ホール『都市と文明』II-1:工業技術イノベーション都市の理論なんだが、何も言ってないに等しい。

Executive Summary

ピーター・ホール『都市と文明 II』は、産業イノベーション都市の理論のはずだが、まず冒頭にある産業イノベーションや都市立地の理論のまとめがあまりに雑でいい加減であり、したがってその後の各種都市の記述にとってのフレームワークを提供できていない。おかげでその後の長ったらしい都市紹介は、長いだけであまり整理されないまま。

さらに記述は都市そのものと関係なしに、蒸気機関の話だったり各種文化産業の話だったり。そして結論も、イノベーションは周縁部で起きて、そこにある自由と周縁的な人びとや移民がチャンスを与えられたときに生じる、といった非常に一般的なものとなっていて、長々とした都市の歴史記述の意義はなおさらはっきりしない。結局、これだけの長さを読んであまりそれに見合う知見が得られたとは言いがたく、本として成功しているとは思えない。


前回の続きです。

ピーター・ホール『都市と文明』IIの最初の7割は、都市における技術革新の話となる。が、I巻で挙げた欠点はさらにひどくなる。ものすごい飛ばし読みになったが、こんな分厚い本をキューバに持っていく気はしないので、とにかく備忘録的にまとめておく。

こう、そもそもI巻を「文化」と称して高踏芸術の話だけにして、その次を工業や技術革新の話にするという分け方自体がかなり問題が多く、この人のお高くとまった価値観を示したものではある。文化というと、少なくともぼくの感覚では旧石器文化とか縄文文化とか、ある種の生産手段を中心とした社会のあり方があって、高踏文化なんてそこに咲くあだ花だ。

が、それはまあ趣味の問題として、工業の話だ。それこそ集積やインフラなどの交換その他に基づく様々な話が、経済学でも地理学でも社会学でもたくさんある。それをまずはきっちり見てくれるんですよね!

ところが。

見てくれないの。

ここでも、まず彼が中見出しをたてている項目を挙げよう。

  • 新古典派経済学:経済地理は静態的だからダメ。アラン・スコットは輸送費用だけでなく革新についての動的な記述を入れたのでエライ。内生的な集積要因があるのだ。

  • シュンペーター:発展や集積をもたらすコンドラチェフ波動に注目したのでエライ

  • ペローの成長概念:寡占的企業が経済成長を生み出すのに注目してエライ

  • エダロの革新的環境理論:各種要素の相乗効果を重視したのでエライ

  • カステルの情報都市:情報のフローが革新を生み出すから地理にとらわれないと主張

  • ポーター、クルーグマン、パットナム:近接性が情報集積を生み出すことに注目したのでエライ

これだけ。

これだけ???!! 都市の産業発展についての理論がこれだけ??!!

正直いって、都市の産業集積と経済発展の理論のまとめとしてこんなものしか挙がらないなら、ぼくはホールって何もわかってなかったのではと思わざるを得ない。

フォン・チューネンやクリスターラーやアロンゾみたいな、初期 (1950年代まで) の経済地理や産業立地論が輸送費に注目した静態的な話しかなかったのは事実ではある。でもそのの不十分さは当人たちがいちばん知っていて、かなりがんばっていろいろ試みていたし、それを受けてクルーグマンとかも自分の空間経済学を構築していったのになあ……

ちなみにクルーグマンの空間経済系の参考文献で挙がっているのは「経済発展と産業立地の理論」だけ (!!!!)。あれだけをもとにクルーグマンの空間経済学理論を語ろうとするのは、あまりに無謀というか、それで語れるわけないじゃん。付け焼き刃を疑わざるを得ない。

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シュンペーターの話も、景気循環がイノベーションの原因なのだという捉え方をするのは逆さまじゃないの? イノベーションが起きて、前のが行き詰まって停滞する中で新しいものが受容されて前のものを破壊するプロセスにより、景気循環が生じる、というのが彼の理論じゃなかったっけ?

また経済学も、産業立地論しか見ていないというのはどうなのよ。

しかし新古典派のよく知られた限界は、ここにおいても、そしてより一般的にも静態的であることである。それは、異なる時代に、異なる場所で、産業の消長をもたらす動態的な力への関心がない。同一の産業において、ある企業がある地域またはある国において衰退あるいは消滅する可能性があり、また他の企業は別の場所で堅実に成長し(中略) それらがどのように起こるかについて説明しない。(p. 668)

ちがうと思うなあ。少なくとも国レベルの話では、これはまさにアダム・スミスが考えてきた古典派/新古典派の核で、リカードもサミュエルソンも全部この手の話をしてると思うんですが……

さらに彼は「英系アメリカ人のアラン・スコット」がつくりあげた生産複合体と呼ぶところの理論の話をする。「彼はこれら古い理論と、1980年代に非常に流行したマルクス経済学による全く新しいアプローチとを結合させることによって」その理論を構築したんだそうな。

アラン・スコットってだれ? この人の理論についての話が5ページにわたって続くんだが、まったく要領を得ない。そして1980年代にマルクス経済学が流行った?

ぼくは一応、この手の話はそこそこ知っているつもりだったので、マル経方面で経済地理や産業立地的な話が1980年代に流行ったと聞いて焦っていろいろ調べてしまいましたよ。その結果……

まず、この人物は「アラン」スコットではなく、「アレン」スコット。これ、翻訳のミスなの、それとも原著? (その後確認しました。もちろん原著は正しく、翻訳のまちがいです) UCLAの人ね。この人なら知ってる。でも彼がマル経の影響受けてるってホント?

マルクス主義者による分析によれば(中略)資本主義体制は周期的な危機の中にあり、競争は激化している。そしてグローバリゼーションは生産の海外移転を容易にする。(中略) このように、かつて産業が発達した地域や国では産業の空洞化が生じ、残された企業は労働力を必要としない生産方式を発展させた。

1998年で? 大中庸時代で資本主義かなり安定と思われていた時代に? どうもここでの書きぶり、レギュラシオンの連中とかウォーラースティン一派とかが念頭にあるようなんだけど、うーん。そんな大した思想潮流だったとは思えないんだよね。

そしてその他のペロー(知りません)とかエダロ (同じく知りません) とか、カステルとか (つまんないと思う)、たまたま自分がちょっと考えていたような概念を挙げたというだけで入れているけれど、都市の理論として大きく採り上げるべき存在だとは思わない。というか、まあぼくの認識不足もあるだろうし、そしてぼくが知らない偉大な論者も当然いるだろうし、そういうのをきちんと挙げてくれるなら、とてもありがたい話ではある。ただ、ぼくも決して完全にこの分野に無知なわけではない。その人間に「なるほどこの人は重要なんですねえ」と思わせる程度の説明がないとなると、一体これを読んでだれが納得するの? これ、だれにどう読んでほしいの?

