経済学でも男女で意見の相違があります

エコノミスト』で、経済学者でも男女で意見に差が見られるという研究を紹介し、こういう意見の相違が研究にも影響するかもね、という記事を載せたところ、経済学関係者の出入りするフォーラム、Economic Job Market Rumors で関連スレッドが、まさにここで紹介された経済学セクシズムホイホイと化しているそうです。

で、問題の記事とはどんなものか?お楽しみあれ(ここは一つ、ディアドラ・マクロスキーのご意見がほしいところ)

経済学でも男女で意見の相違があります

Men and women in economics have different opinions

The Economist, 2018/2/15

男は火星から、女は金星からやってきたという。でも経済学者は当然ながら惑星地球に暮らし、それを感情に左右されずに調査しているはず、ですよね? 残念ながら、新しい論文によると、この陰鬱な科学者たちですら、男女の性別で指向が分かれるという。ネブラスカ大学リンカーン校アン・マリー・メイとILOのメアリー・マクガーヴェイは、ヨーロッパ18カ国の経済学者を調査して、人口全体で見られる男女差は、経済学教育を受けても生き残ることを示した。男性経済学者たちは、女性に比べて政府介入より市場による解決を好み、環境保護について懐疑的で、再分配には(ほんの少し)後ろ向きだ(図を参照)。

経済学者の意見の男女差

メイらによるアメリカの経済学者を対象とした類似調査でも、男性は政府規制に懐疑的で、アラスカ国立野生保護区での石油採掘にも平気だし、最低賃金引き上げは失業を引き起こすと考える傾向があると示されてている。女性は、ウォルマートが純便益を生み出すという見解に対する合意比率が14ポイント低く、アメリカの貿易自由化は、外国での労働基準引き上げを条件にすべきだという意見に合意する率が30ポイント高い。

こんな男女差は、別に問題ではないのかもしれない。結局のところ良い経済学は、理論とデータを使って偏見を抑えることなのだから。でも一部の証拠を見ると、イデオロギーは経済学者の研究にも忍び込むのだと示唆される。シカゴ大のズービン・ジェルヴェ、コロンビア大のスレシュ・ナイドゥ、コロンビア・ビジネススクールのブルース・コガットは経済学論文で使われている用語を整理して、著者の指向を算出し、それが政治的な署名活動での参加と一致していることを示した。右派経済学者たちは、市場への介入に反対する推計を生み出しがちだという。ナイドゥの計算した他のデータを見ると、女性は男性よりも左がかった用語をつかいがちだ。

この意見の相違は、経済学分野が圧倒的に男性の多い分野だということを考えると、懸念材料になる。メイらは、標本内の男性たちは、女性にくらべて教授の率が二倍だったという。経済学者のえらさが男性側に歪んでいるなら、この学問の成果もまた、その男性たちの気に入る方向に歪みかねない。

メイらの明らかにした最後のちがいを見ると、なぜ経済学者たちが性差を問題視したがらないかも示唆される。男性経済学者は、どちらかといえば男性と女性が一般に同じ職業機会を持つと考えがちであり、報酬水準の差もおおむね技能や選択で説明できると考えがちだ。これに対して女性は、一般的にも学問の世界でも、女性は機会が不平等だと見ることが多い。

女性が男性とちがう見方をするなら、その女性たちは経済学のもっとえらい門番たちと対立しかねない。そして男性が、市場は女性を最高の職業へと押しやるのだと考えがちなら、性の不平等が解決すべき問題だという発想に対しても抵抗しがちになるかもしれない。男性はまた、研究チームでの男女比の均等化が経済的な知識を改善するという考え方についても懐疑的だ。

もちろん、意見の相違があってもそれが必ずしも女性に好意的とは限らない。かれらの理由付けは「魂胆を持った理由付け」になっているのかもしれない。つまり自分たちが昇進できないのは、自分たちの欠点のせいではなくシステムのせいだと思ったり、経済学に自分たちの同類がたくさんいれば経済学にとってもよいと思い込んだりしているだけかもしれないい。

