タイボII 『エルネスト・チェ・ゲバラ伝』:細かいだけで変な脚色だらけ

もうゲバラ系はそろそろやめようかと思ったが、でかいのが残っていたので片づけよう。パコ・イグナシオ・タイボII『エルネスト・チェ・ゲバラ伝』。先日書評したアンダーソン版と同時に出た、でっかい伝記となる。

さて、このタイボII版の伝記について、ゲバラの死につながったボリビア作戦での生き残り、ブストスはあまりよい評価を与えていない。

基本的にタイボII版の伝記の内容は、キューバの公式見解に沿ったものでしかない、と彼は述べている。このため、たとえばアルゼンチン出身のゲリラであるブストスについては、第35版になるまでまったく触れられていないという(邦訳版には登場している。邦訳版は、何に準拠したのかについて何も触れていない)。もちろん、彼に直接話を聞いたりはしていない。

そしてぼくも、読んであまり高く評価はできない。上下巻の分厚い本だけあって、いろいろぶちこんではあるんだけれど、それがほとんど整理されていない。このため、「こうした」「だれはこう言った」「だれの手紙にこうある」という羅列に終始して、それが結局何なのか、どういう意味を持つのかについて何も描けていない。特にこの手法は、ゲバラの都合の悪いエピソード、たとえば革命後の粛清裁判なんかの描き方に顕著で、ハバナに入る前にバチスタ政権などの公安関係者を12人ほど死刑にしたと書いたあとは一切触れない。その後の失策についても、きちんとした評価は何もなし。

工業省での活動についてだろうとなんだろうと、その行動はそもそもどういう背景で行われたのか、それがどんな成果を挙げた/挙げなかったのか、結局意図はどうあれ結果としてどう評価されるのか、という記述は一切なく、大仰にヒロイックに持ち上げるだけ。中央銀行総裁についても、何も知らないなか、いっしょうけんめい勉強していろいろやったが、外貨不足や購買力の国内流出に伴うインフレには勝てず、とかいう書き方をする。だからその外貨不足や購買力の国内流出がまさにその総裁としては半端な政策の結果だろうが! 他人事みたいな書き方は悪質すぎるだろう! 強制労働についても「自発労働」と言い換えてゲバラがそれを自分でやっていたことは書くけれど、その準強制についてはまったく触れない。

さらにこのタイボII版の書きぶりは、小説家みたいな脚色や著者の勝手な独白があまりに鬱陶しい。特に、ゲバラが捕まる前の描写とか、「おお、このときゲバラの脳裏にはどんな思いが流れたのであろうかウダウダ」といった2ページにわたる憶測の束とか、勝手な脚色がすぎる。そして、死体が展示されたときの話はこんな具合:

傷だらけの聖人や拷問されたキリストを礼拝するという恐るべきキリスト教の伝統があるラテンアメリカでは、この姿は当然、忘れ去られることはなかった。

死、解放、復活。

このような亡霊に導かれ、バリェグランデの農民たちは遺体の前を列をなして進んだ。一言も発することなく……。軍が接近を阻止しようとすると人々は怒涛のごとく押し寄せ、兵隊の隊列は破られた。その夜、初めて小さなこの町のあちこらこちらのあばら屋にろうそくが灯された。世俗の聖人が、貧者の聖人が生まれた。(下巻, p.368)

同じできごとについてアンダーソン版の記述は以下の通り:

死体の頭が持ち上げられ、目は開かれたままにしてあった。腐敗を避けるために、医師がその喉を切ってホルムアルデヒドを注入した。兵士、野次馬の地元民、カメラマン、記者たちが行列を成して死体を取り巻く中、チェは不気味なほど生きているように見えた。死体を洗った看護婦や何人かの現地女性は、ゲバラの髪の毛を切り取って幸運のために取っておいた。

どっちが客観的で脚色のない記述だと思う? ぼくが読んだ他の伝記や記録では、タイボIIが書いているような、現地農民たちが大挙して押し寄せて軍隊の制止すら突破した、なんて話はまったく出てこない。

タイボIIはこの伝記について「自分は神話を崩そうと思ったが新たな神話を創ってしまった」と述べているけど、そりゃこんな書き方はゲバラを祭り上げるだけのものでしかないだろう。わかってるなら、もっと落ち着いて書けばいいのに。

アンダーソン版によれば、ラジオでゲバラ射殺のニュースが流れて、その女教師が外に写真撮影で連れ出されていたゲバラを見て「これから撃つのか」と尋ねた、というエピソードが紹介されている。当初、ボリビア当局はゲバラが戦闘中に死んだという話にするつもりだったので、このまま生きているところを目撃した人間が増えるとヤバい、ということで処刑を急ぐことになり、さらにその際に戦闘中の傷で死んだという話とつじつまをあわせるため、頭は撃つな、という命令が下ったそうな。

ついでに、タイボII版だと、死ぬ前にゲバラはそのときの女教師と話がしたいと言って、ヒゲラス村で小学校の女教師と二人きりでいろいろ話をしたことになってるんだが、状況的に、とんでもなくヤバいやつが捕まって厳戒態勢をみんなが敷いている状態で、そんな囚人の要求が受け入れられ、部外者と自由に話をさせてもらえた、というのは、ちょっとあり得ない話だと思う。アンダーソン版によるとこれを言っているのは当の女教師だけで他の人はみんな否定しているとのこと。

ちなみにタイボIIは日本語版への序文でアンダーソンによりゲバラの死体のありかが確定し、その発見につながったことについて、自分の挙げた仮説が正しかったことが証明されただけ、とうそぶいている。でも結局それは、アンダーソンのほうがきちんと取材をし、重要人物にインタビューして情報を聞き出したということだ。ちなみにこの本で書かれている「自分の仮説」って、まさにアンダーソンのインタビューで得られた情報の受け売りだ。

訳者もあとがきでアンダーソン版に触れている。

アンダーソンのものはチェの妻アレイダ・マルチとの密接な取材が売り物になっているが、タイボIIの言うように、アレイダはきわめて謙虚な人物であり、自分のことをまったく語らない。そのため、アンダーソンの試みが成功しているようには思えない。(下巻 p.581)

でも、ぼくはこれがピントはずれだと思う。あの伝記は別に、アレイダの発言内容が重要だったのではなく、当時はまだ公開されていなかったゲバラのコンゴ日記や第二の南米旅行といった資料を参照させてもらえた部分が大きいし、またインタビューはアレイダだけでなく、スウェーデンまででかけてブストスに話を聞き、モスクワでは元外交官に赤面ものの告白をさせ、取材の幅も深さもまったくちがう。後藤政子は本当にあの本を読んだのか? 「アンダーソンの試み」というのが何なのか、訳者の後藤政子は書かないけれど、ぼくは試み的にはタイボIIのものに非常に近く、なるべく予断なしで情報の重みに語らせようというものだと思うし、その意味でタイボIIのものより圧倒的に優れた成果を挙げているとは思う。ぼくは別に、アンダーソン版をひいきにすべき理由は特にないんだけどさ。

また訳者は、タイボIIがゲバラの過激化について、グアテマラ行きが大きな契機だというありがちな見方を採っていないというんだけれど……それじゃ何なのかは読んでのお楽しみ、という。で、4−5回読み直したんだが——何も書いていない。この著者な自分の分析とかがまったくない人なので、ダラダラ伝聞が並んでいるだけで、どれがゲバラにとって重要だったのか何も書かない。正直いってタイボIIには特に見解がないのでは、と思う。強いて言えば、『モーターサイクル・ダイアリーズ』の時点でかなり激しい義憤をたぎらせているところが発端、くらいかな。でもそれについても、まだ口先だけだ、と書かれてはいるし。だから、いろいろダラダラして旅先で女をはらませて、カストロに会って……すぐにゲリラ訓練を受け始めて、え、なんで急に? という感じになる。

というわけで、あまり参考にはならないと思う。この著者は、ゲバラのコンゴでの活動をまとめたりもしているので、コンゴのはなしはやたらに詳しいけれど、いまコンゴ日記もすでに刊行されているし、あまり追加の価値もないと思う。

その他ゲバラ伝・関連本(の主なもの)まとめて紹介

はじめに

はいはい、もうでかい伝記は片付いたみたいなので、あとはもう落ち穂拾いで関連書を一気に処理します。いっぱい出てくるけれど、伝記は分厚いのを読む気がないのであれば、マンガ版ゲバラ伝を読むのが必要十分。

なぜこれだけでいいかというと、ゲバラは写真写りはいいし人気はあるけれど、でも実は一般的なイメージとは裏腹に、かなり単線的な人生で、大した謎もなく、あっさりとんとん拍子にキューバ革命を成功させて名士になっておしまいだから。

流れは以下の通り:

  • アルゼンチン生まれでぜん息に苦しみつつ医者を目指しました
  • 途中で『モーターサイクル・ダイアリーズ』しました。社会正義に目覚めました
  • 2回目の南米旅行にいき、途中で活動家になって、メキシコでカストロに会いました
  • カストロに加わってキューバ革命を成功させました
  • でも米帝の妨害もあってキューバ経済は沈滞しました(あるいは、ゲバラが沈滞させました)
  • 公職を退いてコンゴ、ボリビアでゲリラ指導をしたけど失敗、死亡。
  • おしまい。

話はこれだけで、それ以外の細部がまるでないのだ。下積みの苦労もない。対立、反目、裏切り、和解、ライバル、競争といったドラマもない。暗躍してだれかを追い落としたり、惨めな敗北から這い上がって勝利をつかんだりもしていない。私生活で、第二奥さんが文化大革命でも起こせばもう少し波瀾万丈だったろうが、周辺の人々もとてもお行儀がいい。思想的に新機軸を出したことはなく、アイドルとしての存在感以上の影響を外国に与えたこともない。

だから、伝記としてふくらませる余地があまりない。ほめる伝記を書きたければ、あらゆるステップについて「純粋だ」「理想に燃えた」「信念を貫いた」と書き立てるしかない。成功しても情熱と理想と信念、失敗しても情熱と理想と信念。そして、あまり深く考えてはいけない。なぜ二番目で社会正義に目覚めたの? そんなゲリラに走るほどの衝撃的な体験って何? ふつう、旅行中にちょっと見ただけで社会正義に立ち上がったりしないよ? そういうことは追及しない。なぜキューバ経済は沈滞したの? ゲバラが純粋すぎ、理想を追いすぎたから、ですよね! その現実的な失敗って何だったの? それも追及しない。コンゴやボリビアでは、革命の条件が整っていなかったから失敗したのだ、と言うのが常道なんだけど、それって行く前にわからなかったの? それも追及してはダメ。だから深みは出しようがない。

一方で批判しようにも、やはりあらゆる段階で、理想、信念=現実知らずと批判するしかない。結局、あまりおもしろい伝記にはならないのだ。

あとは信者(特に日本人)が書いたものは、この漫画の中身につまらないヨイショをたくさんまぶしただけ。またキューバ関係者によるゲバラについての雑文集は、公式声明をまったく超えないので読む必要なし。一方で、ゲバラアンチによる罵倒論集は、これまた公式罵倒をまったく超えるものではなく、題名だけ見れば中身は全部わかる。

あと、レジス・ドブレによる本は、当事者としての自分の立場を棚上げしてゲバラの失敗が云々と岡目八目であげつらうくだらない代物。さらに奥さんたちの回想記とか、友人の回想記とか、まあいろいろ出ていますわな。一部は目も通したけれど、いちいちコメントする気も起きない。

以上! これだけわかれば、以下の個々の本の説明なんか読むだけ無駄。物好きだけ先を読んでください。

Piñeiro, "Che Guevara and the Latin American Revolution":キューバ共産党上層部によるゲバラ関連雑文コレクション。

先日、AbeBooksで買ったゲバラ関連の英語本、二つ目はPiñeiro, "Che Guevara and the Latin American Revolution".

