スノーデン関連書紹介

このたび拙訳で、エドワード・スノーデンの自伝が出ることになった。我ながらものすごい勢いで訳したので、やろうと思えば9月の原書発売と同時発売も可能だったと思うけれど、なんだかんだで11月末になりました。

自伝は自伝としておもしろいのだけれど、そもそものリークした文書の中身についてはあまり記述がない。また当人の目からの話なので、周辺の状況は必ずしもはっきりしないし、それに当人の話を鵜呑みにする必要もないだろう。ということで、日本語で読める関連本に一通り目を通して観ました。

グリーンウォルド『暴露』

暴露:スノーデンが私に託したファイル

暴露:スノーデンが私に託したファイル

スノーデンが香港で暴露を行った、グリーンウォルドの著書。具体的にスノーデンが公表した資料の中身について細かく書いている唯一の本。スノーデンの暴露文書が何を述べていたか知りたければ、これを読むしかない。必読の1冊。具体的な文書のスクリーンショットも、一部とはいえ載っている。また、パートナーが嫌がらせを受けたりラップトップ盗まれたりする後日談も。これはポイトラス監督『シチズンフォー』にも登場した。

グリーンウォルドはその後、自分で独立メディア The Interceptをたちあげ、スノーデンのファイルを小出しにするとともに、各種の調査ジャーナリズムを実践している。

ハーディング『スノーデンファイル』

スノーデンファイル 地球上で最も追われている男の真実

スノーデンファイル 地球上で最も追われている男の真実

イギリス側からの視点でスノーデンの暴露について述べたルポ。ただし周辺状況に関する説明が主体。「スノーデンファイル」というから公表したファイルの話かと思ったら、実際の文書の中身についてはあまり触れていない。また触れられている部分も、PGPが1970年代から導入されていたとかいうとんでもないことを書いているし、技術的な部分に関してはぼくはあまり信用していない。オープンソースのブラウザ FirefoxNSAなどの裏口が仕掛けられてるって、ホントですか?

スノーデンの生い立ち、香港での暴露に到るプロセス、その後ユアン・マックアスキルが報道を行ってからの顛末について述べられている。伝記的な部分は、スノーデン自身の「独白」とほぼ同じ(あたりまえだが)。

ただし、いろいろな部分が外からの視点で語られるのはおもしろい。たとえば、香港から出た後でのロシアの状況。なぜロシアに向かったかという邪推などは、いまとなってはピントはずれではあるけれど、当時の人々の混乱についてはよくわかる。スノーデンはもちろん自分側の視点しかしらないけれど、この本はそれを取り巻く状況、モスクワにやってきた記者や弁護士についての話などもたくさん書かれている。この部分は自伝では意図してか、あまり詳しくない。またウィキリークスとの関係についても、自伝では流し気味だが、この本ではきちんと周辺情報も含めて語られている。このため、自伝とあわせて読むと状況の理解が深まる。自伝で書かれているほど単純ではなかった模様ではある。

それも含め、その後、NSAがドイツでメルケルの携帯電話盗聴をやらかしていた話なども含め、告発が行われた後の顛末に関してはこの本は非常に詳しい。最後は『ガーディアン』に渡った文書がイギリス政府/GCHQにより完全破棄が命じられ、ハードディスクを物理的に破壊しなけれればならなかった話でおもしろい。『ガーディアン』内部やその政府との各種応酬が詳しく書かれている。実際に破棄する風景は、ポイトラス監督『シチズンフォー』の最後に映像が出ており、それを見ると迫力あり。

ポイトラス監督『シチズンフォー』

スノーデンが告発のために接触した最初のジャーナリスト、ローラ・ポイトラスによるドキュメンタリー。実際の香港での暴露の現場の映像は、緊迫しているはずなのに呑気で、かえってリアル。長い映画ではないので、是非ご覧あれ。

シュナイアー『超監視社会』

超監視社会: 私たちのデータはどこまで見られているのか?

超監視社会: 私たちのデータはどこまで見られているのか?

スノーデンの話を見ていると、つい政府の監視やデータ収集にばかり意識が向きがちだけれど、自伝でもスノーデンは民間企業との結託を非常に憂慮している。この本は、政府、民間を問わず (そして両者が結託しているならそれは同じようなものだ) 各種のプライバシー侵害、データ収集、監視について、スノーデンの暴露を含めてまとめ、そしてそれに対してどう対応すべきかを、政府、企業、個人、社会のそれぞれのレベルで提案してくれる。

もちろんシュナイアーはコンピュータセキュリティ業界では権威級の人物。『ガーディアン』に依頼されてスノーデンの持ち出した文書の査読なんかもしていて、その成果が本書にもいかされている。スノーデン自伝の訳者あとがきで、ぼくも個人向け多少のセキュリティ実践のすすめを書いたけれど、この本での提言は山形なんかとは分析も提言の詳しさも段違いではある。

土屋『サイバーセキュリティと国際政治』:スノーデンを手がかりにもっと広い背景まで扱うベストな副読本

サイバーセキュリティと国際政治

サイバーセキュリティと国際政治

(この本についてはこちらから転載) いくつか読んだ中で、これが最も優れた本だと思う。スノーデンの暴露について、その背景を押さえつつ、もっと広いいまの情報環境全般と、その中での監視社会と自由との相克、国際政治における諜報活動の役割の中での位置づけまで説明してくれる。

この本は、スノーデンの暴露についてはそれなりに評価している。そして、それがまったく目新しいわけではない一方で、なぜ画期的だったのかについてもきちんと書く。一方で、スノーデンの主張を鵜呑みにするわけではない。スノーデンによると、政府/NSAはとにかく9.11に便乗して自分たちの活動を徹底的に広げて権益を確保したかっただけだ。確かにそういう面もあるだろう。でも一方で、むしろ情報機器や通信量が莫大になったために、ピンポイントの監視においてすら従来のやり方では困難になっているという状況は確かにある。そして監視そのものより、保存と分析のほうがボトルネックになっていることを本書は指摘する。かつての信号諜報は、手紙と電報電話だけ押さえればよかった。いまはそうではない。だから、監視能力が拡大していることだけを取り沙汰するのは、必ずしもフェアではない。監視されるほうも拡大しているのだから。

スノーデンですら、きわめて制約された形でピンポイントで行うなら、盗聴、監視は正当化されると述べる。でもその正当化される監視も、現状の情報環境ではかなり広い捕捉を行う必要が出てきてしまう。スノーデンは、オバマが当初は透明性の高いオープンな政府を公約しつつ、実は大量監視に加担していたことを失望とともに語る。でもオバマが聖人だとは思わないけれど、「これで国民のやること全部わかるぜ、うっひっひ」とダークサイドにいきなり転向したとも思わない。土屋は、それを現在の自由と安全とのジレンマの中でオバマが下さざるを得なかった苦渋の選択の結果だろうと考える。少なくとも、そう見ることは十分に可能だ。それに賛成するかどうかはともかく、そういう見方が決して完全なナンセンスではないことは、念頭においておく必要がある。

そもそも、サイバー空間の中で何が容認されるのか? そこは本当に、完全にだれが何でも自由にできる、プライバシーの確保された空間であるべきなのか? それですら合意があるわけではない。この本は、その点についても述べる。そもそも、プライバシーとは何だろうか? そういう根本的な話も本書はきちんとしてくれる。