でも別の可能性として、女性は個人的な体験から、男性の持っていない情報を得ているのかもしれない。男性だって「魂胆を持つ理由付け」に影響されやすいことは十分に考えられる。自分の成功について、それが不公平な特権のおかげだと思うよりは、自分が頑張ったおかげだと考えるほうが容易だ。

最高の経済学者ですら、自分の偏見には気がつきにくい。1960年に、ノーベル経済学賞受賞者で筋金入りの実証主義者だった故ジョージ・スティーグラーは、経済学者の政治的な願望が理論に与える「有毒な」影響について嘆いたけれど、全体としては実証科学としての経済学は、倫理的にも政治的にも中立なのだと主張した。でも当のスティーグラー自身の見解ですら、一部はこの理想を実現できていない。かれの元大学院生で、いまや独立した経済学者であるスーザン・ブランドウェインによれば、スティーグラーはシカゴ大学経済学部が教授陣に女性を雇った日には辞職すると語っていたそうだ。

久々の中華外れアイテム:キーボードが! それ以外はまったくOKなのに!

中華タブレットとかパソコンとか携帯電話とか、最近まではかなりひどい代物も多くて、作りが雑でチャチい、すぐ壊れる、基本パチもん、そこらの余りもの寄せ集め等々というのが日常茶飯ではあった。でも一方で、それが急速に品質をあげてきたのも事実で、それこそ携帯電話/スマホはもう本当にどうしようもないパチものはどんどん消え(深圳のシャンザイメーカーも激減している)、製造プロセスもマーケティングも改善され、品質もめきめきと改善されてきた。かつて、Made in Japan は欧米で、安っちい品質の悪い量産品の代名詞だったのが(ぼくがガキの頃はその時代の本当に最後の頃だった)、急激に品質を上げて、まったくちがうコノテーションを持つようになった。それと同じことが Made in China でも起こりはじめている。

それを確認するためにも(そして単にガジェット好きだから)ときどき中華タブレットとかPCとか買ってるけど、昔のほとんど使い捨てレベルから、すでにもう外れはほぼない時代に入ってきていたんだが…… 久々に失敗したのがこれ。

これはスペック的にはすばらしいのだ。メモリもSSDも十分。USB-Cだし、指紋センサーつき。何よりスクリーンが3000x2000という高精細で、ぼくが好きでない最近の横長ではないアスペクト比。おおおお。いろんなレビューサイトでも絶賛。アマゾンのこれは高いので、Gearbest で買ってみました。

が。

ブツはとってもよくて、スペック通りで文句なし。液晶も美しい。でも、一つ決定的な欠陥がキーボード!

ほとんどのキーが、押すと文字が二文字ずつ入力される! TThhiis iis aa ppeen という具合。

うーん、これではつかいものにならん!

見てみると、YouTubeでも同じ症状を訴えている人がいる。


Quick'n'Dirty: Cube Thinker i35 Type C Charging and Keyboard Issues

ぼくはこの人みたいにキーボードが取れる状態ではないけど(というか、そこまで使える状態ではない)、この人もチャッタリングみたいなのには悩まされている。他にもキーボードの不満は出ている。うーん。

どうしようか。なんかサーバにでも使うか。でもこの液晶画面をサーバに押し込めるのももったいないし、どうしたもんか。まずは会社に治るか訊いてみるが、一方でたかが5万円のPCにそんなに手間をかけるのもアレだし。まあとりあえず、同社からの返事待ち!それにしても、久々のはずれでちょっとがっかり……

Cube Tablet PC - Cube Android Tablet - ALLDOCUBE Tablet PC Website

(ここは販社でアフターサービスするけどこのサイトから買った場合だけ、みたいな書き方してるからどうかなー)


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ミアシャイマー『なぜリーダーはウソを?』:うーん、あたりまえすぎて……

うーん。なぜミアシャイマーなんか読む気になったかはよく覚えていないんだけど、読んで見てとてもつまらない分類学に堕しているようにしか思えなかった。なぜ対外的なウソをつくかといえば、意図を隠したりとか、はったりかませたりとか、時間稼ぎとか、有利な条件を得るためとか、自分たちのヘマを強弁で隠蔽したい場合とかだ、という。うん。そりゃそうだろうね。それで?