この人はキューバ共産党の赤髭と呼ばれた謎の男で、こいつが書いた伝記となると、なんかおもしろい裏話でも少しは出てくるかなー、と思って開いたとたん。

伝記でもなんでもないじゃーん。この人がいろんなところで、ゲバラの思い出とかをインタビューや講演なんかで語った話で、基本はキューバの公式声明集以上のものじゃない。細かく読めばいろいろつっこみどころもあるのかもしれないが、そういうのは学者がやってくれ。カストロとの反目でゲバラはキューバを追われたのか、と聞かれても「二人は常に補い合う優れた同志でありました」だけだし、「チェは死んではいない! この世に不正あるところ、必ず再びチェが現れる!」って、なんですかあんた、桃太郎侍かキャシャーンですか。


CR桃太郎侍 PV

F・カストロ『チェ・ゲバラの記憶』:カストロによるゲバラ関連雑文コレクション。

チェ・ゲバラの記憶

チェ・ゲバラの記憶

Amazon

これも、カストロがゲバラについてまとめて書いたものかと思ったけれど、まあフィデル・カストロがそんな暇なわけはないよね。上と同じで、様々な機会にゲバラについてカストロが書いたものや講演をまとめた本。ゲバラは、属国の分際をわきまえずにあちこちでソ連の悪口を言ったりして、カストロもフォローに苦労した面はあるけれど、その一方でゲバラが自分の(立場上言えないことを)代弁してくれた面もあったようで、もちろん死んでからはチェ・ゲバラがキューバ有数の輸出産品になったこともあって、悪口はまったくない。とはいえ、目新しいこともない。同志よ、仲間よ、米帝ども許さん、この世に不正のあるところ云々。

個人的におもしろかったのは、『ゲバラ日記』=ボリビア日記をめぐるカストロの発言。ゲバラの死がボリビア政府により発表され、アメリカもそれを確認していて、キューバとしてはいったいゲバラがボリビアの山の中で何をしてたのよ、というのを説明せざるを得なくなった。だって悪質な内政干渉で政権転覆支援だもの。だからそれまでは、カストロはずっと(ソ連や他の共産主義政府との関係から)ゲバラがそんな対外工作していることは隠していたんだけれど、急に自分たちを正当化しつつ、むしろゲバラが殺されたほうが陰謀であるかのような、論理のアクロバットを余儀なくされた。

そこで利用されたのがゲバラの日記。これはもちろんボリビア政府が押収し、CIAもコピーを得ていたんだけれど、キューバは自分たちの息のかかった大臣を使って実物を入手、「米帝やその走狗共による歪曲を許してはいけない、これを公開してゲバラの遺志を世界に伝えるのだ、それを米帝どもはインチキなのを出して阻止しようとした! ニセモノだとデマを流した! 我々はゲバラの最期の声を世界に伝えるぞ!」みたいな変なプロパガンダを展開する。それで、カストロのこの文章では、自分たちはちゃんと著作権も明確にし、テキストクリティークもして発表したのだ、アメリカの資本主義企業どもは、それを勝手に別ルートで刊行しようとしてゲバラの遺族にコンタクトしたが、ゲバラ一家はそんな悪辣な企みには乗らなかった! という話が延々続く。

うーん。それにしては、日本で何種類も翻訳があるのは、いったいどういうことなのか、というのは未だによくわからないところ。が、プロパガンダ面でのあの日記の重要性はよくわかる。

あと、『ゲバラ日記』に収録されている「必要不可欠な序文」もこちらに再録されている。この序文は、各種ある翻訳の中でここに入っているのがいちばん読みやすく、他でまちがっているところも正しく訳せている。

後は追悼文とか、死体が戻ってきたときの演説とか。新しい発見は何一つないと思うよ。

『マンガ偉人伝 チェ・ゲバラ』:とてもしっかりしたゲバラ伝記

ゲバラの生涯を手ごろな漫画にした本。冒頭で指摘した、ゲバラの人生のつまらなさをマンガにしたことで埋め合わせ、ダレずに読ませるし、記述の浅さがあまり気に障らず、ささっと流せてお徳用。本当に、ざっとゲバラの生涯を教養程度に知りたいなら、これで必要十分。日本語で出ている他の本からはこれ以上の有意義な情報はあまり得られない。

伊高浩昭『チェ・ゲバラ:旅、キューバ革命、ボリビア』:フェアだし多少は独自取材もしているが、詳しい年表どまりなのが惜しい

最初これ、アンダーソン本の後に読んだので、中身が薄いなあ、という印象になってしまったんだけれど、二度目に読んでそれはフェアではないなと思った。よい本です。新書なので、そんなに詳しくはないが、冒頭に書いた通り、そんなに詳しくできるほどの材料がある人物ではないので、別にそれが悪いというわけでもない。書きぶりは、ゲバラシンパながらもそんなにベッタリの盲目的崇拝でもなく、革命後の粛清についても触れ、産業政策の失策ぶりについても他人に責任を転嫁することなく、またその後のアルゼンチン、コンゴ、ボリビアの失敗についても、しっかりその失敗を指摘するだけのフェアな書きぶり。彼の『ゲリラ戦争』についても、その中身よりはテロ教練の系譜を示すものとして意義があると指摘しているのは、まあ納得できるところ。

単純な伝聞ではなくアレイダ・マルチ(二人目の奥さん)とかにインタビューはしていて、ゲバラのスローガンとして有名な ¡Hasta la victoria siempre! というのが、実はそんな発言はしておらず、ある文章を勝手にカットアップしてカストロが捏造したのだ、という証言を得たというのがおもしろいくらい。あと、アンダーソンの伝記でも触れていない、愛人がいて隠し子もいた、という話もきちんと書いている。

不満は、生まれて死んでそれでおしまいで、結局ゲバラが世界にどう影響を与えたかについての記述がまったくないこと。ゲバラが死んで半世紀。結局彼の遺産とは何なのか、そしていまの偶像としてのゲバラはどう評価されるのか——2015年の本であれば、それについてはある程度の考察と結論がいるんじゃないか。いまのこの本だと、まあフェアながらも詳しい年表・他の伝記の要約版に終わってしまっている。それはちょっと残念ではある。たかが新書にそこまで期待していいかというのはあるが、ぼくは新書だからこそ、細部にはまらず俯瞰する視点が持てるのではと思うんだ。が、それは無い物ねだりかね。ゲバラについてきちんと知りたくて、マンガでは沽券に関わるというのであれば、これを読むといいと思う。

三好『チェ・ゲバラ伝』:信者の信仰告白本の色彩が強すぎるが、熱意は買うし、細かい調査は立派

三好徹は、ゲバラ好きが高じて、スペイン語を勉強して彼のボリビア日記やキューバ革命日記を訳してしまうという人間なので、まあゲバラのことをちょっとでも悪く書くはずもない。キューバにでかけ、あちこちでいろいろ人に話を聞いているが、目新しいことは出てこないし、著者が前のめりすぎて鬱陶しい。それを熱っぽく迫力に満ちた文だと思う人もいるんだろうねえ。

たとえば、ゲバラが革命直後にやった前政権関係者の大粛清については、触れてさえもいない。工業省での無能ぶり、産業政策のダメさ加減についてもほとんど触れない。外国が砂糖を買ってあげなかったのが悪い、というだけ。また、来日時の話がやたらにでかい(他の伝記では半ページほど)。が、それも日本にゲバラが売り込みにきたとき、キューバ製品(=砂糖)を買えと言われて、日本側がまあ貿易は双方向だからそっちも買ってよね、と答えたのに対して、認識が足りないとか、当時はナセルやチトーやネルーに比べて扱いが低いが、いまや歴史の評価は逆転したとか。いやあ、政治家としてはどう考えてもナセルやネルーのほうが上でしょう。

……というのが最初の見立てだったが、その後伝記を翻訳しているなかで認識したこととして、来日時の話についてはいろいろ細かく調べていて、キューバにでかけて独自インタビューもしているのは立派。来日時の各種省庁の記録も調べているようで、それをそのまま引用してくれているのは非常にありがたい。ゲバラが広島で献花した花の値段まできちんと調べているし、彼の出たパーティーなどの各種参加者にも話をきいている。これはすごい。広島の話については、同行したオマル・フェルナンデスの談話として、日本側が広島行きにいい顔をしなかったので勝手に大阪のホテルをぬけだして自分たちだけで夜行電車で広島に向かったという荒唐無稽な主張を紹介しつつも、整合性を考えて日本側の公式記録にある通り、岩国空港に飛行機で飛んだという説を採っている (がフェルナンデス説に未練はあるらしい)。三好自身の感想はさておき、事実関係に関してはあてにしていいのかもしれない。その一方で、この使節団の団員一覧がやたらにまちがっている。ひょっとしてキューバ側の話はオマル・フェルナンデスから聞いただけで、それがかなりうろおぼえだったということだろうか? とにかくこの点で少し評価を高めた。詳しくはこちらのゲバラ広島行きについてのエントリ参照。

cruel.hatenablog.com

Fontava『Exposing the Real Che Guevara: And the Useful Idiots Who Idolize Him』:キューバ革命は失敗だったのに欧米知識人がそれを祭り上げているという本

題名通り、本当のチェ・ゲバラなんてろくでもないやつで、残虐で、傲慢で、無能で、キューバ経済を破壊して人々を貧窮させ、人民裁判で虐殺を実行し、核ミサイルで米帝を破壊しろとわめきたてたヤツなのに、西側の知識人や馬鹿な映画スターたちは、当初からゲバラを英雄視してやたらにありがたがって、どうしようもないぜ、という本。題名通りで、それ以上のものは何もない。

これまた別の意味で目新しさ皆無ではある。欧米での受容についていろいろ触れてあるのが特徴。

D. James "Che Guevara: A Biography": 最初期で最も明解な視点を持つ伝記

Executive Summary

D. James "Che Guevara: A Biography" は、1969年、ゲバラの死の直後に出た伝記。本書の最大の特徴は、明確な視点と答えるべき疑問を持ち、それをきちんとときほぐしていること。ゲバラの無謀なボリビア作戦の謎を中心に、ゲバラにまつわる疑問を著者は解き明かそうとする。

ゲバラに対する評価は低い。理論は付け焼き刃で頭でっかち。それを愚直にやる以外のことができない。軍事的にも特に独創性はなく、他人のお膳立てに乗っかるだけ。それを自分の実力とかんちがいし、その思い上がりをかかえて出かけたボリビアで、自分の愚かさに殺される形で死んだ。それはロシアのインテリテロリストにもにたニヒリズムだった。

はっきりした視点を持つことで、ときに些末なディテールの集積に陥るアンダーソン版の伝記に比べ、非常に見通しがよい。その論旨に賛成だろうと反対だろうと、議論の基盤として使える情報と論理があり、読者が自分の立ち位置を見極める意味でも参考になる。ただし、著者は反共メディアをずっと運営してきた人物でCIAとも関係が深い。彼がこの伝記を書けたのは、チェの死後にボリビアで捕獲された文献をCIAに見せてもらえたから。そうした著者の立場は知る必要がある。

はじめに:ゲバラ死亡直後の批判的伝記

いちばん分厚いゲバラの伝記を読み終えたあとで、あとは国産のショボい (本当にしょぼい) 伝記群をまとめて処理して、もうゲバラとはおさらば、と思っていたら、Abebooksに注文して忘れていた、その他の英語版ゲバラ伝が2冊届いてしまったので、行きがかり上、やっつけざるを得ない。

ということでまず手に取ったのが、Daniels James "Che Guevara: A Biography" だった。

が、アンダーソンの決定版を読んだあとでは、他のはそのお手軽端折りバージョンにしか成り得ないのでは、とたかをくくっていた。特に、今回扱うやつはゲバラの死の直後に出たものだ。資料も少ないだろうし、話を聞く相手にも限界あるし、その後の状況なんか知るよしもないだろうし……

その予想はこの伝記については外れた。この伝記は、アンダーソンのものとはちがうアプローチでゲバラに挑んだものだ。かなりニュートラルに、あまり価値判断をせずにゲバラの生涯を語ろうとしたアンダーソンのものに比べ、こちらは明解な視点を持つ。それは、基本的にはゲバラに批判的な視点ではある。この伝記が出た1960年代末、すでに世界的にゲバラの神格化とアイドル化は始まっていた。この著者はそれを批判する。ゲバラなんて、大した能力も実績もない甘ちゃんだよ、と。

それを正しいと思うか否定するかは読者次第。でもアンダーソン版みたいに、いろいろ情報量は多いけど「いったいぼくは何のためにこんな話を読まされているのかしら」的な部分が多々あるものと比べて、すべての部分に必然性があり、明解。古いけれど、ぼくはこちらの伝記のほうが好きだ。

もちろんその大きな理由は、ぼくがこのジェイムズの見方にほぼ賛成だから、ということもある。

本書の問題設定:なぜゲバラは無謀にもボリビアに?

