プーチン本その2:プーチンご自身『プーチン、自らを語る』:基本文献。ストレートで明解なインタビュー集

Executive Summary

 プーチン他『プーチン、自らを語る』(扶桑社、2000) は、突然ロシア大統領になってどこの馬の骨ともわからなかったプーチンが、生い立ちから大統領としての問題意識までを率直に語ったインタビュー集。幼少期の記述などはこれがほとんど唯一の文献で、他の本はこれに対する註釈でしかない。また、まだ隠蔽すべき悪事などがないので、かなり率直かつ正直に語られているし、全部が本当ではないとはいえ、一言半句に勘ぐりを入れる必要もなく、ストレートに読める。家族のインタビューも交え、プーチンの全体像をしっかりまとめているし、またチェチェンへの高圧的な態度、反体制ジャーナリストへの冷淡さなどもはっきり出ている。なお英語からの重訳だが、英語版のほうが追加のインタビューを加え、ロシア語版で削除された部分も含んでいることもあり、重訳のデメリットよりはメリットのほうがずっと高いので、懸念には及ばない。


 悪口シリーズ続けるつもりが、図書館で順番がまわってきてこの本が読めました! 英語では読んでいたけれど、日本語のほうが楽なので助かります。

 この本は、題名通り、プーチンが就任直後にロングインタビュー受けたのをまとめた本。

 プーチンに関する基本資料といっていいもの。プーチンの子供時代から大統領になるまでの経歴をまとめた文書といえば、基本これしかない。他の本はすべて、ここの記述をベースに、検証したり疑問視したり、その後の話を追加したりするものになっている。

 プーチン自身が公式に大統領就任直後に行ったインタビューで、世界的に「プーチンってだれ?」状態のときに、それに答えるべく出た本。当時は、エリツィンがほとんど気まぐれに首相の首を次々にすげ替えていた頃で、プーチンもそうした短命なツナギの存在としか思われていなかった。だからそれが大統領になったときにも「マジかよ」「またツナギじゃないの?」みたいな感じではあった。

 後からの検証で、ここのところはウソだった、とかいうのはだんだん明かされている。完全に額面通りに受け取っていい本ではない。が、それを言うならプーチンがらみで額面通りに受け取れる本はなかなかない。そして本書は、就任直後の本ということもあって、プロパガンダ的な配慮がそれほど周到ではない。いろんな質問にストレートに答えてくれるし、隠蔽も何やらウソをでっちあげるのではなく、答えたくないという形で対応するので、とってもストレート。

 さらにもちろん、その後の大統領就任後の悪事 (クリミア併合したりとか) 以前だから、各種行動をレトリックでごまかす必要もない。この時点のプーチンの見解として、かなり正直。そしてそれがために、通読していても「こいつ、何が言いたいの?」的な曖昧な発言が少ない。実際の行動を隠蔽する必要がないので、それなりに正直な意見を出しているし、基本的な考え方の表明になっていて明解。

 最後に載っている、「新千年紀に向けたロシアの道」というプーチン論説は、軍事力ではなく経済力やイノベーションによる国力増強を訴える一方で、愛国心、国力、強国、国家主義といった基本的な方向性を打ち出しているのは、その後の動きを考えるにあたり重要なポイントになるのは言わずもがな (英語のキンドル版は、なぜかこれを本に含めず出版社サイトに置いている——そしてリンク切れ)。そして本書で明言されている「チェチェン絶対独立なんかさせない! それ認めたら連鎖反応が起きるし他の国が口はさむようになるし、山の中まで悪党共を追い詰めてぶっつぶす!」という明解なメッセージは、その後の活動にあたっても基盤となる発想なのは明らか。

 聴く方も、おっかないプーチン像を無理に造り出そうとはせず、手持ちの情報の中で、これはどういう人物なのかを素直に尋ねており、相手を罠にかけようとか、失言を引き出そうといった工作もない。また手放しの翼賛個人崇拝インタビューでもなく、結構きつい突っ込みもしている一方で、奥さんや娘たちへのインタビューも交え、それなりにプーチンの全体像を2000年という時点でうまく描き出せていると思う。

 あと、本書は英語からの重訳。前にレビューした朝日新聞『プーチンの実像』は、この本をさんざん参照しておきながら、英語からの重訳だとかケチをつけている。でも文学作品ではないので、重訳であることに大したデメリットはない。朝日新聞も、重訳によってどんな部分に支障があるかについてはまったく指摘できておらず、ぼくはこれはかなり陰湿な印象操作だと思う。

 (ちなみにあの本は、この『プーチン、自らを語る』のインタビューを行ったゲヴォルキアンへのインタビューにかなりページを割いている。その意味で、あの本は本書の注釈書みたいな位置づけではある)

 一方で、本書の解説によれば、英語版は単なる翻訳ではなく、新聞インタビューも加えて内容が拡充されている。さらにロシア語版と英語版を比べると、チェチェン紛争についての質問や、拿捕された反体制ジャーナリストに対するかなり辛辣な発言などロシア語版では削除されている部分があるそうな。該当部分を観ると、かなり重要な部分だと思う。英語版をもとにするほうが、その意味では情報量豊かなので、重訳だからダメ、というものではない。

 ホント、いい本なので扶桑社は再刊してくれないかなー。Kindleでもオンデマンドでもいいから。

プーチン本その1:朝日新聞『プーチンの実像』:ゴシップに終始して最後はプーチンの走狗と化す危険な本

Executive Summary

 朝日新聞プーチンの実像』(朝日新聞社、2015/2019) は、日本のぶら下がり取材的にプーチンが日本や自分たちと行った会見やその周辺人物のインタビューをあれこれ行っているが、明確な視点がないために、それが単なるゴシップのパパラッチに堕している。そのゴシップの価値にゲタをはかせようと、歪曲による祭りあげまで行ううえ、プーチンの軍事的な意図についてまったく触れず、このためプーチンは外国に対し、主権を持っているかとかいう抽象的な視点で判断を下しているという、ナンセンスな主張を行う。そしてそれは最終的に、日本はアメリカのイヌで主権がない、北方領土を返してほしければ日米安保を廃止して主権を回復せよ、という信じられない主張を暗に匂わせる、得たいの知れないプーチンの走狗本と化している。


 ぼくも人並み以上にミーハーなので、ウクライナ侵攻が始まってから、いろいろプーチン関連本を漁ってみてはいる。

 そんなものを読む理由は、基本的にはなんでプーチンがこんな暴挙に出たのか、というのを知りたいわけだ。最初のうち、ドンバスなどに傀儡政府をつくって独立宣言させて、「助けてーといわれたので助けにきましたよー」といって乗り込んで、既成事実化するという、クリミアでも使った手口をやろうとしているのかな、という感じはした。それも、そういう形式が整う前に軍を国境に動かしたりして、かなり強引で急いでいた感じはあったけれど、まあわかる。でも、その後いきなりストレートな侵攻を始めたのは何? プーチン、頭おかしくなったの? それまでの周到さはどこへ? それとも何か遠謀深慮 (深謀遠慮、が正しいのかな? どっちでもいいや) があるのか?

 そして、それと同時に、プーチンその人についても知りたいよね。ずっと、この侵攻はとにかくプーチン個人の判断であり、プーチンの胸先三寸次第というのをさんざん聞かされてきた。だったら、彼のこれまでの考え方や行動、力関係、そうしたものの中に今回のヒントがあると思うのは人情。

 で、いろいろ読んではみた。まあ当然ながら、かなりのピンキリ。それらについて、Cakesの連載で触れようかと思ったけれど数が多いし、特にキリのヤツは罵倒だらけになってしまう。でも、せっかく読んだのに何もコメントしないのももったいないし、言えなかった不満がどす黒く内心に溜まるのもいやだから、こっちで扱おう。

 全体に日本の本はキリが多い。そのほとんどは、プーチンの「平和条約を結ぼう!」「ぼくは柔道マンだ! 北方領土もヒキワケ精神だ!」発言に完全に頭が冒されてしまい、それ以外のことが考えられなくなっている。ヒキワケというのは四島のうち二島返還のことだよね! と勝手に解釈し、それ以上一歩も頭が進まなくなっている。

 政府がそうなってしまうのはわかる。政府としては北方領土問題の解決は悲願だから。そしてそれがあり得ないと思っても、他に解釈がないかのようにしつこく言い続けて相手をなんとか土俵に乗せる、というのは政府の動きとしてはあり得る。だけれど、分析する人々、報道する人々はそれではいけないと思うんだが……でもそうなっている。そういう人たちを政府が委員会とかで重用してその人たちが幅をきかせるせいなのか、それともプーチンの手口がうまくてみんな他のところに目がいかなくなるからなのか (でもそれは同じことではある)。

 扱うのは、比較的伝記的な記述、プーチンその人の話を中心としたもの。ロシア情勢の分析となると、多すぎて手がまわりませんわ。


朝日新聞国際報道部『プーチンの実像』(文庫版2019):ゴシップに終始して最後はプーチンの走狗と化す危険な本。

 で、最初がこれ。順番に特に意味はないんだけれど、かなり実際の取材とインタビューを中心にしているようだし、ジャーナリストで何か特定のアジェンダがあるわけではなく、中立的に書かれているだろうと思ったので、まずこれを手に取ってみました。

 が……

 いやあ、アジェンダがないどころではなかった。いろいろ読んだなかで、これほど露骨かつ悪質にアジェンダを持って情報操作する本はなかったのでは、というくらいのすごい本だった。しかもそれが結構巧妙に隠されている。ぼくですら、二回目に読むまでは気がつかなかったほど。本当にこれを、ジャーナリズムと言っていいんですか?

