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マンデヴィル『蜂の寓話』:ケインズがいかにイヤミなやつかよくわかる。

ケインズ 書評 経済学

蜂の寓話―私悪すなわち公益 (叢書・ウニベルシタス)

蜂の寓話―私悪すなわち公益 (叢書・ウニベルシタス)

マンデヴィル『蜂の寓話』というのは、知っている人の半分はケインズ『一般理論』23章で言及されているから知っているんだと思う。

そこでケインズは、この詩と説明が有効需要創造の重要性を訴えたものであり、バカみたいな倹約とか節制とかをよしとする当時の社会通念からはずばぬけた慧眼であり、それ故にひどく攻撃されたんだと語る。

寓話に続くコメントからの抜粋2本を見ると上の詩には理論的な根拠がなかったわけではないことがわかります。

 この堅実なる経済、一部の人が貯蓄と呼ぶものは、民間の世帯においては資産を増やす最も確実な手段であり、したがって一部の者は国が痩せ衰えるのも豊かになるのも、同じ手法を追求すれば(彼らはそれが可能だと思っている)国全体にも同じ効果をもたらし、したがって例えばイギリスは、近隣国の一部のように倹約を旨とすればずっと豊かになると考えるのである。これは、私が思うに、誤りである。21

 それどころかマンデヴィルは次のように結論します。

 国を幸福に保ち、繁栄と呼ぶ状態にするには、万人に雇用される機会を与えることである。すると向かうべきなのは、政府の第一の任を、できる限り多種多様な製造業、工芸、手工芸など人間の思いつく限りのものを奨励することとすべきである。そして第二の任は、農業と漁業をあらゆる方面で奨励し、人類だけでなく地球全体が頑張るよう強制することである。国の偉大さと幸福は、豪奢を規制し倹約を進めるようなつまらぬ規制からくるのではなく、この方針から期待されるものである。というのも黄金や銀の価値が上がろうと下がろうと、あらゆる社会の喜びは大地の果実と人々の労働の成果に常にかかっているのであるから。この両者が結びつけば、それはブラジルの黄金やポトシの銀にもまさる、もっと確実でもっと尽きせぬ、もっと現実の本物の宝なのである。

 かくも邪悪な思想が二世紀にもわたり、道徳家たちや経済学者たちの非難を集めたのも不思議ではありません。その批判者たちは、個人と国家ともに最大限の倹約と経済性を発揮する以外にはまともな療法はないという謹厳なるドクトリンを抱え、自分がきわめて高徳であるように感じたことでしょう。ペティの「娯楽、すばらしいショー、凱旋門等々」はグラッドストン的財務の小銭勘定に道を譲り、病院も公開空地も見事な建物も、さらには古代モニュメント保存すら「お金がなくてできない」国家システムとなりました。ましてや見事な音楽や舞台などあり得ません。これはすべて民間の慈善や、先の考えのない個人の寛大さに委ねられることとなったのです。

ほとんどの人はもちろん、実際にマンデヴィルの本を読もうなどという物好きなことはせず、ケインズがそう書いているからというだけで、そういう立派な本なんだと思っている。

ぼくもそう思っていました。ケインズの思想に近い論者なんだろうと思ってました。

でも実際に読んでみたら……ぜんぜんちがう。

確かにこの本、ぜいたくは敵だという風潮に逆らって、むしろ贅沢こそ需要を創り出し、人々の雇用を創出するものなのだ、という慧眼は出ている。というか、確かにいろんな慧眼はある。人の徳や上品さ、善意、公平さなどはすべて、実は人々の貪欲、下劣さ、虚栄心、他人をだまそうというこずるい心性などから生じている、というのがこの本の趣旨。各種の道徳とか、善意に見えるものとかは、実はそういう私的な悪の相互作用または相互牽制の結果として生じている、という。

でもマンデヴィルがそこから引き出すのは、自由放任と現状肯定の、むしろリバータリアニズム的な主張だ。各種の私悪が、公益につながる。私悪を否定すると、かえって公共にとっては害になる。だから――私悪をなくそうとしてはいけない!

たとえば、当時の町はゴミだらけで悪臭まみれのひどいところだった。でもマンデヴィルは、「そういう私悪は、よく考えれば仕方ないことなんだ、ゴミや悪臭なくして都市の経済活動や産業活動ができるだろうか。だから、それを規制したりなくそうとしたりすることは、経済活動否定であり、したがって人をかえって不幸にする。よって、ゴミや悪臭は我慢しろ」とのたまう。

あるいは、商人がインチキ商品を売ったりするのも、「人は常に他人を出し抜こうとしているのだ。だまされると腹がたつけど、自分が人をだまそうとしなかったやつはいないのだ。よってそういうのは仕方ないのだ」とおっしゃる。

全体として、すべて現状追認、あきらめろ、規制しようとするな、美徳に見えるものは人の打算からくるあれやこれや、つまりは現状は仕方ないのであり、無理に規制しようとしてはいけない、というわけ。全体としては、ケインズ的な発想のほぼ正反対の代物だ。

いやあ、びっくりいたしました。

ケインズがこんな露骨な自由放任リバータリアニズムを支持していたわけがないんだよね。この23章、ケインズ重商主義をほめてみたり、高利貸し禁止法をほめたり、クルーグマンも指摘しているとおり、明らかに屁理屈こねて常識はずれなことを言って見せて喜んでいるような部分が多いんだけれど、このマンデヴィル絶賛も、なんかそういうひねくれた根性のあらわれじゃないかと思う。いやあ、ケインズってほんとイヤミなやつだと思うわ。

しかし、マンデヴィル自体は非常におもしろいのは事実。アダム・スミス的な考え方を、他のあらゆるところにまで広げた(というか逆で、マンデヴィルのほうが先なんだけどね)という意味では慧眼だし、お暇ならご一読あれ。

なお、これの続編もあるんだよねー。

続・蜂の寓話 〈新装版〉: 私悪すなわち公益

続・蜂の寓話 〈新装版〉: 私悪すなわち公益

(しかも新装版が出るのか)。読もうかな。どうしようかな。