みんなありがとう! モンティ・ホール問題が (前より) わかったように思います!

しばらく前に、モンティ・ホール問題がよくわかんねえ、というエントリを書いた。

cruel.hatenablog.com

黒木さんに言わせると、こんな初歩的な代物がそもそもわかんねえこと自体が情けねーよ、ということらしく、すみませんすみません。

とはいえ、これに応えていろんな人がコメント欄を含めていろんなところで説明してくれた。説明なしに「そんなのもわかんないのか、山形バカだねー」みたいなツイートがいくつかあって、それはそれでムカついたんだが、まあ仕方ない。一応弁解しておくと、教科書的な説明は読んでわかるし、シミュレーションもできる。その意味で、まったくわかってないわけじゃないのだ。その一方で、あそこに書いたような考え方のどこがまちがっているのか、昔からわからず漠然と首を傾げていた、という話ではある。が、だからそれがわかってないということなのだ、と言われればそれまでだけど。

そしてそれに対して、多くの人は当然ながら「山形がどこがわかんないのかわかんない」という感想を書いていた。うん。まさにそれがぼく自身のちょっとした悩みでもあったわけだ。そして、山形がどこでひっかかっているのかがわからないが故に、条件つき確率とか扉が100枚あったとしたら、とかどこかで見た説明を繰り返すだけになっていた。それを読んでいるこちら側としては「いやそんなこたぁ知ってるんだよ、そこんところじゃないんだよ、おめーら単に自分がわかってるというのを自慢したいだけだろー」という気になってきた。

でも、その後次第にこちらのつまづいているところを抑えた答があちこちで出てくるようになった。おかげさまで、自分がつまづいていたところがほぼわかったと思う。どうわかったか、と言われると、ありがちなモンティ・ホール問題の解説を繰り返すしかなくなってしまう。ただ個人的につまづきが直ったのは、ハギーワギーくんも同じ情報を持っていて、したがってそこで自分の選んでいた扉を変える選択はない、彼/彼女/それ/Xeは自分の選択にしがみついていていいんだ、というのがきちんと説明されて、それが理解できたときだったと思う。そこがなおれば、それ以降にぼくがウダウダ書いていた話はほとんど意味がなくなる。また、英文のwikipediaの記述をぼくが少し誤解していたのを指摘してもらったのもありがたかった。

個人的に自分がなぜそこで引っかかっていたのかというと、本などでこの問題を読んでいる立場からすると、気分的にはそのクイズの参加者の立場と、そしてそのゲーム全体を観客席から見ているハギーワギー軍団の1人としての立場を往き来するうちに、それらがなんとなく頭の中で渾然一体となっていたようだ。そしてそのハギーワギー軍団(および自分) がすべて対等な集合的存在みたいに感じていて、だれかは必ず山形も選んでいない、モンティがまだ開けてもいないドアを選択してるよね、という発想になっていたのが一つ。そしてそこから先の思考経路は……いまや自分でも、自分が何を考えていたのか、ちょっとわからなくなりつつある。

とはいえ、いまもモンティ・ホール問題を見ると、自分の頭の中でそっちに向かおうとする考えの小さな一部があるのが感じられておもしろい。錯視や錯覚は、それが錯視・錯覚だとわかっても、やっぱり長さがちがって見えるし動いて見える。いや、たぶんそれとはちがうんだろうな。映画「ビューティフル・マインド」で、正気に返ることにしたあとも、かつての幻覚の男と少女がよびかけ続ける場面があるけど、あんな感じ。

youtu.be

その昔、高校でサッカーか何かやっていたとき、フリーキックのときに突然「あれ、ゴールに入れればいいんだよな。あっちのゴールは人がいっぱいいるけど、こっちのゴールはキーパーしかいないじゃないか。わざわざ混んでるゴールに入れることはない。なぜみんなそんな簡単なことを思いつかないんだろう、オレって天才か、わっはっは」と思って、いきなり向きを変えてオウンゴールをしでかしかけたことがあったんだけれど、 (確かキーパーが止めてくれた)、なんか一つ重要な条件をつごうよく見落とすことで、だれも考えなかったような発想がスルスルまとまったような気がすることがあって、すごく気持ちいい。たぶん6次元を3D図形で表現しかけた先生もそういう感じだったんだと思う。

cruel.hatenablog.com

が、もちろん自分がそこで見落としていたものがわかると、「なーんだ」ということにはなるんだけれど、でもあのスルスル考えがつながったときの気分はきわめて爽快。たぶんそういうのと何か関係してるんだろう。

が、何の話だっけ。いずれにしてもみなさんのおかげで、前よりはモンティ・ホール問題の理解は進んだと思う。ありがとうございます! 多くの人がコメントくれたので、個別にはあいさつできませんが、特に人の頭の中のよじれまで推測してくれた方には感謝しておりますです。

で、お次はトロッコ問題なんだが、ぼくは昔からあんなものをありがたがってる連中の気がしれなくて……

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8c/Trolley_problem.png/1200px-Trolley_problem.png (c) McGeddon CC 表示-継承 4.0

プーチン『ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について』(2021)

プーチンが、ウクライナ侵略の9ヶ月前に発表した論文、というかアジ文。ウクライナはロシアと一体、という文章のように題名だけ見ると思えるが、実際にはウクライナは常にロシアの庇護下にあったし、ロシアが守ってやらないとやってけないぜ、ついでにドンバスとかクリミアとか、ロシア系が多くてみんなロシアになびいているのにウクライナ政府がそれを邪魔してネオナチ国粋主義者が虐殺していて、西側がそれを支援していてけしからん、という文章。

2022年のウクライナ侵略におけるプーチンの考え方を示す資料としてときどき言及されるが、きちんとした訳をみたことがないので (きちんとしていない、機械翻訳以下の訳が東京都市大名誉教授によるものとして存在するようだ) 自分でやりました。翻訳は、クレムリンの公式英訳に基づいている. ロシア語との齟齬があるかもしれないが、チェックしていない.

付記:ロシア大使館の翻訳がすでにあった。わっはっは、壮大に時間を無駄にしてしまったが、まあ複数あって悪いことはない。あと、ロシア大使館訳を注なしで読んでも、ほとんどこまかいウクライナ史の話 (の歪曲)で、わかんないと思う。ヘーチマンってなんだか知ってた? ぼくは知らなかった。他の部分もヘタすると真に受けて陰謀脳になっちゃいかねないから危険よ。ぼくのつけた訳注見てね。

内容については一応、以下のウィキペディアの紹介がある。

ja.wikipedia.org

内容的には、歴史の歪曲のしかたや我田引水の強弁の妙味を味わうものであって、特に目新しいものはない。読んで損は しないが、すごい得をするものでもない。頭痛が痛くなったりすることがあるので、その点はご注意を。

プーチン『ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について』(2021) pdf 650kb

pdfを読まない人もいるだろうから、一応下に貼り付けておきました

なお、前半6割は、細かいウクライナの歴史のコチャコチャした歪曲で、まったくおもしろくなくて、読む必要はない。後半だけ読んでも十分。あまりに馴染みがないものは (つまり山形ですら知らなかったものは) 訳注をつけておいたが、内容はウィキペディアで見たことのまとめでしかないので。また以下のウェブ版は小見出しをつけたけれど、原文にはこれはない。

なお、ポモキャンセルカルチャーの本の件で、「訳したということは賛成しているということだ/賛成じゃないなら訳さなければいい」みたいなバカなことを言うやつがいろいろ出てきたが、別にこの文に山形が賛成したりはしていないことくらい、わかってよね。

www.youtube.com

ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について

ウラジーミル・プーチン

2021年7月12日

(山形浩生 訳 hiyori13@alum.mit.edu)

はじめに

最近の「ウラジーミル・プーチンとの直通電話*1」で、ロシア=ウクライナ関係について尋ねられたとき、私はロシア人とウクライナ人は一つの民なのだと述べた——単一の全体なのだ。この発言は単に、何やら短期的な考察に基づくものや、現在の政治的な文脈に促されたものではない。これは私が無数の機会にのべてきたことだし、私の固い信念でもある。従って、自分の立場を詳細に説明して、今日の状況についての私の見解を述べておくべきだろう。

まず、最近になってロシアとウクライナの間に生まれた壁、基本的には同じ歴史的、精神的/宗教的な空間だったものの、別々の部分の間に生まれた壁は、私から見れば大いなる不運であり悲劇だという点は強調しておこう。これは、まず何よりも様々な時代に行った我々自身のまちがいの結果だ。だがそれはまた、我々の統一性を常に損なおうと画策してきた勢力による、意図的な活動の結果でもある。この連中が使ってきた手口は有史以来のものではある——分割して支配せよ、というものだ。何も目新しいものではない。だから「国民問題」を利用して、人々の間に不和をもたらそうという試みが出てくる。そのすべてを律する目標は、単一の民族の違う部分を分割して、それをお互いに戦わせるようけしかけることなのだ。

現在についての理解を深めて未来を見据えるためには、歴史を見る必要がある。もちろんこの論説で、千年以上にわたって生じた展開すべてをカバーするのは不可能だ。だが我々が記憶しておくべきロシアとウクライナの双方における、重要で決定的な瞬間に注目することにしよう。

ウクライナとロシアの歴史

ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人はすべて古ルーシ (訳注:キエフ大公国) の末裔である。これはヨーロッパ最大の国家だった。広大な領土——ラドガ、ノヴォグラド、プスコフからキエフやチェルニゴフまで——のスラブ民族などの部族は、一つの言語 (ここでは古ロシア語と呼ぶ)、経済的なつながり、リューリク朝の王族支配と——ルーシのキリスト教化の後は——正教会信仰でまとめあげられていた。ウラジーミル一世 (彼はノヴグロド公でもありキエフ大公でもあった) が行ったこの宗教的選択は、いまも我々の親和性を決定づけている。

古ルーシにおいてキエフ玉座は支配的な地位を持っていた。これは九世紀以来の習慣だ。『過ぎし年月の物語』は預言者オレグがキエフについて述べた次の言葉を簡潔に記録している。「これをすべてのロシア都市の母となそう」