これは1969年、ゲバラの死の直後に出た伝記となる。アマゾンで検索して登場する伝記の中では最古。そして確かに、資料その他は限られている。たとえば、ボリビアのジャングルで這いずって死を迎える前に、ゲバラはコンゴでパトリス・ルムンバ配下のゲリラたちを率い……るはずが、六ヵ月で失敗して逃げ帰ってくる。いまはその事情はよく知られているけれど、この伝記の自伝ではまだ詳細は明らかになっておらず、ゲバラのコンゴ日記も出ていない。だから、コンゴについての記述は、伝聞情報だけの2ページで終わっている。

だがその一方で、あちこちの細かい話がわかったからといって、別にゲバラについての理解が深まるわけじゃない。コンゴに行く前にアルジェリアに立ち寄ったとか、チェコにいたらしいとかいうのを知ったところでどうなる? コンゴの「革命」戦士たちがいかに無能だったかを30ページ読んだところで、ゲバラについて何か新しいことがわかるわけではない。

そして、この伝記の最もよいところは、さっきも述べた通り、視点が明解なところ。この伝記は、答を出したい一つの謎がある。その謎とは:

なぜゲバラは、最後に自殺行為なのがどう見ても明らかな、ボリビアなんかに出かけたのか?

この問題設定のために、ある意味で本書の構成はとってもアンバランスだ。後半が全部ボリビアの話になっている。その一方で、当時はまだチェ・ゲバラはボリビアなんかで何をしていたんだ、という雰囲気もあり、またキューバとしても、ゲバラがボリビアで南米総蜂起に向けたゲリラ戦を戦い、米帝とその手下たちの卑劣な暗躍により悲劇の死を迎えた、というのをめいっぱい宣伝していたときでもある(おそらく、『ゲバラ日記』邦訳が原著公開直後に何種類も乱立したのは、その宣伝工作の一環)。だからそれを焦点にするというのは、理に適っていたんだろうとは思う。

 

そして本書がこの問題に対して出す答は一言。

坊やだったからさ。

坊やだというのはどういうことか? それはつまり、あらゆる面で実務能力のない、観念的な理想主義だけの無能だということだ。そして、それを説明するにあたり、ジェイムズはぼくが抱いていた疑問(アンダーソン版伝記評の中でも、ぼくが不満を述べていたもの)について、かなり明解な分析を提供する。それは次の3つ:

  • ゲバラの思想とその形成史
  • ゲリラ戦士としての戦術・戦略的能力
  • カストロとの確執

視点その1:ゲバラの思想は青臭い付け焼き刃で借り物

まずゲバラの思想だ。ゲバラはキューバ革命の立役者ではあるけれど、でも生まれは成り上がりながらもブルジョワ上流家庭、いいところのボンボンで、お遊びで何度も大学を休学してまでバックパック旅行をさせてもらえる結構なご身分。そりゃその道中で、これまで知らなかった社会の格差を見て、義憤をたぎらせたりはした。でもそんなの、高校生から大学生にかけてみんなかかる、社会主義の水疱瘡みたいなもんだ。

この人は、喰うに苦労したことはほぼない。つーか、まともに仕事をしたことが一度もない。バックパック旅行道中で、お金がなくなってちょっとバイトしたくらいだ。貧困や社会の実態についても、何も知らなかった。毛沢東みたいに農村調査をきちんとやったりもしていないし、ろくな勉強もしていない。カストロみたいに、大学時代からずっと学生運動をやってきて、とかいうわけでもない。

結局、ゲバラの「思想」というのは、本当に何か体験に根差すものでもなく、また何らかのデータや理論に基づくものでもない。付け焼き刃の借り物だ。本書には、ゲバラが二度目の南米御大尽旅行の中で、5ちゃんねらーどもが聞きかじりネタで他人をけなすように、ろくに知りもしない地元の共産主義団体をけなしてまわっている発言がいろいろ紹介されている。そしてそこから彼は突然先鋭化し、メキシコでカストロに会い……あとは歴史の知るとおり。

ゲバラは理想主義者だったと言われる(それが何かいいことであるかのように)。それはつまり、現実知らずで硬直的だということだ。なぜかといえば……本当に彼が現実を知らなかったからだ。だから人に聞いた理屈をそのまま硬直的に適用するしかできない。そしてそれが失敗したら、それは他人のせい。たとえば米帝とか、努力の足りない同志とか。革命精神さえあれば何でもできるはずだ——

カストロは、何度か蜂起してはバチスタ軍に叩き潰され、失敗を繰り返す中で一応学んではいる。ゲバラはちがう。だから彼の青臭い思想というのは、その後の彼の活動において重要なポイントになる。

では、その急に先鋭化するような入れ知恵をしたのはだれ? そのための下地はどうやってできたか? 本書は、いくつかの大きな影響を指摘する。

エルネストくんの下地を作ったのは母親。

エルネストくんと母親の結びつきはきわめて強かった。それは、エルネストが長男だったのと、その生涯続いたぜん息によりいろいろ手間がかかったせいもあるだろう。この二人のつながりはやたらに強く、そのためゲバラ家の他のメンバー(旦那も、そしてエルネストの兄弟姉妹も)はほとんどかまってもらえない状態だったという。

その彼女は、もともと左翼活動家的気質があった。しょせんはブルジョワ奥様のお遊びではあるけれど(それと成り上がりへの冷たい目に対する反発)、でもあれこれ家を変なサロンに仕立てて、左がかったボヘミアンどもをたくさん出入りさせていたし、ペロン主義でアルゼンチンがあれこれ荒れていたときには投獄されたりもしているほど。そして、ゲバラが左翼活動家になり、ヤバい活動に身を投じるのについて、父親は当然怒ったし、ふざけんな、さっさと帰ってきて医者になれ、と言っていたけれど、母親は喜んでむしろ煽っていたほど。彼女は、ゲバラの活動をずっと支え、応援し続けていた存在で、ある意味でエルネスト・チェ・ゲバラはマザコンで、母親に半ば操られていたようなものとさえ言える。

リカルド・ローホ:ゲバラの洗脳者

『モーターサイクル・ダイアリーズ』の解説とかで「この旅行から戻ってゲバラは別人となった」みたいな記述がある。でもそんなのは大嘘だ。『モーターサイクル・ダイアリーズ』の時点で、ゲバラはひたすらボンボンの御大尽金持ち旅行をしていただけ。そして戻ってきたときにはモラトリアムを満喫していて、親にうるさく言われている医師試験さえさっさと終えたら、2回目の旅行に出たくてたまらなかった。

でもその2回目の南米バックパック旅行で、決定的なできごとがあった。もともと、この2回目でも彼は、最初のオートバイ旅行をいっしょにやったグラナードとベネズエラで落ち合う予定だった。そしてその前段で彼はボリビアに入る。その時点でゲバラはすでに反米左翼思想を抱き始めてはいたけれど、しょせんは青臭いブルジョワ大学生の水疱瘡みたいなものでしかなかった。が、彼はボリビアからベネズエラに行くのをやめて、グアテマラに向かうことにする。それが彼の、アルゼンチンでの生活との決定的な別れだった。

それを説得したのがリカルド・ローホという、ボリビアに逃げていた反ペロン主義の左翼活動家だった。彼は後にゲバラの伝記とかを書くことになり、この当時の話を回想している。彼はゲバラに見込みがあると思って、単なる反米かぶれだったゲバラに、南米政治について系統的な講義(=共産主義洗脳)をたくさんほどこした。このローホの説得により、彼はグラナード=故郷とのつながり=医学という普通の生活を捨てて、政治的な選択としてグアテマラに向かうことになる。彼がゲバラの思想的基盤を形成し、そしてその行動を大きく変えることになった。

(なお、アンダーソンはローホのゲバラ伝が、葬式景気に便乗した拙速な代物で、脚色が多くて信用できないとしている。アンダーソンはロホの役割が決定的ではなく、たまたまこのあたりで何度か顔をあわせた程度としており、この時期の前から先鋭化は始まっていてそれがじょじょに深まったという印象を与えている)

最初の奥さんイルダ: ゲバラ先鋭化の立役者

そのグアテマラで出会ったのが、最初の奥さんイルダ。彼女は、女性として以前の婚約者(『モーターサイクル・ダイアリーズ』の冒頭で、ゲバラが恨み言をいろいろ言っているのは、彼女がその婚約を破棄したせいだ)とも、後の奥さんアレイダとも全然ちがう。この二人は美人で、白人で、年下(最初の婚約者は十代)。それに比べて、イルダは年上で、中国と現地インディオの値が入ったちんちくりんのブスだ (とこの伝記は明言するし、写真を見てもそれは否定しがたい)。二人目の奥さんアレイダは、イルダにライバル意識をたぎらせていたけれど、初めて会ったとき「勝った!」と思ったとのこと(涙)。

でも彼女はすでに、グアテマラでいっぱしの左翼活動家だった。そのときのエルネストくんにとっては、それがきわめて重要だったし、そこに母親の姿を見ていたのかも、とこの伝記は述べる。生活面、肉体面、金銭面、人間関係、その他あらゆる面で彼女はチェ・ゲバラの左翼活動家としての地位を支援し押し上げたし、思想的にもゲバラを先鋭化させた。彼女はまちがいなく、チェ・ゲバラを造り上げた最大の立役者だ。カストロに引き合わせたのも、このイルダだ。

カストロ:背中の一押し

そしてもちろんカストロだ。カストロとゲバラの関係についてはいろいろ書かれているのであまり書かないけれど、ゲバラが最後までカストロに心酔し、DV共依存にも似た関係を作っていたのはまちがいないこと。最後に実際の戦闘活動に参加するよう背中を一押ししたのは、まちがいなくカストロだ。彼はゲバラに、舞台を与えてあげた。教練を受けさせて、他のキューバ人をさしおいてグランマ号にものせてあげて……

視点その2:ゲバラのゲリラ/革命戦士としての戦略・戦術能力

通常、チェ・ゲバラというと、キューバ革命における司令官/コマンダンテとして知られている。キューバ革命を成功に導いた、伝説のゲリラ指揮官というわけなんだが……それってホント? 具体的に、どういう成果を挙げているの? これはぼくも大変に興味のあるところだった。この伝記は、それを特だしして検討する。そしてその答えは:大したことねえよ、というもの。

ゲバラの実戦経験はたった2年!

まず彼が指摘するのは、ゲバラの戦歴のあまりの短さと、その活動の範囲のあまりの狭さだ。同じくゲリラ戦の軍事指導者としても名高い他の人々と比べると、あまりにその経歴は短く狭い。

たとえば毛沢東は、毀誉褒貶はどうあれ、八路軍の親玉として長期にわたり、日本軍や蒋介石軍を相手に戦い続けた。その戦歴は20年におよび、その活動範囲は、「八路軍」と言われるだけあって中国ほぼ全土に及ぶ。ベトナム戦争の英雄、ホー・チ・ミンやボー・グエン・ザップだってそのくらいの戦歴を持ち、最初はフランス、次にアメリカと、強大な敵を相手取り20年以上にわたる激戦を展開した。いっしょにするなと言われるかもしれないが、ソ連赤軍の立役者トロツキーだって十年以上にわたるゲリラ・軍事キャリアを持つ。ポルポトだって20年近く。

ところがゲバラはどうだろう。カストロたちがグランマ号でメキシコからキューバに漂着し、キューバ独立までわずか二年。彼のゲリラ戦経験は、それがほぼすべてだ。しかもその戦場は、広く見てもキューバの半分程度でしかない。毛やザップに比べると、あまりに見劣りする、というか比べること自体が不敬なくらい。実は、同じキューバ革命の同志の中でも、別に傑出した経験を持つわけじゃない。知名度はガクンと下がる、キューバ革命第三の男、カミーロ・シエンフエゴスのほうが、実戦経験はずっと長い。

毛の『遊撃戦論』やザップ『人民の戦争・人民の軍隊』は、それだけの経歴があればこそ、軍事的・戦略的に参考にすべき教科書として重みを持つ。でも、ゲバラはどうだろう。彼はたった2年の経歴で、南米のあらゆる社会主義革命のためのマニュアルと称して『ゲリラ戦争』なんかを書き、そしてコンゴやボリビアでゲリラ戦を指導できるつもりでいた……そして失敗した。これは、著者の本書における最大の問題設定に対する答でも重要だ。なぜボリビアにでかけ、失敗したか? それは、実はゲバラが軍事的に無能だったからだ。

キューバ革命でも人に言われた通りやっただけ

が、長けりゃいいってもんじゃない、かもしれない。いや、好機をとらえてスパッと勝負を決め、短期決戦で勝ちをおさめたのは、彼の戦略・戦術的な優秀性をむしろ物語るものかもしれない……が、どうだろうか?