歪曲によりプーチン凄いヤツとイメージ操作

 まず、この本はプーチンすごい、というのを手を尽くして言いたがる。その筆頭にくるのが、KGB職員としてドレスデンに配備されていたときの、ベルリンの壁崩壊のときに起きたエピソードだ。

 なんでも、東独政権が崩壊したので、その秘密警察を襲った群衆の一部 (20-30人) が、「KGBもやっちまえ」とプーチンたちの建物に押し寄せてきた、という話。ところがプーチンは彼らとたった一人で対峙し、それを追い払ったという。その様子を、この本はそのときにその建物の中にいたKGB職員にインタビューして、見てきたような迫真の記述を行う。そしてそのまとめとして、朝日新聞は、一応はインタビューを受けた目撃者の証言としてだけれど、こう書く。

 武装していない将校が言葉を発しただけで群集は去った。権力で人を意のままに動かすことができる人間だということだ。(p.40)

 が。

 まず、この本の中の証言者ですら、プーチンの横には自動小銃を持った護衛がいて、途中で装弾までしている。「武装していない将校」なんかじゃないでしょう。

 そして、何やら気迫で群集を撃退した、という話がどうして「権力で人を意のままに動かすことができる人間だということだ」なんていう話になるの? まったく意味不明。何かオーラを持っていたというのと、権力があるというのとは全然話がちがうでしょうに。

 でもこの本は、そういう印象操作を平気でやる。プーチンが、なにやらすごいオーラを備えたとんでもないやつだ、というのを演出するほうが、ネタの価値があがるという計算をしているわけだ。そしてそのオーラこそが、後の権力掌握につながったのだ、という印象をこじつけたいわけだ。

(2022.05.03付記:ふと思いついたんだけれど、これってたぶんインタビュー受けた人 (ドイツの政府系研究所エンジニア) は、「authority」にあたる表現を使ったんじゃないのかな? 「権力で」ではなく、威厳でとか権威を持ってとか威圧感でとか高圧的にとか、そういう意味合いで言っていたのではないかと思う。でもそれなら、こういうニュアンスをまったく変える「翻訳」はしないでほしいもんだ)

 そしてこの本が出る2015年のはるか前に、オレグ・ブロツキーによる、公式に近い評伝が2002年にロシアで出ていて、その中でのインタビューでプーチン自身がこれについて詳しく語っている。

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 それによると、プーチンはこの建物の一階から大量に自動小銃を群集に向けて構えさせていて、いつでも発砲できるようにしていた (これはぼくも孫引き。ごめん、ロシア語そんな読めない)。さらに、おまえは妙にドイツ語がうまいが何者だと群集に問われて「いやおいらはただの通訳です」とごまかしたとのこと。これは『プーチン、自らを語る』でも自分で言っていることだ (p.103)。丸腰で、何やら魔闘気により群集をひるませた、というのとは話がぜんぜんちがう。朝日新聞のエリート記者は、こういう資料をきちんと読まなかったんだろうか?

プーチンの対外対応の分析ができない:無能なの、それともわざと?

 そしてそれ以前に、これを書いた朝日新聞国際報道部には、そもそもまともな分析能力がないのかもしれないとすら思える部分さえ見られる。たとえばこの本は、プーチンの国際的な動きについてまとめるにあたり、彼が公式にいろいろ不満の声をあげたり介入したりした世界的な動きを羅列してみせる。それは、NATO拡大/コソボ問題/米国のミサイル強化/旧ソ連諸国のカラー革命/カダフィ政権崩壊/シリア問題、という具合 (pp. 289-94)。

 オッケー。それはいい視点かもしれない。で、そうした発言を元に何が言えるだろうか? この一覧を見て、ロシアの影響力の捉え方、同盟関係のあり方、いろいろ見方はあると思うんだ。ところが朝日新聞がこれらから抽出した知見とは?

 これらの経緯を見て一貫して言えることは、プーチンはとにかく体制の転覆を忌み嫌うということだ」。(p.294)

 は?

 体制の転覆を忌み嫌う? プーチンがクリミアを併合し、ドンバスで政権転覆工作をさんざん行った後の2015年の本で?

 それは一見しておかしいと気がつくべきじゃない? 自分に都合のいい体制の転覆は絶賛/黙認、そうでないものには文句、という当たり前のことをしているだけだというのは、一瞬でわかるべきだと思うんだけど。だからそこで見るべきはプーチンがその選り分けをどうやっているか、という話のはずでしょう。

 ところがこの本を書いた朝日新聞の記者たちが、まっ先に言うのがこれだ。要するに、国際的なつながりとか力関係、軍事バランスといったものについての知見が一切ないんじゃないか? 一見するとそう思われても仕方ないと思う。(が、これは無能を装いつつ、実はプーチンの軍事的な意図に一切触れないための高度なボケ技だった可能性が高い。本稿の最後あたりをみてほしい)

日本関連ではゴシップばかり

 では、それなしにこの本は何を書いているんだろうか? 基本的に、ゴシップとパパラッチ。

 冒頭はプーチンが2018年に「条件つけずに平和条約結ぼうぜ」と言った話 (単行本は2015年刊だから、ここは文庫版での加筆)。それで、安部首相がどう出て、それに対してだれそれがこんな勘ぐりをして、だれそれがそれに入れ知恵して、とその会議や前後の様子を延々と書く。でも、それって何か臨場感を出しているように見えて、実はまったく情報量はないのだ。そして結局、プーチンは即座に対応できてエライ、安部首相と取り巻きはすぐに対応できずにプーチン様をわかっていないダメなやつ、というのが結論だ。

 その後も、森喜朗や柔道の山下との話を見てきたようにあれこれ書いたり、現地での細かいインタビューの細部をあれこれ書くんだけれど、それによって何かあまり知られていない事実が出てくるということはまったくない。いろいろ世間的に言われている話の裏が取れました、というのは、まあ価値がないわけでもないかもしれない。また途中で、プーチンの公式発表で山下との会談の日付がずれたり、写真が操作されたりしているのを見て、いろいろそこから延々と推理をして勘ぐる部分があるけれど、それも無価値ではない。が、それにより何かすごいことがわかるというわけでもない。

記者会見で符牒を使ってもらえただけで舞い上がる

 そして15章では、プーチンが国際記者会見のときに、柔道用語をたくさん使って、日本の記者だけがその「ヒキワケ」とか「ハジメ」とかいう意味がわかった、というのがたいへんに嬉しかったらしく、そのときの様子をこと細かに書いてみせる。それが嬉しかったのはわかる。自分たちが特別扱いしてもらった気分になったんでしょう? でも、プーチンが人たらしで云々、というのはこの本にもさんざん書いているじゃありませんか。自分がそれにあっさりのせられてどうするんですか。

 でもこの記者会見の結果、日本ではありとあらゆる関係者が「プーチンは柔道マンでヒキワケ精神だから二島返還」という、いまや一顧だにする価値のない愚論がまつりあげられることになる。そしてそれが日本の外交を左右し、ロシアにさんざん貢がされるはめになり……

 その後、いろいろ進展がないことについても、G7で圧力かけようとしたりアメリカと仲良くしたりするのがよくない、もっとプーチンに忖度して寄り添うべき、向こうは仲良くしたいと思っているのに日本がダメなのだ、プーチン様の御心を日本側が理解しないのがよくないのだ、とひたすらいいつのるのがこの本となる。

プーチンの軍事的意図に一切言及せずに日米安保と米軍撤退まで示唆する倒錯

 で、最終的にこの本は、基本的なところで非常にいやらしい倒錯をする。この本が最終的にどこに議論を落とすかというと、次の通り。


  • 日本はアメリカの属国であって主権国家の体をなしていない
  • アメリカとの関係を切って主権を確立できないと北方領土は返ってこない
  • 主権が確立できたかどうかは、プーチン様がご判断あそばされる


 これが明確に出ているのは、プロローグに書かれ、文庫版の帯にも使われている次の一節だ。

 今後、プーチン北方領土問題で日本にわずかにでも譲るとすれば、日本が米国から「主権」を取り戻したとプーチンが考えたときなのかもしれない。
 国家の「主権」や「自立」についての独特の理解と、強いこだわり。NATO日米安保条約といった軍事同盟への加盟を「主権の放棄」として嫌悪する姿勢。これらはいずれも、政治家プーチンを支える太い根っこになっている。(pp.35-36)

 何を言ってるんですか? プーチンNATO日米安保を嫌うのは、「主権の放棄」とかいう抽象的な理由ではなく、ロシアにとって軍事的に不利だから、というだけなのは、火を見るより明らかでしょうに。プーチンがなんで他国の主権のありかたなんかいちいち心配してると思うんですか? クリミアを侵略したのは、ウクライナやクリミアの人々の主権や自立に配慮してたとでもいうんですか? 軍事同盟結ぶことについて、あれこれケチをつけることこそ主権と自立への口だしでしょうに。でも、朝日新聞国際報道部は、そういうことは思いつかないらしい。全体に、プーチンがそういう軍事的野心を持っていること自体、なるべく触れようとしない。その結果が「主権」「自立」とかいう抽象概念をプーチンが気にしているという、まったくもって変な見方だ。

 そしてこれは実質的には、日本政府は日米安保やめて基地を追い出せ、そうしないと北方領土帰ってこないかもよ、と言っているに等しい。書いた記者のうち二人は、ぼくと同年齢で、安保闘争には若すぎるはずだけれど、朝日新聞の中にはそういう思想のケツミャクがいまだに残っているんだろうか。安保はんたーい、米帝の軍事支配を打破せよ、アジアの人民と連帯して真の独立主権を〜。そして、それがちゃんとできたか判断してくれるのは、プーチン……

 いや、それはおかしいでしょう。2015年にもおかしかったし、文庫版が出た2019年にもおかしかったし、いまはなおさらおかしいのがはっきりしてきたと思う。

まとめ:プーチンの軍事的意図を隠して反米をうちだす危険な本

 結局本書は、ゴシップに終始し、プーチンを変にまつりあげようとし、その軍事的な野心や計算についてはなるべくプレイダウンしようとし、「ヒキワケ」だのという妄言で日本を狂わせ、ひたすらプーチンへの忖度を訴え、そして最後に日米安保反対と孤立を主張しその審判をプーチンに委ねるべきだとまで述べている。ぼくは、かなり悪質な本だと評価せざるを得ない。最初に読んだときはぬるいだけかと思ったし、いろいろインタビューしてあるので、がんばっているなー、とさえ思った。「政権の転覆を嫌う」なんて、単なるボケだとばかり思っていた。でもそこから引き出されるこの壮絶な主張は、どうしましょうか。