国民に対してのウソは、自分の望む方向に国民を煽動したいとか(よくも悪しくも――良い場合というのは、ナチスをつぶすためにウソをまじえて国民の世論を参戦すべしに持っていくような場合だそうな)、その裏返しだけれど国民に過剰な反応をしてほしくないとか(キューバ危機で、トルコからのミサイル撤去を国民に内緒にしておくとか)。あとはもちろんヘマのごまかし。

まあ、それもそうだろうねえ。それで?

で、特にアメリカは地理的に他から隔絶されているので、そのままだと比較的安全でモンロー主義に陥りかねないから、各種参戦とか軍事行動とかをどうしてみしたい場合には、アメリカ政府は「このままだと恐ろしいことに」と国民の恐怖をウソであおるしかないし、それは今後も続くよ、とのこと。でもウソばっかついてると、バレたらやばいしリーダー層に対する信頼も下がるから諸刃の剣というか、あまり多用しないほうがいいんだけど、困ったものですね、とのこと。うん、その通りでしょう。それで?

どれも、そもそもウソってのはそういうもんでしょう、という話に終始するので、読み終わって何か新しいことがわかったという感じはない。対外的なウソは、みんなが思ってるよりは少ないとか、ちょっと意外な話もあるけれど、あまり多くはない。その意味で、ちょっとがっかり。短いから、そんなに腹も立たないけれど。

訳者解説は、結構充実していて、日本での同様の事例をまとめてくれているのはありがたい感じ。鳩山の「トラスト・ミー」が、本書に挙げられているような、わかってやってるウソですらなく、自分自身ですらルーピーに思い込んでいただけという、国際、国内へのウソにおさまらない、自分自身をもあざむいた、まぬけなウソというべきか、無内容な「真実(本人的には)」というべきかもわからん変なしろものだ、という指摘は、ちょっと笑えてなかなかいいと思うし、本書の難点指摘(分類に終始しすぎ)というのもその通り。オレがオレがの自己顕示的な部分がもう少し少なければいいな、とは思うけれど(メールアドレス、こっぱずかしくないんですか?)、それを考慮してもよい解説だと思う。


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AI ハリー・ポッターの衝撃

『ハリー・ポッターと巨大な灰の山らしきものの肖像』原著カバー
ハリー・ポッターと巨大な灰の山らしきものの肖像』

AIにハリポタ全巻喰わせて、新作を生成させたそうな。まあご覧あれ。

Botnik Studios

こいつを見て、あまりに感動してしまいました。この支離滅裂、異常な構想力、唐突な破綻ぶり。デスイーターたちが何だか知らないけど無意味にやおいらしきものを始めるところ。人工知能には創造性がないとかいっている連中がいるけれど、これでも、あるいはアルファゼロの囲碁でもそうだけれど、むしろ人工知能が明らかにしているのは、ぼくたち人間の知能や創造性と称するものがいかに制約されていて、型にはまっているかということだと思う。ウィリアム・バロウズが人間の矮小な構成力とキャパシティでほんの片鱗だけやってみせたことを、人工知能は鼻くそほじりながら(比喩的に)一瞬でやってのけている。

追記:このプロセスについてもう少し詳しく見た人がいる。これは本当にほぼカットアップの粒度を細かくしたバロウズもどき、だなあ。(1/17)

感動しすぎたので公開部分だけ全訳。

ハリー・ポッターと巨大な灰の山らしきものの肖像』

第13章 ハンサムなやつ

  城の地面は魔法で拡大された風の波でせせら笑いました。外の空は黒い天井で、血で満ちています。ハグリッドの小屋から漂う唯一の音は、かれ自身の家具による侮蔑に満ちた軋り音だけでした。魔法:それはハリー・ポッターがとてもよいと思った何かだったのです。