後に当時の他のヨーロッパ国家同様、古ルーシは中央集権支配の衰退と分裂に直面した。その一方で貴族も平民もルーシを共通の領土として、自分たちの故国として認識していた。

断片化はバトゥ汗の凄惨な侵略後に加速した。この侵略はキエフを含め多くの都市を蹂躙した。ルーシ北東部は金帳汗国(キプチャク=ハン国/ジョチ・ウルス) の支配下に陥ったが限定的な独立主権は維持した。南部と東部のルーシ領土はおおむねリトアニア大公国の一部となったが、このリトアニア大公国は——きわめて重要なこととして——歴史記録ではリトアニア=ロシア大公国として言及されている。

王族と大貴族の氏族は、王ごとにその忠誠を変え、お互いに争い合ったが、友好と同盟も結び続けた。ヴォルィーニ領主ボブロクとリトアニア大公アルギダスの息子たち——ポラツク公アンドリュス、ブリャンスク公ドミトリユス——はクリコヴォの戦いでモスクワ大公ドミートリー・イヴァーノヴィチと肩を並べて戦った。同時にリトアニア大公ヨガイラ——トヴェル王女の息子——は兵を率いて金帳汗国のママイに味方した。これはすべて我々が共有する歴史のページであり、その複雑で多元的な性質を反映している。

最も重要な点として、ロシアの西部と東部の人々はどちらも同じ言語を話した。信仰はロシア正教だった。15世紀半ばまで、統一された正教会の統治が続いていた。

歴史展開の新しい段階として、リトアニア系ルーシとモスクワ系ルーシのどちらも古ルーシ領土の集約統一の中心となり得た。たまたま再統一の中心となったのはモスクワで、古ルーシの国家体制をここか続けた。モスクワの大公たち——アレクサンドル・ネフスキー王の子孫——は外国のくびきを投げ捨ててルーシの土地をまとめはじめたのだ。

リトアニア大公国では、他のプロセスも展開していた。14世紀にはリトアニア支配エリートたちはカトリックに改宗した。16世紀にはポーランド王国とルブリン合同に調印し、ポーランドリトアニア共和国を作り上げた。ポーランドカトリック貴族はルーシ領内でかなりの封土と特権を受け取った。1596年ブレスト合同に従い、西のロシア正教会司祭はローマ法王の権威に従属した。ポーランド化とラテン化の信仰により正教会は追放された。

その結果16-17世紀にはドニエプル地方で正教会信者の解放運動が勢力を増した。ヘーチマン (最高指導者) ボフダン・フメリニツキー時代における出来事が転回点となった。その支持者たちはポーランドリトアニア共和国からの自立を求めて闘争した。

1649年のポーランドリトアニア共和国王への訴えで、ザポロチアのコサックたちはロシア正教会信者たちが尊重され、キエフ領主の土地はロシアとギリシャ正教の土地として、神の教会に対する迫害を停めるよう求めた。だがコサックたちの言い分は聞き入れられなかった。

そこでボフダン・フメリニツキーはモスクワに訴え出て、それがゼムスキー・ソボル(全国会議) に採りあげられた。1653年10月1日、ロシア国家最高代表会議の議員たちは、信仰における兄弟たちを支持し、自分たちの庇護下に置くことにした。1654年、ペラヤースラウ会議がその決定を支持した。その結果、ボフダン・フメリニツキーとモスクワの大使はキエフを含む何十もの都市をめぐり、その住民たちはロシアのツァーへの忠誠を誓った。ちなみにルブリン合同の終わりにはこのようなことは何も起きていない。

1654年のモスクワ宛の手紙でボフダン・フメリニツキーはツァーのアレクセイ・ミハイロヴィチに「ザポロチアコサックとロシア正教会世界を、ツァーの強く気高き腕の下に受け入れてくれたこと」に感謝している。これはつまり、ポーランド王とロシアのツァーの両方に訴え出た結果としてコサックたちは自分をロシア正教会の民として提示し、自らを定義づけた、ということだ。

ロシア国とポーランドリトアニア共和国との長期戦の中で、ボフダン・フメリニツキーの後を継いだヘーチマンの一部はモスクワから「距離をおいて」スウェーデンポーランド、トルコの庇護を得ようとする。だが人民にとって、これは解放戦争だった。戦いは1667年アンドルソヴォ平和条約で終わった。最終的な結果は1686年永遠平和条約で確定した。ロシア国家はキエフ市とドニプロ川左岸の土地を併合した。これはポルタヴァ地方、チェルニゴフ地方、ザポロジエ地方を含む。その住民はロシア正教徒の主要な集団と再統合された。こうした領土は「マロロシア」(小ロシア) と呼ばれた。

ウクライナ」という名前は古ルーシ語の「オクライナ」(辺境) という意味で使われることのほうが多かった。この用法は12世紀の文献でも見つかり、各種の国境地帯領土を指すのに使われている。そして「ウクライナ人」という言葉は文献資料を見る限り、もともと外部との国境を主語する国境警備隊を指していた。

右岸はポーランドリトアニア共和国領にとどまり、旧秩序が復活して社会宗教弾圧が強化された。これに対して合同国家の庇護の下に入った左岸は急発展した。ドニプロ川対岸の人々は我先に移住した。同じ言語をしゃべり同じ信仰を持つ人々の庇護を求めたのだ。

スウェーデンとの大北方戦争で、マロロシアの人々はどちらに加勢するかという選択を迫られることはなかった。コサックのうちマゼーパの反乱を支持したものはごくわずかだった (訳注:コサックの有力者の一人だったイヴァン・マゼーパがスウェーデン側についたことを指す)。 あらゆる身分や階級の人々がロシア人の正教徒として自分を位置づけた。

コサックの貴族に属する上官たちは、ロシアでは政治、外交、軍事的なキャリアの頂点にまでのぼりつめる。キエフ・モヒーラ・アカデミーの卒業生たちは教会生活でも主導的な役割を果たした。これはヘーチマン国家の間でもそうだった——ヘーチマン国家は実質的な自治国で特別な内部構造を持っていた——そして後のロシア帝国でも同様だ。マロロシア人たちは多くの面で巨大な共通の国を作る手伝いをした——その国家体制、文化、科学の構築を助けたのだ。ウラル地方、シベリア、コーカサス、極東地方の探検と開発にも参加した。当初ソビエト時代にウクライナ先住民族たちは統一国家の指導層における主要な、とくに最高の地位を占めた。ニキータ・フルシチョフとレオニド・ブレジネフの党伝記はウクライナときわめて関連が深いが、彼らはソ連共産党を30年も率いたことを指摘するだけで十分だろう。

18世紀後半、オスマン帝国との戦争を経て、ロシアはクリミアと黒海地域の土地 (後にノヴォロシアと呼ばれるようになる) を併合した。そこにはあらゆるロシア地方からの人々が暮らしていた。ポーランドリトアニア共和国の割譲の後で,ロシア帝国は西部の旧ルーシ領を取り戻した。例外はガリシアとトランスカルパチアで、これらはオーストリア帝国——後にオーストリア=ハンガリー帝国——の一部となった。

西のルーシ領を単一国家に組み込んだのは、政治外交的な決断の結果ではなかった。その根底には共通の信仰、共有された文化伝統、そして——改めて強調したいが——言語の類似性があった。だから17世紀初頭という早い時期に、ウクライナ東方カトリック教会の高僧ヨシフ・ルツキはローマに対し、モスコヴィアの人々はポーランドリトアニア共和国からのロシア人を兄弟と呼び、その書き言葉はまったく同じで、口語のちがいはごくわずかだ、と書き送ったのだった。彼はローマとベルガモの住民とのアナロジーを使った。この両者は現代イタリアの中央部と北部に相当する。

何世紀にもわたる断片化とちがう国家の中に存在したことで、当然ながら地域毎の言語の特異性が生まれ、方言となった。土着語は文字の言語を豊かにした。イヴァン・コトリャレーウシキー、フルィホーリイ・スコヴォロダ、タラス・シェフチェンコはここですさまじい役割を果たした。彼らの作品は我々の共通の文芸文化遺産だ。タラス・シェフチェンコウクライナ語で詩を書き、散文は主にロシア語で書いた。ニコライ・ゴーゴリはロシア愛国者でポルタヴァシュチナヤの地元民だが、彼の作品はロシア語で書かれ、麻呂ロシアの民話やモチーフで満ちている。この遺産をロシアとウクライナでどうやって区別しろというのだろうか。そしてなぜ区別しなくてはならないのだろうか?

ロシア帝国の南西地域、マロロシアとノヴォロシアとクリミアは、民族的かつ宗教的に多様な存在として発達した。クリミアのタタール人、アルメニア人、ギリシャ人、ユダヤ人、ケレイト人、クリムチャク人、ブルガリア人、ポーランド人、セルビア人、ゲルマン人など様々な民がここに暮らした。そのすべてが自分の信仰、伝統、習俗を維持した。

何も理想化するつもりはない。1863年ヴァルーエフ指令、さらに1876年エムス・ウカズがあって、ウクライナ語の宗教や社会政治的文献の出版と輸入を制限したことがあったのはわかっている。だが歴史的な文脈に留意するのは重要だ。こうした決断はポーランドでの劇的な出来事を背景として取られたものであり、ポーランドの国民運動が「ウクライナ問題」を自分に都合良く利用しようとしたのを防ぐためだった。小説やウクライナ語の詩や民謡は出版され続けたことはつけ加えておこう。ロシア帝国内では、大きなロシア国民の中でマロロシア文化アイデンティティが発達する活発なプロセスがあったという客観的な証拠がある。この大きなロシア国は、 大ロシア人、マロロシア人、ベラルーシ人を結び合わせたのだ。

同時期に、ウクライナ人というのがロシア人とは別個の国民であるという発想が、ポーランドエリートとマロロシアの知識人たちの間で形成され、勢力を増した。これには歴史的基盤がないので——そんな基盤があるはずもないので、結論を裏付けるために各種の捏造が使われ、ウクライナ人こそが真のスラブ民族であり、ロシア人、モスクワ人はちがうのだ、などとまで主張するようになった。こんな「仮説」はますますヨーロッパ諸国の競争関係における政治目的で使われるようになった。