 それをわかった上で読むと、いろいろ味わい深いところはある。が、これだけ読んで何かわかったような気になっては絶対にいけない、とても危険な本だと思う。

ロシア帝国300周年記念に寄せて (2022/02/04): ロシア停戦交渉団親分の「帝国バンザイ!」

我らが偉大なhicksian 様のこのツイートで紹介されていたブログ記事、とてもおもしろい。

broadstreet.blog

この著者はMITのソ連ロシア史教授、エリザベス・ウッズ。プーチンは、ヒル&ガディの現時点ではベストなプーチン伝「プーチンの世界」で紹介されている、「プーチンは歴史の男だ」というまとめを敷衍して、その「歴史」というのがおとぎ話に近いネトウヨ妄想なのだ、という点を指摘している。

このブログでは、その妄想ぶりについてかなり細かく指摘されているけれど、基本的にはこれまでしょっちゅうお目にかかった、大ロシア帝国復活こそが歴史的必然であり、民族の悲願なのであり、それを西側がじゃましくさっておるのよ、という話。いやそれよりひどくて、ロシアは昔から、優しい民主的な共存共栄の「帝国」の実績があるので、オレたちが帝国復活させてもじゃますんなよ、という話。

そしてそれを如実に示しているのが、ロシア側の停戦交渉団親分をやっている、ウラジーミル・メジンスキーという人物だ、と彼女は言う。

この人は、ロシアの文化大臣だ。そして侵略直前の2月22日には「ウクライナなどというのは歴史的亡霊でしかない」と言い放っている。

現在の政府は、みんながウクライナと呼ぶのになれてしまっていますが、歴史的な亡霊でしかありません。 (中略) そして、ウクライナの歴史と称するものは、ルーシ/ロシア/ソ連の千年の歴史と不可分にからみあっているどころではありません——同じロシアの歴史にすぎないのです。

つまり、ウクライナはそもそも国なんかじゃないよ、ということだ。そんな人が、ウクライナとの「交渉」をどう思っているか、というのは想像に難くない。そしてそんな人物を交渉団に派遣するということは、この「交渉」にロシアがまったく本気でないことを如実に示している。

これだけなら、まあありがちなプーチンのマウスピースだろう。でも、もっとあるのだ。

リンクしたWikipediaでもあまり詳しくないけれど、ウッズはこの人物の経歴をかなり細かく見ている。1970年ウクライナ生まれだけれど、1987年にロシアの国家エリート養成機関モスクワ国際関係大学に行っている。2004年からは国会議員を経て、博士課程に行ってもいないのに、いきなり2011年に博士号をもらっている (!!) 。そしてプーチンの寵愛を受けて、2012年にはいきなり文化大臣。さらにその2012年末に、彼は新設された「ロシア軍事史協会」なるものを率いるように命じられている。一応は軍の下にある組織なんだけれど、一般人も参加できる協会で、会員一万人とか。しかも国からものすごい予算がついている。

もちろんその「軍事史」というのは、架空オレ様捏造偽史ですな。

でもプーチンは、他にもこういう「歴史協会」を作っているのだとか。プーチンと対外情報局のセルゲイ・ナルイシュキンは、やはり2012年に「ロシア歴史協会」なるものを作っている。もちろんやることは同じ。百田尚樹の愛国おとぎばなしみたいなものを、まともな歴史だとして広めようというのを、国家レベルでやっているわけだ。偉大なロシア帝国。大ロシア復活、民族統一の悲願。

プーチンは、いきなり今回の侵略を思いついたわけではないし、最近になって急に変ななろう小説ラノベにはまって暴挙に出たわけでもない。もちろん、(あまり) ボケたわけでもない。国内的には10年以上前から、こうしたプロパガンダをきちんと整え、組織を作って予算をつけ、ベースを作り、人心を操作して今回のような侵攻が受け容れられる準備を整えてきた。

そして、いまこの侵攻が起こったのも、単なる日和見的な判断ではなかったかもしれない。このメジンスキーの文章が示す、ロシア帝国300周年、ソ連100周年という歴史の節目は、意外とその判断の中ででかかったのかもしれない。あまりこういう符合を深読みしても仕方ないのかも知れないけれど、プーチンはそういう意味合いももたせられるというのを、計算の中に含めていたのかもしれない。

あるいは彼自身がそういう変な歴史観にだんだんはまっていった可能性も……

 

ということで、人のふんどし持ってくるだけではアレなので、そのメジンスキーの「帝国」史観を如実に示す文章をどうぞ。ウッズ教授は「頭痛もの」と言っているが、まさに。言わば、八紘一宇のロシア版そのものです。ロシアの帝国はよい帝国! ちなみに敵同士が政略結婚したという『イーゴリ遠征物語』は、おとぎ話です。その後のイワン雷帝などの「遠征」やポーランド分割が実は地元住民の自治権を重視した「共存」でした、なんていうのもデタラメ。現実には血みどろの征服に民族浄化です。皆殺しにならなかったのは当時の技術的な限界のせい。そして本稿で指摘される「自主性尊重しまーす」という協定などは、たいがい3日以内に踏みにじられている。

そんなのを全部無視して、「帝国」はみんながいっしょに暮らすというだけのことですよー、とのニュー・スピーク。帝国ってすてき! 帝国って共存共栄! みんな仲良しの証拠。ああそうそう、ポーランドもドイツもみんなロシア帝国の一部とニコライ皇帝が言ってるよね! もちろんそこからは、したがってみんなロシアが奪取してかまわない、という話になるわけで……でもたぶん当人たちは本気。

発表された2月頭なら、「ぎゃははは、お花畑乙です!」と笑えただろうが、いまは笑えないねー。

なお、全部読んでも、あまりの歴史修正主義に頭がクラクラする以外は何のメリットもありません。ぼくも、次にどんなバカなことをどんなふうにこじつけるのか、という興味だけで訳してます。エル・カンターレ様の守護霊インタビューよりひどい代物。でもそれがずいぶんと要職についているということだけはお忘れなく。


ロシア帝国300周年記念に寄せて

ウラジーミル・メジンスキー (ロシア大統領補佐官、停戦交渉団の団長)

2/4/2022

300年前、ロシアは公式に帝国の地位を獲得した。ちなみにソヴィエト帝国——USSR——の100周年記念は来年だ。

この「節目」の日付はだれもが気がついている——学術的な会議や展示会が実施されている。だが問題は、それが目立つかどうかではない。ずっと重要なのは——我々の歴史の帝国時代とどのように取り組むべきか、ということだ。帝国そのものの崩壊とともにその時代は終わったのか? その崩壊を嘆くべきか? 復活を夢見るのか? それとも歴史プロセスの必然を受け容れるべきか?

手短で簡潔な答を出すのはほとんど不可能だ。だがまずは帝国に加わり、そしてその破壊を見た人々がどうなったかをふり返ることは可能だ。まずは、歴史に少し立ち戻るとしよう。


ラテン語で「Imperium」は「権力」という意味だ。政府の形態によっては、「帝国」は王政にも共和国にもなれる。帝国とは何かという考えは、一度ならず変化してきている。単一民族国家のイデオローグたちは、多くの反帝国的なウソを持ち出すだろう——見え透いた政治的な目的のためだ。そしてその結果として「帝国」という言葉そのものが、ある種の邪悪と関連づけられてしまう——ハリウッドのスターウォーズ式に。だが「帝国」という言葉は悪い言葉ではない。単に民族、文化、言語、宗教の異なる人々が、通信や通商、経済、そしてときには軍事的な統一性を客観的に必要とする領土の中で、共存するための国家形態にすぎない。

古典的な帝国——ローマ帝国は、当時の通信通商システムである地中海を中心とした人々の連合だ。後の大英帝国は (他の植民地帝国同様に) 彼らが支配した通信通商ルーツのまわりの土地をまとめたのだ——グラスゴーからボンベイまで。

ローマが統一したというのは、少なくとも「法と市民という共通の分母」をもたらしたというだけだった。ところが新時代の帝国は、ヨーロッパ大都市国家がまとめた領土から資源を吸い上げるだけで、これは残虐な植民地政策と化した。だからこそローマ帝国は何世紀も続いたのに、植民地帝国はその何分の一もの期間しか続かなかったのだろう。基本的に、これらは少なくとも二つのまったくちがう帝国だった。統一の利益が一方的なものだと、「隷属の帝国」が生まれた。連合の利益が共通のものであれば「帝国プロジェクト」が生まれる。現代の高名なイギリスの 学者ドミニック・リーベンによれば、帝国は次のように定義される:

      a) 大きな領土を大きな国が占拠し

      b) 多くの人々がそこに含まれ

      c) 軍事・経済にとどまらず、文化、イデオロギー的にも権力と魅力を持つ

300 年前のロシア元老院は、すでに実現していた現実を形式的に追認しただけだった。彼らはツァーのピョートル・アレクセーヴィッチに、大帝という「元老院が与えた」称号を授与したのだ。言葉は変わっても、本質は変わらない。ロシアは何世紀にもわたり、多民族、多宗教国家として、強い中央政府と多様な文化を持つ存在として形成されてきた。つまり、帝国という地位の獲得は歴史の全体を通じて自然に準備されてきたものだったのだ。そして、もしロシアが当初は「単一民族国家」として発達し、部族の「帝国的な」連合でなければ、そもそもロシアはありえだろうか? スカンジナビアや、スラブや、フイン=ウゴル起源の部族という国際エリートが手を結んだのでなければ、ロシアはありえただろうか?

