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牧真司他編著『サンリオSF文庫総解説』:落ち穂拾いなど

書評

サンリオSF文庫総解説

サンリオSF文庫総解説

全体的な感想

しばらく前に寄稿した本が出ました。すばらしい。サンリオSF文庫はぼくの十代の想い出とも重なっていて、なかなかノスタルジックないい本になってるんじゃないか。今まできちんとやられていなかった、山野浩一のインタビューも、歴史的に重要だしまったく意外な話はなかったものの、当時の事情が非常によくわかる。出版からサンリオが退却したのは、上場のためだったんですねー。そして、サンリオにラテンアメリカ文学が入ったのは、大瀧啓祐が木村栄一をサンリオに紹介したおかげだ、というのも驚き。

出た本すべての解説が出ていて、書き手によって好みはあるけれど、どれもいい感じ。『V』とか『マイクロノーツ』とか、だれも当時ほとんど顧みなかった、忘れられたかわいそうな作品もちゃんとカバーしていて、今さらながらに読んであげればよかった、という気になる。失礼ながら非常に驚いたのが、池沢春菜のディレーニ『時は準宝石の螺旋のように』の解説。客寄せパンダ以上の位置づけだと思っていなかったのだけれど、非常にまっとうだし歴史的位置づけも抑え、まったく危なげない。お見それいたしました。

で、解説に加えてぼくも思い出話を寄稿しているのだけれど、その最後の部分でちょろっと触れながら書き切れなかった小ネタ。

うちの母親の翻訳:その経緯

『ベスト・オブ・P.K・ディックIII』だったと思うけれど、「妖精の王」という短編が収録されていて、その訳者は山形叶子なる人物。実はこれは、ぼくの母親だ(というのがこの本にも書かれている)。

当時、母は小遣い稼ぎで、アスキーの翻訳者募集に応募して何冊か訳をしていたのだった。ぼくが毎号買っていた『アスキー』に、翻訳者募集の公告が出ていたので、「こんなのあるから応募しようかなー」と言ったら、母親のほうが先に応募してしまったのだった。で、その後それに気をよくして、サンリオでも何やら翻訳者募集しているらしいというのを聞いて、それに応募したんだと思う。

といっても、最初はSF文庫ではなかった。サンリオ出版部門のドル箱だった、シルエットロマンスの翻訳(正確には、そのちょっとアダルト版であるシルエットデザイア)で小遣い稼ぎをしていた。あれは変わったシステムになっていて、原著を渡されて翻訳するんだけれど、その仕上がりは原稿用紙(200字のやつだったかな)250枚におさめなくてはいけない。それを超えるようなら、訳者が勝手に原文を改ざんしていい。というかしなければならない。それで、買い取りで50万円だっけ。なんかそんなもの。

確かSF文庫の訳者の多くも、これで小遣い稼ぎをして食いつないでるんですよー、というような話も聞いた記憶がある。収益部門と、それによる非採算部門のクロスサブシディ構造だったわけですな。実際に収支を見たわけじゃないけど。母は食うに困る身分ではなかったので、シルエットの中でも分厚いシリーズとか、テストマーケティング用の作品とかもまわってきた。結構凝ったのもあっておもしろかったんだけどね。その後、シルエットロマンスがハーレクインに買収されて、出版部門の収益性低下はそのせいもあったんじゃなかったっけ? それとも話が逆だったかな? 出版部門整理が先に決まって、その結果としてハーレクインへの売却が起きたのかな?