 ハリーの幽霊が城に向かう地面を歩くと、皮のような驟雨が打ちつけます。ロンがそこに立って、何か狂乱するようなタップダンスをしていました。かれはハリーを見ると、即座にハーマイオニーの家族を食べ始めました。

 ロンのロンシャツはロン自身に負けないほどひどいものでした。

「あなたたちふたりが楽しくちゃかぽこできないなら、あたしは攻撃的になりますからね」と理性的なハーマイオニーは告白しました。


「ロン魔術はどう?」とロンが提案しました。ハリーから見れば、ロンは声高でグズで臆病な鳥でした。ハリーは鳥のことを考えるのは嫌いでした。

「デスイーターたちが城のてっぺんにいる!」ロンは身震いしながら貧相にうめきました。ロンは蜘蛛になるところでした。とにかくそうなのです。自分でもそれを得意には思っていませんでしたが、けっきょくのところ全身蜘蛛まみれにならないのはむずかしそうでした。

  ハーマイオニーは言いました。「だからぁ、明らかに城には山ほどデスイーターたちがいるのよ。やつらの会合を盗み聞きしましょう」

  三人の完全な友人たちは城の屋根へのドアの外にある踊り場にザップしました。三人はほとんどそれを脚りかけましたが、魔女たちは登りません。ロンはドアノブを見て、それから焦げ付くような苦痛とともにハーマイオニーを見ました。

「閉まっているみたい」とかれは気がつきました。

鍵がかかっているのだ」と貧相なローブを着た幽霊の階段氏が言いました。かれらはドアを見つめ、それがどれほど閉まっているかについて叫びあい、それを小さな球体と交換するよう頼んでいました。パスワードは「牛肉女」とハーマイオニーが叫びました。

  ハリー、ロン、ハーマイオニーは静かに悪そうなデスイーターたちの輪の背後に立ちました。

「わたしを好きになってくれてもいいと思うよ」とデスイーターの一人が言いました。

「ありがとうございます」ともう一人が答えました。最初のデスイーターは堂々と身を乗り出してかれの頬に接吻を行いました。

「おお!よくやった」と二人目は、友人がまた身を引くと言いました。他のデスイーターたちはみんな、礼儀正しく拍手をしました。そしてそれからみんな数分かけて、ハリーの魔法を始末する計画をおさらいしたのです。


 ハリーはヴォルデモートが真後ろに立っているのがわかりました。かれはかなりの過剰反応を感じたのです、ハリーは自分の頭から両目玉を引きむしると、それを森に投げ込みました。ヴォルデモートはハリーに向かって眉を挙げてみせましたが、ハリーはいまや何も見ることができませんでした。

「ヴォルデモート、おまえはとっても悪くて意地悪な魔法使いだな」とハリーは荒々しく言いました。ハーマイオニーもそれを促すようにうなずきました。背の高いデスイーターは「ハーマイオニーは踊り方を忘れた」と書いたシャツを着ていたので、ハーマイオニーはそいつの顔を泥に押し込んでやりました。

  ロンはヴォルデモートに魔法の杖を投げ、みんなが拍手しました。ロンはにっこりしました。ロンはゆっくりと自分の魔法の杖に手を伸ばしました。

「ロンこそがハンサムなやつだ」とハリーはつぶやきつつ、不承不承ながら自分の魔法の杖に手を伸ばしました。二人は呪文を一つ二つかけ、緑の閃光がデスイーターたちの頭から飛び出したのです。ロンは顔をしかめました。

「もうそんなにハンサムじゃなくなったな」とハリーは、ハーマイオニーを辛いソースにひたしながら思いました。デスイーターたちはいまや死んでしまい、ハリーはいまだかつてないほどお腹がすいていました。

