Amazon救済 2010年分 2

真木『自我の起源』:ドーキンスを歪曲しつつ、その手の平から一歩も出られない本。, 2010/7/16

 本書はまず、ドーキンス利己的な遺伝子説の批判から入る。いや、利己的な遺伝子説そのものは正しいが、でもドーキンスが理論的な誤謬をおかしているそうな。遺伝子の利己性と個体の利己性を混同しているとの批判。

 これをきいた瞬間、ドーキンスの理論を知る人は変だなと思うはず。利己的遺伝子説は、なぜ個体が必ずしも利己的にならないかを説明するための考え方なのだから。確かに著者は、何かそれっぽい文章を「利己的な遺伝子」から抜き出してくる。「われわれの遺伝子はわれわれに利己的であるように指図するが」といった部分(pp.29-30)。でも出典にあたると、著者はこの一文を前後の文脈から切り離して歪曲しているだけ。問題の部分は、利己的遺伝子による結果が、その集団にとって利得最大のところに落ち着くわけではなく、ESSのところになってしまう、という話をした後で、でも人間は知恵でそれを克服できる、と言っている部分だ。まあ多少誤解を招く表現ではあるが、全体を見ればドーキンスの意図は明らか。著者のやり口はいささか不誠実。

 その後も著者はドーキンスの揚げ足取りをするが、基本的にはどれも、他人のまともな実験結果に恣意的な解釈と意味づけを加えているだけ。要するにかれも、ドーキンスの「利己的」ということばだけに反応して、どこか生命や社会の「本性」や「本質」に助け合いと博愛精神があるのだと信仰告白を並べ立てるだけの、ありがちな論者の一人だということがわかる。で、結局は遺伝子を超える個体というものがある、というドーキンスの理論を一歩も出るものではない結論に落ち着くだけ。かつて依拠していたカスタネダが詐欺師だと証明され、以前の著作のほとんどが無意味なものとなったのに自己批判する様子もない著者に期待はしていなかったが、やはりこうしたこじつけの強弁しかできないのか。

トロツキーレーニン』:読み物としてはよいが、一面的かつ部分的なエピソード集でしかないことは留意すべき。, 2010/7/10

 レーニンについて、トロツキーが書いた本。

 トロツキーは、チェ・ゲバラと並ぶ、中二病的な革命家英雄視の中でも最大のヒーローの一人であり、後に否定されたスターリンとの確執もあり、本来あるべき社会主義の体現者のような印象を一部の人は抱いている。また、かれはレーニンの同志であり、直接かれを知っていた。だから一次情報としての本書の価値は否定しがたい。このため、本書が非常に優れたレーニン伝であるかのような印象が一部にはある。

 確かに本書は読み物としてはおもしろい。トロツキーは超一流のアジテーターだけあって、エピソードの盛り上げ方はとても上手だ。

 しかしながら本書は、レーニンについて基礎知識のない人が一からまともな理解を得ようとするにはほとんど役に立たない。基本的に、レーニンの悪いところ、ダメなところは一切書いていない。トロツキーは、スターリンが正しいレーニン思想をゆがめてしまった(そして自分こそは正しい(けんかする前の)レーニン思想の伝承者である)と思っているので、レーニンを悪く書くはずもない。そして基本的にはレーニンと同じ党派に属してきた人物だから、客観的に見ればレーニンがまったく一貫性のない党派的なふるまいを見せても、それを公平に描くことはない。身内びいきが非常によくない形で満ちており、現代におけるレーニン理解のベースにするにはあまりに偏っている。

 また、トロツキー自身も書いているとおり、まだ完成したものではなく、部分的なメモと回想記にとどまっている。革命後の話はほとんどない。

 したがって本書を読んでレーニンについて何かわかった気になるのは大変危険。サーヴィス「レーニン (上)」などで全体像をきちんと把握して、それについてのエピソード集として流し読みするのが適切。

サーヴィス『レーニン』:バランスのとれた、レーニンの公平で充実した伝記。上巻はロシア革命前夜まで。, 2010/7/10

レーニンについて、白井「「物質」の蜂起を目指して」など恣意的な解釈にばかり耽溺するような本が出てきたので、基本的な全体像を抑えるべくレーニンに関する本をいくつか読んだ。その中で最も標準的で歪曲のない、レーニンの優れていたところと欠点とをバランスよく記述した伝記。原著も、レーニン伝の定番として評価が高い。

 社会主義屋にありがちな、レーニンは正しくて、社会主義の悪いところはすべてスターリンレーニン思想をゆがめただけ、というような変な持ち上げ方もしておらず、一方でかれがその後の強制収容所国家のすべての元凶たる悪魔だといった書き方もしない。読んでいて非常に安心できる本となっている。レーニンについて少しでも興味あれば、まずはこれを読むべき。

