内藤『チェ・ゲバラとキューバ革命』:単なる公式プロパガンダに基づく切手コレクション紹介

Executive Summary

内藤『チェ・ゲバラとキューバ革命』は、ゲバラの伝記的な話をすべて、公式プロパガンダでしかないと批判されているタイボIIによる伝記に頼っており、都合の悪いことが書かれていなかったり美化されたりしている。また、ゲバラが会う様々な政治家たちについて、コンゴ動乱の背景やベトナム戦争の詳細についていきなり数十ページにわたり記述が展開され、記述として焦点がしぼれておらず、読んでいて混乱する。そして「ポスタルメディアで読み解く」という郵便学の利用が売りのはずであり、切手がプロパガンダに貢献するのがポイントのはずだが、プロパガンダ (つまり実際とはちがう誇張や歪曲) についての分析はほとんどなく、単なる記念切手紹介や肖像写真がわりの切手利用にとどまり、郵便学なるものの意義がない。


チェ・ゲバラ関連本は一通り目を通すという方針でいろいろ見てきた。で、この内藤陽介の本があるのは知っていたが、各種ゲバラ切手の紹介だと思っていて、ゲバラ自体の紹介はオマケだと思い込んでいたため、これまで手に取ることはなかった。が、どうももう少し踏み込んでいるようだと知って、一応目を通すことにした。

……そして後悔した。やはり見る必要はなかった。切手紹介のおまけで、しかもそのおまけが妙に偏っているから。

ぼくは基本的に、伝記を見るときにはそれがある程度はフェアに書いてあるかどうかが第一歩だ。どんな人も、スーパー聖人ではないだろうし、生まれつき超悪人でもないだろう。特にそれがある程度は有名になるくらいの地位に到達できた人なら、多少のかけひきもあり、少なくともその時代、その世界では長所もあり、単なる良い人で地位を実現できるほど世の中甘くない。失敗もあるだろう。その失敗がどう書かれている? あるいは悪人も、恐怖政治だけではなく、評価された部分もあったんだろう。そういうあたりが、それなりに公平に描かれているか? そこがまず、伝記としての評価ポイントだ。

が、この本は670ページもある大著なんだが、まずチェ・ゲバラの伝記的なメッセージは、どうやらほぼすべて、タイボIIの大部の伝記に頼っているらしい。

さて、このタイボIIの伝記を、ぼくはまったく評価していない。ゲバラの後半生で重要な役目を果たすシロ・ブストスの言う通り、キューバの公式聖人伝をつないで、それにさらに尾ひれはひれをつけ加えてヨイショした最悪の代物だと思う。それについてはこちらで書いた。

cruel.hatenablog.com

そしてそれを元にしたせいだろうと思うんだが、本書はゲバラについてひたすらカッコよく英雄的に描くばかり。ダメなところ、失敗もすべて英雄的に処理してしまうか、黙殺するか、悲劇的に描くだけ。まあ、英雄的な処理ができなければ切手にならないから、という言い訳はあるだろう。が、何があるか、だけでなく、何がないかというのをきちんと検証するのも、郵便学とやらでは求められないんだろうか?

たとえば、ゲバラの大きな汚点は、革命直後にバティスタ政権の小役人たちの人民裁判を仕切って、ものの一週間ほどで二百人かそこらを銃殺にした話で、これは当時国際的な非難も浴びたし、家族ですらかなりキモを潰した。それについての記述はまったくない。プロパガンダというなら、そういう国際的な不評を糊塗するためにどんな手だてが取られ、その中で切手がどんな役割を果たしたか、というような話があってもいいんじゃないの?ちなみにこの話がないと、pp.13-5の、ゲバラに対する殺人鬼、虐殺者という非難が何を言っているのかわからないんだが……

さらにカストロは、自分は権力を求めているのではないというポーズをするために、バティスタ政権での中道系の首相や大統領をたてるんだけれど、政策は裏で勝手に進める。そして大統領や首相がそれに難色を示すと、それを辞職に追い込む。ところが本書ではそれは、何やら大統領や首相が政治的に経験が浅かったから、みたいなバカな話にされる。

さらにゲバラは、後先考えずに政治経済を、大資本から奪う、米帝依存を捨てる、国家接収だ、とやらかす。でもその失敗については何も書かれない。なんだかそれがいかにすばらしいことで、立派な人民のための施策だったか、みたいな話になり、その結果については何もない。

ちなみに、単細胞な反米がちょっと成功した部分もあり、キューバ中央銀行の準備の黄金がアメリカにあると知って、彼はいきなりそれを全部売り払った。たぶん彼は黄金準備の何たるかもわかってなかったはず。単なるアメリカ嫌いの発現だ。でもそのおかげで、その後のアメリカによるキューバ資産差し押さえのときにそれが奪われずにすんだという怪我の功名はあった。でも本書は中央銀行の話はまったくないようだ。

悪名高い矯正収容所の話は……かなり美化されている (pp.345-51)。キューバ人民はそれをスターリン的な収容所と理解していたことは、書かれてはいるんだけど、ほとんどゲバラの純粋な理念が人々に理解されなかったかのような書きぶり。