           * * * *

 大広間はとんでもないうめくシャンデリアと、流しをれんが積みについての本で飾った巨大司書でいっぱいでした。ネズミの山が爆発しました。長いカボチャがいくつかマクゴナガルからこぼれ落ちました。ダンブルドアが学校に到着するにつれ、ダンブルドアの髪がハーマイオニーの隣を駆けていました。

  ハッフルパフのブタは巨大な食用ガエルのようにチカチカしました。ダンブルドアはそいつに微笑み駆けると、その頭に手を乗せました。「いまやおまえがハグリッドだ」


「重要なのはぼくたちだけなんだ。あいつがぼくたちを始末することは決してない」ハリー、ハーマイオニー、ロンは声を合わせて言ったのでした。

 城の床は巨大な魔法の山のように思えました。ダーズリー一家は城に行ったことがないし、『ハリー・ポッターと巨大な灰の山らしきものの肖像』でこれからそこに行く予定もありません。ハリーはあたりを見回して、それから夏の残りの間ずっと螺旋階段を落ち続けたのでした。

 ハリーは怒鳴りはじめました。「ぼくはハリー・ポッターだ。闇の魔術は心配したほうがいいぞ、やれやれ!」

うーん、翻訳ではあの狂気をうまく出せないが、その一部でも感じ取ってもらえれば……

最後のジェダイ:こう、いろいろキャラや話の育成に手を抜きすぎでは?

最後のジェダイ見てきて……

最後のジェダイ
最後のジェダイ見てきた〜

事前の評判だとローズ氏ねとかその手の話をいろいろ聞いていた一方で、全体に好評ということだし、しょせん(というとアレだが、しょせんはしょせん)スター・ウォーズだからそんな深いものは期待していなかった。

そして結果として、期待していない通りのものだった、とでも言おうか。はいはい、とっても楽しゅうございました。ピュンピュン、どばーん、ぶぉんぶぉん。いいんじゃないですか? でもぉ……

見ながらとっても脱力する部分がたくさんあったのは否めないと思う。特にフォース関連。前作でハン・ソロが「That's not how the force works!!」と、ご都合主義的なフォースの発現に期待するフィンくんに呆れ果てたように言っていたけど、まさにその、そうではないはずの形で、ご都合主義にフォースが発現しちまうのはどうよ。

それが最初にピークに達するのが、あのレイア将軍が何の説明もなくフワフワ戻ってきやがるところ。なんやー、てめぇ!!That's not how the force works!!

そしてもちろん、レイがいきなり何でもできすぎる、というのは前作でもかなり難点だったんだけれど、今回はその難点がさらに悪化する! 前回、初めて持つライトセーバーで互角にやりあったカイロ・レンは、お父さん殺したあとで心が乱れていたから調子悪かったのかもしれんけど、こんどはいきなり親衛隊をまとめてなぎ倒し〜、果ては最後にあれかよ! ヨーダが帝国の逆襲でXウィングを引き上げたのに匹敵することをいきなりかよ!That's not how the force works!!


"That's Not How The Force Works" Han Solo Scene [HD] - Star Wars The Force Awakens

こう、だれでもどこでもフォースはある、というお題目はわかるけどさ、一方でそうそう安易にご都合主義で使えるものでもないはずだし、それなりの訓練とか努力とかそういうのがないとさ、結局はベンくんとかレイちゃんとか、生まれつきの才能だけですべて決まっちまうという話になっちゃうでしょうに。サンスティーンも書いているけど、葛藤もないし。少しはあの島で、ルークに多少は教えを受けるような部分がないとー。ジェダイの教えすべてわかってるとかヨーダに言われてもさ、モーフィアスくんも言っていたように「道を知っているのと、それを実際に歩くのとはちがうのだよ、ネオ」。

そういうプロセスのなさは、あのローズの最後のせりふもそうで、あれをやるならさあ、それまでにもっと好意の盛り上がりプロセスとか、そういうの見せろよなー。ちなみに、ローズはぼくはそんなに悪いとは思わなかった。むしろ最大の役立たずはポー・ダメロンというのは衆目一致するところで、頭の悪い暴走で軍規違反どころか反乱軍の全滅につながりかねない一大反逆をやっておいて、なんでお咎めまったくなんだよ。即座に銃殺か営巣おくりだろう! それどころか「嫌いじゃないわよウフフフ」って何だよ! ローズを出したのだって、そういう「ただしイケメンに限るかわいいは正義」的な理不尽を打破するためじゃなかったのかよ!

