キューバの経済 Part3: 利益は「計画からのずれ」!社会主義会計と投資

前回、キューバ経済に見る「効率性」の考え方のちがいについて述べて、それをもたらす資本や投資の不足を指摘した。今回はその資本や投資の話を……

はじめに: モンゴルの財務諸表

開発援助がらみの仕事で、いろんなところでいろんな変なものを見てきたけど、いくつか後悔していることもある。その一つが、2000年にモンゴルで郵便局の改革案を作ったときに出てきた、社会主義会計の資料をなくしてしまったことだ。

その仕事では、モンゴルの郵便局の再建が仕事だった。モンゴルは昔は、GDPの一割にも相当する財政ミルク補給をソ連からもらっていて、しかも郵便局も扱う郵便のほとんどは、駐留ソ連兵さんたちが故国に書き送るお手紙によるものだった。それがソ連崩壊でみんな帰ってしまい、扱い量が激減し、確か五分の一くらいになったのかな。で、売上も激減して困ったモンゴル郵便は、郵便料金をいきなり十倍に上げる暴挙に出て、もちろんそれで郵便の需要はさらに暴落、どうしようもない状態になって……というわけ。そして折しもGSM携帯電話が一気に普及した時期、もう郵便なんか使う人はいなくなり……

モンゴルのどこかの県都
モンゴルのどこかの県都。2000年当時は、夜十時以降は電気が止まった

この仕事は、郵便がそもそも各戸配達でないなんてことがあるという点から驚きだった。遊牧民がいるからねえ、とは思っていたけれど、当時は都市部でもそうだった。みんなが(というか当時のぼくが)あたりまえと思っていた郵便配達という仕組みが、実はまずきちんとした住所表記の体系が整っているという、インフラ(とすら思ってなかったもの)に依存しているとか、驚きの連続だった。モンゴルとか、オマーンとかでは、そういう住所表記体系がないので、住所表記は「大通りのみずほ銀行の角を左に入ったトヨタショールーム隣のビルの三階」みたいなことに平気でなっているのだ。

同時に、遊牧民もいるから配達むずかしいと思っていたら、遊牧民にも直接配達することが可能だというのを知って、これまた驚いたのだけれど。

My driver with his wife
運転手さんのお宅、遊牧中

が、閑話休題。そしてその仕事では、その郵便公社の十年分の財務分析、というのが、ぼくの仕事の一部だった。

通常、そんなのは大した分析ではない。シンプルな事業で、商品やサービスの仕組みも売上も単純だ。変なデリバティブもないし、オフショア取引もない。そしてどこも、抱えてる問題は似たりよったり。だいたいは売上が減ると売上が減るうえに、客も手元不如意で売掛金がふくらみ、手持ちの現金がどんどん減って支払いが滞り、買掛金がやたらに積み上がって短期借り入れを繰り返し、首が回らなくなるのが通例だ。モンゴルの郵便公社とて、そんなもんだろうと思ったら……

出てきた財務諸表を見て、ぼくは倒れそうになった。モンゴルがFASBとまではいかなくても、ぼくたちの知っている会計方式を採用したのは、ぼくが仕事をした5年前。それ以前は、社会主義会計なるものが使われていたのだ。

そうはいっても、会計なんてしょせんは何を持ってるか(ストック)と、お金の出入りがどうなってるか(フロー)という話。つまりはバランスシートにP/Lだろ? How hard can it be? そう思って、ざっと翻訳してもらって見てみたが……

まったく何がなんだかわからない。そもそも、各費目が何を言ってるのかすらわからない。そこでその郵便公社の財務担当のおじさん(当時はぼくも、他人をおじさん呼ばわりできるくらいには若かった)に、それを教わろうと思ったんだけど、なんせ費目の意味すらわからない状態で、財務や会計に詳しいわけでもない通訳を介して質問しても、まったくらちがあかない。

仕方ないので、まず基本の基本で、そもそもこの表で、この年の利益や損失ってのは、どこに出てくるんですか、と尋ねた。

するとおじさんは、非常に困った顔をしてしばらく考えた挙げ句、こう答えた。

そんなものはない。強いていうなら、ここにある「計画からの逸脱」というのがそれに相当しなくもない。

……計画からの逸脱?!?!?!

しばらく考えて、ぼくはやっと、少し事態が飲み込めてきた。社会主義の会計は、どうやらぼくたちの知っている簿記や会計とは、まったくちがった考え方に基づいているらしい。というかその前提として、社会主義においては「企業」(というより公共事業体)の意味合いがちがう。それは利潤を追求するものではない。上から与えられる計画(あるいはノルマ)があって、それをきちんと実行するのが企業や公社だ。したがってそれに奉仕する会計は、まず「計画」があって、それに対してこの企業がどれだけのパフォーマンスを上げたか、という観点でまとめられているらしい。

じゃあその「計画」ってのが何で、どういう形で決まるのか、というのが問題となる。それについて尋ねると、それはわからん、という。それは上から降ってくるもので、下々は関知しないとのこと。

こんなの無理! そりゃあ、その「計画」をひっぺがして実際のお金とかの出入りだけ抽出することもできなくはなさそうだけど、すさまじい手間で、しかもそれをやったところでなんか有益なものが出てくるとは思えない。ぼくは泣きを入れて、財務分析はふつうのBSとPLのある五年分だけで堪忍してもらったんだけど、この変な会計は少し調べたいと思って、帰ってから社会主義会計の本を探したんだが……まったくない。英語でも皆無。そうこうするうちに、コンピュータを何度か引っ越す中で、モンゴル関係のファイルもどこかに消えてしまった。残念。あれをいまきちんと見直したら、たぶん社会主義の事業や経済運営のいろんなことが、もっとよくわかっただろうし、他に類のない資料になったと思うんだ。

Mongolian Hospitality
真ん中の人がその会計担当のおじさん。左の仕事中に馬乳酒飲んでる若造が山形

(この話が、剰余価値と利潤の関係についての話だというのがわかった人は、えらいというべきかマル経に染まりすぎというべきか。でもこれは、実務的にはあまり関係ない話なので割愛)

ちなみにその、西側式の普通の財務諸表になった期間を見ても、「あなたたち、なんで羊がバランスシートに乗ってるんですか」とかモンゴル唯一の自動販売機の話とかいろいろあったんだが、えーと何の話だっけ、そうそう、それで話はキューバ社会主義経済に戻ってくる。

1. 社会主義経済:計画と実施の分離

いまのモンゴルの話のキモは、まずここでの事業会社/公社(当然国営です)による事業運営は、何よりも「計画」と比べたパフォーマンスが重視されるということ。そして、そこからの逸脱は、「ずれ」であって、プラスでもマイナスでも歓迎されない。計画=予算ぴったりで、与えられたノルマをこなすのがポイントとなる。ある人はこれを見て「日本のお役所と同じですね」と言った。その通り。事業予算があって、それをきっちり消化するのが重要ということだ。予算を超過したら怒られる。でも予算を消化しきらないと、そのときは「鉄の男だ!」とか勲章もらえたりするけど、翌年にはその分だけ予算を減らされてしまうから、これまたよくない。だからお役所は、なかなかコスト低減のインセンティブが働きにくいと言われる。モンゴルでのかつての会計方式は、まさにその考え方を後押しするものだったということだ。

鉄の男 [DVD]

鉄の男 [DVD]

  • 発売日: 2014/03/22
  • メディア: DVD

そしてもう一つの要点は、事業省庁/公社は自分では計画を作らない、ということ。経済の各種活動、つまりは事業会社の事業は、お上が決める。だって、計画経済ですもの。経済全体のバランスがてっぺんで決まり、事業を行うライン省庁/会社はその中の、指定された部分について請け負う。それをこなすために必要な資源は、もちろん計画側が計画する。その計画を作る部分の細かいやり方は謎。もちろん、各ライン省庁からの要望は訊くが、その優先度をつけるのは計画官庁の管轄だ。

これはキューバでもまったく同じ。当然のことで、これがまさに計画経済の真骨頂だ。だれかが中央で、まとめて計画する。全体のバランスを考えて、そのための資源配分を決める。キューバではこれは、経済計画省というところになる。

脱線. 社会主義計画論争

中央計画式の計画経済は、いまはダメダメ、ということにはなっている。でもそのほうがよいのだ、という議論も成り立たなくはない。これは特にバブルについて言える。たとえば不動産バブル。何かを契機に「これは儲かる」と思って各種の企業がいっせいに建設に乗り出し、作りすぎて、市場がだぶつき、暴落を招く。中央計画官庁があって「おめーら住宅作りすぎ。この市は人口五千人しか増えないんだから、建て替え含めても新規では二千戸までね」と言えれば、バブルは発生しなくなる……かもしれない。フードロスとかいう、どうでもいいことを気にする人もいる。食べ物がいっぱい廃棄されてけしからん、というわけ。でももちろん、だれが何を食べるか計画し、それにあわせて食糧生産できたら、理屈の上ではフードロスはなくなるよね。それはつまり配給システムってやつだ。

もちろん、これに対しては現実が強い反論をつきつける。日本の1980年代不動産バブルのときは、その一つの原因は国土庁がやたらに強気なビル需要予測を出してたことだ。お上の調整能力どころか、お上が煽ってどうする! そして前回の「選択」の話と同じで、ロスが出ないようぴったりに作るということは、何かあったときのバッファがないということでもある。みんなが気まぐれで好きなものを食べる選択肢がなくなるということでもある。ついでに言うなら、食べ物無駄にしないと食文化は発達しないと思うんだけどねー。日本酒の吟醸とか、味をなくすために米を4割とか5割とかやたらに削りまくって、さらにその栄養価を微生物に喰わせてアルコールを……まあいいや。

で、このどっちがいいか、というのは価値観の問題かもしれない。さらにもちろん、このどっちがいいのかというのは、その計画の出来次第でもある。これが精緻にはずれなしにできるなら、もちろん計画するほうがいいだろう。「無駄」なバッファは必要なくなる。ただ、現実にはそこまで精緻な計画を立てられる人はどこにもいなかった。これがもちろん有名な「社会主義計算論争」というやつだ。

cruel.org

脱線ついでに言っておくと、ぼくは最近の「AIで産業が変わるぜー、経済が一変するぜー」という軽薄な議論の多くが、この社会主義計算論争の非常に粗雑な再演にしか見えない。その一方で、もしこの粗雑なAI論者の言い分が多少なりとも正しいのであれば、ひょっとしたらそれは、世の中のバランスを市場経済から社会主義計画経済みたいなものに少し傾けるような根拠にもなるのかもしれない。ここらへんの含意は、前回も出たチャールズ・ストロスや全盛期のギブスンみたいなSF作家が漠然と考えているだけで、きちんと考察した人は全然いないのが不思議なんだけど。

だがそれはさておき、ここで言いたいのは、計画経済は原理的にはありえるし、優れたものに成り得るということだ。ただし、今のところ実際の計画者の情報収集力や計算能力には限界がありすぎるから、その「原理的」な理想はまったく実現性がない。だから、原理だけにすがって「いや真のマルクス/レーニン様の教えが実現されれば〜」とかいうのは妄言なので、そんなやつらに耳を貸してはいけないけれど、市場のほうが絶対にいいのだ、という議論は、前提とか範囲とかをチェックしておくべきではある。限られた範囲でなら、計画経済も勝ち目……はないにしても、ダメな市場経済と並ぶくらいにはなれる可能性は、ないわけではない。現時点では誤差範囲とはいえ、宗教的な市場原理主義にも、すこーし警戒する必要はあるのかもしれない。

とはいえ、みんな漠然と「計画経済」というけれど、何をどこまで計画するんだろうか?