まず彼の『ゲリラ戦争』は、戦略指南書として見ると……大したことない。せいぜいがゲリラの生活マニュアルに毛が生えた程度。そこにゲリラ戦略、いやそれ意外の軍事戦略的にも、特に傑出した見方はない。

では実際の戦闘は? 何かすごい活躍を見せたか? ゲバラの名声を高めた唯一最大の戦闘は、ラス・ビジャスの闘いだった。ゲバラの部隊がラス・ビジャスを封鎖し、そこへ列車で送りこまれてきたバチスタ政権の正規兵たちを撃退し、サンタ・クララを制圧した。そこを拠点にハバナへ一気に進んだ。前出の、カミロ・シエンフエゴスを差し置いてゲバラの名声が高まったのも、この決定的な戦闘で勝利したことだった。

その戦略は、ゲバラによるものでもなければ、カストロによるものでもない。もちろん、他人のたてた戦略をいただくのは別に悪いことではない。でもここでは、それをやったのはカストロだった。するとゲバラ最大の戦功は、他人の立て、採用した戦略を盲目的に実行したこと、ということになる。決してゲバラの戦略的、戦術的な優秀性を裏付けるものではない。

それ以外の面で、何かゲバラが傑出した活躍を見せた様子はない。ラス・ビジャスがなければ、ゲバラはキューバ革命の中で、数多くの勇敢で純粋で理想に燃えた平均的な指揮官の一人に終わっていたはずだ、と本書は述べる。

でも、もちろんたまたまラス・ビジャスの責任者になったというツキはあれ、その才覚の片鱗を示したこともあったのでは? 著者はその点についても、あまり高くは評価していない。ゲバラの仲間からの評判は勇敢だが無謀で無用に厳しいというものだった。思想とおんなじで、教条主義で融通が利かない、ということだわな。

視点その3:カストロとの確執

ゲバラのボリビア行きでは、カストロがゲバラを左遷する形で、抹殺するためにコンゴやボリビアに送り出したのではないか、という噂が絶えなかった。ジェイムズは、それはないだろう、という味方をする。むしろコンゴやボリビアに行きたがったのはゲバラのほうだ。また、ゲバラがずっとカストロに心酔していてほとんど共依存だったことは、アンダーソンの本でもこの本でも指摘されている。

が、両者の関係が順風満帆だったかというと、そうでもない。

1つには、カストロとしてもキューバ革命において、ゲバラが自分をさしおいて有名になっているという多少のやっかみはあった。キューバ革命では、カストロは自分で戦闘を指揮したりはしていない。その意味で、露出度においてゲバラに負けている。でも、実戦経験でいえばカストロのほうが、学生時代からずっと過激派やって蜂起を指揮したりして経験は積んでいるし、上に述べた通り、ゲバラが名を挙げたサンタ・クララ作戦もカストロが考えているし、農村蜂起というフォコ戦略もカストロのおかげだ。カストロは、ゲバラがときに無謀だと思っていたし、不満も結構述べているらしい。

一方でゲバラは、キューバ革命で結構舞い上がって、特に軍事面でカストロにあれこれ指図したり異議を唱えてみせたりしたとのこと。

またゲバラは、キューバ成立後も無謀だった。壮絶な勢いで企業の国有化を行い、ソ連にたしなめられると、革命精神を忘れた軟弱者めと罵倒。おかげで産業壊滅し、アメリカは砂糖の輸入を停止。すると代替産業もないのに、産業多角化のためと称してサトウキビ減産に乗り出し、工業化がうまくいかないとオメーらの指導が悪いとソ連を罵り山ほど援助をもらっておいて対外的にソ連の悪口を公然と述べ、無意味に中国にすり寄ってさらにソ連の神経を逆なでし……

また中央銀行総裁になったら、とたんに全国ですさまじい取り付け騒ぎが起こり(そりゃそうだ)、これまた経済崩壊に貢献した。

カストロはこの無能ぶりには大変腹を立てていたという。が、他の人なら即座にクビになっていただろうに、ゲバラはお目こぼしをもらったし、また自分でもそうした政治にはむいていないと認めたこともあり、南米総革命の工作のほうにまわらせてもらえた。

でも、そちらでもカストロはソ連との関係もあるし、そんなに大きく支援できなかったというのもある。そしてボリビアで、特にレジス・ドブレが捕まったあとは、カストロはまったくゲバラたちと連絡をとらず、ほとんど切り捨てに等しい状態だった。これは意図的なのかどうか……

本書の回答:ボリビアはゲバラの現実知らずのなれの果て

そして本書は後半すべてをかけて、ゲバラのボリビアでの行動をたどる。そして……それがありとあらゆる面でダメダメだというのを指摘する。

大きな戦略から見ても、すでに武装ゲリラで政権転覆ができる状況ではないのは、南米の当時の状況を見ても明らかだったはず、と著者は述べる(キューバの煽動したサンディニスタやチャベスの成功は、まだ先の話だ)。ボリビアだって、ゲバラが乗り込んだ直後に独裁政権は選挙で倒されて、穏健改革派が政権をとっていた。独裁軍事政権の恐怖政治とそれへの反発を当てにしていたゲバラの作戦自体、もうその瞬間に潰れていて見直すべきだったんだが……そんなことはまったくなし。穏健改革派が、反革命だから米帝の手先だ、みたいな変な主張に走る。

戦術面でも、ゲバラは自分の『ゲリラ戦争』の教えにすら反するようなことばかりやっている。都市部との連携もなく、地元組織との関係もアレだ。能力もない作家のレジス・ドブレなんかに拠点構築を任せたりするし、地元の連中を無用に見下し、上から目線で反発をくらう。拠点づくりや地元民の懐柔といったステップ一切なしで、軍隊相手のゲリラ戦に突っ走る。

またゲバラはずっと、お上りさん気分が抜けず、自分でゲリラたちの写真とかをいっぱい撮っている。本当なら、面が割れるからそういうことはしないほうがいいのに。

基本的に、それまで(というかキューバ革命では)ゲバラはお膳立てをしてもらったところで、言われたとおりに戦うというのしかできなかった。現実にあわせて戦略を立てたり、調整したりということもなし。ボリビア(そしてある程度はコンゴ)で彼は、初めて自分で何かを作らねばならない状況になり……そして何もできなかった、というのが本書の見立てだ。

そしてそれは、ゲリラ戦争だけでなくキューバの政策運営でも外交でもそうだ。理念と現実が衝突したら、ゲバラはいつも理念を優先し、現実がまちがっているという。それはまあ、革命では成功した。が、他の場合には? 理論通り社会主義経済したら、うまくいかなかった——すると悪いのは米帝であり革命精神のない国民だ。でも、現実というのは、嫌でもそこにあるのが現実、なんだよね。彼はキューバ革命という一回限りの成功以降、ずっとそれで失敗し、それを挽回しようとしてさらに自滅の道をたどった。

でもゲバラはある意味で、ボリビア以前にそれを自分でも悟っていた。ボリビアは彼にとって、死に花を咲かせる舞台で、自分の死をきっかけに新たなベトナムでも第三次世界大戦でも始まればいいや、くらいのところではあった。

それはロシア革命時代の青臭いインテリテロリストたちと同じ精神構造ではある。著者は、ゲバラをネチャーエフと比較する。頭でっかちの理想主義に変なニヒリズムを織り交ぜた革命家だ。

でも、実はゲバラに人気があるのは、まさにそのせいなのだ、と著者は述べる。ロープシン『蒼ざめた馬』と同じで、青臭い現実知らずの理想主義に、冷徹ぶった軍事風味の味付け——それは世界中の過激派とかテロリストとか活動家とかのモデルだ。

でもそれは、19世紀への退行だろうし、そんなのを祭り上げてはいけないんじゃないか、というのがこの本の最後のメッセージとなる。ゲバラが死んでそれっきりだったアンダーソン版の伝記と比べて、ゲバラがその後の南米での各種左翼運動にどういう影響を与えているかについて概観したうえで、それらがむしろ非生産的な方向に(ゲバラのせいもあって)動いているのでは、と著者は述べる。

注意点

もちろん、本書を鵜呑みにしてはいけない。アンダーソン本によると、この本の著者ジェームズは、もともと反共的な雑誌を運営しており、グアテマラのアルベンス政権をアメリカ出資のクーデーターが打倒したときにも影響力があった。という。CIAとも関係が深い。彼がこの伝記を書けたのは、チェの死後にボリビアで捕獲された文献をCIAに見せてもらえたから。そうした著者の立場は知る必要がある。

総評

本書のゲバラ評価は低い。理論は付け焼き刃で頭でっかち。それを愚直にやる以外のことができない。軍事的にも特に独創性はなく、他人のお膳立てに乗っかるだけ。それを自分の実力とかんちがいし、その思い上がりをかかえて出かけたボリビアで、自分の愚かさに殺される形で死んだ。それはロシアやその後の世界のインテリテロリストにもにたニヒリズムだった。

この評価自体には、異を唱える人はいるだろう。ついでにこれを読んで、何もしてない山形にえらそうなことを言う資格はないとかいう馬鹿がいるんだが、別にこれ、ぼくが言っていることではなくてこの伝記の著者の立場だからね。

でも、こうした視点があることで、本書はアンダーソン版の伝記に比べ、非常に論旨が明快となっているし、そして各種の細部もきちんと意味をもってくる。実はアンダーソン版の伝記については、最初にかなりの罵倒書評を書いて一回公開したんだけれど、それを引っ込めた経緯がある。そのときの罵倒は、まさにあれに視点がなく、情報の無駄な山積みになっているということだった。本書はもちろん、細かい情報の点では見劣りはする。が、収録されている情報がなぜそこにあるのか、という点に首を傾げることはない。主張をきちんと裏付けるためにそこにあるのがはっきりわかる。そしてぼくは本書の主張はいまでも妥当だと思う。

また、ゲバラはその後神格化が進んだために、本書以後の著者は(特にキューバの資料を使おうと思ったら)あまり悪口が書けない、というのがアメリカアマゾンのレビューに書かれていた。もしそれが本当ならば、こういう率直な見方がきちんと出たのはありがたいことだった。一方で、著者自身のバイアスは念頭に置く必要がある。彼は反共的な立場でCIAとも関係が深いので、そういう偏りは当然ある。

もし本当にゲバラに興味があれば、是非どうぞ。ちなみに、最後にゲバラがハバナに送った暗号文と、その解読方法の解説が出ていて、暗号ファンにもおもしろいかも。

125-250cc 中古バイク:廃車再登録 (2020)

前振り

 先日、まったくの思いつきで、人生のやり残し処理の一環としてバイクを買ったのだよ。中型免許(普通二輪免許) は大学時代に取得していたんだけれど、当時はお金がなくて、教習所に通ったらバイクが買えず、そのままあれやこれやで、一度も乗ることなしにはや30年。

 それが先日、知り合いがバイク免許を取ろうとして教習所がコロナ閉鎖でかなわんとグチっていたのを見て、ぼくも乗ってみようかな、とふと思い立った次第。最初はあまりお金をかける気もないし、峠を攻めたりする気もないし、ランニングコストが安くてフラットに走れればいいよ、ということで、ヤフオクで手に入れたのが、このYBR250。

YBR250 赤
YBR250

中華ヤマハのバイクで、セローのエンジンを元にしてて燃費がやたらによく、しかもタンクがでかくて永遠にガソリンスタンドに行かなくていい。YSP購入品だから、部品供給のリスクもあまりなさそう。さらに走行距離わずか4500km。個人取引のリスクはネットを見るといろいろあるが、ETCにキャリアつき、さらにこちらまでの陸送費込みで17万弱! リスク分考えても十分安い! 即決!