スノークくんもねえ。もう少し背景がほしいし、ベンくんとのつながりもほしいよなあ……

まあこれで、旧シリーズの関係者はほぼ一掃(でも次回作で、なんかジェダイたちがみんなお化けになって出てきて同窓会始めたらいやだなあ)だけど、あと一作でまったく新しく話を起こしてオチをつけられるんだろうか?

とはいえ、わーっと見て楽しむにはとてもいい映画です。


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新年プロジェクト2018: The Economy

あけおめ(死語)。昨年は本当にろくでもない仕事が振ってきて、あまりのストレスで体重は一時5キロも減り (残念ながらその後リバウンド)、しかもそれが期間延長というトホホなことになって、秋に終わるはずが年内いっぱいかかり、ギリギリのところで何とか終えて、年末年始はほぼ脱力状態。おかげで去年はMake系のおもちゃもいじれなかったけれど、正月休みにそれをやるだけの気力もなくて、いやはやもう歳ですなー、なんか威勢のいいことをやるのも疲れたぜ〜〜

と思っていたところで読んだこんな話。

econ101.jp

ほうほう、経済学の新しい枠組みね。

さて、ぼくは「従来の経済学ダメー」「新しい経済学だぜー」といった話にはあまりいい印象を持っていない。基本、学問ってある程度は単純化による理解なので、すべて入ってないというだけで批判したことにはならないと思う。ここに挙がっている表を見ても、わかってて単純化した部分について「単純化したー、よくない」と言っているように見えるし、その対案として出ているものは、変数を増やして結局なんでもありの両論併記に堕するだけなんじゃないか、という気もしないでもない。特にここで言っているような初学者向けの話となればね。

が、参加している人たちを見ると、もちろんそんなアンポンタンな人々ではないし、それなりの考えもあるし、風呂敷を広げても初学者向けの見通しをつけられるようなアレはあるんだろう……と思っていたら、すでにその発想で教科書まで作っちまった、と。ほほう。ではお手並み拝見しようじゃありませんか。不均衡と不完全情報と制度とプリンシパル=エージェントと、ついでに格差と環境問題までぶちこんだ、初学者向け教科書ってどこまでできるの?

ということで、その教科書を読むだけではつまんないので、訳しはじめましたわよ。

genpaku.org

このオリジナルのサイト&紙の教科書づくりの制作プロセスもおもしろくてMarkdown記法でテキスト書いて、それをパーサーで処理して html と pdf と、モバイル用のサイトさえ一気に作っているとか。本当は、そこまでやりたくてJekyll もインストールしたんだけれど、考えて見ればオリジナルのMarkdownのソースがあるわけではないので、うまく再現できるかどうかもわからない。ということで wget で元のサイトのhtml をダウンロードして、それをそのまま翻訳するという手に出ているけれど、各種スクリプトもうまく機能するし、日本語にしても変な挙動になる気配はないのでなかなか。

分厚そうな教科書丸ごと一冊なので、まあ半年くらいはかかりそう。あるいは途中で放置される数多くのプロジェクトの1つになるかも(放置されているものも、すべて細々と続いてはいるのですからね)。それは仕上げをごろうじろ。

あと、協力したいという人がいれば大歓迎。たぶん章ごとの分担になるのかな。もっと細かい部分でも可。当然ながら、ただ働き。また変な権利主張なしね。勝手に直されても文句言わないってことで。でもこの教科書、まだ日本語訳の話はないそうで、そんな話が出てくれば何か不労所得に通じるかも……