さらに国内外の政治的切り盛りに失敗したゲバラは、自分はやっぱえらいゲリラ指導者なんだという思い上がりで、まずはアルゼンチンでのゲリラ革命蜂起をリモコン指導しようとして大失敗する。さっき名前が挙がったシロ・ブストスは、その作戦の生き残りだ。その後ゲバラは、コンゴ革命を自分が率いてやるぜ、と思い上がってでかけて……そしてこれまた、まったく成果を上げられなかった。そもそも、相手に「自分がいく」と話を通していったわけですらない。自分で勝手にでかけて、オレがその場にいれば誰も断れないだろうとたかをくくり、そして実際には現地の連中にはひたすら疎ましがられていた。そして敗走。

そこらへんの無策ぶりと思い上がりについては一応記述はある。が、その後本書では、逃げ出すためタンガニーカ湖を渡る船を下りるにあたりゲバラは何やら、革命精神を忘れてはならないという感動的な演説をして立ち去り、残されたコンゴの反政府集団は感涙にむせんだ、というあり得ない話を平然とする(p.589)。

へー。その船に乗る時点でゲバラは、自分が曲がりなりにも「指導」してきたはずの反政府ゲリラ軍たちを見捨てて置き去りにしなければならなかった。それも政府軍や他の軍閥的なゲリラ指導者たちが彼らを追い立てて、命からがら逃げ出した末路だった。置き去りにされた連中のほとんどは、虐殺される運命にあった。その置き去りを目の当たりにした連中が、そんな感動的な演説でごまかせたんだろうか? 連れて行ってくれとみんなが泣いてすがるのを、見殺しにした人間だよ?

その後、ボリビアで捕まって殺されるときの大失態の中で、さっき出てきたシロ・ブストスを、本書は「ジャーナリスト」と呼ぶ。彼は画家で美術講師はやっていたが、ジャーナリストと呼べるような存在ではなかったはず。ゲバラが、いずれ故国アルゼンチンで武装テロを展開しようと思って確保していたテロ要員なのだ。これは彼自身の回想記もある。

タニアがのこのこ山中にやってきたのも、タニア自身が素人臭いミスをたくさんやって、資料や写真を大量にのせたジープを押収されて帰れなくなったからなんだけど、キューバ公式史ではボリビア共産党のマリオ・モンヘを悪者にすることになっているので、本書では彼女のヘマには一切触れない。レジス・ドブレも、本書では単なる取材にきたことにされているが、実はそもそもキューバの工作員で、ゲリラ戦士気取りで前衛として山に入るぜと大見得切って、しばらくして泣きが入ったというのが実情らしいよ。

さらにゲバラがいなくなった後もキューバ経済はどんどん悪化する一方で、カストロがまた思いつきでサトウキビ大増産計画をぶちあげて、まったく実現せずにつぶれる。でもそれは本書によると、農業機械化を担当していたゲバラがいなかったせいなのだそうな。ああ、ゲバラ様さえいてくれればキューバ農業は機械化できてたんですねー。そんなわけあるかい。pp.323-6あたりに、ゲバラの機械化というのが単に機械を休ませることもなくぶっ通しで使うだけの話で、すぐに機械が壊れて整備員つきっきりで結局サトウキビ生産は下がったと書いてあるじゃん。

あと、オルギンのイバラに有刺鉄線工場が日本の技術援助でできた、とあるんだが (p.297) ……それって浅沼稲二郎工場のことだろうか? あれは繊維工場だと思うんだけれど……まあ他に有刺鉄線工場もあったのかもしれない。

そして、ゲバラがちょっとでも関係した他の国について、当時の事情についてえらくさかのぼった話が延々続く。ネルーに中国の印象を聞いた、というヘマをきっかけに、中印紛争の細かい話がごちゃごちゃ続く。さらに、彼がアフリカにでかける前にはコンゴをめぐる植民地と紛争の話が30ページにわたり続く。ゲバラがベトナムに行くと、ベトナム戦争の話が20ページにわたり続く。それはお勉強としてはいいんだろう。でもゲバラ&キューバが中心の話であれば、必要以上に余談が多く、話が整理されていない印象しかない。

なんだか、ずいぶんいろいろ調べて書いたことになっているんだが、題名になっているキューバやゲバラについては、複数の資料にあたって批判的な検討をした気配がほとんどない。相当部分は、キューバ的プロパガンダの垂れ流し。それでいいの? さらに他国については、何か目新しい話があるわけでもない。そして切手がそこで何か重要な役割を果たしているかというと、そんなふうにも見えない。冒頭で、切手はある種のプロパガンダの表れだ、という話を内藤はする。だったら、それは基本的にはフィクションであって、どこがフィクションで、なぜそこでそのフィクションが必要だったか、という話をしてほしいもの。プロパガンダを見るというのはそういうことだと思う。ところがこの本にはそれがほとんどない。

すると内藤の言う郵便学、本書で実践されていたはずのものって何なの? 肖像画のかわりに切手を使ってみましたというだけ? ぼくは、それに何の価値があるのかよくわからないのだけれど。