2. 社会主義経済:計画の範囲と投資

ほとんどの人は、計画経済の「計画」についてあまり具体的なイメージを持っていない。ぼくも持っていなかった。今年はきみの工場ではトラクター100台作りなさい、とか、ボルガ=ドン運河を3年で完成させなさい、とか鉄鋼の生産量を2割増やしなさい、といった程度の大ざっぱな指示が出て、そうだなあ、そのための予算でも与えられて、あとはその担当者に任されるのか、と思っていた。

でも、よく考えればそんなはずはない。トラクターに必要な部品や素材、あるいは運河の建設に必要な資材や労働、そういうものだって当然ながら計画されてないといけない。だって、その部分だけ勝手に市場経済が動いてて、担当者が好きに調達できるなんてはずがないもの。トラクターの生産量が決まっているなら、そのために必要となるタイヤやネジや鋼板の量も自動的に決まる。運河建設なら、必要なコンクリや鉄骨や建設労働者の量も決まる。そういうのも全部計画の対象となる。そしてもちろん、その鋼板に必要な鉄鉱石も、コークスも、コンクリに必要な石灰石も量が決まる。そしてさらには、労働者の衣食住まで全部決められる。

要するに、これは経済全体を一つの産業連関表としてみようということだ。ちなみに産業連関表そのものが、マルクスの発想をベースにしてレオンチェフが考案したものだそうなので、この見方はちゃんと歴史的な裏付けを持っておるわけです。

ja.wikipedia.org

そしてここでの公社は、基本的には計画省庁の決めた計画を、計画省庁の想定したやり方で実施し、計画省庁の決めた計画通りのノルマを生産するという、純粋な生産ラインとなるわけだ。そしてそこでの工夫の余地は、少ない投入で同じだけのものを生産する、というものとなる。なまじたくさん生産しても、全体の計画の中で余るだけですからね。

キューバでも、だいたいそうなる。たとえば各地に、トラックのバラ荷輸送公社というのがある(コンテナ輸送公社は別にある)。ここは、輸送計画(ノルマ)がある。今月は、この工場から鉄道貨物駅にXXXトン運ぶ、というわけ。そしてそのためのガソリンやオイルの割り当てがある。たぶん、各種実績に基づいた標準燃費計算があるんだろうね。そして、ガソリンやオイルを節約してその輸送ノルマを果たせば、それは誉められるわけだ。

そしてそのための手法は当然ながら、前回書いた通り。

  • でかい車で
  • 同じものをまとめて
  • 限られた箇所だけに

運ぶというやり方だ。

でもいったんこのルートと配車が決まれば、それ以外の改善の余地は? それを実現するためにこうした公社が気にするのは、戻りの空荷だ。トラックが荷物を運んで、駅で降ろして、空っぽのまま戻ってくるのはもったいない。いかにして戻りの荷物を確保するか、というのがこの公社の腐心するところで、そのために空荷禁止規定まである。でも、輸送には偏りがあるから仕方ないこともある。そのときは、空荷許可証をもらわないといけない。それなしで空荷で走っていると、検問で取締にあう。

これだけだと、そんなに変には思えない。でもこれはもちろん、そのためのトラックがちゃんと動けば、という話ではある。つまりいまの話は、変動費のところだけ見ていて、固定費のところはまったく考えていない。そしてそれは当然のことだ。だってこの事業会社は、別にそのトラックなど資本設備 (最初の憲法の話で出てきた「生産手段」) を保有はしているけれど、「所有」しているわけではないもの。だからそれを買ったりとか、更新したりとかいうのは、彼らの仕事ではない。当然ながら、それにかかる減価償却費はこの公社の負担ではない。そういう意味での固定費や投資的経費は、ない(給料とかどういう勘定になってるのか、まだ全然わからない)。

3. 社会主義経済:減価償却の (末端での) 不在と設備更新

そもそも社会主義会計は、減価償却の概念がなかったとよく言われている。これは必ずしも正しくはないようだ。こんな古代の論文を見ると、そういう考え方自体はあったらしい*1。少なくとも、設備の損耗を考慮してそれを置きかえるための基金を積む、という意味では。

森章「社会主義減価償却基金の理論について」(1977) m-repo.lib.meiji.ac.jp

ただし、この論文にもある通り、当初は基本的に、それはすべてお上(いや、人民の主体を体現する政府/アンカですねー)が吸い上げ、中央で有効活用するものだったようだ。末端で減価償却費を負担し、それを使って再投資に備えるという発想はなかった。その意味では「減価償却がない」という言い方も、実務的にはおおむね正しい。

でもそれがNEP(!!!あのNEPかよ!)のときに、末端の事業体の裁量を増やすときに、少しは末端でも投資っぽいこと考えてもらおうということで、概念的には導入されたらしい。減価償却は生産ナントカ基金として中央でまとめて仕切るのが本来のアレで、それに対してそれだと末端の裁量が〜みたいな反論もあった、という話(減価償却論争、ですか!!! すごいね)。結局はなんだか両方やる、という話になっているみたいで、なんだかんだいいつつ、たぶん大きな部分については、上で吸い上げて使う話になっていたらしいね。

この現実の運用がどうだったかはよくわからない。これがマル経の文献すべてに言えることで、「だから実際の帳簿とか見せてくれない?」というのが皆無なのだ。キューバでも修繕費用くらいは事業公社レベルでも負担している。そしてエンジンの積み替えとか、かなり投資的経費の資本になりそうなものもやっている。でも大規模なもの(車両の買い換え)は事業公社レベルではなく、どっかずっと上のところが見てる。

ある意味で、これは仕方ないともいえる。だって生産手段(つまりは機械設備その他)を所有しているのはその企業ではなく、人民(つまり国)ですからね。その公社とかは、それを使って事業をしているだけのオペレーターだ。彼らは資産を持ってはいない。だから彼らが減価償却費を負担したり、更新用の費用を積んだりする筋合いはない、ということになる。資産を正規に所有している国が、そういうのは全部面倒を見るのが筋、というわけだ。ぼくはレンタカーを使ってもその車の減価償却費なんか負担しないものね。それはレンタカー会社がやることだ。

(でもレンタカーの場合、車なり設備なりを借りているレンタル料は、その減価償却費を含む形でたぶん設定されているよね。同様に社会主義会計だと、それぞれの事業公社は、国に対してその車とか設備とかのレンタル料を支払ったりしてるんだろうか?そこらへんもよくわからない。が、閑話休題)

そして投資経費やそれに伴う減価償却を考えず変動費だけ見るとどうなるか? もし計画官庁側が豊かで、なんでもホイホイ買ってくれるなら、どんどんトラックをもらうのが最もお得だ。でももちろん、キューバは(そしてほとんどの社会主義国は)そんな状況ではない。するとまず、壊れたりぼろくなったりしたとき、新しいトラック(資本)を自分買おうということはできない。それを決めるのは、事業会社ではない。もちろん、要望は出すけれど、それが聞き入れられるかどうかはわからない。すると、とにかくどんなにオンボロになっても、手持ちの車両を使い倒すしかない。なんとか次の投資がまわってくるまで、それで保たせるしかない。

そして計画側からは、そうそうおいそれと資本を新規に導入するわけにはいかない。なぜかというと、外貨という問題があるからだ。自分で作れない車両や機械を買うには、外貨が必要だ。旧ソ連があった頃には、たぶんいろいろやりようもあったはず。でもいまや、経済制裁しているアメリカはもとより、ロシアや中国から入れるのも外貨がいる。これはどんな資本だろうと同じだ。それを割り振るのも計画官庁の重要な仕事となる。そして全体が不足していれば、いまあるトラックでまがりなりにもやりくりできているなら、まあしばらくそれで続けてくれ、ということに当然なってしまう。よく、減価償却があるから設備の更新が進む、といわれるけど、実はそこには、ホントは設備更新したほうがメンテ費とかも含めいろいろお得だから、という暗黙の想定がある。でも減価償却終わった、簿価ゼロの設備で事業がまわるんなら、それがいちばんお得だ。いま使ってるコンピュータ、2012年購入だし。

そしてだんだん車が物理的限界を超えて壊れるなかで、ノルマを果たすのは一層むずかしくなり、とにかくさっきの方法を貫徹するしかなくなる。

  • でかい車で
  • 同じものをまとめて
  • 限られた箇所だけに

運び、そして残ったトラックの稼働を最大化する、というわけ。でも、それでまわるんなら……ということで、ノルマを果たせば投資はあとまわしになり、さらに苦労するといった変な循環が起こってしまうらしい。

結果として、設備の更新はなかなか進まない。ぼくたちがキューバにでかけると、「うわー、こんなクラシックカーがいっぱい走ってる!」と結構感激する。でもそれは以前も書いた通り、決してクラシックカー愛好とかいう暢気な理由のせいではない。ここに書いたような話で、とにかく車を買うような資本投資ができないからだ。そしてその資本投資ができないおかげで、いまある資本は西洋的には簿価ゼロになっても、とにかく使い続けるしかない。建物とかも同じ話だ。

f:id:wlj-Friday:20190312105929p:plain
ハバナで見かけたT形フォード。でも中身はさすがに入れ替えているらしい。

4. まとめ:社会主義の計画経済と会計システム

まとめよう。社会主義経済において、資本投資が進まない理由はいくつかある。

  • 計画経済。何をどれだけ、どのように作るかが計画官庁で決められている。このため現場からのカイゼンイノベーションが進まない。
  • 計画主体と実施主体の完全な分離。実施主体は自分では投資判断をせず、設備運用と設備投資の最適バランスが考えられない。
  • 会計システム。実施主体は手持ち資本での計画遵守を追及するので、設備更新を考えない。減価償却がない(または特に末端では不十分)なのでみんなが設備更新のためのお金を積んだりそれを後押ししたりするような仕組みもない。少なくとも、それを各現場で分散的に考えて実施する仕組みはない。
  • 計画サイドのリソース不足社会主義計算論争にあるように、計画サイドはここまで様々な部分での投資ニーズをきちんと把握し適切に分配するだけの、情報収集力や計算能力を持ち得ない。あるいはそれがあったとしても、彼らの直面している制約のために全体的な投資が(ほとんどの社会主義国では)不十分とならざるを得ない。

ただし…… これは確かに、ぼくたちから見ると「もうちょっとなんとかならないの?」という印象は受ける。でもその一方で、いま例えばキューバが受けている制約の中で、これをどう変えるとよくなるのか、というのは実はとってもむずかしい。完全に経済を開放してすべて自由化すると、すべてよくなるんですか? そういうお題目を信じたロシアや中南米諸国(かなりマシとはいえ一部東欧も)は、ずいぶん煮え湯を飲まされた。それを考えるとかなり考え込んでしまう。これはぼくの訳書もふくめ、いろんなところに出てくる。

てなことで、何をどうすればいいのやら。うーん。気が向けば、もう少し大きな経済状況の話なんかもできるかもしれないけど、期待しないで待っていてくださいな。

おまけ:社会主義経済って?

