キューバの経済 Part1: 憲法改正と市場経済

1. はじめに

最近、キューバでのプロジェクトが始まって、いま二回目の現地調査。キューバというと、みんなゲバラカストロ、葉巻で、ついでにブエナビスタ・ソシアルクラブで町中が音楽に満ち……というような漠然としたイメージしか持っていない。このぼくもそうだった。その一方で、アメリカの経済制裁の影響や社会主義経済の常として元気がなく、停滞しているという話も聞いていた。

で、行ってみたら……うーん。何と言おうか。いや、いいところなんだよ。いろいろおもしろいのは事実。でも、どこがいいのか、と言われると口ごもる。どうだった、と言われると、次から次へと悪い点ばかりが出てくるんだけれど、でもじゃあ、そんなひどいところかと追われると、それほどでもないどころか結構楽しい。うーん。

ということで、ちょっとキューバの話を書いてみよう。ただ……

キューバのことを理解するためには、いくつか常識を捨てる必要がある。そしてその常識はずれの部分の大半は、ここが社会主義経済だということから生じている。

さてこれを読んでいる半分くらいの人は、社会主義が世界の一大勢力だった時代すら知らない。その他の人も、ほとんど具体的なイメージはないはず。ソ連では、ものが手に入らず、なんでも行列して、品質が悪く、といった話を間接的に聞いているだけだ。

いや知ってるよ、という人もいるはず。中国、ベトナム等々、いわゆる移行経済(transitional economy)で変な規制と官僚主義にホトホト悩まされた、と。でもそういう国は、「旧」社会主義国だ。政治は社会主義でも、今後はどんどん市場経済化を目指すというのが基本方針だった。

が、キューバはちがう。社会主義経済を堅持する、というのがその方針だ。いまどきそんな国はキューバ北朝鮮ベネズエラくらいだし、北朝鮮ベネズエラがまともな社会主義国といえるかどうか。

そして社会主義経済とは? 移行経済国の経験しかない人は、ぼくも含め、それが何やら市場経済のできそこないだと思っている。でも実は、それはまったくちがう代物だ……というのをぼくは今回、痛感したので、それを少し書こう。

2. キューバ: 憲法改正と「市場経済化」

さて、出発点として、まずキューバ関係でいま大きめの話題であるキューバ憲法改正からはじめよう。社会主義経済と市場経済の関係が、この憲法改正でも大きな問題になっているからだ。

山形が最初にキューバに出かけた2018年10月には、ドラフトが出てきて、インターネット経由で広くパブリックコメントを募集しようとしているところだった。二回目にきた2019年1-2月には、パブコメをもとにした最終ドラフトが出てきた。

そしてこれについて2月末に国民投票をすることになっている。このため、「イエス投票!」という一大キャンペーンを政府が展開し、いたるところにこんな標識が出ている。

「私は投票Yes!」
「私は投票Yes!」

そしてそれをもとに2019年4月には固めるという。かなり急ピッチの改正だ。

ではその中身はどんなものか? 山形のいい加減な話なんか見るより、2018年10月半ばに日本キューバ友好協会の招きで在日キューバ大使館がやった、憲法改正をテーマにした講演の資料とビデオをまずはおいておく。

キューバ:継続と変革——憲法改正案の要点(2018.10)


キューバ憲法改正

どうせ怠惰な読者はせっかくの資料を見もしないだろうし、結構長いので簡単にまとめると、この10月時点での改正案の主要ポイントとしては:

がある。

2.1. 市場経済の導入

この中でいちばん重要なのは、もちろん最初の市場経済だ。これまでアドホックに入れてきた市場経済を、新憲法下ではもっと明確に位置づけて採り入れるのだ、と。おお、キューバ経済開放か! 日経新聞もそういうところに注目している。まあそうだろう。

www.nikkei.com

だが……そうではない、らしい。少なくともぼくたちが思うような形では。

この講演会でも、この部分が最も関心の高いところだった。そしてキューバが今後どういう方向で市場経済化を目指すのか、という質問は出た。中国式? ベトナム式? もう少し制約が多いやり方もある。どんな感じで?   すると、返事は「いや、中国は中国だし、うちはうち。他の国のやり方を真似るつもりはない。そもそも、市場経済化ではない。市場経済を導入するだけで、社会主義が基本である。その導入方法は、これから考えるのだ」というものだった。

市場経済化ではない。市場経済を導入するだけで、社会主義が基本である!

2.2. 私有財産と「生産手段」

が、そうはいっても、これまでの関連報道を見ると、憲法改正では私有財産を認めるようになるのが大きなポイントだ、と述べられていた。さっきの日経新聞の記事にも「民間企業や個人の財産所有を容認する」とある。社会主義といえば、まず第一に私有財産がなく、すべてが共有というのが(ぼくも含め)一般的な認識だ。私有財産を認めるなら、もうそれはかなーり市場経済っぽくなるのでは、と思うのが人情だろう。

講演会でも、当然この質問が出た。私有財産は認められるようになるんですよね? すると大使館の人は「何を言ってるんだ」という。いまだってキューバでは私有財産は認められている。車も持てる。家も持てる。自分のものだ、と。

ぼくたちは、それを聞いて「あらそうでしたか」と思う。ではいまのキューバも、すでにかなり市場経済的な要素を持っているのか、と思ってしまう。そして、それ以上のことは特に訊こうとはしない。私有財産が認められるなら、あれも、これも、いろんなものが黙ってついてくるのが当然だと思っているからだ。そして質問者も、それで「はあ…」という感じで引き下がった。

そこが黄色資本主義に染まったぼくたちの度しがたいことだ。ぼくたちは「銀河ヒッチハイクガイド」に出てくるストラグ(一般人)と同じだ。

なにかの拍子に、ストラグ(ヒッチハイカーでない人)がタオルを持ったヒッチハイカーに出会ったとします。ストラグは自動的に、ヒッチハイカーが、歯ブラシや手ぬぐい、石けん、ビスケットの缶、水筒、磁石、地図、紐、蚊取りスプレー、雨具、宇宙服などを持っていると判断します。(中略)ストラグはこう考えるのです——銀河系をはるばるヒッチハイクし、不便な生活に耐え、身の毛もよだつ一か八かの賭に勝ちぬき、それでもタオルを離さなかったような男なら、まちがいなく一廉の人物だ、と。(ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイクガイド』)

もちろんこれは浅はかな考えだ。タオルを持ってるくらいでバックパッカーなんか信用しちゃいけない。そして私有財産があるからといって、市場経済の下地があると思ってもいけない。

というのも、社会主義の決定的なポイントは、厳密に言えば私有財産ではないからだ。マルクス経済学でも、別に労働者が家や車を持てないなんてことは言ってない。

ではマルクス経済学で、資本家と労働者を分ける決定的な要因は何か? それはもちろん「資本」だ。だって「資本家」ですもん。ピケティだってそう言ってます。

が、その資本というのは何のことか? これはピケティ本でもいろいろ問題になっていたことではある。が、産業革命を受けて構築されたマルクス的な発想だと、それは何よりも工場設備であり、生産、特に大量生産のための機械だ。資本家はそういうものを持ち、労働者を使役し搾取することで肥え太る、というのがマルクスの主張だ。