19世紀末から、オーストリアハンガリー当局はこのお話をつかまえ、それをポーランド国民運動やガリシアでの親モスクワ感情への対抗馬として利用した。第一次世界大戦中にウィーンは通称ウクライナ・シーチ銃兵隊軍団なるものの形成に手を貸した。ロシア正教やロシアに好意的と疑われたガリシア人たちは残虐な弾圧を受け、ターレルホフとテレジン矯正収容所に放り込まれた。

さらなる展開はヨーロッパ帝国の崩壊、旧ロシア帝国の到るところで生じた激しい内戦、外国の介入と関連している。

1917年3月の二月革命後、ウクライナ中央ラーダがキエフに設立され、最高権力機関となるよう意図された。1917年11月、第3次ウニヴェルサール期に中央ラーダはウクライナ人民共和国 (UPR) の設立を宣言し、ロシアの一部となることが決定された*2

1917年12月UPR代表はソビエトロシアがドイツやその同盟国と交渉していたブレスト=リトフスクにやってきた。1918年1月10日の会合でウクライナ代表団団長は、ウクライナ独立宣言を読み上げた。その後中央ラーダは第4次ウニヴェルサールにおいてウクライナ独立宣言をした。

そこで宣言された独立主権は長続きしなかった。ほんの数週間後、ラーダ代表団はドイツブロック諸国と別の条約に調印した。ドイツとオーストリア=ハンガリー帝国は当時ひどい状況で、ウクライナのパンと原材料を必要としていた。大規模な供給を確保するため、彼らはUPRに兵と技術職員を送る合意を得た。実はこれは占領の口実に使われた。

今日、ウクライナの完全な支配を外部勢力に譲り渡した者たちにとって、この1918年にそうした決断がキエフの支配政権に致命的なものとなったことを思い出すと示唆的だろう。占領軍の直接的な関与で中央ラーダは転覆させられヘーチマンのパウロー・スコロパードシクィイが傀儡となって、UPRの代わりにウクライナ国家を宣言したが、これは実質的にドイツ保護領だった。

1918年11月——ドイツとオーストリア=ハンガリー帝国での革命的な出来事に続き——パウロー・スコロパードシクィイはドイツ銃剣の支援を失い、方向を変えて「ウクライナは全ロシア連邦形成を主導すべきである」と宣言した。だが政権はすぐに変わった。今度はいわゆるディレクトーリヤ[訳注:中央ラーダ残党の作った反共政府]の時代となった。

1918年秋にウクライナナショナリスト西ウクライナ人民共和国を宣言し、1919年1月にはウクライナ人民共和国との合併を宣言した。1919年7月にウクライナ軍はポーランド軍に叩き潰され、かつて西ウクライナだった領土はポーランド支配下に入った。

1920年4月にシモン・ペトリューラ (今日のウクライナでは「英雄」の一人とされる) はUPRディレクトーリヤのために秘密会議を開き、軍事支援と引き換えにガリシアと西ヴォルィーニをポーランドに割譲することにした。1920年5月、ペトリューラ主義者たちはポーランド軍部隊の軍団と共にキエフ入りした。だが長続きはしなかった。1920年11月にはすでに、ポーランドソビエトロシアが講和を結び、ペトリューラ勢の残党はその同じポーランドに降伏した。

UPRの例が示すのは、内戦と騒乱の時代に旧ロシア帝国中で生じた各種の準国家的な体制は、本質的に不安定だったということだ。ナショナリストは独自の独立国家を作ろうとしたし、白衛運動の指導者たちは不可分のロシアを目指した。ボリシェヴィキ支持者たちの多くが作った共和国は、自分がロシアの外にある存在とは考えなかった。それでもボリシェヴィキ党指導者たちは、様々な理由で彼らをソビエトロシアから追い出したのだった。

こうして1918年初頭にドネツク=クリヴォーイ・ローク・ソビエト共和国が宣言され、モスクワにソビエトロシアへの編入を求めた。これは拒絶された。共和国指導者たちとの会談でウラジーミル・レーニンは彼らにソビエトウクライナの一部として行動しろと言い張った。1918年3月15日にロシア共産党中央委員会 (ボリシェヴィキ) は、ウクライナソビエト議会に代表団を送り(そこにはドネツィキー・バセインのソビエトも含まれる)、その愚会で「全ウクライナに一つの政府」を作るよう指示しろと決定した。ドネツク=クリヴォーイ・ローク・ソビエト共和国の領土は後に南東ウクライナのほとんどを構成することになった。

ロシアSFSR、ウクライナSSRポーランドの間で調印された1921年リガ条約の下で、旧ロシア帝国の西部の領土はポーランドに割譲された。両大戦の間の時期にポーランド政府は活発な再入植政策を採り、東の国境地域の民族構成を変えようとした——「東の国境地帯」というのはポーランドが西ウクライナ、西ベラリーシ、リトアニアの一部を指す名称だ。これらの地域はポーランド化が行われ、地元文化や伝統は弾圧された。後に第二次世界大戦中、ウクライナナショナリストの過激派がこれを口実に、ポーランド人だけでなく、ユダヤ人やロシア人住民に対してもテロを仕掛けることになる。

1922年にソ連が作られ、ウクライナソビエト社会主義共和国はその創建共和国の一つとなったが、そのときボリシェヴィキ指導者の間でかなり熾烈な論争があり、おかげで連合国家の形成というレーニンの計画を、平等な共和国の連邦として実現することになった。共和国がこの連合から自由に分離する権利はソビエト連邦の結成に関する条約の中に明記され、その後1924年ソ連憲法にも明記された。こうすることで起草者たちは我々の国家体制にきわめて危険な時限爆弾を仕掛けた。そしてこれはソ連共産党そのものが内部崩壊し、その主導的な役割がもたらした安全装置がはずれた瞬間に爆発した。「独立主権の一大パレード」が続いた。1991年12月8日、通称ベロヴェーシ合意こと「独立国家共同体 (CIS) の設立に関する協定」が調印され「国際法の主体と地政的な現実としてのソビエト連邦はもはや存在しない」ことが述べられた。ちなみにウクライナは1993年に採用されたCIS憲章に調印も批准もしていない。

1920-1930年代には、ボリシェヴィキたちは積極的に「現地化政策」を促進した。つまりウクライナSSRではウクライナ化が進められたということだ。この政策の一般としてソビエト当局の同意のもと、中央ラーダ元議長でウクライナナショナリズムイデオロギー主導者の一人ミハイル・グルシェフスキー (彼は一時オーストリア=ハンガリー帝国の支援を受けていた) はソ連に送り返され、ソ連科学アカデミーのメンバーに選出された。

現地化政策はまちがいなく、ウクライナ文化、言語、アイデンティティの発展と集約に大きな役割を果たした。同時に、通称ロシア大国優位主義なるものと戦うという口実のもと、ウクライナ化は自分をウクライナ人と考えない者たちにも押しつけられた。このソビエト国民政策は国のレベルで三つのちがったスラブ人を生み出した。ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人だ。大きなロシア国民のなかで、ベリコロシア人、マロロシア人、ベラルーシ人という三位一体の民ではなくなってしまったのだ。

1939年にソ連はかつてポーランドが掌握した土地を取り戻した。その相当部分はソビエトウクライナの一部となった。1940年代にウクライナSSRは1918年以来ルーマニアに占領されていたベッサラビアの一部を取り戻し、北ブコヴィナも取り戻した。1948年には黒海のズミイヌイ島もウクライナの一部となった。1954年にはRSFSRのクリミア地方がウクライナSSRに与えられたが、これは当時施行されていた法的規範の重大な侵犯だった。

ついでにカルパティア・ルテニアの運命にも触れておきたい。この地域はオーストリア=ハンガリー帝国解体とともにチェコスロバキアの一部となった。この地元住民の相当部分はロシア系だ。もはやほとんど言及されないが、ソ連軍がトランスカルパチアを解放してから、地域のロシア正教信徒たちはカルパティア・ルテニアのRSFSR編入か、あるいは独立したカルパティア共和国としてのソ連加盟に賛成する投票を行っている。だが人々の選択は無視された。1945年夏に、カルパティアウクライナが「その母なる地ウクライナ」(とプラウダ紙は表現した) に再統一されるという歴史的な行動が発表された。

したがって現代のウクライナは完全にソビエト時代の産物なのだ。それが相当部分は歴史的ルーシの土地に作られたのをみんな知っているし記憶している。これを確実にするには、17世紀にルーシ国家と再統合された土地と、ソ連を離れたときのウクライナSSRの国境の形を見ればすぐわかる。

ボリシェヴィキはロシアの民を、彼らの社会実験のための無尽蔵の材料と見なした。彼らは国民国家を一掃する世界革命を夢想した。だからこそ、国交を引いて領土の贈り物を与えるのにあれほど鷹揚だったのだ。国をずたずたに切り刻んでいたボリシェヴィキ指導者たちがずばり何を考えていたかというのはもはや重要ではない。個別の決定の背後にある細かい詳細や背景や論理についてはいろいろ意見が分かれることもある。だが一つの事実はきわめて明瞭だ。ロシアは確かに奪われたのだ。

ロシアの支援なしにはウクライナは没落

この論説を執筆するにあたり、私は何やら秘密記録ではなく、はっきりわかっている事実を書いたオープンソース文書に頼っている。現代ウクライナとその外部の「パトロン」たちは、こうした事実を見すごしにしたがる。だが国の中でも外でも「ソビエト政権の犯罪」を糾弾する機会は見逃さない。そしてそこに、CPSUもソ連も、まして現代のロシアもまったく関係ないできごとを含める。同時に、ロシアを歴史的領土から切り離そうとしたボリシェヴィキの活動は犯罪とは見なされない。そしてみんなその理由は十分承知している。それがロシアの弱体化をもたらしたのであれば、我々の不幸を願う人々はまったく問題視しないのだ。

もちろんソ連内部での共和国同士の境界は、決して国境とは見なされず、単一の国の中での、名目的なものにすぎなかった。この国は連邦の属性をすべて持ちつつも、きわめて中央集権的だった——これもまたソ連共産党の主導的な役割により確保されていた。だが1991年にこうした領土、さらにもっと重要な点としてその民たちは一夜にして外国にいることになり、今度はまさにその母なる歴史的祖国から連れ去られてしまったのだ。

これについては何をか言わん? 物事は変わる。国や社会だって同じだ。もちろんその発展の過程において、数々の理由と歴史的な条件の影響により、ある民の一部が別個の国民として自認するようになることはある。それをどう扱えばいいのか? 答は一つ。敬意を持って!

