへん迷惑。そういうことだ。


でもこれは、裁判で(いやたぶんそれ以前から)とっくにわかっていたことだ。そしてこれ以上のことが今さらわかるはずもないことは、当然理解できるはず。大森が関与しているという状況証拠として最大のものが「山形と同じ宴会にいた」というだけではねえ。

だから「真相を知りたがって」というとき、それは本当の事実関係を知りたいという意味ではなさそうだ。当人が思いこんでいるストーリーを何とかして裏付けたいということのようだ。そうでなければ、大森が関与したなんてことがまったく示されていないのに「『大森氏に、私はまだこんなに怒っているんだ!』と伝わってほっとした」なんて話になるわけがないもの。瀬名秀明の調査によれば、小谷真理が大森憎しと思うようになったのは、当人の証言では友成純一に吹き込まれたからだ、と当人が証言したそうだが(友成は否定)、それについての確認調査については言葉を濁したという。小谷もだれに聞いたかは自信がなかったんじゃないだろうか。でも、だれかに一言言われただけでそうした示唆を受け入れるような下地は確実にあったようだ。それがどんなものかは知るよしもない。いつか当人が語ることもあるかもしれないし、もちろん余人の知らない別の経緯があったのかもしれない。


おしまい。

「ある文章」とその背景憶測


が……こんなものを読んでいるゴシップ乞食の卑しい読者だって、このくらいはすでにだいたいわかっているはず。たぶん、みんなが興味あるのは、なぜ小谷が自分の考えているストーリーをそれほどまでに確信しているのか、ということだろう。この点について瀬名秀明曰く:

私の印象では、A氏(訳者注:巽孝之)はかつてある文章によって大森氏にプライドを傷つけられたと強く感じ、大森氏を嫌うようになった。時が経ってもその態度を覆すことは、後のご自身のプライドが許さなかった、ということだと思っている。(『2013年の終わりに際して(その2)』)


なぜ巽孝之のプライド話が、小谷の確信につながるのか、という点についてはコメントしない(この点については五分でわかる日本SF作家クラブと大森望の20年間も少し首を傾げているし、高野史緒も違和感を示している)。が、こう書かれると、もちろんその「ある文章」なるものがとんでもない代物にちがいないと思うのは人情だ。そんなにすごい恨みを抱かれるなんて、それはどんなすさまじい文章だったんだろうか?


それがねえ……


みんなここで、すごい曝露話を期待していると思う。でも実際にあったのは、実にわけがわからない話だ。1980年代半ばか末に、巽が大森に激怒している、という話は確かにSFファン業界で広まった。その理由は? だれかが留学したとき、大森がどこかのファンジンで「巽孝之にならないといいね」とかなんとか書いたから。たったその一言。

本当にこれだけだったかは不明。また本当に巽がこれで激怒したのかも不明。ただそれがゴシップとして流通できたということは、そこにゴシップを流通させる人々にとって、腑に落ちる何かがあったということだ。多くの人にとって、ここには当時のSFファンダムの状況をあらわす何かがあった。

で、その「何か」とは?

ぼくはこれが、SFをめぐるアカデミズム至上主義的な方向性と、もっとお気楽な従来型ファンダムとの対立だと考えている。いや、対立というのは必ずしも正しくない。むしろアカデミズム至上主義の一方的な思い上がりと、それに対する気楽なファンダムのおもしろ半分の突っ込み、というべきだろう。もちろん話が変にこじれているのは、関係者の資質が大きく貢献しているけれど、根底にあるのはそれだと思うのだ。

サイバーパンクニューアカ、バブル景気:SFアカデミズムをめぐる環境


もう少し言うと、1980年代に巽孝之脱構築的な方法論をとりいれてSF評論を学問的にも立派なものにしようとした時期があった。そこにサイバーパンク流行(そこではスターリングなどが評論活動と創作との共闘を戦略的に打ち出していた)、ニューアカデミズム流行、さらにバブル景気があった。これで専門的なSF評論活動が、小難しい現代思想っぽい側面を持つが故に、アカデミック性を保ちつつ創作の従属物ではない独自の地位を確立し、それがさらに商業性とヘタをするとファッション性すら持つかも、という期待が生まれたのだ。

