マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』:3ページで書ける仮説を引きのばした鈍重な文芸評論

Executive Summary

マクルーハングーテンベルクの銀河系』は、文字、なかでも表音文字の発明が、意味と表現との分裂を招き、それにより人間の意識をも分裂させた、と唱える。それまでは聴覚=全身性の感覚で環境に没入し、環境と一体化していた部族社会的な人間が、距離を置いて見る、見たものを頭の中で考える、という視覚重視の新しい認知環境に置かれた。

これにより、環境/社会とは切り離された、頭の中だけの個人が誕生した。さらにそれがグーテンベルクの印刷術のおかげで、まったく同じものをみんなが手にしている状況が生まれた。これにより、自由、平等、個人、プライバシーといった、まったく新しい社会と人間像が生じた。

議論はもっともながら、その論証はきちんとした論証になっておらず、文芸作品でのちょっとした描写を挙げるだけなので、理論的な説得力はない。視覚的、構築的な理論化を意図的に避け、聴覚=全身性の談話時代のあり方を採用した結果ではある。それが本当によいかどうかは不明。また話は文字と印刷術のみで、テレビや映画メディアの話は、この本ではまだ前面に出てきていない。

本文

ブローデルゲバラに続いて、棚の積ん読消化プロジェクト。お次はマクルーハンなり。

ということで、棚にもう20年は寝ていたマクルーハンを起こすことにしました。まずは、『グーテンベルクの銀河系』から。

が、ブローデルゲバラもそうなんだが、マクルーハンも読んでみるとかなり評判倒れな感じだった。というより、マクルーハンのこけおどしぶりは突出してひどい感じ。

あらすじ:文字ができて、視覚が突出し、行動と思考が分裂した。印刷でそれが社会に広まった。

マクルーハンというと、すぐにメディア全般の話だとみんな思ってしまい、ホットなメディアだクールなメディアだ、人間の世界的な神経系拡張だ、といった話を持ち出してくる。

でも、本書はもっと限定的だ。「グーテンベルク」、つまり印刷術とその周辺が、メディアとして人々や社会に与えた影響を検討する、というもの。だから本書の話は、文字、書物、印刷術というものだけに集中して、電子メディアとかテレビとかの話は出てこない。

彼の仮説はとても簡単。

  1. 昔の人は、あらゆる感覚に全身が包みこまれる、環境と一体化した聴覚的な世界に住んでいた。人間関係も、身の回りのあらゆる人と血縁的、部族的、宗教的その他あらゆる関係を持つようなボーグ的融合生物都市みたいな存在だった。
  2. でも、字ができて視覚だけが突出した。意味とその表現(お望みならシニフィアンシニフィエ)が完全に分裂した。距離をおいて何かを見る、という行為がすごく優位になった。
  3. それにより、人の意識は分裂した。昔は黙読とかできず、言葉を見る=頭で思う=口に出すことだった。ところがだんだん、黙読するようになる。頭の中で起こること(読んで意味を理解する)と行動(読んだことを口にする)ことが分離した。昔は意識と行動みたいな分裂はなかったけれど、文字によってそれが促進された。
  4. これにより初めて「個人」なんてのも生まれた。昔は考える=行動=社会に波及だから、あらゆることが社会化され、個人というものはなかった。でも文字が、自分だけの頭の中の考え、みたいなものをつくり出し、社会と切り離された「自分」というものを成立させた。
  5. また文字の突出によって、人間は記憶を失った。昔は丸ごと小説一つを暗記できた人間は、その能力を失った。かつては知識=記憶=行動=社会だったのが、そうした総合性を失ってしまった。そして一回限りの体験だった語りが、本として外部化されて何度も繰り返せるようになり、人間は体験のリアルタイム性も失った。
  6. (ついでに、マクルーハンは、これが起きるのは完全表音文字のアルファベットだけで、表意文字ではこれは起きず、したがって中国や日本はこうした分裂がなく、相変わらず部族社会に暮らしていると主張している。へーぇ、そうなんですかあ)

ここまでが、文字の出現に伴う文化・社会変化の話。で、ここからが「グーテンベルク」の話になる。

  1. 文字ができただけでは、以上の変化はなかなか起きなかった。写本という形でしかそれが出回らず、数も限られ、それを見られる人も限定されていた。司祭階級と下民ども、みたいな階級分離もこれがあればこその話。
  2. 写本の持つ、個体差みたいなものは、意味と表現の完全な分離を多少は抑えた面もある。
  3. でもグーテンベルクの活字でまったく個体差のない文字と書籍が大量に出回るようになり、上にあがったような話が社会全体に広まるようになった。
  4. そしてかつて写本は、持っている人だけが特権的な存在だった。そしてそれぞれがちがった。でもグーテンベルクの活字印刷で、すべての人が同じ本を持つようになった。それに相対する脳内の「自己」も横並びの存在となった。それがあるからこそ、平等だの民主主義だのがもっともらしさを持つようになった。

おしまい。

さて、ここに書いた話自体は、どれも仮説としてはアリだし、またそんなにむちゃくちゃな話ではないだろう。仮説としては十分あり得る。理屈もそれなりに通っている。

でも、実際にこの本を読む人のほとんどは挫折するし、上に書いたようなあらすじすら把握できない。なぜだろうか? それは一読すればわかるけれど、その書き方にある。何かの裏付けになるとはとても思えない論者や出典からの、何を論証したいのかさっぱりわからない、長ったらしい引用まみれ。読んでいるほうは煙に巻かれて、わけがわからなくなって放り出す。

なぜそんな書き方になっているのだろうか? それはマクルーハンが、まともに一般性のある論証ができない/しない人間だからだ。これについて、マクルーハンは意図的にやっていたらしい。きちんとした説明や理論構築をはっきり拒絶したそうだ。特に本書は構築性を完全に廃し、様々なお話をちぎっては投げるような形にしている。これは視覚文化の構築的なあり方を拒否し、かつての聴覚文化の形を体現しようとしているようだ。

マクルーハンの「論証」:文学サンプリング

では、構築を拒否したマクルーハンのやる「説明」とは何か? マクルーハンは文学屋さんだ。だから、彼の「説明」の大半は、「どこそこの当時の小説に、こういう表現が出てくる」というものになっている。それだけ。言わば文学サンプリングだ。

そんなの、あんまり証拠にならないなんていうのは、言うまでもなくわかりそうなもんだ。まったくならないとは言わない。確かにそれは、一つのサンプルにはなる。他の資料がないときに、それを傍証として使うのはありだろう。でも、決定的な証拠とは……とても言えない。

たとえば、本書ではチョーサー『カンタベリー物語』の話が出てくる。マクルーハンは、それが当時、確立した一貫制ある「個人」というものがなかった証拠だ、という。話している間に、自由自在にいろんな人になりかわり、決まった語り手の視点はなく、そこで話している人になりきってしまう書き方なのは、『カンタベリー物語』が文字以前の口承文学だからで、よって当時は文字による分裂が、少なくとも下民どもの間では起こっておらず、したがって下賤な連中は自意識も個人という認識もなかった、というわけ。

こう言われて、疑問はいろいろあるだろう。いやいまだって、一人何役の語りくらいはやるんじゃないの? チョーサーがやっているだけで、それを文字とかお話とか下民どもとかすべてに一般化できるの?

そして、それに対してきちんと対応する方法はあるだろう。これは当時のベストセラーだったので、こうした書き方が当時は一般に受け入れられていたということが言えるんだよ、とか。あるいはチョーサーだけでなく、同時代の他の小説でも同じような手法がたくさん見られていますよ、とか。でも、マクルーハンはそれをあまりやってくれない。

そして、これはまだマシなほうだ。彼は、ちょっとした文芸作品の中の表現をもって、何かそうした「グーテンベルクの銀河系」(つまりグーテンベルクの印刷術で引き起こされた各種の変化)の証拠だとする。

たとえばシェイクスピアかなんかで「どんな噂が聞こえてきても、あたしゃ自分の目を信じるよ」みたいな台詞がある。するとマクルーハンは「見よ、耳で聞くよりも目が優位だと言ってるぞ! 他の感覚に対して視覚が圧倒的な優位にたってきたことをはっきり示している!」とか言う。

でも、そうかぁ? たまたまそういう表現が、ある一つの文芸作品に出てきただけでしょ? 文芸作品なんて、いろいろ変わった言い回しを工夫するのが身上でしょうに。そこでの表現を、生物的、社会的な変化すべての証拠だとなぜ言えるの? 『テンペスト』の魔法使いお父さんは、本ばかりの世界にはまってしまい、世界の全体性とのつながりを失っている——はい、確かに、でもそれが人類の世界認識や社会関係全体の変化なのだ、と主張するまでには、距離が遠すぎ。

繰り返すけれど、それがまったくダメとは言わない。でもそれだけではあまりに弱いでしょう。そして20世紀初頭の文字/メディア認識の証拠として、彼がしきりに引用するのは、ジョイス『フィネガンズウェイク』。そこには、いろいろ擬音語が出てくるんだ。Bababadalgharaghtakamminarronnkonnbronntonnerronntuonnthunntrovarrhounawnskawntoohoohoordenenthurnuk とか。マクルーハンとしては、これが視覚文化の尖兵たる文字が、聴覚文化の要素 (そして表音文字に対して見た目を重視する表意文字的な要素) を採り入れようとした革新的な取り組みなわけ。

いやあ、そんな大したものかなあ。しょせん擬音表現、擬態語じゃないですか。ジョイスは、聴覚文化だの表意文字表現だのを考えたのかもしれない。でもそれを(それもよりによって『フィネガンズウェイク』を)全人類についての議論の裏付けとして使えるとは、とても思えない。英文科の先生なのでジョイスを持ち出したいのはわかる。が、フィネガンズウェイクに何か出てくるから、というのを現代のメディア環境について何かを語るものだと言われてもなあ。

ラブレー『ガルガンチュア/パンタグリュエル』も、視覚文化の蔓延に対する全身聴覚文化の逆襲だ、と彼は言う。うん、仮説としてはあり得るし、説得力があるかもしれない。そして、それがあの本のおもしろさにつながっている、とは言えるだろう……もしその視覚文化VS全身聴覚文化という最初の仮説に蓋然性があるなら。でもこの本は、そもそもその蓋然性があるのか、というのを論証するはずの本ではなかったの? それがないなら、ラブレーを持ち出しても裏付けにはならない。こういう考え方をすればラブレーのおもしろさも説明できる、と言いたいかもしれないけれど、そういう考え方をしなくても説明できるよね。

その意味で、本書は往々にして、何で何を説明しようとしているのかがひっくり返る。そして結局、ある種の文芸評論をしたいがために人間の認知・社会的な変化についての仮説を述べました、という話になってしまっているところが多々ある。つまり、文芸評論こそがこの本のメインだということだ。

中身に貢献しない引用

そしてマクルーハンはしばしば、すぐに脇道に話がそれて、しかもその脇道で長ったらしい引用をするんだが、脇道なんで議論の本筋には何も貢献しない。

たとえばチョーサーの話でもシェイクスピアの話でも、途中で「このように文字や本が人の認識を変えるという、メディアの人間変容についてこれまでの研究はまったく注目してこなかった。が、『機械化の文化史』のギーディオンはこれを鋭くとらえて……」と書いてそこからすごく長い引用をしてみせる。でも、そのギーディオンやバークレーの主張というのは、なんか自分の言っていることに近いというだけで、それまで語っていたチョーサーやシェイクスピアについての議論にはまったく貢献してませんよね? つまりはっきり言って、無駄ですよね?

