ハーンスタイン&マレイ『ベルカーブ:アメリカ生活における知能と階級構造』(1994)

はじめに

Bell Curve という本のことを聞いたことがある人は、それなりにいるだろう。でもその人々の90パーセント以上は、この本が遺伝決定論ごりごりで、黒人は生得的に知能が低いと述べる差別本だと思っている。なぜかというと……そう決めつける本がやたらに多いからだ。本書は発行された時点で、きわめて執拗なアンチキャンペーンにさらされてきた。変なベストセラーになったから標的にされ、標的にされたからまたベストセラーになり、というありがちなスパイラルのせいもあるんだけれど。

で、そのアンチキャンペーンにおいては、本書は黒人が生得的に知的能力の劣る劣等人種だと述べていることになっている。そしてあちこちでベルカーブ糾弾論みたいなのがわき起こった。その筆頭は、この種の政治的な歪曲と偏向議論をしばしば行うことで悪名高いスティーブン・J・グールド『人間の測りまちがい』だ。グールド的には、本書が依拠しているIQの概念そのものがまったく根拠レスであり、したがってそれに基づいている本書は全部だめ、こんなのを出すのは差別的意図があるに決まっているということ。そしてその後も、こうした議論をコピペする論者が大量に発生した(いくつか例を最後に挙げる)。

そしてそれは、インチキなジャーナリストや通俗ライターだけでなく、立派な学者までやるようになる。でも、だれもそれをきちんと指摘しない。それはまあ、仕方ない面はある。この本、全部で900ページ近く、本文だけでも570ページあるサイコロ本だからだ。気軽に読める本じゃない。だからこそ、いい加減なことを書いてもだれもそれを指摘しなかった。

が、実は本書は、黒人が劣等人種だなんて書いていない。生得的に知的能力が劣るなんてことも書いていない。そして、ちゃんと読んだ人は、それなりに評価している。たとえばスティーブン・ピンカーは『人間の本性を考える』で本書の議論や著者たちに好意的に触れている。

その一方で、本書の安易なコピペ罵倒は日本人の論者すらやるようになっている。明らかにこの人たちは本書を読んでいないんだけれど、どうせだれも読まないからと思っていい加減なことをやっている。でも、そういうのはよくない。全員がこんな本を読む必要もないけれど、少なくともレジュメくらいはもっと多くの人が読むべきだろう。そしてそういういい加減なことをやっている同僚をきちんと糾弾するのが、学問的な良心であり……なんて、日本のアカデミズムにそんなことが期待できるわけもないのはよく知ってるんだが、でも少しは本当に期待しているのに。なんでそれを、市井のぼくなんかがやらねばならないのか、謎ではあるんだが。ということで、Bell Curve というのは以下のような本なのだ。

Bell Curve 概要

はじめに

「知性」というのはいろいろ毀誉褒貶の多い概念だ、という話から、ゴールトンによるIQ検査の考案とその普及、それに対する反動でのIQ完全否定論の台頭、そしてその後のIQ復活の歴史をたどる。現在は、知能というのはある種の考え方の枠組みだとする考え方(古典派)、情報処理能力とする考え方(修正派)、多様な知性が存在するという考え方(ラディカル派)があるが、本書ではIQが一応、人間の「頭がいい」と言われるような全般的能力とそこそこ相関していることは認め、有用な指標として使う。

第一部 認知エリートの台頭

現在では知能の階層化とその固定化が進んでしまっている。

第1章 認知階級と教育 1900-1990

アメリカは多くの人々に教育の門戸を開いた。その中で、大学進学者が増え、そしてその中で大学同士の中で知的能力の格差が生じてきた。大学進学とIQとは密接に相関しているし、その度合いは高まっている。かつて大学進学者とそうでない人の平均IQの差は0.6σくらいだったけれど、それがいまや1σくらい。

第2章 認知区分と職業

職業によって、従業者の平均IQには格差がある。そして、IQの高い人が高IQ職にどんどん向かうようになっている。

第3章 認知区分をもたらす経済的圧力

頭のいい人は仕事もよくできる。その分、収入も高い。

第4章 はしごは急に、門は狭く

頭のいい人が頭のいい大学や職につき、他の頭のいい人と出会って、子どもを作り、高い収入で教育資源をそこに注ぎ、というのを繰り返すことで、頭のいい階層は大学、職業、生活、その他あらゆる面で他から区分されてしまう。ときにそれは、物理的な区分までもたらす。IQは遺伝による部分が0.4から0.8くらいまであるようだし、それもこの区分を強化する。