で、その後SF文庫のほうでもやらないかということになった。ぼくが山野浩一に聞いてみたんだっけな、それとも別のルートだっけな? そこらへんの経緯はよく覚えていない。それでまずきたのが、確かディックの短編だった。腕試し、という感じ。ぼくも結構入れ知恵しながら、そこそこ無難にこなした。そんなに難しい小説ではなかったし。それで一応合格したようで、それでは本を一冊頼みましょうか、ということになった。

エフィンジャー

そしてそれでからまわってきたのが、ジョージ・アレック・エフィンジャーの短編集『無理数』だった。これは――ぼくはそんなに気に入らなかったんだけれど、アメリカSF業界の若手中堅みたいな位置づけて持ってこられたのかな。ガードナー・ドゾワとかあたりと同じような位置づけじゃなかったっけ。ぼくも数編手伝ったけれど、正直どの話もまったく記憶に残っていない。ただ一篇の中で、ポテトチップス(いやコーンフレークスだったかな)はすべてランダムな形になっているように思われているけれど、実は完全に規格化されていて、26種類の型しかないんだけれど、でもそれがごちゃっと集まっていると人間はランダムだと思ってしまうんだ、という小話があって、それだけ覚えている。これは全訳あげたはずだけれど、その後音沙汰なし。結局お金はもらったんだっけ。覚えてない。

せっかく訳したんだから出て欲しいとは思っていたし、仕上げていつまでたっても出なかったので母もいささかがっかりしていた。が、今にして思えば、まったく記憶に残ってないのにこんなことを言うのもなんだけど、無理して出すほどの作品ではなかったと思う。エフィンジャーはその後、『重力が衰えるとき』かなんかが邦訳されたんだっけ? 中堅なんだけれど、中堅も非常にむらがあってすごく光る部分も多いのにそうでない部分が多いため決定打にいたらない作家と、コンスタントに凡庸でしかなく、でも締め切りまもって量産できるので中堅の作家とがいて、この『無理数』を見るとエフィンジャーは後者だったような印象がある。

そして次にきたのが、ジョン・ブラナー『ザンジバルに立つ』だった。

ブラナー『ザンジバルに立つ』

ブラナーは……非常に社会派の作家といおうか。そういうと日本では何となく左翼っぽいというニュアンスになってしまうのだけれど、そういうことではない。邦訳のある『衝撃波を乗り切れ』(原題:ショックウェーブライダー)は、トフラー『第三の波』『未来の衝撃』を念頭に、コンピュータネットワーク社会の中で疎外と孤独に悩む天才プログラマーが、自分の属する大企業の不正に気がつき、それを捨ててコミューンに入り、あらゆる極秘情報を掘り起こして勝手にネット上に投稿してしまうツイッターのボットみたいなワームを創ってネット上に放ち、そのコミューンをミサイル破壊しようとする政府の陰謀に対して国防省のコンピュータをハッキングして阻止する、という話。いまにして思えば、『ニューロマンサー』よりも普通に現在のネットワーク社会をきちんと描き出していて、先駆的ではあった。しかも1975年に! 大したものではある。あともう一冊、なんとかいう分厚い本をやってるんだよね(追記:そうだ、『羊は見上げる』だ!)。それも環境問題だかなんだかを種にした話じゃなかったかな。

ザンジバルに立つ』は、そのブラナーの60年代末くらい(かな)の巨編で、人口爆発を描いた作品。世界の何十億の人口も、すし詰めにすればザンジバル島に立てるんですよ、というのがその題名。なかなかおもしろい小ネタやアイデアも多く、母親もなかなかおもしろがってやってはいた。その中で、すべてをコントロールする大企業や政府(そしてそれをあやつる巨大マザーコンピュータ)と、各種の人口抑制策、それを逃れてこっそり子供を作ろうとするカップルと、単なるデータのサーチャーとして不満に満ちた日々を送る人物と、あとなんだっけな? いくつかプロットがからまる。環境問題や、大企業の専横、途上国と先進国との関係(アフリカの独立と変な独裁国家化や南米のバナナリパブリック問題とかがだんだん出てきた頃だった)とか、その他社会的なネタをテンコ盛りにして、強引ながらそこそこ面白い話に仕上げていたと思う。そしてまた、メディア化されたマクルーハン的な現代社会の表現として、しょっちゅう大量の広告やCM、ニュース報道の羅列が入る。まちがいなく力作ではある。『ダールグレン』並の、ペーパーバック800ページくらいあるものすごい長編でもあることだし。