でもマクルーハンはそればっかりなのだ。だからこそ、上でほんの10行ほどでまとめたような話が、この500ページもある本にふくれあがっている。

冒頭のメディア談義:実は本書の中身とはあまり関係ない

この本を読んだ多くの人は、冒頭のあたりで挫折することが多い。だから、知ったかぶりでこの本について言及している人は、冒頭の当たりの話しかしない。そしてそこでは、文字や本を離れたメディア全般の話をしている。そしてそこで、どこかの土人に映画を見せる有名な話が出てくる。なかなか印象的だし、みんな冒頭しか読んでないから、この本について語る人の多くは、このエピソードを嬉しそうに紹介する。

議論としては、いろんな感覚の中で、特に文字のせいで視覚が突出してきました、というのが出発点。で、その視覚優位をさらに進めるのは映画。映画は完全に視覚的なメディアだ。でも視覚文化に移行しておらず、いまだに全身性の聴覚文化の中にいる人々——つまり部族社会に生きる未開のドジンども——は映画を見せてもぜんぜんわからないのだ、という。で、マクルーハンはそのエピソードをどこかから引っ張ってくる。進歩的な西洋人たちがドジンに何か教育映画を見せたら、彼らは何が起きているか全然理解できず、教育映画の中身も教えもまったくわかってくれず、「鳥がいた」とか「犬がいた」とか言うだけ。彼らは視覚文化のお作法がまったくわかっていなかったので、映画にも反応できませんでした、というのがその話となる。

これはとても印象的ではある。でも、話の本筋とはあまり関係ないのだ。本書は基本、文字と本についての話だから。ちなみにこの後で、ちょろっとテレビの話が出てきて、テレビは実は全身聴覚性のメディアなんだ、映画とはちがうんだ、と言われる。どうも、映画は何か決まったものをじーっと見るだけだけれど、テレビは自分でチャンネルも変えるし、世界のいろんな話が遠近感覚なしにそのまま感覚器に飛び込んでくるから、映画のような距離をおいて見る感覚ではない、かつての部族社会のように、すべてがリアルタイムで身近で起こる感覚だ、だから映画とはちがうんだ、という。テレビは全感覚的な聴覚メディア、なんですと。

そしてそのテレビなど電子メディアのおかげで、いろんな世界の話がいきなり距離感なしに身近にやってくるようになったのは部族社会の感覚だから、世界は今や村で、よってグローバルビレッジです、ということ。が、この話は次の『メディア論』に譲ると言う。

メディア論―人間の拡張の諸相

メディア論―人間の拡張の諸相

まとめ:結局、そんなにすごいことは言っていない。

ということです。結局、言っている内容は冒頭でまとめた程度のこと。きちんと論証にもなっておらず、仮説の言いっぱなしに終わっているし、むしろやりたかったのは、この仮説を使った各種の文芸作品に対する批評なのではないか、と思えてならない。

言っていることは、ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』なんかとも通じている部分はある。

また、ぼくの好きなニコラス・ハンフリー『喪失と獲得』とも共通する部分もある。たぶん直感としては結構ポイントはついているんだろう。

cruel.org

でもそれをいまありがたがるべきだろうか、というと、そうは思わない。本や字が人間の認知に与える影響にしても、たとえば『プルーストイカ』がある程度それを実証的に示してしまったのを見ると、もはや迫力が全然ないと言わざるを得ない。

ということで、歴史的な価値はあるのかもしれないけれど、いまやマクルーハンのこの本を読む意義は、ぼくはあまりないと思う。彼をありがたがっている人の多くは、単にこのこけおどしにダマされ、意味がわからないのが深遠なのだという変な妄想にとらわれているんじゃないか、とぼくは思う。

さっきも述べた通り、こうしたきちんと説明しない、理論を明確に構築しないやり方は、マクルーハンが意図的にやっていたことらしい。全身性の聴覚文化のあり方を体現した、つまりは理解しようとせず、このいろんな断片的エピソードの山に身を沈めて感じろ、ということだ。Don't think, feeeeel!! そして、それをおもしろく思えないのは山形が頭でっかちに理解しようとしているからであって、こんな箇条書きでまとめること自体が、山形がいかに視覚文化の奴隷になっているかを物語るものでしかない、とは言える。が、ぼくはそれなら奴隷で結構と思っている。相互監視の噂と思いこみと吊し上げの好きな村社会で暮らしたいとはみじんも思わないのだもの。

自分はマクルーハンの文章からあふれでるデムパをビシビシ感じとり、そのメッセージを感得できるのだ、と言いたがる人もいるだろう。でも、ぼくはそれが衒学趣味の、わからなさをありがたがる歪んだ心の働きである可能性のほうが強いとは思う。別に聴覚文化の奴隷になったからって、何か偉いわけではないのだもの。逆に、あなた本当にプライバシーも自由もない何も変化のない退屈な社会に戻りたいの?

そうそう、マクルーハンのもう一つの詐術は、はっきりとは言わないくせになんとなく、視覚文化<<<全身聴覚文化、みたいな雰囲気を漂わせることだ。メディアに冒され、視覚ばかりを優先し、合理性と効率ばかりに走り、全身の感覚や世界との結びつきを失った哀れな現代人よ、みたいなニュアンスが到るところに顔を出す。そうした反文明的な物言いが、おそらくはかつての (そして今の) マクルーハン人気にも影響しているんだろうね。

が、まあ結論を出すのは、次の『メディア論』を見てからにしましょうか。

ブローデル『都市ヴェネツィア』:お気軽なフォトエッセイ

Executive Summary

お気軽なフォトエッセイ。『地中海』の碩学だがそうした面は軽く触れるだけで、個人的な思いでと文芸的な位置づけ、その文化への憧憬と将来展望を簡単にまとめて、奥深さを持ちつつもさっと流し読みできる。

本文

手持ち消化で。お気楽なフォトエッセイで、ささっと流し読みできる。

ヴェネチアは『地中海』の中でも重要な役割を当然果たし、地中海とともに発展して地中海とともに衰退したところではある。スペインとトルコが争う中で漁夫の利を得て、北からの人や物の流れと南からの人や物の流れが公差するという地理的な優位性により成立した都市。『地中海』の中でも、ヴェネチアのライバルはジェノヴァなんだけれど、地図を見てもらえばわかる通り、ちょうどイタリア半島をはさんで反対側にある。同じ地理的な優位性により成立してたのがとてもわかりやすい。

その後、世界の中心ともいうべき存在は、地中海の衰退とともにヴェネチアを離れ、スペインをかすめて、アントワープアムステルダム、さらにはロンドン、そしてその後ニューヨークへと移行したのだ、とブローデルは書く。なぜ、というのを彼は『地中海』でもあまりはっきり書かなかったし、そこらへんの事情は本書でも明言されない。

が、そもそもこの本はあんまりそういう話はせず、私的なヴェネチアの想い出、各種小説や歴代文化人の描いたヴェネチア偏愛の紹介、そしてこの町に成立していた奇妙な形の自由 (仮面つければなんでもありのお祭りとか)、そしてその周辺工業化に伴う環境変化と、観光客増大に伴う純粋な地元民減少への危機感が描かれ、国際的な文化都市として準独立みたいな地位を与えて生き延びる道があるかも、と示唆しておしまい。

1984年に書かれた本で、半分は懐古趣味だけれど、もちろんそこいらのタレントやライターどものフォトエッセイなんかとは格がちがう代物。あちこちにある井戸、ちょっとした建築の特徴、縦横に駆使される文芸的な引用など、お見事。また行きたくなるねー。

写真はプロのカメラマンによるものだけれど (がんばってエッセイ書いてる)、そんなすごい感じはしない。ヴェネチアそのものだけでなく、かつてその繁栄を支え、いまは廃墟になった周辺地区まで映しているのは、ちょっと楽しいかな。

あと、2019年暮れとかも、ヴェネチアが50年ぶりの高潮で水浸しになって、ほら温暖化で海面上昇だやべーぞ大変だぞ、と意識の高い連中が騒いでいたけれど、本書を読むと、これは昔からヴェネチアの宿痾で、そもそもが砂洲に杭打って家を乗っけてるので常に沈むのは宿命で、特に地下水に頼っていた頃はそれが顕著で地盤沈下しまくり、高潮はいつものこと、だから一階はすべて使用人部屋で、ご主人様たちは二階以上に住むのが普通なのだ、というのがわかる。

それで思い出したけど、2014年のヴェネチア建築ビエンナーレの日本館を手伝うと言いつつほとんど何もしなかったんだけれど (早稲田大学中谷礼仁がほぼ全部仕切った)、せめてものご奉公で、各国パビリオンで行うシンポとか対談とかにいっぱい出たんだが、そこで「温暖化やばいぜ」とわめくアメリカの建築家とけんかになり、「十年後にはこのベネツィアも沈んでビエンナーレもできなくなる!」と言うので「沈まねーよ、沈んでたらおまえを移転先のビエンナーレにファーストクラスで招待してやる」と言ったら「上等だ、じゃあ沈んでなかったらオレがヴェネチアまで招待してやる」と答えやがったっけ。あと4年か。その頃にはコロナもおさまって、また行けるようになっているだろうなあ。あいつ、誰だっけ。

そういえば、このはてなブログで「アマゾン商品を挿入」でヴェネチアを検索すると、陣内秀信の本がたくさん出てくる。彼は(あのあごひげがカッコよかったこともあるし)一時もてはやされていた若手だったけれど、最近はずっとえらくなっているんだろうなあ。

ブローデル『地中海』その他:前半は地中海世界の広がりを美しく描き出す名著だが、結論不満、また現代的妥当性は?

Executive Summary

ブローデル『地中海』は、特に前半は地中海を取り巻く環境、物質世界とそれをベースにした人間たちの活動を壮大かつ優美に描き出し、とても美しく豊か。でもそれがこれまでの歴史的な見方にどう影響するのか、後半で採りあげる事件や人物にどう影響し、歴史評価がどう左右されるのかがほとんど描かれず、不満。『文明の文法』で行った1970年代の現代社会の分析を見ても、彼の見方が特に鋭い視点を与えてくれたわけではないのは明らか。

おそらく1940年代には、こうした歴史把握それ自体が新鮮で革新的だったのだろうけれど、いまはそれが常識になって目新しさがなくなっている。同時に、関連書はすでに知見が古くて内容の妥当性もないそうだが、この大著はどうなんだ? 『地中海』は、全五巻のうち1-2巻だけ読んで描写の美しさを味わえばよいのでは?