チェ・ゲバラの命乞い&愛人隠し子と「ゲバラ伝」での削除

Executive Summary

アンダーソン『チェ・ゲバラ:革命的人生』はすごい伝記ではあるが、1997年の初版から2010年の増補版への改訂で、ゲバラがつかまるときに命乞いをしたという一節がなぜか削除されており、ネット上ではそれが政治的圧力によるのではと勘ぐる声もある。また、伊高の新書に出ている、彼の愛人と隠し子の話が一切触れられていない。アンダーソン本の執筆当時はすでに、その話はでまわっていたし、ゲバラ未亡人アレイダ・マルチも知っていたはず。なぜ噂としても触れられていないのかは不思議ではある。


チェ・ゲバラの命乞い&愛人隠し子と「ゲバラ伝」での削除

以前、アンダーソン『チェ・ゲバラ:革命的人生』(増補版、2010) を絶賛した。

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そしてその絶賛はいまも変わらない。チェ・ゲバラの伝記としてこれ以上のものは今のところ出ていないと思う。今後、これ以上のものが出るとすれば、ソ連の南米工作の全貌が暴かれ、その中でチェ・ゲバラのオルグがどのように行われたかが暴かれるときぐらいしかないだろうとは思う。

ゲバラの命乞い?

だがこの伝記について、ネットでときどき悪口を見かけた。次のようなものだ。

チェ・ゲバラがボリビアで捕まったとき「撃つな! オレはチェ・ゲバラだ。殺すより生かしておいたほうがお前にとって価値があるぞ!」と叫んだ、つまりは命乞いをした、という話だ。そして、それが何やら政治的圧力で削除された、という説となる。

さて、ぼくはこの本の紙版を持っていた。だからそもそも紙版にもそんな下りはないことを確認したので、このツイートの返答にもそう書いた。でも、この一節はその後もあちこちで見かけたし、一部の雑誌記事の見出しにまで使われていたので、このツイート者の捏造ではないのは確かだ。どこかの本か何かにあるはず。だから気にはなっていた。

そして先日、諸般の事情でこの伝記の初版を取り寄せて比べて見たところ、やっとどういうことなのかはっきりした。

この一節は、このアンダーソン本の初版 (1997, p.733) には含まれている。

でもいま出回っている増補版 (2010) には含まれていないのだ。

つまり、引用したツイートは、決してデタラメではなかった。デジタル版での削除ではなかったけれど、確かに初版と増補版の間で削除が起きている。そして、それについては何の説明もない。

これはいささか不思議ではある。チェが、自分はどうせ殺されないと高をくくっていたのは、この本の増補版でも書かれている。射殺するよ、と言われてかなり取り乱しそうな。だから、これが圧力をかけて潰すほどのものとは思えない。その一方で、なかなか印象的なせりふだし、普通は残すだろう。軍曹の後日の談話が信用できないと思った可能性はあるが、他にもそういう描写はあるし、不確かだと断りつつ置いておく手もある。完全に消した理由はさっぱりわからない。

ゲバラの愛人隠し子

あともう一つ、ゲバラ関連本をまとめて取り上げたとき、伊高『チェ・ゲバラ』(中公新書) を取り上げた。

cruel.hatenablog.com

さて、この本の中に、チェ・ゲバラが愛人や隠し子を持っていたという記述がある。これは、ある時期まではこの息子当人にも隠されていたのだけれど、彼が16歳だか25歳だかのときに実の父親について聞かされたそうだ。

この息子は1964歳生まれなので、つまり1980年か1990年頃には、この事実はすでに出回っていたということになる。伊高本によると、未亡人アレイダ・マルチもそれを知っていたらしい。というか、伊高ですら (というと失礼だが、すごい研究者というわけでもないのは事実) 耳にしたくらいの話だ。そしてその後、この息子自身があちこちで、ゲバラの息子としてインタビューに出たりしている。つまり極秘情報などではなく、公開されているし、隠そうという意図もないようだ。

www.tagesspiegel.de

ところが、1997/2010年に出たアンダーソン本には、これについての記述がまったくない。この本の恐ろしいほどの調査ぶりからすると、その噂が耳に入らなかったはずはないと思うのだが。他のいい加減な噂 (たとえば最後に中学校の先生とお話させてもらえたとか) については、注に書いてそれを否定する、という手順を踏んでいるが、これについてはまったく何もない。それ以外にも、他の各種伝記はおろか、ウィキペディアにもこれについての記述はまったくない。どういう事情でこれが黙殺されているのかはよくわからない。なんとなく、圧力があるのでは、という印象も受ける。

さて、他の人の話ならば、「ゲバラさぁん、隅に置けませんねえwww」「意外と人間くさいっすね」ですむのかもしれない。だがゲバラに関する限り、そうはいかないだろう。彼は自分の工業省で、不道徳な連中を叱責し、「自主」サービス残業/休日出勤を強い、矯正労働改造所に送って「自発的」奉仕労働をさせていたのだ。それは、ゲバラ自身が身持ちがかたく生真面目だったからだれも文句を言えなかった面が大きいらしい。それが実は裏で女を作り子どもを産ませていた、となるとラオガイ送りになった人たちはあまりに可哀想だし、ゲバラ自身の清廉潔白生真面目さという前提がかなり崩れてしまうのではないだろうか。

付記

こうしたものについて、はっきりと原因はわからない。命乞いについてのツイートで、政治的な圧力を勘ぐる見方もあることは述べた。そして、ゲバラが最後にアルゼンチンの政府転覆を企んでいたときの手先ブストスは、自分の手記の最後にアンダーソンの伝記について、自分のコメントが大幅に削除されたりしていることについて、政治的な圧力/取引があったのでは、と疑義を述べている。