ただ――翻訳時点の1980年代にはすでに、人口爆発はかつてほど大騒ぎされなくなっていた。そして巨大マザーコンピュータというのは、すでにマイコン/パソコンの時代が始まっていたので、これまたアナクロ。全体に古びていたのは事実。そしてブラナーは、真面目な作家ではあるんだが、それ故にあまり華やかさはない。真面目に問題に取り組み、だけれどその問題の悲惨さを訴えるだけでおしまい。だから『ザンジバル』では各種の問題により主人公たちはみんな惨めに死に絶え、ただそのカップルの許されざる秘密の新生児だけが希望のようでありながら、それが人口爆発という問題の中ではむしろさらなる絶望であり――というのは巧妙だけれど暗くて救いがない。

そしてエフィンジャーもそうだけれど、ブラナーもある意味で凡庸な作家だった。真面目で勉強家で、技法もしっかりしていたし――でもまったく新しいビジョンを創れる才能はなく、そつなくいろんな話をまとめるだけ、という部分はあった。新しい世界像を描き出したりはできない。新しいライフスタイルも考案しきれていない。だからいま紹介する価値があるかというと――あんまりないと思う。時流の後押しがないとあまり存在意義がない作品だ。それはブラナーの他の小説でもそうだ。いまウィキペディアを見ると、1985年に他界するまでいろいろ多作なんだねー。でもそれもほとんど絶版で、あまり真面目に取りざたされる人ではない。

でもこの『ザンジバル』でも、いろんな小ネタの入れ方はおもしろかった。そして母親も、それをあれこれ調べるのが結構おもしろかったようで、毎日あーだこーだと調べた成果を得意げに話してくれたりして、子供たちとしてはそうして忙しくしていてくれると、こっちのことをあれこれ詮索しないでくれるので、お互い結構なこと(上にも書いた通り、アスキーもサンリオも、母親はぼくの本棚や机周辺を漁ってそもそものきっかけを得たのだ)。参考のためにドイツ語訳も手に入れてあげたりして、それなりに支援しましたっけ。

が、サンリオの廃刊が決まった時点では、まだ7割くらいしか終わっていなかったのかな。それについては、お詫び金みたいなのがきたように思う。

で、その原稿は手元に残ったので(しかも原稿用紙の手書き原稿)どうしようかということで、東大SF研でファンジン出版にしてしまおうかと思って、SF研の部室に持っていって――そのまま埋もれてしまった。あれはもうとっくに処分されちゃったんだろうなあ。

その他

そんなわけで、うちの母とサンリオの関係も終わってしまったのだった。その後、母は自分で仕事を見つけにいくほどは熱心ではなく(ぼくもそれ以上本棚やかばんを漁られるのはイヤだったんだよね)、翻訳もやめてしまった。これも、もったいないといえばもったいない。

たぶんあれ以外にも、仕掛かりで放棄された作品というのは結構あるはずなんだよね。その一部は、この『総解説』にもあるように、他の出版社から出た。でも陽の目を見ないまま、まだだれかの書歳に眠っているような原稿もあるはずなんだ。いまならネットに出しちゃう手もあるけど、当時はよくてもワープロ原稿のはずで、そのまま腐ったんだろう。考えて見れば惜しいね。

あと、サンリオの予告に出ていたレム『SFと未来学』、実はドイツ語版から最初の一章を訳したんだけれど(これは別にぼくがサンリオに依頼されたわけではなく、個人的興味でやっていた)、あのノートはどこに行ったんだろう……沼野充義の研究室に話をききにいったとき、その話をしたら「あれはドイツ語からの重訳でも自分がざっと見て出せたらいいな」というようなことを言っていて、少し先に進めようかなと思って結局それ以上手をつけなかったんだよなー。あれやこれやいろいろです。





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