第二部 認知階級と社会行動

認知階級のちがいは各種の社会的な行動のちがいとも一致する。この第二部は、白人だけのデータを使うようにする。

第5章 貧困

貧困層はIQや成績も低かった人が多い。

第6章 教育

頭のいい人は就学年数も多いし中退率も低い。

第7章 失業等

頭のいい人は……もうわかるでしょ。

第8章 家族

頭のいい人は初婚年齢が遅いが離婚率も低い。婚外子も少ない。

第9章 福祉依存

頭のいい人は……ditto.

第10章 育児

頭が悪いと虐待やネグレクトも増える

第11章 犯罪

あててごらん。

第12章 市民性、市民意識

投票率や、市民性指標(なるものがあるそうな)は頭がいいやつのほうが高い。

第三部 アメリカ全体にとっての意味

ここでは白人以外も含めた全国民を扱う総合的な議論をする。

第13章 人種差と認知能力

日本人、中国人という意味でなら、アジア人は白人黒人よりも高い知能を持っているようだ。また、白人黒人で比べると、白人のほうが知能試験の成績はいい。これは社会階層をそろえた場合でも差が出る。ただしそれが環境要因なのか遺伝子なのかはわからない。諸説あってどれも一理ある。

第14章 人種間の不平等とIQの相関

第二部を見てもわかるとおり、知能の差は自己強化して階層化につながる。人種間でも明らかにそれが起こっており、黒人が低い地位に甘んじている。同じIQの人を見ると、黒人でも白人でも賃金格差はほとんどない。ちがいが出る部分もあるが、開発指数で見るとIQで補正すれば人種間の差はきわめて小さくなる。

第15章 知能の人口動態

IQが高いほうが晩婚化、少子化する。IQが高い一家のほうが子どものIQは高い。つまり比率的にIQの低いほうが増えやすいことになってしまっている。全体としてのIQをあげるような人口政策が必要。

第16章 社会行動と低知的能力

低知的能力が問題ある社会行動を引き起こすだけでなく、その逆も成り立つ。

第四部 共に生きる
第17章 認知能力を上げる

知能を上げる方法としては、食事が効きそうだし、実際栄養状態がよくなるとIQは上がるが、アメリカでこれが使えるかどうかはわからん。学校教育はもうこれまでの実績からあまり期待が持てない。就学前の幼児教育は効きそうだが大規模にやるのはかなりつらそう。知能クラスの低いこを幼少期に里子に出すというのは効くが、これも限界あり。確実な安い方法はない。

第18章 アメリカ教育の平準化

アメリカの教育をもっと平準化することは考えられる。これはゆとり教育みたいに、全体のレベルを下げて平準化するということだが、これは知的格差をなくすにはちっとも貢献していない。レベルの低い子の成績をあげるのを重視した結果、成績のいい子が放置されてのびない結果にもなっている。みんな進学するから進学にありがたみがなく、勉強したいという意欲も低い。バウチャー制みたいなので、学校の多様化を即する手は考えられる。

第19章 高等教育のアファーマティブアクション

高等教育のアファーマティブアクションは、大学への黒人ラテン系を増やすという意味では成功だが、「同点の時には黒人優先」という以上のかなりの優遇になっているため、いちばん割を食っているのはアジア系。大学としての知的なレベルも少しこのために下がっている。これがいいことかは検討が必要。

第20章 職場でのアファーマティブアクション

職場では、普通に能力性で雇うとすぐに黒人ラテン系が少ないといって訴訟沙汰になるので、みんな無理に特別枠を作っている。でもそれが決定的に格差解消に貢献してはいない。またIQで補正すると、現状では特に差別があるという状態ではない。

第21章 アメリカの行く末

現状のアメリカは、知的エリート層がだんだん先鋭化して孤立化している。その層ばかりが豊かになっている。それ以外の、特に知的底辺層は生活水準がどんどん下がる方向に向かっている。このままだと、底辺層は本当にお情けで暮らす施し階級になってしまうが、それはたぶん財政的にもつらいしみんな不幸なばかり。