だれかの理論や視点が優れているというなら、それは何なの? 地域の中で情報集積やスピルオーバーがあったとか、文化的なつながりがとか、いろんな要素はあるけれど、結局都市は複雑なので、いろんなことが言えるのは当然だ。そこで考えるべき「都市」というのがどんな規模なのか? 彼等の理論で何が言えて何が言えないのか? そして何より、そうした理論の展開によりどんな枠組みが生まれ、この本ではそうした知見を得てどんな視点から各都市を見ていくのか? それをきちんとまとめてほしいんだが。でも、まったくなし。

こうした、理論的な枠組みや視点がきわめて不安定なので、各都市の記述もすべて、あれもあるこれもあるの総花記述になって、結局何が言いたいのかはまったく見えない。

でもいろいろ見た結果として何かすべてに通じる考え方が出てくるんだろうか? いいや。何もないんだよ、それが。第2部最後のまとめを見ても、こうした工業技術イノベーションによる都市発展みたいなものについての新しい知見はまったく得られない。周縁的な都市が最初は中心で、最初の連中は落ちこぼればかりで、中小企業からはじまりました、地元ネットワークが強く、自由があったので発展しました。でも新しい変化についていけないと落ちぶれます。そんな話。こんなに延々とあれこれ読まされてきた挙げ句、出てきたのがこの程度の一般論だと、腹がたちませんか? ぼくはふざけんなと言いたくなったわ。何も言っていないに等しいではないの。

そして日本の東京圏はすばらしい他とまったくちがう国家主導の長期的ビジョンを持った選択と集中による発展モデルであり、といった話は、いま読むと鼻白む。1998年時点でも、日本の没落は見えていたと思うけどなあ。

この第2巻では、第三部の大衆文化の冒頭も出てくる。でも、この時点でこの本が、いったい都市の話をしたいのか、何やらそのあたりで発達した文化産業現象の話をしたいのかまったくわからなくなってくる。読んでいて、都市というある物理的な実体に根付いた記述という感じが、これまでの部分でも全然しないのだ。文化の話だと、文化の話ばかりになる。マンチェスターの話ではワットの蒸気機関の話がいろいろ出てくる。でもそれがなぜここなのか? それが地元の風土なり環境なりインフラなりにどう関連していたのか?

産業そのものの話にしても、シリコンバレーの解説はサクセニアン『現代の二都物語』の引き写しにしか見えない。他の都市の説明に関してもそうなんじゃないか、という疑念はぬぐえない。すべて孫引きだというのはホール自身が冒頭で認めているけれど、でも材料は他から持ってくるにしても、彼なりの咀嚼はあるべきだと思うけれど、咀嚼のない羅列に終わっていると思う。

(あと、参考文献の邦訳資料の上げ方の雑さはちょっとすごい。『現代の二都物語』は大前訳が上がってるとかポラニー『大転換』も古い訳だとかケインズが何一つ挙がってないとか、さんざん時間がかかっているのでもう少しなんとかできたんじゃないかと思うんだが。ついでに、翻訳も最初は大目に見ていたが、だんだん中身への苛立ちもあり、直訳ぶりがカンに障るようになってきた。あと、agglomerationを凝集と訳すのはやめてほしい。ふつう、集積でしょう)

これから第3巻がでてきて、そこに入っているはずの第四部は見所があるらしいんだけれど(とマイケル・バティが述べていた)、いまやぼくは何も期待していない。が、一応ケリをつけるために目は通します。ではそのときにまた。

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付記

でもさあ、一応はイギリス都市計画の大家たるピーター・ホールの本だし、ぼくもそろそろマンフォードに代わる古典として翻訳したほうがいいんじゃないかとか、どっかで書いた覚えがあるし、責任感じてこんな税込み7000円超の本を二冊も自分で買ったんだよー。もっと費用対効果とか、それなりに得るものほしいよう。

ホール『都市と文明』I:文化芸術の創造理論なんだが、出た瞬間に古びたのはかわいそうながら、それ以前に認識があまりに変では?

Executive Summary

ピーター・ホール『都市と文明 I』は、都市がイノベーションの場だからえらいのだ、という結論ありきの本。第一巻では、高踏文化に見られる創造性がテーマとなっている。しかし冒頭にある創造性の理論のレビューがあまりにショボく、その後の各種都市の記述に必要な枠組みが提示されない。

そして結論も、文化芸術の発達のためにはある程度の人口集積が必要で、それから社会経済環境が急変していて、異質な人びとがたくさん入ってきたけれど疎外されていて独自文化を発展させるようなときに、大きな創造性が生まれるんだ、というもの。500ページ読んで得られる知見としては不満と言わざるを得ない。


ルイス・マンフォードの大著『歴史の都市 明日の都市』にかわる総合的都市論となるべく、都市計画の大家とされるピーター・ホールが満を持して発表した大著『都市と文明』の三分冊その1ではある。

まずこの本、1998年に出ていて、基本的なテーゼは都市が創造力によって文明の原動力となっているよ、という話。それ自体は、異論はないんだけれど、それって70年代から80年代にジェイン・ジェイコブズがかなり強く主張していたことで、出た当時もいまさら感はあったと思うし、都市集積の重要性に関する理論もどんどん出ていた頃だ。

そして、出て数年後にはリチャード・フロリダのクリエイティブ階級云々が出てきてしまった (2002)。ぼくはこの本、あまり感心してないけれど、でもまあそういう考え方を普及させたのはまちがいない。過去の都市をほじくりかえすまでもなく、いまのアメリカの都市が創造性を生み出し、という話があるならそっちのほうが興味をひくよね。

そして冒頭で理論的なまとめをホールは試みるんだけれど……これがさっぱり意味不明。

この第一巻では創造性といっても文化的な創造だけに注目するんだそうな。だからアーティストの創造性の研究の話ばかり。美術とか文化とか。まあ経済の話は第2巻だから、それはそれでいいのかもしれない。しかしそれを勘案しても、本書で採り上げる既往研究は変なのばかり:

  • ハワード・ガードナーの創造性研究:天才は異質な環境の中でひらめきを見出す、と主張したそうな。

  • マルクス主義の主流派:中身の説明はなく、創造性との関係も説明なく、主流派は無視していいとの一言。アドルノベンヤミンだけはいいんだというけど、そのどこがいいのかは言わない

  • ポストモダニズム:中身の説明もなく、単なるマルクス主義の一派とされて「文化あるいは芸術の革新についての革新的な論点がない」と否定されておしまい。

  • イポリット・テーヌの理論:だれ? 聞いたこともない。なんで特筆されているのかさっぱりわからない。芸術家にとって自由と新しい環境の重要性を指摘した、というようなところらしいが意味不明

  • クーンとフーコー:クーンのパラダイム論は、科学の話より芸術の話だそうな。フーコーは、それまで支配的だった体系からの断絶を重視したのでポモの有象無象とはちがってえらい、というが具体的にそれが創造性とどう関係しているのか説明なし

  • トルンクヴィストらの創造都市:情報と能力と知識のからみあいで創造的環境ができるのだと述べたとのこと。

いや、経済学とかないの? 芸術論とかもうちょっとあると思うよ。天才の分析とか、他にもたくさんあるんじゃない? 教育学とか心理学とか、もっといっぱいあると思うなあ。異質な文化同士の衝突で新しい文化運動が生じる、なんて話はいくらでもあるんじゃないかなあ。ルネサンスがなぜ生まれたか、とかさあ。個人の創造性や天才の話もいろいろある。都市や地域の文化的な発展についての話もいろいろある。ブローデル『地中海』だってそういう話ですわな。でもホールはまったく挙げないで、なんかすごく偏った採りあげ方をする。これってどうよ。こんな百科事典みたいな本で。

さらに説明の仕方もひどすぎる。過去の理論を説明するなら、「この人は創造性についてこんな主張を行いました。それは従来のに比べてこんな点が優れています。でもこんな不足があります。別の人はそこのところは成功したけれど、こっちに不足がありました。私はそれをあわせて本書のアプローチにします。目新しいでしょ」というふうにやってほしいんだけれど、それが皆無。マルクス主義が何をしに出てきたのか、まったくわからん。マルクス主義の主流って、出てきた瞬間に「見るだけ無駄」と言われるんだけれど、それならなんでそもそも言及してるの? ポモは創造性の理論においてどんな特徴を持っていたの? イポリット・テーヌって、聞いたことないけどなんで特筆されてるの?