第一段階のロシア国家は、二つの通信通商システムのまわりに人々を統合した。バルト海から黒海ビザンチウム (「ヴァリャーグからギリシャ」まで)、そしてバルト海からカスピ海ペルシャ中央アジアの道だ。通商と軍事の統合はイデオロギー的な統合を必要としたので、これはキリスト教の採用により定式化された。こうして、ラドガからキエフまで巨大な国家が誕生し、これが12世紀半ばまで続いた。比べて見よう。シャルルマーニュの有名な帝国は、少し前に勃興したが、その成立から40年後に崩壊した。ロシアは数世紀にわたり内的な統合を維持した。断片化の時期においてすら、ロシアを構成した人々は、単一の王朝と共通の文化で結ばれていた。これはまさに、独自の共存体験の存在を如実に物語るものではないだろうか?

『イーゴリ遠征物語』を思い出そう。コンチャーク汗とイーゴリ王子の戦いで重要なのは、単一民族部族同士の破壊ではない。王子の息子が汗のロシア正教に改宗した娘と結婚するという部分だ。多くのロシア王子は韃靼人の女性と結婚し、これがかつての敵との「和解」に貢献して、一般に相互の文化的な豊かさを高めた。だが、もしロシア拡大が「絶え間ない暴力」として提示されていたなら、「従属させられた人々」が、こんな広大な領土において、何世紀にもわたり恐れることもなくまとまりを維持できたのかは、まったく理解不能になってしまう。

その後のロシア拡大をめぐる実際の状況をしめす赤裸々な例が、「カザン征服」と呼ばれるものだ。イワン雷帝の遠征のはるか昔から、100年近くにわたり、モスクワは敵対するカザン貴族が詣でる中心地となっていた。汗国カザンの全住人が、モスクワのツァーを崇拝していた (それ以前は、チュヴァシュ族とマリ族はチェチェンのグロズヌイに忠誠を誓っていた)。カザン遠征自体でも、カシモフなど臣下のタタール人に加え、カザン貴族の大きな一部がコソロフ=ベクに率いられて参加した。このカザン貴族たちは、現代的に言うならカザン亡命政府の代表だ。つまり「ロシア人によるタタール人の隷属」などはなかったのだ。起きたのは、完全に民族とは無関係の貴族同士の対決であって、一つの国という枠組みの中で、もっと有効なコミュニティ生活の形態の形成が起きただけなのだ。

カザン汗の所有物がモスクワに召し上げられても、あの残虐な時代にありがちだった地元住民の抹殺は起きなかったし、彼らにモスクワの規則が押しつけられることもなかった。それどころか習俗は維持され、地元エリートは統合された。1554年にバシキール人もロシアのツァーから「勧告状」を受け取った。だが外敵から守るというモスクワの義務を受けて、自分たちの土地の権利や統治方式温存は認められた。だからこそ間もなく——「動乱時代」(16末-17世紀冒頭) に——カザン人、バシキール人など、ボルガやウラル地方の「非ロシア」住民たちは、その好機をとらえてあわてて「独立」回復を宣言したりはしなかった。それどころか、外部の侵略者との対決で積極的にモスクワを支援したのだ。

似たような状況が、帝国史上で最も議論の分かれるエピソードにおいてすら繰り返された——18世紀の「ポーランド分割」とポーランド領土の一部編入だ。文化的にはロシアの貴族にとって、ポーランドは多くの点でお手本だった。ポーランドの洋服なくしては名士を名乗れないほどで、「プチブルジョワ」(都市住民) や「インテリゲンツィア」という概念そのものが、ポーランドからロシアにもたらされたのだ。セントペテルスブルクは、何十年にもわたり、ポーランド貴族内部の矛盾を繊細に利用し続け、「彼ら」の中の僭称者を玉座につけようと工作してきた。だがエカチェリーナ二世は、ポーランドをヨーロッパの地図から消し去ろうとしただろうか? まともな歴史家ならだれでも知っている——いいや! そんなことはしなかった。彼女は最後のポーランド王ポニャトフスキを、可能な限り「保護」し続けたのだ。そして「分割」にもまったく乗り気ではなく、プロイセンオーストリアからの圧力に負けて従っただけだ。さもないとこのドイツの両国は、ポーランドをあっさり「二分」して、ロシア正教会のロシア人たちがいるすべての土地を自分たちの懐におさめてしまっただろう。これは歴史的な事実だ。そしてエカチェリーナ二世は意図的にロシアを、古来の各種ロシア公国の旧領土だけを含めるように抑えた。

だが地元のロシア正教徒たちにとって、これはひたすら有利な話となった。ポーランドの貴族も一般的な帝国エリートに参入できるし、地元の自治体制は何十年にもわたって維持されたのだ。

帝国に自ら参加した多くの民族も、積極的に「ロシアのツァー」の庇護を求めた。17世紀には、「周縁部」の小ロシアのコサックたちは、国民宗教弾圧政策に抵抗し、一度ならずアレクセイ・ミハイロビッチ (モスクワ大公、静寂皇帝) への忠誠を誓ったのだった。モルダヴィアとワラキアの両ロシア正教公国は、しつこくモスクワの庇護を求めた。当時のモルドバ都市住民ドシテオスは「モスクワから光がもたらされる」と書いている。

ロシアには、民族丸ごとが移転している。17世紀初頭、オイラト族 (西モンゴル) は戦争好きな満州女真族の攻撃に抵抗できず、現代のカザフスタンとシベリアの土地に移住することにした。これはまた、彼らが生き残るための方法だった——文字通り。オイラト族はモスクワの庇護を求め、ロシアに移転したことで新しい名前を得た。カルムク人だ。

カルムク人たちは正直かつ勇敢に新しい故国に仕えた。ピョートル一世は「大使節団」に出かけるにあたり、ロシア南部国境の保護を公式に「カラマツキーのアユク・カーン」に任せた。大北方戦争では、カルムク人たちはカルル十二世を捕まえる寸前まで行き、1812年にはボロディノ付近で戦い、ロシア軍の先頭に立ってパリに入城した。

カザフのジュズ (部族連合体) は18世紀に「自発的に」ロシアの一部となった。これはズンガリアからの軍事的脅威のためだ。その後まもなくジョージアオスマン帝国ペルシャからの脅威を受けてロシアの一部となった。もちろん、帝国は「自然に」こうして生まれた。だが一つ確実なことがある。一般人にとって、「帝国に加わる」のは常に多くの利点をもたらしたということだ。奴隷貿易廃止、血みどろの部族抗争終結、そしてもちろん社会経済発展の大きなきっかけの原動力になったからだ。

帝国の中心は常に、地元住民の私有財産権を擁護してきた。たとえばブリヤートでは、遠いアガ・ブリヤートたちの土地保有を保護するため、アレクサンドル三世が別個に専門の帝国勅令を出している。これはロシア帝国をヨーロッパの植民地化とはっきり区別しているものだ。ヨーロッパの植民地化は、土地の奪取、飢餓、土着民の殲滅を伴うものだった。周縁部を統合することで、ロシアは住民たちが「大きな世界」に参加する機会を開き、臣民たちに安全と発展を提供したのだ。同時に——そしてここは特に強調しておきたいところだが——そしてこれは、ロシアの拡張と、その「参照先」となるヨーロッパのものとの最大のちがいだが——イデオロギー言説の中で「白人」による「文明化」の使命などという話は一切出たことがない。

ロシアは「ロシア人国家」が非ロシア人を支配するなどと自認したことはない。それどころか原則として、農奴制は新領土には拡張されなかった——ひどいことに、ロシアの農民たちのほうがポーランドやバルト国やフィンランドの農民よりもひどい状況に置かれることになってしまったほどだ。

コーカサスイスラム教地域では、カーディーの裁判官たちが国庫から給料を得ていたのに、シャリーア法 (!) が並行して維持された。地元住民は、どこに苦情を申し立てるか選ぶ権利を与えられた——「民事」帝国法廷か、地元のお馴染みの法廷か (公式には、シャリーア法廷が廃止されたのはやっと1927年になってからだった)。

帝国のバランス追求は常に、地元エリートの吸収により行われてきた。それにより彼らはまったく別種の新しい機会が与えられたのだ。これは当初から、ロシアでは普通のことだった。モスクワは、ロシア人だけでなくリトアニア人、ポーランド人、タタール人、コーカサスなどの貴族を受け容れた。モスクワと新エリートたちの「相対的な地位」を決めるため教区名鑑 (訳注:貴族名鑑って事かな?) が導入された。当時のロンドンで「イギリス、インド、アラブ、北米インディアンの権利と相互の敬意を確保するため」の似たような出版物など想像できるだろうか?.

帝国のエリートたちは常に多民族エリートだった。「カザン征服」の数年後、最後のカザン支配者ヤデガル=マグメット自身が、リヴィオニアでロシア軍の一員として勇敢に戦った。1530年代には「外国人」グリンスキーがこの国を統治し、1575-76年にはサイン=ブラート・カーン (洗礼名シメオン・ベクブラトヴィチ) はツィラヴスカヤ皇女と結婚して、モスクワで (ソ連映画の表現を借りるなら) 「王代行」として統治するのだ。

ポチョムキン (ポーランドのポテムスキー末裔) と Czartorysky, Kochubei, Gurko, Paskevich and Dibich, Shafirov and Bagration, Osterman and Gordon, Kapodistria and Totleben, Osten-Saken, Benkendorf and Palen, Bellingshausen and Minich, Barclay de Tolly and Miloradovich, Kotlyarevsky and Loris -Melikov, Aivazovsky and Glinka, Witte and Korf… 個別にはそれぞれドイツ人、ギリシャ人、小ロシア人、ポーランド人、タタール人、ジョージア人、ユダヤ人、オランダ人、アルメニア人、セルビア人だ。だがここサンクトペテルブルクにおいては、みんなロシア人だった。伝説によれば帝国建設者であるニコライ一世はそう言うのが習わしだったそうだ。


つまり我らが国家は、思い出せる限りの時代からずっと帝国であった。そして人々や領土、市民の統合の形において、これは常にロシア国家における最も自然な存在形態だった。ピョートル一世が皇帝へと変身したのは、単に帝国的な制度形成の原動力をもたらしたにすぎない。「いまは学者であり、いまは英雄であり、今度は航海士であり、今度は大工」というのが、万人を「共通の福祉」のために奉仕するよううながす国家の理想として広まっている (訳注:ピョートル一世は多才で、こうしたさまざまな技能を自ら習得して活用していた)。彼の下で、地域分割が実施され、帝国国家制度が作り出され、単一の「官等表」が承認された (重要な点としてピョートル一世自身が、無限の専制君主だったのに、その官等表における地位は「衛兵大佐」止まりだった)。ピョートルは「地位としての」王であると感じ、家臣にはその勤務において、怠りなしに同じ態度で臨むように要求した。