自前の国を設立したいなら、それは結構なこと! だがその条件は? 新ロシアの最も有力な政治家の一人、サンクトペテルブルク初代市長アナトリー・サプチャークが提示した見立てを思い出そう。あらゆる決定は正統なものでなければならないと信じていた法学専門家として、彼は1992年の連合協定を糾弾し、ソ連産か以前に持っていた国境に立ち戻らねばならないと述べた。他の領土獲得はすべて、根拠が取り消された以上、議論、交渉の対象となる。

言い換えると、立ち去るときには持ってきたものも持って帰れ、ということだ。この論理は反論しがたい。言っておくとボリシェヴィキたちはソ連以前から国境を変えたがっており、人々の見方など無視して領土を操作していた。

ロシア連邦は新しい地政学的現実を認識した。認識しただけでなく、ウクライナが独立国として確立されるようにいろいろ手助けもした。困難な1990年代と新千年紀を迎えてから、我々はウクライナにかなりの支援をしてきた。キエフがどんな「政治的算術」を適用したがるにしても、1991-2013年にウクライナの予算節約分は820億ドル以上にのぼり、今日でもヨーロッパへのガス輸送費としてロシアからの支払いわずか15億ドルにしがみついている。もし両国の経済的なつながりが維持されれば、ウクライナは何百億ドルもの便益を享受することになる。

ウクライナとロシアは何十年、何百年かけて単一の経済システムを開発してきた。30年前に我々が行っていた深い協力はヨーロッパ連合のお手本となるものだ。我々は自然な相補的経済パートナーなのだ。こうした緊密な関係は競争優位を強め、双方の国の潜在力を高める。

ウクライナは以前は大きな潜在力を持っていた。たとえば強力なインフラ、ガス輸送システム、先進的な造船、航空、ロケットや工作機械産業などを持っていたし、世界一流の科学、デザイン、工学の学校もあった。この遺産を引き継いで独立を宣言したウクライナの指導者たちは、ウクライナ経済が世界トップクラスになり、生活水準はヨーロッパ最高水準になると約束した。

それが今日、かつてウクライナソ連邦すべての誇りだったハイテク工業の巨人たちは沈没しつつある。十年間で工業生産は42%も減った。脱工業化と経済的劣化はウクライナの発電に如実に表れている。発電量は30年で半減近くなっているのだ。最後にIMF予想によると、コロナ疫病勃発前の2019年に、ウクライナの一人あたりGDPは4千ドルに満たなかった。これはアルバニア共和国モルドバ、承認されていないコソボよりも低い。最近のウクライナはヨーロッパの最貧国なのだ。

だれのせいだろうか? ウクライナの民が悪いのか? もちろんちがう。何世代にもわたる業績を無駄にして*3投げ捨ててしまった。ウクライナの人々がいかに頑張り屋で才能あるかは我々も知っている。我慢と決意をもって成功と傑出した結果を実現できる人々だ。そしてこうした性質や、その開けっぴろげさ、生来の楽観主義とおもてなし精神は消えてはいない。ロシアによくしてくれるだけでなく、大いなる愛情を持って接してくれる何百万もの人々の気持ちは、ロシア人が彼らに対して抱く気持同様に、今も変わらない。

2014年まで何百もの合意や共同プロジェクトが、我々の経済、ビジネス、文化的なつながり、安全保障強化、共通の社会環境問題解決に向けて実施されていた。それは人々に具体的な便益をもたらした——ロシアとウクライナの双方にとって。我々はこれが最も重要だと考えるものだ。そしてだからこそ我々は、ウクライナのすべての指導者、強調するがすべての指導者と有意義なやりとりを行ってきたのだ。

2014年のキエフでの出来事(訳注:マイダン革命のこと)の後ですら、私はロシア政府に対し、関連省庁や機関において、両国の経済的なつながりを温存し維持する方法について選択肢を考えるように指示した。だが、同じ事をしようという双方向の意志は当時もいまもない。それでもロシアはいまだにウクライナのトップ3に入り貿易相手であり、何十万人ものウクライナ人はロシアに働きにやってきて、大歓迎と支援を受けている。これが「侵略国家」の実態なのだ。

ソ連崩壊で、ロシアとウクライナの多くの人々は我々の密接な文化、精神/信仰、経済的な絆はまちがいなく続き、常に一体性の感覚を根底に抱いていた人々の共通性も続くと本気で信じていた。だが事態は——最初はゆっくり、やがてもっと急速に——ちがった方向に動き始めた。

要するにウクライナの支配集団は自国の独立を正当化するため、過去を否定することにしたのだ (だが国境問題は例外だ)。歴史を神話化して書き換え、我々をつないだものをすべて削除して、ウクライナロシア帝国ソ連の一部だった時代を占領時代と呼ぶ. 1930年代初期の集産化と飢餓という共通の悲劇はウクライナ人の虐殺として描かれる*4

過激派とネオナチたちは自分たちの野心についてもっと公然として傲慢不遜だ。彼らは公式当局と地元オリガルヒたちにけしかけられている。この連中はウクライナの民から奪い、その盗んだお金を西側の銀行に保管して、自分の資本を温存するために祖国を売って平気だ。ここに加えて、しつこく続く国家機関の弱さと、だれか別の者たちの地政学的な意思に喜んで従属したがる立場がある。

現在のウクライナ政府は欧米の反ロシア運動の操り人形

はるか昔、2014年よりずっと前に、アメリカとEU諸国は系統的かつ持続的にウクライナに圧力をかけて、ロシアとの経済協力を控え、制限させたがっていたのを思い出す。我々はウクライナ最大の貿易経済パートナーとして、生じる問題はウクライナ=ロシア=EU協議の中で議論しようと提案した。だが毎回、ロシアは関係ないと言われ、この問題はEUウクライナだけの話とされた。西側諸国はロシアの絶え間ない対話の呼びかけを実質的に拒否してきたのだ。

一歩ずつウクライナは、ヨーロッパとロシアの緩衝国、ロシアに対する踏み台にするのを狙った危険な地政学的ゲームに引きずり込まれていった。必然的に「ウクライナはロシアではない」という概念ではもはやすまない時期がやってきた。「反ロシア」概念が必要となった。これは我々が決して受け入れないものだ。

この計画の首謀者たちはその基盤として、ポーランドオーストリアのイデオローグどもによる「反モスクワロシア」を作り出そうとする古い基礎を使った。そして、これがウクライナの民の利益のために行われているなどと言われてだまされる者はいない。ポーランドリトアニア共和国ウクライナ文化など必要としたことはなかったし、ましてコサック自治権など求めたことはない。オーストリア=ハンガリー帝国では歴史的なロシアの土地は無慈悲に収奪され最貧にとどまった。ナチは OUN-UPAの共謀者どもの支援を受けたが*5、彼らはウクライナなど必要とせず、単にレーベンスラウム (生活圏) とアーリア人支配者たちの奴隷がほしかっただけだ。

また2014年2月にもウクライナの民の利益などは考慮されなかった。ひどい社会経済問題、まちがい、当時の当局 (訳注:親露派のヤヌコーヴィチ政権) の一貫性のない行動が引き起こした世間の正統な不満は、シニカルに利用された。西側諸国はウクライナの国内問題に直接介入してクーデターを支援した。その棍棒として使われたのが過激な国粋主義集団だった。彼らのスローガン、イデオロギー、露骨に攻撃的なロシア恐怖症は、その後相当部分がそのままウクライナの国家政策を定義づける要素となった。

我々をまとめあげ結びつけるものすべてが、これまで攻撃された。まず何よりもロシア語。新生「マイダン」当局はまず、国家言語政策をめぐる法を破棄しようとしたのを思い出してほしい。それから「権力浄化」の法、さらに教育に関する法でロシア語をカリキュラムから実質的に削除してしまった。

最後に今年5月という時点で、現在の大統領 (訳注:ゼレンスキー) は「先住民族」についての法律を議会に諮った。民族的少数派でウクライナ国外に自分たちだけの国を持たない者だけが先住民族とみなされる。この法律は可決した。新たな不和の種が蒔かれた。そしてこれはすでに述べた通り、領土、国民、言語構成、国家形成史がきわめて複雑な国で起きているのだ。

こういう反論もあるかもしれない:単一の巨大な国の話、三位一体の国の話をしているんだから、民が自分をだれだと考えようと、どうでもいいじゃないか——ロシア人だろうとウクライナ人だろうとベラルーシ人だろうと。私も完全にこれに同意する。特に国籍の決定は、特に混成家族では、それぞれの個人が自分の選択をする権利がある。

だが現実問題として今日のウクライナの状況はまったくちがう。というのもそれは強制的なアイデンティティ変化を伴っているからだ。そして最も唾棄すべき話として、ウクライナのロシア人たちは自分のルーツ、何世代にもわたる先祖の否定を強いられているばかりか、ロシアが自分の敵だと信じるように強いられているのだ。強制的な同化、純粋ウクライナ民族の国家、ロシアには敵対的な国家への道は、我々に対する大量破壊兵器の使用にも比肩する影響を持つと言っても過言ではない。このようなロシア人とウクライナ人の熾烈で不自然は分断の結果として、ロシアの民は何十万、何百人も減りかねない。

我々の精神的/宗教的な一体性も攻撃されている。リトアニア大公国の時代と同様、新たな宗教迫害が開始された。世俗権力はその政治的な狙いを隠そうともせずに露骨に教会生活に横やりを入れて物事を分断させ、教会を押収して司祭や僧侶を殴打している。モスクワ総主教庁との密接な関係を維持するウクライナ正教会の大きな自治権すら、彼らの強い不興を買う。この有力で何世紀も昔からの我々の古い氏族関係の象徴ですら、彼らは破壊せずにはいられないのだ*6