その後のくだくだしい記述を見ると、どうもマルクス主義は、下部構造が上部構造を規定して、下部構造変化により人びとが創造活動をするような新しい環境をつくるのだ、というようなニュアンスで持ち出されているらしい。さて、そもそもそんなものを創造性の理論として持ち出すべきなのか? ある種の傍系理論として出すならまだしも、創造性の理論としてまっ先に採りあげるべきなのか? しかも、ろくに説明もせずに一蹴してしまうのに、中見出しを立てるほど重視すべき理論なのか? そんなあたりについて説明まったくなし。マルクス主義がもっと力を持っていた60年代なら、こういうやり方もあったのかもしれない。でもすでにベルリンの壁が崩壊した後でそれを真面目に考察すべきだったんだろうか。ホールはそれをまったく説明していない。

ポストモダンも、「現実は幻想だという理論だ」と述べて、ビデオドロームとか挙げるが、それが創造性の理論としてなぜ特筆すべきものだったの? 一切説明なし。ただ、おもいつきの無力な理論、フランス知識人が己の周縁化に危機感をおぼえてでっち上げた変な理論だ、と述べるだけ。それ自体は同意するけど、それなら中見出しをたてて言及する必要はまったくなかったのでは?

マルクス主義理論なんか出さなくても、本書で挙げているアテナイだのフィレンツェだので、パトロン文化があったとか商人同士の文化的な競争とか、文化芸術が発達する理論なんていくらでもあると思うんだけど、そういうの触れないの? 触れないんだよねえ。

そして本書のテーマである都市との関連性があまりに薄い。一巻の最後では、文化芸術の発達のためにはある程度の人口集積が必要で、それから社会経済環境が急変していて、異質な人びとがたくさん入ってきたけれど疎外されていて独自文化を発展させるようなときに、大きな創造性が生まれるんだ、というまとめになる。うーん。500ページ読んでそんだけかあ。

出た直後から創造性への注目が進んで、理論もたくさん出てきて、本自体が出た瞬間に古びてしまっていた面は大きい。でも、1998年ですら、創造性についてこんなショボい理論しかなかったはずはないし、それを把握できていないホールの本って、大丈夫なんだろうか、と思ってしまうのは人情だと思う。

二巻についても、あまり期待はできない。一巻は、芸術的な創造力が花開いた都市を扱い、二巻では産業的な創造性の話になるので、二巻では経済学的な知見も少しは出るんだが……少し。しかも、そこでも1980年代の理論の話をするときにマルクス経済学がどうしたこうした言ってて、ちょっと信じられない。基本的な認識がゆるいうえに、大山鳴動して鼠一匹羊頭狗肉になるのはかなり見えているので、そういう偏見を持って読むしかない。

原書はもっていたけど重いし鈍重で読むのをやめてしまったんだけれど、最後の三巻のまとめはいいようだ、とマイケル・バティが書いているので、それに期待するかな。でもそれも三月まで出ないようなので、ホールが期待を良い意味で裏切ってくれたか、そのときに書きましょう。ホールは、本書があまり評判にならなかったのでがっかりしたようなんだけれど、正直言って、これでは仕方ないな、とは思う。

いずれ、彼が都市計画の思想史としてあげたCities of Tomorrowについてまとめようとは思うけれど、ざっと昔に読んだ印象では、やはり同じ病気に冒されているとは思うんだ。

ゲバラ夫人対決! 教条主義イルダ VS ファッション至上アレイダ

Executive Summary

チェ・ゲバラは2回結婚している。二人とも、回想記を書いている。

最初の奥さんイルダ・ガデアは、ずっと年上だがペルーで過激派の重鎮だったため追放され、ゲバラをグアテマラとメキシコで急進的なマルクス主義勢力と接触させた人物。完全にガチガチの左翼過激派で、回想記もその教条主義文書でしかない。(というより、ゲバラ側はまったく惚れておらず、都合のいい金とセックスの相手としか思っておらず、結婚もできちゃった婚ですぐに離婚するつもりだったというひどい話で、ロマンス部分は思いこみ=創作が多い模様)

キューバで結婚した奥さんアレイダ・マルチは、革命軍に参加するプロセスは実にありきたり。ゲバラとの出会いと愛情が深まるプロセスみたいなのはある。でもどこへいってもファッションをまっ先に気にする普通の女子だったことが露骨にわかるし、またずいぶん嫉妬深くてオフィスのかわいい秘書を追い払ったりしていて、ほほえましくはある。が、目新しい話がわかるわけではない。


チェ・ゲバラは2回結婚している。その二人ともがゲバラをめぐる回想記/伝記を書いているので、まあゴシップ的な興味から比べて見た。

イルダ・ガデア:共産主義前衛の教条主義的結婚

最初の奥さんはイルダ・ガデア。ペルー出身で、暴力革命を目指す人民同盟(アプラ党) の重鎮だったために追われてグアテマラに政治亡命して、そこで最初にゲバラに出会い、その後さらにグアテマラからも追放されてメキシコに逃げ、そこでゲバラに再会し、結婚に到っている。彼女の記録が次の本。

いまの説明でわかる通り、彼女はガチガチの左翼だ。この本も、最初から最後までその調子。人民のためにどうこうの、圧政がどうした、という話。だから、読み物として決しておもしろいものではない。ちなみに、彼女自身の経歴とか出自については何も書かれていない。(巻末に、彼女の弟が簡単な略歴を書いている)

さてゲバラはグアテマラでもメキシコでも彼女にしょっちゅう会いに行くんだけれど、それは彼女がまさに左翼だったため、それにあこがれていたゲバラが興味を持ったから。それで、ずっとマルクスとか社会主義とか、サルトル思想について議論をしている。また人脈はそれなりにあった。

で、ゲバラはあるとき彼女に、恋愛感情ぬきでいっしょに中国に行こうと言って、それからしばらくして、いきなり健康状態を尋ね、結婚しようと言い出す。

普通さあ、何かロマンチックなプロセスとか、いっしょに月を見たりとか、ほのめかしとかあるじゃん。そういうのほとんどなし。

……と思ったら、エルネストくん側の日記を読むと彼はぜんっぜんイルダなんかに興味はなく、「セフレならいいが本命はないよ」とか「束縛してきてウザイ」「形ばかり一発やってやった」「彼女はまだ国を出られないから、それを利用してすっぱり別れてしまおう。明日、告げたい人全員に別れを告げ、火曜にはメキシコへの大冒険が始まる」と、もうさすがにあまりにひどいことが平然と書かれていて唖然。たぶん本当にそういうロマンチックなプロセスはなく、イルダが必死でなんとかこじつけていただけなんだろうなあ。(2023/09/10)