(あまりに安いので陸送費半額負担しようかと申し出たら、辞退された。ありがとうございます!)

バイク自体の話はまた次回にして、今日はまず手続きの話だけ。

廃車の新規登録&ナンバープレート取得:ネット検索で出てくる情報は古くて使えない!

買ったバイクはすでに廃車手続き済みで、ナンバープレートがない。個人売買なので、名義替え、または今回だと廃車の新規登録は自分で陸運局でやることになる。

必要書類の紆余曲折:怪しいネット情報を信じるな!

さて、そのための必要書類だけれど、ネットで検索すると、廃車時にもらった「軽自動車届出済証返納証明書」「軽自動車届出済証返納確認書」、および自分の「住民票」「印鑑」「自賠責保険証」を持っていかねばならないと書いてある。

たとえばこことかこことか。

ところが、今回の売主さん、この証明書のほうしか送ってくれなかった。確認書も送ってと言ったら、探したけどない、といわれてしまった……

軽自動車届出済証返納確認書。実はいまは存在しない!
軽自動車届出済証返納確認書。実はいまは存在しない!

上のような紙のはず。ないなら仕方ないけど、どうすればいいんだろう? これまたネットで検索すると、確認書紛失の場合は再発行が必要だとか、なくても譲渡証明書で代用できるとか、いろんな話が出ていて、何が本当やらわからない。

そこで練馬の陸運局に電話して、確認しました。その結果わかったこと:

  1. 2019年に書類手続きが変わって、各種書類は電子化された。
  2. だから、返納確認書はいまや存在しない!
  3. 新しい返納証明書 (水色の、A4サイズのもの) が手元にある車両の場合、譲渡証明書があればいい!
    現在の軽自動車届出済証返納証明書。この書式なら、確認書は不要!
    現在の軽自動車届出済証返納証明書。この書式なら、確認書は不要!
  4. (なお、古い返納証明書 (白い、小さなA5サイズのもの) の場合は古いネットの情報のままの模様)

なんだ、各種ネット情報はどれもほぼすでに陳腐化していて、あてにならなかったワケか!!

廃車の新規登録時必要書類など:持っていくのは以下の5つ(2020.06)

よって、2020年6月現在、持っていくべき必要書類は

返納確認書があると思って、売主さんにいろいろ探してもらったりしたのだけれど、こちらの調査不足で痛くもない腹をご自分で探ることになり、大変申し訳ありませんでした (が、譲渡証明書を書いて送ってもらうため、いずれにしてもお手をわずらわせることにはなった)。

当たり前の話ではあるが、

ネット情報だけであたふたする前に、ちゃんと電話一本で確認しましょう!

これを最初にやっておけば、納車の週にナンバー取れていたはず…… ぼくのネットリテラシーもお寒い限り。

あと、手続きは変わるから、各種ネットサイトはきちんと更新するか、せめてそれが何日付けの情報なのか書いておいてほしい!

取得手続き@陸運局

ぼくの場合、練馬にある陸運局に行きます。

自動車検査・登録ガイド

こんなところ。最初に、ゲートを入って左側のA建物(この写真の真ん中に写っている建物)に行く。

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練馬の陸運局

まず備え付けの書類に記入。住所が変なコードを調べて書かねばならないこと以外、特に迷うことはない。ハンコのところに「実印」と書いてあったので、え、印鑑証明とかいるの、と思ったけれどそんなことはなかった。シャチハタ以外、くらいの意味らしい。

あと、いまは書類は無料です。他の体験談を見ると、書類が40円とかで売っていることになっているけれど、いまはそんなことはない。無料で備え付けられている。

また、もらった譲渡証明書がホワイトで修正されていたりして、大丈夫かと思ったが、まったく無問題だった。(あれでいいなら偽造し放題のような気もするが、いいのか)

順番待ちのカードを引いて、呼ばれたら該当窓口 (一番だった) に書類一式提出。記入の不備はその場で教えてくれる (ぼくは大型車両用の紙に書いてしまい、正しい書類をもらって書き直すことになった)。呼び出し番号をくれるので、しばし待とう。

しばらくすると、上の青い紙と同じ用紙に印刷された「軽自動車届出済証」がもらえるので、それをもってゲートをはさんだB棟に行く。書類をもらうときに「次はあそこ」と指さしてくれるので、迷うことはないと思う。

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陸運局のナンバーセンター。ここでナンバープレートをもらう。

ここでまた書類を書いて、530円払うと、その場でナンバープレートと取り付け用のボルト/ナットがもらえる。おしまい! 空いていたこともあって、延べ所要時間は20分強というところ。

(あまりに簡単だし、ほぼ完全にオンラインと郵送で処理できると思う。ぼくが生身でその場にいなくてはならない部分は何一つない! 対応してほしい……)

ナンバープレート取ったはいいが……

帰って早速バイクにつけて走ってみたが……うーん、全然忘れてるな。エンストしまくり。もっと頑張って練習せねば! まだシフトアップをこわごわやっているのが敗因の一つなので、スパッとやるイメトレしないと。

 

Anderson, "Che Guevara":壮絶な調査に基づく空前絶後のフェアなゲバラ伝

Executive Summary

すさまじく分厚いゲバラの決定版伝記。綿密で詳細な調査とインタビューはとにかく圧巻。キューバで長年暮らして関係者の資料を大量に閲覧、ゲバラ懐柔役だったはずの老練なソ連外交官から、恋する乙女まがいの赤面するようなコメントをモスクワで引き出し、最後の部隊の生き残りにスウェーデンまで出かけてヒアリング。すごい!

思想形成や、戦略的な評価といった大局的な視点はいま一つ薄い。だが、その調査が浮き彫りにする、ゲバラの人格的な信じがたいほどの魅力、およびそのとんでもない滅私奉公の独善ぶりは、これまでの伝記などで見られる、とても単純かつ純粋な理想主義者というイメージにかなり修正を迫るものではある。

そして本書はそのすさまじい調査により、ゲバラの最期についての決定的な証言を入手し、そのおかげで謎だったゲバラの埋葬場所まで明らかになり、ゲバラ遺体のキューバ帰還にまで貢献した——ここまで対象の現実の運命を左右した伝記は希有。ゲバラに本当に関心あるなら必読。

本文

チェ・ゲバラといえば、いまや世界的アイドルでファッションアイテムとなっている、かのキューバの革命家だ。ぼくはこれまで、毛沢東トロツキーポルポトといった世界の左派革命家の伝記をいっぱい訳してきたことからもわかるとおり、こうした左派革命家/社会改良家(意図としては)には興味がある——よくも悪しくも。彼らが何を考え、どんな過程でその思想を抱くようになり、さらにそれがどのように往々にして歪み、当人の思ってもいないような結果を生み出したか。それはもちろん、個別性がきわめて大きい一方で、妙に似通ったところもあるし、時代が生んだ結果という面もあれば非常に個人的な面もあって、実におもしろい。そしてその中で、どこに注目し、何を描き出すか——それはその伝記作者のお手並み拝見だ。

ということで、こうした系譜につながる革命家としては、チェ・ゲバラははずせない存在だ。だけれど彼はキューバの建国神話の一部だし、変なアイドル視されている一方で、アメリカの亡命キューバ人たちには忌み嫌われている存在で、さらに全然関係ない形でファッション化されて、実像がかなり見えにくい人物だと思う。以前から、まともな伝記を読みたいと思ってはいて、まあそこそこよさげということで買ったのが、次の本だった。一番分厚そうだし、崇拝者が書いたわけでもなさそうだし。

Che Guevara: A Revolutionary Life (Revised Edition)

Che Guevara: A Revolutionary Life (Revised Edition)

 

あまりに分厚さに、買ったはいいが手に取るのを先送りにしていたけれど、このコロナ謹慎で初めて通読いたしました。二回。そして結論としては、かなりすごい伝記。この長さは、プラスにもマイナスにも働いているけれど、プラス側が圧倒的に大きい。1回目に読んだときには、長さが気になって悪口を書きかけたが、二回目を読んで、これはちょっと認識を改めねばと確信。

手間暇かけた綿密な調査はすばらしい

分厚いのは、著者がものすごい手間暇をかけてよく調べたからだ。キューバに数年滞在し、各種の記録を十分に漁り、未亡人の保管している文書も最初の妻の記録とかも、きちんと漁っている。「モーターサイクル・ダイアリーズ」はかなり前に刊行されていたけれど、ゲバラはその後もう一度南米旅行をしていて、カストロに初めてメキシコで会ったのもそのときだ。執筆当時はその日記がまだ公式に公開されていなかった。キューバ革命時代の日記も未公開だった。そういうのもきちんと文書館で漁り、関係者に頼み込んでいろいろ見せてもらっている。その後、これらの日記も公開されたので、その分ありがたみは薄れた面はある。が、それで著者の最初の努力が否定されるわけではない。

また感心したのは、ゲバラボリビアの前にアルゼンチンで(リモコンで)やり損ねた革命蜂起があって、その最後の生き残り、シロ・ブストスが書いた回想記、特にゲバラに焦点を当てた本。この本についてはまたいずれきちんと書くけれど、ゲバラに心酔してアルゼンチンからキューバに渡り、同じく故国の共産主義革命を実現したかったゲバラの下でゲリラ訓練を受けて、そしてアルゼンチンで一瞬で潰されてしまった人が、自分の無駄だった人生について苦々しく振り返る本だ。

彼はボリビアゲバラが捕まる直前に、レジス・ドブレを都市部の工作に送り出す付き添いで部隊を離れ、つかまって数奇な運命をたどり、最後にスウェーデンに亡命みたいな形でひっそり暮らしていた。この本を書く前にブストスは多くのゲバラ伝著者から接触を受けてはいたんだけれど、努力してスウェーデンまできちんと取材にきたのはこのアンダーソンだけとのこと (ただし最終的な本の中で、その発言は端折られてしまったそうな)。

またゲバラの最期についても詳細に取材をして、実際にボリビアまででかけて、そのゲバラ捕獲部隊の関係者を見つけ出し、その死体のありかをつきとめ、キューバへのゲバラの死体帰還のきっかけとなったのもアンダーソンのこの調査だ。この一連の騒動に関する、増補改訂時の加筆もおもしろい。

長いためにダレてしまい、焦点が散漫になるが、個人的な魅力/欠点は出せている

一方で、長いのがマイナスに出る部分というのは、それがひたすら単調になりがちないこと。ずっと「エルネストはこうした。ああした。こんな手紙を書いた。ここでこんな人と会った」というのが続くことになる。細かく調査した結果を出そうとするからそうなるんだが……

特に、さっきも述べたように『モーターサイクル・ダイアリーズ』の旅程について実に細かく再現したり、その次の南米旅行やキューバ革命の話が、ほぼ完全に日記の註釈版みたいになったりしているのは、いささか辟易する部分はある。ただし、これはまず、2回目の南米旅行やキューバ革命についてはこの伝記刊行時点でまだオリジナルの日記が公刊されていなかったことがある。彼は自分の調査で得た資料としてその内容を紹介したわけで、刊行時点ではこれは貴重だったはず。いまは「こんなの日記を読めばいいじゃん」と思えるけれど、それはたぶんこの伝記に対してフェアではない。