本文

うーん。

フェルナン・ブローデル『地中海』。名声だけは聞いていて、いつか読まなきゃと思って買いこんで……20年くらいになるのかな。でも全五巻の分厚さにビビって、手出ししないままほうってあった。それが今月に入って、コロナ一掃セールで溜まった本を読み始め、ゲバラ本を処理するのと並行して、ブローデルも片づけようと思った。

結果、ちょっと——いやかなり——失望したと言わざるを得ない。

『文明の文法』:ブローデル現代社会を語る……だがいまから見るとピントはずれ

まず『文明の文法』上下巻を読んだ。これはブローデルが、フランスのエリート高校生向けの教科書かなんかで書いた、世界の地理/歴史的な概観だ。世界のあらゆる地域について、現在(というのは1970年代頃)の状況について大きな視点から語る、という本。

なんだが……その数十年後たったいまから見ると、ぼくはどれも非常にピントはずれに見えた。西欧中心主義に陥るまいとして、アジアアフリカ南米から始まるんだが、特にアジアの中国とかについては、あっちではウィットフォーゲルかじり、こっちで別の通俗書をかじり、みたいな感じで大した視点がない。イスラム世界についてもインドについても同様。ヨーロッパについても、社会主義と欧州統一をやたらにほめそやすだけ。いまから見ると、時代の通説に迎合してただけじゃないの、という感じで、まったく役に立たない。

もちろん、1970年代の本にいまからケチつけるのは、岡目八目でフェアではない。が、何度も書くけど、人生がフェアだなんてだれがいった。それに歴史家に正確な未来予測を要求する気はないけれど、この人は人口とか物質環境とかをもとにした視点が売りのはずで、それが現代を見るにあたっても何かポイントをついていた、というのが出てこないと、この人の業績そのものが疑問視されるのでは? 「社会主義にこだわったのはアレだが、気候風土のもたらす小麦の流れの重要性の指摘は有効だったねー」というようなのがないと、あんたの言ってた話はなんだったんだ、と言われても仕方ないのでは? 歴史学者としての視点は歴史が評価を下すし、50年たってのその評価はせいぜいがB-じゃないだろうか。

というわけで、初ブローデルはかなりミソがついたところからはじまった。

『歴史入門』:人口とか物流とか、大きな流れから歴史を見る……いまでは当たり前

次に、お手軽な本として『歴史入門』を見てみた。

これは大著『物質文明・経済・資本主義』の簡単なイントロ本ではある。で、基本的な主張は、これまでの歴史学は、だれそれが王様になって、あそこと手を組んで、ここで戦争し、そこで反乱がおきて……といった特定の人間と事件をひたすら重視するやり方だったんだけれど、それでは不十分だよ、というもの。その社会において様々な物流がどんなふうに担保されていて、それをもとに社会がどう成立していて、その背景として生産体制がどうなっていて、それが地理的な要因にどう支配されていたか、みたいなところを押さえて、そこから歴史の変遷を見ましょう、というもの。人口とか食料とかの物質的な背景から入り、市場の発達から資本主義の発展、さらに産業革命等の役割に触れる。

それはお説ごもっとも。が、ぼくの偏りもあるんだろうけれど、それって当たり前では? たぶん、ブローデルの功績というのは、それを当たり前にしたことで、彼が1940年代に『地中海』を出した頃にはこれが革命的な視点だったらしい(と『地中海』の訳者解説に書いてある)。でも、それをいま説明されても、それ自体は特に目新しくはない。すると本書をいま読むのも、考古学的な意義以上のものはないということになる。

『地中海』:壮大で美しい……んだけれど、結局何なの?

ということで、かなり期待を下げた状態で『地中海』を読みはじめました。たぶんこの期待マネジメントのおかげもあったんだろう。意外なほど楽しめたことは否定できない。「人口や物流、その背景にある環境をきちんと見ましょう」というお説教はおもしろくないけれど、それを実際にやってみせてもらえると、壮大な世界が開けてきて、とても豊かな読書体験にはなる。

『地中海』概略:環境に翻弄される人間とその活動、文明の争い……でもそれが急にただの出来事人間史へ

特に全五巻のうちの第一巻、一番分厚い『環境の役割』はすばらしい。地中海を取り巻く山と平地、その間の人々の往き来、南にある砂漠とそこからの人々の往き来、季節のめぐり、それに翻弄される人々の活動、そして様々な物質の流れを通じて、ドイツやロシア、さらに北欧にまでつながる「地中海」を核とした世界の広がり——それが実に美しく描き出されて、読んでいるだけで何か視野が広がる感じ。そしてそれを背景に、人々の作る交易路が形成される。本書が扱う16世紀だと、航海術が未熟なので、船も地中海の真ん中までは出て行けず、基本は陸地が見える範囲の沿岸づたいの航路だ。海路と陸路がひとまとまりに検討される。

第2巻は、それをベースにした経済のあり方。貴金属の流通、主要な経済物資——小麦やワインや胡椒がどのように流れるのか? それが各種のデータをベースに解きほぐされる。

第3巻は、経済をベースにした社会の話で、帝国とか各種のちがう文明とかが、地中海を舞台にどうからんできたか、という話。そしてその中で、だんだん地中海以外の存在が台頭してくる。大西洋の存在が大きくなり、スペイン、ネーデルランド、イギリスといった、その後の世界の覇権中心も見えてくるけれど、まだ地中海を脅かすほどではない。そして、ベネチアの存在がだんだん衰え、スペインが威力を増して、その一方でトルコがイスラム世界の重鎮として地中海に乗りだし、といった大きな力の衝突として歴史の動きがだんだん出てくる……

……のだけれど、第4巻になって、話は急に個別の歴史事件で、ピウス五世がどうした、フェリペ二世がどこそこでだれに特使を送り、神聖同盟ができてレパントの海戦が、という話になる。そしてそれが、これまでの環境や物質文明の話とどう関連しているのか、というのが見えなくなってくる。多少の説明はある。レパントの海戦——神聖同盟オスマントルコ海軍を撃破した闘い——は歴史的には大事件とされているけれど、実はあまり影響がなかったんですよ、といった話とか。だけれど、じゃあ環境の役割みたいな話ってのが重要ですというのは、ここにどうからんでくるの? 時化のせいでドンファン率いるスペイン海軍がこのときに半年足止めをくらいました、といった話はあるんだけれど、それがこれまで1-3巻で出てきた話と、なかなか結びつかない。

第5巻は、半分が巻末資料集なので、本文は前半しかなく、とても薄い。地中海でのいろんな覇権争いの挙げ句、トルコも東のペルシャに目を向けるようになり地中海から引っ込んだが、スペインも大西洋に目を向けて地中海に背を向け……といういろんな出来事を細やかに描いて、最後は結論。

でもこの結論が、よくわからない。結局、短期の歴史を見るにも長期的な環境とかを見ていかないといけませんよ、という主張はわかった。わかったんだけれど、でもこの長い五巻本で、何がその主張を裏付けるものとなっているんだろうか。何事もあまり単純化してはいけませんよ、もっと深い原因があるかも、と言う話もわかるんだけれど……具体的には? それがまったく見えてこない。

他の見方が単純すぎるなら、この新しい見方ではどんなちがう知見が得られるの?

これはこの大作すべてに言えることだ。結局、あなたの提案する新しい見方で何が得られるんでしょうか。たとえば、第3巻で通称価格革命が出てくる。これは16世紀にヨーロッパで急激に物価が上がり始めた現象だ。これは通常、アメリカ大陸から大量の銀が流入した結果だとされる。でもブローデルは、いや物価上昇はアメリカからの銀が入ってくる以前から起きていたんだ、といってこの説を否定するんだけれど……じゃあ何なの? 彼の考える物価上昇の原因って何? ブローデルはそのあたり、言葉を濁して結局大した説明をせず(スーダンの金とかの話は少しあるけど)、結局この物価上昇が、この地域全域における経済活動の活性化の影響なんです、というようなことを言っておしまい。うーん、まったく説明になってないんですが。

結論でも「短期的に見ても、長期的に見ても、農業活動がすべてを支配している」と彼は書く。食料調達が重要だった、ということですね。でも4巻、5巻のいろんな事件で、食料調達の話がどれだけ出てくる? ほとんどない。

そしてその流れで「穀物とその取り入れこそが経済活動の中心であり、それ以外は蓄積の結果であり、間違った都市志向から生じた一つの上部構造である」と言うんだけれど、いやあ、農業、特に本書で問題にしていたような小麦とか香料とか、蓄積できるのも一つ大きな取り柄だから、「蓄積」とその取引ってのもかなりでかいんじゃないんですか? 文明活動って、その蓄積をどうするか、というのを追い続けてきた人間活動だし、それが上部構造だから軽視していい、みたいな言い方はないんじゃないですか? さらに「間違った都市志向」というのはどういうこと? 都市が「間違っ」てるなんて話は、この全五巻にまるで登場しなかったんですが、いきなり何なんですか?

地中海は16世紀以降、だんだん衰退して世界の中心はオランダやイギリスに移る。これを多くの歴史家は、単純な栄枯盛衰みたいな図式で語ろうとして、その衰退の発端をこの16世紀に見て取ろうとするけれど、それは単純すぎる後知恵だよ、と彼は言う。その衰退が絶対決まったもので、どうあがいても逃れられないなんてことはあり得なかった、あんな可能性もあった、こんな可能性もあった、といって。

オッケー、なるほど。それならブローデルは何をそこに見ようとするんですか? うーん。彼はまず、衰退が決定的になったのは17世紀になってからだよ、と言う。いやそうかもしれないけど、16世紀にその萌芽が(決定的ではないにしても)あったと考えていけない理由はなんかあるんですか? そしてブローデルは、そこに何やら景気の長期波動的な話を持ち込もうとするんだけど、栄枯盛衰というのと、なんかよくわからん長期波動の景気循環なるものがありますという話と、どれほどちがうんですか、というのもはっきりしない。その一方で、地中海の衰退は欧州北部と地中海部の景気循環のずれのあらわれだ、という見方にも、ブローデルは慎重姿勢を見せる。でも、それはこれからの研究課題ですね、と言う。えー、それじゃ結局何なの?

見落としているのかもしれないけれど、でもそのためにこの全五巻を再読する気にはとてもならん。それと、ぼくがこの時期の地中海の事情についてそんなに詳しくないせいもあるのかもしれないね。そこでのそれまでの通説をよく知っていたら、「おお、このナントカ使節による和平交渉がこんな意味を持っていたのか、全体の流れで見るとまったくちがってくるね、すごいよブローデルさん!」となるのかもしれないんだが……

まとめ

ということで、前半で感じたすばらしい爽快感が、後半に行くにしたがってどんどん消え去るのはとても残念な本ではあった。おそらく1940年代には、こうした歴史把握それ自体が新鮮で革新的だったのだろうけれど、いまはそれが常識になって目新しさがなくなっているんだと思う。この『地中海』は、ブローデルの博士論文だとのこと。たぶんこの環境全体を描き出す歴史叙述の手法と、そのための壮大な文献資料活用手法が大きく評価されたんだと思うし、これまでの歴史的な見方にどう影響するのか、後半で採りあげる事件や人物にどう影響し、歴史評価がどう左右されるのかについては、これからの課題で済んだのかもしれない。

が、実際にはどうだったんだろうか。今後、『物質文明・経済・資本主義』を読むと、それについてもっとまとまった見方が出てくるのかな?ぼくはあまり期待していない。というのも『文明の文法』で行った1970年代の現代社会の分析を見ても、彼の見方が特に鋭い視点を与えてくれたわけではないのは明らかだからだ。

でも、『地中海』は、全五巻のうち1-2巻の壮大さと美しさは圧倒的だと思うし、決して読んで損はない(どのみち多くの人は、そこらへんで挫折すると思うし)。そして、この縦横無尽の資料活用手法を見ると、ピケティ『21世紀の資本』もある程度この伝統に連なる研究なんだな、というのも見えてくる。

まとめ追記:この中身の学問的な妥当性は?

さらにもう一つ。この労作は、学問的に見て現代の評価はどうなんだろうか? そう思ったのは、この『地中海』の成功を受けて書いた、石器時代からの地中海の歴史をブローデルを描いた『地中海の記憶』を読んだから。その訳者解説によると、なんでもそこに書かれた内容はすでにその後の考古学的な発見により完全に陳腐化してしまい、もはや学問的な意義はなく、ブローデルポエムを楽しむだけ、とのこと。うーん、もしそうならば、この『地中海』だって現時点でどこまで妥当なのかは当然疑問に思ってしまうよな。そこらへんについて、解説などでは一切触れられていないんだが……どうなの?