で、そのときはお流れになって、でもその直後にまた結婚しようと言われ、女性にとって結婚とは何か、社会発展への貢献はとかいう話をして結婚。そのときくれた詩には、自分が求めているのは美しさだけでなく、仲間意識もだ、と書かれていたそうだ。

なるほどねー。明らかに青臭い左翼的な、人間の価値は外面的な美しさではなく革命意識なのだ、といったお題目から結婚してるね。年齢的にもイルダのほうが7歳だか9歳だか上。

グアテマラでは同棲まではいったけれど、その後イルダがグアテマラから追われ、別々にメキシコに流れる。一時二人は疎遠になり(ゲバラが水着女性の写真を持っていたからだって)、そしてそこでカストロたちとであう。

二人が正式に結婚したのは、このメキシコでのことで、妊娠が判明してから。で、こんな一家ができあがった。

イルダ・ガデア&チェ・ゲバラが赤ん坊の娘を抱いて家の前の階段にすわっている白黒写真
イルダ・ガデア&チェ・ゲバラと娘

が、結婚そのものは本当にゲバラの本意ではなかった。そのときのゲバラの日記は、あまりに正直というかひどい。 「それは落ちつかない話だった。(中略) これは彼女にとって劇的な瞬間だが、私には重苦しい。結局彼女は思い通りにするだろう――私は短期間と考えているが、彼女はそれが生涯続くのを望んでいる」(2023/09/10)

ゲバラが投獄されたりで、グランマ号での出発までに紆余曲折あったけれど、なんとか見送って二人はわかれ、彼女はペルーに戻る。そして革命成功後にキューバにいったら、他に女がいるといわれて離婚。

ちなみにこのとき、カミロ・シエンフエゴスがものすごく気をつかってくれたとのことで、彼は本当にいいヤツだったんだなあ。

全体として左翼過激派の亡命生活と世界革命を目指す話で、ゲバラはその一エピソードでしかない感じ。心理的な葛藤とか、少しうかがわせるようなところもあるんだけれど、でも全部革命と解放のための戦いや思想的ナントカに回収してしまう。それはゲバラ側も同じ。最後に、ゲバラの書いた詩とか娘への手紙とかが収録されていて、そこらへんはイデオロギーに回収されない、ちょっといい感じなんだけれど、それも一瞬で終わる。まあ、グアテマラからメキシコ時代のゲバラについて興味があれば、という感じだけれど、まったく目新しい話というのは出ていない模様。

全体としてみると、思想的にそんなに急進的ではない。グアテマラでは、むしろ社会民主派的な穏健派だったが、その後ゲバラの妻というアイデンティティを確立するために、この本では後付で暴力革命肯定の態度を捏造した可能性が高い。(2023/09/10)

アレイダ・マルチ:ファッション至上の普通の女子

アレイダ・マルチは、キューバ革命の中で出会って結婚した女性。本としてはとてもつまらない。彼女の生い立ちから反乱勢に加わって活動するまでの話は、別にねえ。普通に学生して、だんだんバティスタの圧政に疑問を感じて、というありがちな話。

まず、山の中のゲバラに届け物をしたときに初めて出会って、いっしょにピストル打ちに行こうとか誘われたりして、他の男のナンパを避けるためにもチェに接近しつつだんだんひかれ、奥さんがいると言われてショックを受けて、でも革命のためにその後も働いているうちに手を握られて、お互いの愛を確信した、とのこと。イルダ・ガデアのものよりは、彼女のほうの心の動きが少しはうかがえておもしろい。

そしてついに、チェ・ゲバラから奥さんと別れる決意を告げられて二人は結ばれました、というわけ。

でもイルダ・ガデアの話によると、キューバにきてみたら、他に女ができたという話をゲバラにされて、向こうは離婚に難色をしめしたけれど、イルダのほうが決然と三行半をつきつけた、という話になっている。どっちが本当なのかね。まあゴシップだけれど。

でも全体として、アレイダ・マルチの頭の悪さと浅はかさみたいなのが露骨に出ている本で、いささかゲンナリさせられる。彼女は、いろいろキューバの政権に殉じた話をしてみせるんだけれど、でも彼女がいちばん関心あるのは常にファッションであり、容姿なのね。

まずイルダ・ガデアがキューバにやってきたときのことを、アレイダ・マルチはどう書いているだろうか?

私たち二人は紹介されませんでした。彼女の脇を通ったときに様子を探ってみました。それまで私が想像していたイルダのイメージはすべて崩れ落ち、私のエゴが強まりました。この人はまったくライバルになりえないと確信したのです。(p.137)

こっそり見たらブスだったから、あたしが勝ったと確信したわけね。これを正直に書くというのがすごいよな。ふつうはこう、なんかもっとあたりさわりなく、立派な女性でチェの人生の一つの道標だったと感じられたとか、勝利を確信したならなおさらもっと余裕かましてほしいなあ。だって、外見では勝負にならないことくらい、高らかに宣言するまでもないじゃん。

アレイダ・マルチ&チェ・ゲバラ、結婚式の白黒写真
アレイダ・マルチとチェ・ゲバラ

で、その後にゲバラが農民をすべて政府配下に置くためにつくったINRAの事務所でのエピソード。

初めて事務所に行ったとき、それまでのチェの話とは違い、素敵な、当時の流行のスタイルをした若い女性に遭遇しました。驚きました。(中略) 当時のINRA長官ヌニェス・ヒメネスの奥さんのルーバが秘書として連れてきたのです。すぐさま彼女を追い出そうとしました。チェの秘書は私だけだからです。同志たちはみな、この秘密を守り、私はその決定には関係ないというふりをしてくれました。(p. 156)

この事件はアレイダ・マルチが嫉妬深いというふうに、チェ・ゲバラ当人を含むあらゆる人に理解された。いや、いま読んでも明らかにそうだわ。まっ先に気にしているのは彼女のファッションと年齢だもの。ところが彼女はそれがたいへんにご不満だった模様。その後、タンザニアに行ったときにまでその件についてチェ・ゲバラに弁解し、その子の能力不足のせいだったと納得してもらったというんだけど、ウプププ。そんなの会った瞬間にわかるわけないじゃん。

ハバナに入ったときも、まっ先にやったのは服をあつらえて美容院にでかけてハバナのファッション視察。別に悪いことではないけれど、それが記述の冒頭にくるというところに、彼女の優先順位ははっきり出ている。

中国にいったときも、みんな同じ服きていていやだと思った。プラハも、ゲバラは売春婦がいるのを非常に嫌がっていたけれど、アレイダはみんながすごく素敵なファッションだというのがまっ先にくる。ゲバラは、出張時に指輪とか宝石を買ってきてくれるようなことを言っていたけれど、毎回「国のお金を私欲のためには使えない」といって先送りにしていた。それがアレイダ的にはずいぶん不満だったみたい。