また、単に日記の再現ですませてもいない。同行した仲間はもとより、その行った先で会った人まで探し出して話を聞いているのはすごい。おかげで、日記には明記されない、「ここでこんな女の子に手を出し、あっちでこんな子に手を出し」みたいな話がいっぱい追加されている。ゲバラはハンサムでもてたし、基本的にはやりチンだった。それを知ってどうする、というのはあるけど。

特に意味深なのは、『モーターサイクル・ダイアリーズ』の最後の話。あの本を読んだ人なら知っているけれど、あれは基本的には、金持ちバックパッカーのお上りさん日記以外の何物でもない (だから楽しい映画にできるのだ)。でもその最後に唐突に、何やら謎めいた人物に出会って、その人物のモノローグが収録されている。明らかにそれは、ソ連スターリニズムから逃げてきた社会主義シンパの人間だ。そしてこのモノローグがあるからこそ、この脳天気な旅行記が何やら意味深な、思想に身を捧げる孤独な生き方へのプロローグみたいなニュアンスを持つようになっている。

この人物はだれだろう? 同行した仲間グラナードは、そんな人間に会った記憶はない、と否定しているそうだ。実はこの部分は、もともとこの日記に入っていたものではない。アレイダ・マルチが手元に持っていた遺稿の一部で、彼女はそれらを焼き捨てろとゲバラに言われていたとのこと。彼女は、こんな人物がいたわけではなく、道中で会ったいろんな人物を寄せ集めたフィクションではないかと考えているそうだ。でも、ゲバラがどこかでこういう人間(たち)に会って、強い印象を受けたのはまちがいない。

細かい記述は全体に鬱陶しいこともある。キューバに来てからゲバラの部隊に加わった人を「だれそれが加わり、ゲバラと気があって、次にきただれそれは、イマイチソリが合わず」と延々続ける。要るのかね。その一方で、そうした描き方がゲバラの人物像を非常にはっきり描き出しているのも事実。

たとえばさっき、ゲバラは基本、やりチンだったことを書いた。最初の奥さんイルダについてもゲバラはかなりひどくて、ゲバラ側のいろんな話をまとめると、迷いはあったけれど、でもあんまり積極的ではなく、むしろセフレ的な扱い。イルダは、相思相愛の熱烈な関係でタイミングが合わなかっただけ、と言いたがるけれど……そしてイルダのほうがゲバラにベタ惚れで、外国まではるばる追っかけて、便宜もはかり仕事も世話して人にも紹介し、いろいろ世話もしてお金もあげて挙げ句に下積みを強いられ、新しい奥さんアレイダが出てきたらあっさり乗り換えられ、とゲバラはまるでヒモ状態だ。

その一方で、彼が非常に魅力的な人物であったこともまちがいない。それが最もよく出ているのは、キューバ危機以降、彼が弱腰のソ連に幻滅し (彼やカストロは、アメリカをあの核ミサイルで撃破すべきだと本気で主張していた)、あちこちでソ連の悪口を言うようになったときに、ソ連が送りこんできた外交官メツーソフとの接触でのできごと。

メツーソフは、もちろんゲバラを問題児と思っていて、なだめるか、脅すか、懐柔するかしようとしている。そして最初いろいろ話をするんだが、議論は平行線をたどるんだけれど……

メツーソフは、不思議な感覚を体験し始めたのだと言う。肉のたるんだ、ゴワゴワ眉で巨大な耳と薄青い目のメツーソフは、チェと「恋に落ちた」のだという。「こう言ったんです。『なあ、私はきみより少し年上だが、きみが気に入ったよ。何よりきみのルックスが好きだ』。そして告白したんですよ、彼に対する愛をね。だってすごく魅力的な若者でしたから……彼の欠点は知っていましたよ、いろんな報告書や諜報から。でも彼と話していると、やりとりをしていると、冗談を言い、笑い合い、不真面目な話もして、すると欠点のことなんか忘れてしまった……惹かれたんです、わかりますか? こちらはそこから逃れたくて、身を引き離したくて、でも魅了されたんですよ……目がすごく美しかった。素晴らしい目で、実に深くて、実に優しくて、実に正直で、もうとにかくそれを感じずにはいられない……しかも話し方がすばらしく、自分でも興奮して、その話し方もそんな感じで、ものすごい迫力で、言葉でこちらが絞り上げられる」(p.552)

この赤面ものの告白を、モスクワにでかけて、この元外交官に語らせた!! 旧ソ連の老練なスパイもどきのデブなジジイに! これを聞き出しただけで、アンダーソンの力量は分かろうというもの。すげえ。他のゲバラ関係者の各種インタビューなんかを読むとゲバラについてだいたい良いことしか言ってない。それはイデオロギー的な偏向とか、検閲とか、そんなものもあるだろうと思うのが人情だ。でも、これを読むと、彼が本当にすごい魅力を持った人物だったのは、疑問の余地なくわかる。

多くの人は、上のような彼の個人的な魅力のおかげで、ゲバラについてはいい想い出を語る。でも一方で、ちょっとでも自分の意に沿わない相手に対しては、ひどかったらしい。地方農民の教育活動でも、物覚えの悪い農民を茶化して泣かすほど恥をかかせ、キューバの職場でも職員のその時の事情など一切考慮せず、無神経きわまる発言をあちこちでやらかしている。

その思想:革命滅私奉公の全体主義

そして、こうした細かい記述から、やはり彼の決定的な欠点というのもこの伝記から浮かび上がってくる。

基本、彼は身勝手で、自分がすべて基準だ。すべて革命に奉仕だ、という人物ではあって、その意味で彼は天才ではある。自分で権力や金や女を手に入れることにはまったく興味は無かったのは事実。でも他人にもその基準をひたすら要求し、みんなとにかく滅私奉公で革命に奉仕しろ、国家に奉仕しろ、一夜にしてスチール工場ができないのは革命精神が足りないからだ、というだけの単細胞で、他人がどうだとかいう想像力はほとんどない。土曜もあちこちでかけてボランティアの肉体労働をしていて、工業大臣がそんなことやっていると、役人たちもそれをやらざるを得ず(それにやらないと革命精神が足りないと言って怒られる)、決して評判はよくなかったとのこと。

彼の世界には、ぼくたちが考える「自由」というものはない。革命への奉仕=全体主義なんだけれど、それを批判されると持ち出されるのが「新しい人間」というやつだ。いまは人間が資本主義その他に毒されて堕落しているだけで、革命下の「新しい人間」は、まさに自分の「自由」な判断で革命に滅私奉公するようになるのだ!

結論が完全に決められた「自由」。それ以外のことを考えることさえできなくなった状態での「自由」。日本の伝記や解説書はすべて、これがどんなに恐ろしい全体主義思想かについて、完全にネグってくだらない翼賛しかしていない。

キューバの農業や産業がまったくダメになったとき、各地の社会主義経済学者たちが、多少は私有制とか導入して、働くインセンティブをつけようよ、と提案すると、ゲバラは怒る (彼は工業大臣で、サトウキビ生産も担当していた)。そんなNEPみたいな軟弱負け犬根性でどうする、それは労働者たちの革命精神が足りないからだ、と。現実にあわせて政策を変えたりはしない。政策=思想にあわせて現実を変えろ!

しかも彼の言う革命というのは、打倒米帝の暴力革命だ。暴力革命の後で何をするかについては、まったく腹案はない。革命さえ起これば、革命精神ですべてがうまく行くはずだ、というわけ。

そこらへんの彼の意固地さ、融通のきかなさもこの伝記はうまく出している。そして上に述べた彼の個人的魅力が、こうしたダメな部分をかなり補っていたことも。

思想形成の謎・キューバ革命の不思議

だが、そういったものすごい硬直した思想がどういうプロセスで出てきたのかは、この長い伝記を読んでもよくわからない。二回の南米旅行の途中でアメリカの横暴に対する反発と貧乏人への同情に傾いたというのはわかる。通常の伝記は、それでゲバラは革命の大義に目覚めました、で終わりだ。

でも、その程度ならだれだって多少の義憤をたぎらせるくらいのことはやる。でもそれでいきなり共産ゲリラになったりはしない。なぜゲバラはいきなり先鋭化したのか? この分厚い本を見ても、これはほとんど見えてこない。チリやボリビアの鉱山で労働者の反乱にあったとか、グアテマラでクーデター未遂に参加したとか、そして『モーターサイクル・ダイアリーズ』に出てくる、明らかにソ連からスターリン政権を逃れてきた謎のロシア人の話とか、エピソードは少しあるんだが、それも羅列になっていて、思想が形成されるプロセスみたいなのが、あるようなないような。

明らかに、この2回目の南米旅行で彼は先鋭化している。一つには、グアテマラで会った最初の奥さんイルダ(すでに活動家だった) の影響は大きかったはず。思想的に何を吹き込んだかはわからないけれど、人間関係面では彼女がキーマンだ。あちこちの左派関係者に会わせたのも彼女、カストロに引き合わせたのも彼女だ。さらに、『モーターサイクル・ダイアリーズ』最後に出てくる謎の人物が鍵で、この人物による何らかのオルグ活動/洗脳を受けたんじゃないか、という感じではある。が、その本当のところはおそらく、決してわからないだろう。

あと、カストロとの関係は少しあるようだ。カストロとはDV共依存みたいな感じで、つまんないことでむちゃくちゃ怒られて、その後急に優しくされるというのを何度かやられて、絶対服従みたいな感じになっていたようではある。でもそれが思想形成につながったような感じでもないし……

カストロといえば、キューバ革命そのものについても、はっきりした視点がないのはもどかしいところ。キューバ革命の大きな謎といえば、なんでそれがそもそも成功したのか、というのがある。メキシコからグランマ号で渡ってきた数十人ほどが、なぜ短期間に革命を実現してしまったのか? そしてその中で、カストロゲバラは本当に戦略的、戦術的に優秀だったのか? この伝記を読んでも、そこらへんはあまりはっきりしない。

成功の理由は、カストロゲバラが乗り込んでくる前に、まずバチスタ政権がむちゃくちゃやって、国内の反発が高まっていたこと、そして何よりも、すでにキューバ共産党が地道にオルグ工作を都市部でも農村部でも展開していたことが大きい。カストロたちは、一つはその下地を拝借して使えたために成功した。唯一、かれらの独創といえば、他の反乱軍とちがって(そう、キューバには他の反乱勢もいて、蜂起に失敗している)農村部からだんだんオルグしていった「フォコ」戦略のおかげ、ということらしいんだけれど(その意味でキューバ革命は、都市部プロレタリアを中心としたロシア革命よりは中国革命に近い)、それもきちんと考えてのことなのか、あるいは単に偶然のなりゆきなのか——そこらへんの見立てが、この伝記は弱いので、あるところからは普通のキューバ革命凱旋物語になってきて、不満ではある。

虐殺のゲバラ

あと、これまでのゲバラの評価というと、なぜか人道主義者かそれとも虐殺魔か、みたいな話になってしまう。たとえばこんなの:

synodos.jp

ゲバラに対する批判というのは、ゲバラが革命後に旧政権関係者を粛清したとか、いろんなところで暴力肯定の話をしていたとか、そんなことなんだって。

ぼくはこれがよく理解できない。これが批判だという人は、ゲバラが非暴力主義のガンジーかなんかだと思っているんだろうか。だって、ゲリラ戦士でドンパチやってた人間だぜ。常に暴力革命を肯定した。ソ連に対して、暴力革命をしないと言って批判したし、ソ連が核ミサイルをキューバに設置したとき、それをアメリカに向けてぶっ放せ、と主張した。革命後の粛清は結構すごくて、本書によればさんざんスネをかじられた父親が息子の勇姿を見にキューバにやってきたときも、息子の殺戮嗜好にはドン引きしたとのこと。

ただ、本書を読むと、ゲバラが生来のサディスト殺人鬼ではなかったらしいというのはわかる。それこそ、カストロに気に入られて革命の大義に尽くすために、自ら敢えて自分をそういう立場に追い込んでいったような印象さえある。殺した/殺してないから悪い/いいといった単純な見方を超えた視点が本書にはある。