そして最後に本書は、安全保障という問題に立ち戻る。ぼくたちは、自由と民主主義こそが安全と繁栄をもたらすのだ、と考えがちだ。でも実際には……安全が保証されているからこそ、みんな自由にふるまえて、民主主義も栄えるというのが実態のようにも見える。その場合、優先すべきなのは何なのか? スノーデンを担いだ日本の他の本みたいに、とにかく政府信用できない、監視社会あー恐ろしい、というような本ではまったくない。スノーデンの話をもとに、それをもっと広い視野で見直させてくれる、極めてすぐれた本で、副読本としてベストだと思う。

小笠原『スノーデン・ファイル徹底検証』

スノーデン文書の中で、日本と関連する部分についてまとめた本。グリーンウォルドは、現在スノーデンから受け取った文書を小出しにするサイトを運営していて、そこが出してきた日本関連の文書15本について紹介した本。その文書は、ここでアクセスできる。日本でのNSAの活動の歴史について説明するとてもよいまとめになっている。できがいいので、勝手に翻訳した。少しソースをいじってみたけれど、外部からの直リンをはねるセコいスクリプトが入っていて、たいへんむかつくので、問題の文書の画像ファイルだけ全部抜きだして、ここに置いておいた

正直いって、そんなすごい話は出てこない。昔から日本とアメリカは、日米安保の枠内で情報交換をしてきた。その過去の経歴の話や、NSAの本部が移ったとか、日本駐在社に聞く日本での生活とか、そんな話。対韓航空機撃墜のときに、アメリカが日本の情報をかすめ取るのに苦労した、という話は、歴史的にはおもしろいけど1983年の話だから、スノーデンと直接は関係してこない。唯一興味深いのは、日本の防衛省がXKEYSCORE (どういうソフトかは伝記をお読みあれ) を提供されて、きちんと使えるよう講師派遣をした、というくらい。

そうした紹介をきちんとした上で位置づけをしてくれればよいのだけれど、著者はスノーデンがどうしたという話より、秘密保護法反対、共謀罪反対、モリカケ反対、マイナンバー反対、アベガーアベガーの人で、本の7割はスノーデンなんかそっちのけで、そういう話をまったく整理されない形でしているだけ。日本で秘密保護法ができたのはNSAの入れ知恵だったとスノーデンが言っていた、だから打倒安倍政権、みたいなアベガー族に典型的な、支離滅裂な記述が続いて閉口する。

日本の米軍向け思いやり予算の一部は、NSAの施設建設に使われたとのこと。そういうこともあるだろう。でも、それがなぜ問題なのか? 朝日新聞の記事にありがちな、ちょっとでもつながりがあれば、とにかくなんでも陰謀加担で共謀でとにかく国家の大陰謀にしてしまい、理屈もなにもあったもんじゃない。日米安保があるんだから、軍事協力の一環として諜報に協力する部分もあるでしょうよ。それがそんなに騒ぐ話だろうか? 日本の基地が、中東のネットカフェなどのアクセスを即座に捕捉してターゲットを同定する活動の拠点になってるって、軍事協力関係にあるんだし、そういうこともあるでしょう。

さらに、秘密保護法がNSAの入れ知恵だとして、それが何か? スノーデンはこの自伝でもわかる通り、政府に秘密があるのは当然としている。日本では政府に機密があってはいけませんか? ぼくは当然、部外秘の事項はいろいろあるだろうと思う。政府が国民の盗聴しまくって、それを機密指定にすれば、あらゆるものが機密になって政府は好き勝手できて、というんだが、それは仮定に仮定を重ねまくりすぎだろう。そしてそれは日本の機密管理の問題であって、それをスノーデンをダシにしてあれこれ語るのはピントはずれの感は否めない。

帯にも「森友・加計疑惑をはじめ、単発で報道される様々なニュースの陰に、急成長する監視の力が見え隠れする」と本文からの引用が出ている。モリカケは、監視まったく関係ないと思うんですけど、とにかく自分の気に食わないものはすべてアベガーでつなげてしまう。

そして各種文書から日本に関連する部分を抜き出しているはずなんだが、日本の施行した施設をNSAがaccept したと書いているというのを、傲慢だなんだと難癖つける。竣工して施主がそれを引き渡されたときの常套句なんだけどねえ。そして上でリンクした文書を見ても、ネタは比較的限られている。それをごまかすため、文書の全体像をなるべく見せることなく、この手のつまらないつまみ食いに、モリカケだナントカだ許せない恐ろしい沖縄のナントカがアベガーというのを大量にまぶすため、結局何がなんだかわからない。

文書の全体を見せ、「こう書いてあるが、ここのこういうところが、ナントカという法律や規定に照らして問題だ」と冷静に述べればずっと説得力が持てたと思う。でも、結局モリカケ疑惑なる無意味な揚げ足取りのツマにスノーデンを使っているだけとなってしまい、スノーデン文書で日本に関する重要な部分を指摘する、という読者の多くが期待したはずのことがまったくできていない。結局、モリカケ騒動のためにスノーデンを利用しただけで、その話題が飽きられたら、スノーデンも道連れになってしまった。あまり読む価値はないと思う。

その他スノーデンの談話を目玉にした本いくつか

スノーデン 日本への警告 (集英社新書)スノーデン 監視大国 日本を語る (集英社新書)スノーデン、監視社会の恐怖を語る 独占インタビュー全記録 スノーデンが語る「共謀罪」後の日本――大量監視社会に抗するために (岩波ブックレット)監視社会をどうする!  「スノーデン」後のいま考える、私たちの自由と社会の安全 ( )

いずれも、上と同じ問題を抱えた本。小笠原みどりのインタビューは、半分が自分語りで、インタビューもそんなに目新しいことは聞けていない。その他の本も、スノーデンの話についてはまったく新しいことが出てきていない。他の人々が、当人の関心についてあれこれ語るのは、おもしろい部分もあるかもしれないが。いずれの本も、2016-2018年という時期にドカどかっと出てきている。つまりどれも、秘密保護法阻止(ついでにモリカケ)のための駒としてスノーデンを使おうとしている本。

特に、これらの本に出てくるスノーデンインタビューは、いささかぼくとしては賦に落ちないものがある。それについてと、その他追加の本についてのコメントは以下を参照。

cruel.hatenablog.com

バラード『太陽の帝国』新訳は、当然大きく改善されています……と書きたかったんだけど。

先日ふと、バラード『太陽の帝国』の新訳が出たのを知った。しかも山田和子訳。

これについては、国書刊行会の高橋訳がイマイチだという話は結構聞いていたんだけれど、ぼくは英語でしか読んでなかったので、どの程度イマイチかはあまり知らなかった。いつか読むべえと思って、いま見たら家に2冊もある。最初のやつと、映画になったときのカバーのやつと。

太陽の帝国

太陽の帝国

で、いい機会だからちょっと比べて見ようと思った。もちろん、新訳のほうがずっとよいにちがいないとは思っていた。一見してすごい名訳という感じではなかったが、でも山田さんはそういう名文家とかではないし、バラード自体がかなり悪文だ。これが新訳決定版なら、旧訳はよほどひどかったんだろうな、一瞬で審判は下るだろう、というのが当初の期待だった。

でも、そうはならなかったんだよ……

 

まず、冒頭部。英語はこうだ。

Wars came early to Shanghai, overtaking each other like the tides that raced up the Yangtze and returned to this gaudy city all the coffins cast adrift from the funeral piers of the Chinese Bund.