つまり社会主義で重要なもの、資本家の独占を許してはいけないものは、私有財産すべてではない。生産のための資本、つまり「生産手段」だ。

そしてキューバでは、生産手段の私有は認められていない。今も。そしてこれからも。

さっきの私有財産に関する質問への回答で、「いや私有財産あるよ」との回答に続いてこの一節が述べられたとき、会場はどよめいた。これが講義や講演なら、ここで百本くらい質問の手があがってほしいところだ。私有財産は認められて、生産手段の私有は認めない? どういうこと? そこで言ってる「生産手段」って何のことですか? 持っていいという家や車だって、いろんな生産に使えるんじゃないんですか?ホワイトカラーは機械なしで(まあコンピュータとかはあるけど)主要な生産手段は頭の中の人的資本じゃないんですか?知的財産はどうなるんですか?あーだこーだ。

はいはい、すべておっしゃる通り。

だがマルクス経済学は、20世紀頭で考え方が止まっている。したがって、そういう面倒なことは基本的には考えない。キューバもそうだ。私有財産と生産手段の仕分けも、単純きわまりない。自分で所有して使っている分には私有財産だ。そして、それを使って多少の商才を発揮するのもありだ。でもそこまで。それを超えて商売をやったら、それは生産手段の所有を行っていることになる。

具体的にはどういうことか? 家を一軒持つのはかまわない。車を一台持つのは構わない。そしていまや、それを使って商売してもいい。たとえば民宿/AirBNBみたいに部屋を人に貸してもいい。レストラン(パラドール)を開いてもいい。車を使ってタクシー業をやってもいい。現実に、キューバにいけば宿の多くはそうした民泊だし、町のタクシーも多くはそうしたものだ。

でも、一軒、一台を超えたら、それは生産手段ってことだ。家を二軒持って宿泊業を営んではいけない。レストランも、本店と支店とかいうのは持てない。車を二台もってタクシー事業をやってはいけない。英語で話をしていると、「You can own A house/car」と、さりげなく単数の「A」が強調されているのだけれど、ぼくたちは普通そんなのは聞き逃してしまうのだ。

2.3. 労働、雇用、「搾取」

さらに、生産要素とえばKとL、つまり資本と労働だ。市場経済化で、労働はどうなる?自由に雇用はできるのか?

それに対してキューバ大使館の人がまっさきに言ったのは、「搾取はいけない」いうことだった。搾取がいけないのは当然じゃないの? と思うだろう。ぼくもそう思った。でも、ここで言っている搾取というのは、ぼくたちの考えるようなものではなかったのだ。

社会主義においては、(資本家が)人を雇用するのはすべて搾取だ。あらゆる雇用は、当然ながら、雇い主が従業員の労働の成果をある程度ピンハネすることで成立する。だから「搾取はいけない」というのは、「人を雇うのはダメ」ということだ。

そしてここで社会主義経済のすごいところが出てくる。雇う雇わない以前に、そもそも、雇えるような人がいるのか、というと……公式にはいない。社会主義では、あらゆる人は基本は政府に雇われているのだ。失業者は公式にはいない。キューバは、これまで不承不承ながら市場経済を導入する中で、1割の労働者を「放出」し、上で述べたような個人事業ができるようにしている。でも、その人たちが雇えるような遊休労働者は、原則としていない。雇うときには、国営の(!!)人材派遣会社から人を派遣してもらうことになる。

つまりどういうことか?日本的に言えば、個人事業主として活動するのはいい。家族がそれを手伝うのもいい。だけど、それを多少なりとも拡大して中小企業にするのはできない。個人事業の範囲を超えるものは、(協同組合というものはあるが)もう基本は国営だ。

2.4. 「市場」経済は1割

そして個人事業主も制約がある。たとえば農業。キューバは食べ物は配給制だ。だから、食物は基本、政府が買い上げる。全部ではない。九割を政府が(国際価格とはかけ離れた——低い——価格で)買い上げる。残り一割は、自分で使ったり商売したりしていい。葉巻もそうだ。ハチミツもそうだ。

さっき、国民はみんな政府雇用で、1割が放出されて個人事業ができる、と述べた。この製品買い上げの仕組みを見ても、自由になるのは1割。つまりキューバ経済においては、現状では市場経済部分として計画されているのは一割、ということだ。

でも、その一割の部分の多くは、外国人相手の商売となる。すると外貨収入ができる。外貨があれば、輸入品が買えるし、生活水準は著しくあがる。

政府は、それを気にしている。だから、外国人と国民との接触にはきわめて神経質だ。『ブエナビスタ★ソシアルクラブ』を見ると、老ミュージシャンの自宅訪問場面が何度も出てくる。でも実は、キューバでは普通はあんなことはできない。外国人は、キューバ人の自宅には基本的に行ってはいけない。通信機器は制約されていて、Wifiルーターは原則として持ち込めない。インターネットは一応あるけれど、街角の公園や限られた施設などに公共Wifiスポットがあって、そこで接続するしかない。テザリングや携帯回線のネット接続なんてのはない(……と書いていたら、解禁された! 3Gだけど、涙が出るほどありがたい)。

そして、外国人相手の商売がえらく儲かるのも警戒されている。タクシーや民泊など、外国人相手の商売はきちんと登録して、高価なライセンス料を払わねばならない。外国で活躍するキューバ人の野球選手も、キューバ人医師たちもそうだ。たぶん、『ブエナビスタ★ソシアルクラブ』に出てきた老ミュージシャンたちも、あれでお座敷はかかるようになりカーネギーホール公演までしても、そのあがりはほとんど国庫に入り、本人たちはあまり儲かってはいないはずだ。

そういう状況だと何が起こるか? ある農業関係者は「おれたちは、作物の90%は政府に納めて、25%は手元に置くんだ(ニヤリ)」と述べていた。あれ、なんか計算があわないような気がするのはなぜかな? ぼくには見当もつかないよ(棒)。結果として、経済としては外貨建ての部分の、それも非公式経済のほうが大きいとも言われている。

だんだん社会主義経済の壮絶さがわかってきてもらえただろうか?

2.5. 憲法改正で何が変わるのか?