付記

結局これ、きちんと権利を取ってやろうという話が出て、先方と接触して、もう翻訳進んでるのよ、というのも見せたんだけれど、先方はとにかく出版社つけて紙版の刊行を視野に入れつつ、自分たちにしかるべきお金を払いなさい、というのの一点張り。もの分かれに終わってしまったし、また先方はこのような無許可翻訳は非公開にしなさいとか言われてしまい、知らないふりして続けるわけにもいかなくなってしまった。残念ですう。かなり進んでいたのになあ。(2019年春)


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サンスティーンによると『最後のジェダイ』は

はーい、サンスティーン『スター・ウォーズによると世界は』はお読みいただけましたでしょうか?

スター・ウォーズによると世界は

スター・ウォーズによると世界は

そしてこの本を読んだ人なら当然気になるのは、サンスティーンが『最後のジェダイ』をどう見たか、という点でしょう。その評価が数日前にやってまいりました。

www.bloomberg.com

うーん、そうくるかい、サンスティーン先生。自分の好きなところが強調されてなかったからってそんなに文句を言わんでも、とは思うし、これまでのシリーズでも民主主義も善と悪の葛藤も、そんなに深みある描かれ方をしてたっけなあ、と思ってしまうのは一般視聴者の浅はかさで、サンスティーンほどのマニアともなれば見方はちがうのねー、ということで(実はぼくはまだ『最後のジェダイ』見てません)。それと、あの本でのサンスティーン、ちょっと意識的におちゃらけてみせた部分もあるのかな、と思っていましたが、この『最後のジェダイ』評を見ると、サンスティーン先生ったらあの本、完全にマジで、「自分でもちょっと苦しいのはわかってるけど」というようなものではまったくなく、全部完全に本気で言ってたんですね!

というわけで例によって勝手に翻訳。まあ、お読みあれ。

『最後のジェダイ』は、いいんだけど、すごいってほどじゃない。

キャス・サンスティーン(山形浩生訳)

Executive Summary: 欠けているのは、善と悪との内面的な闘争、自分自身の邪悪との葛藤、人生の大きな問題に対する回答の探究だ。

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スター・ウォーズ』最初の六本の背後にいる天才ジョージ・ルーカスは、自分の映画が「ある種の泡立つようなめまい感」を特徴とすると述べている。その通りだし、それがあの六本のすごさの核心だ*1。

そう考えると、脚本監督ライアン・ジョンソンの新作『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』が本当の『スター・ウォーズ』とは言えない理由もわかる。はいはい、いい映画だし、すごくいいとさえ言える――でもめまいの感覚はない。

ルーカスの映画は、自分自身のトンデモぶりに対する大喜びだらけで、それがみんなに感染する。一番最初の『スター・ウォーズ』映画、後に『新たな希望』と改名されたもののオープニングを見てみよう。巨大なスターデストロイヤーが画面に登場するところだ。下から撮影されたその宇宙船はひたすら続き、どんどん続いて、さらにそのまま底面が続く。お笑いだ。1977年の観客たちは笑った。立ち上がって喝采した人さえいた。

スター・ウォーズはちょっとマンガじみたところもあるけれど、感情と深みもあり、人間心理への本当の洞察もある。ジョセフ・キャンベルの「千の顔を持つ英雄」という発想を活用しつつ、ルーカスは普遍的な物語を語る(実はそういう物語を二つ語っている)。それは英雄的な旅と選択の自由に関する物語で、それを良かれ悪しかれ実行するのは、二人の若者、アナキン・スカイウォーカーとその息子ルークだ。二人とも、悪に心深く誘惑される。ルーカスは、フォースの暗黒面(ダークサイド)が持つ蠱惑的でエロチックですらある力について、きわめて率直だし赤裸々だ。

アナキンは誘惑される。そしてダース・ベイダーになる。ルークもギリギリのところでやっと踏みとどまる――そして決定的な一瞬の間、ルークもまた誘惑に屈する。ルーカスの物語は、キリスト教(およびあらゆる人の心にある希望)の影響を反映して、ある教訓を与えてくれる。私たちのだれでも、決定的な瞬間に光の側を選ぶなら救済されるのだ。