またウクライナ代表が国連総会において、ナチズムの称揚を糾弾する決議に幾度となく反対してきたというのも自然な話だと思う。SS部隊の戦犯残党たちを讃える行進やたいまつを灯した行列が、公式当局の庇護の下で行われている。万人を裏切ったマゼーパ、ポーランドの庇護のためにウクライナの土地を差し出したペトリューラ、ナチと協力したバンデーラが国民的英雄とされる*7。これまでずっとウクライナの誇りであった、真の愛国者や勝者たちの名前を若い世代の記憶から拭い去るため、あらゆる手が使われているのだ。

赤軍パルチザン部隊で戦ったウクライナ人たちにとって、大愛国戦争 (訳注:ソ連/ロシアは第二次世界大戦をこう呼ぶ) はまさに愛国的な戦争だった。なぜなら彼らは自分の国、偉大な共通の祖国を守っていたのだから。二千人以上の兵士がソ連の英雄となった。たとえば伝説的なパイロットのイヴァーン・コジェドゥーブ、オデッサセヴァストポリを守った恐れ知らずの狙撃手リュドミラ・パヴリチェンコ、勇敢なゲリラ指揮官シドル・コヴパクなどがいる。こうした不屈の世代は戦い、こうした人々は我々の未来のために命を捧げたのだ。彼らの業績を忘れるのは祖父や父母たちを裏切ることだ。

クリミアもドンバスも反ロシア運動の犠牲者!

反ロシア計画は何百万ものウクライナ人に拒絶されてきた。クリミアの民やセヴァストポリ住民たちは自分たちの歴史的選択を行った。そしてウクライナ南東部の人々は平和裡に自分たちの立場を守ろうとしてきた。だがそのすべてが、子供たちも含め、分離主義者でテロリストとのレッテルを貼られてきた。民族浄化と軍事力の使用で脅されてきた。そしてドネツクとルアハンスク住民たちは自分の家、言語、命を守るために武器をとった。2014年5月2日オデッサの恐怖と悲劇では、ウクライナ人のネオナチが人々を焼き殺し新たなカチンの森虐殺を引き起こした。その後でウクライナの都市を吹く荒れた暴動の後で、彼らに武器を取る以外の選択があっただろうか? 同じ虐殺が、バンデーラ支持者どもによって、いまにもクリミア、ドネツク、ルアンスクで実行されようとしていた。彼らはいまだにその計画を捨ててはいない。タイミングを計っているのだ。だが彼らのタイミングなどくることはない。

クーデターとその後のキエフ当局による行動は当然ながら対立と内戦を挑発するものだった。国連人権高等弁務官によれば、ドンバス紛争での被害者総数は 13,000人を越える。その中には高齢者や子供もいる。悲惨な取り返しのつかない損失だ。

ロシアは分裂を防ぐために手を尽くしてきた。ドンバスでの紛争の平和的解決を狙うミンスク合意が締結された。私は、いまだにこれに代わるものはあり得ないと確信している。いずれにしても、だれもノルマンディ・フォーマット諸国指導者でミンスク対処法パッケージから署名を引き上げた者はいない。だれも2015年2月17日国連安全保障理事会決議の見直しを開始したりはしていない。

公式交渉の間、特に西側パートナーたちに絡め取られた後で、ウクライナ代表はしょっちゅうミンスク合意の「完全準拠」を宣言するが、実は「需要不可能」の立場に導かれている。本気でドンバスの「特定地域」を議論する気もないし、そこに住む人々の安全確保を考える気もない。「外部攻撃の被害者」というイメージを利用してロシア恐怖症をあおるほうがいいのだ。そしてドンバスで血みどろの挑発を仕組む。要するに、外部のパトロンやご主人様たちの注目を惹こうとするのだ。

明らかに——そして私はますます確信しつつあるのだが——キエフは要するにドンバスがいらないのだ。なぜか? まず何よりも、こうした地域の住民は連中が暴力や封鎖や脅しで押しつけようとしている体制など決して受け入れないからだ。そして第二に、ミンスクIとミンスクIIの、ロシア、ドイツ、フランスを仲介者としてDPRとLPRとの直接合意を結ぶことでウクライナの領土的な一体性を回復する可能性をもたらす結果は、反ロシア計画の論理すべてに反するものだからだ。そしてこれを維持するには、内部と外部の敵というイメージを絶えず育み続けるしかないのだ。そしてそこに、西側列強の庇護と統制したでそれを行わねばならなないのだ、ということも付け加えておこう。

本当に起きているのはこういうことだ。まずウクライナ社会に恐怖の雰囲気をつくり出す事態に直面している。攻撃的なレトリック、ネオナチ容認と国の軍事化。それに伴い、完全な依存にとどまらず、完全な外部からの支配が起きつつある。これはウクライナ政府の監督、公安サービスや軍の外国顧問による支配、ウクライナ領内の軍事的「展開」とNATOインフラの配備などだ。前出の「先住民族」についての見え透いた法律が、ウクライナにおける大規模なNATO演習を隠れ蓑に可決されたのは偶然ではない。

ウクライナのためを思っているのはロシアだけ!

これは、残りのウクライナ経済を接収してその天然資源を利用するための偽装なのだ。間もなく農地が売り渡され、だれがそれを買い上げるかはわかりきっている。ときどき、確かにウクライナは金銭的なリソースや融資を与えられるが、それは向こうの条件によるもので、向こうの利益のためであり、その選好や便益は西側企業のためのものとなっている。ちなみに、だれがそうした負債を返済するのだろうか? 明らかに、これは今日のウクライナ人世代だけでなく、その子供、孫、おそらくは曾孫たちがやるしかないと思われている。

西側の反ロシア計画首謀者たちは、ウクライナの大統領や国会議員や大臣たちが変わっても、ロシアからの分離と敵意の態度は残るような形でウクライナの政治体制を作り上げた。現職大統領の主要な選挙スローガンは平和実現だった。それで権力の座に就いたのだ。この約束は実はウソだと判明した。何も変わらなかった。そしてウクライナとドンバス周辺の状況はむしろ劣化した部分さえある。

反ロシア計画においては、独立主権を持つウクライナにも、その真の独立を擁護しようとする政治勢力にも居場所はない。ウクライナ社会内部での和解、対話、現在のにらみ合いから脱出する方法を口にする者たちは「親ロシア」の工作員と見なされる。

繰り返すが、ウクライナの多くの人々にとって反ロシア計画はひたすら容認できない。そして、そのような人は何百万人もいる。だが彼らは顔を上げることを許されない。それどころか、その視点を擁護する法的機会は奪われている。彼らは恫喝されて地下に追いやられている。その考えや発言、立場の公言のために迫害されるだけでなく、殺されている。その殺人者たちは、おおむね処罰を受けずにすむ。

今日では、ウクライナの「正しい」愛国者はロシアを憎む者だけだ。さらにウクライナ体制すべてが、我々の理解では、この思想だけに基づきさらに構築されようとしている。憎悪と怒りは、世界史が繰り返し証明してきたように、独立主権の基盤としてはきわめて危ういもので、多くの深刻なリスクとひどい結果だらけとなっている。

反ロシア計画と関連するあらゆる逃げ口上は、我々にはすべてお見通しだ。そして我々は、自国の歴史的な領土や、そこに住む我々に近い民をロシアに刃向かう形で使うことは決して許さない。そして、そのような試みを行うものすべてには、そのようなやり方をすれば彼らは自分自身の国を破壊することになると申し上げたい。

ウクライナの現職政府は西側の経験を参照したがり、それを従うべきモデルだと考える。オーストリアとドイツ、アメリカとカナダが隣接して共存している様子を見てみよう。民族的な構成も近く、まさに一つの言語を共有していながら、独自の利害を持つ独立主権国家であり続け、独自の外交政策を持つ。だからといってきわめて緊密な統合や同盟関係が結べないわけではない。非常に限定的な透明な国境を持っている。そしてそれを横切っても市民は故郷のいるのと同じように感じる。彼らは家族を作り、勉強し、働き、ビジネスを行う。さて、ウクライナに生まれて現在ロシアに住む何百万人だってそれをやっているのだ。我々ロシア人は、彼らを自分自身の身近な人々と捉えている。

ロシアはウクライナとの対話を歓迎するし、きわめて複雑な問題であっても議論の用意がある。だが我々にとって重要なのは、相方が自分自身の国民的利益を擁護しているのであって、他の誰かの利益を擁護しているのではないということだ。そして我々と戦おうとする他のだれかの道具となっていないということだ。

我々はウクライナの言語と伝統を尊重する。我々はウクライナ人たちが自分の国を自由で安全で繁栄した場所にしたいという望みを尊重する。

私はウクライナの真の独立主権はロシアとのパートナーシップの中でのみ可能だと確信している。我々の精神的、人間的、文明的な結びつきは何世紀にもわたり作られてきたし、同じ起源を持ち、共通の試練や業績や勝利により固められてきた。我々の血族関係は世代から世代へと伝えられてきた。それは現代のロシアとウクライナに暮らす人々の心と記憶の中にあり、何百万もの我々の家族をつなぐ血縁の中にある。我々は常に共にあったし、今後何倍にもそれは強まり、成功したものとなる。なぜなら我々は一つの民だからだ。

今日では、こうした発言は一部の人々に敵意をもって受け取られるかもしれない。解釈はいろいろあるだろう。だが多くの人々は私の言うことに納得するはずだ。そして一つ言っておこう——ロシアはこれまでも、そして今後も、決して「反ウクライナ」にはならない。そしてウクライナが何になるか——それはウクライナ国民が決めることなのだ。

*1:訳注:あらゆる国民からの電話質問にプーチンが直接答えるという年次のイベント. 知名度の低い大統領のイメージアップ戦略として始まった. 当初はモデレーターにも西側ジャーナリストを起用し、質問の選抜もかなりゆるく、予想外の質問や率直なやりとりも聞かれたが、最近では形式化した公式問答に堕しているとされる.