  でも、と話は最初に戻ってくる。憲法改正でそれが変わるのではないの?市場経済を積極的に採り入れるのではないの? うん、その通りなんだが、一方でかれらは社会主義経済を捨てるつもりはないという。今の体勢をまったくひっくり返してドカンと市場経済を入れる、ということにはならない。

具体的にどうなるかは、まだまだ未定で、可能性はいろいろある。ただこの講演会を聞いた限りでは、あまり期待すべきではないのかもしれない。市場経済を積極的に採り入れるとは言っても、しょせん、彼らの感覚での「積極的」なのだ。家を二、三軒持って営業できるようになるとか車二、三台持って事業ができるようになるのではないか、というのが大使館の人のコメントだった。さらに、人の雇用もある程度は認めるのではないかとのこと。

その程度だと、確かにあまり大きな変化は期待できそうにない。そしてまさに、それがキューバ政府としての狙いなのだろう。あまり大きく変化はさせない。少しずつ変える。変えてどこに向かおうとするのかはわからない。

外資は導入したいので、外国企業の権利についてはいろいろあるらしい。が、これについてはまた次回以降。

もちろん、ガラリと変わる可能性は当然ある。そもそも人が(直接)雇えるようになる、というだけでもすごい変化ではある(そのための人がどこにいるのか、というのはまた次の問題ではある)。もっと全体に自由化が進むと解釈すべきなのか? さっき、いまの市場経済は1割、と述べた。それが2割、3割になれば、たぶん状況はすさまじく変わる。ここらへん、ホント実際の動向次第ではある。

が、政府としてはすでに現状の市場経済化でも、格差が出てきているのをかなり気にしているという。地方部のサトウキビ農家は、外国人相手の商売も限られ、50年前の社会主義時代からあまり変わらない生活をしている。その一方で、ハバナの外国人相手の商売は儲かる。大学を出るより、タクシーの運転手になったほうが稼ぎがいい、という状況になっているし、そうするといろいろ国民の士気にもかかわってくる。

一方で、現状はある意味で、格差を抑えるために成長も抑える、という状況だ。それもまた、国民の特に若者にとっては不幸な状況だ。がんばっても大きく生活が改善する様子はない。医療は優秀で平均寿命が長いから、政府の中でも上のほうはずっとつかえている。ここらへん、日本ととても似ている。さてどうするのがいいんだろうか?

共産主義という文言を最初のドラフトでは削っていたが、それが最終ドラフトでは復活した。それをどう読むかはいろいろだけど、やはりあまり急激な市場経済の導入には警戒があると見るのが普通だろう。すると何があるのか……

3. 憲法改正のその他の部分

憲法改正のその他の部分は、まあキューバの国内問題なので、ぼくたちにはあまり関係ない。大統領や首相を入れて、どういう仕組みでやっていくかは、細部次第。同じく地方分権は、まあやり方次第だ。そして法治の徹底とデュープロセスは、重要ではある。これまで法体系があまり整っていなかったのを整理する、という。デュープロセスというのは、何かやったときにいきなり処刑されたりせず、裁判を受けて公平な処分を受ける仕組みができる、ということだ。え、これまではどうだったのよ、というのはつい考えてしまう。まあこれまでも一応それは行われていて、今回はそれを制度的にきちんと裏付けるのだ、というのが公式の立場。

朝日新聞は、同性結婚が認められる、というところに注目したがった。

www.asahi.com

でもいまのキューバで、同性婚なんていちばんどうでもいい話だ。ついでにいえば、他のところでもLGBT問題なんてホントどうでもいい話。というより、マイノリティの権利を守るために「マイノリティ、ウェーイ!なんとかリボンで連帯!参加しないやつらは差別主義者だからSNSで吊し上げ!」とかやり、人の頭の中まであれこれ検閲しようとする運動のやり方自体が基本的にまちがってるとは思う。が、閑話休題

ちなみに、同性婚の部分はドラフト段階で落とされてしまったとのこと。残念でした。

4. で……

 で、そういう仕組みになっているというのがわかったところで、それが具体的にどんな結果となるかについて、説明しよう。そして冒頭近くに「社会主義経済とは(中略)ぼくも含め、それが何やら市場経済のできそこないだと思っている」と書いた。つまり多くの人は、それが非常に不合理で非効率なものだと思っている。でも、合理性や効率性というのは、何を基準に見るかでまったく変わってくる。キューバの経済体制は、実はそれなりに合理性と効率性を持つのだ。それは何を最大化しようとするかのちがいでしかない。

 そんな話を書いてみよう。

 書きました。  ↓

cruel.hatenablog.com


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo YamagataCreative Commons 表示 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

統計の不備と、各種統計の「相関」の話

Executive Summary

統計の信頼性について疑問を呈した柳下毅一郎のツイートを、山形は一蹴した。が、その後勤労統計の集計方法の不備が露見した。ここから、この統計は捏造であり、それが相関しているならすべての統計が捏造だ、という極論を述べたブログが出た。しかし統計は、一かゼロか、完璧かすべて捏造か、というものではない。またその相互の関係も、機械的な関係があるということではない。信頼性の非常に広い幅の中で上下するだけなので、実際にどんな不備があってどのくらい影響を及ぼすのかを具体的に考えないと、妥当性のない陰謀論に流れてしまうだけだ。

はじめに

しばらく前に、柳下毅一郎がこんなツイートをした。

ぼくはそれに対して、こうリプライした。

ところが最近になって、ご存じの通り勤労統計の調査・集計方法に不備があったことが判明した。そして、それを受けて次のようなブログ記述が登場した。

d.hatena.ne.jp

柳下が疑問を呈したことが裏付けられた、というわけね。そして山形はまちがった統計を絶対視していてバカだね、そうでなければ統計全体が共謀して操作されていて大問題だね、というわけだ。

さてこれは困った代物だとぼくは思う。一かゼロかの非常に極端な見方をしているせいで、非常におかしな極論になってしまっている。それをここで、少し説明しよう。

まずは法華狼の主張を簡単に整理しよう。それは概ね、二つの部分に分かれる。

Part1: 「統計集計に不備があったので捏造だ!」

  • 柳下毅一郎は、統計を疑問視した。
  • そして実際に統計集計に不備が見つかったから、統計はまちがった捏造である。
  • よって柳下が正しかった。

Part2: 「統計は相関しているので全統計が捏造だ!」

  • 山形は、統計が相互に関連しているから絶対に正しいと述べた
  • でも実際には正しくなかった
  • よって、山形はバカだった。あるいは、山形が正しいなら相関している統計すべてがおかしい!!??

さて、これに類似した疑問について、ぼくはその後以下のようなツイートをした。

今回の記述は、これを一歩も出るものではないけれど、法華狼を含め、これが何を言っているのかわからなかった人もいるようだ。だから、長々と詳しく説明しよう。ぼくがこのツイートで書いたことを、「あたりまえじゃん」と思う人は、この先を読む必要はまったくない。

前提:統計はそもそも「絶対」はない

まずこの法華狼のブログ記述で、ぼくが統計を絶対視している、という題名には面食らった。統計が「絶対」というのが、そもそも意味不明だからだ。

簡単な例を見よう。日本の人口統計を見るなら、国勢調査が基本だ。でも、五年に一回しか行われない。それ以外に人口のデータとしては、住民基本台帳がある。各自治体の住民票を元に、その人口を出すものだ。これは毎年(いやもっと頻繁にでも)出せるから便利だ。でも、住民票は引っ越しても移さない人も多い。実際には住んでいない人が計上されたりする。だから精度は低い。実際、両者は一致しない。