本当に、それがいけないわけではない。キューバ革命の重鎮の奥さんという役割を担わされて、いっしょうけんめいそういうことを言っては見るものの、彼女はとてもふつうの女の子、ではあったわけだ。ひょっとしたら、ゲバラもそういうところに惹かれたということなのかもね。それと、彼女の容姿と。

そうしたプライベート以外の部分は、まあ彼女が公式プロパガンダ以上のことを自由に書かせてもらえる立場かどうかも、当然考えつつ読む必要はあるよね。

ということで、どっちも読む必要はまったくない。あと、アレイダ・マルチの娘が来日してキューバのプロパガンダをしまくったのを記録した本があるけれど、これはホント、積極的に読まないほうがいいくらいの代物。

付記

ちなみに、アレイダ・マルチで検索すると、この写真がいっぱいでてくる。

「チェ 28歳の革命」でアレイダ・マルチを演じているカタリーナ・サンディーノ・モレーノ、ドアの前で軍服で自動小銃を持った写真を白黒に変えてあるもの
アレイダ・マルチ、を演じたカタリーナ・サンディーノ・モレーノ
おお、尋常ではない美女だなあ、と思っていたが、よく調べたらこれ、ベニチオ・デル・トロ主演のチェゲバラ伝記映画で、カタリーナ・サンディーノ・モレーノがアレイダを演じているだけなんですねー。

ローレンツ『諜報員マリータ』:信じられないほど頭と股のゆるいカストロ愛人

Executive Summary

マリータ・ローレンツ『諜報員マリータ』は、カストロの愛人になり、その後殺されかけ、CIAの手先として暗殺作戦に使われて未遂に終わり、その後ケネディ暗殺にも関係していたという、波瀾万丈の女性の自伝。

だが常に股はゆるく、男とすぐに寝て二股三つ股かけて、しかも諜報員として作戦行動を何一つ成功させたことがないくせにあちこちに参加して、それでいて自分が有能と思っている人物の話。政治的背景とか思想、人間関係、その他まったくといっていいほど洞察力や観察力はなく、目の前で見たことをそのまま羅列するだけなので、読んでも得るものは何もない。


マリータ・ローレンツ。ドイツ人で、19歳のときに父親が船長をつとめる客船でキューバに行き、カストロの愛人になり、子供を産まされて殺されかけ、その後CIAに、カストロ暗殺のために雇われるが失敗、その後ピッグス湾作戦でケネディに見捨てられたことを恨んだ対キューバ工作のCIA要員による、ケネディ暗殺計画に関与して、公式に下手人とされているオズワルドとも接触があって、その後はベネズエラの亡命大統領マルコスの愛人になり、これまた子供を産んで、その大統領が政治取引でベネズエラに送還されるとそれに会いにでかけてつかまり、あれやこれや。

そんな女の自伝ですわ。

波瀾万丈の人生を送った女なのは確か。が、この伝記を一読してわかるのは、なんとも頭と股のゆるい女だということ。カストロには、会ったその日に惚れて愛人になりセックス三昧。

当時のカストロにカリスマがあって、もてたのは事実らしい。アメリカの大女優エヴァ・ガードナーカストロにベタ惚れで愛人になっていたが、若いマリータに乗り換えられて逆上し、ハバナヒルトンのロビーで出くわしたときにマリータはビンタをくらわされた、とかいう笑い話が出ている。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/16/Ava_Gardner_barefoot_contessa.jpg

妊娠するが、カストロとしてはこんな愛人がそこらをうろつくのは都合が悪いので、ハバナヒルトンに幽閉状態にして、でも子供だけは欲しかったらしい。出産時も放置でカストロに殺されかけて、腹の赤ん坊を奪われたときは、薬漬けでもうろうとしていたので、状況をろくに覚えていない。

ちなみに殺されかけて子供を取られて彼女が泣きついたのが、カミロ・シエンフエゴスで、彼は本当にいい人で親身になっていろいろ手配し、カストロにも苦言を呈して、彼女が消されずにすんだのは彼のおかげである可能性が高いとのことだけれど、マリータ当人はそれがまったくわかっていない。

その後CIAは、そんな目にあったならカストロに恨みがあるだろうと彼女をカストロ暗殺に利用するんだが、やっぱり彼を愛してるわ、で未遂にすらならず、何やら殺す死ぬサギの愁嘆場みたいなのを繰り広げた挙げ句にまたカストロとセックス三昧、カストロはもちろんそれをプロパガンダに使って、そのまま放置。

んでもって彼女を利用したCIAの対カストロ工作の連中は、キューバにいる彼女を使って、ケネディ暗殺要員を訓練する中に交じり (いや、なんでこんな実績もない無能な人間を入れたのかまったく不明)、途中でそれも足ぬけしてフロリダで何やら遊んで暮らしていたら、カストロに興味のあった、ベネズエラの亡命大統領が声をかけてきて(彼はカストロ嫌いで、カストロの女を自分の愛人にしたらカストロへのあてつけになると思っていたそうな)、彼女はそれにホイホイ応じて抱かれ、すぐに妊娠。

まあこれだけ見てもヤバい(悪い意味)女なのはまちがいなく、CIAに監視されつつフロリダにいたり、ニューヨークにいたりするんだが、いつも二股三つ股かけて男べったりで、なのにその男はギャングだの強盗だのろくでもない連中ばかり。CIA監視のおかげで、そういう連中のはびこる環境にいることになったのか、あるいはこの女がそういう連中を引き寄せるフェロモンを出しているのかわからないが、あまりの節操のなさに倒れそう。そしてすぐに結婚しては離婚。やれやれ。

んでもってベネズエラ元大統領が本国送還されると追いかけていくんだが (何のために? よくわからない)、すぐにつかまって牢屋で愁嘆場、釈放されるんだが飛行機でジャングル見物しているときにそれが墜落、そこにいたヤノマミ族につかまってしばらく世話になるんだが、そうするとそのヤノマミ族の男がその巨大な男根をそそりたたせて迫ってきて、彼女は貫かれて(いや自分でそう書いてるのよ)熱い愛を交わしているうちに、CIAが連れ戻しにやってきて、すると今度は大きくなった娘がなにやらJFK暗殺関係者を殺そうとしてつかまり云々かんぬん。順番逆だったかな? でも、もうどうでもいいや。

最後はまたカストロに会いにでかけて、奪われた息子とも再会したところでおしまい。いまはどこか田舎に引退しているそうだけど。

いやはや。とにかくどこにいってもやたらに男遍歴ばかり。頭もゆるく、股もゆるい。スパイとして作戦遂行力もまったくなく、何かをまともにしおおせたことも一度たりともない。正直、JFK暗殺を計画していた元CIAのフランク・スタージェスなる人物が、対カストロでも対JFKでも彼女のハンドラーになっているんだけれど、なんでこんな明らかに頭のおかしい無能な女を何度も使おうとしたのか、全然理解できなくて、ひょっとしてこの男も二股三つ股かけられてたのでは、と勘ぐるレベル。

ちなみにこのスタージェスのチームにいた他のメンバーは「なんであんな女がいるんだ」とものすごい不信感をあらわにしていたそうなんだけれど、そりゃそうだ。でも彼女から見ると、それは何やら女性蔑視と、射撃や訓練を何でもすらすらマスターする優秀な自分への嫉妬だそうな。はいはい、そうですか。