『地中海の記憶』とまったく同じように、いまや全然学問的にはどうでもいいというなら……読むだけ時間の無駄だった、となるだろう。その一方で、学問的にその後ここから一歩も変わらずブローデルの慧眼すげえ、ということなら、こんどは地中海をめぐる歴史学みたいなものの学問的意義も怪しいことになってしまう。半世紀以上も進歩がない学問ってのもねえ。

そんなことで、ちょっと今もやもやしている感じ。行きがかり上、『物質文明・経済・資本主義』も読むことになるんだろうね。でも少し間を置いてからにしよう。

余談

余談ながら、『地中海』各種グラフのしょぼさは現代的な感覚からすると異様。でも、 Lotus1-2-3でグラフが何とも気軽に出せるようになったのは80年代末。それまでグラフって、大変だったんだよねー。簡単な棒グラフですら数時間がかり、地図上の人口分布図なんて3日はかかった。

あと翻訳は、労作だと思うけれど、原文直訳らしくて何を言ってんのかわかんない部分がときどき出てくる。

北ヨーロッパ南ヨーロッパとの間に「古典的な」景気循環の致命的なずれが存在していたのだとも、私は考えていない。もし存在したとしても、そのようなずれが、地中海の繁栄を掘り崩すとともに、北欧人の覇権を確立したのではないと思う。一石二鳥の手っ取り早い説明である。検討してもらいたい問題である。(第五巻p.190)

景気循環のずれはなかったし、あってもそれが欧州覇権交代につながらなかったと思う、と言いつつ「一石二鳥の説明だ」と言ってるのは、えーと、でも実はやっぱ景気循環のせいかもしれないと思ってるってこと? なんか英語の「I wonder if it isn't...」みたいなのをまちがえてるんじゃないかと思うんだけれど…… (その後考えたんだけれど、「そういう景気循環の地域的なズレがあったと想定すれば、地中海衰退と北欧人覇権の両方が説明できて一石二鳥だから便利だよね、でもそれはちがうんじゃないかと思う、だから検討してほしいな」という意味なんじゃないかと思う)。結論の重要な部分でこういうのがあるし、2巻の経済のところとか、首を傾げることもあるし。第一巻とか、第3巻はあまり危なげなく、特に第一巻は雄大な視点が持つ広がりを訳文がうまく出し切れてると思うんだが……

『ゲバラ日記』=ボリビア日記 全種類比較

Executive Summary

チェ・ゲバラのボリビア時代の日記、通称『ゲバラ日記』は、邦訳が8種類もある。特に原著の直後1968年に出た5冊は、真木訳を除いて翻訳権がどうなっているのかまったく不明。いちばんありそうなのは、キューバ政府内でもそもそも権利の帰属が不明確/気にせず、プロパガンダとして他のバージョンを黙認、奨励したというもの。が、真相はいまとなっては闇の中。

また翻訳の中身も様々。コスパ的に最高なのは三一新書/中公文庫の真木嘉徳訳。訳も問題なく、付属資料も完備。最も最近に出た中公文庫の平岡新訳版は付属資料はまあよいが、細かい翻訳のミスが多い。その他、全邦訳に目を通してレビューしてみました。


はじめに

先日読み終わった、長大なチェ・ゲバラ伝の書評を書いて、まとまりがないと述べたところで他の伝記とかにも目を通したところ、むしろこれはかなりいいのではという印象に変わってきた。で、それを書き直す間に、ゲバラの他の著作にもざっと目を通しておこうと思った。

『ゲリラ戦争』はずいぶん前に読んでいたし、ゲバラを扱った映画がきたときに出た新訳版については、三一新書のものとの比較したレビューを書いた。

cruel.hatenablog.com

で、次に名高いのがいわゆる『ゲバラ日記』というやつ。知らない人は、これがゲバラのキューバ革命の日記だと思っていることが多いんだが(ぼくも最初に手に取るまでそう思っていた)、これはゲバラが最後につかまって殺された、ボリビアでのゲリラ闘争日記なのだ。ところが、たいへん不思議なことに、こいつの邦訳は少なくとも8種類ある。なんで? それぞれどうちがうの?どれを読むのがいいの? そこらへん、だれかがきちんと比較して説明しておかないと、読もうかな、と思った人もわけがわからなくて、結局面倒になって手に取らずじまい、ということになってしまう。ぼくもこれまでそうだった。が、それはあまり生産的ではない。

ということで、他にだれもやっていないなら、しょうがないからぼくがやろう。どうせほとんどは、アマゾンの中古で1円とかだ(送料ばっかりかかるのでバカらしいから、本当は図書館を使いたいんだけれど、あいにくコロナで閉館中だ。やれやれ)。

背景

これを読む多くの人は、そもそもゲバラがボリビアで何をやっていたかもご存じないだろう。そこでちょっと背景を書いておこう。

ボリビアに到る道のり

エルネスト「チェ」ゲバラは、アルゼンチン生まれながら、二回にわたるおのぼりさんバックパッカー南米旅行で社会正義に目覚め、メキシコで出会ったカストロの手下としてキューバ革命を成功させてしまい、革命の寵児/アイドルとして世界に名を轟かせた——ここまでがみんなの知っている話だ。

さて革命政府のナンバー2とも言うべき存在として、ゲバラはまず必殺粛清人となり、バティスタ政権時代の軍や警察関係者、およびその他大量の人々を人民裁判にかけて大量に殺戮。そしてその後、中央銀行総裁と工業大臣になって、キューバを一次産業(サトウキビ)依存経済から離脱させて一気に工業化し、経済的自立を目指そうとした……

が、ゲバラはそもそも経済についても工業生産についても、何も知らない。有能な人は革命騒ぎで殺されるか亡命済みで、右も左もわからない状態の中、あらゆる面で完全に失敗し、その失敗すべてを、アメリカの妨害、ソ連の妨害と怠慢と称するもの (いきなりスチール工場を作ると言い張ってソ連を呆れさせている)、そして国民の気の緩みのせいにした。この最後のものへの対策として、強制収容所での強制労働 (強制じゃない、クビになるか、それともボランティアで労働奉仕をするか選べ、と言ったので国民の自主性に任せた、という理屈だが、そんな話が通りますかいな) を導入したのもゲバラだ。そして自国の運営もうまくいかないのに、他の南米諸国の革命支援をしたがり、あちこちに工作員を送りこんだりして、各国の共産党にえらく嫌われるし、またソ連にさんざん支援をもらっているのに、革命への態度が生ぬるいといって中国に接近したりして、キューバ/カストロとしてもゲバラをイマイチ扱いかねていた面もある。

ゲバラ自身も、自分の行政官/政治家としての無能ぶりを痛感するようになり、次第に自ら別の革命指導にあたりたいと思うようになって、だんだん公職と表舞台から姿を消し、ゲリラの指導と南米の国内工作に注力。が、他の南米諸国もソ連との関係が強いところが多くて、革命よりは合法的な選挙戦による権力奪取を狙う方針になっていたところへ、キューバが変な工作しているというので、各国の共産党もカンカンだし、ソ連もカンカン、アメリカにも目の敵にされる状態になった。そして故国アルゼンチンのゲリラ戦を、手下を送りこんで遠隔指導しようとしたらすぐに崩壊してしまった。

ここでゲバラはどうも、「遠隔操作では無理だ、オレが自ら現地に出向けば、自分の威光でゲリラたちは一致団結して人々もオルグされ、革命が成功するのだ」という変な考えを抱き始めたらしい。そしてその舞台として、まずコンゴに赴いた。カストロと仲違いして辺境に飛ばされた、という説もあるけれど、そういうことではなくむしろゲバラ自身が、かつての栄光よもう一度と張り切ったらしい。

でも、まずコンゴ地元のゲリラたちはまったく無能で、迷信深く、内部抗争ばかりで、怠け者で、規律のキの字もなく、ちょっとでも戦闘になるとすぐに逃げる。地元民の支援もまったく取り付けられない。ゲバラは完全なよそ者扱いだし、現地語もしゃべれずにオルグもできず、とにかく何一つ実現できずに数ヶ月で逃げ帰ってくる。

ここまでが前置きだ。

ボリビア入りから死まで:『ゲバラ日記』の範囲

で、ここから話はボリビアに入る。

キューバ革命が成功したのは、キューバにカストロたちとは無関係に存在していた共産党が、すでにかなり下準備を進めて農民たちのオルグをすませていたことが決定的な要因だった。カストロ&ゲバラはそこにうまく乗っかっただけ、とすら言える (とはいえ、他の反乱勢力に比べてカストロたちの立ち回り=通称「フォコ」戦略がうまくいったのは事実)。コンゴは、そうしたものがまったくなかった。

ところが、ゲバラはそうした教訓をまったく意に介することなく、すぐにボリビアに向かう。南米なら地の利があると思ったようだが、そりゃコンゴと比べたらねえ。そしてボリビアでも、何の基盤もない山岳農民の中で何ができると思ったかはよくわからない。単に盲目的にキューバの成功を真似ようとしたのか、諸説あるんだが、どうも故国アルゼンチンでの革命が最終的な目標として念頭にあったらしい(かつての失敗したアルゼンチン蜂起の残党をわざわざ送りこんでいる)。ゲバラの活動地域は、ボリビア、チリ、アルゼンチンの接するあたりで、そっちへの足がかり的なことも考えていたらしい。

そこでまず、東ドイツから来た二重スパイのタニア(彼女が東独のスパイでもあったことは、シュタージの資料で裏付けられている。ただしキューバを裏切っていたのかどうかは不明) が何やら都市部で工作をして、ボリビア共産党ともあれこれコネをつくり、アルゼンチンやペルーとの国境近いジャングルに農場を確保。そこを拠点としてボリビアの反主流共産ゲリラと手を組む手はずができると、すぐにゲバラが乗り込んできた(1967)。

が、タニヤは身バレ文書を満載したジープが当局に押収されて正体露見、もはや都市工作に戻れなくなってしまう。ゲバラはボリビア共産党と話し合ったけれど、ゲバラがあまりにタカピーだったため物別れに終わり、ゲバラ一味は完全に孤立。また行動を共にしていたボリビアのゲリラたちも、現地の事情をよく知らないキューバ人たちにあれこれ指図されるのは必ずしも快く思っていなかった模様。地元農民もゲリラに協力する理由は皆無だし、軍からお触れがまわっている状態で、ゲバラたちはとにかく逃げ回るのが精一杯。補給も、都市部との通信もなく、新人のオルグもできず、孤立した40人が次々に脱落/死亡を続けるジリ貧。

また行き場がなくてゲリラに参加したタニヤは都市工作要員でしかなく、農村ゲリラの経験も訓練も皆無。現地では明らかに外人で目立つのに、そこへ有名作家のレジス・ドブレまでつれきて、キューバ方言で大声でしゃべるなど無用に目立つ行動を繰り返し、その時点ですでにキューバ人ゲリラの存在はボリビア政府軍に知られてしまっていた。オルグしてきたボリビア人も、ヤワな都会ッ子ばかり。タニヤらは慣れないジャングルですぐ病気になり、ろくに逃げられずに殺され、レジス・ドブレはどうも戦争ごっこにあこがれていたらしく、自分も前線で戦いたいと熱弁をふるいつつ、まったく役にたたず、都市部での連絡/工作要員として下山しようとしたとたんにつかまり (「カナリアみたいに歌った」=なんでもペラペラしゃべったとのこと)、ドブレがゲロったせいでゲバラがボリビアにいること (そしてその居場所) が確定してしまう。ボリビア軍も包囲を強化、CIAも乗り込んできて、ゲバラも間もなく捕まって殺される。

このボリビア日記は、彼がボリビアに入ってから、つかまる寸前までの記録となっている。

なぜ8種類も邦訳があるのか?:おそらくは当時のゲバラ葬式景気をあてこんだもの

さてこのボリビア日記=『ゲバラ日記』は、邦訳が7 8種類もあると書いた。なぜそんなにあるのか?