その最後:故国アルゼンチン革命の夢

で、話は最後に、ゲバラの死だ。ゲバラがなぜそもそもコンゴボリビアにでかけたか、という点については、カストロに煙たがられて国外追放されたから、という説もあったけれど、これはどうもちがうらしい。ゲバラが自分で、国内の行政職に向いていないのを悟ってゲリラをやりたかった、というのが実際のところらしい。

そして、なぜボリビアを選んだか、という点だけれど、これは彼の「ゲバラ日記」=ボリビア日記についての話でも書いた。

cruel.hatenablog.com

なぜボリビアか、なぜそこでジャングルのゲリラだったのか——後者については、ゲバラが単に過去の栄光もう一度と思っていただけ、という可能性が強い。でもボリビアについては、彼が故国アルゼンチンでの革命を目指していて、その足がかりとしてボリビアを選んだ可能性が高い。かつての失敗したアルゼンチン革命の生き残りをわざわざリクルートしていること、そして拠点として、ボリビア・アルゼンチン・チリの国境近いジャングルを選んでいること。

そしてもう一つ、彼がキューバ革命の英雄でありながら、やっぱりキューバにはなじめなかった、という点がこの伝記では指摘されている。コーヒーではなくずっとマテ茶、踊りもできず/せず、食い物もなじまず、ラムも飲まず、とにかくキューバ的な風習には、葉巻以外一切はまらなかった。その意味で彼は孤立していたし、そして極端な革命至上主義はその孤立から生じたのか、あるいはその孤立が革命至上主義に走らせたのか——この伝記はそこも描き出す。

まとめ:長さ故にダレるが詳細な調査の迫力はすごい

というわけで、本書は非常によい伝記になっている。無駄に分厚い面はあるんだが、その一方で無駄だけではない。ものすごい綿密で詳細な調査により、必然的に分厚くなった面が圧倒的に大きい。その後、当時はまだ封印されていたゲバラの各種日記が公開されてしまい、多少ありがたみが薄れた部分はあるが、特にそのすさまじい広範なインタビューが持つ迫力は、他の追随をまったく許さない。

思想形成や、戦略的な評価といった大局的な視点はいま一つ薄い。だが、その調査が浮き彫りにする、ゲバラの人格的な信じがたいほどの魅力、およびそのとんでもない滅私奉公の独善ぶりは、これまでの伝記などで見られる、とても単純かつ純粋な理想主義者というイメージにかなり修正を迫るものではある。

そして本書はそのすさまじい調査により、ゲバラの最期についての決定的な証言を入手し、そのおかげで謎だったゲバラの埋葬場所まで明らかになり、ゲバラ遺体のキューバ帰還にまで貢献した——ここまで対象の現実の運命を左右した伝記というのもなかなかないだろう。

この分厚さで、読むのはたいへん。でも、ゲバラに本当に関心あるなら——Tシャツ着るだけのニワカでない自信があるなら——是非とも読むべき。

 

(なお、ツイッターで、本書の電子版はゲバラが最後に命乞いをしたという下りを圧力により削除したとのコメントがあったが、紙版でもそんな下りはない)

蛇足

全然関係ないけど、去年キューバから戻ってきたときに駅でこいつのポスター見かけてのけぞったんだが、なんか見たいような見たくないような(いや、かなり見たくないなあ)

こんどキューバに行くとき(いつになるのかなあ、コロナはやく終わんないかな)、嫌がらせでこれを持っていきたい気もするが、逮捕されそうな気もする……

マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』:3ページで書ける仮説を引きのばした鈍重な文芸評論

Executive Summary

マクルーハングーテンベルクの銀河系』は、文字、なかでも表音文字の発明が、意味と表現との分裂を招き、それにより人間の意識をも分裂させた、と唱える。それまでは聴覚=全身性の感覚で環境に没入し、環境と一体化していた部族社会的な人間が、距離を置いて見る、見たものを頭の中で考える、という視覚重視の新しい認知環境に置かれた。

これにより、環境/社会とは切り離された、頭の中だけの個人が誕生した。さらにそれがグーテンベルクの印刷術のおかげで、まったく同じものをみんなが手にしている状況が生まれた。これにより、自由、平等、個人、プライバシーといった、まったく新しい社会と人間像が生じた。

議論はもっともながら、その論証はきちんとした論証になっておらず、文芸作品でのちょっとした描写を挙げるだけなので、理論的な説得力はない。視覚的、構築的な理論化を意図的に避け、聴覚=全身性の談話時代のあり方を採用した結果ではある。それが本当によいかどうかは不明。また話は文字と印刷術のみで、テレビや映画メディアの話は、この本ではまだ前面に出てきていない。

本文

ブローデルゲバラに続いて、棚の積ん読消化プロジェクト。お次はマクルーハンなり。

ということで、棚にもう20年は寝ていたマクルーハンを起こすことにしました。まずは、『グーテンベルクの銀河系』から。

が、ブローデルゲバラもそうなんだが、マクルーハンも読んでみるとかなり評判倒れな感じだった。というより、マクルーハンのこけおどしぶりは突出してひどい感じ。

あらすじ:文字ができて、視覚が突出し、行動と思考が分裂した。印刷でそれが社会に広まった。

マクルーハンというと、すぐにメディア全般の話だとみんな思ってしまい、ホットなメディアだクールなメディアだ、人間の世界的な神経系拡張だ、といった話を持ち出してくる。

でも、本書はもっと限定的だ。「グーテンベルク」、つまり印刷術とその周辺が、メディアとして人々や社会に与えた影響を検討する、というもの。だから本書の話は、文字、書物、印刷術というものだけに集中して、電子メディアとかテレビとかの話は出てこない。

彼の仮説はとても簡単。

  1. 昔の人は、あらゆる感覚に全身が包みこまれる、環境と一体化した聴覚的な世界に住んでいた。人間関係も、身の回りのあらゆる人と血縁的、部族的、宗教的その他あらゆる関係を持つようなボーグ的融合生物都市みたいな存在だった。
  2. でも、字ができて視覚だけが突出した。意味とその表現(お望みならシニフィアンシニフィエ)が完全に分裂した。距離をおいて何かを見る、という行為がすごく優位になった。
  3. それにより、人の意識は分裂した。昔は黙読とかできず、言葉を見る=頭で思う=口に出すことだった。ところがだんだん、黙読するようになる。頭の中で起こること(読んで意味を理解する)と行動(読んだことを口にする)ことが分離した。昔は意識と行動みたいな分裂はなかったけれど、文字によってそれが促進された。
  4. これにより初めて「個人」なんてのも生まれた。昔は考える=行動=社会に波及だから、あらゆることが社会化され、個人というものはなかった。でも文字が、自分だけの頭の中の考え、みたいなものをつくり出し、社会と切り離された「自分」というものを成立させた。
  5. また文字の突出によって、人間は記憶を失った。昔は丸ごと小説一つを暗記できた人間は、その能力を失った。かつては知識=記憶=行動=社会だったのが、そうした総合性を失ってしまった。そして一回限りの体験だった語りが、本として外部化されて何度も繰り返せるようになり、人間は体験のリアルタイム性も失った。
  6. (ついでに、マクルーハンは、これが起きるのは完全表音文字のアルファベットだけで、表意文字ではこれは起きず、したがって中国や日本はこうした分裂がなく、相変わらず部族社会に暮らしていると主張している。へーぇ、そうなんですかあ)

ここまでが、文字の出現に伴う文化・社会変化の話。で、ここからが「グーテンベルク」の話になる。

  1. 文字ができただけでは、以上の変化はなかなか起きなかった。写本という形でしかそれが出回らず、数も限られ、それを見られる人も限定されていた。司祭階級と下民ども、みたいな階級分離もこれがあればこその話。
  2. 写本の持つ、個体差みたいなものは、意味と表現の完全な分離を多少は抑えた面もある。
  3. でもグーテンベルクの活字でまったく個体差のない文字と書籍が大量に出回るようになり、上にあがったような話が社会全体に広まるようになった。
  4. そしてかつて写本は、持っている人だけが特権的な存在だった。そしてそれぞれがちがった。でもグーテンベルクの活字印刷で、すべての人が同じ本を持つようになった。それに相対する脳内の「自己」も横並びの存在となった。それがあるからこそ、平等だの民主主義だのがもっともらしさを持つようになった。

おしまい。

さて、ここに書いた話自体は、どれも仮説としてはアリだし、またそんなにむちゃくちゃな話ではないだろう。仮説としては十分あり得る。理屈もそれなりに通っている。

でも、実際にこの本を読む人のほとんどは挫折するし、上に書いたようなあらすじすら把握できない。なぜだろうか? それは一読すればわかるけれど、その書き方にある。何かの裏付けになるとはとても思えない論者や出典からの、何を論証したいのかさっぱりわからない、長ったらしい引用まみれ。読んでいるほうは煙に巻かれて、わけがわからなくなって放り出す。

なぜそんな書き方になっているのだろうか? それはマクルーハンが、まともに一般性のある論証ができない/しない人間だからだ。これについて、マクルーハンは意図的にやっていたらしい。きちんとした説明や理論構築をはっきり拒絶したそうだ。特に本書は構築性を完全に廃し、様々なお話をちぎっては投げるような形にしている。これは視覚文化の構築的なあり方を拒否し、かつての聴覚文化の形を体現しようとしているようだ。

マクルーハンの「論証」:文学サンプリング

では、構築を拒否したマクルーハンのやる「説明」とは何か? マクルーハンは文学屋さんだ。だから、彼の「説明」の大半は、「どこそこの当時の小説に、こういう表現が出てくる」というものになっている。それだけ。言わば文学サンプリングだ。

そんなの、あんまり証拠にならないなんていうのは、言うまでもなくわかりそうなもんだ。まったくならないとは言わない。確かにそれは、一つのサンプルにはなる。他の資料がないときに、それを傍証として使うのはありだろう。でも、決定的な証拠とは……とても言えない。

たとえば、本書ではチョーサー『カンタベリー物語』の話が出てくる。マクルーハンは、それが当時、確立した一貫制ある「個人」というものがなかった証拠だ、という。話している間に、自由自在にいろんな人になりかわり、決まった語り手の視点はなく、そこで話している人になりきってしまう書き方なのは、『カンタベリー物語』が文字以前の口承文学だからで、よって当時は文字による分裂が、少なくとも下民どもの間では起こっておらず、したがって下賤な連中は自意識も個人という認識もなかった、というわけ。

こう言われて、疑問はいろいろあるだろう。いやいまだって、一人何役の語りくらいはやるんじゃないの? チョーサーがやっているだけで、それを文字とかお話とか下民どもとかすべてに一般化できるの?