*2:訳注:このあたりを読むとロシアと仲良くしたがった中央ラーダが陰謀により転覆された印象を得るが、実際にはボリシェヴィキウクライナの離反を警戒し極度の介入と制約をかけ、中央ラーダが言うことをきかないと侵略して蛮行を働きまくった。ブレスト=リトフスクは、それに対して他国に助けを求めにいったもの。ここでの記述の印象とは正反対。

*3:訳注:英語原文waistedになっている。単純に翻訳ソフトにかけているのかと思ったが、こうしたwasted/waistedといった同音異義語のまちがいがあるということは、人手でやっているということ。

*4:訳注:いわゆるホロドモールのこと。大規模不作による飢饉で食料徴発と「富農」弾圧が行われたときにはウクライナが特に標的とされ、農業の基盤そのものが破壊された。飢餓の推定死者数も圧倒的にウクライナ人の比率が多い (諸説あるがおおむねウクライナ500万人、その他200万人)。「いっしょに苦しんだんだから文句言うな、仲良くしよう」と言われて納得……しますか?

*5:訳注:OUN-UPAはウクライナナショナリスト集団。反ユダヤおよびウクライナを占領していたポーランド系への反発が強く、また反共色も強い。1930年頃の初期はホロドモールによるソ連への恨みや反ユダヤの共感でナチスドイツに協力し、虐殺へも加担しているが、その後ナチスとは決別。戦後は反ソ連活動を続けた。ウクライナ独立に貢献したのは事実ながら蛮行も事実で、ウクライナでも評価が分かれる。

*6:訳注:2018年に、モスクワ総主教庁系のウクライナ正教会とは別の、ウクライナ正教会が発足してコンスタンチノープルに公認された話。国内で分裂していた複数の教派が統一してウクライナ正教会となったもので、ここで示唆されているようなモスクワ系に属していた教会が分裂したという話ではない。むしろモスクワ総主教庁系が統一への参加を拒否したという状況。

*7:訳注:いずれもロシア/ソ連の横暴や圧力に抵抗するためいろいろやった人々。バンデーラは前出のONUの指導者で、最初はナチと協力したが後に裏切られて収容所に入れられた。独立に貢献した一方で残虐行為への加担もあり、彼の評価はいまも分かれる。

ぼくは「モンティ・ホール問題」がよくわからない。

10月24日に、Change to Hopeというイベントがあって、スティーブン・ピンカーが来日して基調講演をする……予定だったのがコロナで来れずオンラインになってしまったんだが、ぼくがその司会役、というか質問係をおおせつかったのでした。

www.change-to-hope.com

で、これは新著『人はどこまで合理的か』をベースに最近のネタを散りばめる講演で、ぼくも付け焼き刃でざっと読んでみました。基本は、人はいろいろ数学パズルみたいなものにごまかされて合理性を発揮しにくくなる部分があるのだ、という話や経済学的な合理性の話などで、あとは合理性がいかにしてこれまでの人類の発展を率いてきたか、これからも理性をちゃんと使ってがんばらないといけないよ、というもの。一般向けの講義をまとめたものだそうで、人によっては知ってる話ばかりでつまらないかもしれない。まったく知らなかった目新しい話はない。類書も多く、その中でピンカーの本が傑出しているわけではない。それを人類の発展や『21世紀の啓蒙』につなげたところが売りものかな?

ちなみに、中で人間はすぐに陰謀論にだまされるという例として、コロナが中国の研究所から流出したなんて説を信じているヤツがいる、と嘲笑されているんだけど、最近これは可能性としては十分にあり得る (ただし厳密なところは中国の秘密主義もあってわからん) という、立派な仮説に昇格していて、陰謀論フェイクニュースってのがみんなの思うほど簡単ではないのを、身を以て示してくれているのはご愛敬。

 

モンティ・ホール問題

が、それはさておき、採りあげられている話の中に、あの有名なモンティ・ホール問題があるのだ。みんな知ってると思うけど、基本はドアが三つあって、一つは当たり。二つははずれだ。参加者はどれかドアを選んで、当たりなら賞品がもらえる。でも、そこにひねりがある。

モンティ・ホール問題

さて、あなたは選択を変えるべきか? みんなご存じだと思うけれど、答は、選択を変えるのが正解。これについてはいろんな通俗解説書がある。そこの説明はわかる。Wikipediaを見てもいい。

en.wikipedia.org

ここには、キース・デブリンによる解説が紹介されている。当然、ぼくもそれは理解できる。だって翻訳してますもの。

が、この本のあと書きにも書いたように、ぼくは賦に落ちない部分があるのだ。もう一人別に参加者がいたらどうなる?

二人がモンティ・ホール問題をやったらどうなるだろう?

山形がこのゲームをやって、Aのドアを選びました。司会者ルは、Cのドアを開けて、そこに賞品がないことを教えてくれました。

すると頭のいいみなさんはぼくに対して「それは乗り換えたほうがいいよ、Bのドアを選びなさい」とアドバイスをくれる。オッケー。それはわかりました。

では。

もう一人、このゲームに参加していたとしよう。それがこのハギーワギーくんだとする。

ハギーワギーくんは最初、Bのドアを選んでいた。もちろん、場合によっては司会者がBのドアを「ハズレでした」と開けてしまう場合もある。でもそうでない場合は? 司会者がCを開けて、自分のが当たりかもしれないと思ってワクワク。さらにぼくの話だと自分の選んでいたドアのほうが確率が高いと言われて大喜びだ。が……あなたは、このハギーワギーくんには何と助言するだろうか?

(現実問題としてモンティ・ホール問題はテレビ番組だから、視聴者はみんな「Aだろ」「いやBだ」と勝手なことを思っていたわけだ。だから必ず、ぼくが選んだドアでもなく司会者がハズレドアとして開けたドアでもないものを選んでいた人はどこかには必ずいる)

理屈はまったく同じだ。あなたは当然、ハギーワギーくんにも選択を変えろと助言する。つまり、BのドアよりもAのドアのほうが確率が高いぞ、と言うわけだ。それは……ぼくが最初に選んでいたやつだ。

もちろんぼくとハギーワギーくんはそこで顔を見合わせて、どっちなんだ、はっきりしろとあなたに詰め寄るだろう。さて、あなたはこの二人が納得するような説明ができるだろうか?

ぼくの場合とハギーワギーの場合とは独立していていっしょにしてはいけないのか?

昔、だれかにこの話をしたら、おまえの選択とハギーワギーくんの選択はまったく独立したものであり、それをごっちゃにするのがおかしいんじゃないか、みたいなことを言われた。でも……実際問題として、独立ではないだろう。ハギーワギーはぼくの隣にいて、ぼくとこの子は同じ三つのドアを見ている。それを見ている野次馬たちも同様だ。

そして多くの解説では、実際にこれは変えた方が確率が高くなるのだ、というのをシミュレーションやケース分けで示している。でもそのまったく同じシミュレーションやケース分類は、ハギーワギーくんについても言える。

司会者が外れドアを開けたことが、なぜぼくの選んだドアには影響しないの?

さらにモンティ・ホール問題の説明の大半では、モンティ・ホールが開けたドアはランダムではなく、背後に賞品のないハズレのドアだけを選んで開けているので、それが新しい情報を追加した、よってそれは選択に影響するのだ、ということになる。でも……この説明だとハズレドアを一枚あけるという行為、あるいはそれがもたらす情報は、ぼくの選ばなかったカードにだけ影響するようだ。なぜ?

言い方を変えると、ぼくが最初に選んだドアAは、確率1/3のドア、ということになる。それ以外のドア二つ (BとC)は、合わせて確率2/3だ。そして外れドアを一枚除外したら、その2/3の確率が、ぼくの選ばなかったドアBに積み上がることになる。よって、確率の高いBを選ぶのが賢い、というわけだ。

これを強調するために、ドアが3つではなく100個だったと思え、という解説もある。ぼくは1枚選ぶ。それは確率1/100だ。そこで司会者は、残り99枚のうち、車のない98枚を開けてみせる。すると、その98枚分の確率は全部、ぼくの選ばなかった1枚に集中するよ、というわけだ。1/100より99/100が大きいのは当然ですよねえ?

はい、この説明もわかる。わかるんだが、やっぱわからない。

だってなぜそこで、ぼくの選んだドアは確率1/3 (または1/00) のままなの? 外れドアを開けたら、当然ぼくの選んだドアの当選確率だって高まるんじゃないの?

これを強調するため、逆にドアを減らそう。ドアが2つしかなかったとしよう。ぼくが片方を選んだ。当選確率は1/2だ。司会者は残り1つを開け、それが外れだということを示した。さて、ぼくが選んだドアの当選確率は?

当然ながら、100%だ。

でもモンティ・ホール問題の解説の議論では、ぼくのドアの当選確率は相変わらず1/2だということになりそうだ。ぼくが選んだときの確率1/2が残り、それは最終的に自分のドアをめくるまで確定しない……でもそんなはずがあるか? シュレーディンガーのネコじゃあるまいし。これは明らかに変だ。外れドアを一枚開くことで、新しい情報が加わり、確率は変わる。それはわかる。でもその変化が、ぼくの選ばなかったカードにだけ影響するのは変だろう。ぼくの選んだカードにもその変化は当然波及するのでは?選ばなかった部分について新しい情報が得られたことで、ぼくが選んだドアをめぐる条件も変わるはずでは?

なぜ問題の言い方を変えただけで話が変わるの?

あるいは問題の設定を変えてみよう。

「選んだカードを変えますか?」という問題ではなく「最初の選択をご破算にして、どっちか選びなおしてください」という問題設定にしよう。そうなったら、どっちかのドアの後ろに賞品があって、それは等確率だから、どっちを選んでも確率は1/2だ。それが、最初にぼくが選んだドアか、そうでないか、というのはまったく問題にならない。そうだよね? (上にあげたWikipediaページにもそう書いてある)。

でも何がちがうの? やっていることはまったく同じだ。二つ残ったドアのどれを選ぶか聞いているだけだ。でも「選択を変えるか?」と尋ねられた場合と「新たに選び直すか?」と言われた場合とで、質問の形がちょっと変わっただけで、二つのドアの確率分布が変わるの? なぜ?