20世紀になると、ソヴィエト版の「人民の召使い」が、ピョートル大帝の「帝国の兵士」要求の生まれ変わりとなる。このよい見本は、ソ連における党エリートの子弟の運命だ。彼らは戦争中に、後方ではなく前線に出ようとした。スターリン、ミコヤン、フルシチョフ、ヴォロシロフの息子は、みんな敵との戦闘中か捕虜として死んだ。

エカチェリーナ二世は啓蒙主義の精神に則り、柔軟な法律を開発することで帝国を強化しようとした。ボルガ川に沿って旅行しつつ、彼女は1767年にカザンからヴォルテールにこう書いている。「ここの都市では、人口は二つのちがった国民で構成されていて、お互いまったく似ておりません。一方で、万人に適切な衣装を縫うことが必要なのです。(中略) この帝国は特別で、現在の法制が帝国の現状とほとんど整合していないことは、ここにこないとわかりません」。彼女が召集した法制委員会は、その代表性において空前のものであり (農民代表や外国人代表まで含まれていた)、単に便利な一般的帝国法を示すだけのものとされていた。残念ながら、これは実現しなかったものの、その後の都市への「憲章」、貴族への規制、宗教的寛容の方針——こうしたすべては、次第に帝国から地元の特色にあわせて「試着」されたのだった。

彼女の孫アレクサンドルの下で、周縁部は未来の改革を検証するための実験場となった。農民はバルト諸国で解放された。立憲政府がポーランドフィンランドで試された。だがアレクサンドル二世は、帝国的なバランス探すという分野で、他のだれよりも先に進みおおせた。地主の権力は、地方自治のシステムにより置きかえられた。ゼムストヴォ (訳注:地方自治の仕組み) のおかげで、多くの経済や税制問題を草の根レベルに移譲できるようになった。「自分で管理したい? なら責任を取りなさい」と当局は公衆に告げたのだった。市の評議会は階級がなくなり、資産資格だけに基づいて形成された。これは当時としては最も進んだやり方だ。また普遍的徴兵制の導入も忘れてはならない。農民、俗物、各地からの労働者たちは、いまや同一の戦闘と教練を受けるようになった。軍は帝国にとっての人種や階級のるつぼとなったのだ。

だが同時に、大ロシアナショナリズムの発想が力を増してきた。だから、帝国の最も忠実な僕たちが、杓子定規な「ロシア製」の尺度に当てはまらないと、裏切りの嫌疑をかけらるようになった。同時に、特に「ドイツ」問題が浮上した。すでにアレクサンドル二世はこう認めている。「さて……これは問題だが、以前の若かりし時代には、だれもバルト海を見ようとは思わなかったし、彼ら自身も見知らぬ存在として自分のことを考えたりしなかったように記憶しているぞ」。その半世紀後、「国内の裏切り者」——ドイツの名字を持つ将軍や役人、さらには皇后ですら——第一次世界大戦敗戦の責めを負わされることになる。

同じまちがいが中央アジアでも冒された。中央アジア諸国の併合は、以前の帝国の習慣とはちがい、必ずしも地元エリートの完全な統合を伴うものではなかった。それどころか、サンクトペテルブルクからの役人が、「ヨーロッパモデル」に基づく管理手法を導入した。そして帝国の中心部は相変わらず中央アジアに大量投資を行い、道路をつくり、灌漑をし、それは見返りに受け取ったものよりも多かったのだが、これが中央にとっては異例の緊張関係を引き起こした。

帝国はまだ呪われていたのか? 憲法制度の基盤は1905年の時点ですでに敷かれていた。政党、議会があった。国内資本が経済の中でますます重要な役割を果たすようになった。ちなみに革命後、かつて「権力の座にあった者」たちがひとたび移住してみると、その輩はほとんど乞食だった。というのもみんな、その資産をロシアの中にとどめておいたからだ。

なぜすべてが崩壊したのか? 経済的な理由は、パラドックスめいてはいるが、発展の成功にあったのであり、空想上の「危機」などにはなかった。成功は期待をふくれあがらせてしまい、急進派の眼をくらませた。経済成長を生み出した工場の持ち主たちは、政治権力をほしがった。その手で成長を作り上げた人々によって生み出されたのが——社会正義だ。輸入物のヨーロッパ理論のレンズを通して、統治形態としての帝国は何か不活性なもののように見えてしまった。帝国建設の成功は、一目でわかるものではない。さらにその上——当局のひどいまちがいが重なった。世界大戦にひきずりこまれるのを容認してしまったことだ……

ロシア、ドイツ、オーストリアハンガリーオスマンといった帝国の廃墟の上に、新しい国民国家の「主権国の大行進」が即座に展開した。しかも、それが平和裡かつ穏やかに行われるところだけに限らないものとなった。

20世紀の歴史は全体として、帝国の崩壊後は「平和な離婚」の例をほとんど知らない。ここで第一次世界大戦の結果にしたがい、ポーランドの「国民自決」プロジェクトはやっと実施されたが、すぐにユダヤ人のポグロム、小ロシア人やベラルーシ人に対する差別が起きた。そして ヴォルィーニをナチスが占領すると、反対のことがおきた。ウクライナ国粋主義者たちは、自分たちの「独立」のビジョンを体現した。そして何千人ものポーランド人の血を街頭に流したのだった。

オスマン帝国のエリートたちは、その少し前に、「時代精神」に則って、「自己国粋化」の方針を始める。その結果はアルメニア人口の虐殺だった。

ユーゴスラビアは眼の前で崩壊しつつあった。「青色」その他のヘルメット (訳注:青色ヘルメットは国連軍) の仲裁を通じて「平和的な離婚」はどんな結果になっただろうか? 戦争、民族浄化、難民……ソ連の崩壊へと早送りしよう——何世紀も平和裡に共存してきた家や土地を失った何百万人もにとっては悲劇だ——それも、帝国の境界内に暮らしていたというのに?

ロシア帝国の崩壊に話を戻すと——当時のボリシェヴィキたちは、内戦後に、統一国家創設の道をたどれただろうか? 私は、それはどう見てもうまく行かないと思う。単一の不可分な「ロシア国家」という発想は、古い国境内での国のすばやい復活を不可能にしてしまう。したがって、未来の新しい魅力的なイメージが形成された。USSRというプロジェクトだ。つまり「人々の家族」だ。そしてある程度までは、これはうまくいった。その証拠は、1930年代の経済的な大発展、1945年の勝利、科学、スポーツ、宇宙飛行の達成だ。

だが共産主義の見通しが破綻したとたん、1922年の連邦結成条約の基盤に埋め込まれていた地雷 (残念ながら間に合うように除去されていなかった) が作動した。国粋主義者たちが勢いづいた。そしてそれは、ロシア共和国内部ですら同じだった。ご記憶だろうか? 周縁部に補助金を出すために、共産主義者どもはロシア国民から活力を奪っているのだという叫びを?だから三国だけでまとまろう、ロシア、ウクライナベラルーシ。そうすれば生き延びられるよ! だがだれも残留しなかった。そうした「発想」は連邦の崩壊に拍車をかけただけだった。だが同じ形で、ロシアが破壊された可能性もあった。ありがたいことに「ロシアはロシア人のために」「周縁国にエサをやるな」といった主旨のスローガンは醜悪なもので、父祖の地の千年史すべてに反する幽霊でしかないのだということを、我々は間に合うように気がついた。そうしたスローガンに抵抗することこそが、あらゆる愛国者、あらゆるロシア文化内の人物の仕事なのだと気がついた。そしてそれは、その人の民族は関係ない。


現代の国民国家は、帝国とはちがい、ほんの数百年の歴史しかないから、その長命性をみきわめるにはまだ時期尚早だ。いまや見られるのは正反対のトレンドだ。こうした「新しい国」が、何か共通の基盤に基づいて統合したがっているのだ。EUプロジェクトはまた、それが基本的には新種の帝国だという点でこれまた興味深い。

今日、我々が「ロシア帝国の復興」「USSRの復活」などというノスタルジックな夢に陥るのは、バカげているしおめでたい。だが客観的に言って——友愛に基づく連合の可能性、共通の利益に基づく深い統合、独特な共通の歴史と文化——これこそが世界における我々の圧倒的な競争優位なのだ。これが子供たちの未来だ。それはありとあらゆる人にとって、ひたすら有益で便利なのであり、EUの例からもわかる通り、グローバルトレンドにも合致している。

さらにロシアは1990年代からその影響圏を急激にせばめたが、超大国であることは止めていない。そして、ロシアは帝国となるという歴史的に条件づけられた状態を失ったであろうか? 今日我々がこの用語を使う意味では——世界最大級の権力として、北ユーラシアの人々を単一の政治経済文化的な中心のまわりに統合できる存在となるという意味で、その能力を失ってしまっただろうか? いやいや、それどころかロシアは、この立場においてむしろ己を強化してきた。その自給自足性を示し、制裁や世界での役割を制限しようとする試みが、その自然の——帝国的な!——性質を強めるばかりだというのを示したのだ。

20世紀のあらゆる動乱ですら、ロシアを多くの単一民族国家にばらせなかった。これはつまり、我々は自分自身の意思を持って暮らしつつ、多様性を管理するための独自の独立主権システムを構築できるということなのだ。

特に、これは我々が受けついだ連邦主義のソヴィエトモデルに関係してくる。この体験や、ロシア帝国の体験は、ちがう民族の伝統を考慮しつつ明確な地方構造をうまく組み合わせてきたのだ、という点は、認識すべきだし研究する価値がある。国家の強さ、その長命は、美しい帝国のファサードだけに依存するものではない。むしろ地方部の福祉と利益、その単一のインフラや通信通商ルートの枠組み内における「接続性」こそが重要なのだ。

ロシアは常に、友愛的な共存体験と、文化の認知、ご近所のまさに生活や思考のありかたの受け止め方に強みを持っていた。虚勢も、傲慢さもなく、帝国をつくりあげるあらゆる国民が、国とその子供たちの共通の福祉のため、肩を並べて働いたのだ。これにより、最も混乱した時代においてすら、国の統一は維持されてきた。そしてロシア帝国300周年を祝うにあたっては、これが学ぶべき最も重要な教訓なのだ。

Previously published in The Historian #1, 2022.