確かにアンダーソン版の伝記は、完全に独立ではあるものの、キューバ革命の重鎮の実に多くにインタビューをしている。本来なら彼らにそうそう簡単にアクセスが得られるものではなく、また彼らが完全にありのままを打ち明けるとは考えにくい。キューバでは、外国人を自宅に招くことさえ問題視される (仕事で、お昼ご飯を (有料で) 出してくれた職場近くのおばさんは、密告され警告を受けた)。誰に会うか、何を言うかは政府がしっかり管理していると考えるべきだし、そもそも彼らに会う時点で何らかの公式筋との交渉はあったと考えるべきだろう。内容についても、すべて完全にニュートラルとは思わないほうがいいかもしれず、多少は情報源≃キューバ当局の意図も反映された部分もある可能性には留意すべきだろう。

フアン・マルティン・ゲバラ(弟) 「Che, My Brother」末弟の回想記だが美化と伝聞に終始。

Executive Summary

2017年に出た、かのチェ・ゲバラの、15才年下の末弟による兄の思い出……は前半だけで後半は自分の話。キューバ革命のときにまだ14才くらいなので、それ以前の兄エルネストについては (ほとんど家にいなかったこともあり) 漠然とした記憶しかない。このため他の伝記などからの伝聞だらけでオリジナルな部分は家族の思い出だけ。それもあまり詳しくなくて、弁明と美化に終始。本人が絶対に知り得ないことを断言したりする。たとえば革命直後の粛清裁判で、兄は実に人道的でフェアで云々と断言するが、そんなのお客さんできてた家族にわかるわけがない。ただし巻末についた家族の写真や各種の新聞切り抜きはきわめて貴重。


かのエルネスト「チェ」ゲバラの、15才年下の末弟、フアン・マルティン・ゲバラによる兄の回想記。兄がいまや大企業の広告やマーケティングに利用されるようになっていることを嘆き、単なるシンボルではない、本当の人間としてのエルネスト・チェ・ゲバラを伝えたいのだ、というのが本書を出した理由となっている。のだが……

残念なことに、それにはまったく成功していない。15才年下ということは、物心つく頃にはすでに兄は『モーターサイクル・ダイアリーズ』を満喫していて、ほとんど家にいない。このため、そもそも著者は生身の兄とあまり会っておらず、兄についての各種の報せに家族がどう右往左往したか、という話しかオリジナルなネタがない。

それを補うために、著者は (というか、これはフランスのジャーナリストに語って彼女がまとめたものらしいので、その編纂者は)、いろいろ話を他の伝記や記録から採ってくるんだが、そもそもこんな本をわざわざ読もうという人はすでに知っていることばかり。それについて何も新しい話は出てこない。

唯一おもしろいのは、キューバ革命で招待されてハバナにやってきたとき、彼らの父親はまだ、エルネストを説得してアルゼンチンに帰らせて医者にするつもりでいたという話、そしてその父親が商魂たくましく、バカルディと面会したり銀行と会談したりしていて、それを知ったエルネストが激怒して「オレの顔に泥を塗るな」と怒ったという話。著者は勉強が嫌いだったので、父親は手に職をつけさせようとして、そうしたところにこの14才の末っ子をつれていってビジネスの見習いをさせたかったみたい。もちろんフアン・マルティンはエルネストに肩入れして、父親はろくでもないヤツだと言いたがる。

←ハバナの旧バカルディ本社ビル。いまはHISとか入っている。

次に彼が兄と会ったのは、チェが米州会議に出席するためにウルグアイにやってきたときで、そのとき次男ロベルトとエルネストはかなり激しくけんかしている。ロベルトくんはふつうに成人して弁護士として成功して (せっかくの医学教育を無駄にした兄とはちがい) 父の期待に応えたんだけれど、エルネストはそれが気に入らず、おまえは資本家の手先だと罵ったらしい。そのときの具体的なやりとりとかがわかるかと思ったが (当のロベルトくんはそれについて語りたがらない)、それも特にない。ちなみにエルネストはそのときに18歳になった弟に、大学にいけと強く奨めている。配慮的には父親とあまりかわらないんだが、父はサゲ、兄はアゲ、という基本線は同じ。

多感な14才のときに兄が英雄視されているキューバに出かけてちやほやされたのが、たぶん決定的なアレを著者に与えてしまっただろうことは想像に難くない。勉強が嫌いで父母にいろいろ言われたコンプレックスもあったんでしょう。その後の彼は、体制に流されずに不正と戦うと称して左翼活動家になってしまい、特にアルゼンチンが軍政を強める中で 9年にわたり投獄され、両親や他の兄弟姉妹はその尻拭いに奔走させられる。兄のロベルトや父親はその釈放にかなり尽力して、その過程で左翼系の人とも接触し、だんだん反目していたエルネストの思想にも傾倒していくんだが、末の弟はずいぶん父親に手厳しく、それを諫める兄ロベルトに対してもずいぶんそっけない。本の後半は、そういう自分の活動についてのあれこれの報告になっているが……興味あります? 結局、人生の重要な部分を牢屋で過ごし、出てからは書店やったりレストランやったりで、本書ではキューバがいかにすばらしくて平等で物欲にとらわれず、と賞賛しているが、自分はその素晴らしいキューバには行かず (行けばいろいろ世話してもらえるのに) ドイツで暮らしているらしい。