当人が書いていてこの調子なので、たぶん実際に第三者が見ると、このマリータ・ローレンツ当人がめちゃくちゃで、なんでも自分は悪くないで人に責任なすりつけ、陰謀論にすがり、なまじCIAやカストロと関係あるもんだから、その陰謀論が決して無根拠でもないという始末に負えない状況になっているだけの女だったということになるんじゃないかなあ。

政治的背景とか思想、人間関係、その他まったくといっていいほど洞察力や観察力はなく、目の前で見たことをそのまま羅列するだけなので、読んでも得るものは何もない。

この「自伝」を何やらフィクション仕立てにしたのがこの「カストロが愛した女スパイ」だけれど、特に見るべきものはないので見なくてよいのでは。

メネセス『フィデル・カストロ』:ごく初期の独自取材に基づく批判的なカストロ論

Executive Summary

メネセス『フィデル・カストロ』は、パリ・マッチ記者のメネセスによる独自取材のカストロ伝。シエラ・マエストラの山で、通訳なしで直接取材もしていて、非常にしっかりしたもの。彼はソ連系の社会主義団体シンパであり、必ずしもそれに与しないカストロにはきわめて批判的。

カストロは口先だけで、実際に動いているのはまわりの連中だ、というのがメネセスの評価。その後、カストロが南米に勝手に自分の勢力圏を広げようとしている点にもきわめて批判的。

親ソ的な主張がときどき鼻につくし、内容的には古びているものの、独自の視点がありプロパガンダから外れているという点ではおもしろいカストロ伝。


図書館にあって検索でヒットしたが、1969年の本だし、まあ大して期待していなかった。ところが、意外にもなかなかおもしろかった。他と視点がまったくちがうから。これはソ連系の共産主義者/共産党を支持する立場から、カストロなんてダメダメで大口叩きのろくなもんではなく、自分では何もできないくせに、他の南米諸国にちょっかいだそうとしてて、まったくどうしようもないぜ、と主張する本なのだ。

著者エンリケ・メネセスは、『パリ・マッチ』の記者。マシューズと同じく、シエラ・マエストラにカストロたちを訪ねて取材し、4ヶ月にわたって滞在してかなりヤバい従軍までした模様。マシューズなど、やってきた他の記者たちはスペイン語ができなかったし、またすぐに帰ってしまったけれど、この人はそれなりに密着取材をして、通訳も使わずやりとりできたので、そこらへんの記述はおもしろい。

また、革命にしてもピッグス湾の侵攻にしても、ちゃんと地図にして示してくれるのは本当にありがたい。他の本はいっさいこういう工夫がないんだー。

そして特におもしろいのは、このメネセスが、カストロは社会主義・共産主義者ではないと断言していること。でも、その根拠は? それは彼が次のように叫んでいたから。

私はソヴィエト帝国主義を、ヤンキー帝国主義と同じように憎んでいるのだ! 一つの独裁制と闘ってもう一つの独裁の手に落ちるために、首を賭けているわけではない!(p.68)

このようにソ連を否定しているから、彼は共産主義者ではない、というわけね。要するに、メネセスにとって「共産主義か」というのは「ソ連支持か」という意味なのだ。

でも実際にカストロが主張していた話は、もとから結構共産主義的なものだった。それは本書にも登場する。カストロが、エジプト (メネセスはこの前にエジプトのナセル改革の取材をしていた) についてえらく興味を持ち、そこの農地改革について聞いて土地の公有共有制を目指していたとか、カストロが明らかに共産主義思想に傾倒している部分はいくらも出てくる。

要するに、カストロが社会主義/共産主義か、という問題設定は、実は人によってまったくちがう意味合いを持つ。

  1. 彼が共産主義思想/マルクス主義思想を抱いていたか?

  2. 彼が共産党員または関連組織の一員だったか?

  3. 彼が親ソだったか?

これは全然ちがう話だ。そしていまぼくたちが、カストロが共産主義だったか、というときは、通常は最初の話だと暗黙に思っている。でも、当時の文献や論者、有識者は、二番目や三番目の意味で話をしている。カストロたちは、これをおそらくは意図的に混同させて使っている。

キューバに元からあった共産党はソ連の手下で、カストロ一派とは非常に仲が悪く、カストロが気に食わない共産党のヤツを密告して殺させたとかいうきな臭い噂まである。これはカストロが、自分が反政府の旗手として目立ちたかったから、と言われる。でもカストロが共産主義者ではないというのは、これのおかげで何やらもっともらしくなった。「正統派」の共産主義者は当然、自分たちに敵対するカストロなんて共産主義者だと見なさないものね。

そしてメネセスは、その後キューバの革命政権が明確に共産化したときも、カストロがそれを仕組んだわけではないと思っている。彼に言わせるとこうだ。

その結果カストロは、朝の小時間に放送されるテレビで話していたあの陶酔の数ヶ月間に、一にぎりの人間たちが自分のまわりにシエラ・マエストラにおける反乱軍たちの夢見たものとはちがった体制を築いているということに気づくことができなかったのだ。 (p.120)

カストロは口先だけのバカで、実際の革命政権が骨抜きにされていることさえ気がつかなかったというわけだ。で、その「一握りの人間たち」というのは、ラウル・カストロとチェ・ゲバラに後押しされた共産党(と訳されているけれど、その後から見て共産主義者、ということだと思う)なんだという。

メネセス的には、カストロは目立つけれど有能な人間ではない。彼のカストロ評は以下の通り。

シエラ・マエストラでわれわれが見たように、フィデル・カストロは自分の考えを実行に移すことのまったくできぬ理論家である。彼の自己中心主義とメシア的使命観と名声への渇望は、彼をして一切の建設的な対話や批判をはねつける、公開の場における独白者に変えてしまっていた。彼と論争しなかったのは、ただ共産主義者たちだけだった。(中略) チェ・ゲバラは、これまたシエラ・マエストラにおいて見たように実際的な男で組織者だった。フィデル・カストロはその気質からして、演説の中で述べたてた夢を現実に点火してくれる陰の存在なしには生きることが出来なかった。彼は自分の独白をさえぎる人びとを(中略) まったくの厄介者とみなした。(中略) 結局、カストロの信頼を享受したのは、彼の誇大で熱烈な長弁舌にけちをつけずに好きなだけ話させる連中だけなのだった。 (p.120)

この観察はなかなかおもしろい。チェ・ゲバラがメキシコで初めてパーティーでカストロに会ったとき、カストロはなぜキューバにいないのかとイルダ・ガデアにからかわれたのに対し、丸四時間ぶっ通しで弁解演説を続け、チェ・ゲバラは (珍しく) それをじっと聞いていて、それで二人は分かちがたい同志になった、といわれる。ゲバラはまさに「好きなだけ話させる」人物だったから、信頼を獲得できたわけだ。