今回も、機械翻訳さんのお世話になっております。原文はこちら (ロシアの元サイトはいま遅すぎるので、Waybackマシンにしてあります):

web.archive.org

ロシアの攻勢と新世界の到来 (2022/02/26): 侵略成功時のロシアの予定稿 全訳

訳者まえがき

まちがって公開されたとおぼしき、ロシアがウクライナ征服に成功していた場合のロシア国営通信 RIA予定稿の全訳。すぐに引っ込められたが、Wayback Machineにしっかり捕捉されていた。すごい代物。いくらでも言いたいことはあるが、読めば多くの人は同じことを考えるだろうし、ある100年近く前のドイツの人が書いた文章との類似も明らかだとは思う。

以下のツイート経由で存在を知った。ありがとうございます!

翻訳ソフトの力を借りて、英語経由で翻訳しました。重訳だがそんな複雑な文ではないので、大きなミスはないと思うがお気づきの点があればご指摘いただければ幸甚。また文中のCTSO、ユーラシア連合、ミュンヘン演説などへのリンクは訳者が勝手に入れたもの。

(あとオリジナルでは写真は関連記事へのリンクになっている。その関連記事の題名を、最初は中見出しで処理していたが、文とずれているので写真のキャプションに入れ込みました)

訳者 山形浩生 hiyori13@alum.mit.edu


ロシアの攻勢と新世界の到来 (2022/02/26)

キエフ市中心
キエフ市中心 © REUTERS / Valentyn Ogirenko

ピョートル・アコポフ (Petr Akopov)

目の前で新世界が生まれようとしている。ロシアのウクライナにおける軍事作戦は、新時代をもたらした——しかも同時に三つの側面から。そしてもちろん、四つ目の側面としてロシア国内でも。いまここに、イデオロギー面と、我々の社会経済システムのモデルそのものの両方の面で、新時代が始まる——だがこれについては後で別に語る価値がある。

ロシアはその統一を回復しつつある——1991年の悲劇、我らが歴史上の恐るべき大災厄、その不自然な断絶は克服された。そう、多大なコストはかかり、さらに実質的な内戦という悲しい出来事を経てのことでもあった。というのも、ロシア軍とウクライナ軍に属することで隔てられていた兄弟たちが、いまなおお互いに撃ち合っているからだ。だがいまや反ロシアとしてのウクライナはもはや存在しない。ロシアはその歴史的な完全性を取り戻し、ロシア世界をまとめ、ロシアの人々を一体としている——その大ロシア人、ベラルーシ人、小ロシア人というすべてを。これを放棄してたなら、この一時的な分断が何世紀も続くのを容認していたら、先祖の記憶を裏切ることになるだけではなく、ロシアの大地の解体を許したことで、子孫たちに呪われることになるだろう。

(訳注:小ロシアは、ロシア人によるウクライナの呼称/蔑称)

ロシア大統領ウラジーミル・プーチン、ロシア連邦安全保障評議会常任会員たちとリモート作戦会議 - RIA Novosti, 1920, 25.02.2022
ロシア大統領ウラジーミル・プーチンロシア連邦安全保障評議会常任会員たちと作戦会議 - RIA Novosti, 1920, 25.02.2022:「プーチン曰く、ウクライナ国粋主義者たちは外国に煽動されて闘っている」へのリンクだった

ウラジーミル・プーチンは、ウクライナ問題の解決を将来世代に委ねないと決断したことで、まったく誇張抜きで、歴史的な責任を引き受けた。結局のところ、この問題の解決は常にロシアにとって主要な問題であり続ける——理由は大きく二つある。そして国家安全保障の問題、つまり反ロシアと西側が我々に圧力をかけるための前哨拠点をウクライナから排除するという問題は、その中で二番目の重要性を持つものでしかない。

筆頭の問題は常に、分断された人々のコンプレックス、国民的恥辱のコンプレックスだ。ロシアという家はまずその基礎の一部 (キエフ) を失い、さらに二つの国家として、一つの国民ではなく二つの国民として存在するのを受け容れねばならなくなったのだ。これはつまり自らの歴史を放棄し、「ウクライナだけが真のロシアだ」といったイカレた主張に同意させられたり、あるいは無力に歯がみして、「我々がウクライナを失ったとき」 を思い出させられるということだ。ウクライナを取り戻すこと、つまりロシアの一部に戻すのは、十年ごとにますます困難になる——塗り直し、ロシア人の脱ロシア化、ウクライナの小ロシア人たちをロシア人に刃向かわせる動きが勢いを増すからだ。そして西側がウクライナに対し、全面的な地政的、軍事的支配を掌握してしまえば、そのロシア復帰は完全に不可能となる——大西洋ブロックと戦わねば取り戻せない。

訴えかけるロシア大統領ウラジーミル・プーチン RIA Novosti, 1920, 02/25/2022
訴えかけるロシア大統領ウラジーミル・プーチン RIA Novosti, 1920, 02/25/2022:「プーチンウクライナでの主要な衝突は国粋主義者集団とのものである」記事へのリンクだった。
Yesterday, 18:01

いまやこの問題はなくなった——ウクライナはロシアに戻った。これは別にその国家体制が解体されるということではないが、再編され、再確立されて、ロシア世界の一部という自然な状態に戻るということだ。その範囲内で、どのような形でロシアとの連合がまとめられるのか (CSTOユーラシア連合を通してか、あるいはロシアベラルーシ連合国か)? これは反ロシアとしてのウクライナの歴史に終止符が打たれた後に決められる。いずれの場合でも、ロシア人民分断の時代は終わりつつある。

そしてここに、きたるべき新時代の第二の側面が始まる——これはロシアの西側との関係をめぐるものだ。ロシアですらない。ロシア世界全体、つまりロシア、ベラルーシウクライナの三国家が、地政的に単一の全体としてふるまうのだ。こうした関係は新しい段階に入った——西側はロシアがヨーロッパとの歴史的な国境に復帰するのを見ている。そしてこれに対して大声で不満を述べているが、魂の奥底では、その西側ですら、それ以外の形があり得ないことを自分に認めざるを得ないのだ。

ロシアとウクライナの交渉 - RIA Novosti, 1920, 25.02.2022
ロシアとウクライナの交渉 - RIA Novosti, 1920, 25.02.2022

旧ヨーロッパの首都、パリやベルリンのだれであれ、モスクワがキエフをあきらめるなどと本気で信じていたのだろうか? ロシア人たちが永遠に分断された人民であり続けるなどと? しかもそれが、ヨーロッパが統合され、ドイツとフランスのエリートどもがヨーロッパ統合の支配権を、アングロサクソンからもぎとって、統一ヨーロッパをまとめようとしているときに? ヨーロッパ統合が可能になったのは、ドイツが統一できたおかげでしかなく、そのドイツ統一はロシアの善意 (だが賢明なものではなかった) のおかげでしかなかったのだ。それがロシアの大地でも起こるのに不興を抱くのは、恩知らずにもほどがあるだけではなく、地政的な愚行だ。西側全体、まして特にヨーロッパは、ウクライナを影響圏にとどめておくだけの強さを持っていなかったし、ましてウクライナを自分で奪取するだけの強さはなかった。これを理解しないとなると、どうしようもない地政的な愚者と言わざるを得ない。

もっと正確に言えば、選択肢は一つしかなかった。ロシア、つまりはロシア連邦の将来の崩壊に賭けるということだ。だがそれがうまく行かなかったという事実は、20年前にすでにはっきりしていたはずだ。そしてすでに15年前の、プーチンのミュンヘン演説の後では、つんぼですら聞こえたはずだ——ロシアは復活しつつあるのだ、と。

ロシア連邦大統領府 副長官 ロシア連邦大統領広報官ディミトリー・ペスコフ - RIA Novosti, 1920, 25.02.2022
ロシア連邦大統領府 副長官 ロシア連邦大統領広報官ディミトリー・ペスコフ - RIA Novosti, 1920, 25.02.2022:「ロシア、ウクライナが交渉を行うのに合意、とペスコフ」へのリンクだった。

いまや西側は、ロシアが戻ったという事実のため、ロシアを犠牲にして儲けようという計画を正当化しなかったため、西側の領土を東に拡大するのを容認しなかったために、ロシアを罰しようとしている。我々を罰しようとするにあたり、西側は自分たちとの関係がロシアにとって決定的な重要性を持つのだと考えている。だがもうとっくの昔にそんな状況ではなくなっていた——世界は変わったのだし、これはヨーロッパ人だけでなく、西側を支配するアングロサクソン人たちもよくわかっていることだ。ロシアに西側がどれだけ圧力をかけても、何も起きない。双方には、対立の昇華に伴う損失が生じるが、ロシアは道徳的にも地政的にもそれに耐える用意がある。だが当の西側にとって、対立の高まりは巨大なコストがかかる——しかも、その主要なコストはまるで経済的なものではないのだ。

ヨーロッパは、西側の一部として、自立を求めた——ドイツによるヨーロッパ統合の活動は、アングロサクソンイデオロギー的にも、軍事的にも、地政的にも旧世界を統制している状況では筋が通らない。そう、そしてそれは成功することもできない。というのもアングロサクソン人たちは、統制されたヨーロッパを必要としているからだ。だがヨーロッパは、別の理由からも自立性を必要としている——アメリカが孤立主義に入ったり (これは高まる国内の紛争や矛盾の結果だ) あるいは地政的な重心が移行しつつある太平洋地域に注目するようになったりしかねないからだ。