シンボル化に反対して人間エルネストを描く、と称しつつ、彼がやるのは基本的に、チェ・ゲバラの美化とさらなる神格化でしかない。兄は常に優しく正義の人で立派なのね。チェ・ゲバラは革命直後の粛清裁判で、250人くらいを即席裁判で銃殺している。その人民裁判の様子もひどいもので、最初はそれを公開でやっていたけれど国際的な反発をくらってすぐに隠し、中止せざるを得なくなっている。でもフアン・マルティンは、兄は常に公正だった、残酷なことは一切しなかった、不正はなかった、囚人が怪我をしたら兄は自ら治療した、と言うんだが、そんなのお客さんとしてヒルトンにいたあんたがわかるわけないじゃん。

ゲバラ家の両親とも、アルゼンチンのそこそこ上流階級の出身ではある。ただしどちらも商才がないうえ、父親が変な事業にばかり手を出し、母親は無駄遣いばかりなので、家はそんなに豊かではなかった。でも著者は左翼活動家なので、親が名家の出身だなどというのはウソだ、彼らは金も権力もなく、家族からは見捨てられた恵まれない一家なのだと言いたがる。でも、召使いと使用人をかなり使っていて食うのに困ったりしたことはないのはあちこちの記述から見られる。

そして最後は、兄はいまや世界変革のシンボルだ〜、とぶちあげるが、そういうシンボル化を否定するための本ではなかったんでしたっけ?

というわけで、新しい話はまったく登場せず、ほとんどは他の伝記にも登場した話の切り貼りで、残り半分はチェ・ゲバラと関係ない話で、それでもかなりボリュームが薄く、あまり参考になる本ではない。ただ、家族写真などがたくさん出ていて、これだけは貴重。

←エルネストに抱かれる著者と父親

←エルネストが出たバイク広告。普通は写真部分だけ切り取られているので広告全体は初見

ラヴジョイ『ベルクソンとロマン主義的進化主義』:またはベルクソンなんてインチキ宗教!

エラン・ヴィタール。ベルクソンもおすすめしてます!これを商標にしたグラノラ食品の写真
エラン・ヴィタール。ベルクソンもおすすめしてます!

一連の『存在の大いなる連鎖』翻訳を終えたけれど、ラヴジョイ関連のツイートを検索して見てたら、哲学教師が、「ベルクソンとラヴジョイは同じ方向を向いている」という世迷い言を述べているのがあった。どこかにスクリーンショットをとったはずだけど、出てきたら貼り付けておこう。←あった。ベルクソンが存在の連鎖を終わらせた? ふーん。

でも、これはずいぶん首をかしげる話ではある。『存在の大いなる連鎖』でも、ベルクソンは単なる昔の存在の連鎖にもとづく進化論を蒸し返しているだけのヤツで、さらにはへんな悟りっぽいレトリックで人々をたぶらかしてるだけのインチキなやつ、というのは明言されている。この二人が同じほうを向いているはずは絶対ないのだ。

で、たまたままさにラヴジョイがベルクソンについて論じた講演録があったので、それを取り寄せてまずは全文をpdf化いたしました。

A.O.Lovejoiy ”Bergson and Romantic Evolutionism” (1913)

さらにそれを全訳してしまいましたよ。

ラヴジョイ「ベルクソンとロマン主義的進化主義」 (1913)

またこれも講演なんだけれど、まずラヴジョイによるベルクソンの全体的評価はp.5 に明記されている。

ベルクソン哲学全体というのは (最近の議論で十分に示されたことと思いますが)、お互いに対立ばかりしている要素の、単なる出来の悪い寄せ集めにとどまらず、きわめて不安定な複合体です。

というわけで最初から全否定。そしてその後も言ってることは簡単。

第一講義

  • ベルクソンはえらい流行ってんだよね。やれやれ
  • ご当人は「真の持続の直感」が最大の業績のつもりでいるけど、言葉にはできないそうなんで相手にしないよ。
  • 代わりに「創造的進化」の話をしようぜ。
  • かれの理論は、生気(エラン・ヴィタール)が次々に新しい生命を作り出して進化発達していくのが宇宙の本質なんだけど、それを「物質」が邪魔する、とかいうもの。
  • 時間は哲学の盲点でもあり、うまく扱えなかったが、ベルクソンはそこに目をつけた……のはいいが、きちんと理論化できずに結局レトリックでごまかすばかり
  • 物質、つまりは物理学や機械論的な進化に対して、それを打ち破る生命の力、といった存在の連鎖的プラトニズムを蒸し返したのが彼の手柄というか人気の秘密。

第二講義

  • で、ベルクソンは神様も、すでに完成した至高存在としてではなく、宇宙とともに進化する存在として見ているんだ。
  • しかも神様をそのエラン・ヴィタールの源と見なしてるそうだよ。立派な新プラトン主義の流出論だね。
  • 要するに彼の「哲学」は実は、宗教にすぎないのよ。
  • 本人はそれを「哲学的に実証」したというけど、してないから。もっとがんばるように。

というわけで、この二人を「同じ方向」と呼ぶのはつらいと思うねえ。ラヴジョイは、ベルクソンが存在の連鎖を終わらせた、なんてまったく思っていない。むしろそれを今更蒸し返しているといってバカにしてるんだ。それは『存在の大いなる連鎖』でも、ここでも一貫している。とはいえ、専門家が読むとちがうのかもしれないねー。あるいは、ぼくの知らないほかの文書でラヴジョイは、が急に方向転換している可能性も……ないと思うなあ。まあみなさん、お暇なら自分で読んでご判断くださいな。

めえええええ

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第9講:存在の連鎖の時間化 (これで全部終わり!)