ではこれは、国勢調査の人口が絶対であり、住民基本調査の人口データはまったくの捏造で使えないということか? もちろんそんなことはない。

まず国勢調査だって完璧なわけがない。国勢調査は、みんなへのアンケート調査だ。答えない人もいる。ウソを書く人もいる。以前オーストラリアでは、確か国勢調査の「宗教」の欄に「ジェダイ」と答えるという遊びが流行して、国民の相当数がジェダイ信徒、という結果になったことがあったはず*1

そして住民基本台帳ベースの人口は毎年(いやもっと)出る。年ごとの計画を作るならこのデータは無視できない。すると、実際の分析では、五年ごとに国勢調査の数字を使いつつ、その間の動きは住民基本台帳ベースの増加率を元にして補間する、なんてやりかたがある。遺漏があって絶対水準は少し怪しくても、その遺漏に一貫性があると想定できるなら、変化率はある程度信用できるはずだからだ。

そしていまのでわかるように、よいとかダメとかよいとかいうのも、すさまじく幅がある。山形は途上国援助が仕事なので、途上国の統計を山ほど見るけれど、まあピンキリだ。そしてトルストイナボコフではないけれど、よい統計はみな同じような形でよいけれど、ダメな統計は実に個性豊か。単純に能力不足だったり、そもそも調査しようがなかったり(識字率の低いところでは日本の国勢調査みたいなことはできない)、あるいは明らかに数字を作っていたり、場合によっては数字にあわせて現実を操作したり。

だから統計というのはそもそも、絶対的に信用できるものなんかではない。それぞれの統計を少しいじってみて、それをもとに絶対数まで信用できそうだなとか、それは無理だが変化率くらいは参考になる、各年ではノイズが多すぎるが五年平均くらいで見ればなんとか使える、変化率もあやしいが、符号くらいは何とか、というのをまずは見極める必要が出てくる。

そういうのを日常的にやっていると、そもそも「統計を絶対視」とかいう発想自体がないのだ。だいたい統計学というのはまさに、完全な情報がないところで信頼性をどう考えるか、という話なのだもの。

そして、その中でほぼ確実に言えること:

個人の勝手な印象<<(越えられない壁)<<ダメな統計<<優れた統計

Part1:労働統計の不備は、それがまったくの捏造だということか?

法華狼は、何か統計の集計(そしてその補正)に不備があった、というのを見て、つまりその統計がまったくの捏造だ、という結論にとびついた。

でも、上の「統計に絶対はない」という話がわかれば、そういうものではないことはわかるはずだ。完全に信頼できるか、まったく出鱈目かの1かゼロじゃないのだ。統計の信頼度には大きな幅がある。だから、統計に不備があったというだけで、「だから信用できない」という話にはならない。信用のほうにだって大きな幅があるのだ。どんな不備があって、結果がどう歪んだのか、というのを見ないで、不備だ捏造だ、と騒ぐのはまったくのピントはずれだ。

今回何がおかしかったかといえば、発端は全数調査であるはずのものが、三分の一ほどのサンプリング調査になっていた、ということだ。これはもちろん、よくないことだ。でもそれは、その結果がまったく捏造ということではない。サンプリング調査で十分な信頼性はだせる。ただもちろん「十分な」というのが、何に十分なのか、というのは使う人がきちんと考える必要がある。そのために、標本抽出理論というものがあるわけだ。

さらにその後、それに加える補正がおかしかった、という話も出てきている。標本調査なのをごまかそうとしてそれを三倍したりしてたとかいう話も伝わっている。はい、これも困ったことだ。厚労省、呆れたね。そしてその調査の資料を捨てていたという話に到っては、悪質にもほどがある。

が、それでも一応は調査は行われ、それに基づいた集計が行われている。まったんくの出鱈目ではない。補正する作業も進んでいるし、またその原因は人と予算が足りないことだったのも見えているので、まず何よりも統計専門の人を増やし、予算をつけないといけない。以前に比べて信頼性は下がったのは否定できない。でもそれは、100%だった信頼性が0になったという話ではない。

以上で、法華狼の主張の最初の部分は妥当性がないことが示せたと思う。統計に不備があったのは事実。でも、それがまったくの捏造だったということではない。

Part2:山形はすべての統計が相関しているので絶対だと述べたか? 一つ統計がねつ造されたらすべての統計はねつ造か?

法華狼の主張によれば、山形はすべての統計が連動しているから捏造はあり得ない、絶対なのだと言ったけど、でも実際に捏造されていた、すると連動しているはずの他の統計すべて捏造かもしれない、という。

これは、上と同じで、物事をあまりに機械的に理解しすぎている。そしてその結果として、なんだかあらゆるものが操作されているという変な陰謀論に堕している。

まず、今回の統計調査の不備がまったくの捏造とはちがう、というのは理解していただけたことを願いたい。したがって、そもそもこの理屈は成り立っていない。そもそも統計に「絶対」があるなんて、ぼくは思ってはいないのも前述のとおり。

さらに、ぼくは各種の統計が連動していて相互にチェックされていると述べた。でもそれは、あらゆる時点で完全に機械的に整合しているという意味ではない。変に数字を作ったりすればバレるよ、ということだ。

そんなことが本当に起こるんだろうか? もちろん起こる。それをまさに証明しているのが、今回の統計の不備の事件なのだ。たとえば、日本銀行厚労省の統計に関して早くから疑問視して、それを除外して様々な計算をしている。

www.nikkei.com

これは2018年11月、今回の騒ぎ以前の話だ。そしてGDP統計に関しても疑問があると述べているそうな。

ぼくが言っていたのはそういうことだ。統計の整合性を見ている人がいて、おかしな結果が続いていれば、疑問の声があがるのだ。厚労省の統計については、「そういえば変だった」「変化率しか使わなかった」といった見解が(後出しジャンケン的にではあるけれど)いくつか聞かれている。

もちろん、これはすぐには起こらない。分析の結果がずれてきたとき、それは実態の反映なのか、統計の何らかのバイアスによるものなのか、それとも故意の改変なのか? 統計の捏造でありがちなのは、あまりにきっちり他の統計に合わせすぎることだ。あと、なんか成長率が何年もまったく同じだったりとか。世の中はノイズが多いから、あまりに細かいところまで数字が合いすぎるのはかえっておかしい。少しずれるほうが自然だ。だから、統計を使うほうも、ちょっとずれたくらいでは変だとは思わない。

でも、しばらくすると、なんだか変じゃないか、ということなる。そしてそれが十分に根拠ある疑問であれば、今回のように調べ直され、場合によっては補正が行われることもある。場合によってはそのままで、「この期間は怪しい」という注意書きつきで使われることもあるだろう。でも、こうした活動を通じて統計の精度を保とうとする努力は続く。

法華狼の記述は、そこらへんを誤解している。ぼくがその後のツイートで、まさに機械的な相関があるわけではなく、ずれたらチェックするという話だといっているのを読んでも、それが意味することが理解していただけないようで、それは柳下の直感が正しかったのでは、と言っている。なぜそういう話になるのだろうか?

