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椹木『アウトサイダーアート入門』:いまさら何さわいでんの?

書評

まともなエスタブリッシュメントのオゲージュツカのアートに対して、キチガイや犯罪者が作ってしまった体制の外のアートがあるのだ、そういうのに注目してエスタブリッシュメントに対してそれをつきつけねばならない、という本。

何騒いでんの、という感じ。

キチガイや犯罪者の作る作品があれこれもてはやされるって、昔からの話じゃないの? 耳切り落としたヤツとか、死刑囚で小説書いてほめられたやつとか、「狂気のナントカ」って昔から迫力ある芸術を誉める十八番の言い回しだし。

だから、アウトサイダー・アートなるものが存在し、そこに何か対立構造があって、という発想自体が今さらで古くさい。というか、世間的な評価はむしろ逆で、その「アウトサイダー・アート」的なものを昔から積極的にもてはやす風潮さえある。クスリやってましたとか、ゲイでしたとか、奥さん殺しましたとか、これを三つともやったウィリアム・バロウズは半分くらいはそれで無用に評価された面すらある。

 

そして、それはある意味で不健全なことなのだ。かつて川又千秋が(確か名作『夢の言葉、言葉の夢』だったと思う)、島尾敏雄の小説について書くときに、発狂して小説に迫力が出てきた、みたいな評価ばかりであることについて苦言を呈していた。狂気とか病気とか、そういうのを特権化してありがたがるのはよくない、と。確か「人間はだれでも最低限の健康で文化的な生活を営む権利がある」というのを引用して、芸術家にすぐ狂気とか病気とか疎外とか異質性とかを押しつけたがるのはやめるべきだ、と。

夢の言葉・言葉の夢 (1981年)

夢の言葉・言葉の夢 (1981年)

ぼくもそのとおりだと思う。そしてその立場からすると、この椹木の本は5周半くらい遅れて今さらのようなことを言ってるだけの、退屈で無能な本だと思う。

「社会ではなく、芸術そのものによって祝福された果実は、たとえどんなに社会から距離を置かれようとも、つねに逆説にアウトサイダーの側にある。山下清と八幡学園の子どもたちをして、世界の美術の殿堂たるニューヨーク近代美術館に拳を突きつけせしめよ。それこそが、来たるべき新しいアートの世界への扉を開くための鍵となる」(p.330)


この本書の最後の一節で、椹木は何か目新しくかっこいいことを言ったつもりなんだろう。でもそれは、まず上に書いた「アウトサイダー」の特権化という意味でどうしようもなく情けないのに加え、「世界の美術の殿堂たるニューヨーク近代美術館」なる物言いで、椹木がいかに、権威主義的なエスタブリッシュメントに心底冒されきっているかを露呈してしまっている意味で、二重の意味で情けない。

そもそも、「山下清と八幡学園の子どもたちをして、世界の美術の殿堂たるニューヨーク近代美術館に拳を突きつけせしめよ」って、山下清も、子どもたちも、そもそもそんなことには関心がないよね。別に自分たちの描いたものを、何かエスタブリッシュメントに認められるべきものだとも考えてない。そこにアウトサイダー・アートとしての所以があるんじゃないの? なんでMoMAに拳をつきつけなきゃいけないわけ? ところが椹木は、何かそれを反エスタブリッシュメントに利用しようとしか思ってない。しかも、他力本願きわまりなく、自分が拳をつきつけるのではなく、山下清に(読者たちが圧力をかけて)拳をつきつけさせろと主張してる。情けない。

だいたい椹木に言われるまでもなく、民芸運動とかヨーゼフ・ボイスとか、芸術をそういう美術館的な権威から解き放つ運動みたいなのはいろいろあったし、地方自治体レベルの地域文化振興でさえ、芸術もアートもそういう美術館的な権威だけにあるのではなく、社会すべてにあるというのが一つの前提だ。それはまた、インターネットの夢の一つでもある。つまらないアスキーアートに、だれが書いたかしらない2ちゃんねるの書き込みに、youtube のくだらないビデオやインスタグラムの匿名の創作の中に、アートが生まれ、それが流通するのだ、と。それが十分に実現しているか、というのは議論の余地がある。でもその夢は確実にある。

ちなみに椹木は本書の中で、こういう話をさも自分が思いついたみたいな書き方をしている。美術館の体制の外にある大衆芸術みたいなものは、すべてエスタブリッシュメントの外側にあり、したがってすべてアウトサイダー・アートなんだって。

……アウトサイダー・アートは美術=アート=芸術といった近代以降の内輪そのものを突き崩し、未知の創造のフロンティアを切り開いていくものでなければならない。つまりアウトサイダー・アートの名に値する創作家は、美術はおろか、文学や音楽といった古典的な芸術の諸ジャンルさえ超えて、ありとあらゆる場面、局所にわたって存在しうる。一例を挙げれば、我流ということにアウトサイダー・アートの軸足を置くなら、私たちがふだん聞いているほぼすべてのポピュラー音楽は独学の産物であり、その意味では正統とされるアカデミックな音楽に対して、十分にアウトサイダー・アートの要件を満たしている。これは書店でふつうに売っている詩や小説にしても同様だろう。そのように考えれば、アウトサイダー・アートの領域とは、私たちが日頃慣れ親しんでいる大衆文化の総体をも含み込むものであり、もっといえば、障碍者や死刑囚のような特異な例に留めずとも、そもそも今ある世界がすでにしてアウトサイダー・アートの宝箱なのである。

(山形注:こんなアホな文をタイプしたくなかったけど、こちらのサイトで入力してくれていた。ありがとう!)


でも、そんな話はジャズやロックが芸術かとか、マンガは芸術かとか、その手の話で100年以上前からさんざん出てきているのに。いまさらそんなことを力説されましても。そして……そういう大衆芸術って、別にキチガイや犯罪者や貧乏人や被災者じゃなくても作れるって言ってるよね。だったら本書はなぜキチガイや犯罪者や貧乏人や被災者などの作品ばかりとりあげて、それこそがそういう大衆芸術の代表みたいな扱いになるわけ? 結局これって、エスタブリッシュメントだからすごい、という評価とまったく同じ、社会的に恵まれない境遇にあるからこそすごいっていう、肩書きで作品を評価しようという考え方でしかないよね。そこらへんも本書では、ろくな説明もない。

で、世の中の芸術やアートがいまだにMoMAエスタブリッシュメント中心で動いてると思ってる芸術評論家ってなに? そして著者の主張では、大衆芸術的なマンガもポピュラー音楽も各種サブカルもすべてアウトサイドアートの一部なんだから、その中で特権的なものをわざわざ取りざたする必要もない。みんな椹木に言われなくてもMoMAに拳なんかあげずに、普通にそれを享受してるよ。ダーガーとか山下清とか知らない人は、少しは参考になる……とも思えないし、あまり意味のない本だと思う。

Disclosure

本書は献本されたもので自分で買ったものではないから、上の評価は必要以上に甘くなっている可能性がある。その点はご留意いただきたい。