一方、既存SFファンダムはそれを歓迎しつつ、疑問視する声もあった。その疑問視はときに偏狭ながらも、一部は後のポモ批判に通じるもので、完全に的外れでもなかった。でもSFアカデミズム評論的な志向はそれを見て、自分たちのせっかくの努力が否定されていると思って苛立ったし、その苛立ちの中から、むしろ既存の幼稚なファンダムを、言論的に(そしておそらく商業的にも)切り捨てることこそSF業界の未来を拓くのだという主張すら生まれた。そして、それが可能かもしれないという見通しも、前段で述べたようなことから一時的には存在していたわけだ。


こうした強硬な見方については、ダルコ・スーヴィン『SFの変容』(大橋洋一訳、1991)の訳者あとがきなんかにうかがえる(本稿末尾補遺参照)。もちろん、これに対して既存SFファンダムは、疑問の声をさらに高めつつ、一方でネタにもした。それをアカデミズムに対する侮辱と感じた生真面目な人もいただろう。だからこそ、巽孝之は「巽孝之にならないといいね」のひと言に大きく反応したんじゃないか。それが自分(とそのSFの未来を拓く動きすべて)を否定し、バカにするものと思ったからなんじゃないか。

ぼくは今回の一件の根底にあるのは、こんな経緯だと思っている。むろん、当時の各人の実際の心中は(おそらく当人たち自身すら)今さら確認しようもないのだけれど。

……そして今に到る


もちろん、その後SF評論が関係者の思惑通りにポピュラリティを獲得していれば、大森ごときの軽口など笑って受け流す心の余裕も生まれたかもしれない。が……その後サイバーパンクは続かなかった。ニューアカも廃れ、ソーカル事件でとどめを指されたし、脱構築批評も今や世間的な評価はあまり高くないんじゃないか。(ポール・クルーグマン『経済政策を売り歩く人々』原著1994、邦訳ちくま学芸文庫版 p.87 などを参照)

そしてむろんバブル景気は衰退した。SFにおいてアカデミックな耽溺が高踏文化と戯れつつ、同時にそれがファッション性と商業性と社会性を確保できるのだという希望は崩れ……今に到る。むろん、アカデミックなアプローチはいまでもあったほうがいいし、また有益な成果を挙げている場面もある。でもかつてほどの強気は無理だ。でもかつての自分たちの言い過ぎを引っ込めるのは沽券に関わるので、引っ込みがつかなくなっている面もあるのかもしれない。ここらへんは、もう完全に憶測になるけれど。


それにしても……これを書く際に古いファンジンの論争をいくつか見直したけれど(ちなみにいずれも重要なのに、日本SFの論争史の本には一切出てこない)その内容についての評価はどうあれ、どちらの側もSFを愛し、SFファンとして、それをもっとよくしたいという熱意は疑いようがない。あの当事者たちが、いまの状況を見たら確実に軽蔑したことだろう。そしてそれこそがSF業界の最悪の部分だと即座に断じたはずなのに。これを書きながらぼくはつい遠い目をしてしまったことであるよ。そして多くの人は、遠慮して言わないけれど、まさにそういう気持ちで今回の一件を眺めているはず。いつか、このよじれた状況が多少は改善するといいのだけれど……としおらしく書いてはみたが、もはや本気では期待していない自分がいるのは、ちょっと寂しい気もする。


補遺:スーヴィン『SFの変容』(大橋洋一訳、1991)の訳者あとがき

SFの変容―ある文学ジャンルの詩学と歴史

SFの変容―ある文学ジャンルの詩学と歴史

ダルコ・スーヴィン『SFの変容』(大橋洋一訳、1991)の訳者あとがきで、大森望が突然、藪から棒に罵倒されている部分:

*ある日、わたしは突然、一瞬べつの時間流へと紛れこんだかのような舷惑を経験した。書店の店頭にパリントン・ベイリーの『時間衝突』(大森望訳、創元推理文庫)が今年度(199O年)「星雲賞」受賞の帯をつけて高く積まれていたからである。1973 年に出版された原書の翻訳がいま賞を受賞するのも珍しいが、ただ、いかにもイギリスの作家にふさわしい政治的なこのSF小説が高く評価されたということは、SFの評価をめぐる新しい展開を予感させる時間線を確実に開いている。これから多民族国家へと移行せざるをえない状況をにらみつつ、あらたなナショナリズムの不吉な台頭の兆しをみせる日本の〈いま〉において、たとえベイリーのSFは、そのユートピア的解決が想像的というにふさわしい妥協の産物ではあっても、人種差別と全体主義の恐怖を語っていて、いまのわたしたちには、きわめてアクチュアルな衝撃力をもっている(破滅の道を突き進む狂気の右翼的全体主義的人種差別主義者を描くこの小説のエートスは、同時期に書かれたル・グィンの『世界の合言葉は森』と通底している---ル・グィンのこのSFはその牧歌的なタイトルとは裏腹に恐るべき政治小説である)。けれども『時間衝突』の文庫本のあとがきには、時間問題のアイディアの卓越性を賞賛する多幸症の文章がつづき、そのあげく「SFであることが最重要課題であって、現実の社会問題はSFに奉仕しているのである。まさにサイエンス・フィクションの鑑といえよう」という、二十世紀初頭のロシア・フォルマリスト顔負けの陳腐な主張があらわれる。歴史特殊牲の抑圧が、いかに悪辣な政治学と連動するかを、ここで説いてもはじまらないが、これがフォルマリズムにアナクロニスティックに毒された現在の日本のSF批評的ディスクールの「鑑」であることはまちがいないだろう。たとえばカミュの『異邦人』をかつての批評は不条理としてのみ回収し、ナチス・ドイツの占領下で出版されたこの作品が、偶然の犠牲者としてアラブ人を、選択しているという政治的無意識を見ようとしなかった。この種の非政治的なるがゆえの政治性だけは、SFの批評的ディスクールはおびるべきではない。それはSFジャンルの特質と伝統への侮蔑以外のなにものでもないのだから。

 

いま凱歌をあげているのは、SFに文学性、科学性、対抗文化性等、多くを望みながら、政治性だけは望まない批評的ディスクールだが、逆にいえば、そうしたディスクールはそれゆえに、ある意味でどのようなディスクールにもましてSFの危険な潜在的可能性を知悉しているともいえよう。処理不可能な放射性廃棄物を日々生産し、石油資源の粘渇化にもっとも貢献し、二酸化炭素問題によって原子力発電の危険を隠蔽しようとする原子力産業。環境問題を世界管理の手段とする大国群。放射能汚染された食物の無規制の氾濫。農薬化学薬品に汚染された食料を強制給餌させる世界規模の食料産業。それと軌を一にする世界の飢餓人口の増加。地球の.温暖化をはじめとする気候異変(いまこれを書いているとき、東京では十一月だというのに雷雨になり、台風も上陸した)。フロンガスによるオゾン層破壊。人口過剰問題、難民・移民問題天文学的額の第三世界の負債。株式市場の崩壊。情報社会という名の情報管理。中東湾岸危機……。東欧の社会主義国の崩壊を、資本主義の勝利として祝福する多幸症の支援を得て、たとえば極東のアーキベラーゴに住む、経済以外には軍国主義だけが売り物の民族の国では、自国民すらも心身ともに完全に歪曲化する破滅への道の地ならしが進行している現在、こうした状況をアクチュアルにそしてまた全体化して捉え、そのうえヴィジョンをも示せるジャンルは、おそらくSFしかない。その資格証明を回顧しつつ確認すること。いまの日付けにおいて、本書が読まれるべき意味はまさに、これではないだろうか。

いまひとつの日付け---おそらくそれは、確実にもうすぐ破滅する地球の不確定の未来の一日だろう。ポスト・アポカリプスのある日、現在の文明が崩壊したあとのミュータント化した新人類か、あるいは人類ならざるなにかが、砂漠化した地表に、あるいはガラス化した地表に、埋もれた図書館への入口を見いだすかもしれない。彼、または彼女、またはそれは、その場所で塵介寸前の、分子化する一歩手前の本書を発見するかもしれない。そして知ることだろう---二十一世紀をまたずして崩壊への後戻りできない過程を辿りはじめた旧文明が、その全歴史をとおして、破滅へと自覚のないままひた走ったわけではないこと、それに歯止めをかけようとした伝統が厳然としてあったこと、この霊長類がすべて多幸症で愚劣ではなかったことを。

大橋洋一訳者解説、スーヴィン『SFの変容』(1991) pp.476-478)



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