はいはい、ちょっとだけ残すのもいやだったので、やってしまいましたよ。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』全訳 (pdf、3.3MB)

これまでずっと続けてきたラヴジョイ、これで注も含めて全訳あげました。詩とか、長々しい引用とかはあまりに面倒なので訳しておりませんが、詩は苦労してそれっぽく訳したところで、何か追加でわかるわけではないし、引用部分も決して追加情報があるわけではない。文中でラヴジョイが語ったことの裏付けでしかないので、まあ許しなさい。

cruel.hatenablog.com

これで一通り訳し終わったが、もちろん内部利用用なのでみなさん勝手に読んではいけませんよ。

9章:存在の連鎖の時間化

さて残っていた第9章は、存在の大いなる連鎖の時間化、というもの。ここはそれなりにおもしろい。が、テーマは簡単。静的な存在の連鎖/充満の原理は、ライプニッツ&スピノザの章で見たように、決定論的な世界像につながらざるを得ないし、18世紀の科学的な成果とも折り合いがつかなかった。そこで、それを時間化しようという試みが生まれ、進化論的な発想がきわめて強固に出てきた。

人間になり損なった失敗作 (というロビネーの想像)

これを各種論者がどのように論じたか、そしてそれがいろいろ変な発想を生み出したか、という話がまとめられている。

これまでの存在の連鎖

  • これまでの存在の連鎖は、とにかく天地創造で神様が完璧にすべてをつくった、というのが基本。
  • その産物(この世) は、完璧な神様が作るはずだから、可能なものはすべて詰め込んだ (=充満した) 完璧なもののはず!
  • そして神様は出し惜しみしないから、この世は創造時点で完璧で最善のはず! 変化の余地はない!

静的な存在の連鎖批判

  • でも実際はこの世は変化するし、すでに最善なら善行積んで頑張る意味もないじゃん!
  • 無限なら、どの二つの位階の間にもさらに無限の位階が存在することになるし、それらは明らかに埋まってないよ!とヴォルテールやサミュエル・ジョンソンは批判。

存在の連鎖の時間化

  • 最初はそこそこのできで、そこからあらゆるものが善行を積んで改善するってことにしよう!
  • 存在の位階をみんながんばって上っていって、ますますよくなるけど決してパーフェクトにはならないことにしよう!
  • これは宇宙も生物種も個人も同じで、みんな改善するんだ!

  • これは存在の連鎖の時間化。進化主義的な捉え方でもある。

  • だが、一方でその根本的な基盤の大きな部分(神様は最善とか完全とか) は否定せざるを得なくなった。
  • ライプニッツとかは、完全な決定論的宇宙を唱えつつ、この進化主義も採用し、両者の矛盾には目を閉ざした。

時間化に伴う変な発想

  • さらに存在の位階があるなら、上下関係を決める基準があるはずだ。
  • 存在の位階を上がれるなら、上がるための高い本質が卑しい存在にもあったはず。
  • さらに生物/無生物とか、理性あり/なしという二元論は、間に何もあり得ない。するとそこに断絶が生じて充満できない!
  • 存在の位階を上がれるなら、上がるための高い本質が卑しい存在にもあったはず。
  • つまり万物には共通の特性/本質がある! あらゆるものは、一つのプロトタイプの無限変形なんだ!
  • 天地創造でそのもとになる「胚」が万物について存在し、その発動に時間差があることで発展が生じる!
  • これはライプニッツのモナドロジーともからみあい、またロビネーの変な生物学の基礎にもなった。

Sea Monk. ロビネーが信じていた、海にいる人間もどき

話はだいたいこんなところ。

パワポも作りましたぜ。

全体を通じての感想……はまたこんど。

また今度とはいうものの、こうして全部読んでみると、ラヴジョイについていろいろウェブなどで書かれていることはすべて、かなり怪しげで、まともなことを言っている人がほぼいなかったのには、かなり驚いた。

ラヴジョイが、存在の連鎖という発想がシェリングとベルクソンによって終わった、とかベルクソンを存在の連鎖の再興者として見ていないとかいう話をツイッターで見つけたが、シェリングの批判は基本的には、いろんな人が言っていた批判の繰り返し。まあ最後っ屁ではあるが、彼が終わらせたわけではない。そしてベルクソンは存在の連鎖を終わらせるどころか、とっくに終わった存在の連鎖を蒸し返しているだけ、というのが本書の指摘ではある。自分がなんか気に入ったものを、中身を歪めてまでつなげるのが哲学研究ではないとおもうんだよね。