 日本はマル経が大好きなので、社会主義経済の教科書とかいっぱいありそうなものだ。でもマルクス様のお説法の話とか、哲学っぽい話はいろいろあっても「で、それが具体的にどういう仕組みでどうまわるの?」という話をしてくれる本はほとんどない。最初のモンゴルの話でも出た、社会主義会計ってどうなってるの、とかね。ぼくがそこまで本気で探さなかったせいもあるんだろうけれど。そしてそれなのに、前出の社会主義減価償却の論文みたいにいきなり冒頭で「周知の通り」とか、いきなりなんでも知ってるのが当然にされてしまう。

 多少なりとも具体性というか現実に沿った教科書で、ぼくたちにもある程度は理解できるものとしては、たぶんこんなあたり:

これもまあ、「この考え方はマルクス様がどこそこでこう言ったのに対応し〜」とか「レーニン様のなんたらの概念に基づく云々が〜」とかうざったくてアレなんだけど、それでも一応、全体的な見通しは得られそう(ぼくも当然ながら、こんなもの全部読んだりしてない)。上で出てきた、剰余価値と資本主義における利潤との関係とかも、これでまがりなりにもわかりました。他にもっとよい本があれば、教えてたもれ。


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 山形浩生 Hiroo Yamagata 作『キューバの経済 Part3: 利益は「計画からのずれ」!社会主義会計と投資』は Creative Commons 表示 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

*1:しかしこの論文すごいねー。1969年の論文だから仕方ないとはいえ、p.219一番下の註の、金日成思想マンセーとか、クラクラする。

平成の30冊:考えるだけ無駄でしたがカード3000円ゲット

朝日新聞の平成の30冊なるものの結果が発表された。

book.asahi.com

文芸偏重ならあらかじめそう言っておいてくれれば……

山形もアンケートに回答していろいろ考えたけど、考えるだけ無駄でした。が、クオカード3000円(いや、図書カードだったかな)はもらったので、ま、いっか。

cruel.hatenablog.com

しかし、民主と愛国があんなに高位につけるとか、え、なんだって、白川ほーめい???!! まあ平成の主犯格という意味では上位に入るのもありかもしれないけど…… どういう人にアンケートしたんだろうか。かなり偏ってるとは思うぜ。

120人のアンケートで、ぼくが選んだものが一つもかすっていないのを見ると、まあものすごくばらけて、たまたま二人か三人が重複して選んでいたらそれだけで入ったんだろうねえ。


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo YamagataCreative Commons 表示 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

キューバの経済 Part2: 経済の「効率性」とは?――物流と『ザ・ゴール』

はじめに:社会主義の「いいところ?」

前回の、憲法改正の話を書いたら、はてなブックマークに「社会主義のよいところも書くべき」というコメントがついて、ぼくは少し驚いた。えーと、どんなところが「いい」と思ってるんだろうか?

強いて言うなら、格差が公式にはあまりないのはいいことかもしれない。が、あらゆる社会主義経済の常として、その低い格差は、全体を抑え込むことで実現されているものだ。配給制により、衣食住は一応だれにでも確保されることにはなっている。でも、特に住では、物件ごとにロケーションも質もちがう。いいところに住めるかどうか? それは平等ではありえない。結果として、土地利用とか変な無駄だらけ。都心国会議事堂の真向かいに、おんぼろの、ぼくたちから見ればスラムみたいな住宅があり、そしてキューバ最大の商業目抜き通りである、オビスボ通りのど真ん中に、こんな服飾の縫製工場が平気である。日本で言えば、銀座の松屋のあるところに、スマホの組み立て工場があるくらいの感覚かな。

f:id:wlj-Friday:20190301160642j:plain:w321
オビスボ通りど真ん中の、グアヤベーラ縫製工場。一着40-60ドルくらいで、安いし正装にもなるので便利。

社会主義では、乞食も浮浪者もいないはずだけれど、実際にはそれに相当する人は見かける。そして一方で、格差はやっぱり存在している。外貨を稼げる立場の人は豊かだ。持てる人、持てない人の差ははっきりある。

これは局所的な現象だとは思わない。こういう話は、旧東欧、ソ連のあらゆるところで見られたものだ。ぼくはこれが社会主義の避けられない帰結だと思う――ボリシェヴィキたちが考えていたように、本気で人間が進化して「新しい人間」にでもならない限りは。

ぼくはSFマニアでもあるので、こうした「新しい人間」とかいう発想それ自体は好きだし、チャールズ・ストロスとかが言うような、計算能力の向上に伴う社会主義計算論争の逆転といった発想も、そろそろ真面目に考えはじめていいとは思っている。とはいえ、現状の各種インフラでそれを主張するのは、無謀じゃないだろうか。

が、ちょっと先走りすぎた。それと、社会主義のいいところはさておき、キューバはいいところではあるんだ。あちこちでこんな光景があるのはホントに楽しい。若者もジジイもおっさんもおばさんも、みんな踊れる。かっこいい。


Salsa in Havana

もっとも、最近の若者は、ラップとかに走ってサルサなんかやらないので、だんだん踊れなくなってきてるんだって。「若者のサルサ離れ、深刻に」というわけね。

あと、フスターランド、楽しいでー。都心から遠くて車片道20ドルほどかかるから、群れてでかけるのが正解。

f:id:wlj-Friday:20190301124003j:plain
フスターランド

芸術家のフスターさんが、自宅をタイルモザイクの作品化したら、隣近所の人も「うちもやってー」と依頼して、やがて町全体がアート作品になったところ。

フスターランドの屋上

が、閑話休題

1. キューバの暮らしの片鱗

社会主義経済の話をするため、まずここらの生活の片鱗からご紹介しよう。前回述べた通り、外国人は基本的にはキューバ人の個人宅には行けないから、実態といっても、町歩きでかいま見る程度にはなってしまうけれど、何週間もいれば少しずつ見えてはくるものがある。

まず、食べ物。前回も述べた通り、は配給だ。町のあちこちには、こんな配給パン屋さんがある。

町のパン配給所。同じ丸パンが果てしなく並ぶ。
町のパン配給所。同じ丸パンが果てしなく並ぶ。

人々はここに配給手帳を持って、もらいに出かける。パン以外にも、多くのものが配給で提供されているはずなんだが、それもやはりこういう配給所がある。

キューバの物資配給所
キューバの物資配給所

するとどうなるだろうか。配給手帳で対応できる品には当然ながら、限りがある。無数に配給手帳を揃えるわけには、いまはいかないものね。そのうち配給アプリとかができれば、そんなことも可能になるのかもしれないけれど…… ということはつまり、配給される商品も限られるということだ。そしてそれはつまり、食べ物、ひいては料理も大きく制約されるということだ。毎日、毎食、ほぼ似たような食べ物となる。

黒い豆入り炊き込みごはん白米に豆の煮込み黄色いごはん
キューバの昼ご飯のバリエーション

キューバの主食は基本は米で、キューバ人に言わせると「米のない食事は食事ではない、それはスナックにすぎない」という。米、豆、根菜、豚肉か、鶏肉――おおむねこれがキューバの一般的な食事のすべてだ。つまりはこれが三食すべて。ご飯が黒いか、黄色いか、白いかとか程度の差はあるけれど、その程度の差だ。

そして、この写真を見てもわかる通り、緑の野菜はあまりない。キュウリとキャベツくらいだ。おそらくは、後で述べるように物流的な制約があるからだ。キューバから日本に帰ってくると、毎日店頭にほうれん草やキャベツやレタスが普通に並ぶのがいかにすごいことか、改めて感じられる。低温輸送のインフラ、確立した定期的な大量輸送手段、そしてそれに伴う保存手段――それがあって、始めて緑の野菜が店頭に並ぶのだ。

キューバの農産物は、農薬も殺虫剤も使っていない。その意味では、有機栽培ではある。でもそれは別に、何やら信念があってのことじゃない。肥料や殺虫剤を買うお金(外貨)がないからだ。そもそも有機栽培も無農薬栽培も、栄養的に何ら意味がなく、むしろ環境破壊の元凶でしかない。そして肥料も殺虫剤もないから、キューバの市場に並ぶ作物は、どれも小さくて貧相だ。食用バナナも、黒くなっていないものは一つもない。日本ではたぶん店頭にだせないような代物や、あっても売り切り特価セールの棚に三袋100円で叩き売られているような代物ばかりだ。有機栽培の食べ物が美味しいとか思ってる人がいるけど、そんなことはまったくない。海原雄山がどんなご託をこねようとも、動物も植物も栄養状態がいいやつのほうがうまいんだよ。

キューバは他に野菜がないから、そんなものでも喜んで食べる。でも一週間もいると、「ああもっと野菜が食いてえ」と思って、チャイナタウンと称するところにでかけて、すさまじく後悔するのがアジア人種の常だ。

ちなみに、配給品は全国だいたい同じらしいので、ご飯も全国どこでもこんなものだ。地方色なんてものはない。あるとすれば、野菜とかは地方部のほうが地産地消なので豊富だったりするくらい。

食べ物以外の日用品はどんな感じだろうか? あらゆるものが配給というわけじゃない。でも、一般的な店舗はこんな感じだ。

ハバナ:町の雑貨屋さん

なんか……非常に寂しい感じでしょう。実はこれですら、かなり品が豊富なほうだ。今回、地方部をまわったのだけれど、いっしょにいったキューバ人たちがあちこちでどうでもいい(とぼくたちが思うもの)を買いこむので、かなり驚かされた。「調理酒があったから買った」「洗剤があったから買った」「卵があったから買った」という。なんか特殊な洗剤や卵か? いいや。でも、ハバナには出回らないことも多い。あるときに、ある場所で買っておかねばならないんだって。

町の卵売り
町の卵売り。同行したキューバ人は、全部まとめて買っていた。

これは庶民で、少しお金持ちだと外貨が使える高級スーパーがある。その中はこんな感じだ。

ハバナの「高級」スーパーの棚

多くの人はこれを見て、なんか異様な印象を受けるはずだ。ぼくも、店に入った瞬間に「とんでもないところに来た」的な感覚の出所がわからずしばらく腕を振り回したりしてた。

