シェンチンガー『アニリン』:有機化学がイノベーションとハイテクの最前線だった時代

アニリン―科学小説 (1971年) (コスモス・ブックス)

アニリン―科学小説 (1971年) (コスモス・ブックス)

アニリンと言ってなんだかすぐにわかる人は、有機化学関係者以外あんまりいないと思う。有機化合物で、やたらにいろんなものに使われるけれど、最初の頃は染料の合成に活用された。最初は植物染料のインディゴから得られたんだけれど、やがてコールタールから合成する方法が発見され、そしてそれが合成染料に使えることがわかって――有機化学の爆発的な利用と発展が生じた。詳しくは、ウィキペディアの記述でも見ておくれ。

これは1936年のドイツの小説だ。このアニリンが発見され、工業化され、応用されるまでのプロセスを描いた、史実ベースの小説ですな。「科学小説」という副題がついているけれど、「化学小説」というほうがふさわしい感じ。そして――いまならこれは、アップルvsマイクロソフトvsIBMとか、小説の半導体小史――トランジスタの発明から集積回路インテルフェアチャイルドを経て、という感じのハイテク小説でもあるのね。

話はインドから。インディゴ染料(のもとになるインディゴ)を栽培している植民地の話から。そして次の章で、コールタールからアニリンを合成し、その染料としての可能性を発見しつつもまったく顧みられなかった、ルンゲの活躍。その後、それを再発見し、工業化したホフマン、さらにそれをサポートしたケクレ(ベンゼン環のケクレ、ですねー)やリービッヒ、そしてそれをもとに人工インディゴを作り、そこから無数の染料が生まれた話。それをもとにヘキスト社が台頭し、インドのインディゴプランテーションを壊滅させ、さらにはコッホが、その合成染料を使うことで病原菌を初めて発見し、医学と生物学の新しい世界を拓き、そしてプランテーションが壊滅したインドで、キニーネよりさらに強力な対マラリア薬(アテブリン)が、迷信深い地元バラモンたちの陰謀をはねかえして次第に普及し――

こうして科学の力により世界はだんだん開明的な世界へと向かう。そしてそれを支えるのは、ドイツの合成化学。合成染料から、合成ゴムへ、そして合成燃料へ(ドイツの総需要の1/3を合成燃料が満たすようになったと書かれているけれど、そんなことがあったのか!)。最後にちょろっとナチス台頭の話題が出て来るけれど、当時はもちろん、その後のできごとなどみんな(もちろん作者も)知るよしもない。

そして、それぞれの科学者たち(や経営者たち)の悲恋が描かれて花を添える。インド人の娘に惚れてしまったプランテーション経営者、相思相愛なのはまちがいないのに、引っ込み思案でコールタール研究で認められるまでは、と思っているうちに機会を逃したルンゲ等々。もともとラジオドラマだったそうで、科学に関心がない人向けのドラマもシンプルながら過不足ない。

なんでこんなものを読んでいるかというと、高校時代の化学の教師が何かというとこの小説を引き合いに出していたから。どういう文脈だったかはさっぱり覚えていないけれど、ガリ刷り(いや、青焼きだったような記憶がある)のプリントのちょっとしたところに「科学小説アニリン!)とやたらに書いてあって、それだけ覚えている。で、もう20年前に古本屋で見つけて買って――いままで放置してあった。

本書によれば、19世紀半ばに化学はすでにこれ以上は進歩しないという悲観論まであったとか。それが、登場人物たちの活躍で一気に花開く。その模様は、いまのITやパソコン史を読むのと同じ躍動感がある。かつてのパソコンヒッピーたちが世界を変えられると思ったのと同じ形で、化学が世界を変えるという確信がある。もちろん、本当に変えたんだけれどね。そしてここに書かれた内容が、ドイツの工業や製薬会社を通じていまの世界につながっているのも如実に感じられるのもおもしろい。いまにして思えば、高校時代に読んでいたらもっと面白がって感激できたかもしれないなあ。絶賛して道行く人に片っ端からお奨めする小説ではないし、わざわざ探し出す価値があるかといえば、うーん。でも、機会があれば読んで損はない。

特に、ITとの対比を何度か使ったけれど、蒸気機関の産業革命にしてもITにしても、たまたま起こった一回限りのできごとで、それを人類のイノベーションに一般化はできない、という発想がある。でも本書を読むと、そういうわけではなくて、やはりその時々に各種分野でのブレークスルーがあり、それが他の分野のブレークスルーにつながる流れがあるのが少しは見えてくる。次にそれが起こるのが、資源工学なのかナノテクなのかはわからないけど、もはや科学技術の発展はおしまいだ、大停滞だ、なんてことを言うのはちょっと拙速かもしれないという気はしてくる。その意味で、元気の出る小説ではあります。

大停滞

大停滞