昔の高橋訳は以下の通り:

戦争は、揚子江をさかのぼる潮流のように先を争いながら、次々と上海にやってきた。その潮は南島のバンド (黄浦灘路) の弔い桟橋から漂い出た棺をすべて、けばけばしいこの都市に押し戻すのだ。

山田訳はこう:

戦争の波が早くも上海に押し寄せていた。揚子江を勢いよく遡る上げ潮が、葬送桟橋から投じられた中国人たちの棺をすべて外灘に再び押し戻してくるように、戦争の波は互いに競い合いながら次々とこのけばけばしい都市に到来した。

うーん、この二つだと、ぼくから見れば……高橋訳のほうがいいかなあ。でも、これは趣味の問題ではある。

まず、ちょっとしたまちがいから。山田訳だと、棺が外灘へと押し戻されることになってる。でもこれはちがう。葬送桟橋が外灘にあって、そこから投じられた棺桶が上海(その中のどことは明示されていない)に戻ってくる、という話。「中国人たちの」というのは、たぶんそういう葬送をされたのは中国人だけだったからなんだろうけど、でも原文にはない。

そして山田訳のほうがやたらに長い。これはその翻訳方針のせいだ。高橋訳だと、表面の意味的には問題ない。でも文章を切ったせいで、後半は潮だけの話になってしまう。原文では棺が川を遡って押し寄せるというのが戦争のイメージと重なりあう。一つの文章で、文章全体の主語が「戦争」だからそうなる。でも切ってしまうと、それがなくなってしまうのだ。山田和子はそれを補うために、「戦争の波は互いに競い合いながら次々とこのけばけばしい都市に到来した」という、最初の「戦争の波が〜」という文章のほぼ繰り返しを最後にくっつけている。

ぼくは、原文にないものはなるべく追加したくない。だから、どっちかというと高橋訳なんだけど、山田訳のやりたかったこともわかるし、原文の意味に忠実なのは山田訳かなあ。長い修飾節が後にくっつくのって、ホント処理しにくいんだよね。でもその一方で、その棺桶に「中国人たちの」と原文にないものをつけてしまったせいで、普遍的な死を暗示する「棺」が、なんかずいぶん限定的になって、せっかく温存しようとしたイメージを弱めてしまっているのは大減点だなあ。

ぼくがやるならどうするかなあ。

戦争は早くから上海に次々と押し寄せ、揚子江を激しく遡る潮の波のように折り重なった。それは外灘の葬送桟橋から流された棺桶をすべて、この派手な都市に送り返す。

うーん、うまくない。「それ」が何を指すのか曖昧にすることで、棺桶と戦争の漠然としたつながりを残せないかな、と思ったんだけれど。

次の段落は、だいたい両者同じなんだけれど、ここは山田訳が勇み足で、高橋訳の勝ち。両者がちがっているのは一文だけ。次の一文:

During the winter of 1941 everyone in Shanghai was showing war films.

この両者の訳は次の通り:

1941年の冬のあいだ、上海では至るところで戦争のフィルムが上映されていた。(高橋訳)

1941年の冬、上海では誰もが戦争映画を見ていた。(山田訳)

高橋訳は、だいたい原文のまんま。山田訳は、上映していた (showing) を「見ていた」にしてしまっている。なぜこんな改変をしたかは不明。しかもこれをこう処理してしまうと、次の段落の冒頭がわからなくなる。

To Jim's dismay, even the Dean of Shanghai Cathedral had equipped himself with an antique projector.

だれもかれも戦争フィルムを上映していて、司祭さんまで映写機を手に入れて戦争フィルムを上映するようになっていた、というのがポイント。だから前の部分でも、人々は見ていただけじゃない。自分で上映していた、と言う話なのだ。

でもって、このいま引用した部分、二人とももう少していねいにやってほしい。

上海大聖堂の主任司祭まで旧式の映写機を手に入れていたのを知って、ジムは仰天した。(高橋訳)

驚いたのは、上海大聖堂の主席司祭までもが古い映写機を持っていたことだった。(山田訳)

この文脈でdismay というのは、単に驚いたってことじゃなくて、がっかりした (または、せめて「呆れた」) ということ。ジムくんは、あちこちで戦争フィルムばっかり流れるのがちょっといやだったのだ。夢にも戦争が出てきて、目が覚めてもそれが続いているみたいで、うんざりしていたのだ。そこへ神父さんまで映写機を手に入れてきて (持っていた、ではなく、どっかから手に入れていたのだ。この点も高橋訳のほうが正確) 戦争フィルムの上映を始めるというので、えー、となったわけ。驚いただけだと、ジムくんが感じていた、戦争を見せられるのがいやだという気分がまったく表現されない。やるなら:

上海大聖堂の主任司祭さえも旧式の映写機を手に入れていたので、ジムはがっかりしてしまった。

このくらい。

うーん。ぼくは自分ではNW-SFの残党のつもりなので、山田和子訳を絶賛したい気持はすごくある。が、その他頭の部分を見ていると、それがなかなかできない。17歳の子守りヴェラについて「This bored young woman」となっているところ、高橋訳は「すでに人生に倦んだこの若い女性(p.15)」だが山田訳は「このうんざりする若い女性(p.25)」だ。「退屈している若い女性」でいいと思うんだけど、山田訳は明らかにまちがっている。これに対して高橋訳は、ここだけを見るならちょっと違和感あるという程度で、まちがいではない。

が、もちろん話はここだけではない。この文は「usually followed Jim everywhere like a guard dog」と続く。当然ながらジムは、ついてこられるのがいやだったわけだ。だから山田訳はそれをソンタクして、つい「うんざりする」にしてしまったわけだ。一方高橋訳は、文脈とかまったく無視して勝手に「人生に倦んだ」なんてしてる。

そんな悩む話ではぜんっぜんないと思うんだけどなあ。このヴェラちゃんは東欧の戦争難民で、他にすることがなくて、ホントに暇で退屈してたのだ。だからジムくんのあとに律儀にくっついてくるのだ、というのがこの文意。この文章全体のジムの気分は理解しつつ、でも文を歪めた山田訳と、雰囲気をあんまり理解せずに字面だけで勝手な訳をした高橋訳。山形的には、どっちも却下だけれど、どうしてもどっちか選ばないと殴ると言われたら……ごめんなさいと言いつつ、高橋訳を採るだろう。

30分程度の対比だから、あまり断言するわけにはいかないんだけど、ここまで見たところでは……うーん。高橋訳にみんなが不満を述べたのはわからないでもない。固い字面だけの直訳だものね。でもそーんなにひどいとは思えない。一方で山田訳が決定版と言えるほどの改訳になっているかは、口ごもるところ。意図は山田訳のほうが汲めているけれど、そのために原文を歪めるのは、ぼくはあまり感心しないのだ。

ホント、これまでの部分はすごくもどかしい。こう、スケートとか各種の競技を見ていて、こっちのほうがいい感じなんだけど、でも審査基準に従うとあっちのほうが得点が高くなってしまい、外野がブーブー言うことがあるでしょう。これはそれよりむずかしくて、採点基準からすると高橋訳にもかなりよい点をあげざるを得ない一方、山田訳は意を汲むのはいいんだけどそのために特に必然性もなく採点基準でマイナス点をつけなくてはならないようなことをしている。うーん。そしてそれで芸術点をドーンとつけられるかというと、そこまでは行っていない。

そしていずれの場合も、特にいま挙げた中では冒頭の一文と「bored」が顕著なんだけれど、なんか変な凝り方していじくらないで,普通にストレートに訳せばいいじゃないか。余計な付け足しするから、二人ともかえっていろいろ穴が出てきているように思う。

 

ここまでのところだけだと、なんか山田訳の旗色がずいぶん悪そうに見えるけれど、そういうわけではない。ぼくが見た中で唯一、絶対に山田訳が正しい部分。

I hear you've resigned from the cubs.