実は、このうち5種類は1968年に出ている。ゲバラの死の直後だ。つまりこの5つは、ゲバラの葬式景気をあてこんだ代物だ。当時のゲバラ人気はぼくたちは知るよしもないけれど、相当なものだったにちがいない。社会主義とかはファッションアイテム、ソ連がそろそろ幻滅気味のところへ、毛沢東中国が出てきて、さらにはソ連にも平気でたてつく正統派社会主義のキューバも登場。いま、ゴダールの『中国女』とかを見ると、当時のインテリ層は完全に頭がおかしかったことがよくわかる。ゲバラ人気は、そういう発狂の中でかなりすごかっただろう。 そういう意味で、葬式景気もかなりのものだっただろうとは推測できる。たぶん、この各種ゲバラ日記が結局どのくらい売れたか、せめて何刷くらいまでいったかを調べると、多少は定量化できるんだろうが……さすがにそこまではやってられない。

追記 (2023/09/25):

その後、この日記は英訳版もやたらに何種類もあることがわかった。日本だけが特殊ではなかった模様。すると以下のオプションで、翻訳権とかは関係なくプロパガンダ的にひろめたかったのと、ベルヌ条約非加盟で著作権がないと判断された、というのがありそうだ。

翻訳権の謎

が、そうはいっても著作権とか版権とかどうなってるの? これが……よくわからない。

可能性1:真木訳以外は全部海賊版?

三一新書/中公文庫biblio20世紀版の訳者真木嘉徳は、訳者あとがきでこの点について怒っている。自分たちの訳書はハバナ国立出版協会と独占契約を結んでおり、他のやつは海賊版だ、とのこと。1968年に出た他の訳書も、みんなキューバ版をもとに訳したことにはなっている。が、その一方で、みすず書房版のように余計なものがついたりしていて、他の国で出たバージョンも参照しているとのこと。どこから何を持ってきたのかがよくわからない。翻訳権について明記されていないという意味では、海賊版の可能性は十分にある。

可能性2:第三国の(正規の)翻訳権取得?

その一方で、海賊版だと断言するのも若干ためらわれるところはある。単に、書いていないだけかもしれない。またキューバと話をつけた形跡がないだけでは断言しづらい。『モーターサイクル・ダイアリーズ』の巻末解説によると、キューバは売れ線の本については外国の出版社に著作権管理を委託したりしているとのこと(現代企画室は、イタリアの会社から権利を得ている)。1968年の時点でキューバがそんなことをやっていたのかはわからないが、各種の『ゲバラ日記』が第三国経由で何らかの権利を取得した可能性は、ないわけではない。ただし、どこにもそれは書かれてはいない。

可能性3:キューバ内でも翻訳権の帰属が不明確/気にしていない?

が、もっと大きな可能性としては、当時はキューバ当局がプロパガンダとしてゲバラの日記その他を出してくれるなら大歓迎という状態だったことが考えられる。真木訳はハバナ国立出版協会と独占契約を結んだかもしれないけれど、でもキューバの国内でゲバラ日記およびその他革命関連文献の「権利」について明確な管理方針が存在していたのかは不明。国立出版協会との独占契約があっても、外国の翻訳権処理会社は別にあり、さらにキューバ文化省も口だしできないはずがないし、権利をどっかに独占させるより、なんでもいいからどんどん翻訳させて広めるほうがプロパガンダ的に有利、とキューバ当局が判断したのかもしれない。青木書店『ゲバラ選集』は在日キューバ大使館の支援を受けていることだし。他のも大使館に聞いたら「どんどんやっちゃってー」と言われた、という可能性は大いにある。

可能性4:キューバはベルヌ条約非加盟だったので国際的な翻訳権の制度的基盤がなかった?

そしてわずかながら、キューバ当局に渋い顔をされつつもみんな海賊版を出した、という可能性もないわけではない。とはいえ、キューバ当局が文句を言ったという証拠もまったくないのだけれど。そもそもキューバがベルヌ条約に調印したのが1997年だったし、1968年頃はキューバはUCC ジュネーブには加入していたとはいえ、日本その他から見れば国際的な著作権の立場があいまいだったところへみんなつけこんだ、ということが考えられる。そうねえ、海賊版と言われればその通りだが、翻訳権の交渉を行う法的基盤がなかったと言えなくもない、という感じだったのかも。

             

ということで、邦訳書を見る限り、何がどうなっていたのかはまったくわからない。が、個人的には、上の可能性3がいちばんありそうだと思う。

もちろんこれは昔の話だ。いまはキューバもベルヌ条約に批准してるし、TRIPSまで入ってるのか……だからもっと最近のものになると、2002年の三好訳はキューバで出たゲバラ全集をベースにしており、翻訳許可もキューバ文化省から直々に得ているとのこと。また2007年の平岡新訳版は、アメリカで著作権管理をやっているOcean Pressから許可を得ている。

入手できる邦訳の評価 (評価の高い順に)

で、各種バージョンの比較。いま普通に——というのは、新刊か入手しやすい中古で、ということ——入手できるのは4種類。おおむね、評価のポイントとしては:

  1. つくべき資料がちゃんとついているか (序文や、特に日記の一部と考えるべき付属文書)
  2. 翻訳そのものの正確さ
  3. おまけの資料
  4. 解説とかの出来 (これは営業的なアレなので、ほとんど影響していないが)
  5. 著作権の処理 (個人的にはかなりどうでもいいし、断言できる材料がない)

といったところ。もちろん、最初の二つが最大のポイントとなる。翻訳のチェックは、さすがに全部やるのは手間なので、最初の11月から翌3月くらいの部分を重点的に見てみた。

1位:真木嘉徳訳『ゲバラ日記』(三一新書/中公文庫):堅実。入手しやすく水準も高く、コスパ最高、できれば新書版を!

奥付は1968年11月。4番目に出た邦訳となる。三一新書版で長く親しまれてきたバージョン。その後、2001年に中公文庫biblio20世紀に入って、いとうせいこうの「解説」がついた。新訳版に置き換わってしまって、いまは古本でしか手に入らないけれど、とても入手しやすい。

さてこのブログエントリを書き始めたとき、ぼくは基本的には、いま出ている新訳版がいちばんいいんだろうな、と思っていた。中公文庫にはもともと、この真木訳が入っていたのが、新訳に置き換わったのはそれ相応の理由があると思っていた。が……

まったく予想外ながら、この古い真木訳のほうがいいわ。

まず、巻末についた「付属文書」。新訳では、原著にあるコミュニケと付属文書IIIだけ。これに対して、真木訳には、ゲバラが受けとった各種のメッセージもついている。

こうした付属文書は、ハバナ版では後から追加された模様。真木訳は、この部分は『グランマ』(キューバ共産党機関紙) に掲載されたものをもとにしているとのこと。

またカストロによるゲバラ追悼の辞が入っている。これは他のバージョンにはない特徴で、訳者か編集部の判断で追加したのかな? 必須ではないものの、サービスとしては嬉しい。

さらに翻訳。この真木訳も、もちろん完璧ではない。ぼくはスペイン語はちょっとしかできないけれど、英文から判断する限り、少し構文が面倒なところでの誤読はある。また細かいところでは、ケチはつけられる。ゲバラが「ぜん息をきわめて安直な薬で沈静化させていた」とかね。なんですか、安直な薬って。でも大きく流れに影響するようなものではない。新訳のできの悪さに比べたら、神々しく見える(というのはちょっと言い過ぎだけど)

そして版権的にも、この訳はキューバ当局ときちんと契約して独占翻訳権を取得したものだそうな。

『ボリビア日記』が七月二日にハバナで発売された当日、出版元のハバナ国立出版協会と日本キューバ文化交流研究所とのあいだに、日本における独占翻訳出版の協定が成立した。

というわけで、この訳が権利をきちんと取得したことはわかる。中公文庫版だと、この「日本キューバ文化交流研究所」というのがいったいどういう組織なのかわからないし、またそれが三一書房とどういう契約を交わしたのかも不明なんだが、新書版の冒頭には「訳者例言」なるものがあって、真木はこの日本キューバ文化交流研究所の所員だとのこと。出版社でもないところがなぜ翻訳出版の権利を取得できるんだとか (代理人としての役割ならともかく)、いろいろ疑問ではあるが、まあいい。

上に書いた通り他の本の事情がよくわからないので、これだけが正規版だと言うのははばかられるのだけれど、でも最もストレートでクリーンな権利関係となっているのはまちがいない。まあこれは、新訳版ではもちろんきちんとクリアされている点だけれど。

解説は、いとうせいこう。三一新書版には(当然)なく、中公文庫に入るときに加わった模様。あまり中身のある解説ではないが、2001年の文庫化の頃にはいとうせいこうはまだネームバリューが高く、営業的な判断もあったのだろう。その一方で、新書版にはゲバラの日記のコピーがところどころ入っていて、一部手書きの地図もあり、理解しやすい(ところもある)。だから中公文庫よりは三一新書版が手に入ればそれがベスト。

ということで、訳は標準的、付属文書も豊富、権利関係もクリア、そして安くて入手もしやすいとなれば、数ある中でこれが一番コスパが高いのは文句なしではないかな。それにしても、三一書房はゲバラ『ゲリラ戦争』でも非常にレベルの高い翻訳を出しており、実にえらい。数十年たっても見劣りしないというのは、出版社としての見識を示すものでもあるとは思う。

2位:平岡緑訳『新訳ゲバラ日記』(中公新書):訳の水準が低いし英語からの重訳

まったく予想だにしていなかったけれど、この新訳版はぼくはあまりお奨めできない。あまり積極的な2位ではない。

これは本当に意外だった。すでに述べた通り、現時点で読むのであれば、この新訳版が一番無難だろうとぼくは思っていた。2006年に出た、Ocean Press のAuthorized 版の翻訳だ。このバージョンの売りは、これまでの(つまり1968年に出た) 版ではボリビアの要望で削除されていたいくつかの日が復元されていることだ。なぜ削除されていたかというと、ボリビアの治安上の配慮から、なんだというけどいまはどうでもいいところだし、ゲバラの新しい姿が見えてくるわけではない。

ただし、その部分の復元は、次に挙げる高橋訳が数十年前からやっていたことではある。また、下の三好訳でもそこは補われている。したがって、他と比較して突出して優れたセールスポイントとはいえない。

そしてこのバージョンは、翻訳がイマイチ。具体的なイメージのないまま、英語の字面だけ見て訳した部分だらけで、このため明らかにまちがっているところがやたらにある。細かい部分が多いとはいえ、これだけ先行訳がある中でもう少しきちんとやってくれてもよいのでは?