ルーカスの主人公たちが悪に転じるとき、その理由はたった一つ。愛する者を失いたくないからだ。ダークサイドへの道は哀しみと喪失で舗装されている。でも、かれの主要テーマに見えるものの驚くべき逆転として、ルーカスはまた喪失の恐れ(あるいは愛とも呼ばれる)もまた救済への道なのだと示す。

その核心において、ルーカスの物語は父親と息子についてのものであり、お互いがいかに相手を必要としているかを物語る。ルークは――客観的な証拠がどうあれ――父親に良心が残っていると信じる(あらゆる息子はそう信じるのではないか?)ベイダーは自分の命を投げ出して息子を救う(どんな父親もそうするのではないか?)

この問題を慎重に検討したルーカスは、民主主義がいかに破綻して専制主義がどんなふうに台頭するかについても、深い洞察を持つ(そしてこれは、何よりもかなりの罵倒を受けてきた前日譚三部作を貫いて重要になっている)。かれは全能の指導者が持つポピュリスト的な魅力を捕らえている。ある登場人物が語ったように「こうして自由派死ぬのね……割れんばかりの喝采の中で」

当のアナキン・スカイウォーカーもこう固執する。「政治家たちが腰を据えて問題を議論し、万人にとって最大の利益となることが何かについて合意して、それを実行するようなシステムが必要なんだ」。そして不吉な調子で、もし政治家たちがそれを拒否したら「無理矢理にでもそうさせるべきだ」と付け加える――そしてそれが専制主義のように聞こえるとしても「ふん、それがうまく行くのであれば……」

『最後のジェダイ』は、光の面(ライトサイド)と暗黒面(ダークサイド)についてはいろいろ語るけれど、哀しみや喪失は何もないし、民主主義についても平板だ。善と悪の扱いは、十分におもしろいものとはまるで言えない。我らがヒロインのレイは、一度たりとも本当に悪に魅了されない。そんなの退屈だ。

暗黒面の代表カイロ・レンは少々は葛藤するし、その意味でジョンソンはルーカスのビジョンとの連続性を維持はしている。でも少なくともこの映画では、その葛藤は実はフェイントでしかない。というのもカイロの転落には、アナキンのような切迫した理由――愛する者の喪失――がないからだし、カイロが人間性のよい面を抑え込もうとするところを見せてもらえないから、この映画はルーカスの映画が持つ深みにはまるで達していない。

脚本は選択の自由という発想をちょっと掲げては見せるけれど、でも心がこもっていない――形式的にこなしただけに近い。その意味で、最悪な点として、ジョンソンはルーカスの黄金の糸を手放してしまっているのだ。

多くの人々は『フォースの覚醒』を批判した。これは2015年に出た新シリーズの皮切りだ。批判点は、それがルーカスの以前のシリーズの焼き直しでしかないということだった。それは確かに言える。でも少なくともあれは、明確だったしカッチリしていて、いろいろな疑問を大量に残し、独自のめまい感を与えてくれた。

『最後のジェダイ』にはそれがない。それは非常に意識的な役者交代の物語で、それがノスタルジーと微かな悲劇を使って語られているだけだ。あまりに多くの部分で、この映画は熱狂を欠いている。

確かに、マーク・ハミル老いルーク・スカイウォーカーとしてすばらしいし、レイ役のデイジー・リドリーもそれに負けない。ジョンソンの作品は、出来がいいというだけではない。シャープだし、新規性もある(そしてあちこちで驚異的ですらある)。でもそれは、悪魔と格闘することもないし、もっと大きな問題と取り組もうともしない。生命感に満ちあふれてもいない。

ジョージ・ルーカスが、当時も今も、唯一無二の存在だということをこの作品は思い出させてくれるのだ。

 

*1 読者への注:この先、多少のネタバレあり。