オオカミの子供の世話を止めたと聞いたが。 (高橋訳 p.29)

カブスカウトをやめたそうだね (山田訳 p.40)

これはまあ、文句のないところ。高橋訳の、字面しかみないところが最悪の形で出てしまっている。そんなふうに、改良されたところは確実にある。でもなあ、もう一段改良の余地はあると思うんだ。ごめんなさい。

 

でもこれも含め、いろんな「新訳」とかいうのがどのくらい直っているのか、どこがちがうのか、みんなもっと情報を求めていないのかなあ。旧訳はゴミ箱にたたき込んで買い直すべきなのか、そこまでする必要はないのか、それとも稀なケースとして、かえってひどくなってるから旧訳は大事にしましょうね、となるのか? それについて、いいとか悪いとかいう印象論だけじゃなくて、具体的にこういう改善が行われている、というのを示してくれると、みんな嬉しいと思うんだけど。

以前、『ソラリス』についてはそんなことをやってみた。検閲で削除されていたのを復活、というから、どんなヤバいことが書いてあったか気になるもの。

cruel.hatenablog.com

みんなそこまで考えないということなのかな。

トルコ大統領が不敬にも捨てたという、トランプ大統領閣下のありがたきお手紙を植民地の下等民どもも味わってみたまえ。

もう多くの人が言っていることだけれど、ぼくは最近、フェイクニュースと現実のニュースの区別がつかなくなっていて、冗談ぬきで途方にくれている。このニュースが最初に出てきたときもそうだった。

www.asahi.com

この手紙の実物が最初にでまわったとき、ぼくは絶対これはインチキだろうと思ったんだけど……ちがった。朝日新聞のこんな機械翻訳ではその真の味わいがかけらもわからないので、その文体も含め訳してあげました。

トランプ大統領閣下のありがたきお手紙
トランプ大統領閣下のありがたきお手紙

(ウソだと思う人(思うよねえ)、現物はこちら リークしたのがフォックスニュースだしホワイトハウスも認めてるそうです)

ごめんね、ぼくはこういう格調高い文章の翻訳になれてないので、ちょっとまちがってるところもあるかもしれないけど……

山形がまた超訳してるんだろうと思う人もいるかもしれないけど、ほぼこの通りです。これを口述筆記させられた人はその場で辞職したくなったと思うし、伝達させられた外務省や在トルコのアメリカ大使館の人たちも、「これマジ?」と百回くらい聞き返して、泣きながら届けたと思う。ホンッとかわいそうに。こんなのがきたら、まあゴミ箱送りも無理ないよ。エルドガエルドアン、最初に聞いたときは大人げないと思ったけど、これはまあそうだろう。こんなものがこのレターヘッドできたら、どうしろってのよ。

ちなみに、エルドガエルドアン怒ってます。「仁義の切り方も知らねーのか。急ぎではないが、然るべきときがきたらきっちりあいさつさせてもらうからなー」だそうです。

ほかにもこの次のツイートの「わが偉大にして並ぶものなき叡智をもって」とか、ふつう正気では書けないけど、すごすぎる。

わが偉大にして並ぶものなき叡智をもって,トルコ経済破滅させまーす
わが偉大にして並ぶものなき叡智をもって,トルコ経済破滅させまーす

でもこの人、次も勝つんだよねえ……

付記 コピペ用テキスト

拝啓 大統領どの

うまいこと話まとめようぜ! あんただって、何千人も虐殺した責任はかぶりたくないだろうし、おれだってトルコ経済を破壊したくなんかねえよ——でもやっちゃうよ? ブランソン牧師のときにおれがちょいとお仕置きしてやったの、忘れたか?

おれのほうも、あんたの問題も多少は片づけるように頑張ったんだぜ。世間をがっかりさせるなって。あんたならバッチリ話まとめれるから。マズロウム将軍だって手打ちしたがってるし、これまでなら絶対やんなかったみたいな妥協だってするってさ。いま将軍の手紙が届いとこだから、ないしょで入れとくな。

これをきっちり人道的にこなしたら、あとでほめてもらえっから。でもいい結果になんないと、おまえずっと鬼な。イキがってんじゃねえぞ。バカなまねすんなよ。

あとで電話すっから。

敬具

ウィリアム・ギブスン:意匠だけのファッションショー小説

Executive Summary

 ウィリアム・ギブスンの1990年代三部作と、2000年代三部作は、いずれの小説としての体をなしていない。ストーリーはどれもほぼ同じで、まったく必然性のない探索を、まったく必然性のないアート系女子が、大金持ちに依頼され、必然性のないところをうろうろして、最後に目的のものが見つかっても何も起きない。途中の必然性のない場所や出会う人々のスタイル、ファッションといった意匠をやたらに並べ立てるだけのファッションショーでしかない。1980年代の大傑作のおかげで万人の期待が大きく、駄作でも深読みしてもらえていたが、かつては鋭敏だったファッションアイテムへのセンスや社会観もすでに停滞し、作家としての価値はすでにないも同然ではないか。


はじめに:ギブスンの意義

ウィリアム・ギブスンはそれなりに特別な作家だし、ある時点では文化的にとても重要な役割を持っていた。ぼく個人にとっても、SFとネットと現実経済とのからみあいみたいなものがだんだん具体的に感じられるようになってきたとき(そして同時に、多感な大学生の時期に)、彼の『ニューロマンサー』が時代とすさまじいシンクロぶりを見せつつ浮上してきたのは、ある種の決定的な体験ではある。

そしてもちろん、『ニューロマンサー』に代表されるサイバーパンクが、当時のぼくの狭い世界の中で重要な役割を果たすとともに、その後の様々な人間的、社会的なつながりの発端になったのは、とても大きい。サイバーパンクの多くの作品はもちろん、一過性のものではあった。多くは忘れ去られたし、それが当然ではあった。それでも、ぼくはそうしたものすべてがはらんでいた、当時のある種の興奮を覚えている。そしてそれがしぼんでいったその後の様子も。それについては、こんなところで書いたりもした。

cruel.hatenablog.com

でも、それが沈んだ後になっても、ウィリアム・ギブスンだけはぼくにとって、そして多くの人にとって特別な位置を占める作家ではあった。彼はサイバーパンクというジャンルの中の作家ではなく、ジャンルを定義づける作家ではあったし、それがまたもや何か新しいビジョンを見せてくれることを期待はしていた。そして新作も、しばらくは一応目を通すようにしていた……ある時点まで。ある時点というのは、『あいどる』の頃くらいまでだったろうか。でもその後、何が出ているかチェックすることもしなくなり……

 

そして特にきっかけがあったわけではないんだけれど——新作が来年出る話をどっかで読んだんだっけ、それともだれかがギブスンのツイートをリツイートしていたのを見かけたんだっけな?——そろそろまとめて見直そうかな、という気になった。考えて見れば、「見直す」どころか最近の三部作は読み終えてもいないや。そして考えて見れば、その前の『あいどる』とかの三部作も、なんかこう、ピンとこなかったうえに、何も起こらなかったという記憶しかない。そうそう、『あいどる』って、トレント・レズナーバーチャルアイドルが結婚するとかで大騒ぎして……「結婚した、よろしくー」で終わって脱力したんだよな。どうなったんだっけ?