 翻訳はふつう。原著が非常にわかりやすく、普通に訳せば普通の翻訳になるので、大きな欠点はない。が、ところどころに変な部分が散見される。たとえば「ロシア社会民主労働党内では、彼はすでにかなりの名声を得ていた。むしろ彼は、いちばん評判の悪い人物であった」(p.276) って、どっちやねん?! 実際は「かなりの名声」はsubstantial reputationで、「有名だったが悪名高いというのが正確」とでもすべき。こうした、辞書に最初に出てきた訳語を前後の文脈の考えなしに使っているところがいくつかある。が、それで重要な部分がまったく意味不明になっているような箇所はあまりないのが救い。

 上巻は、1916年末、ロシア革命勃発直前までのレーニンの成長過程と亡命時代、ボリシェビキオルグ、プレハーノフやボグダーノフ、マルトフらとの交遊とその後の権力闘争を描き、少数派なのに多数派(ボリシェビキ)を名乗る変なセクトの親玉でしかない、亡命評論家としてのレーニンを描いたところで終わる。

後半は、レーニンが「封印列車」で帰国するところから。その後レーニン十月革命を経てソ連邦をなんとかまとめあげ、NEPを導入。ただしその過程はきわめて場当たり的で一貫性に欠き、朝令暮改。残虐な粛清や恣意的な利益誘導に満ちていたことを本書は素直に描く。レーニンを万能の社会主義のシンボルと盲信し、無理に一貫性を見いだそうとしこじつけがましくなった本とは違い、極めて納得がいくもの。また、スターリンのやった悪行はすべてレーニン時代に先例があったことも明確に描かれる。ある意味で、レーニンとて非凡ではあるが普通に限界のある普通の人だったことが失望とともに安堵をもたらし、そこにかれの妻やイネッサ・アルマンなどとの関係もからめて、まさに等身大のレーニンがあらわれてくるとてもよい本。その一方で、レーニンの業績の壮大さは正当に評価する。それを最後にまとめた走馬燈のようなラスト数ページは実に感動的。

 ただし著者の書き方はかなり予備知識を要求する。封印列車でロシアに戻ったレーニンは、「四月テーゼ」をぶちあげて、それを聞いた人々はレーニンが発狂したかとさえ思った、という下りがある。それはすごい、どんな代物だったんだろう、と思って読み進めると…その四月テーゼ自体の要約や引用はまったくない。

 これは上巻を含め他の部分でもそうで、各種著作の背景や反響の記述は詳しいが、その著作自体の中身についての説明は、かなり控えめ。また十月革命など大事件の記述や、スータリンやトロツキーなどのメインキャラの登場も非常に淡々としている。そして愚直ではあるが、原文のレトリックやニュアンスに鈍感な翻訳は、それを一層平板にしていている感はある。しかし間違ってはいないし、レーニン像の基盤としては無敵の本である。一方で、あわせて主著の概略をどっかで勉強しておくのは不可欠で、これ一冊で勉強がすべて片付くわけではない点には注意。

ゲバラ『ゲリラ戦争』中公文庫版:ゲバラの古典的なゲリラ戦争解説書。訳は旧訳より微後退。, 2010/8/7

 かつては三一書房の新書、その後ゲリラ戦争 (中公文庫BIBLIO S)として出た本の新訳版。内容的には、古典的なゲリラ戦争の手法解説。手短で網羅的、なかなかおもしろい本だ。

 旧訳がそんなに悪かった印象もないので一部比較してみた。カバー見返しにある訳者略歴は、ものすごく長いのだが、外資系企業の秘書室や総務部にいたとか陶磁器の修理をしているとか、ゲバラとも翻訳とも無縁の人だということしかわからない。それでも訳が改善されたなら特に文句もないのだが……

 が、この新訳はやたらに愚直で、関係代名詞は後ろから遡って訳すような昔の受験英語の英文和訳的な素人っぽい翻訳となっている。趣味の問題もあるが、訳のなめらかさでは驚いたことに35年前の五十間訳のほうがずっと上。また原典が明示されていないが、奥付から見るとどうも英訳からの重訳らしい。旧訳はスペイン語からの訳で、英訳も参照したとのこと。ただし原文はあまり長文のレトリックを多用していないので、重訳も愚直な訳も、読みやすさにあまり大きく影響はしていないのが救い。

 また旧訳と比べるとゲバラが原著につけていた、「要修正」「これ加筆」といった書き込みが反映されているのが追加分。逆に、三一新書版にあった「キューバ革命:例外か〜」という論説が削除されている。まあこれは、三一新書のほうのサービスなので仕方ないのだが、正直言ってゲバラの追加コメントは大したものではないし、まとまった追加論説のほうが効用が高い。

 恵谷治の解説は鋭い視点だがいかんせん短く、一方で旧訳の情熱的で詳細な訳者解説の迫力はない。映画をあてこんだ新訳なのはわかるが、あまり新訳した甲斐がないように思う。とはいえ、ことさら劣化しているわけでもないので、この訳で読んでも大きなデメリットはない。が、旧訳が安く買えればそれで充分以上。