その違和感は、棚がほぼすべて同じ商品しか並んでいないことからきている。ついでに、棚に妙に空きがあるのも違和感のもとだ。

f:id:wlj-Friday:20190301124057j:plain:w321
高級スーパー

日本のコンビニは、千種類くらいの商品をおいていると言われる。この結構大きなスーパーは、他の棚もすべてこの調子。全部で100種も商品があるかどうか。

さて、これで何が主張したいかといえばもちろん、こうした商品選択の幅の少なさは、食事を始め生活の幅を狭めちゃってるよね、ということだ。そしてそうした選択の少なさは、つまりは生活が貧しいということでもある。一人あたりのGDPや所得が低いというだけじゃない。生活の質も制約されるということだ。

2.選択肢と豊かさ

さてそれを聞いて、もちろん左翼がかった人々や、卑しいエコ思想に汚染された人は言うだろう。「いや、こんなのは貧しいとはいえない。店の商品が多いから生活が豊かということにはならないぞ」と。いやそれどころか「強欲な大企業による、くだらない押しつけられた選択肢に惑わされず、冒頭で紹介したようにみんな踊ったり、卵売りの写真の背景にいる人みたいに自分で楽器を楽しんだりできることこそが、真の豊かさではないのか!」

そういうことを人ごとで言うのは簡単だ。そしてぼくも『選択の科学』とか読んでいるし、なまじ選択肢が多いのが幸福なんだろうか、としたり顔で言うのがかっこいいと思う気分もわかる。そんな洗剤百種類もいらないだろう。ポテチも三種類でいいはずじゃないか。目先の選択肢にまどわされ、ぼくたちは本当に大切なものを見失っているのではないでしょうか、もう一度真の豊かさとは何なのかを、ぼくたちは考え直す時期にきているのではないでしょうか、というわけだ。

でもそういうことを言う人の多くは、その揃っている少数の品揃え中に、ご自分のお気に召すものが入っているというのを当然のように前提としている。そういう人に限って、二枚重ねのトイレットペーパーがないとか、ポテチのBBQ味がないとか、そういうことでグチを言い出すのだ。あくまで一般論ね。もちろん、これをお読みのあなたはちがうかもしれないね。でも豊かさを問い直そうとか言う人が、豊かさを前提としてしかあり得ないようなアイテムや活動にやたらにこだわる、というのはよく見かける現象なのだ。ちなみに、「豊かさを問い直すべきではないか」という人はほぼすべて、他人に上から目線で「べきではないか」と言う自分に酔っているだけで、本当にそれで豊かさをまともに問い直し、そして自分自身が貧乏生活に甘んじようと決意した人なんか誤差範囲でしか存在しない。あるいは、もともと貧乏な人がやっかみで口走ってるだけだ。

そして多すぎる選択肢が問題だ、という人は当然ながら、それに対する対案として、適正な数の選択肢、というようなことを漠然と思っている。でも、その「適正な数の選択肢」の中に自分の好きな選択肢がある保証はあまりない。多すぎる選択肢は実害があるかもしれない。それを実証する実験は確かにある。でもその実害は、自分のほしい選択肢がない実害と比べてどのくらい大きいのか? ぼくはそれをきちんと見たことがないように思う。

実は、多すぎる選択肢の反対は、適正な選択肢ではない。それは、選択肢の欠如であり、品不足だったりするのだ。つまり選択肢が限られるということには、もう一つ大きな弊害がある。その限られた選択肢がなくなったら? そのカテゴリーの商品はまったく存在しなくなるのだ。そしてこれは、キューバではよく起こることだ。ぼくがいたとき、なぜか便座のふたがどこにもなかった。キューバの人は、アフリカ黒人の血も入っているので、尻がでかい。だからみんなすわって割れちゃったのかな、と仲間内では冗談を言っていたけれど、便器に直接すわるのはイマイチ気持いいものではない。

便座くらいなら、まあお笑いかもしれない。でもぼくがいたとき、国産ビールがしばしばなくなった(国産ビールは二種類しかない)。塩がなくなったり、卵が手に入らなくなったり、洗剤が消えたり、いろんなことが起こる(だからキューバ人の同僚たちは地方で、「そんなのここで買わなくてもいいじゃん」というようなものを、しこたま買いこんだ)。

そして、これはある種、予言の自己成就みたいな現象を引き起こす。いろんなものが、いつ売り切れるかわからないとなったら、みんなどうする? もちろん買いだめするだろう。キューバ人だって同じだ。水も、ビールも箱買い。卵も百個単位で買う。そんな具合に、品不足だと思っているので、人々があるものをまとめ買いしてしまい、すると店の商品はすぐなくなって、本当に品不足になるわけだ。

おもしろいことに、そうした商品は必ずしもまったくないわけではないようだ。実は同じ市内のどこかの店には、山ほどあったりする。すると、どういう具合か知らないけれど「今日はあそこにビールがあるらしい」という噂が流れて、人々が殺到したりする。そしてみんな箱買いしてそれがすぐに消え去る。

そういう状態なので、あらゆる状況では供給側のほうが強い。ほとんどあらゆる店には、門番がいて、入る人を制限する。すると当然、あらゆる店に行列ができる。行列ができるというのは、何かがあるということなので、もちろん行列も自己増殖する。キューバはアイスクリーム屋が人気だけれど(アイスはなかなかうまいっす)、そのアイス屋でもみんなこうして行列している。

ハバナのアイス屋も行列
アイス屋も行列

品不足、行列…… たぶんソ連の末期や東欧の話を聞いた人は、これと似たような話をいくらでも聞いたことがあるんじゃないかな。

でも、なぜそうなるんだろうか?

3. 「合理性」と「効率性」:『ザ・ゴール』の教え

なぜそんなことになるのか? ぼくたちはこれを見てすぐに「社会主義は不合理だから」「非効率だから」と答えて事足れりとしたがる。

でもそれを認めるにしても、それだけでは不十分なのは明らかだ。この現象がソ連でも東欧でもモンゴルでも見られ、そしてキューバでも見られたということは、その「不合理性」や「非効率性」がランダムではない、ということだ。同じ現象――行列や品不足――をもたらす、規則性のある不合理性や非効率性があったということだ。何がそういう規則性を生み出すのか?

答えはCMの後で、とか変な引き延ばしをせずに最も簡単かつ大くくりに言ってしまうと、それはつまり需要が供給に反映されないということで、つまり市場システムがないという話ではある。市場システムでは、何かが足りなければそれは発注増や、価格の上昇を通じて供給側にシグナルを送り、その結果として供給が増え、需給が均衡する。経済学101というやつだ。それができてないから、行列なんかが起こる。

でもさっき述べたように、どうも商品が単純に不足しているという話だけではなさそうだ。町のどこかの店には、ビールが大量にあったりする。少し田舎に出れば、卵や野菜もある。それが適切に分配されていないという問題も大きいようだ。生産の増強はそんなにすぐできるわけではないなら、短期で考えたとき、何がこの問題を引き起こしているのか?

どうも、輸送手段、つまりはトラックをはじめ車両が不十分なせいらしいのね。

これはキューバにくれば、だれでもすぐに気がつくことだ。ハバナは、クラシックなアメ車がいっぱい走っている絵はがきで有名だ。こんな具合。

classic cars in Havana
classic cars in Havana

でもこれは、別にキューバの人々が趣味でやっていることではない。この写真に映っているのは、観光用のきれいにしたクラシックカーだ。でもそれ以外にも、ハバナはほんとに汚い、おんぼろな、黒煙を上げて走り回るぼこぼこのアメ車だらけだ。そもそも車がないので、そんなスクラップ寸前の代物でも使わざるを得ないということなのだ。そして壊れてもそのままおとなしく死なせてはくれなくて、こんなすさまじいつぎはぎハイブリッド車にされてしまう。

つぎはぎの変な車
前はアメ車、エンジンはどうもヒュンダイ、後ろは何か得体のしれないピックアップ

新しい車が入ってこないので、とにかくこんなのでも使い続けるしかない。だから車の絶対数がそもそも足りない。おかげで道もガラガラだ。どのくらいガラガラかと言うと……そうだな、『ワイルドスピードスカイミッション』(かな? シャーリーズ・セロン様がドローン使ったテロリスト役するやつ)の冒頭を見てほしい。ここで、ヴィン・ディーゼルは何が悲しくてか、ハバナなんぞに引きこもって、公道レースをしたりしてる。次の後半あたりね。


The Fate Of The Furious (2017) The First Ten Minutes

もちろんこれを見ながらぼくたちは「ホントはこんな公道レースなんて無理に決まってるよねー、へへーん」と思う。ついでに、こんな半ケツのねーちゃんがうろうろしてるわけないだろう、と。ところが実際のマレコン通りにきてみたら、平日の朝でもこんなもん。公道レースくらい余裕でできそうだ。

Malecon at 9AM
マレコン通り、朝九時

公道レースは見かけたことはないけど(あと半ケツの女の子もいないけど)、都心の目抜き通りがこの様子だ。

あるいはこの橋を見て。

f:id:wlj-Friday:20190301160611j:plain:w321
キューバのトップ幹線道。車いません。

橋はかっこいいけど、これはキューバを東西に横断する最大の幹線道路の土曜昼間だ。でも、車が一台もいない。

何も狙って撮ったものじゃない。むしろ、車が通るのを待ったんだけど、いつまで経ってもこないので、仕方なく空っぽの橋を撮ったんだ。場所もハバナからほんの三十分かな。でも全然車が通らない。それは、車がないからだ。自家用車だけじゃない。トラックも、バスも。

そして車が足りない場合、物流はどうあるべきだろうか? その車が律速段階だから、それを最大限に稼働させるしかない。そのためにはいろんな種類のものを、様々な店にちまちま細かく配送するなんてことはできない。最も重要な部分に車を集中させ、最も重要な商品だけを運ぶしかない。そしてそれでも、車両は足りない。

そして、もう一つ要因がある。輸送の費用だ。つまりは、ガソリンとオイルとタイヤ。これはなるべく減らしたい。なぜかといえば、これらはすべて輸入品で、外貨を使うものだからだ。関係輸送機関は、輸送量はノルマで決まっている(計画経済だもの)。車両は手持ちのものしかない。彼らの腕の見せ所は、そのノルマの輸送量を最小限の費用で達成するということだ。このためにはつまり:

  • でかい車で
  • 同じものをまとめて
  • 限られた箇所だけに

運ぶしかないのだ。

これは車だけじゃない。工場でも同じだ。作る側は、とにかく設備を最大稼働させて、手持ち材料で作れるものを作る。いろんな品種を作ったりする余裕はない。できるだけ少ない品種を大量に作るのが正義だ。それが最も「効率的」だから。輸送は、それをとにかくどこか一箇所にどかっと運ぶ。市内のあちこちにチマチマ配送するだけの輸送力はない。そっから先は買う側がなんとかしろ。それが輸送会社(国営/公営です)にとって最も「効率的」だから。規模の経済や燃料効率だけを考えたら、まさにそうなりますわな。

結果として、さっきみたいに店舗は基本、棚はスカスカだ。そして、同じ商品がだーっと棚一面に並ぶ。さっきの写真ですら、かなり品数が豊富なほうだ。ないものは、とにかく手に入らない。そして、ときどき変な商品が山ほど並ぶ。ぼくの宿の近くのスーパーは、赤ちゃん用のプラスチックのお風呂が山ほどおかれていた。なんで? わからん。たまたま工場からその店に配達された、ということらしい。

律速段階となるものを最適化し、最大稼働させる必要がある。そしてここでの律速段階は、輸送手段だ。ひいては資本だ。資本を最大稼働させることが、この経済においては最も重要な命題となる……

これに気がついて、ぼくは戦慄した。これはあの『ザ・ゴール』の教えだ。

市場経済になれたぼくたちから見ると、不合理だね、効率が悪いね、柔軟性も何もない計画経済の弊害が露骨に出ているね、ということになってしまう。でも……

それは必ずしいも正しいとはいえない。社会主義も、決してバカではないし、完全に不合理でもない。ただ、制約条件がちがうのだ。ある観点からは不合理でも、別の観点からは合理性がある。ただし、その合理性というのが、末端の人々にとっての厚生につながっているか、というのはまた別の問題ではある。

まとめよう。

キューバ社会主義経済の状態というのは、最も希少な財である輸送手段=車両 (またはそれに使う輸入ガソリン) を中心とした資本の稼働最大化と、そのための費用最小化を目指す仕組みであることで生じているものである。それを指標として考えた場合、一見不合理に見える社会主義経済も、十分な合理性と効率性を持つのである!