ということで、読んでなかった最近の2000年代になってからの三部作を、まずは読みました。そして……すさまじく失望した。これまでギブスンに抱いていた期待とか夢みたいなものを、もうすべて捨ててもいいと思った。というのも、そもそもこれは小説と言えるものではないからだ。そして小説でなくても読み物としてかろうじてそれを成り立たせていたもの——ある種の時代感覚、ガジェットやスタイルに対するセンス——が、もはや完全に失われ、ピントはずれになっているのもわかった。それはある意味で、時代に追い越された結果だ。同時にそれは、ギブスン自身がすでに鑑識眼を失っていた結果でもある。でも……考えて見ればギブスンってそういう作家だったよなー、というのを改めて思い出す契機にはなった。

「ブルーアント社」三部作:21世紀の三部作はストーリー不在のガジェットファッションショー

2000年代の三部作は、『パターン・レコグニション』『スプーク・カントリー』、未訳の『Zero History』の三作。

一応、これは「ブルーアント社」三部作と呼ばれている。マーケティング会社のような調査会社のような、広告代理店のような商社のような、ブルーアント社というのがあって、それとその創業者で親玉のビゲンドが背後で蠢いているから、ではある。いずれも、舞台はリアルタイムの世界。つまりは2000年代のその描かれた時代ということだ。

でもいずれの小説も、まずとても読みにくい。というのは、そのときに、そこにいる人が何のために、何をしようとしているのか、多くの場合ほとんどわからないからだ。なぜわからないかというと……何も解決すべき重要な課題や謎がないから、なのだ。

「パターン・レコグニション」 (2003) は、なんかネット上に転がってる断片的な映像「フッテージ」なるものの出所をつきとめろ、とそのブルーアント社の社員のおねーちゃんがビゲンドに言われる。何か問題でもあるの? わからん。なぜ彼女なの? 特に理由なし。で、見つかったらどうなるの? それが何も起きない。なんかロシアのマフィアがセキュリティホールを確認するために使ってたとかなんとか。で、それがわかって何か? 何も。

「スプークカントリー」 (2007)では、なんかいろんな場所の特性を直感的に把握して映像化できるロケーションアーティストを見つけるよう、元有名バンドのおねーちゃんホリーがビゲンドに依頼される。なんか架空の雑誌の記事にしてくれ、という名目で。

なぜホリーが選ばれたのか……さっぱりわからん。そしてそれを雇うのに、なぜ架空のアート雑誌をでっちあげ、それの記事を書かせる必要があったのかもわからん。彼女は有名なバンド(その親玉は、レズ・インチメールというんだってさ。ローレズもそうだけど、ナイン・インチ・ネイルズトレント・レズナーがお好きなんですね) にいて、その知名度のおかげでその引きこもりアーティストと会える可能性がある可能性があるとかないとか。ふーん。でもなんでそんなアーティストを見つけたいの?それがねえ。マネーロンダリングかなんかのネタになる物資を積んだコンテナがどっかにあって、それにマーキング剤をつけてどこへ行っても足がつくようにしてロンダリングに使えないようにしよう、とかいう話。そのコンテナがどこにあるかわからないから、場所をイメージできるやつが欲しかったんだって。で、そのコンテナが見つかってどうなるかというと……何も。

「Zero History」 (2010) の想定はさらにくだらない。かつてミリタリーファッションが、ストリートファッションに大きな影響を与えるかっこいいものとされたけど、いまや軍はそういうデザインができないので、新兵募集にも影響がある。そこで軍の人気を高めるため、かっこいい軍服デザインを求めてるそうな。

そこでビゲンドは、その軍の需要に応えようとして、幻のブランドであるガブリエル・ハウンドのデザイナーを見つけ出し、軍服デザインをさせようと考え、そのために、なぜかまたホリーを雇う。メインの話はそれだけ。でもさあ、なんか他のブランドだっていいんじゃないですか? どうしてもそのガブリエル・ハウンドでないとダメという理由は? まともなものはなかったように思う。最後の50ページになって突然、同じことを企んでる(Wikipedia とか見るとドラッグの関連で云々と書いてあるけど、そんなの出てきたっけ?) 元海兵隊フィクサーがライバルを倒そうとして〜という、とってつけたようなアクションが、それまでほとんど伏線も何もなしに出てくると、これまた何の脈絡もなしに登場ホリーの元旦那が、たまたま(!!)すごいコネをあちこちにもってたとかで (たかがベースジャンプやってるユーチューバーみたいなヤツで、まるっきり説得力ないんだ、これが) 一日で何やらすごいハイテク迎撃態勢を構築し、一瞬でその相手を倒し、その過程でホリスはガブリエル・ハウンドのデザイナーと出会って、それはパターン・レコグニションの主人公でしたー、という話も出てくるんだけれど、それもなんかさらっと流されて、結局デザイナーはビゲンドには明らかにならず(でもそのデザイナー、そろそろ逃げ隠れもきついからカミングアウトするんだとか言ってたので、隠す理由ぜんぜんないと思うんだけど)……おしまい。

いずれの作品でも、基本構造は同じ。

 

  • ビゲンドがサブカルアーティストっぽい女子に、特に理由もなくくだらない依頼をする
  • 何の意味があるかもわからん探索で、どうでもいい偶然やきっかけで金持ち世界とギャングや傭兵の裏世界とを往き来
  • なんとなく、その捜し物を探す理由が明らかになるけど、超絶くだらないどうでもいい話
  • 捜し物が見つかるけど、何もおきない。

 

こんな具合で、読んでいて全体に散漫きわまりない。話に全然求心性がない。各場面も、何ら必然性がなく、話にほとんど貢献しないものばかり。そして読み終えても、何のカタルシスもない。では、この話が何で成立しているかというと……意匠なのだ。主人公の女子がピラティスやってましたとか、そのロケーションアートの細かい話とか、そのガブリエル・ハウンドの黒ミニマリズムでロゴすらほとんど見せないデザインの説明とか、やたらに詳しい。さらに何の必然性もなく場面が変わると、ギブスンはそこのデザインがミニマリズムを基調とした直線の中にゆるやかな曲線が屹立して天へと向かい見下ろすようにゴシック調の天蓋を形成し、その鈍い輝きが映し出す窓のそとの風景が云々かんぬん、と細々した意匠の説明をくどいほど続ける。カーチェースの場面でも、いっしょに乗っていた女が鋲打ちのハイブーツにボンデージ風レザーをまとった脚をのばして車から降りたち、とその場面の緊迫感を全然無視して、ファッション解説が始まる。大金持ち専用超ブティックホテルとか特殊ミネラルウォーターとか。あるいはストリート系の意匠や、たまには貧民街とかね。

だから基本、これは小説ではない。小説の形をとった、意匠羅列のファッションショーでしかないのだ。

ただそれが、あまりかっこよくない。パソコンやスマホは、とにかくiPhonePowerbookMacBook だ。金に糸目をつけないはずの連中が、2010年の時点ですら3Gネット接続もできず、wifi難民状態。ちなみに2010年には日本ですらLTEが始まってます。今はもちろん、当時読んでもかなりアナクロな感じがしたはず。本国でも、このアップル奴隷ぶりは嘲笑されたことがAmazonのレビューなんかからうかがえる。

そのストーリーの(きわめて弱い)駆動力となるはずのネタすら、ファッションでしかない。コンピュータセキュリティってなんかポイントだよねー、とかマネロンみたいな話が結構くるよねーとか、ギブスンとしてはそういうのを誇示したいわけだ(Zero Histry はそれすらないけど。軍がストリートファッションを採り入れたい?ちょっとマヌケすぎませんこと?)でも、意匠としてそういう言葉を知っているだけで、それを具体的に話の中に組み込むだけの中身の知識はない。

そして問題はそういう意匠だけじゃない。2010年の時点で、相変わらずスーツ姿の日本の企業戦士さらりまんがうろつき、ミニマリズム系やストリート系最新ファッションの出所は日本で、パリをうろつくのも日本人女子の観光客グループ。この人の時代認識ってどうなってんの? そういうと、iPhoneのことでも日本のことでも、必ず深読みしてあーだこーだ言う信者が湧いて出てくる。でもぼくは、単なる勉強不足だと思う。訳書の解説では、このシリーズがポスト9.11のギブスンであーだこーだと騒いで見せる。でも、何一つ9.11とか関係ない。ビン・ラディンの話とかちょっと出てくるくらい。