若原『黒人はなぜ足が速いのか』:主要部分はいいが、まったくピントはずれなBell Curve罵倒は著者の誠実さが問われる, 2010/7/3

 最近同じテーマを(批判的に)扱った本を訳したばかりだったので、主要部分はおもしろく読めた。スポーツに有利とされる遺伝要因についていろいろ解説しており、黒人がなぜスポーツに秀でているかを遺伝的に説明している。遺伝ありきで話が進む部分も多いが、短距離に有利とされるACTN3が多いケニア人は短距離であまり実績がないといった批判論にもそれなりに触れ、バランスはとれておりその部分はおもしろい。

 だが本書は、こうした議論が人種差別につながりやすいことを指摘する中で「黒人差別のバイブル『ベル曲線』」なる節をわざわざ設け、ハーンスタイン&マレイ『Bell Curve: Intelligence and Class Structure in American Life』について、まったくのでたらめを書いている。「白人がいかに優秀であるか、逆に黒人はいかに劣等であるか、白人と黒人はいかにちがうかを、頭蓋や大脳の大きさ、IQ犯罪率など膨大なデータを駆使し、一見科学的な装いのもとで展開している」(pp.154-5)とのこと。でも『Bell Curve』で人種の遺伝的な話が出てくるのは全24章のうち1章だけ。しかも頭蓋や大脳の大きさの話なんかまったく出てこない。そしてそこでも、知能の環境要因のついては十分に触れられ、ただ遺伝要因もゼロではないだろうと述べられているだけだ。ついでに、白人よりアジア人(日中韓)のほうが頭がいいことも明言しているのだが。そして人種も含む多くの集団間格差を縮めて平等な社会をどう構築するか、というBell Curveの大きな主張と提言もまったく無視。著者はこの本を本当に読んだのか? どこかの(たぶんグールドの)受け売りで罵倒しているだけとしか思えない。

 メインの部分は決して悪い本ではないので、こうした枝葉の部分で大きく評価を下げなくてはならないのは残念。著者も単にPCなポーズをつけるために、いきがけの駄賃で他人の尻馬にのって知ったかぶりをして見せただけで、悪気はないのだろう。だが、こういうことをされると、学者としての誠実さにすら疑問を抱かずにはいられない。

アクゼル『神父と頭蓋骨』:北京原人とティヤール伝を絡めたおもしろい試みだが掘り下げが不十分で不満。, 2010/7/2

 北京原人の発見の話だと思って読み始めたら、ティヤール・ド・シャルダンの話でびっくり。かれが北京原人にここまで関わっていたとは知らなかった。

 ティヤールは異端の神学者として知られ、主著「現象としての人間」は、おもしろい本ではある。鉱物圏、植物圏、動物圏、精神圏(ノウアスフィア、ヌースフェル)といった宇宙の階層概念や、生物の到達点たるオメガポイントといった概念はかっこいいし、いろんなSFのネタもとだ。ただいかんせん証明しようがない、誇大妄想的なお話なので、一般には単なるニューエージオカルトがかった変な哲学者と思われている。

 そのティヤール神父が、思想をめぐって教会と対立して地の果て中国にとばされ、そこで北京原人の発見に関わることで、進化論への認識を深める様子を本書は描く。そしてそれが主著「現象としての人間」につながったのだ、と。当時の原人ブームの中での北京原人発見ドラマと、宗教対科学の対立ドラマとをからめる筆致は巧み。

 ただしティヤールを、宗教と科学の橋渡しをする立派な学者兼えらい宗教人として描こうとするため、その思想の特徴、もとい奇矯さ・異様さについてはごく簡単にしか触れられない。そしてかれが教会に迫害されたのは、単に進化論に好意的だったからだ、という印象操作を本書は行っている。でも実際には、宇宙全体の進化とか、人間が進化してオメガポイントに到達して神になるとか、とうていキリスト教の範疇に収まらない勝手なオカルトを主張したから怒られたというのが実情。だから北京原人との関わりがティヤール思想の形成に重要だったという本書の記述は必ずしも妥当とは思えず、それをごまかすため散漫な印象になっているのが残念。そして、ティヤールの中で進化論とキリスト教が同居できたから進化論は永続的なものだと示されたのだいう、アクゼルらしからぬ理屈になってないこじつけの結論は鼻白む。その程度の折り合いをつけた人なら他にも無数にいるのに。

 また佐野真一による解説は、意味もなく本文に書かれたティヤールの生い立ちを繰り返す無内容きわまる代物。解説ではなくただの読書感想文で、やたらに段落を変えるぶつ切り(口述筆記そのままの感じ)が散漫ぶりに拍車をかけている、残念な代物。