ブリュッセル欧州評議会ビル上のEU旗- RIA Novosti, 1920, 25.02.2022
ブリュッセル欧州評議会ビル上のEU旗- RIA Novosti, 1920, 25.02.2022:「ヨーロッパ評議会でのロシアの権利停止」記事へのリンクだった。

だがロシアとの対決は、アングロサクソン人たちがヨーロッパをひきずりこもうとしているものだが、ヨーロッパ人から独立の可能性すら奪ってしまうものだ——ましてそれが、ヨーロッパが中国と決別しようとしているのと同じやり方だというのは言うまでもない。もしいまや「ロシアの脅威」のおかげで西側ブロックがまとまるため、大西洋の英米人どもが喜んでいるなら、ベルリンとパリは、自立の希望を失ったおかげで、ヨーロッパプロジェクトは中期的にあっさり崩壊するというのを嫌でもわかるはずだ。だからこそ独立精神のあるヨーロッパ人はいまや、東部国境に新たな鉄のカーテンを構築するのにまったく興味がないのだ。それがヨーロッパにとっては座礁の岩場になると認識しているからだ。世界指導者としてのヨーロッパの世紀 (もっと正確には5世紀) はどのみち終わる——だがその将来に向けて様々な選択肢はまだ可能なのだ。

新世界秩序の構築——そしてこれは現在の出来事が持つ第三の側面だ——は加速しつつあり、その輪郭はアングロサクソン的グローバリゼーションの覆いを通じて、ますますはっきり見て取れるようになりつつある。多極世界がついに現実となった——ウクライナでの軍事作戦を実施しても、西側以外のだれもロシアに敵対するに到っていない。というのも、その他の世界はこれを見て完璧にわかっているからだ——これはロシアと西側との紛争であり、これは大西洋英米人どもの地政的拡張への反応であり、これはロシアが世界における歴史的な空間と場所への復帰なのだ、と。

フランス防衛大臣フロランス・パーリー - RIA Novosti, 1920, 25.02.2022
フランス防衛大臣フロランス・パーリー - RIA Novosti, 1920, 25.02.2022:「ヨーロッパのだれもロシアとは戦いたくない、とフランス防衛大臣」記事へのリンクだった。

中国、インド、ラテンアメリカ、アフリカ、イスラム世界、東南アジア——だれも西側が世界秩序を率いているとは信じていないし、まして西側がゲームの規則を決めるなどとは考えていない。ロシアは西側に挑戦しただけでなく、西側のグローバル支配の時代が、完全かつようやく終わったと考えてよいのだということを示したのである。新しい世界は、あらゆる文明とあらゆる権力中枢によって構築され、もちろんそれは西側 (統一されているかは知らないが) と一緒に行うこととなる——だが西側の条件に従ったものにはならないし、西側がそのルールを決めることにもならないのだ。

原文は以下。

web.archive.org

Wayback MachineがロシアRIAのサイトから拾っているし、訳者は本物だと思っている。Archive.orgに過去10年以上にわたり毎月少額とはいえ寄付を続けた甲斐があったぜ!

さらにウズベキスタンスプートニクのサイトには、まだそのまま堂々と載っている。おそらく本物。

uz.sputniknews.ru

またパキスタンのメディアには英訳版が載っている。ただしこれ、途中でWestがW-estなったままのところや「ti-mes when “we lost Ukra-ine.”」という変なハイフンの入り方とか、メディアとして正式な記事を渡してもらったのか、翻訳ソフト丸投げかなんかの加工なのかちょっと不明。

https://thefrontierpost.com/the-new-world-order/thefrontierpost.com

また、こちらにも別の全訳あり。

もちろんクリエイティブコモンズなので、いちいち断らず好きに使ってください。原著の人が著作権とか主張するかな〜。でも、いまやもちろんこんなの出したって認めるわけにはいかないと思うんだ。


Creative Commons Licenseこの作品のライセンスはCreative Commons Attribution 4.0 International License. 出所を明記すれば転用、商業利用なんでも可能。

役に立つ研究とは、みたいな話だがまとまらない

昨日、『史記』の記述をもとに「知識人、昔から変わんねーなウププ」という小文を書いた。

cruel.hatenablog.com

するとこれを見てツイッターで「昔の中国の儒学者は、いまの知識人とは役割ちがうんだよ、そんなことも知らないのかバーカ、いまの知識人は何も役にたたなくていいんだよクソが」という非常に建設的なコメントをしてくれた人がいる。えーと、これか。

前半はその通り、というか、あそこに挙げた大室幹雄『滑稽』のテーマはまさにそれ。当時の儒学者とか諸氏百家の「思想」というのは、「ぼくのかんがえたさいきょうの国家統治手法=儀礼プロトコル」であって、儒学者は純粋にお勉強学問をしていたのではなく、自分の国家統治ツールを売り歩く、現代でいえばビジネスコンサルタントだったのだ。

そこらへんは、ぼくが「滑稽」岩波現代文庫版につけた解説でも見てくださいな。

cruel.org

というわけで、ご指摘たいへんにありがとうございます!

でも後半、役に立たなくていいという話は、かつて訳したフレクスナー『役立たずな知識の有用性』なんかでも言われていて、大いに賛成する一方で、ぼくは百パーセント額面通りに受け取るべきではないと思っている。役に立たないことなんていくらでもあるんだけれど、その中でこの役に立たない活動をなぜ特別扱いして「学問」なんて言わねばならないのか? ましてそれを、場合によっては公共的に支援しなくてはならないのか? 知らんがな、とうそぶくこともできるけれど、でもぼくは、それはどこかで問われるとは思う。

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さらに、役に立たなくていいんだ、と胸をはるのは結構な一方で、やる側として多少の知見なり見識なりを出せずに、何の研究、何の知識、何の学問なんですか、というのはある。そんなことを思ったのは、イギリスにジェームズ・ボンド研究の国際査読ジャーナルってものがあるのを知って、笑ってしまったからだ。

jamesbondstudies.ac.uk

もちろん日本も在野のガンダム研究だのウルトラマンの怪獣研究だのは大量にある。いずれも何の役にも立たない。それをみんなが真面目な顔で楽しくやるのはとてもいいことなんだけれど、やっぱそれが、単純なウンチクとトリビアの集積合戦から、もう一段高い「研究」と呼べるような抽象度に移行する水準というのはあると思うんだ。

そしてそういう少し高い抽象度に移ったら、それが使える場面も出るかもしれない。世の中で何か、ジェームズ・ボンドのあり方が課題になったとき(たとえばプーチンが、マティーニはステアとシェイクとどっちがいいかと言い始めて岸田首相が入れ知恵求めるとかさぁ、マクロンが来日したときに鬼滅作者に会いたがって断られたというニュースがあったけど、そのマクロンに鬼滅フィギュア贈るならどういうのがマニア的にささるか、とかさぁ)、それなりの知見は出せてしかるべきだとは思う。

いや、そんなことを期待して研究しろって言ってるんじゃないよ。でも、一応研究とかいうからには、そういう利用にもある程度は耐えられる必要はあると思う。

そして「役にたつ」というのはそんな実用的な話である必要さえないよ。往々にして「役に立つ」というと、それはかなり矮小化されて「お金儲けに使える」という意味に解釈されることが多い。あるいは、何か技術的な応用があるとか。でも実際にはそうじゃない。それは、何らかの社会的な関心/興味に応えることであるはずだし、またさらには新しい社会的な関心/興味を作り出すことであるはずだ。

一部の研究と称するものは、よく侮蔑的にオナニーと言われる。一部のヒッキーニート諸氏は、たとえば伊藤舞雪と葵つかさのどっちがぬけるか、というような「調査」を自分を実験台にして日々やっていたりするわけだが、確かにそれを「研究でございます」と言うのはちょっとはばかられるだろう。

でも、そういう「調査」をある程度集めれば、ある種の属性を持つ人々の嗜好に関する「研究」にもなるし、それがいままでわからなかったコーホートの属性を物語ることだってあるだろう。さらにはその研究が、FANZAプレステージさんにとってはビジネス的にも有益なものとなる場合は多かろう。

そういう幅を考えると、絶対に何が何でも役に立つべきではない、みたいな考え方も、選択と集中でとにかくビジネス的な収益につなげないとダメ、みたいな話も変で、基本は好きなことをやりつつも、その活動としての矜持があり、さらには絵空事半分でもそれが別の文脈に位置づけられる可能性みたいなことは、視界の端っこくらいにおいておいてもいいんじゃないか、とは思う。

うーん、まだ自分でもよくわからないな。たぶん社会的な関心に応えるとか、それを作り出すという話のところにポイントがあると思うんだが、まあそれはまたいずれ。

『史記』に学ぶべき知識人の役割とは

Executive Summary

司馬遷『史記』に登場する焚書坑儒は、儒者どもが体制批判したせいだとされるが、実は穴に埋められた儒者たちにもそうされる十分な原因があったのかもしれない。かつて儒者を厚遇していた始皇帝だが、封禅の儀式のやりかたに結論を出せず、しかも後から揚げ足をとって悪口を述べた儒者の役立たずぶりに呆れた可能性がある。

これは二千年以上の時をこえた現代であっても、儒者=知識人の役割について何かしらの示唆を与えるものかもしれない。いやあ、古典って本当にすばらしいですね。


落合『殷』を読んでちょっと興味が向いて『史記』を実際に読み始めておるですよ。

一応歴史記録で話は淡々と進むし、本紀ではなぜか各種エピソードが何度か繰り返されて、続きを読んでいるつもりが話が戻っていたりして面食らうし、おもしろいからみんな是非読みなさい! というような本ではないのは事実。ぼくも意地と酔狂で読んでいるけれど、二度は読まないだろうなあ。

でも各種のノベライズ本のような講談小説じみたおもしろさを期待しなければ、なかなか楽しい部分も多い。いろいろ後の各種おはなしの元ネタもたくさん出てくるし。

やっぱ最初のほうで意外だったのは、酒池肉林で有名な、殷の紂王。酒と女に溺れていたんだから、さぞかし色ボケ暴飲暴食の、デブで暗愚の凡帝なんだと思ってたら「天性能弁、行動敏捷、見聞に聡く、素手で猛獣をたおし、悪知恵があって讒言も言い負かし、白を黒と言いくるめられた」そうな。すごいじゃん!