そして、2010年の作品で、世界金融危機についての何らかの認識でも示されているかというと、それもまったくなし。「スプーク・カントリー」と「Zero History」はもう完全に同じ作品といってもいいくらい。日本がバブルだった時代の話が、2010年になってもまったく途切れず続いている。

さらにもう一つ。ギブスンの世界は、レーガノミックス/サッチャリズム時代のいわゆるネオリベ的な世界観の反映でもある。そこでは、軍隊以外の政府はほとんど機能していない。世界は大企業の大金持ちとマフィアがほぼ支配している。でも、そうした見方はだんだん覆りつつある。スノーデン暴露は2013年で、ギブスンのこの三部作より後だから仕方ない面は、ないわけじゃない。が、そうした世界観は、1980年代バブルの継続という印象にまちがいなく貢献している。

すると、小説として破綻していて、そのかわりに出てくるファッションがダサく古いうえ、時代認識までピントはずれとなったら、その存在意義ってなんだろうか? ぼくは皆無だと思う。たぶん世間的にも、2000年代半ばくらいまでは、それでも多少の期待はあった。かつてのご威光もあった。でも、それが急激に薄れ、Zero Historyではほぼ完全に見放されたようだ。それは、たとえばZero Historyはもはや邦訳がないことからもわかる。英語版Wikipediaで、スプーク・カントリーまではあらすじ、テーマ、受容、各種評価、その他きわめて詳しい記述があるのに、Zero Historyではそれがまったくない。かつてのギブスンであれば、愚作は愚作なりに話題にもなっただろう。もうそれすらない。

 

でもこの気配、確かそれ以前の作品にもあったよなー、と思って読み返したのが、その前の三部作だ。

「ブリッジ」三部作:Same same, ただし時代にもっと激しく追い越されてる。

その前の三部作は『ヴァーチャル・ライト』『あいどる』『フューチャーマチック』だ。いずれも邦訳あり。

この三部作、最初の二作は読んだ。『ヴァーチャル・ライト』は、なんせスプロール三部作以来初のギブスン作品、期待はすさまじく高く、発売と同時に原書で読んだ。そして……なんとか誉めねばならないと思って、「未来への希望と予感が〜」とかいう書評を書いた記憶がある。『あいどる』についても「え、これで終わり??!!」とかなりがっかりしたけれど、まだなんとか期待をつなごうと「何も起きないが予感が〜」みたいな苦しいことをどっかに書いた。自分のサイトを検索すれば出てくるだろうけど、赤面しそうなのでやらない。三作目は、なんか読まなきゃという義務感はあって、本棚に20年近く置いてあったけれど、『あいどる』で力尽きたので、読んでいなかった。

が、四半世紀たった今読むと……ひどいね。話は、「ブルーアント」三部作の構成と似たり寄ったり。

『ヴァーチャル・ライト』(1993)は、自転車クーリエやってる女子が、金持ちの宴会に迷い込んで出来心で盗んだサングラスが、神経に直接作用する最新VR装置のバーチャルライトで、それを取り返しにおっかない人がくるんだけど、その子は震災後にスラム化して無法地帯となったサンフランシスコ-オークランドベイブリッジに住んでて、そこではAIDS抗体を発達させたゲイを拝む新興宗教ができて変な儀式もしてました、というだけの話。

『あいどる』(1996) は、大物ロックバンド、ローレズの親玉がバーチャルアイドル投影麗と結婚を発表したので、アメリカのファンクラブの子がそれがホントか探るために日本にやってきくるときに、知らないうちに怪しいナノテクの運び屋にされ、一方でネットを流れる大量のデータ流からその結節点を見つける才能を持つ男コリン・レイニーも、なんかそれが何の冗談/陰謀なのかつきとめろと依頼されてやってくる。ひどいご都合主義の結果、全員がラブホにやってきて、そのバーチャルアイドルも登場して、なんかナノテクで結婚も可能になるようなならんような、でもまあそういうことで一件落着って、何がどう落着したのかわからないうちに話はおしまい。

『フューチャーマチック』(1999)は……ろくなストーリーがなくて、東京でホームレスになったレイニーが、なんか1911年のキュリー夫人がらみの事件(なんだかは明らかにされず。ギブスンも単なるジョークで書いてただけで、意味はないんだって) 以来の大結節点の到来を予測して、それがやってくると人類が滅亡とかで、なんかその背後に広告代理店の親玉がいて、そいつは結節点後に自分が重要存在になろうとして己をバーチャル化しつつデータをどこかに送りこもうとしているところへ、投影麗があらわれてなんかそれを阻止しようとしたかなんかなんだが、結局その大結節点って何だったのかわからず、特に何もおきず、人類も亡びず、なんかその中でベイブリッジのスラムも放火されたりするんだけれど、それで何も起きるわけではない。おしまい。普通は無用に詳しいネタバレ上等の英語版Wikipediaですら、こいつについてはろくにストーリーが説明できていない。

いずれも、小説にはほとんどなっていない。一作目では、そのバーチャルライトがえらく重要そうなんだけど、ただのマクガフィン以下で、とにかく何の必然性もなく、なぜそんなに殺し合いまでするほどのものかもわからず、その後もまったく登場しない。二作目は、そのバーチャルアイドルとの結婚というのがマクガフィンなんだが、それも何もないも同然。フューチャーマチックは、それすらない。「結節点」とか言うけど、みんなが何のために動いているのかさっぱりわからない。2000年代の三部作と同じで、小説としての骨格があまりになさすぎる。

では意匠か? うん、そうではあるんだが、それが見事に古びてしまっている。「バーチャルライト」は当時話題になってた、第一次VRブームにのっかろうという下心が見えていたんだが、これは今から見ると、古くさい。二作目と三作目でデータの結節点を感じ取れるとかいう重要な役まわりは、当時台頭しつつあったネット検索——ヤフーとかアルタヴィスタとか——の役割に目をつけたものではあるけれど、いまならビッグデータ解析に勝てるはずもない。当時ですらごく普通の目のつけどころで(サイトが増えて検索の重要性が増すからデータベースのサーチャーが新しい時代のナントカ、という報告書をこのぼくも当時でっちあげた記憶がある) いまや苦笑するしかないものになってしまった。「ブリッジ」三部作と言われるのは独立無法地帯の独自文化を、スラム化したベイブリッジやネット内の九龍城砦での治外法権的な自然発生的自治がやたらにほめられていて、登場人物たちの一種の安息所みたいな役割を果たしているからだ。そういうのを称揚したいのはわかる一方で、当時まさにそうしたスラム/スクワッターの自治みたいなのは、ベルリンでもアムステルダムでも衰退に向かっていたし、九龍城砦も取り壊されたし、発表当時ですら懐古趣味ではあったはず。そしてそこでの文化的発展について、とってつけたような大阪の「社会学者」が脈絡なしに調査していろいろ解説するという、安易きわまりない仕掛けはどうしたもんだろう。

というわけで、この三作はもはや現代的価値がまったくないのではないか、とぼくは思う。読みながら「これ、どうしようか」という困惑以上のものは、もはや感じられなかった。