選ぶという「想い」で世界は変わるの?

どうもこの一連の話では、ぼくが最初に「Aの扉を選んだ」というのがずいぶんご大層な意味合いを持ってしまうようだ。でも、「選ぶ」と言ったって何かを変えたわけじゃない。「こっちかなー」と思っただけだ。なぜそれで話が変わってしまうのか? ぼくが「こっちかなー」と漠然と思っただけで、現実世界の確率分布を変えた、ということになる。ぼくが何も考えなければ、残ったドアの当選確率は半々だ。ところが、ぼくがうっかり見て、何の根拠もなくふと勝手なことを思っただけで、それが世界を変える? あるいは、ぼくが最初の選択をご破算にして、改めて残った扉の中から選ぼうかなー、と思った瞬間に、また世界は変わるの?

そしてまた最初の、ぼくとハギーワギーくんの両方がいる場合に戻ろう。両者が頭の中でたまたまちがうことを考えただけで、両者にとって同じ物理世界の確率分布がちがうのだ、ということになる。同じ世界を見て、同じ物理現象を見ているのに。なんだか「わたしたちの思いがあれば世界は変わるの!」って、あんたプリキュアさんですか、という感じだ。さて、それでいいのか?

おわりに

というわけで、ぼくがわからないのはそういうことなのだ。

たぶん実際には、そんな大げさな話ではなく、ぼくが何か非常に基本的なことを見落としているだけなんだろう、とは思う。が、正直いってぼくはそこそこ頭がいいので、一般的な話はだいたい理解できるつもりではある。これだけいろいろ読んだぼくが見落としているなら——ぼくに理解できないなら——たぶんかなり多くの人も、これをわかっていないはずなのだ。

ただ、いまだとピンカーの本にもあるように、これって人が合理的な思考ができない事例として挙げられるようになっている。

つまり、これが理解できないというのを認めたら、それは自分が不合理なバカで反ワクチンと地球平面説の信奉者だと思われかねないようなふいんき(<--なぜか変換できない) がある。たぶんみんな、それを恐れて内心首を傾げていても、それを表に出せない部分もあると思う。だからワタクシが人身御供になりましょう。教えて、えらい人! ハギーワギーくんとぼくとが二人とも納得するような説明をしてみてくれないだろうか?*1


追記 (2022.12.27)

このエントリーにみんながいろいろコメントをくれて、自分の混乱していたところが理解できたように思う。みんなありがとう! それについてはこに書いておきました。しかし、ピンカーにこんな話を尋ねなくてよかった……

cruel.hatenablog.com

*1:ホントは、ピンカーが来日したら帰国までの一時間ほどのアテンドもやってくれと言われていて、そのときにこれを尋ねてみようと楽しみにしていたんだけれど、その機会はなくなってしまったもので……

フォーゲル他『十字架の時』全部終わったー

やりかけていたこれ、本編は全部終わったー。

cruel.hatenablog.com

本体はこれです。

https://genpaku.org/TimeontheCross/timeonthecross_j.pdf

なんだかこないだから、Word--> pdfで目次のリンクが全部ずれる。またしおりもちゃんと作ってくれなくなった。だからpdfにちょっと不具合はあるけど、大目に見てくださいな。

補遺に関しては、もともとは全部やるつもりだったが、手法解説の部分はとてもテクニカルになっちまうんだよなー。それをやるのはあまりに手間なので、研究の心得を書いた補遺Aだけは、訳して本文に加えた。その他、手法や統計処理その他に関するテクニカルな補遺は、原文を見てくださいな。ここにある。

https://genpaku.org/TimeontheCross/TIME%20ON%20THE%20CROSSsupplement.pdf

全体の主張は、アメリカ南部の奴隷制は見事な生産システムとなっていた、というもの。奴隷がひたすら鎖につながれ、鞭打たれ、虐待されまくったというイメージは正しくないし、また奴隷制はすべて悪いという思いこみで、奴隷制は効率悪い、生産性が低い、放っておいても絶滅寸前だった、などと論じるのは正しくない、と述べる。むしろ奴隷制はきわめて効率が高く、現在の工場のような、見事な分業と労働管理システムと、MBAでも通用しそうな、見事なインセンティブ管理を行っていた。

ただし、それは別に奴隷制がすばらしいということではない。奴隷制は映画ほどバカみたいに暴力は使わなかったけれど、でもその生産性の高さは、暴力なしにはあり得なかった、というのも本書は明らかにする。

そして、南北戦争時代もその後も、奴隷解放論者たちですら実はものすごい人種差別の権化だった。黒人は無能だから鞭で叩かないと働かないのだ、というのが彼らの基本的な立場。

そして奴隷解放後は、実は黒人の社会経済的地位はかえって下がった。でも奴隷制悪い、奴隷解放はいい、というイデオロギーに凝り固まっていた関係者たちは、奴隷解放を礼賛するあまり、そうした黒人の実際の状況や生活水準に目を向けなかった……

その他、おもしろい話だらけなので、是非ご一読を。

ノーベル経済学賞 2023−2028年トトカルチョ

2022年ノーベル経済学賞は、バーナンキ、ダイアモンド、ダイブヴィグ (ディブヴィグ? 字面でしか見たことないので読みをよく知らない) に決定した。金融・銀行系ね。

そういえば、むかしの自分の予想でもバーナンキは入れていたなあ、と思って昔のエントリーを見ると、ほうほう、なかなかよいではないの。2020年でバーナンキは次点扱い。2017年についての表を見ると、その後六年で3人は含まれている。まあ15人もあげてるから、ヘタな鉄砲もナントやらだろう、と言われればそれまでなんだけどね。が、そんなに悪くもないんじゃないか。ジャンル的にはかなり当てていると一応は自画自賛

cruel.hatenablog.com

でも表を見ると、もう他界した人も結構いる。ジョルゲンソンは今年他界してるのか……2020年にお目にかかったときにはシャキシャキだったのになあ。その他、すでに取った人、すでに他界した人、いろいろいるし……

ということで、お遊びで更新してみましょう。そろそろ、順番待ちの歳寄りの消化試合、みたいな選出からは次第に離れる感じがでてきたと思う。だから落ち穂拾いはもうやめて (少しはやるけど)、なんか新しい分野、みたいな形で注目していいんじゃないだろうか。そんなことを考えて作ってみました。

ノーベル経済学賞2023−2028予想

今後5-6年で、またこの中から3人、うまくいけば4人くらい? 今後10年なら、もっといく (フィッシャー門下のマクロ屋さんたちが、取るのか取らないのかがよくわからないんだよね)

ぼくはまあ素人なので、少しはメディアに出てくる人や、F&Dとか The Economist の記事で採りあげられるような人しか知らないんだよね。ゲーム理論系の人とかは、ノーマーク。手法系とか企業組織、経済史とかの系列もまったくぼくにはわからない。ゴリゴリの実証系も不明。為替とか国際マクロで、エレーヌ・レイとかあるけど、まあ当分先でしょう。経済地理とか制度系とかもっと政治よりとかも欲しいところだが、名前が思いつかない。でもそういうのが半分くらいは取るでしょう。Rやgrtl開発者というのは、やってほしいが、まずない。

企業ファイナンス系はもう一区切りついた感じなのかな。

この中で、もういつ他界するかわからんからそれまでに何とか……という人はほとんどいない。唯一、トダロくらいかな。開発援助屋としての偏見はあるが、取ってほしいなあ。あとはかつて親切にメールに返事をくれたロバート・ゴードン先生には取ってほしい。受賞演説でIS-LMの偉大さを訴えてほしい感じ。

あと、そろそろギンタス/ボウルズのような、生物学とか進化とのつながりを掘ってる人はほしい。ビッグデータとかナウキャストみたいな話も、いつかは触れざるを得ないよなあ……てなことを考えているうちに、10年くらいはすぐたってしまうはず。

ここの、ウィキペディアの受賞候補者と比べると、幸福の経済学はたぶんないと思う。てっぺんの環境がらみの話は、うーんどうだろうね (名前が出ている人は知らないが、もう90歳だとつらいんじゃない?)。重なるのはアセモグルだけか。

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あと、女性枠とか非白人枠とか、ポリコレな基準を入れようとすると、だれがいるかなあ。バーナンキがとっちゃうと、イェレンはないし (テイラーとセット?)、コロナがらみでギータ・ゴピナス……いや、当分ないなあ。クローディア・ゴールディンあたり? まあ、どうなりますことやら。いずれにしても、ワイツマンみたいにノーベル賞取れなかったのを悲観して自殺しちゃうとか、そういう陰惨な話はなし! みんなあまり深読みせずに楽しいお遊びとして続いてほしいなあ。

追記

開発経済学は、バナジー&デュフロ他が2019年に取ってるだろ、との指摘あり。うーんそうだなあ。個人的には彼らはRCTでもらったような印象だったんだが、言われて見れば開発経済学か。でももっと古くさい感じの、ビッグプッシュ型というかそういうのを再評価してほしいんだよなー。

昔話:ティモシー・リアリーの想い出など

ぼくが初めて訳した商業出版は、H・R・ギーガーの画集だったんだけれど、それを出したトレヴィルという西武系の出版社の編集者川合さん (というか彼一人しかいなかった) が「じゃあ是非これもやってください!」と言って翻訳させられたのが、ティモシー・リアリーの『神経政治学』だった。

ドラッグやったら脳の回路が活性化して新しい世界が見えるぜ、それでみんなニュータイプになって宇宙にさいくだ! という、まあまぬけもいいところな本だったが、一応張り切ってやって、ついでにこれで大学院の学費は自分で稼げるぜ、親の世話にはならないぜ、と大見得を切ったんだが、なんと大学院に入る前に仕上げたのに、実際に本が出てお金が入ってくるまでに2年以上かかった。別に訳文にはぜんぜん文句はつかなかったんだけれど、なんでも川井さんみずから各ページの版下にロットリングで線を引いてデザインして、無用に凝りまくった結果、らしい。学費を払うどころではなく、親に恥をしのんで頭を下げるはめになると同時に、こんな不安定では翻訳家なんかになったら死んでしまうなあ、と思い別の道を考えるようになった、ある意味で恩のある本ではある。