5. でも…なぜそうなってるの?

さてこれを読んで「おお、すげえ、社会主義も合理的なのか!」と思った人、バーカ。それはちょっと、おめでたすぎるんじゃない? むしろここではキョトンとしてほしいところ。

確かに、もし車が律速段階だというのを受け入れれば、ぼくの言ったようなこともあるかもしれない。でも車なんて安いもんじゃん。XXとかYYとか、クソみたいな貧乏途上国が狂ったみたいに中古車たくさん輸入して渋滞しまくってる。キューバだってそうすればいいじゃん! なんでそんなところが律速段階なんかになるのよ! だいたい、車が不足してるっていうだけなら、別に社会主義は関係ないんじゃね? 別にマルクス様は車や資本を作っちゃいけませんなんて言ってないよね?

はいはい、よい質問です。そしてそこから、なぜ資本が不足し、その稼働や費用の最小化が至上の目標になるんだろうか、という話が当然出てくるはず。

実はそれこそが、実は計画経済のあり方と関わってくる部分だ。だれが「資本」を持つのか、そしてだれがその資本を得るための「投資」を行うのか? それがまさに「計画」の本質であり、それはどうも、会計の仕組みを通じて経済のあり方に波及しているようだ。次回はなんかそんな話を……

cruel.hatenablog.com


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo YamagataCreative Commons 表示 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

キューバ番外編:Cubacell 携帯での3Gインターネット接続マニュアル

Executive Summary;

キューバのインターネット事情はかなり劣悪であり、公園や公共施設付近にある官製 wifi アクセスポイントに、アクセスカードを使って一時間1ドルで接続するしかなかった。が、2018年12月から、待望の3Gモバイルインターネットが開始された。現地SIMが得られたら(これが大きな条件)、以下のようなやり方でネットが使えるようになる:

  1. 携帯のデータ通信用APNをnautaにする
  2. mi.cubacel.net にアクセスして、登録を行う
  3. そのまま待つと、一日くらいでネットが使えるようになったというSMSがくるので(実はそれ以前でもできるとの噂)、そこにある番号*133#に電話する。するとメニューが出てくるので、パケットを欲しいだけ買う。1GB=10ドル程度。番号の残高が少ない場合には、その前にチャージしておく)
  4. 開通!

キューバのインターネット事情

キューバのお話の番外編として、キューバのネット事情についてちょっと書いておこう。一言で非常に悪いっす。日本のぼくたちは、常時接続があたりまえだと思っていて、ウンコしながらでも「いいね!」ができないと基本的人権が冒されたように感じてブーブー文句を言うけれど、そんな人はキューバでは死ぬしかない。是非そういう人はキューバに行って欲しい。

まずそもそも、キューバはほとんどろくにインターネットにつながっていない。

カリブ海の海底光ファイバー網
各種海底光ファイバーは、完全にキューバをスルーしている。(c)Greg Mahlknecht

この図を見ると、あらゆる光ファイバーは完全にキューバを迂回していることがわかると思う。実にきれいに縁取りされているなあ。フロリダから出た太い海底ケーブルは、キューバをかすめているように見えるけれど、つながっていない。キューバに来ているのは、ジャマイカからの細い一本と、ベネズエラにつながった一本だけ。キューバよりひどいといえば、ハイチ&ドミニカくらいか……

プエルトリコとつなげる計画があるとか、噂はときどき聞くんだけれどねー。

そして、一般のネット接続も非常に限られていた。公共機関とか、許可を得た企業とかは接続できる。でも一般人はなかなかできない。PCや、もちろんスマホはいつのまにか普及している。でもネットにつなぐためには、あちこちの公園や公共施設に行かねばならない。すぐにわかる。大量に人がいて、みんなスマホ見てるから。そして、あちこちの電話局の出店で、あらかじめこんなカードを買っておかねばならない。

キューバのネット接続カード。1時間=1 CUC(= 1USD)
キューバのネット接続カード。1時間=1 CUC(= 1USD)

いちいちこの12桁の数字を入れるのが面倒でねー。いちいち時間を計算しつつ接続をするので、かつてのダイヤルアップ時代みたいだし(と言って知らない若者が多いんだろうね)、しかもその接続自体が決してはやくない。公園にいる人数が多いとブチブチ切れるし、切れたときもきちんと接続を切るのがむずかしかったりするので、なんかずいぶん時間を損しているような気がする。

ちなみに高級ホテルは独自のWIFIを持ち、同じ仕組みながらぼったくり料金で接続させている。

多くの人は、これが人々にネットをあまり使って外部世界と接触させないための国策だと思っている。さっきのカードを買うときには、ぼくたちはパスポートを見せねばならないし、そのときに番号をちゃんと控えられる。Wifiルーターは、空港で入国時に見つかると没収される。もちろん、最近のルーターは小さいしUSBメモリやバッテリーを兼ねたりしているので、持ち込めることはあるけど、基本はダメだ (こういうアンテナがついてなければ大丈夫、という人もいる)

アンテナつきのWifiルーター
こういうアンテナつきのルーターはダメとの噂。

でも、全開の憲法改正案説明の講演会でもそうした認識を反映して「ネットは解禁されるんでしょうか??!!」という質問が出て、それに対して大使館の人は「いやネットの状況は政府のせいではなく、それを事業としてやる民間事業者が現れないせいだ」と述べていた。単純に容量不足で、国営電話会社にそれだけの大容量接続を可能にするだけの資金がないということかもしれない。ここらへん、真相はよくわからない。

3Gネット解禁

が、2018年12月に、3Gのネット接続が解禁された。

forbesjapan.com

現地SIMを持っていれば、これが使える。ただ、現地SIMを入手するのはそれなりに面倒だったりする。そんなわけで、使える人は限られているので、有用性もアレだけれど、もし何か予定のある人がいれば、接続マニュアルを作成したので、ご活用ください。

キューバ3Gネット接続マニュアル(2019/02)

1GB=10CUC(10USD)なので、中国基準とかに慣れている人は高いと思うかな。でも地方都市でもそこそこよくつながる。さっきの時間制のインターネットカードと、従量制の3Gとで接続をうまく使い分けることで費用を抑えることは可能です(山形は、XperiaがいきなりAndroidの更新を三回も連続でやってくれて700MBとかが即座に食い潰されて、泣きそうになりました。ソフトの更新には注意!)


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo YamagataCreative Commons 表示 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

キューバの経済 Part1: 憲法改正と市場経済

1. はじめに

最近、キューバでのプロジェクトが始まって、いま二回目の現地調査。キューバというと、みんなゲバラカストロ、葉巻で、ついでにブエナビスタ・ソシアルクラブで町中が音楽に満ち……というような漠然としたイメージしか持っていない。このぼくもそうだった。その一方で、アメリカの経済制裁の影響や社会主義経済の常として元気がなく、停滞しているという話も聞いていた。

で、行ってみたら……うーん。何と言おうか。いや、いいところなんだよ。いろいろおもしろいのは事実。でも、どこがいいのか、と言われると口ごもる。どうだった、と言われると、次から次へと悪い点ばかりが出てくるんだけれど、でもじゃあ、そんなひどいところかと追われると、それほどでもないどころか結構楽しい。うーん。

ということで、ちょっとキューバの話を書いてみよう。ただ……

キューバのことを理解するためには、いくつか常識を捨てる必要がある。そしてその常識はずれの部分の大半は、ここが社会主義経済だということから生じている。

さてこれを読んでいる半分くらいの人は、社会主義が世界の一大勢力だった時代すら知らない。その他の人も、ほとんど具体的なイメージはないはず。ソ連では、ものが手に入らず、なんでも行列して、品質が悪く、といった話を間接的に聞いているだけだ。

いや知ってるよ、という人もいるはず。中国、ベトナム等々、いわゆる移行経済(transitional economy)で変な規制と官僚主義にホトホト悩まされた、と。でもそういう国は、「旧」社会主義国だ。政治は社会主義でも、今後はどんどん市場経済化を目指すというのが基本方針だった。

が、キューバはちがう。社会主義経済を堅持する、というのがその方針だ。いまどきそんな国はキューバ北朝鮮ベネズエラくらいだし、北朝鮮ベネズエラがまともな社会主義国といえるかどうか。

そして社会主義経済とは? 移行経済国の経験しかない人は、ぼくも含め、それが何やら市場経済のできそこないだと思っている。でも実は、それはまったくちがう代物だ……というのをぼくは今回、痛感したので、それを少し書こう。

2. キューバ: 憲法改正と「市場経済化」

さて、出発点として、まずキューバ関係でいま大きめの話題であるキューバ憲法改正からはじめよう。社会主義経済と市場経済の関係が、この憲法改正でも大きな問題になっているからだ。

山形が最初にキューバに出かけた2018年10月には、ドラフトが出てきて、インターネット経由で広くパブリックコメントを募集しようとしているところだった。二回目にきた2019年1-2月には、パブコメをもとにした最終ドラフトが出てきた。

そしてこれについて2月末に国民投票をすることになっている。このため、「イエス投票!」という一大キャンペーンを政府が展開し、いたるところにこんな標識が出ている。

「私は投票Yes!」
「私は投票Yes!」

そしてそれをもとに2019年4月には固めるという。かなり急ピッチの改正だ。

ではその中身はどんなものか? 山形のいい加減な話なんか見るより、2018年10月半ばに日本キューバ友好協会の招きで在日キューバ大使館がやった、憲法改正をテーマにした講演の資料とビデオをまずはおいておく。

キューバ:継続と変革——憲法改正案の要点(2018.10)


キューバ憲法改正

どうせ怠惰な読者はせっかくの資料を見もしないだろうし、結構長いので簡単にまとめると、この10月時点での改正案の主要ポイントとしては:

がある。

2.1. 市場経済の導入

この中でいちばん重要なのは、もちろん最初の市場経済だ。これまでアドホックに入れてきた市場経済を、新憲法下ではもっと明確に位置づけて採り入れるのだ、と。おお、キューバ経済開放か! 日経新聞もそういうところに注目している。まあそうだろう。

www.nikkei.com

だが……そうではない、らしい。少なくともぼくたちが思うような形では。

この講演会でも、この部分が最も関心の高いところだった。そしてキューバが今後どういう方向で市場経済化を目指すのか、という質問は出た。中国式? ベトナム式? もう少し制約が多いやり方もある。どんな感じで?   すると、返事は「いや、中国は中国だし、うちはうち。他の国のやり方を真似るつもりはない。そもそも、市場経済化ではない。市場経済を導入するだけで、社会主義が基本である。その導入方法は、これから考えるのだ」というものだった。

市場経済化ではない。市場経済を導入するだけで、社会主義が基本である!