ギブスンまとめ

六冊まとめて読むと……ギブスンはスプロール三部作のあまりのできのよさのため、過大評価されてきたんじゃないか、という気がしてならない。おかげで、凡作・駄作を書いても、「ギブスンだから、何かあるんじゃないか、これも布石で次こそ何かくるんじゃないか」という期待があり、各種のくだらない文化的レファレンスを深読みしなくてはならない義務感に (ぼくを含め) 多くの人がかられていた。でも、そんな義務はないし、また深読みするほどのものは実はなかったんじゃないだろうか。

彼の世界観は、1980年代前半の日本のバブル時代で止まっている。それ以後の話は、非常にとってつけたような時事ネタ (カリフォルニアの地震とか) しかなく、見るべきものはない。意匠を並べるのが強み、というか読みどころのようなものだけれど、それが話の中で必然性を持たされていないために、単なるファッションショーに堕し、しかもそれがあまりかっこよくない。

うーん。ひょっとして上のような特徴って、スプロール三部作にもあったような気はしなくもない。『カウント・ゼロ』は確か、画廊の女子が金持ちに依頼されて、ジョセフ・コーネルもどきの作者を探しにいく話が柱の一つだったように記憶している。ちょっとスプロール三部作までアレだと、なんかぼくの若き日々の想い出の大きな部分が毀損されそうな気がするので、この三部作を読み返すのは、また今度にしよう(とはいえ、『ニューロマンサー』は何度か読み返したけれど、いまなお大傑作として通用すると思う)。

だがそれより、今後どうしようか? いま、手元にはギブスンの最新作が一応ある。

読むべきだろうか? 各種レビューは未だにギブスンへの過大な期待に冒された人々が書いていることが多く、イマイチ信用できないのでどうしたもんか。さらに、来年早々に新作が出るはず、なんだけど、うーんどうすべきか。少し様子を見ましょうか、という感じではある。

しかし、「SFには再読に耐えない名作が多い」と言ったのは村上春樹の手下のだれかだったと思うけど、初読にすら耐えないとはなあ*1。これで本棚のギブスン関連本のスペースが空くのは、ちょっと悲しいことではある。

加筆(202002)

Periphery 読みました。あと、最新作 Agency のレビューもだんだん出てきた。なんかでかい事件があって世界経済が崩壊したかなんか(ここらへん、すごくわかりにくい)の後の世界で、量子コンピュータで時間線がある意味で混乱し、過去の様々な断片が未来とからみあい、その未来に暮らすロシアのオリガルヒみたいな大金持ちたちがVRを通じてその過去にちょっかいを出し、一方その過去の断片(たとえば我々の世界)は何やらあまり悲惨でないディストピアみたいなもので、貧乏人がその日暮らしのギグエコノミーをやって、VRでの代理ゲーマーとかをしている中で、その未来のヤバい連中と関わり合いをもってしまい……みたいな話。

そして上で書いたことはだいたい同じ。舞台は、まあすごくわかりにくいけれど、おもしろいところもある。その中でパパラッチドローンが飛ぶVR空間内の代理ゲーマー云々といったアイデアや、それに伴う各種ファッションはちょっと気が利いたところもあるんだけれど、だれが何のために何をやっているのか、ほとんどわからない。衣装と、おもわせぶりな台詞や新語は散りばめられるけれど、それが何にも奉仕していなくて、それ自体のためにある感じ。そして、例によって中心的な事件もマクガフィンも、なんか結局なぜ問題になっていたのかもわからない。

新作も、各種レビューを見る限り同じ評価。例によって、クリエイティブな女の子が金持ちの怪しい依頼を受け、という話らしい。「ギブスンは、爆発しない爆弾をこちゃこちゃ作ってるだけ」等々。以下のレビューでは「決まり切ったテンプレに目新しいネタを散りばめただけ」と酷評。

www.kirkusreviews.com

アマゾンの英米のレビューを見ると、なんか絶賛レビューばかりだけれど、ぼくはみんなまともに読んでるかどうか怪しいと思う。ということで、この新三部作(そう、一応なんかシリーズみたい)は、たぶんもう読まないと思う。

*1:たとえば「24」は、二度見るとまったくナンセンスでまともに見ていられない。だれが裏切り者かわかって二度目を見てると、どうしてこのときこいつはちゃんと動かないんだ、あのときなんでこれをやらなかった、と疑問点が多すぎるから。でも、初見だと、その場の勢いと、少し前の話なんてかなり忘れてるから、いろいろうやむやにしておもしろく見られる。でもギブスンは、その場の勢いもないんだよね。

ガルシア=マルケス『戒厳令下チリ潜入記』:ガルシア=マルケスは潜入してないし映画のおまけ。潜入して何が見えたかはまったくなし。

戒厳令下チリ潜入記―ある映画監督の冒険 (岩波新書 黄版 359)

戒厳令下チリ潜入記―ある映画監督の冒険 (岩波新書 黄版 359)

ずっと本棚にあったのを初めて読んだんだが、いろんな意味で看板倒れのような代物だなあ。

まずこの題名を読むと、ガルシア=マルケスが潜入したんだと思うでしょう(ぼくはそう思って買っていた)。でも実際は、潜入したのは映画監督のミゲル・リッテンで、ガルシア=マルケスはそれをインタビューして潜入記に仕立てただけ。なーんだ。

話の中心は、潜入のプロセスやその過程でヒヤヒヤしたとかいう話はいろいろ出ているんだけれど、話だけで写真も何もない。ボヘミアン暮らしのよいご身分の監督が、潜入のためにウルグアイブルジョワになるとかで、体重を落としたり髪型変えたりとかいろいろやったそうなんだけれど、使用前/使用後の比較写真とかそういうのはまったくない。ガルシア=マルケス様の文章からそれを想像しなさいってことなのかもしれないが、でも映像作家の潜入記だろうに。銀塩フィルム時代で、いまみたいになんでもバカみたいに撮影できないのはわかるし、またもともとリッテン当人はこんな潜入記をつくるつもりはなく、あとからガルシア=マルケスの発案でできた代物だから、そんな自分たちの様子を映したりしようという発想がなかった、ということなんだろう。とはいえ、それで迫力がなくなっているのは否定しがたいところ。小道具になって、後にピンチを引き起こしかけたというそのジタンのタバコの空き箱に殴り書いたメモとか、少し見せてよ。

当時のチリの状況について潜入して何か目新しいことがわかったかというと、結局言ってることは、独裁政権が圧政してて、不満が高まっています、というだけ。その具体的な記述はほとんどなく、いま読んでも何か特に発見があるわけではない。その状況を如実に示すような写真もない。当時(1980年代)なら、報道管制で弾圧があるとか、治安警察があちこちにいるとか、デモがあるということ自体が何か新しい話だったのかもしれない。でも、写真もほとんどないし、そこらへんのリアリティはあまり迫ってこない。そもそも、その滞在中にあまり大したことが起きているわけでもない。デモ隊と警官隊が衝突しているわけでもない。いま香港で起こっているのを日々見ているのと比べて、ずいぶん呑気な感じがしてしまうのは、野次馬の身勝手な感想ではあるけれど、でも実際問題としてそんな緊迫した状況が何かあるわけではないのだ。

この監督は、その潜入の様子をルポ映画にしたとのこと。ぼくはその映画は見ていない。

戒厳令下チリ潜入記 [VHS]

戒厳令下チリ潜入記 [VHS]

そしてたぶんその映画を見ていない人にはまったく意味がない。かなりの危険をおかして、レジスタンスみたいな人の親玉に会いにいった、という下りがある。読者としては、会ってその親玉が何を語ったのか、というのを知りたいと思うんだが……いろいろ合い言葉を用意して目隠しされて隠れ家につれていかれ、という話の後で、やっと会えた、と書いてそれでおしまい。インタビューの内容とかは一言もない。映画にはあったのかもしれないね。が、この「ルポ」だけでは要するに何もわからないということだ。読む価値ほとんどなし。