カストロの序文では、ボリビアに初めて入ったチェが「以前からボリビアの農民と接触していた」とか、「ゲバラはボリビアで意外にもいろいろ抵抗にあった」とか。抵抗や障害にあうに決まってるじゃん! 日記の部分でも、冒頭の数ヶ月分を他と比較したけれど変なところ多数。

英語版からの重訳だというのを気にする人もいるだろう。ぼくは小説とか文学的な価値の高いものでもない限り、重訳のデメリットはそんなにないと思っているし、本書の場合特に重訳で大きく価値が変わるとは思えない。でも、基本的な部分でまちがいが多いのはなあ。これがこんな調子だと、同じ平岡訳の『革命戦争回顧録』の翻訳も推して知るべし。

またゲバラは、ゲリラ戦の最中に何度かコミュニケを書いて、地元のマスコミに採りあげさせようとしている(そして失敗している)。この日記にはそれが付属文書としてついている。このバージョンは、他にはあった「文書VI」がカットされているけど、大した中身ではないのでこれはどうでもいい。が、他の版は、他にもゲバラの外部との通信が含まれている。かなり単調な日記の中で、ゲバラが外部とどんなやりとりをしていたか(受信したものだけだから、やりとりの「とり」だけだけど) わかると、多少は全体の状況が見えやすくなる部分もある。原著で削られた以上、それがなくても文句を言う必要はないんだが、でも読者にとっての効用が下がっているのは否定しがたい。

新訳の際に、著作権処理を任されている西側の会社(何社かあるらしい)の一つ Ocean Pressときちんと契約は交わし、著作権上はクリーン。

復活部分の価値はほどほど、細かい誤訳が多く、重訳で、高い評価はあげられない。真木訳の中公文庫版のいとうせいこう解説をそのまま流用しているけれど、感想文以上のものではないし、いとうせいこうの客寄せ効果が2006年の時点でどこまであったんだろうか? いまならゲバラの意義、その中でもこのボリビア遠征の意味合いについて、もっときちんとした評価ができたはず。その意味で、せっかくのチャンスを無駄にした点でもポイント低い。映画便乗商法だったんだろうけど…… 古本で真木訳を入手するほうがずっとコスパが高い。これで読んで、何か決定的に白を黒と誤解するようなことはないだろうけど、50年前の翻訳に負けるってどういうことだよ……

3位:三好徹訳『チェ・ゲバラの声:革命戦争の日々・ボリビア日記 詳注版』(原書房):訳文も正確でなめらかだが、付属文書を全部カット。

奥付2002年4月。たぶん多くの人は、こんなバージョンが存在することすら知らないだろう(ぼくも知りませんでした)。ゲバラの伝記を書いた三好徹が、何とスペイン語の勉強から初めて、本国の全集をベースに翻訳したもの。

作家だけあって、訳はなめらかだし、精度は高い。これを訳すためにスペイン語を勉強したとのことだけれど、他の翻訳と比べてまったく見劣りしない。読むならこれが一番かも。また、翻訳権もちゃんとキューバ文化省から直々に取得とのこと。権利関係もクリーン。日記部分だけは昔の本では削られていた数日分も復元された完全版。

「詳注」としてついている注は、主に日記の部分に登場する人間の紹介をそれぞれの日の後につけたものが多い。他の本でも、登場人物一覧は巻末にあるが、いちいちそれを見るのは面倒だし、この配慮はありがたい。

その一方で、カストロの序文はついているが、他のバージョンにある付属資料がない。ゲバラの出したコミュニケとか、通信とか。そのかわりに、最後に訳者が勝手に選んだ書簡集がついているんだが、単純に趣味で選んだだけで、ボリビアのゲリラ戦とは全然関係ない。だから文中で参照されているものが全然わからないということになっている。これは大きなマイナス (最初に見たときには、この本が後から来たので、他の訳で気になった部分の比較だけしたせいで、この大きな脱落を見落としていた。すまんね)。

伝記まで書いたゲバラらぶ♥な三好徹の、自らスペイン語を学んでまで訳した熱意は評価する。が、付属資料カットは大減点せざるを得ない。「革命戦争の日々」と抱き合わせになっていて、しかもハードカバーのお値段高め(3800円)で入手がちょっとつらいのも欠点。3位。日記の部分だけであれば、図書館とかであれば、このバージョンで読むのが最もお奨めだけど、付属文書とセットの日記だからねえ……

4位:高橋正訳『ゲバラ日記』(角川文庫):日記だけでカストロ序文も付属文書もない。

奥付は1969年1月1日、まあおそらく1968年中に出たことでしょう。が、何の前置きもなくゲバラの日記部分だけが始まり、たぶん読む人はいったいこれが何なのかぜんぜんわからないはず。ゲバラの日々のメモだから、多少背景知って読まないとちんぷんかんぷんだよ。他のバージョンだと、カストロの「不可欠な序文」というのがついていて背景説明になっているし、またゲバラが出したコミュニケなどが付属文書としてついているのだけれど、本書にはそういうのが全部削除されている。だから本文中で参照先が書いてあっても、その参照すべき文書がないというマヌケな状態。正直、なぜこんな出し方をしたのかは不明。訳を急いだからだろうか? いずれにしても、その後何度か新版も出しているし、その過程で補うくらいのことはしてもよかったのでは?

その分、著者による「ゲバラ小伝」(とても長い)がついている。一応出来事については普通にまとまっているけれど、あまりいいとは思わない。ゲバラはキューバ革命政府で、なんと中央銀行総裁になったんだが、訳者は中央銀行というのが何をするところかよくわかっていない模様。ゲバラの失策についてはあまり触れず、とにかくゲバラ翼賛になっているのは、小伝としてあまり評価できないものの、ゲバラ関係文献はみんなゲバラ信者が書いていて、この文章だけが突出してダメなわけではない。

一方、本書にも評価すべき点がある。1968年に発表された原著は、数日にわたり欠落部分がある。1968年に出た訳書はすべてその部分が欠けている。が、この訳書だけはアメリカその他に流出したバージョンを使ってその部分を補い、日記だけに関してはいちはやく完全版としている。

が、他と構成がちがうことからもわかる通り、翻訳権とかどうなっているのか、さっぱりわからない。なんかやっているのかもしれないけれど、何一つ表記もないし、かなり怪しげ。

翻訳は、可も無く不可もなし。真木訳よりは少しこなれているかもしれない。が、カストロ序文と付属文書がないし、敢えて手を出す必要はない。

絶版邦訳の評価 (順不同)

これまでの4冊は、いまでも普通に手に入るし、古本屋でもよく見かけるもの。それ以外に、もう絶版になって数十年でかなり頑張って探さないと手に入らないものが34種類ある。これらは現代的な価値はなくて、わざわざ探す必要もないものだけれど、一応完全を期すために説明しておく。

朝日新聞外報部訳『ゲバラ日記』(朝日新聞):原文の正体がよくわからない謎のバージョン

朝日新聞による訳・出版で、奥付は1968年7月、おそらく最も早い訳じゃないかと思う。ただし、カストロの序文はあるけれど、高橋訳と同じく巻末の付属文書はなく、本文中で参照先が書いてあっても、その参照すべき文書がないというマヌケな状態。

また、他の版にはある注記がない。たとえば1967年1月7日のところに、「ゴンドラは南米では乗合バスを指すけれど、ここでは物資調達部隊を指すんだよ」という注がついているけれど、この朝日新聞版だけにはそれがなく、このため「ゴンドラ」というのをまちがえて解釈している。だから、翻訳のベースにしたのがハバナ版ではないんじゃないかと思われる。真木訳の解説や三好訳の解説で論難されているのはこのバージョンかな? また、下の太平出版版のコメントを見ると、どうもキューバ版を直接参照はしておらず、他のバージョンをもとにしたようで、省略部分があるらしいが確認できていない。

訳そのものは、可も無く不可もない普通の訳。巻末の解説は、珍しくゲバラの完全な信者ではなく、ゲバラの欠点なども多少は指摘できていて、各種解説の中では少しましなほう。でも、しょせんは50年前の解説。付属資料がないのを補うほどの付加価値はないし、探し出して読む必然性はまったくない。つーか読むな。捨てろ。朝日新聞も、あこぎな商売してやがる……

仲&丹羽訳『ゲバラ日記』(みすず書房):余計なものがいろいろついた、いちばん変なバージョン

みすず書房版。奥付は1968年8月、たぶん朝日新聞社版に次ぐ、二番目の訳じゃないかな。版権ページによると、他と同じハバナ版をもとに翻訳したことになっている。でも版権取得については特に記述がない。また冒頭に、他のやつにはまったくない出版社の序文みたいなのがあるし、巻末に変なポエムが入っているのも特徴。元にしている本は同じはずなんだが、訳者の凡例によると、同書の英訳、仏訳とともにメキシコ版を参照したと書いてある。どうもこのポエムや序文はそのどれかから来ている模様。たぶん真木訳の解説で「余計な文がくっついている/ハバナ版を参照した様子もない」と苦言を呈されているのはこれだと思う。また、下の太平出版版のコメントを見ると、どうもキューバ版を直接参照はしておらず、他のバージョンをもとにしたようで、省略部分があるらしいが確認できていない。

訳は普通で、可も無く不可もなし。解説は何やら左翼アジビラまがいだけれど、まあこれは時代の雰囲気ってことで。変なポエムは……いいよ、読まなくて。いちばんヘンテコな邦訳ではあるけれど、これまたわざわざ探すほどのものではない。

栗原&中川訳『ゲバラの日記』(太平出版):今となってはすごい特徴があるわけではない。

真木訳では、三一新書版が出る前に三種類も訳書が出たことになっている。これがその三つめだろう。奥付によると、1968年10月刊。キューバのヤツを入手して、スペイン語から訳した完全版だというのが自慢。朝日新聞社版とみすず版は、どうも不完全な部分があるらしい。なんかハバナ版を手に入れるのに何やら画策したようなことが解説に書いてあるけれど、具体的なところは不明。また、版権についてはまったく言及なし。

完全訳を売りにしているだけあって、付属資料などはきちんと揃っている。翻訳の水準としては、まあこんなものではないですか、という標準的な出来。いくつか他の本でまちがえているところをチェックしたけれど、まあ普通にできている。が、突出してすばらしいわけでもない。

おまけで、ゲバラがカストロに送った別れの手紙が収録されているのが特徴。

ぼくも今回、アマゾンで検索をかけるまでは知らなかったバージョン。いまとなっては目新しい特徴もなく、突出した出来でもないので、わざわざ探すほどのものではない。何かの星のめぐりで手に入ったら、このバージョンで読んでも罰は当たらないだろう。

『ゲバラ選集 4』(青木書店):翻訳は愚直ながら、まあ普通

奥付1969年10月5日。中身は、三一書房/中公文庫の真木訳とほぼ同じ。日記部分は、他と同じハバナ版を参照し、各種翻訳(ロシア語も含まれているのが特色かな)を参照している。で、付属資料も揃っている……んだけれど、付属文書はなぜかハバナ版の『ボリビア日記』を参照せず、キューバの小農組合機関誌『ANAP』に掲載されたものを参照したとのこと。中身はどうも同じで、なぜ別のテキストを参照したのかについては説明がまったくない。細かくチェックしたわけではないけれど、中身はまったく同じに見える。真木訳がこの部分について『グランマ』の掲載文をもとに翻訳したのと同じく、翻訳開始時点ではまだハバナ版の本に収録されていなかったせいかもしれない。

翻訳は、あまりに愚直といえば愚直。たとえばカストロの序文のこんな訳:

ゲリラの部隊の内部では、このような批判がたえずおこなわれねばならないのである。とりわけ、そうしなければならないのは、小さな中核だけからなっている段階において、きわめて不利な物質的条件に直面し、数量的にはかりしれないほど優勢な敵に対峙しているとき、ちょっとした不注意で、あるいは、ほんのとるにたりない過失であっても、致命的なものとなるかもしれず、隊長が徹底的にきびしい要求をもっていなければならないときに、同時に、みたところ無意味なような、ひとつのできごとやエピソードを利用して、新しいゲリラ部隊の戦士たちや、将来の幹部たちを教育しなければならないときにそうなのである。

最初の文はわかるが、次のものすごく長い文のぐちゃぐちゃさ加減は相当なもの。冒頭の「そうしなければならない」と「そうなのである」はどっちも、批判をしないとダメ、ということを指すんだよね? 日記本体は、体言止めの多いメモ文体だから、こんな長くややこしい文は登場せず、まああまり害はないといえばないけれど、それもかなり愚直。

翻訳権は、どうなっているかまったく不明。冒頭の凡例によると、いろんな出所から編者/青木書店が勝手にもってきたらしい。日記の付属文書の扱いを見ても、また選集に収録した他の文書を見ても、「ゲバラ選集刊行会」があちこちから手当たり次第に拾っていた様子。ただしまったくの海賊出版ということではない。「キューバ大使館、日本キューバ友好協会などの全面的な協力により」と宣伝にあるので、暗黙のうちに (かどうか知らないが) キューバ当局の承認は得ていると思っていいんじゃないかな。

まとめ

結局、今世紀に入ってからの二冊を除くと、真木訳以外はどれも翻訳権をあまりきちんと処理していないらしいということが明らかになっただけで、その具体的な権利処理がどうなっていたかについては最後まで判明せず。もともと当時は翻訳権がどうしたというのをキューバ側もあまり深く詰めず、日本側もそれに便乗してうやむや、というのが最もありそうな話。キューバ側がそれを、単純な認識不足でやっていたのか、それともプロパガンダ上のメリットを考慮して意図的にやった(というかやらなかった)のかは不明。また日本側も、うーん。どういう認識だったのかはまったくわからない。昔の人はおおらかでした、ということですませていいのかな?