そして統計の精度をどう保つか、という話も、そう簡単ではない。たとえば、さっきのオーストラリアの統計で、いきなり国民の一割がジェダイ信徒になっちまった。さあどうしよう。それをどう処理すべきか? おふざけのインチキだから、そんなのはなかったことにして、残りの宗教の比率をジェダイ回答者にも割り振るべきだろうか? そんなおふざけをする連中は全部無宗教ということにしてしまおうか? それとも、調査の結果は結果として尊重し、お調子者の国民を呪いつつも、その数字をそのまま使うべきだろうか? これはホントに、その人の見方やデータの使途次第だ。

するとどういうことになるだろうか? 各種の統計は、相互に連動しているのであらゆる時点で絶対なのか? そんなことはない。でも変なことをしていれば、今回のように発覚する可能性は高まる。そして、相関があるからといって、他のあらゆる統計も捏造だなんてことにはまったくならない。その相関がおかしくなるというだけだ。したがって、二つ目の点でも法華狼の記述は妥当性がない。

結論

統計は、一かゼロか、完璧かすべて捏造か、というものではない。またその相互の関係も、相関は当然あるけれど、それは常にr=1.0の機械的な関係があるということではない。でも法華狼はそこを根本的に誤解しているために、まったく妥当性のない極端な見解を導いてしまっている。統計の集計不備は、もちろん信頼性や統計の連動性にある程度は影響する。しかも、もとの調査資料まで捨てちまったというのは、トホホな話だ。ついでに、ほかの統計も大丈夫かチェックは必要だろう(すでに始まっているみたいだ)。もっと人と予算をつぎ込もう。だけど、一つがおかしいから他のも連動してすべてでたらめ、なんて話はまったく出てこない。

おまけ:柳下毅一郎は正しかったのだろうか?

さて、法華狼の記述やこれに関するツイートを見ると、なんだか素人柳下の直感が、専門家山形のドグマに勝利した、と思いたい人もいるようだ。そして確かに、素人の直感は、ときには侮れない。でも、柳下の言ったことをきちんと見よう。いったい柳下は何を言っていただろうか?

今回柳下が「勤労統計はなんかおかしい」と言ったのであれば、それは柳下がすごかったといえるだろう。が、柳下のツイートは、どの統計がおかしいとか、どうおかしいと思うのか、なぜおかしいと思うのかも述べていない。そもそも、どこが統計をまとめているのかも誤解しているので、実際の具体的な統計が念頭にあるようでもなさそうだ。ツイートの雰囲気から見て、単にアベノミクスがそこそこ成果を挙げているような結果が出ているのが気に入らない、というだけの話だ。

それは、統計の誤りを素人の直感により鋭く見抜いたとはとても言えないんじゃないかな、とぼくは思う*2。そして当の柳下も、自分がそんな千里眼の持ち主だったのだと主張するほどは厚顔ではないと思うな。

だいたい……さっきも述べたように今回の統計の不備は、日銀もずっと指摘して、それもあってチェックした結果として露見したことだ。もし柳下が勘ぐっているみたいに安部の陰謀でアベノミクスマンセーを主張すべく統計が改ざんされているのだったら、まさにそのアベノミクスの先鋒として異常な金融政策を平気で続けている日銀が、それを指摘すること自体が変だと思わないのかな? 統計がそんなになんでも捏造できるなら、インフレ率もいじくって2%超にしないのはなぜだろうと思わないのかな? もちろん、多くの人はホントに統計のことなんか気にしているわけではなく、なんかリフレ派の悪口を言いたいとか、アベガーと言いたいとかいう程度のことなので、そういう整合性は特に考えてもいなさそうだ。それは不毛だと思うんだけどね。


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo YamagataCreative Commons 表示 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

*1:オーストラリアだけじゃなかった。世界中で流行ったみたい。でも、これで宗教について変な回答が増えた一方で、このジョークをやりたいだけのために国勢調査のアンケートにちゃんと回答してくれる人が増えたので、むしろ国勢調査の精度向上に役立った、というのは笑える。何が幸いするかわかったもんじゃない。

*2:素人が「専門家」を蹴倒す話は、ぼくは大好きだし、またそういうことは実際にある。だがそんなにない。それは偶然や様々な条件、そしてその素人の資質にも大きく依存する。そういう話は、昔こんなところに書いた。

「平成の30冊」への山形の投票

朝日新聞が、「平成の30冊」なる企画をするのでアンケートをされた。回答すると、図書カード3000円だそうで。3000円だとあまり深く考える気も起きないし、また山形の選評とかがどこかに載るわけではなく、トップ30を選ぶために集計されるだけなんだよね。

通常、こういう本を選んでくれという企画だと、いろいろひねった選書をしてドヤ顔をしてみたい感じになるんだけれど、集計されるとなると、ひねりすぎて誰も知らない本を選んだところで、有象無象に埋もれるだけで終わってしまう。ケインズ美人投票の話と似たように、他のみんなも選びそうで(故にトップ30に入る可能性があり)、しかもその中でまともな重要な本が上位に行くように考えると、まあベストセラーっぽいものから選ぶようなことになってしまうなあ。

てなことを考えただけで3000円ではすでに足が出ていると思うが、そんなこんなで、次のような投票をしてみましたよ。さて、どんなもんでしょうね。もっと科学っぽいものとか入れたかったけど、5つしか選べないし……

第1位:岩田規久男『デフレの経済学』

デフレの経済学

デフレの経済学

平成は、日本経済がバブル絶頂期から果てしないデフレに突入し、そしてそれがようやくアベノミクス/黒田日銀のリフレ策により回復して元の状態になんとかたどりつこうとした、長くつらい転落と回復の時代だった。それを早めに認識し、インフレ誘導を主張し、やがては日銀副総裁としてそれを実践する立場に回った岩田規久男のこの本は、それを評価する人もしない人も、平成という時代の大きな背景を作ったものとして忘れてはならない。

 リフレなんかダメー、と思う人もいるだろうけれど、でもそれが平成という時代を左右したのはまちがいないことなので、これは鉄板です。

第2位:アラン・ソーカル&ジャン・ブリクモン『知の欺瞞』

「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

バブルと同時にニューアカポストモダン思想が一気に凋落した。ポモをありがたがっていた日本の言論界が、同時期に存在感を一気になくした。平成はそれを克服するため、無内容なポモ言説を無内容なものだと認め、それを廃し、地に足のついた中身のある議論を再構築するプロセスの時代だった。その動きの先鞭をつけ、多くの人々の蒙を啓き、知識人とその物言いに大きく貢献した重要な本。

第3位:トマ・ピケティ『 21世紀の資本

21世紀の資本

21世紀の資本

世界的に驚異のベストセラーとなり、現代の世界における格差問題についての人々の関心を明らかにすると同時に、経済学のモデル偏重から実証への動きを示してくれた重要な本。平成の日本の様々な経済的背景も、様々な格差をあらわにするものでもあり、それを改めて世界的な動きと関連づけてくれた本となっている。