本書の、ライプニッツもカントも、スピノザもデカルトも、パスカルもあれもこれも、この存在の連鎖に関わる各種の議論に関する限り、涙ぐましいほどバカなこじつけをしているにすぎない、という非常に冷酷な視点については以前も書いた通り。

cruel.hatenablog.com

その一方で、とっくに忘れられたロビネーみたいな論者でも、その議論を必死で進めた人々にはとても好意的 (バカにしつつも)。そこらへんのフェアさは大したもの。

でもこの本について何か言おうとする人は、そういう健全な批判精神がなくて、ずいぶん本書の主題をありがたがっているのは不思議。まあ哲学に興味を持つ人の抱える大きな問題——支離滅裂な理解不能の話を、理解不能であるが故にありがたがる不健全な精神——については、本書の第1章ですでに批判されている話ではある。

 

本書でしばしば問題にされている、なぜ西洋はこの変な異世界性とこの世性の明らかな矛盾をさっさと捨てず、東洋宗教的な唯幻論だの唯識だのに走って自閉せず、その矛盾をずっと先送りにしてこじつけを試み続けたのか、という点はおもしろいので、何か答があるなら知りたい気はする。そして、それが生み出した各種の副作用——科学とか——との関係は、すでにいろんな研究はされている模様ではある。

まあこんど、9章のパワポと同時に、本書全体をまとめたパワポも作ろうか。

ラヴジョイとマッカーシー『ステラ・マリス』:異世界性とこの世性

先日からずっと、ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』の勝手な翻訳とまとめをやっているのはご存じのとおり。

cruel.hatenablog.com

残った一つの章は、とっても大事なんだけれど長いので、仕上がるのはかなり先になるとは思う。が、それとは別の余談。

先日、コーマック・マッカーシー遺作『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』邦訳が出た。

ステラ・マリス 通り過ぎゆく者 

で、決してわかりやすい本ではないので、ほとんどの人はたぶんチンプンカンプンだと思う。これまでに出てきた感想を見ても、読点のない乾いた文体と残酷な世界が〜、原爆が〜、みたいな訳者あとがきの反芻みたいな感想文ばかりで、あんまりおもしろい書評は見ていない。これは別に日本だけではなく英語のレビューとかでも同様。

たぶんこのままだと、みんな敬遠してだれも何もきちんとしたことを言わないままになっちまうといやだな、と思ったんだ。昔、朝日新聞の書評委員だった頃、気楽に読めて書きやすい本だと、書評もみんな気楽に書くんだけど、重要な本、面倒な本となるとみんな敬遠して流れてしまいそうになり、宮崎哲弥が「これに書評委員会としてコメントしなくていいのか!」と怒って、じゃあやりましょうと山形が引き受けるようなことが何度かあった (そういや、なんでぼくばっかが引き受けたんだっけ。なんで宮崎さんが自分でやんなかったんだっけ)。だから、だれか何か言っておくべきだと思ったので、山形月報のほうでかなり詳しく触れたんだ。

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そこでの議論の基本的なところは、天才妹の数学的世界観というのは純粋観念の世界で、物理学者だった兄の世界観は物質的なこの世が前提となっていて、そして両者はものすごく深く関連しあい、求めあっているんだけれど、最後の最後で相容れないんだ、というもの。「この世とは何か、それと人間の関係とは」というのを追求していたマッカーシーが、20世紀初頭にそれを任された数学/自然科学における世界観と自分の探究をつなげようとした作品で、必ずしも成功作とはいえず、咀嚼不足であまりに材料がむき出しだけれど、野心的な作品だよ、というのがこの書評のあらすじ。

そして考えて見ると、これって実はラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』のテーマとまったく同じなのだ。

 

西洋哲学/神学は、プラトン以来ずっと、神様は完璧で自分で完全に完結している至高のイデア、この世の出来損ないの連中なんかとは無縁で、人間なんかそれを見ただけで目が潰れます、という「異世界性」の観念の神様と、でもなぜだかわかんないけど、こんなろくでもないダメな世界でも作った、この世と切り離せない存在という「この世性」の神様を併存させてきた。そしてその両者でなんとか折り合いをつけようとして、ずっと屁理屈をこねたけれど (ダメな世界でも作ってくれるほどすごいのか、ダメな部分も全体の善の総和を最大化するためには必須なので実は善なのか、神がダメな世界しか作れない無能なのか云々)、二千年かけてそれがついに破綻しました。というのが『存在の大いなる連鎖』の主題だ。

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そして、これと『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』の対応は明らかだと思う。

妹の数学的観念世界は、『ステラ・マリス』の中でまさにプラトン的観念の世界とか言われている。完全に人間もこの世とも独立に存在する「異世界性」だ。

一方、兄は(元) 物理学者なので、この世と無関係の観念世界というのは容認できない。物理学は、この世に基づき実証できなきゃいけない。兄はこの世性を代表する存在だ。でも、数学的世界観とは切り離せない。物理学はますます数学の抽象観念的な入り込んでいる。ヒッグス粒子以上のものなんて、実証できないじゃん、数学のお遊びじゃん、という悪口がずっとつきまとっている。