各種バージョンで最大の差は、日記以外の付属文書。それ以外に、昔のヤツは原著の段階で数日分が抜けている。また翻訳のベースとなった版に応じて省略されている部分もあるらしいが、これは具体的には未確認。ただし日記に関しては、これを研究にでも使おうというのでもない限り、その欠落部分はいずれも大きなマイナス点にはならない模様。

翻訳に関しては、いちばん最近のもののできが悪いのが意外。あとは五十歩百歩という印象。

すると結局、最初期に出た三一新書/中公文庫biblio20世紀の真木訳(その中でもどちらかというと古い新書版)がいちばんポイントが高く、コスパ的にも最高ということになる。50年前に、いまでも一番まともと言える版を出していた三一書房は、ゲバラ『ゲリラ戦争』についてもそうだけれど、見識もありレベルも高かった。

しかしこれだけ邦訳があるということは、この『ゲバラ日記』=ボリビア日記、そんなすさまじい商業価値があったということなのか? 中身は本当につまらない、ジャングルの中のゲリラ行軍メモよ。当時の日本でのゲバラ人気はよくわからないんだが……

シュペーア『第三帝国の神殿にて/ナチス軍需相の証言』:これほど我田引水の自分だけいい子チャン回想録があるとは愕然。

Executive Summary

ナチス軍需相アルベルト・シュペーアの回想記『第三帝国の神殿にて/ナチス軍需相の証言』は、前半のヒトラーの建築/ベルリン計画マニアぶりなどおもしろいところもあるが、その後はひたすら、自分が常に正しく冷静で状況を把握し合理的に考え、他のバカどもを蹴散らしてすべて自分だけが正しいことを勇敢にヒトラーにも進言し、しかもホロコーストについては一切知りませんでした、という我田引水で自分一人をいい子チャンに描こうとする作為があまりに露骨。みんながこれを真に受けたのが信じがたい。その後、このいわゆるシュペーア神話はほぼ完全に否定されていて、彼もホロコーストの中心人物だったことが明らかになっている。

本文

トゥーズ『ナチス 破壊の経済』を訳すときに、引用ヶ所の確認のために買って持ってはいたんだが、初めてきちんと通読いたしました。いやあ、壮絶な代物。もちろん、一応自伝だしある程度は自分の都合のいい話が出てくるのは覚悟はしていた。が、これほど徹頭徹尾、自分は常に理性的で有能で他人の失策の尻拭いを見事にして、アレを建て直し、これを回復させ、こっちも見事に調整して、他の権力争いに明け暮れる無能なナチ中枢連中などとは常に距離をおいて、自分一人が常にドイツの利益のために孤軍奮闘していました、なんていう代物になっているとは、予想だにしていなかった。

そう感じるのは、拙訳トゥーズ『ナチス 破壊の経済』でシュペーアを、一章丸ごと割いて徹底的に叩いていたのを読んでいたせいもあるだろう。

トゥーズは、基本的にシュペーアの書くことをほとんど信用せず、この『第三帝国の神殿にて』もあまり直接的に参照していない。基本的な批判として、戦闘機生産にしても戦車にしても物流にしても、着任してその月のうちにすごい改善が起こりましたなんてことがあるわけないだろ、というものがある。鋼鉄の割り当てを変えて、生産ラインを調整し、アレをやり、こっちを調整して、各種施策が具体的な軍備生産の出来高に影響するまでに、どう考えても半年はかかる。基本的に、シュペーアのやったことというのは、すでに行われていた各種の改善を横取りして、自分の手柄に仕立てただけ、というのがトゥーズの立場だ。

そしてこの回想記を読んで、この見方を否定できる材料はまったくない。細かい数字をときどき挙げてみせることで、なんとなくもっともらしさは出しつつ、各種の具体的な部分では「無能なだれそれを更迭して仕組みを全面的に作り替えた」だけで記述は終わってしまう。何をどう作り替えたのか、そのために全体はどう調整されたのか、みたいなエンジニアリングのこだわりやポイントみたいなものはほとんど出てこない。全体的な軍需を考えるときに、どういうふうに戦略を立てたのか? 原材料調達、生産体制についてどういう把握をして、どんな見通しを持っていたのか? その手の話が、実に薄い。

そしてあらゆるところで、こいつは無能だった、ゲーリングとボルマンが私腹を肥やし利権争いでこっちを歪めていた、真面目な技官のだれそれが苦労していた、そこでワタクシがそれを救ってあげて、ものごとがきちんと動くようにしたけれど、それについての手柄を要求するようなことはなかった、それと自分だけは特権的な立場だったから、ヒトラーに常に正論を進言できた、という話が延々と続く。

そうそう、ニュルンベルク裁判でも、アメリカ軍は自分が有能で無実だと信じていてとってもよくしてくれて、無罪を確信してるよーと言ってくれました、なんて話が得意げに続いている。えー、そんなわけないじゃん。

その裁判で、彼はソ連軍に「『わが闘争』は読んだか」と聞かれている。実は読んでなかったんだけれど、そう言っても納得してもらえなかったので、読んだことにしました、というのがシュペーアの主張(下巻p.430)。なぜ読んでないかと言うと、ヒトラーがそれを時代遅れだと言っていたのと、あと難解だから、なんだって。ヒトラーに心酔してかなり初期にナチ党に入り、ヒトラーに取り入って出世してきたシュペーアが読んでないとは信じがたいうえ、ヒトラー焦土作戦をやろうとしたときに、産業界から『わが闘争』の引用(民族が英雄的に亡びるより永続する道を選ぶべきだ、という下り)が出てきたのに胸をうたれて、ヒトラー暗殺を計画した (下巻pp.307-9)、なんてのもある。読んでもないし、影響も受けてない本の下りで、なんでそんな動揺スンの? ちなみにその暗殺は計画倒れもいいところ。ホントにあったのかも怪しい。

そして、シュペーアといえば、自分はユダヤ人虐殺について何も知らなかったと主張してる。ああ、でももちろんナチ上層部として連帯責任はある。そこから逃げるつもりはない。ね、ぼくって清廉潔白で偉いでしょ、だから責めるなよ、潔く認めただろ、どんな非難をも負う、許してなんて言わないよ、言わないからね(チラッ)みたいな弁解が本書でも何度か展開される。でも、ナチス党最上層部の最も内輪にいた人物が、ナチスドイツの基本的な哲学と思想と、さらには東欧ロシアの接収のための先住民殺害および奴隷化と開発という基本方針について、何も知りませんでしたってわけがないでしょうに。軍需大臣として、各地の軍備生産を仕切っていた人間が、その軍備生産の大きな部分を担う、巨大な産業複合体だったダッハウアウシュヴィッツの運営の不可欠な一部だった強制収容所の中身について何もご存じなかった?

ちなみに、彼は強制収容所の存在についてはしっかり知っていて、それを脅しに使ったりしている (下巻p.116) 。労働力の挑発と動員について、担当者のザウケルともたくさん議論をしている。ついでに、その強制労働の囚人たちを使ったV2ロケット製造地下工場も視察している。ここはトゥーズ本によると、ノルマを果たせない囚人は見せしめに首をつられて、その死体がそこらにぶら下がっている中で、飯もない囚人たちが這いずる壮絶なところだったとか。ところがシュペーアは、そこを自分の目で見たのに「労働者の待遇が非人間的だったので改善を申し入れた」といい子チャンぶるだけ。他のSS運営の工場も視察している。アウシュヴィッツについては「ハンケがあそこに行くなと言ったから行かなかった。意図的に目を閉ざしたぼくは悪かったねー、知らぬうちに目を背けていたねー」と書いておしまい (下巻pp.210-20) 。

実際には後に強制収容所にでかけてユダヤ人囚人と撮った写真も出てきたし、自分が知っていたことを認める手紙も出てきたし、むしろ中心的な関与をしていたというのはいまやほぼ確実。そして、戦争の最後で最後にヒトラー焦土作戦をやろうとしたときに、それを阻止してドイツ国民を守ったのです、と言うのが自慢だけれど、トゥーズ本によるとどうもそうでもなさそうだ。

何も見所はないのかというと、ここに描かれたヒトラーの姿はそれなりにおもしろい。特に上巻で、ベルリン大改造計画をシュペーアといっしょにいろいろたてて、はしゃいでいる様子はなかなか微笑ましい。ボルマンの悪趣味ながら阿諛追従に終始する様子、ゲーリングのいろいろな策謀の様子はおもしろいし、また戦局がどんどん悪化する中での人々のうろたえぶりも、まあおもしろい。その一方で、ズデーテンとか、フランスを電撃作戦で一気に制圧したときには、もっと政府内はすさまじい多幸状態になっていたはずなんだけれど、そこらへんぜんぜん描かれていないのがずいぶん不思議ではある。自分はそういう戦局には関心無かったというアピールなのかな?

他の関係者はみんな死んでるので、まあ自分一人が好き放題話を作るのはいいんだが、ここまであらゆる面で自分をいい子チャンに仕立て上げると、あまりに嘘くさいと自分でも思わなかったんだろうか。そしてなんか、みんなそれにあっさりダマされて、シュペーアってえらく人気があって、ナチ党の中で一人だけ立派だったみたいなイメージがあるようだけれど (うちの母親もなんかずいぶんシュペーアはひいきにしていた)、なんで? この回想記読んだら、あまりに見え透いてない? もちろん、この清廉潔白なテクノクラート、というイメージは、80年代からほぼ否定されつつあるようで、たいへん結構なことです。

en.wikipedia.org

訳者の品田豊治と、解説と称するまったく無内容な駄文を書いている土門周平は、このシュペーア神話を完全に盲信していて、ぼくが持っている中公文庫Biblio20世紀というシリーズのやつは2001年に出ているのに、このシュペーア神話が現在どうなっているかについて何一つ触れていない。まあ品田は1994年に死んでるから仕方ないのかもしれないけれど。こんど、これが復刊するようだけれど、そこではきちんとその後の評価の変遷についても何かしら説明がほしいものだねー。

ナチス軍需相の証言(上)-シュぺーア回想録 (中公文庫)ナチス軍需相の証言(下)-シュぺーア回想録 (中公文庫)

(付記:がっつり説明入るそうな。すばらしい!kaka-xyz氏、情報ありがとう!)