さらにご乱交を諌めた家臣を「おまえのような聖人の胸には7つの穴があると聞いているが、確かめてやる」と言ってそいつの心臓取り出して眺めてみたとか、最後は周の武*1の攻撃を受けて滅びるんだけれど、そのとき鹿台にあがり、宝玉で飾った服をまとって火に飛び込んで自害とか。北斗の拳のもとネタですか、という感じ。ドラマ作るべき。

あとは、かの九尾の狐が玉藻の前になる(そしてナルトに入る)以前の姿だった褒姒ちゃんが出てきたりすると、おおここにおいでなすったか、という感じではある。

が、閑話休題。しばらく読み進めるうちに、昔大室幹雄の名著『滑稽』で言及されていた、秦の始皇帝の話が出てきてとても懐かしかったと同時に、現代にとってもそれなりの教訓がある話だなあ、と思ったのです。

秦の始皇帝というと、もちろん焚書坑儒で有名ではあり、その後の歴史記録を担ったのは儒学者どもなので、うらみつらみもこめて始皇帝はなにやら反知性主義 (悪い通俗的な誤用の意味で)の暴虐非道な暴君であり、そのために国が滅びたような書き方をされることが多い。史記は基本的に、あらゆる皇帝、ひいては国の興亡は、その君主がどれだけ儒教的な徳を積んでいるかで決まる、という立場だから。一応、儒者が体制批判をしたので始皇帝が怒って焚書坑儒に乗り出した、というのが公式のお話だ。

が、実は秦の始皇帝は、決してそんな無学なバカではなかった。若き聡明な君主でもあった始皇帝は、当初は儒学者もたくさん雇っていたのだ。

でも、それがなぜ豹変して儒学者を皆殺しにするほどになったのか? もちろん自分の政策を批判されたせいもあるだろう。(ここらへんの話は後で始皇帝の話を読んで別に書きました。ご参照アレ)

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でも、どうもその前段がある。実は、秦の始皇帝が儒学者とからむ記述は『史記』で他にもある。「封禅の書」という部分だ。上のちくま学芸文庫版だと、第2巻に出てくる。そしてそれは、知識人の役割、という点でなかなか示唆的だ。

興味ある向きは実際に読んでほしいけれど、中国の支配者たるもの、中原を制するにあたっては、封禅の儀式というものをやらねばならない。『史記』の「封禅の書」の冒頭にも、封禅の儀式やらないで、何の支配者か、何の帝か、と書かれている。秦の始皇帝も、それは十分に承知していた。そしていろいろがんばった挙げ句、天下統一と建国の成果もあげたし、ここらで本格的に皇帝となるぜ、と思った始皇帝は、伝統に従って泰山で封禅の儀式をやろうと思ったわけだ。

が、戦乱の世でもあって、長いこと封禅の儀式なんかやった人はいなかったので、やり方がわからない。そこで、手下の儒学者どもに、そのやり方を相談した。ところが儒学者どもは、あれはちがう、これは簡便法で本当はこうあるべきで、とか相争うけれど 、まったく結論が出ない。

でもって頭にきた始皇帝は「あいつら、ごちゃごちゃ議論するばかりで全然結論でないじゃん」と見捨てて、自分でやり方を調べて、独自に儀式を行った。そして、もちろんその中身は儒学者どもになんか教えなかった。

するとその帰りに、始皇帝は嵐にあった。すると儒学者どもはいっせいに「ほれみろたたりじゃ、オレたちにあいさつしないで儀式なんかやるから」と一斉に悪口を言い始めた。

大室幹雄は、これと焚書坑儒との直接の因果関係について『史記』には明記されていないけれど、でもおそらく無関係ではないだろうね、という指摘をしている。

要するに当時の知識人たる儒学者どもは、ごちゃごちゃ身内であーだこーだと、細かいどうでもいいことで議論するばかりで、必要なときに使える知見を一切出せなかったくせに、部外者が自分なりに工夫して実践したら、一斉に結託して揚げ足取ってケチつけるだけだった。なんかどこかで見覚えある光景ですね。

だから始皇帝は「こいつら役に立たないどころか、ウザイだけのクソじゃん」と判断したわけだ。そんな連中、無駄どころかかえっていないほうがマシな穀潰しじゃん。そしてそんな連中が古い話を持ち出して自分の政策を批判するとかいう生意気な真似をするなら、積極的に始末しようぜ、と思ったらしい。

結局のところ要点は簡単な話。

  • 紀元前から、学者どもの役立たずな重箱内輪もめ体質はまったく変わっていないこと

  • 学問も必要なときには多少の役には立たないと、いずれ穴掘って埋められるぞ。

ある意味で始皇帝は、正しい意味での反知性主義(象牙の塔の現実離れしたインテリどもなんか要らねえ!)の非常に立派な実践者だった、ということだ。そして一方の儒学者=知識人は、ここから何かしら考えるところがあってもいいのではないか、とも思う。焚書坑儒から数千年たったこの21世紀にあってもね。

ちなみに落合淳思は、酒池肉林も焚書坑儒も、たぶん創作だよ、というようなことを指摘している。

もちろん、『史記』にある通りの形で起きたとは思わないけれど、たぶんその元ネタみたいなことは、歴史のどこかで起きていたんだろうとは思う。

というわけで、いやあ、古典って本当にすばらしいですね。それではみなさん、サイナラ、サイナラ。(史記はまだ先が長いんだよなー。全部読むのか、オレ)

殷代の甲骨占いの再現! メイカー的実証歴史研究。甲骨占いの割れ目の出方は操作できる!

Executive Summary

 落合淳思『殷』は、落合の甲骨文研究に基づく、殷の社会についての分析で、非常にしっかりしていておもしろい。同時にその殷の研究自体が、直接資料である甲骨文を中心に研究しようとする立場と、後代の創作があまりに多い文献を重視する立場が交錯する場になっていることもわかり、研究の現在の状況が如実にうかがえるのも楽しい。

 特におもしろいのは、中で紹介されている「殷代占卜工程の復元」(2006)なる論文。実際に骨を加工して甲骨占いを再現し、どこにひびが入るかは加工次第でコントロールできてしまい、実は占いなんかではなく、為政者の意志を後付で正当化するインチキだったことを暴く! 実際にやってみる手法も楽しく、安易なオカルト古代史や神権政治妄想を踏み潰し、古代人のずるさと合理性を実証できているのがすごい。


 以前ほめたことのある落合淳思。

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 その後、ノーチェックだったけど、キューバに出かける前にふといきあたり、帰国して自主隔離の間に読んだのが、彼が書いた殷についての本。

 殷は亀甲占いを多用していて、甲骨文による直接資料がたくさん残っている。亀甲占いはもちろんいろんな政治場面の判断に使われるので、甲骨文をいろいろ調べることで、当時の統治者がどんな政治判断を迫られていたのかわかり、それによって殷という国の実態がかなり明確にわかるとの本。文献での記述は後世の創作も多くて、結構眉ツバなんだけど、中国ではまだ幅をきかせているとか。

 あと面白かったのは、中国の歴史は唯物論的な歴史の発展段階に従わねばならず、そのドグマとして、必ず奴隷に依存した社会があったはずだということになっていて、このため非常に限られた記述を元に中国の学者が、殷こそがその奴隷社会だったのだと断言しているという話。その解釈があまりに強引で、その後の研究で妥当性が疑われているんだけれど、中国ではこの見方に異論を唱えることはできないそうな。こんな古代研究にまで政治判断が入るのか!

 (奴隷がいなかった、ということではない。奴隷制社会というのは、奴隷が生産活動の主力を担うような社会のこと。だからかつてのカリブ海とか米国南部とか、一部の説ではギリシャ都市国家奴隷制社会。殷は、奴隷はいたけれど生産は一般人が主力で、戦争なんかに奴隷は狩り出されたらしいとのこと)

 が、それと並んで面白かったのが、中でさわりが紹介されている、著者の落合淳思の次の論文。以下のやつだときちんとタイトルが出てこなくてアレだが、「殷代占卜工程の復元」(2006)なる論文。

ritsumei.repo.nii.ac.jp

 何をやっているかというと、実際に骨を削って焼いて、亀甲占いを再現して、どのくらいの厚みにするとうまく割れ目が出やすいかとか、実際の甲骨に見られるいろんな跡はどんな意味を持つのか、というのを確認している!

 で、その結果として、結構あらかじめ決まったところに割れ目が出るような加工ができてしまうのだ、というのを立証して、それが呪術ナンタラなどではなく、当然ながら為政者の権威づけのためのインチキであり政治的ツールだったということを示してしまっている。

 一般人や、それに釣られてか一部の研究者もだけれど、古代史のオカルト史観って大好きで (いやぼくも大好きよ)、こう、諸星大二郎の「暗黒神話」の「卑弥呼は金印の力で暗黒星雲を操り〜」みたいなのに大喜びしたりするし、古代シュメールの恐るべき言霊がとか、荒俣宏帝都物語とか、日本橋は実は水の都だった江戸が近代東京にしかけた呪いだったとか、そんなのがたくさんある。だから殷もすべて甲骨占いに基づいて生け贄と祭儀と呪術合戦で運営されていたオカルト神権政治だった、みたいなことを夢見がちなんだけど、そんなことねえよ、しょせん人間のやることよ、呪術なんか昔からおためごかしよ、打算とインチキと合理主義よ、という身も蓋もない話。すばらしい。

 そしてそれ以上に、実際に骨を削ってやってみる、というのがすごい。というかコロンブスの卵。やっぱり、なんでも実地にやるのがえらい。メイカー精神。ここからもう一歩進んで、「あなたにもできる亀甲占いキット!(好きな結果が出せます)」みたいな商品化するとおもしろそうではある。