第4位:村井純『インターネット』

インターネット (岩波新書)

インターネット (岩波新書)

平成はパソコン普及からインターネット普及、さらにはケータイとスマホの普及を通じて人々の情報環境が大きく変わった時代。この中で、妨害に遭いつつもインターネットの急激な普及に尽力し、それを実現させた人物によるインターネットの解説本。もちろん今はすでに古いものの、当時何が考えられ、どんな希望があったのかを理解するのに重要。いま改めてふりかえり、現状と比較する中で平成も見えてくる。

第5位:J・K・ローリングハリー・ポッターと秘密の部屋

ハリー・ポッター文庫全19巻セット(箱入)

ハリー・ポッター文庫全19巻セット(箱入)

言わずとしれたハリポタの第一巻。2000年に出た本書は、21世紀児童書、ひいては小説のスタンダード。世界的な大ヒット作になると同時に、ネットでの評判の広がり、メディアミックスなど様々な形で、従来の本とはちがう動きを示したし、また最終刊が出るまで、平成の中盤はこのシリーズへの期待と共にあったと思う。(だんだん尻すぼみになっていったのも平成らしい、かな)

付記:ツイッターで、「第一巻は賢者の石だろ!」とご指摘いただく。そうだった!まあいいや。

これを挙げるなら、アメリカでは電子書籍普及に貢献したラーソン「ミレニアム」もありかな、とは思ったが、ちょっと新しいので。


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マクナマラの悲しい弁明

マクナマラ回顧録 ベトナムの悲劇と教訓

マクナマラ回顧録 ベトナムの悲劇と教訓

久々にバンコクにきたのに、約束時間までの空き時間が少し中途半端で、せっかくだから部屋で持ってきたマクナマラ回顧録を読み終えた。なんでマクナマラ? 別に理由はない。前から一読して処分すべえと思っていた本で、それがたまたま今のタイミングになったというだけのこと。

本としては、マクナマラベトナム戦争についての回顧録。生まれて大学に入り、フォード社長になるまでがものの20ページほど、そしていきなり国防長官になって……そしてベトナム戦争の泥沼にはまりこむ。

たぶん、マクナマラ自身としても、書くのがつらい本だっただろうし、また読むのもつらい本。もちろん、当人の弁明ではある。かれ自身は、いろいろベトナム戦争について思うところもあったのに、あとちょっとで戦局が変わるから、とか、これまでの努力が無駄に〜とかウェストモーランド大将の要求や、アメリカが勝てないわけはない、撤退するとはアカどもに利する気か、というワシントンの勇ましい政治家に押しきられ、十分なデータも分析もないまま、弱々しい懐柔策を出すしかなかったというのがその主な記述。

そしてあらゆる部分で「ここでこうしていれば」「あそこでもっと見通しについて関係者に議論させれば」「北ベトナムとの交渉をもっと進めていれば」という後悔と自責の念だらけ。

かつて、『ベスト・アンド・ブライテスト』の書評で、外部から見たこの人々についての見方について書いたことがある。

cruel.hatenablog.com

マクナマラの本書での記述は、まさにこの「ああすれば」「こうすれば」「でも自分は、だれそれは、そういうことはできなかった」という話に終始する。それをこうやってきちんと書いたのは誠実だとは思う。自分の失敗——それも何度も続いた失敗——をここまで認めた頭を下げたのは立派だとは思う。当時のマクナマラに深い遺恨を抱く軍人が、「どの口で言うか!」と思いつつも本書を読んで、それでもこれが書かれたことは評価する、と言った意味はよくわかる。

でも……弁明するつもりはないと言いつつ、やはり弁明に思えてしまうのも事実。ああすればよかった、というのは、どうすればできるようになるんだろうか。自分はこの泥沼が見えていて止めようとした、というのは立派だけれど、それができるためには何が? うがった見方をすれば、マクナマラが一人でいい子になろうとしているような印象さえある。

特にそれは、マクナマラが辞めてすぐに世界銀行の親玉になっちゃうあたりの脳天気ぶりとか、そして自分がやめてすべてが終わりという、ベトナム戦争の記述にしてもいささか中途半端な感じが否めないところとかにある。本書でかれが認めているくらいの失策、無策を続けたあとで、いきなり世銀の親玉になれるというのは——だってまさに、ベトナムでの失敗の原因は途上国の状況とかかれらの背景とかわかってなくて、傲慢にいろいろアメリカの優位性を押しつけようとしたからだ、と言った舌の根も乾かないうちに、それを世銀で続けようとするってのはどういうこと??——ぼくにはとても理解できないし、彼の本書で言っている反省がどこまで本気なのかも怪しいという気がする。いや、本気なんだろう。でも、本気でもやっぱり本当はわかってないな、という印象はどうしてもしてしまうのだ。

最後の、冷戦後の世界の見通しとかの話も、その後の変な状況を知っているぼくたちからすると、まあ教科書的な印象は否めない。でも一方で……いまのアメリカ政府に、このくらいの人たちがもっといれば、という気はする。大統領にしても、リンドン・ジョンソンルーズベルトニクソンケネディも、いまのヤツに比べれば後光が差して見えるし、国をどうしようという考えはあった。それがいまや……

処分する前に、一回読んだのはよかったと思う。たぶん、二度目は読まない、というかこのままバンコクに捨ててくるので、読みようもないのではあるけど(図書館で借りる手はあるか)。それでも……上の「ベスト・アンド・ブライテスト」評の冒頭に書いた大学時代のぼくの感想通り、なんのかの言っても、おまえら仕事もっときちんとすればよかったんじゃん、という気はするし、どうしても弁明でしかないという印象はまちがいなくある。それが、ここまで悲しいものではあっても。


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内蒙経営策:満州帝国の二番煎じプロジェクト(実はちがう)の全貌

その昔、CUTにこんな文章を書いたことがある。

アゾット/亜素州をめぐる幻想と現実。

かのクラフト・エヴィング商会『クラウド・コレクター』の書評なんだけど、その枕に使ったのが、ぼくの曾爺さんかなんかのインチキプロジェクトの話しだった。

その曾爺さんの一世一代の大ばくちが、大日本帝国の傀儡国家たる満州帝国の成功にあやかって、蒙古帝国ってのをでっちあげて搾取しようという一大計画だった。いろんなお膳立てまで整えて、関東軍とも話がついていたとかいないとか。どっからか傀儡用にフビライ汗の末裔ってのまで見つけだしてきて、擁立の準備は着々と進んでいたらしい。

さてもちろん、これを読んで真に受けた人は、まあいないだろう。そんな変なやつ&変な計画、あったわけないよねー、と。先日、小川哲『ゲームの王国』について、著者&大森望と座談会をしたときにも、この話をちょっと出して、おもしろがってもらえたんだけど、まあ聞いている人もたぶん、あまり気にもせずに流したと思う。

が、この話、まったくの本当なのだ。少なくとも、そういうプロジェクトはあった。うちの曾爺さんの一味は本当にその企画書を書いて関東軍に出している。関東軍がそれをどこまで真面目に検討したかは、知りようもないけれど……