コルタサルニカラグアルポは、完全にお膳立てされた完全なヤラセではある。でも、それでもまがりなりに実際に見たという迫力と、薄っぺらとはいえそれについてのコルタサルの興奮はつたわってくる。それがあの本を一層悲しいものにしているのではあるけれど。

cruel.hatenablog.com

でもこの本は、そういう楽しみもあまりない。一過性の本にすぎないとは思う。当時は、たぶんここに書かれていない多くのことが同時代的に共有されていたので、出版/翻訳当時はもう少しおもしろく読めたのかも知れないけれど。棚からは除却処分です。

Qubes OS 4.0 をLenovo Thinkpad X230 Tablet に入れてみると

Qubes 4.01 を Lenovo X250 にインストールして、少しずつ環境を作るとまあ使えるようになってきました。特にフォントがきれいになると、結構いい感じ。

そこへたまたま、ヤフオクでジャンクの Lenovo X230 TABLETを落札してしまいました。タッチスクリーンがついているし、画面が回転するし、スタイラスもあり、タブレットモードにもなる。で、どうでしょう。Qubesはこれも扱えるかな? インストールはたぶんできるだろうけれど、タッチスクリーンとかはどうだろうか? 答は、一応扱えます。

Qubes4.0 on X230 Tablet
Qubes on X230 Tablet

ちなみに、このX230 Tablet はキーボードを X220のものに交換してある。Thinkpadのチクレット型キーボードは決して悪くないけど、でもどっちかといえばこういう普通のキーボードのほうが好きなもので。この頃のThinkpadは、こういうのが実に簡単にできてすばらしい。

インストール

インストールは、 X250の場合とまったく同じ。xen.cfg への加筆もまったく同じ。だから前のやつをみてほしい。

cruel.hatenablog.com

ちなみに、インストールの間はタッチスクリーンが機能している。すばらしい。

インストール後

インストール後、起動もX250とまったく同じだけれど、もうタッチスクリーンは使えなくなる。画面を回転させることはできても、それだけ。画面をフリップしたりするボタンも動かない。

でも、デバイス選択メニューの下に、タブレットというのが出てくる。これを何かVMにつないでみよう(たとえば personal とか)。

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Tabletバイスを "personal"VMにつなぐ

すると、タッチスクリーンが動くようになる……んだけれど、そのデバイスをつないだVMの中だけ。だから同じ画面の中で、この場合だと「Personal」VMのウィンドウの中だけタッチスクリーンが機能する。変えればそのVMのウィンドウ内だけ。

(日本語版のYouTubeビデオ作るの面倒なので、英語で堪忍してくれ。別に言ってることがわからなくても、画面の片方のウィンドウではタッチスクリーンが使え、もう片方では使えないこと、そしてタブレットの接続先をデバイスで変えると、タッチスクリーンが機能するウィンドウが切り替わることだけわかれば十分だし)

 


Qubes OS をLenovo X230 Tableで使う。タッチスクリーンの挙動はちょっと変わってる!

 

なんか異様な感じではある。またウィンドウ自体の移動とかはできないし、メニューの選択とかもできない。かなり直感に反するものとなっている。当然ながら、タブレットモードで画面にソフトキーボードが出てきたりもしない。が、使えることはわかった。

その他の面では X250 と同じ。メモリが16GBと二倍なので、いろいろ高速になるかと期待したけれど、それほどでもないかな。

注意

X230 Tablet はジャンクで、HDD さえついてなかった。バッテリーは完全に死んでる。カメラもない。ハードの試験用にWindows10をインストールしてみたけれど、どうも画面の回転やフリップのボタンはこちらでも機能しないので、ハード的な問題なのかもしれない。Qubes のドライバの問題ではないのかも。

結論

というわけで Qubes4.0 を Lenovo X230 Tablet で使うことは可能だし、タッチスクリーンも機能する……ただしちょっと予想外の形ではあるけれど。だから、敢えてQubes用に X230 Tablet を使う必然性はない。普通の X230 とまったく同じにしかならない。ぼくみたいに安く手に入るなら、ご検討ください。

それにしても、ラップトップは10年前のものでも重いだけで、現在のものとそーんなにちがわない。少し重くても、普通は机の上とかで使うし、ひざがつぶれたりはしないだろう。でもタブレットは、この10年の進歩はすさまじいものがある*1。特に携帯性。いまのタブレットは、本当にずっと持ったまま使える。でも2キロ近い「タブレット」をずっと持ち続けて使うというのは、まず無理だ。X230 Tablet を本気でタブレットとして使うのは、いまはちょっとあり得ないでしょう。さらにQubesは、タブレット利用なんかまったく想定していない。その意味でも、まあちょっとした実験以上のものではない。

*1:え、X230って、2013年の機種なの? たった5年前? なんかはるか古典古代のマシンのような気がしてた……

Qubes OS 4.0 on Lenovo Thinkpad X230 Tablet: Very Wierd

After installing Qubes 4.01 on Lenovo X250, things were pretty comfortable. After installing some decent fonts, things were becoming really useful.

And then, I happened to get my hands on a junk Lenovo X230 TABLET. This thing has a touch screen, a stylus, rotatable screen to go into tablet mode. I was curious; could Qubes handle this? Short answer; yes, although not perfect.

Qubes4.0 on X230 Tablet
Qubes on X230 Tablet

BTW, I changed the keyboard to the one from X220. I'm not a fan of chicklet keyboards, even though the ones on Thinkpads are pretty good.

Installation

Installation was exactly the same as X250, including the additional lines to xen.cfg. So please refer to my former entry.

cruel.hatenablog.com

Interestingly, during the installation, the touch screen works. Great!

After Installation

After installation, Qubes starts up, exactly the same way as X250. However, the touchscreen doesn't work. I can rotate the screen, but it really doesn't do anything. The buttons to flip and rotate the screen doesn't workBut then, I noticed that under the Device selection, there is the touchscreen stuff. I can connect it to a specific VM.... say, personal.

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Connect tablet device to "personal"VM

And then, the touch screen works..... but only in that specific VM. So within the screen, the touchscreen only registers for the apps under "Personal"or "Work" or whatever you choose to connect the touchscreen device.


Qubes OS on Lenovo X230 Tablet: the touchscreen works.... in a weird way!

This is VERY WIERD. I can't select any other window, or choose the global menu using the touchscreen. This is so counter-intuitive!!! But at least it works.

Otherwise, it is the same as X250. I thought X230 might fare better, because it has 16GB of RAM as opposed to 8GB, but nothing significant.

Caveats

I got my X230 Tablet as a junk. It didn't have an HDD. Bettery's totally dead. Just to test the hardware, I installed Windows 10. The built-in camera doesn't work, the buttons to flip and rotate the screen doesn't work in Windows10 either. So maybe these buttons are hardware issues, not necessarily Qubes problems.

Conclusion

So Qubes4.0 on a Lenovo X230 Tablet is useable, and it can even utilize the touchscreen.... in a wierd way. There's no serious advantage in getting one. So if you can get one cheap, why not? But don't expect to have a tablet-mode Qubes. Qubes doesn't have those soft-keyboards and stuff. Also, the tablet mode is really impractical today. Laptops are more or less the same today compared to 10 yrs ago, only slightly lighter and thinner, but tablets from 10 yrs ago are really nowhere near today's tablets or "Yoga" type machines*1.

*1:What??? X230 is a machine from 2013?? Only 5+ years old? I had the impression that it's from the stone age.....