それは、彼と妹の関係でもある。そして二人は強い絆を持ちつつ一線を兄が拒否し、妹が死に、そしてその後兄がその妹の世界に次第にとらわれる……

  その図式があまりに露骨なのが、この二部作の欠点であり、さっき「咀嚼不足」と書いた所以ではある。が、それでも個人的には、たまたま手に取っていた、ラヴジョイとマッカーシーという二つのものが、こうやって交錯したのがおもしろいなと思うし、ひょっとしたらマッカーシーも数学/物理以上の構想を持っていたのかも、と考えたりすると、ちょっと楽しくはある。小説としてもっと咀嚼しようとしたら、主人公をもう少し、マッカーシーらしい素朴な人間にして、それが存在の大いなる連鎖の通俗版をなんとなく口走り〜みたいな展開もあったのかな、とかね。が、それは妄想の域に入る。

この話は、山形月報のほうにも加筆したけれど、別建てでも書いておくべえと思ってここに書いた次第。もちろんこれが絶対正しいわけじゃない。ひょっとすると、ラヴジョイを訳していたので、その考え方にひきずられてこういう読み方をしてしまった可能性はある。小説なんていろいろ読み方はあるんだし。が、まったくピントはずれではないと思うよ。

追記:ふと思ったんだが、ぼくがここで書いていることはそこそこ高度で、この作品について書こうと思った人はこれを見てかえってビビって、むしろ敬遠される結果になるのでは、という気もする。こんな、変な科学数学哲学おたくみたいなネタに惹きつけない健全な読みがあるぜ、という確信のある人もいると思うんだけどねー。一方で、ほとんどの人はそこまで明確なイメージを持って読んでいないだろうという気もする。そういう読者だと「あー、そんなクソむずかしい本でございましたか、うかつなことは言えないな」みたいに思っちゃうのでは、とも思う。が、まあそういうふうになっても仕方ないとは思う。

付記:

本書を読んで、『ステラ・マリス』では兄は死んでいる/臨死状態じゃないか、という説が出ていた。冒頭部分 (p.15) で兄が自動車事故で頭を打ってもう2ヶ月も昏睡状態だ、というのが出てくるから、ということのようだ。それ自体は正しいんだけれど、

  • 妹がステラマリスに入院
  • その後退院して兄とヨーロッパへ
  • 兄が事故で昏睡状態、妹は帰国して再入院 (これが『ステラマリス』の話)
  • 『通り過ぎゆく者』冒頭
  • その後兄が覚醒してダイバーに
  • 不思議な事件が起きて兄は妹と自分の足取りをたどる(『通り過ぎゆく者』の話)

というタイムラインをたどっているだけで、『通り過ぎゆく者』が昏睡状態の妄想だとか、この二作がパラレルワールドだ、みたいな解釈に走る必要はないと思う (マッカーシーはそういうのやらないし)

  

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第7講:18世紀楽天主義

ラヴジョイ、短い章なのですぐ終わってしまいました。

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ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』(山形浩生訳)

楽天主義というと、ヴォルテール『カンディード』に出てくるパングロス博士の、「物事はすべて現状通り以外の形ではありえなかった」「現状はすべて最高よ、悪いことがあってもそれも含めて、現状が最高なのよ」というおめでたい論者のように思える。

なんかの芝居で演じられたパングロス博士。

そして、その通りなのだ。楽天主義はまさにそういう議論。

ただしそれは別に、その人たちが陽気で楽天的だったということではない。神は善で、善を最大化するように行動するから、現在以上に善の多い世界はあり得ない、という結論が先にあって、よって現状以外はあり得ず、悪いことも善を最大化するものだ、という議論。一歩まちがえれば、(いやまちがえなくても)「もう世の中どうしようもないよ、改善の余地はまったくないよ」という悲観論とまったく同じ。

そして、そのために存在の連鎖や充満の原理がどう出てくるかといえば、こう、人が争ったりライオンが獲物を獲ったりしないようにすればもっと優しい世界になりそうだと思うでしょ? でもそうなったら、ライオンや人の本質が変わってしまい、現在のライオンや人間が占める存在の連鎖の中の場が空いちゃうよね? すると存在の連鎖が切れちゃうよね?そうならないためにも、オメーら現状で満足してなさい、という話。

天地創造のことばかり考えるため、彼らにとっての「善」というのは、とにかく世の中をできる限り充満させることになってしまい、普通の人の考える善とはかけはなれたもの。そして世の中に悪が存在するのも、それをなくそうとすると、合成の誤謬で全体としての善 (つまり命や個体数や種の総数) が減っちゃうので、だからそれと戦うのは無駄どころか有害、と言い出す。

そんなふうに悪が正当化されると、普通の人が考える神様とか、人間の普通の意味での善行とか、幸福とか美徳とかはまったく意味がなくなってしまい、この楽天主義者たちの議論はどんどん異様になっていった、とのお話。

ヴォルテールはもちろん、パングロス博士をボケ役で登場させるだけあって、この楽天主義者たちをバカにしまくる。そして、まさにそのバカにされた通りの存在でした、という話。

本当に、ここに書いただけの内容なので、パワポは作りません。 ……と思ったが、一つだけないと、探しちゃう人が出るとかわいそうなので、形だけ作っておいたよ。

さて、あと残り1章になっちゃった。ここまできたら、いずれやっちゃいますわ。