2.2. 私有財産と「生産手段」

が、そうはいっても、これまでの関連報道を見ると、憲法改正では私有財産を認めるようになるのが大きなポイントだ、と述べられていた。さっきの日経新聞の記事にも「民間企業や個人の財産所有を容認する」とある。社会主義といえば、まず第一に私有財産がなく、すべてが共有というのが(ぼくも含め)一般的な認識だ。私有財産を認めるなら、もうそれはかなーり市場経済っぽくなるのでは、と思うのが人情だろう。

講演会でも、当然この質問が出た。私有財産は認められるようになるんですよね? すると大使館の人は「何を言ってるんだ」という。いまだってキューバでは私有財産は認められている。車も持てる。家も持てる。自分のものだ、と。

ぼくたちは、それを聞いて「あらそうでしたか」と思う。ではいまのキューバも、すでにかなり市場経済的な要素を持っているのか、と思ってしまう。そして、それ以上のことは特に訊こうとはしない。私有財産が認められるなら、あれも、これも、いろんなものが黙ってついてくるのが当然だと思っているからだ。そして質問者も、それで「はあ…」という感じで引き下がった。

そこが黄色資本主義に染まったぼくたちの度しがたいことだ。ぼくたちは「銀河ヒッチハイクガイド」に出てくるストラグ(一般人)と同じだ。

なにかの拍子に、ストラグ(ヒッチハイカーでない人)がタオルを持ったヒッチハイカーに出会ったとします。ストラグは自動的に、ヒッチハイカーが、歯ブラシや手ぬぐい、石けん、ビスケットの缶、水筒、磁石、地図、紐、蚊取りスプレー、雨具、宇宙服などを持っていると判断します。(中略)ストラグはこう考えるのです——銀河系をはるばるヒッチハイクし、不便な生活に耐え、身の毛もよだつ一か八かの賭に勝ちぬき、それでもタオルを離さなかったような男なら、まちがいなく一廉の人物だ、と。(ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイクガイド』)

もちろんこれは浅はかな考えだ。タオルを持ってるくらいでバックパッカーなんか信用しちゃいけない。そして私有財産があるからといって、市場経済の下地があると思ってもいけない。

というのも、社会主義の決定的なポイントは、厳密に言えば私有財産ではないからだ。マルクス経済学でも、別に労働者が家や車を持てないなんてことは言ってない。

ではマルクス経済学で、資本家と労働者を分ける決定的な要因は何か? それはもちろん「資本」だ。だって「資本家」ですもん。ピケティだってそう言ってます。

が、その資本というのは何のことか? これはピケティ本でもいろいろ問題になっていたことではある。が、産業革命を受けて構築されたマルクス的な発想だと、それは何よりも工場設備であり、生産、特に大量生産のための機械だ。資本家はそういうものを持ち、労働者を使役し搾取することで肥え太る、というのがマルクスの主張だ。

つまり社会主義で重要なもの、資本家の独占を許してはいけないものは、私有財産すべてではない。生産のための資本、つまり「生産手段」だ。

そしてキューバでは、生産手段の私有は認められていない。今も。そしてこれからも。

さっきの私有財産に関する質問への回答で、「いや私有財産あるよ」との回答に続いてこの一節が述べられたとき、会場はどよめいた。これが講義や講演なら、ここで百本くらい質問の手があがってほしいところだ。私有財産は認められて、生産手段の私有は認めない? どういうこと? そこで言ってる「生産手段」って何のことですか? 持っていいという家や車だって、いろんな生産に使えるんじゃないんですか?ホワイトカラーは機械なしで(まあコンピュータとかはあるけど)主要な生産手段は頭の中の人的資本じゃないんですか?知的財産はどうなるんですか?あーだこーだ。

はいはい、すべておっしゃる通り。

だがマルクス経済学は、20世紀頭で考え方が止まっている。したがって、そういう面倒なことは基本的には考えない。キューバもそうだ。私有財産と生産手段の仕分けも、単純きわまりない。自分で所有して使っている分には私有財産だ。そして、それを使って多少の商才を発揮するのもありだ。でもそこまで。それを超えて商売をやったら、それは生産手段の所有を行っていることになる。

具体的にはどういうことか? 家を一軒持つのはかまわない。車を一台持つのは構わない。そしていまや、それを使って商売してもいい。たとえば民宿/AirBNBみたいに部屋を人に貸してもいい。レストラン(パラドール)を開いてもいい。車を使ってタクシー業をやってもいい。現実に、キューバにいけば宿の多くはそうした民泊だし、町のタクシーも多くはそうしたものだ。

でも、一軒、一台を超えたら、それは生産手段ってことだ。家を二軒持って宿泊業を営んではいけない。レストランも、本店と支店とかいうのは持てない。車を二台もってタクシー事業をやってはいけない。英語で話をしていると、「You can own A house/car」と、さりげなく単数の「A」が強調されているのだけれど、ぼくたちは普通そんなのは聞き逃してしまうのだ。

2.3. 労働、雇用、「搾取」

さらに、生産要素とえばKとL、つまり資本と労働だ。市場経済化で、労働はどうなる?自由に雇用はできるのか?

それに対してキューバ大使館の人がまっさきに言ったのは、「搾取はいけない」いうことだった。搾取がいけないのは当然じゃないの? と思うだろう。ぼくもそう思った。でも、ここで言っている搾取というのは、ぼくたちの考えるようなものではなかったのだ。

社会主義においては、(資本家が)人を雇用するのはすべて搾取だ。あらゆる雇用は、当然ながら、雇い主が従業員の労働の成果をある程度ピンハネすることで成立する。だから「搾取はいけない」というのは、「人を雇うのはダメ」ということだ。

そしてここで社会主義経済のすごいところが出てくる。雇う雇わない以前に、そもそも、雇えるような人がいるのか、というと……公式にはいない。社会主義では、あらゆる人は基本は政府に雇われているのだ。失業者は公式にはいない。キューバは、これまで不承不承ながら市場経済を導入する中で、1割の労働者を「放出」し、上で述べたような個人事業ができるようにしている。でも、その人たちが雇えるような遊休労働者は、原則としていない。雇うときには、国営の(!!)人材派遣会社から人を派遣してもらうことになる。

つまりどういうことか?日本的に言えば、個人事業主として活動するのはいい。家族がそれを手伝うのもいい。だけど、それを多少なりとも拡大して中小企業にするのはできない。個人事業の範囲を超えるものは、(協同組合というものはあるが)もう基本は国営だ。

2.4. 「市場」経済は1割

そして個人事業主も制約がある。たとえば農業。キューバは食べ物は配給制だ。だから、食物は基本、政府が買い上げる。全部ではない。九割を政府が(国際価格とはかけ離れた——低い——価格で)買い上げる。残り一割は、自分で使ったり商売したりしていい。葉巻もそうだ。ハチミツもそうだ。

さっき、国民はみんな政府雇用で、1割が放出されて個人事業ができる、と述べた。この製品買い上げの仕組みを見ても、自由になるのは1割。つまりキューバ経済においては、現状では市場経済部分として計画されているのは一割、ということだ。

でも、その一割の部分の多くは、外国人相手の商売となる。すると外貨収入ができる。外貨があれば、輸入品が買えるし、生活水準は著しくあがる。

政府は、それを気にしている。だから、外国人と国民との接触にはきわめて神経質だ。『ブエナビスタ★ソシアルクラブ』を見ると、老ミュージシャンの自宅訪問場面が何度も出てくる。でも実は、キューバでは普通はあんなことはできない。外国人は、キューバ人の自宅には基本的に行ってはいけない。通信機器は制約されていて、Wifiルーターは原則として持ち込めない。インターネットは一応あるけれど、街角の公園や限られた施設などに公共Wifiスポットがあって、そこで接続するしかない。テザリングや携帯回線のネット接続なんてのはない(……と書いていたら、解禁された! 3Gだけど、涙が出るほどありがたい)。

そして、外国人相手の商売がえらく儲かるのも警戒されている。タクシーや民泊など、外国人相手の商売はきちんと登録して、高価なライセンス料を払わねばならない。外国で活躍するキューバ人の野球選手も、キューバ人医師たちもそうだ。たぶん、『ブエナビスタ★ソシアルクラブ』に出てきた老ミュージシャンたちも、あれでお座敷はかかるようになりカーネギーホール公演までしても、そのあがりはほとんど国庫に入り、本人たちはあまり儲かってはいないはずだ。

そういう状況だと何が起こるか? ある農業関係者は「おれたちは、作物の90%は政府に納めて、25%は手元に置くんだ(ニヤリ)」と述べていた。あれ、なんか計算があわないような気がするのはなぜかな? ぼくには見当もつかないよ(棒)。結果として、経済としては外貨建ての部分の、それも非公式経済のほうが大きいとも言われている。

だんだん社会主義経済の壮絶さがわかってきてもらえただろうか?

2.5. 憲法改正で何が変わるのか?