第22章 みんなに居場所を

知的能力は自分ではどうすることもできない条件のために格差がある。そして知的能力で人々の生活水準は大きく変わる。これにどう対応するか? 格差がいけないというだけでは話は解決しない。まず、能力主義にはそれなりのメリットがあることは認めるべき。そのうえで、それがあまり大きな処遇の差につながらない方策を、できるところで考えよう。これは著者たちの任に余るが、思いつくものとしては:

  • 地方分権とコミュニティ重視:知能重視だと頭のいいエリートにすべての仕事が集まり、中央集権化が進む。残りの人は居場所がなくなる。これはよくない。もっと地方分権とコミュニティ重視をしよう。そこにもっと力をまわそう。これは決してそのほうが効率がいいわけでもないし、人間的な対応が可能になるわけでもない。でも多くの人が価値を感じられる地位を作ることにはなる。
  • ルールを単純に:いまは普通に暮らすことさえ知的能力が要求される。確定申告や保険や社会保障など、通常の人間には手も足もでない複雑さ。これは知的なエリートをさらに有利にする。知的能力が低くても普通に暮らせるルールや規制の単純化が必要。
  • 道徳の単純化:いまは道徳もあまりにむずかしく、知的能力が低い人はなかなか道徳を守れない。犯罪者もあの場合はいいとかこの場合はいいとか、結婚もしなくてもいいけどしたほうがいいけどでもしなくてもいいとか。婚外子は差別するなという一方で子どものために離婚するなとか、頭悪い人は理解できない。知的能力の低い人は何をしたらいいかわからず、変な解釈で犯罪に流れたり婚外子をたくさん作ったりする。

所得の再分配は必要。ただし、それが底辺層にとってやる気の出るような形で実施することが重要。また移民政策も、親族呼び寄せを野放図に認めすぎるのはアメリカの知的水準維持に役立たない。アメリカにとって何が重要かを考えるべき。

PB版へのあとがき

本書の初版が出たら、いろいろ批判がきたけれど、多くはピントはずれ。SJグールドなどは、IQがそもそも無意味といった攻撃をしてきたが、その発想は1950年代のもので、妥当性はない。また黒人と白人の平均IQや成績に差があることを指摘したこと自体が差別みたいな批判も多いが、これはあくまで事実。それを否定してもその差はなくならない。むしろ現状はきちんと見るべきでは?

補遺

統計学の基礎の基礎、ヒストグラムから平均値と標準偏差の解説、そして本書で使った各種回帰分析の細かい説明。本書でヒストグラムの何たるかを勉強した人がいるとは思えないが、それでもきちんとそれを説明しておくのは立派。

山形の感想

というわけで、Bell Curve とはこんな本なのです。第二部はほとんどの章が要約一行だけれど、本書が分厚いのはそれを念入りにデータで裏付けているから。だから、読んでいて楽しい本ではない。くどくてうんざりすると思う。ぼくみたいにまともに通読したバカが何人いることやら。たぶん細かいデータ上のまちがいとか、別の見方は指摘できると思う。でも概ね言われていることは事実だし、人種間の社会的処遇の差があることは、人種格差を嘆く人もしばしば持ち出す話だ。

本書の独自性というのは、そこに知能というのを持ち込んだせいだといえる。これまでの人種格差議論は次の二つ。

  1. 社会的な処遇や地位に人種差がある→人種間の能力差はない→よって処遇差はすべて差別!
  2. 社会的な処遇に人種差あり→その背後には能力差がある→その能力差は環境要因で生まれてきた→その環境をなんとかすべき!

本書はこの二番目の「能力差」を知能だと述べ、その差の出所については環境だけとは断言せず遺伝要因もあるかもしれないと言っただけ。ぼくはこれ自体は特に問題ある議論だとは思わない。そして何より、黒人は生まれつきバカだとか言っているわけではない。各種の社会的な差は知的能力(つまりは学業成績)で生じていると言っている。高学歴のほうが高収入だ、というのと同じ議論。

もちろん本書が、アメリカ保守派にとって都合のいい議論になっている部分は多々あることはすぐわかる。最後の提案でも、単純な道徳というのは保守派の好きな昔ながらの道徳観というに等しい。アファーマティブアクションの効果についても疑問視する。でも所得再分配は(やり方次第だが)否定しないし、また知的エリートを野放図に容認する議論でもなく、それがよくないことは十分に指摘する。