ちなみに、アマゾンに出てこないけれど、手元にシュペーアの書いた「The Slave State」という本がある。ヒムラーとSSがナチを牛耳って奴隷国家を作ろうとしていたんだ、という話らしいんだけれど。でも、それを知ってたんなら、あんた自分がユダヤ人とかポーランドウクライナの劣等民族虐殺について何も知りませんでした、という話はできなくなるんじゃないのかなあ。でもこの回想記を読んだ後で、またこの自分だけいい子チャンの弁明を読まされるかもしれないと思うと、しばらく手に取ることはなさそう。

Tooze『CRASHED』: アメリカ一極が終わって……次がない……

うーん。

 

まずは歴史認識の簡単なおさらい。世界が第一次世界大戦前は、金本位制をもとにしたヨーロッパ覇権みたいなものの下にあり、その中でイギリスの産業貿易的な優位性から、ポンドスターリング本位みたいなものの下にあった。でも特に第二次世界大戦を経てそれが完全に変わった。戦費のない欧州諸国に対してアメリカがばんばん物資を送ったことで、その支払いもあって世界はドル本位制となり、ブレトンウッズ会議で、ドルをトップにしたヒエラルキーが確立しました、というのは揺るぎない事実だ。

アダム・トゥーズ『ナチス 破壊の経済』は、ナチスドイツをそのアメリカ/ドル覇権に対するヨーロッパの最後の悪あがきとして解釈し、それを元にナチスドイツの一見すると支離滅裂な各種動きが、実はそこそこ整合性のあるものだということを示し、同時にそれを実現するためにドイツの国内経済がいかに無理を強いられたか、その無理が戦争活動にもホロコーストにもどう影響したかを描き出した、とってもおもしろい本だった。

ナチス 破壊の経済 上

ナチス 破壊の経済 上

ナチス 破壊の経済 下

ナチス 破壊の経済 下

さて、そのアダム・トゥーズが2018年に新作を出した。『Crashed』は、これまでナチス周辺の出来事を追っていた経済史家の著者が、2008年世界金融危機と、それがいかにしてブレトンウッズ会議以来のドル覇権を崩壊させたか、という本だと聞いていて、買ってはあった。結構評判もよくて、The Economist でも2018年の経済系のベストに選ばれていた。でも本文六百ページもある分厚いものだったし、積ん読のままだった。それを今回、いろいろあって読んでみた。

が、ちょっとがっかりした。ドル覇権が崩れた、というのはわかったけれど、その次が何もないからだ。そして、様々な側面を実に細かく見てくれるんだけれど、それが羅列に終わっていて、その細部がもたらす新しい発見や視点といういものがあまり出てこないからだ。

経済に政治的な要因がからむ、というのはまあポイントではある。その意味で、以下のアマゾンレビューはとってもよくまとまっていて、優秀だとは思う。ただ一方で、それは常識だろうとも思う。ユーロというのがいかに経済を無視して政治的な構築物としてできたか、というのはすでに嫌と言うほど言われている。そしてドル派遣によるドルの経済支配と、それがもたらした力は、アイケングリーン『とてつもない特権』などにもある通り。ある意味で、今回の金融危機はそのドル覇権の危うさが現実化したできごとではあった。

が……現実化しても、結局何か変わったか? 基本的にはドル/アメリカ覇権体制がくずれた、というなら、まずいちばん知りたいのは、それに代わるものとして何が出てきたんですか、というものだ。でも、この分厚い本をがんばって読んだんだが、かわるものが出てこない。ニクソン以前の、ドルが(黄金の裏付けの有無を問わず)すべてを仕切る特権的な状態は、一応ない、とは言えなくもないけれど、でも金融危機のとき、欧州のユーロドル市場が干上がって、ヨーロッパの中央銀行FRBに泣きついてお金を貸してもらったことからもわかる通り、やっぱりドルが強くてFRBが強いまま。

もちろん、他のプレーヤーの存在感は出てきた。でも小人が増えただけ。中国は世界的にでかい存在で、規模的にはあれこれできなくもない。ただ彼らも国内の状況を無視できるわけではないし、世界にドーンと覇権を張れる存在ではない。ロシアはEU衰退の隙を突いていろいろ立ち回るけれど、先頭にたつ気概はない。

本書はその意味で、ドル覇権が崩れたと言えなくもないけれど、でもアメリカ支配に代わって、なんか弱小プレーヤーがお互いに顔色をうかがいながら、なんとかやりくりしている体制になって、しかも弱小の中ではやっぱアメリカが結構強い、という形になっているという。金融危機は、ドル依存のやばさをはっきり示した出来事ではあったんだけれど、その後のユーロ危機で明らかになったのは、ユーロのほうがもっとやばくてあてにならないということで、だからドル依存はかえって強化されてしまった。そしてその弱小プレーヤーたちはどこも、経済の弱さが国内の不満につながり、それがポピュリズムをもたらして、したがって国際的にときに要求されるでかい行動ができず、そのために経済の弱さが続き、という国内政治と経済の悪循環に陥っている、という。だからこの状況が大きく変わることは当分なさそうで、さあ今後どうなるんでしょうねえ……(いやホントにそういうふうに本書の最後では放り出される)。

さて、これは何か目新しい話だろうか?

危機の前夜からトランプ/ブレグジットまで、非常に細かく描きだしていて、読み物としてはそこそこおもしろい。が、金融危機について書いた本はたくさんある。それらとまったくちがった解釈、まったくちがう見方が出てくるかというと、そんなことはない。分厚い本だし、経済的なことにだけこだわらず、中国の役割、ロシアの暗躍も細かく追って、それが金融危機とどうつながっていたかについて論じようとするのはおもしろい。でも、特にロシアの話は本当に一章かけるほどのものだったのかなあ。ギリシャトロイカ軍団との熾烈な戦いを逐一細かく追っても、これまでと何かちがう話にはならず、ちょっと徒労感がある。

見解の相違のせいもあるんだろう。トゥーズは前作でも、ケインズ経済学をすごく嫌っていて、ナチスが公共事業で失業をなくして人気を博したというのはウソだ、と言う。でもそのウソ、というのは失業がなくならなかったということではなくて、それがナチス公共事業の筆頭目的ではなかった、という話になる。狙いはどうあれ、実際に失業を減らしたのは事実で、ケインズ的に理解してもいいと思うんだけど。今回の本でも、彼は量的緩和とか景気刺激策とか、サマーズの長期停滞話とかを徹底的に否定する。それは効果がなく、しかも金余り状態を作って世界経済の不安定さを増し、という具合。しかも、目先の解決策としては効果があった、という部分については、あまり触れようとしない。ぼくはもっと評価すべきものだと思うんだが。

クルーグマンは、大恐慌に終止符を打ったのは第二次世界大戦で、いまだって宇宙人が攻めてきて地球防衛軍をつくらないと、という話になったら一気に不景気なんかふっとぶ、と述べている。トゥーズはこれを否定し、クルーグマンはいまの世界の政治がそんなに協調的ではないことを忘れている、と嘲笑するんだけど……いやだからウチュージンが攻めてきたらみんな立場にこだわらず協力するよー、というネタでしょ? マジレスしてどうする。

まあトゥーズは歴史家なので、こういうふうに推移しました、という記録を書ければいいのかもしれない。様々なできごとをあまり脚色せずにまとめあげるのが本領、ということかもしれない。でも、ぼくは長い本は、長くなる必然性が必要だと思っている。世間的にはこんなふうに思われているけれど、それを細かく見たらその中で別の動きが見られますよ、とかいうのがないと、せっかく長い本を読んだ甲斐がない。あーもある、こーもある、あんなことやこんなこと、でも結局は「いやあお先真っ暗でおっかないっす」としか言えない。それをわざわざ教えてもらう必要はあるのか? サミットとか、あのクソの役にもたたないダボス会議とかで、「さらなる協調をすすめマクロプルーデンスが求められ〜」と繰り返すのと変わらないのでは?

ちょうど並行して、メーリング『新ロンバード街』を読み返しているけれど、こちらはそういうでかい話ではなく、むしろ世界金融危機を、マネーマーケットや複数のレベルのお金の相互関係のきしみとして捉えようとしていて、ぼくはこのほうが金融危機の本質に迫っているようには思う。

付記(2020.03.11)

実は仕事で先週、このメーリングに会ってきたときにこのトゥーズの話も出た。実はメーリングは数年前までコロンビアにいて、トゥーズの同僚だったのだ。メーリングに言わせると、トゥーズの本は金融危機で成立した中央銀行6つの間のスワップラインの意義を軽視してるのでは、とのこと。実はこのスワップライン、2008年のリーマンショックで成立したあとでいったん廃止されたけれど、その後ユーロ危機で復活し、永続化された。そしてFRBも無制限のドル供給を明文化している。これにより、日銀も含む中央銀行6つは、実質的にFRBの拡張版として機能できるようになり、責任を分担できるようになった。だからドル覇権体制は気に食わないかもしれないけれど、少なくとも仕組みとしての安定性は金融危機で上がっている。ドル体制の終焉みたいな言い方は変だし、それを他の通貨が置きかえられる可能性はない、というのがメーリングの見方。でも一方で、ドルの次の危機の可能性は増えているそうな。それはトゥーズが述べているものとはまったくちがう話。このスワップラインでカバーされない新興国のドル取引が激増していて、それが何らかの形でつまづいたときにどうなるかはまったくわからない、とのこと。超おもしろいので、このメーリング本は訳したいんだけどねー。

付記(2020.04.23)

邦訳出ました。

ハーバート・サイモン『意思決定と合理性』の翻訳がひどすぎなので、訳し直してあげました。

ハーバート・A・サイモンって個人的にとても好きなんだけれど、こないだふと『意思決定と合理性』という短そうな本を手にとったら、いやあ、唖然としてその後ワナワナするくらい翻訳ひでえわ。

このひどさについては、アマゾンのレビューでさんざん書かれている通り。ちゃんと自分で読んで意味がわかるように訳せよー。

あまりに腹がたったので、原書を買って冒頭部を自分で訳しはじめてしまったわ。

ハーバート・A・サイモン『人間活動における理性』

冒頭十ページほどだけど。アマゾンレビューで具体的に挙げられている問題箇所は含まれてる。細かい話ではあるけど、そんなわかりにくい言い方は何もしていないと思うんだけどなー。

タイトルは、理性じゃなくて合理性にしたほうがいいかな。やりながら考える。最後まで続くかはわからない。また例によって、山形の大量の仕掛かり翻訳の一つになるのかもしれないけど。でも、実は各種の仕掛かり翻訳、思い出したようにチビチビ先に進んでいたりすることもあるんだよー。

 

しかしこんなことやってる場合じゃないのになあ……

追記:その後コメントで、「システムの科学」はどうだ、との意見があった。あと、アマゾン評で「経営行動」の訳が、「下手クソ」と「いや、あの逐語訳がかえってすばらしい」というレビューバトルになっていて、これまた地雷のにおいプンプン。

というわけで、ざっと見てみた。

システムの科学

システムの科学

システムの科学は、ぼくはそんなに悪いとは思わない。もちろん、ぼくがやれば改善はできるだろうけれど、読んでわけがわからないとか、そういうレベルではないし、自分も普通に読んだ記憶がある。山形が敢えて訳し直すことは、たぶんないでしょー。

この経営行動は、ぼくはアマゾンレビューを見て、すさまじい代物を覚悟していたのだけれど……かなりまともだった。理屈っぽく面倒なのは事実だけれど、それは翻訳のせいじゃない。経営の話をするのにいちいち人間の合理性にまで立ち戻るような本は、晦渋で面倒なのは当然。そんなわけで、これはまあそういうものだと思って読んで下さいな。でも、まだ見始めたばかりだけれど、いい本だと思うよ。

追記:

で、きみたち、どうせ途中で止まってると思ってるんだろー。ジワジワ続いていて、第1章終わったよ。残りもがんばりまーす。(5/19)

 

どうせだれも見てないだろー。でもさらに進んで第2章終わった。あと1章!しかし、この第2章はすごいわー。進化論の話のおさらいで、利己的遺伝子から血縁淘汰に群淘汰を経て、局所最適と大域最適の問題までものの20ページほどで実に手際よくまとめて、知的な一般人が進化論について知っておくべき事はほぼ網羅。信じられん。 (9/17)

 

第2章完了記念に、邦訳の第2章もさっと見てみたが、いやーすごいわ。たぶん書かれていることを何一つ理解できていないのでは、という感じ。進化はローカルピークには登れるけれどグローバルピークに行けるとは限らないから、進化論的な合理性の発達には限界があるぞ、という話だけれど、ローカルは局地的、グローバルは地球全体になっていて、話の理屈がわかっているとは思えない。第3章も囚人のジレンマのところを見たが、自分で意味が理解できていたらこんな訳になるとは思えないんだが……

 

で、訳し終わりましたとさ。

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