  でも、と話は最初に戻ってくる。憲法改正でそれが変わるのではないの?市場経済を積極的に採り入れるのではないの? うん、その通りなんだが、一方でかれらは社会主義経済を捨てるつもりはないという。今の体勢をまったくひっくり返してドカンと市場経済を入れる、ということにはならない。

具体的にどうなるかは、まだまだ未定で、可能性はいろいろある。ただこの講演会を聞いた限りでは、あまり期待すべきではないのかもしれない。市場経済を積極的に採り入れるとは言っても、しょせん、彼らの感覚での「積極的」なのだ。家を二、三軒持って営業できるようになるとか車二、三台持って事業ができるようになるのではないか、というのが大使館の人のコメントだった。さらに、人の雇用もある程度は認めるのではないかとのこと。

その程度だと、確かにあまり大きな変化は期待できそうにない。そしてまさに、それがキューバ政府としての狙いなのだろう。あまり大きく変化はさせない。少しずつ変える。変えてどこに向かおうとするのかはわからない。

外資は導入したいので、外国企業の権利についてはいろいろあるらしい。が、これについてはまた次回以降。

もちろん、ガラリと変わる可能性は当然ある。そもそも人が(直接)雇えるようになる、というだけでもすごい変化ではある(そのための人がどこにいるのか、というのはまた次の問題ではある)。もっと全体に自由化が進むと解釈すべきなのか? さっき、いまの市場経済は1割、と述べた。それが2割、3割になれば、たぶん状況はすさまじく変わる。ここらへん、ホント実際の動向次第ではある。

が、政府としてはすでに現状の市場経済化でも、格差が出てきているのをかなり気にしているという。地方部のサトウキビ農家は、外国人相手の商売も限られ、50年前の社会主義時代からあまり変わらない生活をしている。その一方で、ハバナの外国人相手の商売は儲かる。大学を出るより、タクシーの運転手になったほうが稼ぎがいい、という状況になっているし、そうするといろいろ国民の士気にもかかわってくる。

一方で、現状はある意味で、格差を抑えるために成長も抑える、という状況だ。それもまた、国民の特に若者にとっては不幸な状況だ。がんばっても大きく生活が改善する様子はない。医療は優秀で平均寿命が長いから、政府の中でも上のほうはずっとつかえている。ここらへん、日本ととても似ている。さてどうするのがいいんだろうか?

共産主義という文言を最初のドラフトでは削っていたが、それが最終ドラフトでは復活した。それをどう読むかはいろいろだけど、やはりあまり急激な市場経済の導入には警戒があると見るのが普通だろう。すると何があるのか……

3. 憲法改正のその他の部分

憲法改正のその他の部分は、まあキューバの国内問題なので、ぼくたちにはあまり関係ない。大統領や首相を入れて、どういう仕組みでやっていくかは、細部次第。同じく地方分権は、まあやり方次第だ。そして法治の徹底とデュープロセスは、重要ではある。これまで法体系があまり整っていなかったのを整理する、という。デュープロセスというのは、何かやったときにいきなり処刑されたりせず、裁判を受けて公平な処分を受ける仕組みができる、ということだ。え、これまではどうだったのよ、というのはつい考えてしまう。まあこれまでも一応それは行われていて、今回はそれを制度的にきちんと裏付けるのだ、というのが公式の立場。

朝日新聞は、同性結婚が認められる、というところに注目したがった。

www.asahi.com

でもいまのキューバで、同性婚なんていちばんどうでもいい話だ。ついでにいえば、他のところでもLGBT問題なんてホントどうでもいい話。というより、マイノリティの権利を守るために「マイノリティ、ウェーイ!なんとかリボンで連帯!参加しないやつらは差別主義者だからSNSで吊し上げ!」とかやり、人の頭の中まであれこれ検閲しようとする運動のやり方自体が基本的にまちがってるとは思う。が、閑話休題

ちなみに、同性婚の部分はドラフト段階で落とされてしまったとのこと。残念でした。

4. で……

 で、そういう仕組みになっているというのがわかったところで、それが具体的にどんな結果となるかについて、説明しよう。そして冒頭近くに「社会主義経済とは(中略)ぼくも含め、それが何やら市場経済のできそこないだと思っている」と書いた。つまり多くの人は、それが非常に不合理で非効率なものだと思っている。でも、合理性や効率性というのは、何を基準に見るかでまったく変わってくる。キューバの経済体制は、実はそれなりに合理性と効率性を持つのだ。それは何を最大化しようとするかのちがいでしかない。

 そんな話を書いてみよう。

 書きました。  ↓

cruel.hatenablog.com


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo YamagataCreative Commons 表示 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

統計の不備と、各種統計の「相関」の話

Executive Summary

統計の信頼性について疑問を呈した柳下毅一郎のツイートを、山形は一蹴した。が、その後勤労統計の集計方法の不備が露見した。ここから、この統計は捏造であり、それが相関しているならすべての統計が捏造だ、という極論を述べたブログが出た。しかし統計は、一かゼロか、完璧かすべて捏造か、というものではない。またその相互の関係も、機械的な関係があるということではない。信頼性の非常に広い幅の中で上下するだけなので、実際にどんな不備があってどのくらい影響を及ぼすのかを具体的に考えないと、妥当性のない陰謀論に流れてしまうだけだ。

はじめに

しばらく前に、柳下毅一郎がこんなツイートをした。

ぼくはそれに対して、こうリプライした。

ところが最近になって、ご存じの通り勤労統計の調査・集計方法に不備があったことが判明した。そして、それを受けて次のようなブログ記述が登場した。

d.hatena.ne.jp

柳下が疑問を呈したことが裏付けられた、というわけね。そして山形はまちがった統計を絶対視していてバカだね、そうでなければ統計全体が共謀して操作されていて大問題だね、というわけだ。

さてこれは困った代物だとぼくは思う。一かゼロかの非常に極端な見方をしているせいで、非常におかしな極論になってしまっている。それをここで、少し説明しよう。

まずは法華狼の主張を簡単に整理しよう。それは概ね、二つの部分に分かれる。

Part1: 「統計集計に不備があったので捏造だ!」

  • 柳下毅一郎は、統計を疑問視した。
  • そして実際に統計集計に不備が見つかったから、統計はまちがった捏造である。
  • よって柳下が正しかった。

Part2: 「統計は相関しているので全統計が捏造だ!」

  • 山形は、統計が相互に関連しているから絶対に正しいと述べた
  • でも実際には正しくなかった
  • よって、山形はバカだった。あるいは、山形が正しいなら相関している統計すべてがおかしい!!??

さて、これに類似した疑問について、ぼくはその後以下のようなツイートをした。

今回の記述は、これを一歩も出るものではないけれど、法華狼を含め、これが何を言っているのかわからなかった人もいるようだ。だから、長々と詳しく説明しよう。ぼくがこのツイートで書いたことを、「あたりまえじゃん」と思う人は、この先を読む必要はまったくない。

前提:統計はそもそも「絶対」はない

まずこの法華狼のブログ記述で、ぼくが統計を絶対視している、という題名には面食らった。統計が「絶対」というのが、そもそも意味不明だからだ。

簡単な例を見よう。日本の人口統計を見るなら、国勢調査が基本だ。でも、五年に一回しか行われない。それ以外に人口のデータとしては、住民基本台帳がある。各自治体の住民票を元に、その人口を出すものだ。これは毎年(いやもっと頻繁にでも)出せるから便利だ。でも、住民票は引っ越しても移さない人も多い。実際には住んでいない人が計上されたりする。だから精度は低い。実際、両者は一致しない。

ではこれは、国勢調査の人口が絶対であり、住民基本調査の人口データはまったくの捏造で使えないということか? もちろんそんなことはない。

まず国勢調査だって完璧なわけがない。国勢調査は、みんなへのアンケート調査だ。答えない人もいる。ウソを書く人もいる。以前オーストラリアでは、確か国勢調査の「宗教」の欄に「ジェダイ」と答えるという遊びが流行して、国民の相当数がジェダイ信徒、という結果になったことがあったはず*1

そして住民基本台帳ベースの人口は毎年(いやもっと)出る。年ごとの計画を作るならこのデータは無視できない。すると、実際の分析では、五年ごとに国勢調査の数字を使いつつ、その間の動きは住民基本台帳ベースの増加率を元にして補間する、なんてやりかたがある。遺漏があって絶対水準は少し怪しくても、その遺漏に一貫性があると想定できるなら、変化率はある程度信用できるはずだからだ。

そしていまのでわかるように、よいとかダメとかよいとかいうのも、すさまじく幅がある。山形は途上国援助が仕事なので、途上国の統計を山ほど見るけれど、まあピンキリだ。そしてトルストイナボコフではないけれど、よい統計はみな同じような形でよいけれど、ダメな統計は実に個性豊か。単純に能力不足だったり、そもそも調査しようがなかったり(識字率の低いところでは日本の国勢調査みたいなことはできない)、あるいは明らかに数字を作っていたり、場合によっては数字にあわせて現実を操作したり。

だから統計というのはそもそも、絶対的に信用できるものなんかではない。それぞれの統計を少しいじってみて、それをもとに絶対数まで信用できそうだなとか、それは無理だが変化率くらいは参考になる、各年ではノイズが多すぎるが五年平均くらいで見ればなんとか使える、変化率もあやしいが、符号くらいは何とか、というのをまずは見極める必要が出てくる。

そういうのを日常的にやっていると、そもそも「統計を絶対視」とかいう発想自体がないのだ。だいたい統計学というのはまさに、完全な情報がないところで信頼性をどう考えるか、という話なのだもの。

そして、その中でほぼ確実に言えること:

個人の勝手な印象<<(越えられない壁)<<ダメな統計<<優れた統計

Part1:労働統計の不備は、それがまったくの捏造だということか?

法華狼は、何か統計の集計(そしてその補正)に不備があった、というのを見て、つまりその統計がまったくの捏造だ、という結論にとびついた。

でも、上の「統計に絶対はない」という話がわかれば、そういうものではないことはわかるはずだ。完全に信頼できるか、まったく出鱈目かの1かゼロじゃないのだ。統計の信頼度には大きな幅がある。だから、統計に不備があったというだけで、「だから信用できない」という話にはならない。信用のほうにだって大きな幅があるのだ。どんな不備があって、結果がどう歪んだのか、というのを見ないで、不備だ捏造だ、と騒ぐのはまったくのピントはずれだ。

今回何がおかしかったかといえば、発端は全数調査であるはずのものが、三分の一ほどのサンプリング調査になっていた、ということだ。これはもちろん、よくないことだ。でもそれは、その結果がまったく捏造ということではない。サンプリング調査で十分な信頼性はだせる。ただもちろん「十分な」というのが、何に十分なのか、というのは使う人がきちんと考える必要がある。そのために、標本抽出理論というものがあるわけだ。

さらにその後、それに加える補正がおかしかった、という話も出てきている。標本調査なのをごまかそうとしてそれを三倍したりしてたとかいう話も伝わっている。はい、これも困ったことだ。厚労省、呆れたね。そしてその調査の資料を捨てていたという話に到っては、悪質にもほどがある。

が、それでも一応は調査は行われ、それに基づいた集計が行われている。まったんくの出鱈目ではない。補正する作業も進んでいるし、またその原因は人と予算が足りないことだったのも見えているので、まず何よりも統計専門の人を増やし、予算をつけないといけない。以前に比べて信頼性は下がったのは否定できない。でもそれは、100%だった信頼性が0になったという話ではない。

以上で、法華狼の主張の最初の部分は妥当性がないことが示せたと思う。統計に不備があったのは事実。でも、それがまったくの捏造だったということではない。

Part2:山形はすべての統計が相関しているので絶対だと述べたか? 一つ統計がねつ造されたらすべての統計はねつ造か?