というわけで、その企画書をお目にかけよう。

「内蒙経営策」(pdf, 7.6MB)

書かれていることはなかなかおもしろい。当時のアメリカが権益を求めてモンゴルあたりでうごめきつつ、朝鮮半島独立運動を焚きつけようとしていて云々という前振りのあたりとか(ネトウヨ諸君! エサですよ! 朝鮮独立なんて米帝の陰謀だったんですよ! でも、たぶんこれはマジにそうだったんだと思う。アメリカがそのくらいの工作しないわけないもん)。でもうちの曾爺さん、むしろアメリカの脚の速さや鋭い計算には感嘆していて、「敵ながら痛快」と感心していて、おまえいいのかよ、という感じ。でもそれに対して日本はまるで対応できてなくて、無気力許すまじ、という。んでもって、日本経済は不景気で、銀行共とかがアレで農業も商工も不況で、しかも日本の財界はまったくバカで銅相場なんかで火傷こきやがって、もっとガーンと売ってでて資本に生気を与え(アニマルスピリットってやつですな)この蒙古帝国再興やったら、「水はその低きに就く経済に国境なし」だから世界から資本がなだれこんでウハウハ、優柔不断してねーで、さっさとやろうぜ、という内容。

大正9年だから、1920年ですな。不況回復に一大(公共)事業を、というわけで、1920年にすでに文句なしのケインジアンだったというわけ。さすがぼくの先祖です。いまならリフレ派の旗を強力に振ってくれたことでしょう。で、第1期の資本金1億円がすでに払い込み、とあって、第二期のお金を優先株で調達しよう、というわけ。

もうちょっと具体的な内容がどっかにないのかなー、という気はするが、手元にあるのはこれだけ。なんでもこの曾爺さん、我が家の伝承によればこの計画のためにジンギスカンの末裔というのを見つけてきて(って、モンゴル人全員、たぶん系図をたどればどっかでジンギスカンにつながるはず)、その王位の証たる、蒙古王の翡翠、なるものを手に入れたとかなんとかで、それが実家のどこかにあるとかいう噂が流れて、一時かなり大騒ぎになったけど、何も出てこなかったのは、いまはもう笑い話(のはず)。第1期の払い込み金1億円が、現物で納付と書いてあるのは、たぶんこの蒙古王の翡翠とか、なんだろうねー。

この爺さんの、他のインチキ事業の名残も母の実家のどこかにあるらしくて、いつか見てみたいんだけどねー。

付記

柳下毅一郎より、この蒙古総合自治政府とは関係ないのかと質問がきた。

この企画書は1920年、それに対して自治政府は1936年。曾爺さんが直接関係していた可能性は低いし(1932年に死んでるから)、間接的にも、年が離れすぎてる。関係者が、ヒントを得た可能性はなきにしもあらずだけれど、一方でそんなにオリジナルな発想というわけでもないし、たぶんまったく別物と考えてかまわないと思う。が、もちろんぼくは専門家ではないし、もしその筋のプロが「いやこれぞこの分野で長年論争の的となっていたミッシングリンク!」というようなことがあって、我が家を日本史の片隅に載せてくれるというなら、もちろん拒むものではありません。

付記2

1920年だから、1932年の満州国の二番煎じではないとの指摘があった。言われて見ればそうだ。我が家の中ではそういう前振りで話されるのが常だったので、チェックもせずにそういうものだと思い込んでいた。ありがとう!

内蒙経営策:満州帝国の二番煎じプロジェクト(実はちがう)の全貌 - 山形浩生の「経済のトリセツ」

満州国の成立が1932年で、これが1920年の話だとすれば満州国は関係ない

2018/06/05 00:59
b.hatena.ne.jp


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スマートシティって結局なんなのよ。

 ぼくは、こんな何やってるかわからんやつではあるけど、一応都市計画畑の出身ではあって、いまもそういうのを追いかけてはいる(ときどき仕事にもなるし)。で、最近の都市計画がらみで流行というと、スマートシティってやつ。スマートシティ開発します、こんどのナントカはスマートシティ、あれやこれや。日本のインフラ輸出の一環でも、スマートシティを作りますとかいうのがある。

 が、結局それって何なのよ、というとよくわからない。スマートシティと称するもののパンフを見ると、暮らしやすい街作りとか、あーだこーだ出てくるんだが、でも「じゃあ、どこらへんがスマートなんですか」というのを探そうとすると、なかなかわからない。だいたいありがちなパターンとしては

  • スマートメーターとか入れて消費量とか最適化したり、ソーラー発電とか自前で持ったりして、場合によってはスマートシティ全体で電力会社と契約して仮想発電所とかそういうのでエネルギー消費を抑えます。

  • 全域にWIFIとか入れてネット使い放題みたいな〜

  • 家にジジババどもの見守りサービスみたいなのをあらかじめ組み込んでおきます

なんかそんな程度。で、この手の腐った図がコンセプトと称して出てくるのね。この手の図を苦し紛れにでっちあげた経験が山ほどある身としては、近親憎悪をのようなものをビシビシ感じてしまうのだ。

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で、先日、柏の葉スマートシティというところの説明会に行ってきたわけだ。この開発自体は、それなりによいものではある。東大工学部の柏キャンパスのあるところね。昔は東大生に柏送りといえば、なんかソ連時代のシベリア送りみたいな感じだったけれど、かなりいい感じになっているし、つくばエクスプレスのおかげでそんなに遠くないし。東大その他のキャンパスとの提携でいろいろ産学協同みたいなこともできるし、雇用創出で単なるベッドタウンではない起業とか職場とかの可能性もある。開発としても、まだ新しいから駅前に空き地とかあってアレだけど、でもだんだん新しい店とかもできてきて、いい感じではある。

でも、どのあたりがスマートシティなのかというと……ちょっとしたエネルギー管理みたいな話と、ジジババどもの見守りサービスみたいなのと、そのくらいなのだ。

www.kashiwanoha-smartcity.com

コントロールセンターで、集中的なエネルギー管理は排出管理をして、災害時には電力融通みたいなのは考えていると。それから、実証実験のところに、まあちょっとしたユビキタスがどうしたとかいうのはあるけど……あんまり大きくないよね。

で、実際に説明会にいっても、あまりそういう「スマートシティ」みたいなのは前面に出ないで、住民に優しい、暮らしやすさの追及を、高齢者にも配慮を、職住近接でインキュベーションシェアオフィスみたいなのも作って、みたいな説明で、各種関係者間の協議会を開いて地道な意見調整を通じた街作りを、というようなこと。そして、登壇者はしきりに「スマートシティとかいうのは好きじゃない」「ITが前面に出るのはよくなくて、人が中心」というようなことを述べ、柏の葉の欠点は、古い店がないとか、昔からの畳屋とか居酒屋が賃料があがったので残れない、多様性がアレで問題だとか、そういうことをしきりにいっている。

さて……人が中心とか、暮らしやすさが大事とかいうのは、ぼくもお題目としては当然ありだと思う。が、スマートシティというのは、それを何かITのゴリゴリ活用で実現しちゃうよ、というのがメインだったのではないの? ついでにいうと、畳屋さんの営業が続かないのは、賃料がどうしたいう以前に、そもそも和室が減ってきて畳の需要が限られてるからでしょ? 新規開発で賃料があがらなくても、早晩消える運命にあるよね? それは都市開発で面倒見るべきことなの?