そして、それに対してきちんと対応する方法はあるだろう。これは当時のベストセラーだったので、こうした書き方が当時は一般に受け入れられていたということが言えるんだよ、とか。あるいはチョーサーだけでなく、同時代の他の小説でも同じような手法がたくさん見られていますよ、とか。でも、マクルーハンはそれをあまりやってくれない。

そして、これはまだマシなほうだ。彼は、ちょっとした文芸作品の中の表現をもって、何かそうした「グーテンベルクの銀河系」(つまりグーテンベルクの印刷術で引き起こされた各種の変化)の証拠だとする。

たとえばシェイクスピアかなんかで「どんな噂が聞こえてきても、あたしゃ自分の目を信じるよ」みたいな台詞がある。するとマクルーハンは「見よ、耳で聞くよりも目が優位だと言ってるぞ! 他の感覚に対して視覚が圧倒的な優位にたってきたことをはっきり示している!」とか言う。

でも、そうかぁ? たまたまそういう表現が、ある一つの文芸作品に出てきただけでしょ? 文芸作品なんて、いろいろ変わった言い回しを工夫するのが身上でしょうに。そこでの表現を、生物的、社会的な変化すべての証拠だとなぜ言えるの? 『テンペスト』の魔法使いお父さんは、本ばかりの世界にはまってしまい、世界の全体性とのつながりを失っている——はい、確かに、でもそれが人類の世界認識や社会関係全体の変化なのだ、と主張するまでには、距離が遠すぎ。

繰り返すけれど、それがまったくダメとは言わない。でもそれだけではあまりに弱いでしょう。そして20世紀初頭の文字/メディア認識の証拠として、彼がしきりに引用するのは、ジョイス『フィネガンズウェイク』。そこには、いろいろ擬音語が出てくるんだ。Bababadalgharaghtakamminarronnkonnbronntonnerronntuonnthunntrovarrhounawnskawntoohoohoordenenthurnuk とか。マクルーハンとしては、これが視覚文化の尖兵たる文字が、聴覚文化の要素 (そして表音文字に対して見た目を重視する表意文字的な要素) を採り入れようとした革新的な取り組みなわけ。

いやあ、そんな大したものかなあ。しょせん擬音表現、擬態語じゃないですか。ジョイスは、聴覚文化だの表意文字表現だのを考えたのかもしれない。でもそれを(それもよりによって『フィネガンズウェイク』を)全人類についての議論の裏付けとして使えるとは、とても思えない。英文科の先生なのでジョイスを持ち出したいのはわかる。が、フィネガンズウェイクに何か出てくるから、というのを現代のメディア環境について何かを語るものだと言われてもなあ。

ラブレー『ガルガンチュア/パンタグリュエル』も、視覚文化の蔓延に対する全身聴覚文化の逆襲だ、と彼は言う。うん、仮説としてはあり得るし、説得力があるかもしれない。そして、それがあの本のおもしろさにつながっている、とは言えるだろう……もしその視覚文化VS全身聴覚文化という最初の仮説に蓋然性があるなら。でもこの本は、そもそもその蓋然性があるのか、というのを論証するはずの本ではなかったの? それがないなら、ラブレーを持ち出しても裏付けにはならない。こういう考え方をすればラブレーのおもしろさも説明できる、と言いたいかもしれないけれど、そういう考え方をしなくても説明できるよね。

その意味で、本書は往々にして、何で何を説明しようとしているのかがひっくり返る。そして結局、ある種の文芸評論をしたいがために人間の認知・社会的な変化についての仮説を述べました、という話になってしまっているところが多々ある。つまり、文芸評論こそがこの本のメインだということだ。

中身に貢献しない引用

そしてマクルーハンはしばしば、すぐに脇道に話がそれて、しかもその脇道で長ったらしい引用をするんだが、脇道なんで議論の本筋には何も貢献しない。

たとえばチョーサーの話でもシェイクスピアの話でも、途中で「このように文字や本が人の認識を変えるという、メディアの人間変容についてこれまでの研究はまったく注目してこなかった。が、『機械化の文化史』のギーディオンはこれを鋭くとらえて……」と書いてそこからすごく長い引用をしてみせる。でも、そのギーディオンやバークレーの主張というのは、なんか自分の言っていることに近いというだけで、それまで語っていたチョーサーやシェイクスピアについての議論にはまったく貢献してませんよね? つまりはっきり言って、無駄ですよね?

でもマクルーハンはそればっかりなのだ。だからこそ、上でほんの10行ほどでまとめたような話が、この500ページもある本にふくれあがっている。

冒頭のメディア談義:実は本書の中身とはあまり関係ない

この本を読んだ多くの人は、冒頭のあたりで挫折することが多い。だから、知ったかぶりでこの本について言及している人は、冒頭の当たりの話しかしない。そしてそこでは、文字や本を離れたメディア全般の話をしている。そしてそこで、どこかの土人に映画を見せる有名な話が出てくる。なかなか印象的だし、みんな冒頭しか読んでないから、この本について語る人の多くは、このエピソードを嬉しそうに紹介する。

議論としては、いろんな感覚の中で、特に文字のせいで視覚が突出してきました、というのが出発点。で、その視覚優位をさらに進めるのは映画。映画は完全に視覚的なメディアだ。でも視覚文化に移行しておらず、いまだに全身性の聴覚文化の中にいる人々——つまり部族社会に生きる未開のドジンども——は映画を見せてもぜんぜんわからないのだ、という。で、マクルーハンはそのエピソードをどこかから引っ張ってくる。進歩的な西洋人たちがドジンに何か教育映画を見せたら、彼らは何が起きているか全然理解できず、教育映画の中身も教えもまったくわかってくれず、「鳥がいた」とか「犬がいた」とか言うだけ。彼らは視覚文化のお作法がまったくわかっていなかったので、映画にも反応できませんでした、というのがその話となる。

これはとても印象的ではある。でも、話の本筋とはあまり関係ないのだ。本書は基本、文字と本についての話だから。ちなみにこの後で、ちょろっとテレビの話が出てきて、テレビは実は全身聴覚性のメディアなんだ、映画とはちがうんだ、と言われる。どうも、映画は何か決まったものをじーっと見るだけだけれど、テレビは自分でチャンネルも変えるし、世界のいろんな話が遠近感覚なしにそのまま感覚器に飛び込んでくるから、映画のような距離をおいて見る感覚ではない、かつての部族社会のように、すべてがリアルタイムで身近で起こる感覚だ、だから映画とはちがうんだ、という。テレビは全感覚的な聴覚メディア、なんですと。

そしてそのテレビなど電子メディアのおかげで、いろんな世界の話がいきなり距離感なしに身近にやってくるようになったのは部族社会の感覚だから、世界は今や村で、よってグローバルビレッジです、ということ。が、この話は次の『メディア論』に譲ると言う。

メディア論―人間の拡張の諸相

メディア論―人間の拡張の諸相

まとめ:結局、そんなにすごいことは言っていない。

ということです。結局、言っている内容は冒頭でまとめた程度のこと。きちんと論証にもなっておらず、仮説の言いっぱなしに終わっているし、むしろやりたかったのは、この仮説を使った各種の文芸作品に対する批評なのではないか、と思えてならない。

言っていることは、ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』なんかとも通じている部分はある。

また、ぼくの好きなニコラス・ハンフリー『喪失と獲得』とも共通する部分もある。たぶん直感としては結構ポイントはついているんだろう。

cruel.org

でもそれをいまありがたがるべきだろうか、というと、そうは思わない。本や字が人間の認知に与える影響にしても、たとえば『プルーストイカ』がある程度それを実証的に示してしまったのを見ると、もはや迫力が全然ないと言わざるを得ない。

ということで、歴史的な価値はあるのかもしれないけれど、いまやマクルーハンのこの本を読む意義は、ぼくはあまりないと思う。彼をありがたがっている人の多くは、単にこのこけおどしにダマされ、意味がわからないのが深遠なのだという変な妄想にとらわれているんじゃないか、とぼくは思う。

さっきも述べた通り、こうしたきちんと説明しない、理論を明確に構築しないやり方は、マクルーハンが意図的にやっていたことらしい。全身性の聴覚文化のあり方を体現した、つまりは理解しようとせず、このいろんな断片的エピソードの山に身を沈めて感じろ、ということだ。Don't think, feeeeel!! そして、それをおもしろく思えないのは山形が頭でっかちに理解しようとしているからであって、こんな箇条書きでまとめること自体が、山形がいかに視覚文化の奴隷になっているかを物語るものでしかない、とは言える。が、ぼくはそれなら奴隷で結構と思っている。相互監視の噂と思いこみと吊し上げの好きな村社会で暮らしたいとはみじんも思わないのだもの。

自分はマクルーハンの文章からあふれでるデムパをビシビシ感じとり、そのメッセージを感得できるのだ、と言いたがる人もいるだろう。でも、ぼくはそれが衒学趣味の、わからなさをありがたがる歪んだ心の働きである可能性のほうが強いとは思う。別に聴覚文化の奴隷になったからって、何か偉いわけではないのだもの。逆に、あなた本当にプライバシーも自由もない何も変化のない退屈な社会に戻りたいの?

そうそう、マクルーハンのもう一つの詐術は、はっきりとは言わないくせになんとなく、視覚文化<<<全身聴覚文化、みたいな雰囲気を漂わせることだ。メディアに冒され、視覚ばかりを優先し、合理性と効率ばかりに走り、全身の感覚や世界との結びつきを失った哀れな現代人よ、みたいなニュアンスが到るところに顔を出す。そうした反文明的な物言いが、おそらくはかつての (そして今の) マクルーハン人気にも影響しているんだろうね。

が、まあ結論を出すのは、次の『メディア論』を見てからにしましょうか。

ブローデル『都市ヴェネツィア』:お気軽なフォトエッセイ

Executive Summary

お気軽なフォトエッセイ。『地中海』の碩学だがそうした面は軽く触れるだけで、個人的な思いでと文芸的な位置づけ、その文化への憧憬と将来展望を簡単にまとめて、奥深さを持ちつつもさっと流し読みできる。

本文

手持ち消化で。お気楽なフォトエッセイで、ささっと流し読みできる。

ヴェネチアは『地中海』の中でも重要な役割を当然果たし、地中海とともに発展して地中海とともに衰退したところではある。スペインとトルコが争う中で漁夫の利を得て、北からの人や物の流れと南からの人や物の流れが公差するという地理的な優位性により成立した都市。『地中海』の中でも、ヴェネチアのライバルはジェノヴァなんだけれど、地図を見てもらえばわかる通り、ちょうどイタリア半島をはさんで反対側にある。同じ地理的な優位性により成立してたのがとてもわかりやすい。

その後、世界の中心ともいうべき存在は、地中海の衰退とともにヴェネチアを離れ、スペインをかすめて、アントワープアムステルダム、さらにはロンドン、そしてその後ニューヨークへと移行したのだ、とブローデルは書く。なぜ、というのを彼は『地中海』でもあまりはっきり書かなかったし、そこらへんの事情は本書でも明言されない。

が、そもそもこの本はあんまりそういう話はせず、私的なヴェネチアの想い出、各種小説や歴代文化人の描いたヴェネチア偏愛の紹介、そしてこの町に成立していた奇妙な形の自由 (仮面つければなんでもありのお祭りとか)、そしてその周辺工業化に伴う環境変化と、観光客増大に伴う純粋な地元民減少への危機感が描かれ、国際的な文化都市として準独立みたいな地位を与えて生き延びる道があるかも、と示唆しておしまい。

1984年に書かれた本で、半分は懐古趣味だけれど、もちろんそこいらのタレントやライターどものフォトエッセイなんかとは格がちがう代物。あちこちにある井戸、ちょっとした建築の特徴、縦横に駆使される文芸的な引用など、お見事。また行きたくなるねー。

写真はプロのカメラマンによるものだけれど (がんばってエッセイ書いてる)、そんなすごい感じはしない。ヴェネチアそのものだけでなく、かつてその繁栄を支え、いまは廃墟になった周辺地区まで映しているのは、ちょっと楽しいかな。

あと、2019年暮れとかも、ヴェネチアが50年ぶりの高潮で水浸しになって、ほら温暖化で海面上昇だやべーぞ大変だぞ、と意識の高い連中が騒いでいたけれど、本書を読むと、これは昔からヴェネチアの宿痾で、そもそもが砂洲に杭打って家を乗っけてるので常に沈むのは宿命で、特に地下水に頼っていた頃はそれが顕著で地盤沈下しまくり、高潮はいつものこと、だから一階はすべて使用人部屋で、ご主人様たちは二階以上に住むのが普通なのだ、というのがわかる。

それで思い出したけど、2014年のヴェネチア建築ビエンナーレの日本館を手伝うと言いつつほとんど何もしなかったんだけれど (早稲田大学中谷礼仁がほぼ全部仕切った)、せめてものご奉公で、各国パビリオンで行うシンポとか対談とかにいっぱい出たんだが、そこで「温暖化やばいぜ」とわめくアメリカの建築家とけんかになり、「十年後にはこのベネツィアも沈んでビエンナーレもできなくなる!」と言うので「沈まねーよ、沈んでたらおまえを移転先のビエンナーレにファーストクラスで招待してやる」と言ったら「上等だ、じゃあ沈んでなかったらオレがヴェネチアまで招待してやる」と答えやがったっけ。あと4年か。その頃にはコロナもおさまって、また行けるようになっているだろうなあ。あいつ、誰だっけ。

そういえば、このはてなブログで「アマゾン商品を挿入」でヴェネチアを検索すると、陣内秀信の本がたくさん出てくる。彼は(あのあごひげがカッコよかったこともあるし)一時もてはやされていた若手だったけれど、最近はずっとえらくなっているんだろうなあ。