つまりメネセスにとって、カストロなんか口先だけで、戦闘も実際はチェ・ゲバラが黙々とこなしたおかげで勝てた、ということになる。

そして彼はその後のキューバ共産化は、共産党の工作ということになる。キューバ政府の共産主義化に反対したマトスやカミロ・シエンフエゴスの粛清/暗殺は、共産党がカストロを操ってM26運動(カストロ派)の中でカストロと反共主義者を仲違いさせた結果となる。もちろん、彼はシエンフエゴスは明らかに暗殺されたと考えていて、その側近がその直後に「偶然」死んでしまったことも指摘する。

で、最終的にこの本は、ゲバラのボリビアでのテロ活動からもわかるとおり、キューバ=カストロがソ連と仲違いして(中国と接近する中で) 自分のあやしげな思想や活動を南米全体に広げようとしているのだと主張する (そしてそれは決してウソではないし、最終的にはこの見方が妥当だったことは、ゲバラがボリビアなんぞでゲリラ活動をして死んだことからも明らか)。それはカストロ自身の誇大妄想的な思想に基づくものだ。今後アメリカは、援助をもっと有効な形で使うことで、そうしたキューバの軍事・覇権的な野心を抑えこむ必要がある、とのこと。

この本は、伝記ではない。いまのカストロの行動だけに注目したもので、だからカストロの幼少期の話とかは一切ない。が、そんなのは別にどうでもいい話ではある。軍事的な展開とか食べ物とか、現場の細かい話はとてもていねいで、実際に4ヶ月従軍した成果がでている。こうして見ると、数日前にほめたラフィ『カストロ』の元ネタや基本路線の多くは本書に触発されているようだ。

ときどきちらつく、親ソ的な雰囲気は、当時のヨーロッパ左翼にはありがちだったのかなあ。でもそれで議論が歪む感じはない。もちろん半世紀以上前の本で、情報は古いけれど、でも独自取材と観察に基づく記述は貴重で、いま読んでもそんなに悪くない。

 マシューズ『フィデル・カストロ』(1971):提灯持ちと自己宣伝のかたまり。

Executive Summary

 マシューズ『フィデル・カストロ』は、キューバ蜂起の泡沫勢力でしかなかったカストロたちをシエラ・マエストラの山の拠点に訪ねて取材し、カストロこそが反バティスタの旗手という宣伝に加担したニューヨーク・タイムズ記者によるカストロ伝。

 中身は、とにかくカストロ万歳で、カストロは常に正しく、自分の取材は客観中立で他の取材はプロパガンダでしかない、と言いつつ、自分がいちばんプロパガンダの提灯持ちでしかない。自分がシエラ・マエストラでカストロたちにだまされていたことを知っても、いや自分はそれは知っていたが中身を見抜いていた、と断言する厚顔ぶりを示しており、カストロ独裁制も、民主主義がすべてではない、と言いつのって正当化。

 革命とかにだまされやすい西側知識人ジャーナリストの妄言という歴史的な意味しかない本だが、それ以外には現代的な意味はない。


 原著1969年の本で、いまや歴史的な意味しかない本だし、それすらあるかどうか。

 著者は『ニューヨーク・タイムズ』記者で、シエラ・マエストラの山にこもっていたカストロを訪ねて取材し、カストロの名前を世界中に広めて彼こそキューバ革命の指導者と対外的にアピールするのに貢献した人物。エドガー・スノー毛沢東に利用されたのと同じで、カストロプロパガンダにあっさり利用された、ありがちな西側のサヨク文化人ですな。

 基本的に彼が本書で主張しているのは次のような点。

 いやあんた、カストロだの、その女衒とまで言われるセリア・サンチェスだのから聞いた話こそが甲級プロパガンダだとは思いませんの? 思わないんだよねー。

 これが最もしつこく出ているのは、フィデル・カストロ共産主義者ではない、という話。いや、チェ・ゲバラ共産主義者ではないんだって。なぜかというと、共産党に所属したこともないし、「オレはちがう」と彼らが言っているから。ソ連と仲良くなったのは、もちろんアメリカが意地悪してるから仕方ないんだよねー。

 でもさあ、弟さんはしっかり共産主義で、ずっとフィデルの運動に深入りしてたよね? だからあなたの活動って共産主義的な影響はがっちりありましたよね? そう思うのは人情だ。あと、お仲間のチェ・ゲバラさんは共産主義の権化でしたよねえ。

 チッチッチ、そう思うのが素人の浅はかさ、なんだそうな。

 確かにラウル・カストロはずっと共産主義者でそのシンパで、1953年にウィーンの共産主義青年会議に出席して東欧諸国を漫遊している。それでも、彼は共産主義者ではないそうな。「一つの冒険旅行として、鉄のカーテンの向こう側を訪問する招きに応じた」(p. 165) だけなんだって。

 このあたり、彼は共産主義、というのを共産党員だった、というのと微妙にすりかえて (英語ではどっちもコミュニスト、ですから)、共産党には所属してない、よって共産主義じゃない、という弁明をしつこく繰り返しているんだけれど、そんなインチキは原著刊行当時でもすぐに見破られたと思うなあ。

 で、その次の段落では、フィデルがあるインタビューで弟が共産党に所属していたことをはっきり認めているのを引用する。「ラウルはそうでした」。えー、やばくね? マシューズさん、あんた直前に、ラウルは共産党じゃなかったと断言してるじゃん!

 でも大丈夫。それに続いてフィデルはこう言ってるから。「しかしモンカダ襲撃に加わった時には、本当の意味では完全に党の規律に従ったやり方をしていたとはいえなかった」(p. 165)

 「本当の意味では」「完全には」「とは言えなかった」。フィデル・カストロですら、ここまで迂遠なごまかしをしなければならなかった、というのは、よほど否定しがたかったんだねえ。ところがマシューズは「これでラウル・カストロの『共産主義』の問題はきっぱりと片が付くと思う」と得意げにいうんだけど (片が付く、というのは否定される、という趣旨ね)、いやあ、逆だと思うなあ。

 万事がこの調子です。彼はカストロが独裁的でかつての発言や公約をすぐに反古にし、裁判を無視して勝手なことをやったり、というのは認めるんだが、どれも「革命実現のためには仕方ない」ですませる。え、それでいいんですか?

 言論弾圧も「革命のためには仕方ない」でおしまい。いや、だからそれでいいんですか? 「でもビートルズも聴けるから自由なんだ」って、あんた何言ってるの?