当時はまだ、電子メールなどという便利なものもなく、著者に質問があるときはファックスで送っていたんだが、リアリーは本当にダメな人で、質問したらその該当箇所を開いて見るくらいの手間はかけてもいいんじゃないかと思うんだけれど (だってアンタが書いた本でしょうに)、ぜんぜん勝手な思いこみでデタラメ送ってくる。たとえば、進化論を教えてクビになったか裁判沙汰になったかで有名な、スコープスという人がいる。いまならググれば一発でわかるが、当時はそんなこともできず、調べてもわからなかったので当人に聞いたら……

スコープというのはね、テレスコープとか、マイクロスコープとか、こんな覗く筒みたいなやつだよー

というまぬけな返事がきた。いやちがうよ、お前あきらかにこれ人名だよ、自分の本くらい見てよ、と書いたら、「こないだ返事しただろう、お前はあれがわからんのか、それで翻訳できるのか」というファックスが帰ってきて、こちらも怒って、その頃には自分でも調べがついていたので、「この進化論のヤツだろ、他に考えられないからそう訳すが、どうしても望遠鏡にしてほしければそうする」とファックスしたら、やっと見てくれたらしく、「ヒロオ、お前は天才だ、お前の指摘通りであり、私のまぬけな答を許して欲しい」としおらしく謝ってくれたっけ。そんなことが何度かあった。

その訳書に、武邑光広と伊藤俊二が、本当に無内容な序文を書いていて、リアリーが「何が書いてあるのか読みたいから訳せ」というので訳して送ったら、特に武邑の文章はいつもながらまともな日本語ですらなく、無意味なカタカナを並べてもったいつける手法が、英語にすると一切通用しなくなることもあって、「意味がわからないがこれは本当に正しい翻訳なのか」と問い合わせがきましたよ。いやはや、これ以上はないというくらい厳密で正確な翻訳だったんですよ。

彼の自伝も訳した。

これも原著がかなりひどい編集で、何カ所か囲みのコラムが入っているんだが、それが原文の上にそのまま貼ってあって、原文がブチ切れている。で、「ここがぬけてるから文ください」と連絡したところ

そんなはずはない。私の編集者は優秀だ、それにこの本はスペイン語とXX語にもなったがだれもそんなことは指摘していない

とのファックス。そいつらいい加減なだけだよ、頼むから自分の本見てよ! これも何度かのやりとりの結果、以前にも増して頑固になっているのにいい加減うんざりして、最後はこっちで他の本に収録されている文で補ったんだっけな?

んでもって、これで縁が切れたかな、と思ったら、インターネットでアメリカのWIRED以上に軽薄なネットアングラカルチャー誌みたいなのが、一瞬だけ幅を利かせるようになり、それを受けて日本で出たのが、CAPE-Xという雑誌だった。

で、これにティモシー・リアリーが連載するというので、翻訳してくれという話になり、ぼくは仕事を断らないのでホイホイ引き受けたら……

まあとにかく、どうしようもない無内容なひどい原稿ばかり。が、それはまだいい。その無内容名原稿が、とにかく遅い。締め切り破るどころか、入稿直前まで原稿がこない。で、毎回、編集の鈴木陽子さん (姓は仮名) がさんざん催促して、もらったらぼくが (たいがい会社でコッソリと) 1時間もかけずに翻訳して印刷所にぶちこむ、というのがルーチンになっていた。中身も支離滅裂。こんなものを、この短時間で少しでも読めるものにして出せるなんて、ワタクシくらいしかできませんわ、という自負はあったが、あまり訳にたつ自負ではない。もうリアリーも、もともとダメだったが焼きがまわりきったか、というような話を鈴木さんとよく電話で話していたんだが……

あるとき、その鈴木陽子さんが、原稿がまだきてないけれど、きたら今日中に訳ができますか、という相談の電話のついでに「リアリーは本当にボケてるんじゃないでしょうか……」と言いにくそうに言う。どうしたんですかと尋ねると話してくれたのが……

原稿の催促の電話をしたところ「おお、もうすぐだ大丈夫大丈夫」と例によって、まったくあてにならない太鼓判を押してウダウダしゃべっくったんだとか。

「でもそこで突然リアリーが『そういえばジョンは元気か?』って聞いてきたんです」

ふーん……ジョンってだれ? どなたかお知り合いですか?

「ええ、私もそう聞いたんです。そしたらいきなり、ものすごい怒り始めたんです。ジョン・レノンだよ! あたりまえだろう! ヨーコ、おまえは自分の旦那を忘れるとは何事だ!』って……」

ジョン・レノン???!!?? え、ひょっとしてそれってまさか……

「ええ、どうも私のことを、オノ・ヨーコだと思ってるらしいんです!! ネタじゃなくて本気で!」

どっひゃー。いやまあ、ヨーコにはちがいないけど……

ついでに言うなら、その時点でジョン・レノンは20年近く前に死んでおりました。

それはかなりヤバいし原稿的にもアレだし、そろそろ切る算段をしてもよいのでは、という話をしていたら、リアリーを切る前に雑誌そのものが潰れたのかな。いや、なんか断捨離の中でリアリーの訳書が出てきたもんでつい思い出してしまいましたよ。

フォーゲル他『十字架の時:アメリカ奴隷制の経済学』:おもろいでー。

ポランニーで、ダホメの輸出側の奴隷事情を見ました。

cruel.hatenablog.com

それで奴隷に興味が出てフォーゲルの『十字架の時:アメリ奴隷制の経済学』を読み始め、訳し始めてしまいました。まだ前半だけ。もちろん、フォーゲルはずいぶん長生きしたし、翻訳権は当分フリーにならないので、みなさんは読んではいけません。以下にあるけれど、見ないように。

フォーゲル&エンガーマン『十字架の時:アメリカ黒人奴隷制の経済学』(まだ前半だけ、pdf18MB)

なぜか知らないが、目次のハイパーリンクがずれていて、きちんと当該の章にジャンプしなくなっている。もちろん、みなさんはご覧にならないでしょうから関係ないけれど。あと、Excelで作り直したグラフの相当分は、目分量で原著のグラフから数字を読み取って再現したものなので、完全に厳密ではありません。プラマイ3%くらいの誤差はあるはず。

著作権を遵守する良い子たちは、すでに邦訳はあるので、こちらを読みましょう。中古で15000円もするので、ぼくはどのくらいのできかは見ておりません。

結局、奴隷はアメリカ南部においてはとても高価な耐久資産で生産財だったので、農園主はそれを気安く壊したり、蹂躙したり、シバいたり、粗末に扱ったりはしなかった、という話に尽きる。

奴隷制というとどこもいっしょくたにしがちだけれど、ジャマイカ奴隷制と、アメリカ南部の奴隷制はまったくちがった。ジャマイカでは農園主が奴隷娘を次々に手込めにし、ろくに飯もあてがわず鞭打って働かせ、病気になったら放置で死ぬに任せたりしていた。これは通俗的奴隷制のイメージでもある。

でも、アメリカ南部では、基本的にそういういうことはなかった。そういうケースが皆無、というのではない。でもそれが到るところで横行してみんなやってました、などということはあり得ないし、また実際にもなかったことが各種統計データをもとにしっかり解説されている。

そしてその地域的な差の理由、経済的な背景までが、実に見事に解説されている。奴隷について、「ルーツ」や「ジャンゴ」で描かれているような非道な話を、みんな真に受けてしまっている。でも実際はかなりちがったらしい。

鞭だけでは奴隷は働かないし、むしろ福利厚生を手篤くし、家庭をもたせて各種ご褒美や温情により、自らやる気を出させるほうがいいのだ、という現代の企業における労働マネジメントとまったく同じ話がここでも展開される。ないのは、農園のミッションステートメントを! とかパーパスを打ちだそう! とかいうくだらないご託くらい。

そして、現代の日本への示唆も当然ある。奴隷の中でも奴隷制が苦しいと思うのは、トップの優秀な人だけ。他の人はむしろ、衣食住完全確保で言われた通りのことをやってれば到れりつくせり。むしろ楽だったかもしれない。そしてアメリカの奴隷は自然増で維持されていたけれど、生まれたときから衣食住や医療をきちんと出してあげて奴隷を育てると、最初は農園主の持ち出しがずっと大きくなり、その累損解消はやっと26歳になってから、というのはすごいなあ (第4章)。16歳くらいからきっちり働かせてもこれだ。いまの日本だと、死亡率はずっと下がっているから無駄になる部分が少ないので、その分累損解消ははやくなるだろう。でも学費その他が高くついて、親の累損解消は奴隷と同じくらいか、ヘタをすると子供が30歳くらいになっても終わらないのでは? すると少子化解消への道は、とかいろいろ現代への示唆も大きい。

いくつか、甘いなー、と思うところはある。特に奴隷制廃止でも農園主はあまり損をしなかったといったあたりは、ちょっとアレだと思って訳者加筆をしておいた。その他の部分は、特にコメントしていない。おそらく、その後の研究で否定されたりした部分はあるんだろう。その一方で、ピケティ『21世紀の資本』においても、奴隷に関するデータのほとんどは、この本に頼っている。データ的にはいまも十分に生きていると思うべきなんだろう。

後半と、補遺の別巻もいずれやります。補巻の、これをやったときに、冒涜だとか敬意がないとか奴隷制を正当化しているとか品がないとか言われたけれど、そんなの関係ねーよ、下品でも口が悪くても、事実をきちんと突き詰めることだけが重要なんだよ、という文章はぼくはすばらしいと思っている。が、おそらくポリコレに染まった多くの人は、そうは思わないだろうね。

文中でも、思いこみと妄想と善意だけの奴隷制廃止論者の説がいかに矛盾していて、むしろ人種偏見がむき出しにされているかが、さんざんに批判されていて楽しいけれど、おそらく現代では出せない本だとは思う。即座にキャンセルされてBLMの標的にされるレベル。