マイクル・コーニイの気恥ずかしさ

 その昔、1980年代末かな、『SFの本』という雑誌に、福本直美という非常に優秀な評論家が「マイクル・コニイはお小説様の作家である」とかなんとかいう題名の、実に鋭い評論を書いていて、ぼくはそれを読んで、マイクル・コニイってあまりソリがあいそうにないなーと思ってサンリオ時代には手に取らなかったのだった。うちにあるということは、いつか読んでもいいか、くらいには思っていたのかな? でも実際には読まなかった。『ブロントメク!』も『ハローサマー、グッドバイ』も。

 その評論の主旨というのは、確かコニイの作品は基本的に主人公が身勝手で独善的で、それを厚顔なまでのナルシズムで正当化しているんだ、というものだったように記憶している。『ハローサマー、グッドバイ』の主人公は、自分は特権階級のパシリ小役人の息子としていい思いをさせてもらってるだけなのに、なんか反抗期の青臭い正義感を口先だけでたぎらせていい気になって、自分がえらいつもりでいるだけで、しかもその小役人一家ともども見捨てられたら、くだらない虚勢を張って話を自分の都合のよいようにまとめるし、『ブロントメク!』は亜人間に恋してそれが元の企業に回収されると、その亜人間との関係性を重視するどころか、亜人間の元になったオリジナル人間を追っかけに出かけるという脳天気ぶりで、それが何やら純粋であるかのような話にされるというもの。

 この二冊が最近になって新訳で再刊されたので、まあ一回読んで見るか、という気になって、どっちも読んで見て……そして確かに福本直美の言った通りだと思った次第。それを読んでコニイを読まなかった当時のぼくもいい見識を持っていた。

 いや、当時読んだら、当時の青臭い大学生だったぼくは、あっさり籠絡されていたのかもしれないけれど。その意味で、これは読者の年齢を選ぶ小説ではある。ディッシュはかつて、SFの黄金時代は十二歳だ、という名言を吐いたけれど、コニイはたぶん十六-十八歳くらいのための作家ではある。その頃には、この身勝手でだらしないナルシズムは本当に心に響いたかもしれない。その意味でこの二冊を当時ぼくから遠ざけた福本直美の文に、ぼくは感謝すべきなのか、ちょっと恨みごとを言うべきなのか、いささか迷うところではある。いま読むコニイは、そうしたあられもないナルシズムへの「うへっ」的な感じと、そうしたものに肯定的に反応した時代が自分にもあったという気恥ずかしい想い出の混合物となっている。よい意味ではなく。

 それはある意味で、サリンジャーライ麦畑でつかまえて』と同じで、ぼくはあの本をかなり遅くなってから読んだせいで、まったく気に入らなかったんだけれど、あれを高校くらいで読むと大いに共感できるというのもわかる。コニイも、そんな感じだ。『ハローサマー、グッドバイ』の続編も、無事邦訳は出たみたいだ。でもぼくはたぶん、それを読むことはないだろう。