法華狼の主張によれば、山形はすべての統計が連動しているから捏造はあり得ない、絶対なのだと言ったけど、でも実際に捏造されていた、すると連動しているはずの他の統計すべて捏造かもしれない、という。

これは、上と同じで、物事をあまりに機械的に理解しすぎている。そしてその結果として、なんだかあらゆるものが操作されているという変な陰謀論に堕している。

まず、今回の統計調査の不備がまったくの捏造とはちがう、というのは理解していただけたことを願いたい。したがって、そもそもこの理屈は成り立っていない。そもそも統計に「絶対」があるなんて、ぼくは思ってはいないのも前述のとおり。

さらに、ぼくは各種の統計が連動していて相互にチェックされていると述べた。でもそれは、あらゆる時点で完全に機械的に整合しているという意味ではない。変に数字を作ったりすればバレるよ、ということだ。

そんなことが本当に起こるんだろうか? もちろん起こる。それをまさに証明しているのが、今回の統計の不備の事件なのだ。たとえば、日本銀行厚労省の統計に関して早くから疑問視して、それを除外して様々な計算をしている。

www.nikkei.com

これは2018年11月、今回の騒ぎ以前の話だ。そしてGDP統計に関しても疑問があると述べているそうな。

ぼくが言っていたのはそういうことだ。統計の整合性を見ている人がいて、おかしな結果が続いていれば、疑問の声があがるのだ。厚労省の統計については、「そういえば変だった」「変化率しか使わなかった」といった見解が(後出しジャンケン的にではあるけれど)いくつか聞かれている。

もちろん、これはすぐには起こらない。分析の結果がずれてきたとき、それは実態の反映なのか、統計の何らかのバイアスによるものなのか、それとも故意の改変なのか? 統計の捏造でありがちなのは、あまりにきっちり他の統計に合わせすぎることだ。あと、なんか成長率が何年もまったく同じだったりとか。世の中はノイズが多いから、あまりに細かいところまで数字が合いすぎるのはかえっておかしい。少しずれるほうが自然だ。だから、統計を使うほうも、ちょっとずれたくらいでは変だとは思わない。

でも、しばらくすると、なんだか変じゃないか、ということなる。そしてそれが十分に根拠ある疑問であれば、今回のように調べ直され、場合によっては補正が行われることもある。場合によってはそのままで、「この期間は怪しい」という注意書きつきで使われることもあるだろう。でも、こうした活動を通じて統計の精度を保とうとする努力は続く。

法華狼の記述は、そこらへんを誤解している。ぼくがその後のツイートで、まさに機械的な相関があるわけではなく、ずれたらチェックするという話だといっているのを読んでも、それが意味することが理解していただけないようで、それは柳下の直感が正しかったのでは、と言っている。なぜそういう話になるのだろうか?

そして統計の精度をどう保つか、という話も、そう簡単ではない。たとえば、さっきのオーストラリアの統計で、いきなり国民の一割がジェダイ信徒になっちまった。さあどうしよう。それをどう処理すべきか? おふざけのインチキだから、そんなのはなかったことにして、残りの宗教の比率をジェダイ回答者にも割り振るべきだろうか? そんなおふざけをする連中は全部無宗教ということにしてしまおうか? それとも、調査の結果は結果として尊重し、お調子者の国民を呪いつつも、その数字をそのまま使うべきだろうか? これはホントに、その人の見方やデータの使途次第だ。

するとどういうことになるだろうか? 各種の統計は、相互に連動しているのであらゆる時点で絶対なのか? そんなことはない。でも変なことをしていれば、今回のように発覚する可能性は高まる。そして、相関があるからといって、他のあらゆる統計も捏造だなんてことにはまったくならない。その相関がおかしくなるというだけだ。したがって、二つ目の点でも法華狼の記述は妥当性がない。

結論

統計は、一かゼロか、完璧かすべて捏造か、というものではない。またその相互の関係も、相関は当然あるけれど、それは常にr=1.0の機械的な関係があるということではない。でも法華狼はそこを根本的に誤解しているために、まったく妥当性のない極端な見解を導いてしまっている。統計の集計不備は、もちろん信頼性や統計の連動性にある程度は影響する。しかも、もとの調査資料まで捨てちまったというのは、トホホな話だ。ついでに、ほかの統計も大丈夫かチェックは必要だろう(すでに始まっているみたいだ)。もっと人と予算をつぎ込もう。だけど、一つがおかしいから他のも連動してすべてでたらめ、なんて話はまったく出てこない。

おまけ:柳下毅一郎は正しかったのだろうか?

さて、法華狼の記述やこれに関するツイートを見ると、なんだか素人柳下の直感が、専門家山形のドグマに勝利した、と思いたい人もいるようだ。そして確かに、素人の直感は、ときには侮れない。でも、柳下の言ったことをきちんと見よう。いったい柳下は何を言っていただろうか?

今回柳下が「勤労統計はなんかおかしい」と言ったのであれば、それは柳下がすごかったといえるだろう。が、柳下のツイートは、どの統計がおかしいとか、どうおかしいと思うのか、なぜおかしいと思うのかも述べていない。そもそも、どこが統計をまとめているのかも誤解しているので、実際の具体的な統計が念頭にあるようでもなさそうだ。ツイートの雰囲気から見て、単にアベノミクスがそこそこ成果を挙げているような結果が出ているのが気に入らない、というだけの話だ。

それは、統計の誤りを素人の直感により鋭く見抜いたとはとても言えないんじゃないかな、とぼくは思う*2。そして当の柳下も、自分がそんな千里眼の持ち主だったのだと主張するほどは厚顔ではないと思うな。

だいたい……さっきも述べたように今回の統計の不備は、日銀もずっと指摘して、それもあってチェックした結果として露見したことだ。もし柳下が勘ぐっているみたいに安部の陰謀でアベノミクスマンセーを主張すべく統計が改ざんされているのだったら、まさにそのアベノミクスの先鋒として異常な金融政策を平気で続けている日銀が、それを指摘すること自体が変だと思わないのかな? 統計がそんなになんでも捏造できるなら、インフレ率もいじくって2%超にしないのはなぜだろうと思わないのかな? もちろん、多くの人はホントに統計のことなんか気にしているわけではなく、なんかリフレ派の悪口を言いたいとか、アベガーと言いたいとかいう程度のことなので、そういう整合性は特に考えてもいなさそうだ。それは不毛だと思うんだけどね。


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo YamagataCreative Commons 表示 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

*1:オーストラリアだけじゃなかった。世界中で流行ったみたい。でも、これで宗教について変な回答が増えた一方で、このジョークをやりたいだけのために国勢調査のアンケートにちゃんと回答してくれる人が増えたので、むしろ国勢調査の精度向上に役立った、というのは笑える。何が幸いするかわかったもんじゃない。

*2:素人が「専門家」を蹴倒す話は、ぼくは大好きだし、またそういうことは実際にある。だがそんなにない。それは偶然や様々な条件、そしてその素人の資質にも大きく依存する。そういう話は、昔こんなところに書いた。

「平成の30冊」への山形の投票

朝日新聞が、「平成の30冊」なる企画をするのでアンケートをされた。回答すると、図書カード3000円だそうで。3000円だとあまり深く考える気も起きないし、また山形の選評とかがどこかに載るわけではなく、トップ30を選ぶために集計されるだけなんだよね。

通常、こういう本を選んでくれという企画だと、いろいろひねった選書をしてドヤ顔をしてみたい感じになるんだけれど、集計されるとなると、ひねりすぎて誰も知らない本を選んだところで、有象無象に埋もれるだけで終わってしまう。ケインズ美人投票の話と似たように、他のみんなも選びそうで(故にトップ30に入る可能性があり)、しかもその中でまともな重要な本が上位に行くように考えると、まあベストセラーっぽいものから選ぶようなことになってしまうなあ。

てなことを考えただけで3000円ではすでに足が出ていると思うが、そんなこんなで、次のような投票をしてみましたよ。さて、どんなもんでしょうね。もっと科学っぽいものとか入れたかったけど、5つしか選べないし……

第1位:岩田規久男『デフレの経済学』

デフレの経済学

デフレの経済学

平成は、日本経済がバブル絶頂期から果てしないデフレに突入し、そしてそれがようやくアベノミクス/黒田日銀のリフレ策により回復して元の状態になんとかたどりつこうとした、長くつらい転落と回復の時代だった。それを早めに認識し、インフレ誘導を主張し、やがては日銀副総裁としてそれを実践する立場に回った岩田規久男のこの本は、それを評価する人もしない人も、平成という時代の大きな背景を作ったものとして忘れてはならない。

 リフレなんかダメー、と思う人もいるだろうけれど、でもそれが平成という時代を左右したのはまちがいないことなので、これは鉄板です。

第2位:アラン・ソーカル&ジャン・ブリクモン『知の欺瞞』

「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

バブルと同時にニューアカポストモダン思想が一気に凋落した。ポモをありがたがっていた日本の言論界が、同時期に存在感を一気になくした。平成はそれを克服するため、無内容なポモ言説を無内容なものだと認め、それを廃し、地に足のついた中身のある議論を再構築するプロセスの時代だった。その動きの先鞭をつけ、多くの人々の蒙を啓き、知識人とその物言いに大きく貢献した重要な本。

第3位:トマ・ピケティ『 21世紀の資本

21世紀の資本

21世紀の資本

世界的に驚異のベストセラーとなり、現代の世界における格差問題についての人々の関心を明らかにすると同時に、経済学のモデル偏重から実証への動きを示してくれた重要な本。平成の日本の様々な経済的背景も、様々な格差をあらわにするものでもあり、それを改めて世界的な動きと関連づけてくれた本となっている。

第4位:村井純『インターネット』

インターネット (岩波新書)

インターネット (岩波新書)

平成はパソコン普及からインターネット普及、さらにはケータイとスマホの普及を通じて人々の情報環境が大きく変わった時代。この中で、妨害に遭いつつもインターネットの急激な普及に尽力し、それを実現させた人物によるインターネットの解説本。もちろん今はすでに古いものの、当時何が考えられ、どんな希望があったのかを理解するのに重要。いま改めてふりかえり、現状と比較する中で平成も見えてくる。

第5位:J・K・ローリングハリー・ポッターと秘密の部屋

ハリー・ポッター文庫全19巻セット(箱入)

ハリー・ポッター文庫全19巻セット(箱入)

言わずとしれたハリポタの第一巻。2000年に出た本書は、21世紀児童書、ひいては小説のスタンダード。世界的な大ヒット作になると同時に、ネットでの評判の広がり、メディアミックスなど様々な形で、従来の本とはちがう動きを示したし、また最終刊が出るまで、平成の中盤はこのシリーズへの期待と共にあったと思う。(だんだん尻すぼみになっていったのも平成らしい、かな)

付記:ツイッターで、「第一巻は賢者の石だろ!」とご指摘いただく。そうだった!まあいいや。

これを挙げるなら、アメリカでは電子書籍普及に貢献したラーソン「ミレニアム」もありかな、とは思ったが、ちょっと新しいので。


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo YamagataCreative Commons 表示 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。