正直いって多くの人は本書を十分読まずに、「黒人が頭悪いと言われてる!! 差別だ!」と反応しただけなんだよね。でも実際、就学率とか中退率とか見ても、各種成績を見ても、分布に差があるのは事実。それ自体は否定しようがない。そして、格差をなくすやり方として、格差そのものをなくす方策もさることながら、格差があっても別にかまわない、あるいはそれが障害にならない、知的バリヤーフリー社会にしようという発想は、ぼくはなかなかいいと思うんだが。

いずれにしても、多くの人が言っているような本書への罵倒は、まったく不当だと思う。主張を気に食わないと思うのは自由だけれど、差別だといって圧殺するようなやりかたをしていい本ではない。話があまりにアメリカすぎて、日本で訳されることはないと思うけれど、まあそれを残念とは思わない。が、知能と社会的階層化と教育、といった問題に関心があれば、目を通して損はない本だと思うんだが。

Bell Curve を不当に、または読まずにバッシングした本のサンプル

ティーブン・J・グールド『人間の測りまちがい』

知能指数なんてインチキだから Bell Curve もすべてインチキ、差別本ときめつけた元祖みたいな本。グールドの政治的な偏向性と、目的のためには手段を選ばない(そうでなければ理解力のない)汚いやり方については、本書のアマゾンレビューでも苦言が出ているし、またピンカー『人間の本性を考える』でも大量に指摘されている。

長谷川他『進化と人間行動』

進化と人間行動についてのしっかりした教科書的入門書だけれど、ここでも進化論が誤用された例として Bell Curve の話が伝聞的にだが触れられている。遺伝や進化の誤用の例ならもっと明確なものがあるはずなのに。その次の部分では、竹内久美子批判を明らかにしているのに、竹内久美子の名前は出さないという「配慮」をしているけれど、Bell Curve は突っ込まれないと思ったのかわざわざ名前を挙げている。

若原『黒人はなぜ足が速いのか』

「黒人差別のバイブル『ベル曲線』」なる節をわざわざ設け、「白人がいかに優秀であるか、逆に黒人はいかに劣等であるか、白人と黒人はいかにちがうかを、頭蓋や大脳の大きさ、IQ犯罪率など膨大なデータを駆使し、一見科学的な装いのもとで展開している」(pp.154-5)とのこと。頭蓋や大脳の大きさなんか出てきません。明らかに読んでいない。それ以外の部分が決して悪くないだけに残念だし、文脈的にも Bell Curve を持ち出す理由なんかまったくないのに、唐突に出てくる。不思議。それだけになおさら残念。

Cavalli-Sforza The Great Human Diasporas

詳細はこちらを参照。世界人類の遺伝子分析に基づく移動を解説した本当にいい本なんだけど、最後に突然 Bell Curve 批判が出てきて、黒人に教育とかしても無駄だから福祉とかをやめちまえ、という本だと言うことになっている。とても残念。この本がとくにネトウヨのいんちきな嫌韓デマに使われることが多いので、なおさら残念。

シェンク『天才を考察する』

詳細はこちらを参照。黒人の成績が悪いのはすべて遺伝のせいだと主張する本だと思って、遺伝決定論の権化のように言いつのっている。これもいい本なのに。天才は遺伝より後天的な努力が重要という本。

ニスベット『頭のでき』

この本は、最近遺伝派の声が大きくなってきたのに対して、いやちがうよ、大事なのは環境だよ、遺伝なんか大したことないよ、というのを主張する本。遺伝があっても環境がきちんとしないとダメだよ、ということで、遺伝の貢献度をとにかく低く見せようとする。遺伝と環境が相互作用をすることで知能が発達するのは事実で、遺伝だけで決まる、といった誤解は解く必要はあるけれど、この本はしばしばそれをやろうとしすぎて、わら人形論法に陥っているように思う。決して悪い本ではないんだけれど。

この本も Bell Curve 批判が含まれているんだが、上の趣旨から、Bell Curveの中で、知能には遺伝による部分もあると言われている、という他人の研究の紹介部分(それも上で説明した主要な論旨には重要な点ではない)に対し、やたらにつっこみを入れている。遺伝による決定部分が6割という研究の紹介に対して、いやそんなことはない、他の解釈もある、別の研究では遺伝の貢献度がもっと低いと出ていると延々述べたあとで、Bell Curve はこのように遺伝決定論で差別的だ、と批判しておしまい。わら人形論法の重箱の隅つつきと言われてもしかたないと思う。





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