この説明会は、不動産や都市開発関係の学会というか専門家会議みたいな、Urban Land Institute というのが主催したものだった。で、この日は重慶の都市開発関係者が大挙してやってきていた。かれらは本当に、こんな通りいっぺんのお題目を聞きたかったんだろうか? かれらの質問は、高齢者のための住戸とか多世代居住に適用した住戸プランとかはあるのか、その見守りサービスはどんな形で集約されて医療機関と結ばれているのか、ということ、さらに交通のオンデマンド配車も含めた交通へのIT活用はあるのか、各種のITサービスは収支的にもとがとれてるのか(とれてないって)といったことだった。その雰囲気からして、かれらはホントにスマートシティというものについて、IT活用について知りたかったと思うんだよね。たぶんがっかりしたと思うなあ。

そして、比較的優秀なスマートシティとされている柏の葉がこういうレベルなら、日本がインフラ輸出でやろうとしているスマートシティって、どうなのかなあ、という感じではある。スマートシティの看板あげるなら、ホントにもっとITをエグイくらいに使わないと。実はここ、あの矢野「データの見えざる手」和男のいる日立の研究所なんかもあるので、そっちがらみでもっと、ビッグデータで住民の完全操縦、みたいなのを期待していたのだ。こう、住民全部をスマホで追跡して、そのインタラクションが下がると犯罪率があがるし起業も含めた経済活動が停滞するのがわかっているから、インタラクションが一定水準以下に落ちたら、インタラクションを刺激する居酒屋や公共施設の割引券をどんどん市内でばらまいて、デベロッパー主催の無料でビールでも配るイベントでも開催して、するとインタラクションがあがって経済活動が回復するんですワッハッハ、みたいな。本郷でちょいと無料サービス券ばらまいただけで、馬鹿な東大生がどんどん柏にやってきて、ちょろいもんです人間なんて、ビッグデータの神の前にはゴミクズですわ〜、とかね。

スマートグリッド/スマートメーターも、実は言われてるほど大したもんじゃなくて、少なくとも一部では全然効果ないってことだし、するとやっぱ、スマートシティって何なのよ、というのは改めて考えないと、ダメだなあ、とは思う。

www.cbc.ca

そしてたぶん、そのためにはもっと、上でいったような完全人間コントロール作戦とか、完全自動運転オンデマンドとか、その手のとんでもないと思われている話を実際に色々試してみないとダメではないかとは思うんだよね。まあ日本で実際の人間でそれをやるのはなかなか日本ではつらいから、中国の完全顔認証監視都市とかみたいなのには絶対にかなわなくて、日本がインフラ輸出の目玉にできるほどのものをホントに作れるのか、というのはなかなか絶望的ではあるんだけど。

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これは皮肉ではなくて、本当のスマートシティはこういうものであるはずだとは思うのだ。


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セックス妖精、なぜ殺したがるの?

いま見ているすっげえ分厚いファンタジー本があって、そこで万能の主人公がセックス妖精と出会う場面がある。いやホント。セックス妖精。

そのセックス妖精、千年も前からどんな男でもそのあまりのよさに、身も心も虜になってしまい、彼女のもとから帰ってきた少数の男も鬱になって気が狂って数ヶ月で死ぬという伝説の存在で、それに出会った主人公、ウハウハでついていくわけだ。

で、この主人公くんは童貞だったので、そのセックス妖精に筆おろしまでしてもらって、もう心身ともに奪われそうよー、あー二発目したくなっちゃったー、我を忘れそう、というところでなんだか急に自制心を発揮して、なんか自分のつらい過去を思い出しているうちに、いきなり「自分は自分だ」と悟りを拓いてしまい、それにより突然風の真の名を操れる力が覚醒する!

そしてその覚醒した力で何をするかというと……

いきなり怒りが沸き起こって、そのセックス妖精を殺そうとするのだ。

えーと……

なんで殺そうとするの? 何を怒ってんの?

ぼくは、自分が何か見落としたのかと思って、そのセックス妖精の章をまた読み返した。彼女が主人公を殺そうとしたとか、なにか悪辣なことをしたような部分があったっけ? 何もなし。

しばらく考えているうちに、ここで何が起きているのかわかった。このセックス妖精に心身ともに奪われる=こいつは自分という人間の理性を失わせようとした=自分に対する攻撃である、よって怒って、殺してやる、という発想なわけか!

でもさあ、まずそういう相手だって知ったうえで、自分から進んでついてったんだろ?何を文句言ってるの?心身ともに奪われるって、別にセックス妖精があんたの心を懐に入れたわけじゃないだろ?テメーが自分の性欲に負けてサル状態になっただけでしょ?悟り開いたんなら、己のそれまでの意志の弱さを恥じるべきだろー。まして筆おろしまでしてくれたセックス妖精ちゃんに、怒ったり、殺そうとしたりなんて、なにこいつ?

……と思ったんだけど、考えて見れば、インドとかサウジとか、あるいは欧米でも(かつてだけでなく、いまでも!)、女は男を誘惑するから邪悪だとか、強姦は女が悪いとかいうのは、まさにこの発想なわけだ。でも、そういう発想と価値観をここまで当然のこととしてむき出しにするというのは、かなりすごいなあ、とかなり呆れてしまった。それも、殺そうとする!

ファンタジーだから、ちょっと中世ヨーロッパじみた世界を舞台にしているから、価値観もそれにあわせているだけと思いたいところだけれど、他の各種側面では開明的で、そういう古い価値観を出すときには、それなりに説明があったり言い訳じみた記述が伴ったりしているけれど、ここはホント、何の説明もない。作者はこれが当然、だれでもすぐに理解できるあたりまえの反応だと本当に思っているわけだ。

このIncelどもの議論とかも、日本のネラーみたいに「しょせんイケメンしかもてない、おれたちダメだ」という主張まではわかるんだけれど、そこからなんで女を殺してやるとかいう話になるのかさっぱりわからないんだけど、たぶんなんかそういう飛躍って関係あるはず。

www.vox.com

でもって殺されそうになったセックス妖精は、怖がって泣いちゃうんだけど、主人公はいったん覚醒した自分の力がすぐに消えてしまったことで涙を流して、相手の涙を見ても申し訳ないとか後ろめたい気分は一切なく、自分の力の喪失だけのことしか考えない。これまでも、小賢しい主人公ではあるんだけど、ここまでゲスになってくるとさらに萎えるよなー。

ちなみに、結局殺すのは思いとどまって、またその後も何発もやって、その後主人公はうまいことヤリ逃げします。


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