 歴史的な事件についても、ろくな記述がない。バティスタ政権は、準クーデターで政権を奪取したんだが、そのあたりもほとんどなし。モンカダ監獄襲撃事件は、背景説明もなにもなく、仲間を募って襲いましたでおしまい。グランマ号でのキューバ帰還から革命実現までは、長ったらしいけれど (そして自分がシエラ・マエストラの山にカストロを訪ねた話は得意げに書くけれど) 何のプロセスもなく、だんだん迫って首都を押さえた、でおしまい。でも、その際には、本家共産党を含む他の反バティスタ運動は「むしろ邪魔だった」「共産党カストロをむしろ妨害した」と書いて、とにかくキューバ革命カストロだけの手柄だったように印象づけるよう腐心している。

 その後も、キューバミサイル危機は、うっかりソ連の口車に乗せられただけで、痛恨の失敗だ、と述べておしまい。カストロのサトウキビ増産計画/大躍進とその失敗については「失敗したけど学んだ」でおしまい。

 これまでの伝記で採りあげた、カミロ・シエンフエゴスの謎の死についても、シエンフエゴスが革命の勝利に浮かれてブルジョワ的な堕落に走ったのだ、という他のどの本を見ても書いていないようなことを書く (p.147)。でも、うまい具合にその頃に死んだから革命の英雄になれた、とのこと。まるで死んでよかったかのような書きぶり。さらにその前後で起こった、ウベル・マトスの粛清と見世物裁判は、彼がキューバ革命政権の共産主義化を批判したことから生じたんだけれど、アメリカに懐柔されて反革命に走ったから排除するするのは当然だった、ということでおしまい。「マトスは『偽りの革命家』であった」(p.145)。

 で、あとはもうひたすら、カストロすごい、革命すごい、あっちの演説でこんな立派なこと言った、こっちの論説でこんな立派なこと書いた、そうそう、革命の本質について誰それはこんなことを言っているよ、という引用まみれでページ数をふくらませているので、すごく徒労感は多い。

 また彼は、自分がカストロの走狗でプロパガンダに利用されているのを少し気にしているらしい。シエラ・マエストラで、カストロ勢が実はものすごく少数だというのを彼は知らなかったそうな。またカストロ勢は自分たちが何もしていないのに、忙しく活動しているようなふりをして、マシューズ相手にはったりをかませた、というのを公言している。でもマシューズはそれについて、いやオレはそんなのに影響を受けていない、という (pp.97-102)。「もし知っていたとしても、それによって2月24日に『NYタイムズ』紙上に載った私の記事が別物になっていたかどうかは疑問である」と弁明を書く (p. 97)。それでも提灯持ち報道をしたのは、そうしたお芝居の下にあるカストロ勢の実力を自分がしっかり見抜いていたから、なんだって。ワッハッハ。If you say so, my dear.

 でもって、彼はもう最後には、民主主義とかそういうものなんて、別にどうでもいいんだと言い出す。カストロが人々から受けてる支持こそが民主主義のあらわれだから、なんでもいいんだって。

 フィデルは、アングロサクソン的な意味での自由民主主義の何たるかを理解していない。だがそれは、他のキューバ人、他のラテン・アメリカ人もそうであり、この点では、アジア人とて同様である。

 彼等が理解していなければならないという十分な理由はない。アングロサクソン的な民主主義が、天与の宗教であるとか、絶対的に強制さるべきものなのではない。それは、民主主義の唯一の形態ですらない (p. 349)

 そう書いた直後に、彼ですらこう述べる。

  フィデル・カストロのおかした誤りは、彼が、どんな体制の下にあっても認められるべき基本的な権利を奪っていることである。——チェコルーマニアポーランドユーゴスラビアその他の共産主義諸国家の国民、そしてロシア人ですらこの権利を獲得しようと戦っているのである。(pp. 349-50)

 いやそれがわかってんなら、もうちょっときちんと批判する部分があってもいいんじゃないんですか? でもフィデルは「一般意志」を求めるからよいのだし、キューバアメリカの黒人より自由があるからいいのだし、キューバの革命はフィデルの革命なんだそうな。

 というわけです。古い本だし、内容的にも陳腐だし、特に読むべきところのある本ではありませんが、露骨な太鼓持ちが、自分は太鼓持ちではないと弁解しつつ太鼓を叩く様子は、ちょっと嫌みな意味で楽しい面は、なくもない。

Polèse "The Wealth and Poverty of Cities: Why Nations Matter": Duh.

Executive Summary

Polèse The Wealth and Poverty of Cities: Why Nations Matter (Oxford, 2021) は、経済発展の原動力として都市のイノベーションを重視する近年の流行に対し、いや都市発展の基盤となる制度をつくるのは国だから都市より国が重要なんだと論じる本。

しかしそもそも都市重視は、歴史的な農村重視と都市の軽視/悪者視に対する批判として出てきたもので、国の役割を否定するものではなかった。だから国が重要だと力説されても、そんなのあたりまえでしょ、と返すしかない。批判対象の文脈を見失って、当然の常識を得意げに力説する本になってしまっている。


ジェイン・ジェイコブズやグレイザーなど、都市こそイノベーションの中心であり、それが経済に豊かさをもたらすのだ、と述べる論者は多い。つーか、みんな最近それしか言わないのでつまらんわ。

で、本書はそれに反旗をひるがえすのだ、とのこと。都市の発展においては、国が果たす役割も大きく、国なしでは都市も栄えられない、というわけ。ほうほう。なるほどね。

で、具体的には?

えーと、国は税制決めるじゃない? 社会福祉とか決めて所得分配にも影響するじゃない? インフラの計画とか、都市をつなぐネットワーク、通信、その他いろんなものは国が決めるよね。だから国の政策がきちんとしてないと、都市も栄えられないよね?

はい、その通りですねえ。

で、それがどうかしましたか???

そもそも、都市が重要という話は、特に20世紀半ば、農村や地方部こそが食べ物をつくる富の源泉であり、都市の商人共とか職人とかは、その果実にたかって生きている盗っ人どもである、という発想が幅をきかせていたのに対して出てきたものだ。ちなみにこの発想というのは、それこそ社会主義の価値観で、毛沢東下放ポルポトの都市放棄の発想の根底にあるものだし、またキリスト教文化においても農民こそが価値をつくり、みたいな話は山ほどあった。邪悪な堕落した都市と、清貧で気高い農村、といったステレオタイプ的な対比はどこにでもある。

で、そんなのを背景にしつつ、都市への過度の集中はよくない、都市はスラム化する、分散させねばならない、農村と都市を融和させた低密な田園都市を、なんていう思想も強かったし、それが第二次世界大戦後の都市開発において大きな役割を果たしてきた考え方となった。

で、そういう思想に対して、いや都市とそこでの人の集積が生み出すアイデア、創意工夫、そういうものが経済の活性化につながり、農村地方部の農作物の新しい利用、その新しい製造手段の開発にもつながり、経済全体の価値を高めたんだよ、というのが都市重視の基本的な主張だった。ジェイコブズは、おまえらがスラムと思ってるそれこそが都市の真価だ、と看破したのが手柄だった。

つまり都市が重要、というのは地方部、農村との対比においてであって、そもそも国より都市が重要って話じゃねえわな。

そこんとこまるっきり誤解して「いや国も大事です」って、何言ってんだこいつ。そりゃ国は、地方部都市部に共通に影響する仕組みを創るよ。都市だけで勝手にアレコレできない部分も大きいから、国の政策は重要だよ。

で、本書はお国の政策で都市の繁栄/衰退が左右された例をあれこれ出してきて、ほらどうだ、オレの言った通りだろう、都市だけでは発展できないんだぜ、と胸を張るが、そんな常識を持ち出して、だれも言ってないことを否定して見せて、なにいばってんだ、てめえ。英語に「Does the word "duh" mean anything to you?」という表現があって、「おまえ、こんな言わずもがなのことを得意げに言って恥ずかしくねえの?」という意味だけれど、まさにこの本だわ。Duh. Duh. Duh.

ちなみにこの人は The Wealth and Poverty of Regions なる本も書いているので、これが終わったら読んでみようかと思っていたが、やめたやめた。